これから書く話は、本当は書かない方がいいのかもしれない。
和歌山県・高野山。
弘法大師空海が開いた、真言密教の総本山。標高800メートルの山上に117の寺が密集する、地球上でも類を見ない宗教都市。
その最奥にある「奥之院」では、今この瞬間も、空海が生きていると信じられている。

1200年前に「永遠の瞑想」に入った男に、毎日2回、誰も欠かしたことのない食事が運ばれ続けている。雨の日も。雪の日も。台風の日も。空海が入定した瞬間から、ただの一度も、止まっていない。
奥之院の御廟は、皇族でも立ち入れない禁足地だ。中に入れるのは、維那(ゆいな)と呼ばれる、たった一人の僧だけ。彼が御廟で何を見ているのかは、誰にも語ってはならない。
「他言無用」。
それが、高野山の最深部に1200年間、貼られ続けている札である。
これから書くのは、その山の話だ。
呼ばれた者にしか、辿り着けない山。
序章「呼ばれないと、辿り着けない山がある」
和歌山県の北東部、標高800メートルの山上。
紀伊半島の深い山々に囲まれた窪地に、117の寺院が密集する宗教都市がある。世界中、どこを探しても、ここだけだ。山の上に、街が、丸ごと一つ、宗教のためだけに存在している。
それが、高野山だ。

地図で見ると、高野山は奇妙な場所にある。
奈良からも、和歌山市からも、大阪からも遠い。新幹線は通っていない。最寄りの駅から、ケーブルカーに乗り換え、さらにバスに揺られて、ようやく辿り着く。山道は急で、冬は雪に閉ざされる。
なのに、年間140万人以上の人が、この山を目指す。
なぜか。
「呼ばれた」と感じるからだ。
これは比喩じゃない。高野山に行ったことのある人に話を聞くと、ほとんどの人が、同じことを言う。
「気がついたら、行くことになっていた」
「ある日突然、高野山のことが頭から離れなくなった」
「テレビや雑誌で『高野山』という文字を、急に頻繁に目にするようになった」
「予定が、勝手に空いた」
人生の節目、心が疲れた時、何かを失った時。
そんなタイミングで、高野山は人を呼ぶ。
そして、呼ばれた人は、必ず辿り着く。
呼んでいるのは、誰か。
公式には、こう答えられる。
「弘法大師空海です」
835年3月21日、午前4時。
空海は、高野山の奥之院の地下で、結跏趺坐の姿勢で目を閉じ、声を発するのをやめた。
これを、密教では「入定(にゅうじょう)」と呼ぶ。
「死」ではない。
「永遠の瞑想に入った」、ということになっている。
1200年経った今も、高野山では空海は生きている。
毎日2回、午前6時と10時半。空海に食事が運ばれる。「生身供(しょうじんぐ)」と呼ばれる儀式だ。料理は精進料理を基本に、時にはパスタやシチューも出る。年に一度、空海の入定日には、新しい衣も届けられる。
雨の日も、雪の日も、台風の日も、戦争中も、コロナ禍も。
1200年間、一度も、止まったことがない。
これを「信仰」と呼ぶか、「奇跡」と呼ぶかは、あなた次第だ。
ただ、事実として、それは続いている。
高野山に行くと、人は変わる。
理屈は分からない。ただ、変わる。
ある人は、参道を歩いている途中で、急に涙が止まらなくなる。
ある人は、奥之院の御廟橋を渡った瞬間、空気が「変わる」と言う。
ある人は、霊宝館に入った瞬間、頭痛がして、外に出る。
ある人は、宿坊の部屋で夜、誰もいないはずの隣の部屋から、読経の声を聴く。
ある人は、高野山から帰ってから、人生のステージが、丸ごと、変わる。
「気のせいだ」と言う人もいる。
「標高800メートルだから気圧の問題だ」と言う人もいる。
ただ、説明はつかない。
なぜなら、この山は、ただの観光地ではないからだ。
この記事では、高野山について、ほとんどのガイドブックが書かない話を書く。
空海とは何者だったのか。1200年間、毎日続いている食事の儀式は何なのか。霊宝館に充満する圧倒的なパワー。奥之院に並ぶ、ヤクルトとUCCとロケットの形をした企業の墓。そして、密教の法具が、後にナチスドイツの闇と繋がっていく、その奇妙な糸。
「信じるか信じないかは、あなた次第」という古い決まり文句があるが、高野山の場合、それは逆だ。
信じても信じなくても、呼ばれた人は、辿り着く。
第1章「空海とは何者だったのか — 化け物の生涯」
弘法大師空海。
日本史上、これほど神格化された人物は、他にいない。
「弘法大師」という名前は、空海が死んだあと、921年に醍醐天皇から贈られた諡号(しごう)である。つまり国家が公式に、「あなたは大師、つまり大いなる師である」と認めた。
仏教の僧で、こんな扱いを受けた者はいない。
しかし、空海を「偉い坊さん」だと思ったら、間違いだ。
空海は、坊さんの枠を、はるか昔に、突き抜けている。
774年、讃岐国(現在の香川県・善通寺市)で生まれた。
幼名は真魚(まお)。父は地方豪族・佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)、母は玉依御前(たまよりごぜん)。家柄は決して低くない。
15歳になると、真魚は都(長岡京)に呼び寄せられた。伯父の阿刀大足(あとのおおたり)が、当時の皇族・伊予親王の家庭教師をしていた大学者だったからである。
伯父のもとで3年間、徹底的に学問を叩き込まれた真魚は、18歳で大学(当時の国立大学)に入学する。
成績は、常に首席だった。
このまま進めば、官僚として出世することは確実だった。当時のエリートコースに、彼は乗っていた。
しかし、真魚は、その道を捨てた。
エリート官僚の地位を、自分から、放り投げた。
理由は、本人が後に書いている。
「人として、真に生きる道を求めたい」
そして、山に入った。
ここから真魚の「行方不明」の時期が始まる。
正確な足取りは、誰も知らない。
確かなのは、彼が山岳修行の日々を過ごしたことだ。日本中の山を、たった一人で歩き、滝に打たれ、洞窟で瞑想し、食べ物も最小限に絞った。
そして、彼は、一つの修行に出会う。
「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」。
この修行を理解しないと、空海の「化け物ぶり」は、何も理解できない。
虚空蔵求聞持法とは何か。
虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を本尊とする、密教最高峰の荒行の一つである。
「虚空蔵」とは、サンスクリット語で「アーカーシャガルバ」。「広大な宇宙のように果てしない、はかり知れない知恵と慈悲が詰まった蔵」を意味する。
つまり、宇宙そのものを、自分の中に取り込む修行である。
やり方は、こうだ。
虚空蔵菩薩の真言を、唱える。
「のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか」
これを、1回唱えるのに、約3秒。
それを、1日1万回。
100日間、毎日。
合計100万回。
ただ唱えればいい、わけではない。
数を、数えながら、唱える。
途中で数を見失ったら、やり直し。
そして、これを成し遂げると、どうなるか。
無限の記憶力が手に入る、と言われている。
一度見聞きしたものを、絶対に忘れない。
あらゆる経典を、瞬時に理解して、記憶する。
あらゆる言語、あらゆる学問が、頭の中に、永久に格納される。
「1000年に一人の天才」の能力が、開花する。
これは、伝説ではない。
空海自身が、自分の手記『三教指帰(さんごうしいき)』に、こう書いている。
「ここに一人の沙門(修行者)がいて、私に虚空蔵聞持法を教えた。その経には、こう書かれている。『もしこの法に従って、この真言を100万回唱えれば、一切の経典の文義を暗記できる』と。私は仏陀の言葉を信じて、阿波国(徳島県)の大瀧岳(たいりゅうだけ)に登り、土佐国(高知県)の室戸岬で勤念した」
そして、彼は続けて書く。
「谷、響を惜しまず。明星来影す」
谷は、唱える真言の声を惜しまずに反響させた。
そして、明けの明星(=金星)が、来て、影を落とした。
これが、何を意味するか。
夜空の金星が、降りてきた。
真魚の口の中に、金星が、飛び込んできた。
金星は、虚空蔵菩薩の化身である。
これは、虚空蔵求聞持法の「成就」を意味する。修行が、完成した、という証である。
ただし、この修行は、ただ過酷なだけではない。
100日間、堂に籠って、ひたすら同じ真言を、何百万回も唱え続ける。
すると、悪魔と睡魔が、次々に襲ってくる。
幻覚を見る。
声を聞く。
体が動かなくなる。
逆に体が勝手に動き出す。
「一歩間違えば、発狂、または死と隣り合わせの荒行」
そう、密教の世界では伝えられている。
それを、20代前半の真魚は、生きて、突破した。
成就した。
ここで、彼の脳は、書き換えられた、と言ってもいい。
普通の人間の記憶力ではなくなった。
普通の人間の集中力ではなくなった。
普通の人間の認識能力ではなくなった。
ここから先の空海の「人間離れした業績」は、すべて、この虚空蔵求聞持法の上に成り立っている。
サンスクリット語と中国語を、数ヶ月で習得した。
唐に渡って、わずか3ヶ月で、密教の全奥義を伝授された。
留学中、儒教、道教、景教(キリスト教)、ゾロアスター教、マニ教まで学んだ。
これらは「天才だから」ではない。
虚空蔵求聞持法を成就した者だから、できた。
そう考えると、すべての辻褄が、合う。
30歳の時、空海は「唐へ渡る」と決めた。
中国の密教の奥義を、自分で取りに行く。
これは、命懸けの旅だった。
当時の遣唐使船は、半分が沈んだ。生きて中国に着けるかも分からないし、生きて帰ってこれるかも分からない。
しかも、留学生は20年間中国で修行することが規則だった。20年。日本に帰る頃には、空海は50歳になっている。
それでも、行く、と決めた。
31歳の延暦23年(804年)、空海は東大寺戒壇院で正式に得度し、僧名を「空海」と改めた。私度僧から、正式な国家公認の僧になった。
そして同年、遣唐使船に乗り、難波津を出港した。
船は嵐に遭った。
4隻のうち、2隻が遭難した。空海の船もコースを大きく外れ、福州長渓県赤岸鎮という、本来上陸するはずではなかった場所に漂着した。
地方役人は、空海たちを密入国者と疑った。
ここで、空海の「化け物ぶり」が、最初に発揮される。
空海は、流暢な中国語で、しかも当時の中国の最高峰の文体で、上申書を書いた。
地方役人は驚愕した。
「これは普通の日本人ではない」
長安への入境が、特別に許可された。
長安に到着した空海は、すぐに密教の正統な継承者・恵果(けいか)阿闍梨のいる青龍寺を訪ねた。
恵果は、中国密教の頂点に立つ僧だった。皇帝も帰依する、生きた仏である。すでに千人を超える弟子を持ち、その中には10年、20年と修行を積んだ高弟が、ずらりと並んでいた。
恵果は、その時、すでに病に倒れていた。死期を悟っていた。
そして、空海が部屋に入ってきた瞬間、恵果は、こう言ったとされる。
「あなたを待っていた」
千人の弟子を差し置いて、来たばかりの異国の僧に、恵果は密教の全てを伝えると決めた。
「我、汝に法を授けん」
胎蔵界灌頂、金剛界灌頂、阿闍梨伝法灌頂 — 通常なら10年以上かかるとされる三段階の奥義を、恵果は空海にわずか3ヶ月で伝授した。
経典、法具、曼荼羅、印契、真言。
密教の全て。
そして、密教の最高位「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の名を授けた。
伝授を終えた数ヶ月後、恵果は亡くなった。
まるで、空海に伝えるためだけに、生きていたかのように。
空海は20年の留学規則を破って、わずか2年で日本に帰国した。
これは本来、死罪に値する。
しかし、空海は唐で得た知識と、密教の霊力を使って、嵯峨天皇の絶対的な信頼を得た。
810年、「薬子の変(くすこのへん)」という政変が起きた。
空海は朝廷に呼ばれ、「仁王経法(にんのうきょうほう)」という密教の修法を行った。
乱は、鎮まった。
これは、ただの偶然か。
朝廷は、そう思わなかった。
「空海の祈りで、戦が止まった」
ここから、空海の伝説が、加速していく。
書道では「三筆」の一人とされる。残る二人は嵯峨天皇、橘逸勢。つまり、空海は、当時の天皇と並ぶレベルの能筆だった。日本書道史の頂点である。
土木技術者として、讃岐国の満濃池(まんのういけ)という巨大なため池を、わずか3ヶ月で修復した。
朝廷が何年もかけても直せなかった難工事を、空海はあっという間に終わらせた。彼は唐で、土木工学と水理学も学んでいたのである。
日本最初の私立学校「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を設立。庶民にも教育を開放した。当時、教育はエリートの特権だった。空海は、それを破った。
「いろは歌」を作ったのも空海であるという伝説。
仮名文字を作ったのも空海であるという伝説。
これらは諸説あるが、「空海が作ったのではないか」と語り継がれること自体が、彼の異常さを物語る。
そして、全国各地に、空海の伝説が残る。
福岡県糸島市の「まむし温泉」は、空海が霊力で湧き出させた。
群馬県の川場温泉は、空海が錫杖(しゃくじょう)で大地を突いたら、湯が噴き出した。
四国八十八ヶ所霊場は、空海が修行のために巡った道がベースになっている。
北海道から沖縄まで、空海が湧き出させた水、空海が建てた寺、空海が刻んだ仏像、空海が退治した妖怪、空海が一夜で建てた橋 — それらの伝説が、無数に、ある。
研究者でも、空海の伝説を全て把握できない。
民衆にとって、空海は「真言密教の開祖」ではなかった。
「困った時に助けに来てくれるスーパーマン」だった。
雨が降らない時、空海を呼べば雨が降った。
病気が流行った時、空海が真言を唱えれば、病気が止んだ。
戦が起きた時、空海が祈れば、戦が鎮まった。
これを、当時の人々は信じた。
そして、1200年経った今でも、信じている人がいる。
なぜなら、空海は、今も生きているからだ。
61歳になった頃、空海は朝廷に「もう都には戻りません」と告げた。
そして、自ら開いた高野山に、籠った。
弟子たちは、不安だった。空海は、何かを準備していた。
835年3月15日、空海は弟子たちを集めて、こう告げた。
「私は3月21日、永遠の禅定に入る。死ぬのではない」
弟子たちは、息を呑んだ。
空海は、続けた。
「56億7000万年後、弥勒菩薩がこの世に下生(げしょう)する時、私はその従者として共に降りてくる。それまで、私はここで瞑想を続ける。私の体は、ここに、残す」
56億7000万年。
宇宙が滅びるかもしれない、その時間を、空海は瞑想で待つ、と言った。
弟子たちは泣いた。
しかし、3月21日の午前4時。
空海は予言通り、奥之院の地下で、結跏趺坐の姿勢を取った。大日如来の印を結び、真言を唱え、目を閉じた。
声を発するのを、やめた。
呼吸も、止まったように見えた。
しかし、誰も、空海が「死んだ」とは言わなかった。
弟子たちは、空海の体を、納めた。
その上に、御廟(ごびょう)を建てた。
これは「入定」である。
死では、ない。
ここから、奥之院の1200年が、始まる。
第2章「三鈷の松 — 空中を飛んできた法具と、犬2匹の案内人」
時を、少し戻す。
空海が、唐で密教の全てを伝授されて、日本に帰る直前のこと。
中国の明州(みんしゅう、現在の寧波)の港。
空海は、これから日本に帰る。しかし、一つ、決まっていないことがあった。
「日本に帰ったら、どこに密教の道場を作ればいいのか」
日本のどこに、密教を広めるのにふさわしい聖地があるのか。
空海は、それを、知らなかった。
そこで、彼は、奇妙な行動に出る。
恵果阿闍梨から授かった密教の法具、「三鈷杵(さんこしょ)」を取り出した。

三鈷杵とは何か。
サンスクリット語で「ヴァジュラ」と呼ばれる、密教の最重要法具である。
形は、両端が三つに分かれた、金属の杵。
長さは、20センチほど。
元々は、古代インドの神話に登場する、最強の神「インドラ(帝釈天)」が持っていた武器である。
インドラは、雷を操る神だった。蛇の形をした悪魔ヴリトラを、このヴァジュラで粉砕したという伝説がある。
「ヴァジュラ」とは、「ダイヤモンドより硬いもの」「雷電そのもの」を意味する。
密教では、このインドの神話上の武器を、「煩悩を打ち砕く悟りの心の象徴」として、法具に取り入れた。
ヴァジュラを持つ者は、魔を打ち破り、災いを跳ね除け、邪心を消す。
そんな法具を、空海は、明州の海岸で、振りかぶった。
そして、東に向かって、投げた。
日本に向かって、投げた。
「真言密教を広めるのにふさわしい聖地に、留まってくれ」
そう祈りながら、空海は三鈷杵を、空に放った。
三鈷杵は、高く舞い上がった。
そして、東の空に向かって、飛んでいった。
海を越えて。
雲を貫いて。
日本のどこかに、向かって。
これが、後に「飛行三鈷杵(ひぎょうさんこしょ)」と呼ばれる、密教史最大の伝説である。
「そんなこと、ありえない」と、現代の科学的常識は言う。
しかし、ここで一度、思い出してほしい。
これは、虚空蔵求聞持法を成就した男の話である。
夜空の金星を、口の中に呼び込んだ男の話である。
この男にとって、「三鈷杵を中国から日本まで飛ばす」ことが、どこまで「ありえない」ことなのか。
その判断は、読者に委ねる。
帰国後、空海は、自分が投げた三鈷杵を探した。
しかし、日本は広い。北は北海道から、南は沖縄まで。三鈷杵が、どこに落ちたのか。
そんな時、空海は奇妙な人物に出会う。
舞台は、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)あたり。
一人の狩人が、現れた。
赤ら顔。背丈は六尺(180センチ以上)。青い小袖を着て、がっちりした体格。弓矢を背負っている。
そして、彼は、犬を2匹、連れていた。
白い犬と、黒い犬。
狩人は、空海に話しかけた。
「どちらへ行かれるのですか」
空海は、正直に答えた。
「真言密教の修行場に最適な場所を探しています。実は、唐から投げた三鈷杵が、どこかに落ちているはずなのです。それを探しに行く途中です」
狩人は、笑った。
「私は、南山の犬飼(いぬかい)です。その場所に、心当たりがあります。すぐに犬に案内させましょう」
そう言って、狩人は2匹の犬を放した。
白と黒の犬は、駆け出した。
そして、消えた。
「向こうの山に向かっています。後を追ってください」
空海は、犬の後を追って、山に入った。
すると、もう一人、現れた。
山人(やまびと)の姿をした、神々しい女性だった。
彼女は、空海を、さらに奥へと案内した。
そして、ある山上の平地に、辿り着いた。
そこは、紀伊山地の中。標高800メートルの、人里から完全に隔絶された場所。
四方を山に囲まれた、不思議な窪地だった。
中央に、一本の大きな松の木が、立っていた。
空海は、その松を見上げた。
そして、息を呑んだ。
松の枝に、何かが、引っかかっていた。
それは、金属の光を放っていた。
両端が三つに分かれた、金属の杵。
唐の明州の港から、空海が東に向かって投げた、あの三鈷杵だった。
3年もの時を経て、海を越えて、空を飛んで、この松の枝に、辿り着いていた。
空海は、その場で、決めた。
「ここだ」
ここが、密教を広める聖地である。
ここに、道場を作る。
この時、空海を案内した「狩人」と「山人」が、実は人間ではなかったことが、後に明らかになる。
狩人は、「狩場明神(かりばみょうじん)」、別名「高野明神(こうやみょうじん)」。
山人は、「丹生都比売(にうつひめ)」、別名「丹生明神(にうみょうじん)」。
どちらも、紀伊山地に古くから祀られていた、地主の神々である。
つまり、空海は、神々に導かれて、高野山に辿り着いた。
そして、2匹の犬は、神の使いだった。
この伝説のせいで、後世、弘法大師ゆかりの神社や寺に、犬の像が置かれるようになる。空海と犬は、セットなのだ。
ちなみに、松にかかっていたあの三鈷杵は、現在も実在する。
「飛行三鈷杵」として、高野山金剛峯寺に、国の重要文化財として、大切に保管されている。
実物が、ある。
中国から空海が投げたという、伝説の法具が、今も、高野山にある。
その三鈷杵がかかっていた松は、「三鈷の松(さんこのまつ)」と呼ばれ、今も高野山の壇上伽藍(だんじょうがらん)に立っている。
ここに、もう一つ、面白い話がある。
普通、松の葉は、2本一組で生えている。
しかし、この三鈷の松は、3本一組で葉が生える。
三鈷杵の「3つに分かれた刃」と、同じ数。
「これは、お大師様の法力によるものだ」と、信者は言う。
そして、この三鈷の松の下に落ちている、3本一組の松葉を拾うと、幸せが訪れる、と言われている。
四つ葉のクローバーの、高野山版である。
財布に入れれば金運が上がる。
バッグに入れれば、旅行安全。
お守りとして持っていれば、災いを跳ね返す。
今も、壇上伽藍の三鈷の松の周りには、下を向いて松葉を探す観光客の姿が、絶えない。
子供連れの家族が、夢中で探している。
カップルが、二人で探している。
外国人観光客が、何かを必死に探している日本人を見て、不思議そうな顔をしている。
三本葉の松葉は、滅多に見つからない。
しかし、見つけた瞬間、人は、声を上げる。
「あった!」
その瞬間、その場にいる全員が、空海の伝説に、繋がる。
1200年前、唐の海岸から、東に向かって投げられた三鈷杵。
それが、神の使いである犬2匹に案内されて、紀伊の山中で、松の枝に引っかかっていた。
その物語が、今、この瞬間、子供の手のひらにある一本の松葉に、繋がっている。
これが、高野山という場所の、空気である。
そして、空海が拾った、もう一つの大事なもの。
それは、「結界」という概念である。
空海は、高野山に辿り着いてから、すぐに気づいた。
ここは、ただの山ではない。
「気が、強すぎる」
このままでは、修行者が、耐えられない。
空海は、密教の修法を使って、高野山の周囲に、結界を張った。
「高野山上、七里四方を、結界とする」
七里、つまり約28キロ四方。
その範囲を、聖域として、外界から切り離した。
高野山の入口に立つ「大門(だいもん)」は、その結界の象徴である。高さ25.1メートル。日本で二番目に大きい金剛力士像が、左右に立ち、入ってくる者を、睨んでいる。
「ここから先は、聖域である。下界の穢れを、持ち込むな」
そう、大門は、語っている。
そして、この結界の中で、空海は、真言密教の総本山を、建てた。
壇上伽藍(だんじょうがらん)。
ここに、根本大塔(こんぽんだいとう)、金堂(こんどう)、御影堂(みえいどう)、そして三鈷の松。
密教の世界観を、立体的に再現した、巨大な曼荼羅(まんだら)である。
高野山は、ただの寺の集まりではない。
地上に降りた、密教の宇宙そのものである。
そして、その宇宙の中心に、空海は、自分の墓所を、決めた。
奥之院。
ここに、彼は、永遠に、籠ることになる。
第3章「ヴァジュラとハーケンクロイツ — 密教法具がナチスを呼んだ夜」
ここから、書く話は、人によっては「飛躍しすぎ」と感じるかもしれない。
しかし、点と点は、確実に繋がっている。
繋がりを否定しようとする方が、無理がある。
時代は、第二次世界大戦前夜の、1938年。
場所は、チベット。
雪に覆われたヒマラヤの山中を、5人のドイツ人が、登っていた。
彼らは、観光客ではない。
ナチス親衛隊(SS)の、エルンスト・シェーファー率いる、SS探検隊である。
派遣したのは、SS長官ハインリヒ・ヒムラー。
ヒトラーの側近として、ナチスドイツで事実上の最高権力者の一人だった男。
そして、ヒトラー以上に、オカルトに狂った男だった。
ヒムラーは、なぜ、チベットに、SSの部下を送り込んだのか。
理由は、一つだ。
「アーリア人の起源を、探すため」
ここで、話は、一度、別の方向に飛ぶ。
時代を、もっと、もっと、遡る。
紀元前1500年頃。
中央アジアの草原から、ある民族集団が、移動を始めた。
彼らは、自分たちを「アーリア人」と呼んだ。
サンスクリット語で「高貴な人」を意味する言葉である。
アーリア人は、南へ、南へと進んだ。
そして、二つの集団に分かれた。
一つは、現在のイランへ。
もう一つは、現在のインドへ。
インドに入ったアーリア人は、そこで、独自の宗教文化を作り上げた。
それが、ヒンドゥー教であり、後に、仏教の母体となった世界観である。
そして、アーリア人たちが信仰した、最高神の一人が、雷を操る神「インドラ」だった。
インドラの武器が、ヴァジュラ。
そう、空海が中国から日本に持ち帰った、あの三鈷杵の、起源である。
ここで、線が一本、引かれる。
古代インド・アーリア人の最高神インドラのヴァジュラ
↓
中国に伝わり、密教の法具に
↓
空海によって、日本の高野山へ
これは、密教の正統な系譜である。
しかし、19世紀のヨーロッパで、別の解釈が、生まれてしまう。
ドイツの考古学者ハインリヒ・シュリーマンが、トロイの遺跡を発掘した時、ある奇妙な記号を、発見した。
「卍(まんじ)」である。
サンスクリット語で「スワスティカ」と呼ばれる、古代から「幸運」を意味する記号。
シュリーマンは、これを古代インド・ヨーロッパ語族に共通の宗教シンボルだと考えた。
そして、この発見が、20世紀のドイツで、暴走する。
「アーリア人は、古代インドから世界に広がった、最高の人種である」
「ゲルマン民族は、アーリア人の最も純粋な末裔である」
「アーリア人の聖なるシンボルは、卍である」
この疑似科学を、ナチスは、自分たちのイデオロギーに、取り込んだ。
そして、卍を、自分たちの党旗のシンボルにした。
それが、ハーケンクロイツ(鉤十字)である。
正確に言うと、ナチスが採用したのは、卍を45度傾けた、「卐(右まんじ)」だった。
向きは違うが、起源は同じ。
つまり、こうである。
ナチスの党旗に描かれたハーケンクロイツの、その先祖は、空海が中国から持ち帰った三鈷杵と、同じ場所、同じ神話、同じ宇宙観から、来ている。
古代インド・アーリアの聖なる象徴。
一方は、密教の法具として、日本の高野山に。
もう一方は、人類史上最悪の独裁政権の旗印に。
同じ根から、まったく違う方向に、伸びた二本の枝。
なぜ、こんなことが起きたのか。
そこに、ハインリヒ・ヒムラーという、狂信者がいた。
ヒムラーは、ナチスの幹部の中でも、突出してオカルトに傾倒していた。
彼は、こう信じていた。
「アーリア人の本当のふるさとは、中央アジアにある」
「特に、チベット高原のどこかに、純粋なアーリア人の血を引く民族が、隔離されて住んでいるはずだ」
「彼らの中に、世界の支配権を握るための、霊的な力の鍵がある」
そして、彼は、もう一つ、信じていた。
チベット高原の、どこかに、「シャンバラ」という地上の楽園、または「アガルタ」という地下王国が、存在する。
そこには、超人的な知識と、霊的な力が、眠っている。
それを手に入れた者が、世界を支配する。
これは、もはや、政治家の発想ではない。
オカルティストの、妄想に近い。
しかし、ヒムラーは、本気だった。
そして、彼は、SSの中に「アーネンエルベ(ドイツ先史遺産研究所)」という、オカルト研究組織を、1935年に設立した。
アーネンエルベの仕事は、世界中の古代遺跡、神秘思想、超古代史を「研究」することだった。
聖杯探索。
アトランティスの調査。
ルーン文字の研究。
ゲルマン神話の調査。
そして、チベットへの探検。
これは、後にスティーブン・スピルバーグが映画『インディ・ジョーンズ』で描いた、そのままの世界である。
虚構ではない。
現実に、ナチスは、これをやっていた。
1938年4月。
エルンスト・シェーファー率いるSS探検隊は、チベットに到着した。
彼らは、ラサを訪れ、当時のチベットの摂政・レティン・リンポチェと会見した。
そして、頭蓋骨を採集し、写真を撮り、地形を測量した。
すべて、「アーリア人の起源を証明するため」である。
そして、彼らは、ある仏像を、持ち帰ったとされる。
ベルリンに帰国したシェーファーは、ヒムラーに、その仏像を見せた。
仏像は、毘沙門天(びしゃもんてん)、別名ヴァイシュラヴァナ、密教の四天王の一人だった。
特徴的だったのは、二つ。
一つ、その仏像の胸には、はっきりと「卍」が刻まれていた。
もう一つ、その仏像は、隕石から作られていた。
宇宙から、降ってきた隕鉄を、削って、仏像にした。
「宇宙から来たブッダ」。
これは、ヒムラーを、震わせるのに、十分すぎる代物だった。
彼にとって、これは「証拠」だった。
アーリア人の起源は、チベットにある。
聖なる卍のシンボルは、宇宙から来た。
ナチスのハーケンクロイツは、宇宙の意志である。
この隕石仏像は、その後、長らく行方が分からなくなる。
そして、戦後70年近く経った2012年、シュトゥットガルト大学のElmar Buchnerらの研究グループが、学術誌『Meteoritics and Planetary Science』に「Buddha from space(宇宙から来たブッダ)」というタイトルの論文を発表した。
ナチスのチベット探検隊が持ち帰ったとされる隕石仏像は、確かに隕鉄製(シベリア・モンゴル国境付近に落ちた「チンガ隕石」由来)であった、と。
(その後、この仏像はナチスがチベットから持ち帰った確証はなく、20世紀にヨーロッパで作られた贋作の可能性も指摘されている。しかし、ナチスがチベットに探検隊を送り、何かを持ち帰ったこと自体は、史実である)
ここから、話は、もう一つの線で、繋がる。
ヒムラーは、SSのシンボルとして、もう一つの記号を使った。
「SS」と書かれた、稲妻のような形。
これは、古代ゲルマンのルーン文字「ジゲル(Sigel)」、つまり「太陽・勝利・雷」を意味する文字を、二本並べたものである。
雷。
ここで、もう一度、思い出してほしい。
古代インド・アーリア人の最高神インドラの武器、ヴァジュラ。
ヴァジュラの本来の意味は、「雷電」である。
ヒムラーが、SSのシンボルに、雷の意味を持つ記号を選んだ。
古代インドの聖なる武器は、雷を象徴していた。
そして、その雷の武器が、密教では、煩悩を打ち砕く法具になった。
「雷」と「ナチス」と「密教」。
これは、偶然か。
それとも、ヒムラーは、彼が探していた「アーリア人の霊的な力」が、東洋の密教に、純粋な形で残っていることを、知っていたのか。
正解は、誰にも、分からない。
しかし、これだけは、言える。
空海が、中国から日本に持ち帰った三鈷杵。
その同じ起源を持つシンボルが、20世紀のヨーロッパで、最悪の独裁者の旗印になった。
そして、ヒムラーの探検隊は、密教の聖地チベットに、辿り着いた。
ヒムラーが探していた「霊的な力」は、彼が見つける前に、すでに、日本の高野山に、1100年以上、存在していた。
空海が、結界を張った場所に。
奥之院の地下に。
永遠の瞑想に入った、空海の中に。
ヒムラーが、もし、その存在を知っていたら、彼はチベットではなく、日本に、探検隊を送ったかもしれない。
しかし、彼は、知らなかった。
そして、ナチスドイツは、敗北した。
ヒムラーは、敗戦直後、自殺した。
彼が信じた「アーリア人の霊的な力」は、ついに、手に入らなかった。
一方、高野山の奥之院では、その同じ日も、空海への食事が、運ばれ続けていた。
何事もなかったかのように。
戦争中も、敗戦の日も、ヒムラーが自殺した日も。
1200年間、ただの一度も、止まらずに。
これが、密教の力なのか。
ただの偶然の積み重ねなのか。
あなたが、高野山に行って、自分の目で、見て、感じて、決めてほしい。
呼ばれた人は、必ず、辿り着く。
そして、辿り着いた人は、何かを、持って帰る。
ヒムラーが、欲しくて欲しくて、ついに手に入れられなかったものを、あなたは、もしかしたら、奥之院の参道で、ふと、手にしているかもしれない。
第4章「入定 — 死ではなく、永遠の瞑想という選択」
835年3月21日、午前4時。高野山、奥之院。62歳の空海は、地下の石室に座っていた。
結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢。両足を組み、背筋を伸ばし、両手で大日如来の印を結ぶ。これは、密教における最も基本的な、そして最も深い瞑想の姿勢である。空海は目を閉じ、真言を唱え始めた。
「のうまく さんまんだ ばさらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん」
不動明王の真言だったかもしれない。大日如来の真言だったかもしれない。あるいは、彼だけが知る、もっと深い真言だったかもしれない。弟子たちは外で、息を殺して見守っていた。そして、時間が過ぎていく。ある時、弟子の一人が気づいた。
空海の、唱える声が、聞こえなくなっている。
弟子は近づいた。空海は座ったまま、動かなかった。呼吸が止まっているように見えた。しかし誰も、彼の体に触れなかった。誰も、彼の名前を呼ばなかった。誰も、彼の脈を確かめなかった。なぜなら、これは死ではないからだ。
これは、「入定(にゅうじょう)」である。
実は、空海の入定は、その日に突然始まったわけではない。彼は、自分の入定を、何年も前から、準備していた。62歳になった年、空海は朝廷に「もう都には戻りません」と告げ、高野山に籠った。弟子たちは、その時から、何かが始まっていることに、気づいていた。空海の食事は、日に日に減っていった。最初は、米を食べなくなった。次に、麦を食べなくなった。豆も。野菜も。最後には、水だけになった。
これは、即身仏になるための「木食行(もくじきぎょう)」と、よく似ている。体内の脂肪と水分を、極限まで落とす作業。新陳代謝を、限りなくゼロに近づけるための、肉体の準備である。
そして、835年3月15日。
空海は、弟子たちを集めた。死期を悟った師の周りに、彼の高弟たちが、ずらりと並んだ。空海は、静かに、こう告げた。
「私は、6日後の3月21日、寅の刻(午前4時)に、永遠の禅定に入る。死ぬのではない。56億7000万年後、弥勒菩薩がこの世に下生する時、私はその従者として、共に降りてくる。それまで、私はここで、瞑想を続ける。私の体は、ここに、残す」
弟子たちは、号泣した。
空海は、続けた。「悲しむな。私は、いなくならない。ただ、形を変えるだけだ。私の意識は、これから宇宙全体に拡散する。だから、お前たちが私を必要とする時、いつでも、私はそこにいる」
それから6日間、空海は、ほとんど何も口にしなかった。ただ、弟子たちと共に、弥勒菩薩の宝号を、唱え続けた。「南無当来導師弥勒尊仏(なむとうらいどうしみろくそんぶつ)」。来たるべき導師、弥勒菩薩よ、と。
そして3月21日の午前4時、空海は石室に入った。結跏趺坐の姿勢を取り、印を結び、真言を唱え、目を閉じた。
声を発するのを、やめた。
呼吸も、止まったように見えた。
しかし誰も、空海が「死んだ」とは言わなかった。
「入定」とは何か。辞書的に言えば「禅定に入ること」。禅定とは瞑想の深い状態のことを指す。しかし、空海の入定は、ただの瞑想ではない。これは、密教における最終奥義である。
肉体を、生きたまま、瞑想の中に固定する。呼吸を極限まで遅らせ、新陳代謝を限りなくゼロに近づける。そして、意識を肉体から切り離す。切り離された意識は、宇宙の根源である「大日如来」と一体化する。肉体はここに残したまま、意識だけが宇宙全体に拡散する。
これが、密教の「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」である。
「この身、このままで、仏になる」
普通の仏教では「悟りを開いて仏になる」までに、気が遠くなるような時間がかかるとされている。具体的には「三劫(さんこう)」という単位の時間が必要、と言われる。一劫が約43億2000万年。三劫は約129億6000万年。つまり、宇宙の年齢以上の時間をかけて、ようやく人は仏になる。それが普通の仏教の教えである。
しかし、空海はそれを否定した。
「そんな時間は要らない。この身、このままで、この瞬間に、仏になれる」
これが、密教の革命だった。そしてその究極の形が、入定である。
ここで、もう一つ、重要なキーワードが出てくる。「弥勒菩薩」である。
弥勒菩薩(みろくぼさつ)とは、何か。仏教において、釈迦の次にこの世に現れて、すべての衆生(しゅじょう)を救う、と約束された仏である。釈迦は、自分が死ぬ前に、こう予言した。
「私が死んでから56億7000万年後、弥勒菩薩がこの世に下生(げしょう)する。その時、弥勒は私が救えなかったすべての人々を、救う」
これが、仏教の「終末論」であり「救済論」である。
56億7000万年。
数字としては、想像を絶する。太陽が膨張して赤色巨星になり、地球を飲み込むのが、約50億年後と言われている。つまり、弥勒が下生する時、地球は、すでに、存在しないかもしれない。
それでも、弥勒は来る、とされている。
そして、空海は、その弥勒の下生を、待つと宣言した。「私は、弥勒の従者として、彼と共に再び現れる」と。
これは、ただの願望ではない。密教の世界観において、空海は、すでに大日如来と一体化している。大日如来は、宇宙そのものである。宇宙が存在する限り、空海も存在する。56億7000万年など、宇宙の時間軸では、一瞬である。
空海は、その「一瞬」を、奥之院の地下で、過ごしている。
ここで、「即身成仏」とよく混同される言葉がある。「即身仏(そくしんぶつ)」だ。
即身仏とは、簡単に言えばミイラである。主に東北地方の湯殿山(ゆどのさん)信仰で行われた修行で、僧侶が生きながらに自分の体をミイラ化させる。何年もかけて「木食行(もくじきぎょう)」をし、木の実だけを食べて体の脂肪を完全に落とす。次に特殊な漆(うるし)を飲んで、体内の腐敗を防ぐ。そして自分の意思で、地下の石室に入る。石室には鈴が一本置かれる。鈴を鳴らせる限り生きている、という合図である。
毎日、鈴の音が聞こえる。数日後、数週間後。そしてある日、鈴の音が、止まる。
弟子たちは3年と3ヶ月待ってから、石室を開ける。中には、瞑想の姿勢のまま、乾燥した遺体が残っている。これが即身仏である。現在も山形県には十数体の即身仏が寺院に安置され、実物が見学できる。
しかし、空海が目指したのはこれとは違う。空海はミイラになろうとしたわけではない。むしろ「即身成仏」は、ミイラを残すことではなく、生きながらに仏の境地に達することである、と空海は説いた。肉体が朽ちようが残ろうが、それは本質ではない。本質は、意識が大日如来と一体になっているかどうか。
ただし、空海が入定した後、奥之院の御廟の中で、彼の肉体が、どうなっているのか。これについては、1200年間、諸説が、語り継がれてきた。
一説には、空海は石棺の中に納められている、とされる。
一説には、石棺の上に土が被せられている、とされる。
一説には、石棺には通気のための穴が開けられている、とされる。
一説には、入定された時の姿のまま、座っている、とされる。
一説には、ミイラのような状態になっている、とされる。
一説には、実は火葬されていた、とされる。
どれが正しいのか、誰も知らない。
なぜなら、奥之院の御廟は、皇族でさえ立ち入れない禁足地だからだ。
入れるのは、ただ一人。「維那(ゆいな)」と呼ばれる、空海の食事を運ぶ役目の僧、だけ。そして維那は、御廟の中で見たことを、誰にも語ってはならない。「他言無用」の規則で、固く縛られている。
そのため、御廟の真実は、現代でも、永遠の謎である。
歴史的な記録によれば、空海の遺体は火葬された可能性が高い、とされている。「続日本後紀(しょくにほんこうき)」という当時の公式記録には、空海の遺体は荼毘(火葬)に付されたという記述がある。一方で、後代になると「永遠の瞑想に入った」という入定信仰の文献が現れる。これが史実上の二つの伝承である。
しかしその後、空海への信仰が爆発的に広まる過程で、伝説が加わっていく。「空海は死んだのではない。永遠の瞑想に入ったのだ」「奥之院の御廟の中で、今も、座って、瞑想している」「いつか、弥勒菩薩が下生する時、彼は再び目を開ける」
これは史実か、伝説か。研究者の間でも意見は分かれる。しかし、ここで重要なことを書く。史実と伝説のどちらが正しいか、ではない。「空海は今も生きている」と信じる人々が、1200年間、いた。そして、その人々が奥之院に、毎日、食事を運び続けた。雨の日も、雪の日も、台風の日も、戦争中も、コロナ禍も。ただの一度も、止まらずに。
これが、「事実」である。
歴史的に空海が火葬されたかどうかは、もはや問題ではない。1200年間、毎日、食事が運ばれ続けた、という事実が、空海を今も生かしている。人々の信仰が、空海を永遠の瞑想の中に留めている。
奥之院の御廟。その奥に、空海がいる。座っている。目を閉じている。呼吸は止まっている。しかし、死んではいない。ただ、待っている。56億7000万年後の、その日を。弥勒菩薩がこの世に下生する、その瞬間を。そして空海は、その従者として、共に降りてくる。
これが、密教の世界観である。そしてこれが、高野山という場所の、根本的な構造である。
奥之院は、ただの墓所ではない。
「待機所」である。
空海が、宇宙の時間軸の中で、次の出番を待っている、その場所。そう考えると、奥之院に漂うあの独特の空気の意味が見えてくる。参道を歩くと、人によっては急に涙が止まらなくなる。御廟橋を渡ると、空気が「変わる」と感じる。燈籠堂の前で、頭の中が真っ白になる。これは気のせいではない。そこには確かに誰かがいる。座っている。待っている。そして参拝に訪れたあなたを、見ている。
「来たか」
声にはならない。しかし、伝わってくる。
これが、入定である。死ではない。ただ、永遠に、続いている。
そして奥之院で今この瞬間も続いている、もう一つの、信じがたい事実がある。空海への、食事である。
第5章「1200年、毎日続く食事 — 生身供と、無数の星々」

奥之院では、毎朝午前6時、そして午前10時半。合計1日2回、空海への食事が運ばれる。「生身供(しょうじんぐ)」と呼ばれる儀式である。「生身」とは「生きた身」を意味する。空海は今も生きた身体を持っている、という前提に立った言葉だ。だから、食事が、要る。
この儀式は、空海が入定した835年3月21日の翌日から始まったとされる。835年3月22日、その日から現在まで、1200年間ただの一度も欠かしたことがない。これがどれほど異常なことか、考えてみてほしい。1200年とは約44万日。朝と昼の2回として、約88万回。そのすべてが、毎日、運ばれてきた。
雨の日も。雪の日も。台風の日も。地震が起きた日も。応仁の乱で京都が焼け落ちた日も。織田信長が高野山を焼き討ちにしようとした日も。明治政府が廃仏毀釈で多くの寺を破壊した日も。第二次世界大戦で日本中の都市が空襲された日も。広島と長崎に原爆が落ちた日も。終戦の玉音放送が流れた日も。東日本大震災が起きた日も。コロナ禍で日本中が止まった日も。
止まらなかった。
これは、信仰なのか。狂気なのか。執念なのか。それとも、本当に空海が、まだ、生きているのか。
生身供の手順は、こうである。朝の5時半、奥之院の「御供所(ごくしょ)」と呼ばれる建物で、食事の準備が始まる。調理を担当するのは「行法師(ぎょうほうし)」と呼ばれる、特別な資格を持った僧侶だ。彼らは、空海への食事を作ることだけが仕事である。メニューは伝統的に精進料理が基本で、米、味噌汁、野菜の煮物、漬物、お茶。動物性の食材は使わない。
しかし、興味深いことに、現代になってから、メニューに変化が起きた。パスタが出される日がある。シチューが出される日もある。カレーが出される日もある。洋食が出される日もある。これは誰かが決めたわけではない。「空海も、たまには違うものを食べたいだろう」という、行法師たちの判断である。
そして毎年3月21日、空海の入定の日には、新しい衣も届けられる。空海は瞑想の中で衣が古くなる。だから新調する。これも1200年間、続いている。
調理が完了すると、食事は白木の箱に納められる。行列の先頭を歩くのは「維那(ゆいな)」と呼ばれる僧。維那は、空海の食事を御廟まで運ぶ役目を代々受け継いでいる。維那の後ろに、白木の箱を持った僧が2人。3人で御供所を出発する。
そして御供所のすぐ近くにある「嘗試地蔵(あじみじぞう)」の前で、立ち止まる。ここで奇妙なことが行われる。地蔵に、食事を、味見してもらう。「お地蔵様、今日の空海のお食事は、味は大丈夫でしょうか」。そう問いかけて、しばらく待つ。地蔵が何か言うわけではない。しかし、これは形式上の儀式ではない。本気で行われている。地蔵が「OK」を出して、初めて、食事は御廟へと進む。
嘗試地蔵を通過した後、行列は奥之院の参道を進んでいく。参道の両側には、樹齢700年を超える巨大な杉の木が、そびえ立っている。その下には、20万基を超える墓と供養塔が並んでいる。戦国武将の墓、皇族の墓、庶民の墓、企業の墓。そのすべての視線の中を、3人の僧が、白木の箱を持って進んでいく。
そして最後の橋、「御廟橋(ごびょうばし)」に辿り着く。御廟橋は特別な橋である。橋の長さは36枚の橋板でできていて、橋全体を1枚と数えると合計37。これは、密教の「金剛界37尊」を表している。さらに36枚の橋板の裏には、それぞれ梵字で37尊が刻まれている。つまり、御廟橋を渡るということは、密教の37尊の上を踏みしめて渡るということになる。
そして、橋を渡った先は、聖域である。ここから先は写真撮影禁止、飲食禁止、帽子も外す、礼をしてから渡る。橋の向こうに、「燈籠堂(とうろうどう)」が、見えてくる。
この燈籠堂が、奥之院の、本当の心臓である。
中に入ると、世界が、変わる。
天井から、床まで、空間のすべてを埋め尽くすように、燈籠が、吊られている。その数、2万基以上。一つ一つに、参拝者の願いが、込められている。すべての燈籠が、ゆらゆらと、小さく揺れながら、光を放っている。
それは、銀河のように、見える。
人類が見上げる夜空に、星が無数に散らばっているように。燈籠堂の中では、無数の小さな光が、空間に浮かんでいる。上を見ても、下を見ても、横を見ても、光、光、光。
そして、この銀河の中に、1000年以上、消えたことのない火が、2つ、燃えている。
一つは、「祈親灯(きしんとう)」、別名「貧女の一灯(ひんじょのいっとう)」。
これには、お照(おてる)という少女の物語が、ある。
平安時代、和泉国(現在の大阪南部)に、お照という少女がいた。実の親に捨てられたところを、奥山源左衛門・お幸という夫婦に拾われ、育てられた。お照は16歳になったとき、養母が流行病で亡くなった。心のこもった介抱もむなしく、間もなく、養父も後を追うようにこの世を去った。お照は一人ぼっちになった。
旅人から、高野山燈籠堂の話を聞いた。「冥土の道を、灯が照らしてくれる」と。お照は、養父母のあの世の幸せを祈るため、奥の院に灯を捧げよう、と決心した。しかし、お金が、ない。
お照は、自分の長い黒髪を、切った。
その髪を売って、得たわずかな金で、小さな燈明を、買った。
そして、高野山に登り、その燈明を、燈籠堂に、捧げた。
それが、長和5年(1016年)のこと。
その火が、今も、消えずに、燃え続けている。
1000年以上、ずっと。
お照が捧げた、たった一つの小さな火が、巨大な燈籠堂を支える、根本の光になっている。
もう一つの永遠の火は、「白河灯」。寛治2年(1088年)、白河上皇が献じた灯である。記録には「上皇が30万灯を献じた」とある。俗に「長者の万灯」と呼ばれる。
「貧女の一灯」と「長者の万灯」。
貧しい少女が髪を切って捧げた火と、上皇が30万灯捧げた中の一灯。
しかし、燈籠堂の中で、二つの火は、まったく同じ明るさで、燃えている。
これが、空海の教えである。
「貧富の差は、関係ない。心の純粋さが、すべてである」
そして、燈籠堂の、さらに奥に、空海の御廟が、ある。
維那と2人の僧は、燈籠堂を通り抜けて、御廟の前に立つ。そして白木の箱から食事を取り出す。ここで外の参拝者には、何も見えない。御廟の中で何が行われているのか、誰も知らない。維那だけが、空海の前に、食事を置く。そして読経をする。「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」。何度も唱える。そして合掌して、退出する。
これが毎朝午前6時に行われている、生身供の儀式である。朝が終わると、午前10時半にもう一度繰り返される。1日2回、毎日、続いている。
ここで、燈籠堂と、空海と、宇宙との関係について、書いておく必要がある。
「アカシックレコード」という言葉を、聞いたことがあるだろうか。スピリチュアルの世界でよく使われる言葉で、「宇宙誕生以来のすべての存在の、あらゆる情報が記録されている、宇宙規模のデータバンク」を意味する。138億年前の宇宙の始まりから、現在まで、起きたすべての出来事、すべての魂の記憶、すべての感情が、そこに記録されている、とされる。
この「アカシック」という言葉の語源は、サンスクリット語の「アーカーシャ」である。意味は、「虚空」。
そして、空海が若い頃、命懸けで成就した修行があった。それは、第1章で書いた、「虚空蔵求聞持法」である。「虚空蔵」とは、サンスクリット語の「アーカーシャガルバ」。つまり、「アーカーシャ(虚空)」を「蔵」した菩薩、という意味である。
ここで、線が、繋がる。
アカシックレコード = アーカーシャ = 虚空 = 虚空蔵菩薩
空海が若き日に成就した修行は、宇宙の全情報にアクセスする能力を、自分にインストールする作業だったのではないか。
そう考えると、空海の超人的な記憶力、あらゆる言語を数ヶ月で習得した能力、唐の恵果阿闍梨が彼を見た瞬間に「あなたを待っていた」と言ったこと、すべてに、説明がつく。
空海は、若い頃から、すでに、アカシックレコードに、繋がっていた。
そして、入定によって、彼の意識は、肉体から完全に切り離され、宇宙の根源と一体化した。今、空海は、御廟の中で、結跏趺坐の姿勢のまま、宇宙のすべての情報と、繋がっている。
奥之院は、ただの墓所ではない。「アカシックレコードへの、入口」である。
燈籠堂の2万基の燈籠は、銀河の星々の比喩ではない。それは、宇宙そのものの再現である。空海は、その銀河の中心で、座っている。座ったまま、56億7000万年後まで、宇宙と対話している。
維那が、御廟の中で、空海の唱える真言の声を、時々聞くという伝説がある。それは、空海が「来たな。ご苦労」と返事をしているのではない。それは、空海を通じて、宇宙そのものが、語りかけているのである。
これが、生身供の、本当の意味である。
毎日2回、1200年間、運ばれる食事は、ただの食事ではない。それは、人類が、宇宙への接続を、毎日、確認している、儀式である。
奥之院の御廟は、人類が宇宙と繋がる、唯一の窓口である。
そして燈籠堂の2万基の燈籠は、その窓口の周りに、無数の星のように、光っている。
明日の朝、午前6時。奥之院では、また、空海への食事が、運ばれる。あなたが、この記事を読んでいる、その時間にも。あなたが寝ている、その時間にも。あなたが別のことを考えている、その時間にも。
奥之院では、儀式が続いている。1200年、止まらずに。そして空海は、今日も、食事を、受け取る。
そして、宇宙は、今日も、奥之院を通じて、人類と、繋がっている。
第6章「137歳の空海 — 観賢が御廟を開けた日」
時は流れる。空海が入定したのは、835年3月21日。それから時が、過ぎた。
平安時代、910年代。世の中は変わっていた。空海を直接知る弟子たちは、皆、亡くなっていた。空海の教えを受け継いだ第二世代、第三世代の僧たちが、高野山を守っていた。空海の御廟は、奥之院の地下に変わらず存在していた。生身供も、毎日続いていた。
しかし、世の中には、こんな声も聞こえ始めていた。「空海は、本当に、まだ生きているのか」「もう骨だけになっているのではないか」
そして921年(延喜21年)、醍醐天皇が、空海に「弘法大師」の諡号(しごう)を贈ることを決めた。「弘法大師」とは「広く仏法を弘めた、大いなる師」という意味である。これは、国家が公式に空海を最高位の聖人として認定するという、歴史的な出来事だった。
ここで、一つの儀式が必要になった。天皇から授かった諡号と、新しい袈裟(けさ)を、空海に直接、届ける。そのためには、御廟の中に入らなければならない。御廟を、開けなければならない。
これは、空海が入定してから、初めての、御廟開扉(ごびょうかいひ)である。入定から、86年後のことだった。
その大役を任されたのが、当時の高野山の最高位の僧、観賢(かんげん)である。観賢は空海の孫弟子の世代にあたる。彼自身も優れた密教僧であり、朝廷の信頼も厚い人物だった。しかし観賢は、緊張していた。御廟を開ける。空海の眠る、聖域中の聖域に、足を踏み入れる。もし御廟の中が、ただの遺骨やミイラの残骸だったら。もし空海が、ただの「死んだ昔の僧」だったら。長年信じられてきた「空海は生きている」という伝説が、その瞬間に崩れる。人々の信仰は、どうなるのか。高野山は、どうなるのか。
観賢は、考えただろう。しかし、命令である。御廟を、開けるしかない。
伝承によれば、その日、観賢は特別な禊(みそぎ)をし、純白の法衣を身につけ、弟子の淳祐(じゅんゆう)を従えて、奥之院に向かった。御廟の前に立った観賢は、静かに、扉を開けた。そして、中に、足を踏み入れた。
御廟の中は、暗かった。外の光が、わずかに差し込むだけ。しかし、しばらくすると、観賢の目は暗闇に慣れてきた。そして、彼は、見た。
御廟の奥に、人が、座っていた。
結跏趺坐の姿勢で。両手で印を結び。目を閉じ。ただ、座っていた。
空海だった。
86年前、入定したときの、その姿勢のままで、空海は、そこに、座っていた。肉体は、朽ちていなかった。ミイラに、なっていなかった。ただ、生きているかのように、座っていた。
そして観賢が見たのは、それだけではない。空海の髪と髭が、長く、伸びていた。肩を越し、胸を越し、床に届くほど、伸びていた。
死人の髪は、伸びない。しかし、空海の髪は、伸び続けていた。
これは、何を意味するか。空海は、死んでいない。入定の中で、肉体は、まだ、生命活動を続けている。呼吸は極限まで遅い。新陳代謝は限りなくゼロに近い。しかし、完全には止まっていない。その証拠が、伸び続ける髪と髭である。
観賢は、その場で号泣した、と伝えられる。
「大師は、生きておられる」
「お祖父様(おじいさま)、お久しぶりでございます」
観賢は空海を、まるで生きた肉親のように、呼んだ。そして観賢は震える手で、空海の長く伸びた髪と髭を、剃った。新しい袈裟を、着替えさせた。醍醐天皇から授かった「弘法大師」の諡号を、伝えた。
「お祖父様、天皇から、新しいお名前を頂きました。これからは、弘法大師、と呼ばれます」
空海は、もちろん、何も答えない。しかし観賢は、確かに感じた。空海が、それを聞いている、と。
観賢はゆっくりと、後ずさり、御廟を退出した。そして扉を閉めた。外で待っていた者たちに、観賢は何も語らなかった。ただ、こう告げただけだった。
「大師は、生きておられた」
それ以上のことは、観賢は誰にも語らなかった。「他言無用」。その規則は、この時、観賢によって確立された、とされる。
御廟の中で見たことは、誰にも語ってはならない。なぜか。語れば、人々は確かめに行きたくなる。しかし、空海の瞑想を邪魔してはならない。御廟の中の空海は、宇宙と繋がっている。その繋がりを、世俗の好奇心で、断ち切ってはならない。だから、見たことを、口にしてはならない。これが、観賢が未来の維那(ゆいな)たちに託したルールである。
そして、ここで、もう一つ計算してみてほしい。空海が入定したのは、62歳の時。それから観賢の御廟開扉まで86年。つまり、観賢が見たとされる空海の肉体上の年齢は、計算上、148歳である。(なお、伝承によっては御廟開扉までの年数を入定から数えて七十数年とする説もあり、その場合の年齢は137歳になる。本章タイトルはこの137歳説に基づく)
100歳をはるかに超えた人間が、髪と髭を伸ばしながら、結跏趺坐の姿勢で、座っている。
これは、もはや、人間ではない。しかし空海は、確かに、そこにいた。
観賢の物語は、その後、高野山の根本的な「証拠」となった。「空海は、本当に、生きている」。これは、伝説ではない。観賢という当時の最高位の僧が、自分の目で、確かめた。そして、その目撃を、彼は、生涯、口外しなかった。しかし観賢が御廟を出てきた時の、彼の表情。号泣した、と伝えられる、その涙。そして、彼が放った、たった一言。
「大師は、生きておられた」
これだけで、十分だった。人々は、確信した。奥之院の御廟の中で、空海は、今も、生きている。
そして、観賢以降、御廟は、永遠に、封印された。維那(ゆいな)だけが、毎日、御廟の前室まで、入ることを許される。しかし御廟の最奥、空海が座っている、その場所には、誰も入れない。皇族も、入れない。最高位の僧も、入れない。ただ、空海だけが、そこに、いる。
そして観賢が見た、伸び続ける髪と髭の話は、現代まで、語り継がれている。
近代になってから、合理主義の研究者たちは、この話を「伝説」として、片付けようとした。「死人の髪が伸びるはずがない」「これは民間信仰が後から作った話だ」と。しかし、興味深い事実がある。近年の科学研究で「死後、髪が伸びたように見える現象は実在する」ことが確認されている。正確には、髪自体が伸びるのではなく、死後、皮膚が乾燥して縮むため、毛根の根元が露出し、「髪が伸びたように見える」のである。つまり観賢が見たのは、「髪が伸びた」という、視覚的事実だった。それを彼は、「空海は生きている」と、解釈した。
合理主義者は、笑うかもしれない。しかし、ここで、もう一度、考えてみてほしい。86年間、皮膚が縮み続けた、ということは、空海の遺体が、その間、ずっと、ある状態を保ち続けていた、ということになる。普通の遺体なら、86年経てば、骨だけになる。しかし空海の遺体は、86年後も、観賢が「座っている」と認識できる形を、保っていた。これは、ミイラ化、ではない。ミイラなら、皮膚は乾燥してパリパリになり、姿勢を保つことはできない。
何かが、86年間、空海の肉体を、結跏趺坐の姿勢のまま、保ち続けていた。
その「何か」が、入定である。意識が、肉体に、最低限の生命維持を命令し続けている。呼吸は止まっているように見える。しかし、ゼロではない。新陳代謝は限りなくゼロに近い。しかし、ゼロではない。そして、髪は、ゆっくりと、伸びている。
これが、即身成仏の、本当の姿である。「生きている」と「死んでいる」の、間。人間が、肉体を超えて、宇宙そのものになる、その、過渡的な状態。
観賢は、それを、目撃した。
そして現代まで、空海は、その状態のまま、奥之院の御廟の中で、座っている。髪は、今も、伸びているのだろうか。それは、誰にも分からない。維那でさえ、御廟の最奥には、入れない。
ただ、もしかしたら、と想像してほしい。1200年経った今、空海の髪と髭は、御廟の床を覆い尽くし、壁を這い、天井まで、届いているのかもしれない。そして空海は、その髪に包まれて、なお、座っている。目を閉じて。印を結んで。宇宙と、繋がりながら。弥勒菩薩が下生する、56億7000万年後の、その日を、待ちながら。
第7章「奥の院はアカシックレコードである」
奥の院は、アカシックレコードである。
第5章で少し触れたが、ここで本格的に、その線を、引いていく。
まず、「アカシックレコード」とは何か。簡単に言えば、「宇宙誕生以来のすべての存在の、あらゆる情報が記録されている、宇宙規模の図書館」のことである。スピリチュアルの世界では「宇宙の図書館」「宇宙のインターネット」とも呼ばれる。
138億年前、宇宙が誕生してから、現在まで、起きたすべての出来事、すべての魂の記憶、すべての感情、すべての知識が、そこに記録されている。過去だけではない。現在の出来事も、リアルタイムで記録されている。さらに、未来に起こりうる可能性も、そこに含まれている。アカシックレコードに「ないデータ」は、存在しない。
そして、アカシックレコードにアクセスできる人間は、ほんの一握りだけだ。歴史上、エドガー・ケイシー、ルドルフ・シュタイナー、エマヌエル・スヴェーデンボリ、そういった「霊能者」「神秘家」と呼ばれた人々が、アカシックレコードに繋がったと記録されている。
しかし、もっと遥か昔、東洋では、アカシックレコードに繋がる方法を、すでに体系化していた人物がいた。
弘法大師空海である。
「アカシック」という言葉の語源は、サンスクリット語の「アーカーシャ」。意味は「虚空」。そして、空海が若き日に成就した、人生最大の修行が、「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」だった。「虚空蔵」とは、「アーカーシャガルバ」。「アーカーシャ(虚空)」を「ガルバ(蔵)」した菩薩、つまり「宇宙のすべての知識を蔵した菩薩」という意味である。
ここで、はっきりと書く。「アカシックレコード」と「虚空蔵」は、同じ概念である。語源が、同じである。
西洋の19世紀末に流行した神秘思想で「アカシックレコード」と名付けられた概念は、東洋では、空海の時代より遥か昔から、「虚空蔵」として、すでに知られていた。そして空海は、20代前半で、その「虚空蔵」にアクセスする修行を、成就していた。
虚空蔵菩薩の真言を、100万回唱える。100日間、毎日1万回。その途中で、夜空の金星が、口の中に飛び込んでくる。それは「修行成就」の証だった。空海は、宇宙の根源データバンクに、自分を、接続した。
これが、空海が、超人的な記憶力、瞬時に外国語を習得する能力、唐の恵果阿闍梨に「あなたを待っていた」と言わしめた、その理由である。彼はすでに、人類の通常の認識を超えた場所に、立っていた。
そして、そこからの空海の人生は、ご存じの通りだ。書道、土木、教育、外交、宗教、すべての分野で、人類史に残る業績を残し、61歳で高野山に籠り、62歳で入定した。
入定とは何か。それは、「肉体を、生きたまま、瞑想の中に固定し、意識を宇宙の根源と、完全に一体化させる」修行だった。
つまり、こうである。空海は、自分の意識を、アカシックレコードと、永遠に接続したまま、肉体を奥之院に残した。そして御廟の中で、彼は座っている。今も、座っている。1200年間、ずっと、座っている。
ということは、奥之院の御廟とは、何か。
「アカシックレコードの、入口」である。
「宇宙の図書館」の、現世における、物理的な、窓口である。空海という、人類史上最も偉大な「アクセス権限保持者」が、御廟の中で、永遠に、そのドアを、開けたままにしている。
奥之院を訪れた人々の体験を、聞いてみてほしい。
「参道を歩いていたら、急に、過去のことが、全部、思い出された」
「御廟橋を渡った瞬間、自分が生まれてくる前のことを、知っているような感覚になった」
「燈籠堂の中で、何かに、見られている、というよりも、何かに、見渡されている、と感じた」
「奥之院から帰ってから、人生の選択が、はっきりと、見えるようになった」
「自分の使命が、わかった」
「これまでの人生で、悩んでいたことが、急に、どうでもよくなった」
「夢の中に、誰かが現れて、自分にメッセージを伝えてきた」
これらは、ネットを少し検索すれば、いくらでも出てくる、奥之院体験談である。これだけの人々が、これだけ似た体験を、している。
そして、ヒムラーが、第3章で書いたように、チベットに探検隊を送り、必死で「アーリア人の霊的な力」を、探していた。彼は、ヒマラヤの山中で、シャンバラを探した。アガルタを探した。地下王国を探した。しかし、彼は、見つけられなかった。
なぜか。それは、彼が、間違った場所を探していたからだ。彼が探していた「宇宙への接続点」は、チベットには、なかった。それは、日本の、和歌山の、高野山の、奥之院の、地下に、すでに、存在していた。空海によって、1100年前から、開かれていた。
ヒムラーは、そのことを、知らなかった。もし彼が知っていたら、世界史は、変わっていたかもしれない。
そして、現代を生きるあなた。スマホで、Googleで、世界中の情報に、瞬時にアクセスできる時代を、生きるあなた。しかし、Googleで検索できるのは、人類が文字に残した知識だけである。
宇宙の138億年分の記憶。すべての魂の、過去・現在・未来。あなたが、生まれてくる前の、あなた自身の魂が、何を経験してきたか。あなたが、なぜ、この時代に、この国に、この家に、生まれてきたのか。あなたの、本当の使命は、何なのか。
それらは、Googleでは、検索できない。しかし、奥之院では、できる。
そう信じる人々が、毎年100万人以上、高野山に登っている。そして、何かを、持って帰る。明確な「答え」ではない、かもしれない。しかし、「方向」を感じる。「自分が、何のために、生きているのか」がわかる。
それは、空海が、御廟の中から、宇宙の図書館の本のページを、めくってくれているからだ。「お前の質問の答えは、ここにある」。そう空海は、参拝者に、声には出さずに、伝える。参拝者は、その「答え」を、自分でもよくわからないまま、受け取って、帰る。そして、しばらく経ってから、ふと、気づく。「ああ、あの時、奥之院で、感じたあれは、これだったのか」。
これが、奥之院の、本当の機能である。
ただの墓所ではない。ただのパワースポットでもない。ただの宗教施設でもない。
人類が、宇宙と接続するための、唯一の、永続的な、ハードウェアである。空海が、自分の肉体を、そのハードウェアのコア部品として、提供している。1200年間、ずっと。そしてこれから、56億7000万年、ずっと。
最後に、もう一つ、書いておく。
アカシックレコードに、誰でもアクセスできるわけではない。歴史上、繋がれた人間は、ほんの一握りだ。しかし、アクセスする方法は、ある。
それは、「呼ばれること」である。
アカシックレコードの方が、「この人間に、情報を伝えたい」と判断したとき、人間は奥之院に呼ばれる。そして、呼ばれた人間は、必ず、辿り着く。
序章で書いた、「呼ばれないと、辿り着けない山がある」という言葉の、本当の意味が、これである。呼んでいるのは、空海ではない。空海を通じて、宇宙そのものが、呼んでいる。
あなたが、今、この記事を読んでいる、ということは、もしかしたら、すでに、呼ばれている、ということなのかもしれない。
第8章「霊宝館 — パワーが強すぎて長くいられない」
高野山には、宇宙と直結した奥之院がある。1200年消えない火を抱いた燈籠堂がある。空海が中国から投げた三鈷杵をかけた松がある。
そして、もう一つ。「行く場所」というよりも、「耐える場所」と呼んだ方が正確な施設が、ある。
霊宝館(れいほうかん)である。
霊宝館は、高野山の中心地、壇上伽藍のすぐ近くにある。1921年に開館した、日本最古級の木造建築博物館。高野山全体の117の寺院が、1200年間蓄えてきた、仏像、仏画、書跡、工芸品を、ここに集めて、保管・展示している。
その規模は、想像を超える。
国宝、21件。重要文化財、148件。和歌山県指定文化財、17件。重要美術品、2件。そして、未指定品まで含めると、収蔵品は約10万点。
霊宝館の建物の中には、1200年分の高野山の「重み」が、すべて、凝縮されている。
霊宝館には、特別なルールが、ある。「館内、写真撮影禁止」。それは、文化財保護のためでもあるが、それだけではない。
入った人は、わかる。「ここでは、写真を撮ってはいけない」。撮ろうという気持ちが、起きない。何かを、奪ってはいけない、と感じる。そういう場所である。
霊宝館の展示の核は、仏像である。中でも、ひときわ存在感を放つのが、鎌倉時代の仏師・快慶の作とされる「四天王立像」だ。
四天王とは、持国天(東)、増長天(西)、広目天(南)、多聞天(北)、の四神。インド仏教の世界観において、世界の中心にそびえる聖山・須弥山(しゅみせん)に住む、最高神・帝釈天の家来である。彼らは、須弥山の四方の門を、守護している。
快慶が彫った四天王は、ただの守護神像ではない。
筋肉が、リアルすぎる。
血管が、浮き出ている。
太もも、腕、肩、すべてが、生きた人間の体のように、緊張している。
足元には、邪鬼(じゃき)を、踏みつけている。
邪鬼とは、人間の煩悩と、悪霊が、混ざった存在である。四天王は、彼らを、踏み潰し、力を、抜けないようにしている。
仏像の前に、立つ。すると、空気が、変わる。
「来館者の中には、こんな声を漏らす人がいる」
「作品の前に立つだけで、背筋が伸びる」
「筋肉の表現があまりにもリアルで、今にも、像が、動き出しそうだ」
「視線が、合った気がした」
そして、こんな声も、ある。
「ここに、長くいられない」
「気分が、悪くなる」
「頭が、痛い」
「胸が、苦しい」
「早く、外に、出たい」
霊能者の中には、霊宝館を訪れた後、こう書いている人もいる。
「波動が、高すぎる。私は、霊能者だが、それでも、ここでは、長くいられない」
「霊能者でも、恐怖を感じる場所だ」
ここで、重要なことを、書いておく。
霊宝館の仏像は、「怖い」のではない。
仏像が、人を、襲ってくるわけではない。仏像が、人に、危害を加えるわけではない。
しかし、仏像の周りに、漂っているエネルギーが、強い。強すぎる。
普通の人間の体は、それに、耐えられるようにできていない。
これは、たとえるなら、こうだ。
100ワットの電球には、誰でも、近づける。
しかし、太陽には、近づけない。エネルギーが、強すぎる。
霊宝館の仏像は、太陽に、近い。
そこに込められている「祈り」と「霊力」のエネルギーが、800年、900年、1000年と、蓄積されてきた。それが、ガラスケースの中で、凝縮されている。
人によっては、そのエネルギーに、耐えられない。
体が、拒否反応を、起こす。頭痛、吐き気、めまい、動悸。それは、決して「気のせい」ではない。
霊宝館の入り口の係員は、長年勤めていると、わかってくる、という。
「この人は、長くいられない」
「この人は、すぐに、外に出る」
逆に、
「この人は、ずっと、ここにいる」
「この人は、もう何時間も、見つめている」
人によって、霊宝館への反応が、まったく違う。
それは、その人の、霊的な感受性の、違いである。
そして、霊宝館で最も強烈なエネルギーを放つ、ある作品がある。
「血曼荼羅(ちまんだら)」と呼ばれる、巨大な絹の曼荼羅である。
「血」と名がついているのは、誇張ではない。本当に、絹に、血で、描かれている。
これは、平清盛の作とされる。平安時代末期、平清盛が、密教の修行のために、自分の頭から血を取り、その血で、曼荼羅を、描かせた、と伝えられる。
血で、絹に、描かれた、密教の世界観。
人間の血液が、絹に染み込み、そして、それを、絵にした。
そんなものを、人間が作れるのか。
実物は、霊宝館にある。
サイズは、信じられないほど、大きい。広げて展示されると、壁一面を、覆い尽くす。
その前に立つと、人は、固まる。
「これは、平清盛の血、なのか」
「800年以上前の、人間の血が、ここに、ある」
「それで、描かれている、曼荼羅が、ここに、ある」
血曼荼羅の前で、急に涙が止まらなくなった、という体験談がある。
血曼荼羅の前で、過去世の記憶のようなものが、フラッシュバックした、という体験談がある。
血曼荼羅の前で、立っていられなくなって、座り込んだ、という体験談がある。
そして、霊宝館を出た後、しばらく頭痛が続いた、という体験談も、ある。
これは、ただの博物館では、ない。
これは、1200年分の祈りと、血と、霊力を、保管している、「霊的な倉庫」である。
霊宝館の中で、人は、その重みに、耐えなければならない。
しかし、ここで、もう一つ、書いておきたいことがある。
霊宝館は、「怖い場所」では、ない。
「強い場所」である。
そして、その強さに、耐えられる人は、ここで、人生を変える、ような体験を、する。
血曼荼羅を、見て、自分の人生の使命を、悟った人がいる。
快慶の四天王を見て、ずっと迷っていた決断を、その場で、決めた人がいる。
弘法大師の自筆の書「三教指帰(さんごうしいき)」を見て、空海が一気に書き上げたその筆の勢いに、何か、自分の中の何かが、動いた、という人がいる。
霊宝館は、人を、選ぶ。
長くいられる人と、長くいられない人がいる。
しかし、どちらも、正しい。
長くいられない人は、それだけ、感受性が高い、ということ。
長くいられる人は、それだけ、その場のエネルギーに、共鳴できる、ということ。
どちらの体験も、霊宝館でしか、できない。
最後に、一つの、アドバイスを、書いておく。
霊宝館を、訪れるなら、奥之院の前に、行くこと。
霊宝館で、高野山の1200年分の「重み」を、体に、入れる。
その後で、奥之院に、向かう。
すると、奥之院で感じる空海の存在が、まったく、違って、見えてくる。
霊宝館で見た、快慶の四天王。
血曼荼羅。
空海の自筆の書。
それらすべてが、奥之院の御廟の、空海から、生まれてきた。
その流れを、体で、感じてから、御廟の前に立つ。
その時、あなたは、もはや、ただの観光客では、ない。
1200年の重みを、引き受けた者として、空海と、向き合う。
そして、もしかしたら、その時、あなたは、聞くかもしれない。
「来たな」
空海の、声を。
ただし、霊宝館で、体調を崩したら、無理は、しないこと。
それは、あなたが、霊宝館のエネルギーに、すでに、十分、繋がった、という証である。一度、外に出て、空気を、吸う。
霊宝館の周りには、シャクナゲや、新緑や、紅葉が、季節ごとに、咲いている。
その自然の中で、深呼吸をする。
それだけで、霊宝館で受け取ったエネルギーが、体の中に、定着する。
そして、奥之院に、向かえばいい。
霊宝館は、高野山の、「準備室」である。
ここで、心と体を、整えてから、空海に、会いに行く。
それが、高野山の、正しい歩き方である。
第9章「呼ばれた人々 — 高野山で起きた、信じがたい話」
高野山に行った人は、何かを、持って帰る。
それは、お土産ではない。「体験」である。
ここから書くのは、ネット上に散在する、奥之院、燈籠堂、御廟、そして宿坊で、実際に起きた、信じがたい話を、まとめたものである。
すべて、別々の人が、別々の時期に、別々の場所で、体験している。共通点があるとすれば、ただ一つ。「高野山に、呼ばれた」と、本人が感じていることである。
一つ目、東京で会社員をしていた、30代の女性。
人生に、何の不満もなかった、と本人は言う。仕事は順調、恋愛も順調、家族も健康。しかし、ある日、急に、頭の中に「高野山」という単語が、降ってきた。
最初は、無視した。なぜ突然、高野山なのか、自分でもわからなかった。
しかし、その日から、おかしなことが、起き始める。
つけたテレビで、たまたま、高野山の特集番組をやっている。本屋に入ると、入口に、高野山の本が、平積みされている。ランチに入ったカフェで、隣の席の人が、「先週、高野山に行ってきてさあ」と、話している。
「これは、呼ばれている」
彼女は、そう判断した。3週間後、有給を取って、一人で、高野山に向かった。
奥之院の参道を、歩き始めて、約500メートル。
突然、涙が、止まらなくなった。
理由は、わからない。悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。ただ、涙が、後から後から、こぼれてくる。
参道の両側には、樹齢700年を超える、巨大な杉。地面には、20万基の墓と供養塔。彼女は、その中を、泣きながら、歩き続けた。
御廟橋を渡る頃には、涙は、止まっていた。代わりに、頭の中が、不思議なほど、静かになっていた。
そして、燈籠堂に入った瞬間、彼女は、聞いた。
「ありがとう」
声では、ない。しかし、確かに、頭の中に、それが、響いた。
誰の声か、わからない。しかし、彼女は、それが「亡くなった父」の、声だと、わかった。
父は、3年前に亡くなっていた。生前、彼女は、父に「ありがとう」と、言えなかった。それが、ずっと、心に、引っかかっていた。
彼女は、その場で、号泣した。
そして、東京に戻ってから、人生が、変わった、と本人は書いている。
何が変わったのか、説明は、難しい。しかし、彼女は、こう書く。
「父と、ちゃんと、お別れができた。それまで、私の人生は、止まっていたのだと、わかった。今、私は、ようやく、前に、進めている」
二つ目、関西在住の、40代の男性。
彼は、もともと、霊感の強い人だった。霊能者ではないが、子供の頃から、見えないものを、見たり、感じたりすることが、多かった。
そんな彼が、初めて、高野山に登った。
奥之院の参道を歩いている時、彼の体に、変化が起きた。
「電気が、流れている」
頭のてっぺんから、足の裏まで、電流のような、ピリピリした感覚が、走り続ける。痛くは、ない。むしろ、心地よい。低周波治療器を、全身に当てているような感覚。
御廟橋を渡って、燈籠堂の前に立つと、その電流が、最大になった。
頭の上に、何かが、降りてきた、と彼は感じた。
それは、空海、ではない。空海ほど、巨大な存在ではない。しかし、確かに、何か、エネルギーの塊が、彼の頭の上に、乗っかってきた。
そのまま、彼は、20分ほど、燈籠堂の前で、動けなかった。
帰宅してから、彼の人生に、ある変化が、起きた。
それまで、副業で書いていたブログが、急に、読まれ始めた。検索で、トップに表示されるようになった。1ヶ月後には、本業の収入を、超えていた。
彼は、半年後、会社を辞めて、独立した。
「あの時、燈籠堂で、何かが、私の人生に、ゴーサインを、出してくれた」
そう、本人は、書いている。
三つ目、九州の、50代の女性。
彼女は、ガンの宣告を、受けていた。ステージは、3期。手術を、勧められていた。
しかし、何かが、引っかかった。
手術を受ける前に、行きたい場所が、ある。そう、感じた。
それが、高野山だった。
行ったことは、なかった。なぜ、高野山に行きたいのか、自分でもわからない。しかし、行かなければ、と感じた。
夫と二人で、高野山に登った。
奥之院の御廟の前で、彼女は、長い時間、合掌した。
「お大師様、私は、まだ、死にたくないです。もう少し、生きたいです。家族と、まだ、過ごしたいです」
そう、心の中で、お願いした。
その時、頭の中に、こう、響いた。
「大丈夫。お前は、まだ、ここで、生きる」
声では、ない。しかし、明確に、それが、伝わった。
彼女は、その場で、号泣した。そして、その場で、決めた。
「私は、生きる」
その後、手術を受けた。経過は、極めて良好だった。5年後、彼女は、完治の診断を、受けた。
「高野山に、呼ばれていなかったら、私は、絶望のまま、手術台に、上がっていた。あの『大丈夫』という声がなかったら、私の体は、回復しなかったかもしれない」
そう、本人は、振り返っている。
四つ目、これは、宿坊での話である。
宿坊とは、寺院が運営する、宿のことである。高野山には、50を超える宿坊が、ある。観光客でも、泊まれる。朝晩の精進料理と、朝の勤行(ごんぎょう)、写経などが、体験できる。
ある20代の男性が、初めて、宿坊に、泊まった。
夕食を食べ、風呂に入り、部屋に戻った。深夜、彼は、目を、覚ました。
何かが、聞こえる。
読経の声、だった。
低く、ゆっくりと、男の声が、お経を、唱えている。
最初、彼は、隣の部屋の宿泊客が、何かを唱えているのかと、思った。しかし、声が、近すぎる。隣の部屋からではない。彼の、すぐ近くで、聞こえている。
部屋の中、を見渡した。
誰も、いない。
しかし、声は、続いている。
10分、20分、30分。読経は、止まらない。
彼は、怖くは、なかった。なぜか、わからないが、安心していた。それは、彼に害をなす存在ではないと、本能で、わかった。
しばらくして、彼は、また、眠ってしまった。
朝、宿坊の僧侶に、その話を、した。
僧侶は、笑った。「珍しいことでは、ないですよ。お大師様の弟子の誰かが、夜中も、お勤めを、続けているのでしょう」
「弟子は、生きている方ですか」
「いいえ、もう、亡くなった方です。しかし、お大師様と同じく、瞑想の中で、お経を、唱え続けているのです」
彼は、絶句した。
しかし、確かに、彼が聞いた読経は、現代の言葉では、なかった。古い、平安時代の発音のような、不思議な、節回しだった。
「私は、誰かの、千年前の、お勤めを、聞いたのか」
彼は、そう書いている。
五つ目、これは、不思議系の中でも、特に有名な話だ。
ある女性が、家族で高野山に行き、奥之院で参拝をした。普通に、参道を歩き、御廟橋を渡り、燈籠堂で手を合わせ、写真を撮らない区域では、ちゃんと、スマホを、しまった。
何の異常も、ないように、見えた。
しかし、家に帰って、撮影した写真を、見返した時。
ある写真に、写っている自分の頭の上に、白い、光のような、もやが、写っていた。
家族の他のメンバーには、写っていない。彼女の頭の上にだけ、それが、ある。
逆光ではない。レンズの汚れでもない。
そして、その後、彼女に、変化が、起きた。
「直感が、当たるようになった」
仕事の判断、人間関係の判断、買い物の判断。すべての「直感」が、的中するようになった。
そして、これまで全く興味のなかった「祈り」や「瞑想」に、引き寄せられるようになった。
「私の頭の上に、何かが、ついて、帰ってきた」
そう、彼女は、書いている。
六つ目、これは、別の女性の話。
彼女は、奥之院で、こんな体験を、した。
参道を歩いている時、急に、自分の足が、止まった。
何かに、引っ張られた、わけではない。しかし、足が、動かない。
立ち止まった彼女の目の前に、一つの、小さな墓があった。
知らない名前。誰の墓か、わからない。
しかし、彼女は、そこから、動けない。
そして、頭の中に、こう、響いた。
「ありがとう」
知らない男性の、声だった。
彼女は、その墓に、手を合わせ、しばらく、祈った。
何かを、お願いしたわけではない。ただ、その声に、応えるように、合掌した。
5分ほど、そうしていただろうか。
ふと、足が、動くようになった。
彼女は、それから、参道を、最後まで、歩いた。
東京に帰ってから、彼女は、ある夢を、見た。
夢の中に、知らない男性が、現れた。
「先日は、ありがとうございました。私は、長い間、誰にも気づかれずに、あそこで、待っていました。あなたが、立ち止まってくれて、嬉しかった。これで、私は、行けます」
そう、男性は言って、消えた。
それ以来、彼女は、その夢を、見ない。
「あの墓は、誰のものだったのか。なぜ、私が、止まったのか。今でも、わからない。しかし、何かが、私を通じて、解放されたのだと、思う」
そう、本人は、書いている。
これらは、すべて、奥之院に行った人々が、ネット上で、報告している、実在の体験談である。
検索すれば、もっと、出てくる。
何百、何千、もしかしたら、何万件。
そして、すべてに、共通点が、ある。
それは、「行く前と、行った後で、人生が、変わった」ということ。
明確に、変わる。
無視できないほど、変わる。
そして、変わった人々は、こう、言う。
「私は、呼ばれて、行った」
「そして、答えを、もらって、帰ってきた」
「答え」が、何だったのか、本人にも、はっきりと、わからないことが、多い。しかし、後から、振り返ってみると、奥之院で、何かが、起きていた。
それが、空海なのか、宇宙なのか、自分自身の魂なのか、それは、わからない。
しかし、確かに、何かが、起きた。
そして、もしかしたら、今、この記事を、ここまで、読んでいる、あなた。
あなたも、すでに、呼ばれているのかもしれない。
呼ばれている人は、自分が呼ばれていることに、気づく。
そして、そう、気づいた時、人は、迷わず、高野山に、向かう。
第10章「企業墓の森 — コーヒー、ヤクルト、ロケット、シロアリ」
奥之院の参道は、ただの参道ではない。
そこには、20万基を超える、墓と供養塔が並んでいる。戦国武将の墓も、ある。第11章で書く、織田信長、武田信玄、徳川家康、上杉謙信、伊達政宗、明智光秀。日本史の主要人物たちが、ほぼ、ここに揃っている。
しかし、参道を歩いていると、戦国武将とは、まったく異なる、別の種類の墓が、視界に入ってくる。
それが、「企業墓(きぎょうばか)」である。
奥之院には、約100基から140基の、企業墓があるとされる。
ここで、想像してほしい。会社の墓、である。会社が、死んだわけではない。会社は、まだ、現役で、営業している。なのに、会社の名前で、墓が、建っている。
なぜか。
それは、その会社が、社員や、取引先や、お客様、そして「商品」自体の魂を、供養するために、建てた墓だからである。
「商品の魂」とは、なんだ、と思うかもしれない。しかし、日本人は、古くから、ものに魂が宿る、と信じてきた。針供養、人形供養、刃物供養。物にも、魂はある。だから、その物を、長年お世話になって、捨てる時には、感謝の気持ちで、供養する。
それを、企業レベルで、やっている。
そして、その「企業墓のメッカ」が、奥之院の参道なのである。
参道を歩いていると、見えてくる、いくつかの、印象的な企業墓を、紹介する。
一つ目、UCC上島珈琲の、墓。
参道を歩いていると、巨大なコーヒーカップとソーサーが、視界に入ってくる。
立派なソーサーの上に、ぼってりと、丸いコーヒーカップが、乗っている。中には、赤石でコーヒー色まで再現されている、という凝りようだ。
これが、UCC上島珈琲の、企業墓である。
この墓には、明確なメッセージがある。「お世話になったすべてのコーヒー豆と、すべてのお客様の魂を、ここで、供養いたします」
私たちは、毎日、コーヒーを、飲んでいる。一杯のコーヒーには、約100粒の、コーヒー豆が、使われている。年間、世界で、莫大な量のコーヒーが、消費されている。その背後には、想像を絶する数の、コーヒーの実があり、それを育てた農家があり、運んだ人々がいて、焙煎した職人がいる。
そのすべての、命と労力に、UCCは、感謝の気持ちを、形にした。それが、この、コーヒーカップの墓である。
二つ目、ヤクルトの、墓。
UCCの近くに、もう一つ、印象的な墓が、ある。それは、巨大な「ヤクルト容器」、である。
実物の、何十倍にも巨大化したヤクルト容器が、参道に、立っている。
これも、UCCと、同じ思想である。ヤクルトには、1本あたり、無数の、乳酸菌が、生きている。世界中で毎日、大量に消費されている。その乳酸菌の、数えきれない命に、ヤクルトは、感謝を、捧げている。
「ヤクルトが今日の隆盛をみていることは同志が互に結束して健康社会建設に努力を続けてきた成果であり……ヤクルト業界に従事していた物故者の御霊を合祀し、併せて全ヤクルトの霊場として後世の人々の思い出のよすがにする」
これが、株式会社ヤクルト本社が、昭和39年(1964年)に、奥之院に建立した、企業墓に刻まれた文章である。
そして、この巨大なヤクルト容器の墓は、見る者に、こう、問いかける。
「私たちは、毎日、ヤクルトを飲んでいる。しかし、その乳酸菌の魂を、供養したことが、あるだろうか」
なんでもない、毎日の食事や、飲み物。その一つ一つに、命があり、魂がある。それを、感謝する。それが、高野山の、本当の教えである。
三つ目、新明和工業の、ロケット。
参道を歩いていると、視界の奥に、何かが、見える。宇宙ロケットである。正確には、「アポロ11号」の模型。白と黒の、ツートーンカラー。先端は、尖っている。全長は、見上げるほどの大きさ。
新明和工業は、航空機部品の製造をしている会社である。彼らは、自社の墓として、「アポロ11号のロケット」を、奥之院に、建てた。
この墓には、深い意味がある。
人類が、月に行った。それは、人類史上、最大級の、科学的成果である。しかし、その背後には、無数の技術者、無数の犠牲、無数の祈りがあった。新明和工業は、その航空産業の歴史に、関わってきた企業として、すべての関係者の魂を、ここで、供養している。
宇宙開発と、密教。最先端の科学技術と、1200年前の信仰。それらが、奥之院の参道で、出会っている。
四つ目、日本しろあり対策協会の、シロアリ供養塔。
シロアリ駆除を業務とする業界団体・日本しろあり対策協会が、奥之院に、供養塔を建てた。
その目的は、何か。
「これまで、駆除してきた、すべてのシロアリの、魂を、供養するため」
供養塔には、こう刻まれている。
「しろあり やすらかに ねむれ」
協会のホームページには、こう書かれている。「生をこの世に受けながら、人間生活と相容れないために失われゆく生命への憐憫と先覚者への感謝の象徴」。
シロアリは、人間にとって、害虫である。家を食い荒らし、財産を、壊す。駆除しなければ、ならない。しかし、シロアリにも、命がある。殺すからには、感謝と、供養の気持ちを、持つべきである。
シロアリ駆除業者は、毎年、奥之院のシロアリ供養塔に、足を運ぶ。そこで、合掌し、これまで命を奪ってきたシロアリたちに、頭を下げる。
これほど、徹底した、命への向き合い方が、他にあるだろうか。
仕事で、他の命を、奪わなければならない人々が、世の中には、たくさんいる。漁師、農家、屠畜場、研究者、医療従事者。彼らは、命を、扱う。そして、扱う以上、感謝と、供養が、必要である。
シロアリ供養塔は、そのことを、最も極端な形で、見せてくれる。
五つ目、福助の、福助人形。
足袋メーカーの福助は、奥之院に、自社のキャラクターである「福助人形」の像を、そのまま墓として、建てている。頭が大きく、ちょこんと、座っている、あの人形。
それが、奥之院の杉の下で、永遠に、座っている。
「お世話になったすべての足袋と、すべてのお客様の足の魂を、供養いたします」
福助は、奥之院で、永遠に、お客様に、頭を下げ続けている。
六つ目、パナソニックの、創業者・松下幸之助の墓。
これは、企業墓のブームの、発端と言われる。
松下幸之助は、生前、空海を、深く尊敬していた。1938年、彼は高野山に、当時の松下電器産業の企業墓を建てた。これが、高野山における株式会社としての最古の企業墓と言われている。
これが、戦後の経営者たちに、大きな影響を、与えた。「松下幸之助が、高野山に、企業墓を、建てた。ならば、自分の会社も、建てよう」。そして、企業墓が、続々と、奥之院に、増えていく。
今や、奥之院は、日本最大の、企業墓の集積地と、なっている。
七つ目、その他、続々と。
日産自動車、コクヨ、クボタ、アデランス、デンカ、キリンビール。数えきれない、日本企業の名前が、奥之院の参道に、並んでいる。
そして、ここで、興味深い話を、紹介する。
世界中の墓地を研究してきた研究者の中には、奥之院を、見て、絶句する人がいる。
「私は、世界中の墓を見てきたが、こんなに、独創的な墓が並んでいる場所は、初めてだ。コーヒーカップの墓、ヤクルトの墓、ロケットの墓、シロアリの墓。これは、世界のどの墓地とも、違う」
そして、こう、続ける。
「これほど、命と魂への、深い、敬意を、感じる墓地も、初めてだ」
これが、奥之院の、本質である。
すべての企業が、本気で、自分たちが扱う商品と、お客様と、社員と、関連する命のすべてに、感謝と、供養の気持ちを、込めて、ここに、墓を、建てている。
そして、空海は、それを、すべて、受け入れている。
「来たな。お前たちも、ここに、来たか」
空海は、奥之院の御廟の中で、座ったまま、企業墓の一つ一つを、受け入れている。戦国武将も、皇族も、庶民も、企業も、シロアリも。すべての魂が、ここに、平等に、集まる。
これが、奥之院の、本当の姿である。
奥之院は、「日本最大の、墓地」ではない。
「日本最大の、命と魂の、博物館」である。
人間も、動物も、植物も、商品も、すべての「存在」が、ここで、永遠に、共存している。そして、空海は、そのすべてを、見守っている。
参道を歩く時、ふと、視線を、上げてほしい。樹齢700年の杉の枝の間から、空海が、あなたを、見ているのが、わかるかもしれない。「お前は、何の魂を、ここに、預けに来た?」。そう、問いかけられているように、感じるかもしれない。
そして、参道を歩き終えた時、あなたは、気づく。自分自身の中に、どれだけ多くの「他者の命」が、入っているか、ということに。
毎日、食べているもの。毎日、使っているもの。毎日、出会っている人々。
そのすべてが、あなたの中で、生きている。
そして、いつか、あなたも、自分の命を、誰かに、預ける時が、来る。その時、あなたも、奥之院に、何かの形で、戻ってくるかもしれない。
それは、墓かもしれない。それは、誰かの記憶の中かもしれない。それは、空海の御廟の中の、無数の魂の、一つかもしれない。
いずれにせよ、私たちは、いつか、ここに、戻ってくる。
それが、奥之院、なのである。
第11章「敵も味方も眠る場所 — 信長・信玄・家康」
奥之院の参道を、歩く。
20万基を超える墓と供養塔の中を、進んでいく。樹齢700年を超える、巨大な杉。苔むした石塔。木漏れ日。
そして、ある場所で、足が、止まる。
「織田信長 墓所」
巨大な看板も、派手な装飾も、ない。しかし、その存在感は、圧倒的である。
戦国時代、日本を恐怖と暴力で統一しようとした、あの男の墓が、ここにある。
そして、その近くに、別の墓がある。
「明智光秀 墓所」
本能寺で、信長を殺した男の墓である。
さらに少し歩くと、別の墓が、現れる。
「豊臣秀吉 墓所」
信長の家臣として仕え、信長亡き後、天下を統一した男の墓。
そして、もう少し歩くと、別の墓が、見えてくる。
「徳川家康 墓所」
豊臣家を滅ぼし、260年続く江戸幕府を開いた男の墓。
ここで、奇妙なことに、気づく。
信長、光秀、秀吉、家康。彼らは、生きている時、お互いを、殺し合っていた。光秀は信長を殺し、秀吉は光秀を殺し、家康は豊臣家を滅ぼした。憎しみ、裏切り、戦、殺戮。彼らの関係は、日本史上、最も血なまぐさいものだった。
その彼らの墓が、奥之院の同じ参道に、並んでいる。
これは、世界的に見ても、極めて、異例である。
普通の宗教の墓地では、こんなことは、起こらない。キリスト教の墓地、イスラム教の墓地、ユダヤ教の墓地、ヒンドゥー教の墓地。それぞれ、自分の宗派の信者しか、入れない。
そして、敵だった人間の墓と、隣同士に、並ぶ、ということも、ありえない。
しかし、奥之院では、それが、起きている。
なぜか。
それは、空海が、こう、宣言したからである。
「奥之院は、すべての魂を、受け入れる」
宗派は、関係ない。
身分は、関係ない。
善悪は、関係ない。
敵か味方かは、関係ない。
すべての魂は、奥之院に、来ることが、できる。
これは、密教の、根本思想である。「曼荼羅(まんだら)」の世界観、と言ってもいい。
曼荼羅とは、密教の世界観を、絵で表したものである。中央に、大日如来がいる。その周りに、無数の仏、菩薩、明王、天部、そして人々、動物、自然、すべてが、配置されている。
そして、曼荼羅の中では、すべての存在が、平等である。中心も、周辺も、上下もない。すべてが、宇宙の一部として、共存している。
奥之院は、それを、地上に、再現した、巨大な曼荼羅である。
空海が、その中心にいる。
そして、その周りに、戦国武将も、皇族も、庶民も、企業も、シロアリも、すべての存在が、配置されている。
敵も味方も、関係ない。
すべての魂が、ここで、共存している。
ここから、それぞれの墓の話を、見ていく。
織田信長の、墓。
信長は、1582年6月2日、本能寺で、明智光秀の襲撃を受け、自害した。49歳だった。彼の遺体は、本能寺の火災の中で、灰となり、発見されなかった。
つまり、信長の遺体は、ない。
しかし、奥之院には、信長の墓が、ある。
これは、「供養塔」と呼ばれるものである。遺体は、入っていない。しかし、信長の魂を、ここで、供養するために、建てられた。
興味深いことに、信長は、生前、高野山と、敵対していた。1581年、信長は、高野山を、攻撃し、焼き討ちにしようと、していた。本能寺の変が、起きなければ、高野山は、信長によって、破壊されていた可能性が、高い。
その信長を、高野山は、許した。
信長が死んだ後、高野山の僧侶たちは、奥之院に、信長の供養塔を、建てた。
「信長公の魂よ、ここで、安らかに、眠れ」
彼を殺そうとした男を、許し、迎え入れた。
これが、空海の、教えである。
「敵を、許す」「過去を、水に流す」「すべての魂を、平等に、扱う」
そして、その近くに、明智光秀の墓も、ある。
光秀は、信長を殺した後、わずか11日で、秀吉に討たれた。「三日天下」と呼ばれる、短い天下取りだった。
そして、光秀の供養塔も、奥之院にある。
信長の供養塔と、光秀の供養塔が、近くに、並んでいる。
「殺した者と、殺された者」が、隣り合って、眠っている。
奥之院でしか、見られない光景である。
ちなみに、光秀の供養塔には、こんな言い伝えがある。「何度直しても、石にひびが入る」。信長の恨みのため、と語られている。
豊臣秀吉の、墓。
秀吉は、信長の家臣だった頃から、奥之院を、深く尊敬していた。彼自身、亡き母の供養のために、高野山に、「青巌寺(せいがんじ)」という寺を、建てた(後の金剛峯寺)。
秀吉が亡くなった後、彼の墓も、奥之院に、建てられた。彼の周辺には、母・大政所、弟・秀長、息子・秀頼、正室・北政所など、豊臣家の主要人物の墓が、まとまって、配置されている。
「豊臣家の墓地」と、呼べる、一角である。
そして、その横に、徳川家康の、墓もある。
家康は、関ヶ原の戦いで、豊臣の家臣たちを、破った。そして、大坂夏の陣で、豊臣秀頼を、自害させ、豊臣家を、滅ぼした。
その家康の墓が、豊臣家の墓地の、すぐ近くにある。
これも、奥之院でしか、見られない光景である。
豊臣家を滅ぼした男と、滅ぼされた豊臣家。
両者が、隣り合って、眠っている。
そして、生前、敵だった彼らの墓の間を、現代の観光客が、自由に歩いている。
500年前の、憎しみと、戦と、殺戮が、ここでは、ない。
ただ、静かな、奥之院の参道があり、そこに、供養塔が、並んでいる。
武田信玄の、墓。
そして、上杉謙信の、墓。
戦国時代、信玄と謙信は、5回にわたって、川中島で、戦った。「川中島の戦い」と呼ばれる、日本史上、最も激しい戦の一つである。
両者は、お互いを、殺そうとした。何千人もの兵士が、両者の戦いで、命を落とした。
その信玄と謙信の墓が、奥之院の同じ参道に、並んでいる。
しかも、不思議なことに、武田信玄・勝頼父子の供養塔と、上杉謙信の朱塗りの華麗な霊廟(重要文化財)が、参道をはさんで向かい合っている。「戦国の龍虎が、500年経って、川中島さながらに、向き合っている」。
これも、奥之院の、面白さである。
伊達政宗の墓。
そして、石田三成、加藤清正、結城秀康、堀秀政、浅井長政、朝倉義景。日本史の教科書に出てくる戦国武将のほとんどが、ここに、いる。
数えていくと、その規模に、圧倒される。
奥之院は、「戦国時代の、最終的な、集合場所」と、言ってもいい。
戦って、殺し合って、最後には、皆、ここに、来た。
そして、空海が、彼らを、迎え入れた。
なぜ、彼らは、奥之院に、来たかったのか。
それは、奥之院に、来れば、56億7000万年後、弥勒菩薩が、下生する時、その救済に、与れる、と信じられていたからである。
「弥勒下生(みろくげしょう)」という、密教の思想である。
弥勒菩薩は、釈迦の次に、現れる仏である。彼が、下生する時、すべての衆生(しゅじょう)が、救われる。
そして、空海は、その時、弥勒の従者として、共に降りてくる。
奥之院に、自分の墓を、建てておけば、空海が、自分を、見つけてくれる。そして、弥勒菩薩の救済に、与ることが、できる。
戦国武将たちは、それを、信じた。
彼らは、生きている時、無数の命を、奪った。罪の意識を、抱えていた。死後の世界で、地獄に堕ちることを、恐れていた。
しかし、奥之院に、自分の供養塔を、建てておけば、空海が、自分を、救ってくれる。
彼らは、そう、信じた。
そして、空海は、それを、受け入れた。
「来い。お前たちも、ここに、来い。罪は、許す。すべての魂を、受け入れる」
これが、空海の、教えである。
そして、もう一つ、面白い話がある。
奥之院の参道を、歩いていると、「無縁塚(むえんづか)」と呼ばれる、一角に、出会う。
ここには、誰のものか、わからない、無数の、小さな墓と、供養塔が、積み上げられている。
引き取り手のない、孤独な魂たち。家族も、子孫も、いない。誰にも、覚えられていない。歴史にも、残らなかった、無数の、普通の人々の、墓である。
そして、彼らも、奥之院にいる。
戦国武将と、無名の庶民が、同じ参道に、並んでいる。
空海にとっては、どちらも、同じである。
「魂は、皆、平等である」
これが、奥之院の、本当の、すごさである。
世界中、どこを探しても、こんな場所は、ない。
身分も、宗派も、敵味方も、関係なく、すべての魂を、受け入れる。
その思想を、1200年間、貫いてきた。
そして、今も、新しい墓が、毎年、奥之院に、建てられている。
参道の奥の方には、平成、令和に建てられた、新しい墓も、ある。
「奥之院は、今も、進化している」
空海が、生きている限り、奥之院も、生きている。
そして、空海は、永遠に、生きている。
ということは、奥之院も、永遠に、生きている。
これが、56億7000万年、続く、ということ、なのである。
戦国武将たちが、見ていた、奥之院。
江戸時代の人々が、見ていた、奥之院。
明治、大正、昭和の人々が、見ていた、奥之院。
そして、今、あなたが、これから、見ようとしている、奥之院。
すべて、同じ、奥之院、である。
空海は、変わらない。
参道の杉も、変わらない。
そして、すべての魂が、ここで、共存している、という、その事実も、変わらない。
最後に、もう一つ、書いておく。
奥之院を、参拝する時、ぜひ、信長の墓の前で、足を、止めてほしい。
そして、こう、考えてみてほしい。
「この男は、生きている時、何万人もの人を、殺した。彼は、地獄に、堕ちるべきだ、と思うかもしれない。しかし、彼は、ここにいる。空海に、許されている。なぜか」
その答えは、簡単である。
空海は、すべての魂を、許す。
なぜなら、すべての魂は、宇宙から、来て、宇宙に、帰っていく、同じ存在だからである。
信長も、光秀も、秀吉も、家康も、信玄も、謙信も。彼らは、生きている時、敵だった。しかし、死んだ後は、皆、同じ「魂」になる。
そして、すべての魂は、宇宙から、来て、宇宙に、帰る。
その通り道に、奥之院が、ある。
そして、空海が、その通り道で、すべての魂を、見送り、迎え入れている。
「お疲れさん。よく来た」
そう、空海は、すべての魂に、声をかける。
そして、その「すべて」の中には、いつか、あなたも、含まれる。
私たちは、皆、いつか、奥之院に、来る。
戦国武将と、同じ、参道の、どこかに。
第12章「同行二人 — お遍路と空海が共にいる思想」
四国に、ある巡礼の道が、ある。
「四国八十八ヶ所霊場(しこくはちじゅうはっかしょれいじょう)」、別名「お遍路(おへんろ)」。
四国の島を、ぐるりと、一周する、約1400キロの巡礼の道である。途中に、空海ゆかりの寺院が、88箇所、点在している。それらを、順番に、訪ね歩く。
歩いて回れば、約45日。車なら、約10日。
お遍路に、行く人は、特別な衣装を、身に着ける。
白い装束。白い笠(かさ)。手には、金剛杖(こんごうづえ)。腰には、納経帳(のうきょうちょう)。首には、輪袈裟(わげさ)。
そして、笠と、金剛杖には、こう、書かれている。
「同行二人(どうぎょうににん)」
「同行二人」とは、何か。
文字通り、「二人で、共に、行く」という意味である。
しかし、お遍路では、一人で、歩いている人が、ほとんどである。一人で、四国を一周する。歩く道は、長く、寂しい。山道もあり、海沿いの道もあり、街中もある。雨の日もあれば、嵐の日もある。足は、痛む。背中は、重い。
それでも、彼らは、「同行二人」と書く。
それは、なぜか。
答えは、こうだ。
「私は、一人で歩いているのではない。常に、空海が、隣にいる」
これが、「同行二人」の、本当の意味である。
お遍路を、歩いている人の隣には、いつも、空海が、いる。見えないけれど、確かに、いる。
雨の日も。嵐の日も。足が痛む時も。心が折れそうな時も。
空海は、隣で、一緒に、歩いている。
「お前は、一人ではない」
「私が、一緒に、歩いている」
「だから、続けなさい」
そう、空海は、声には出さずに、語りかけている。
お遍路を、経験した人は、皆、こう、言う。
「最初は、一人で、歩いていると思っていた。しかし、ある日、ふと、隣に、誰かがいるような気がした。それから、足取りが、軽くなった」
「自分が、一人ではない、と気づいた時、お遍路は、全然違うものになった」
これが、お遍路の、本当の、姿である。
そして、ここで、もう一つ、重要なことを、書いておく。
「同行二人」という思想は、お遍路だけではない。
それは、密教の、根本的な、世界観である。
空海は、入定した後も、生きている。そして、彼の意識は、奥之院の御廟の中だけに、留まっていない。
宇宙全体に、拡散している。
ということは、空海は、いつでも、どこでも、誰の隣にも、いる、ということになる。
お遍路を歩いている人の隣にも。
仕事で疲れている、サラリーマンの隣にも。
受験勉強で悩んでいる、学生の隣にも。
病院のベッドで、不安に押しつぶされそうな、患者の隣にも。
夜中に、一人で、泣いている人の隣にも。
空海は、皆、同行している。
ただ、ほとんどの人は、それに、気づかない。
しかし、お遍路を、歩いた人は、気づく。
「ああ、ずっと、隣に、いてくれたんだ」
「私は、いつも、一人だと思っていたが、本当は、一人ではなかった」
これが、密教の、最も温かい、教えである。
そして、お遍路の話を、もう少し、続ける。
なぜ、四国に、88箇所、なのか。
これには、諸説あるが、最も有力なのは、「人間の煩悩の数」だ、と言われる。
人間には、108の煩悩がある、とされる。除夜の鐘を108回つくのは、それを、打ち消すためである。
しかし、お遍路は、88箇所である。
なぜ、108ではないのか。
それは、こう、説明される。
「人間の根本的な、八十八の煩悩を、一つ一つ、消していく旅」
四国を、一周することで、自分の中の、煩悩を、一つずつ、消していく。
そして、最後の88番、大窪寺(おおくぼじ)に、到達した時。
人は、煩悩から、解放されている。
これが、お遍路の、最終目標である。
そして、88箇所を回り終えた後、お遍路は、最後に、もう一つの場所を、訪れる。
高野山の、奥之院、である。
これを、「結願(けちがん)」と、呼ぶ。
四国の88箇所を、回り終え、最後に、空海に、報告に行く。
「お大師様、私は、四国を、一周してきました。あなたと、ずっと、一緒に、歩いてきました。お疲れさまでした。そして、ありがとうございました」
そう、奥之院の御廟の前で、合掌する。
これで、お遍路の、旅は、完結する。
毎年、何万人もの人々が、お遍路を、歩く。
健康のため。修行のため。亡くなった家族の供養のため。人生の節目のため。
理由は、人によって違う。しかし、彼らは、必ず、同じ場所に、辿り着く。
奥之院の、御廟の前。
そして、空海に、頭を下げる。
そして、もう一つ、お遍路には、興味深い、伝統がある。
「お接待(おせったい)」、というものである。
四国の人々は、お遍路を歩いている人を、見かけると、自然に、声をかける。
「お疲れさまです。よければ、これを、どうぞ」
そう言って、お茶や、お菓子や、おにぎりを、渡す。
時には、家に、泊めてくれる。風呂に入れてくれる。次の宿まで、車で送ってくれる。
これを、「お接待」と、呼ぶ。
これは、観光客への、親切ではない。
四国の人々は、お遍路を歩いている人を、「空海そのもの」、と見ている。
「同行二人」だから、お遍路を歩いている人の隣には、空海が、いる。そして、空海そのものに、お茶を、差し上げる。
お接待を、する人にとって、お遍路を歩いている人は、空海の、化身である。
これも、密教の、教えである。
「すべての他者の中に、仏が、いる」
目の前の、見知らぬ人。
その人の中にも、仏が、いる。
だから、その人に、親切に、する。
それが、自分自身の、仏性を、育てることに、繋がる。
お遍路と、お接待。
この二つが、組み合わさって、四国全体が、一つの、巨大な、修行の場、になっている。
そして、その中心に、奥之院の、空海が、いる。
ここで、私たちの、人生に、戻ろう。
私たちは、四国を、歩いていない。お遍路の白装束は、着ていない。金剛杖も、持っていない。
しかし、私たちも、人生という、長い道を、歩いている。
仕事の道。
家庭の道。
夢の道。
病気との闘いの道。
失恋の道。
死別の道。
すべて、長い、巡礼の道、である。
そして、その道の、隣にも、空海は、いる。
「お前は、一人ではない」
「私が、一緒に、歩いている」
声には、ならない。しかし、ふと、感じる時が、ある。
夜中に、絶望して、泣いている時。誰かが、隣で、ティッシュを、渡してくれているような気が、する。
朝、起きるのが、辛い時。誰かが、後ろから、背中を、押してくれているような気が、する。
仕事で、追い詰められている時。誰かが、「もう少し、頑張れ」と、囁いているような気が、する。
それは、すべて、空海、である。
空海は、奥之院の御廟の中だけにいる、わけではない。
宇宙全体に、拡散している、空海の意識は、私たちの、隣に、いつでも、いる。
ただ、私たちは、それに、気づいていない。
しかし、気づいた瞬間、私たちの人生は、変わる。
「私は、一人ではない」
その確信が、あれば、人は、どんな困難も、乗り越えられる。
それが、「同行二人」、なのである。
そして、最後に、もう一つ、書いておきたい。
奥之院の参道を、歩いている時、ふと、振り返ってみてほしい。
あなたの後ろに、誰か、いるはずである。
見えないかもしれない。しかし、確かに、誰かが、ついてきている。
それは、空海、ではない。
それは、あなたが、これまでの人生で、出会った、すべての人々、である。
亡くなった、家族。
別れた、恋人。
昔の、友達。
すれ違った、見知らぬ人。
そのすべての人々の、魂が、あなたと、一緒に、奥之院の参道を、歩いている。
そして、その先頭に、空海が、いる。
「お前は、これだけの人々と、繋がって、生きてきた。そのすべてが、お前の人生を、支えてきた。そして、これからも、お前を、支え続ける」
そう、空海は、あなたに、伝えている。
これが、「同行二人」、の、本当の、深さである。
私たちは、空海と、二人で、歩いているのではない。
私たちは、無数の魂と、共に、歩いている。
そして、その全員を、空海が、まとめ上げている。
これが、奥之院に、来た人だけが、感じることのできる、最大の、ギフトである。
第13章「高野山、深く歩くための10の場所」
高野山は、広い。
東西、約3.5キロ。117の寺院が、密集する、宗教都市。一日で、すべてを、回ることは、できない。
しかし、ここで、紹介する10の場所を、押さえれば、高野山の、本当の深さが、わかる。
一度きりの訪問でも、何度目の訪問でも、この10ヶ所を、しっかり、歩いてほしい。
【1】奥之院
言うまでもなく、高野山の、心臓である。
一の橋から、御廟までの、約2キロの参道を、歩く。
参道の両側に、樹齢700年以上の杉、20万基を超える墓と供養塔。戦国武将も、皇族も、企業墓も、すべて、ここに、ある。
そして、御廟橋を渡り、燈籠堂を抜け、空海の御廟の前に立つ。
ここが、すべての、始まりであり、終わりである。
参拝の正式な順序は、こうだ。
「一の橋」から、入る。参道を、ゆっくり、歩く。「中の橋」を、過ぎる。汗かき地蔵、姿見の井戸を、横目に見ながら、参道を進む。御供所で、頭を下げ、嘗試地蔵で、合掌する。
そして、御廟橋を、渡る。
橋を渡る前に、必ず、橋に向かって、一礼する。これは、現世と聖域の、境界である。
橋を渡った後は、写真撮影禁止。脱帽。私語を、控える。
燈籠堂で、合掌する。
そして、燈籠堂の裏に回り、空海の御廟の前で、最も深い、合掌をする。
帰りは、来た道を、戻る。これも、参拝の作法。
奥之院に、来たら、ここで、最低でも、2時間は、取ってほしい。
参拝には、「夜の参拝」も、ある。「ナイトツアー」と呼ばれる、僧侶が、夜の参道を、提灯の明かりだけで、案内してくれるツアーがある。これは、人気で、予約必須。日中とは、まったく違う、奥之院の表情が、見える。
【2】壇上伽藍(だんじょうがらん)
奥之院と並ぶ、高野山の二大聖地、もう一つ。
空海が、高野山を開いた時、最初に、整備した場所。密教の世界観である「胎蔵曼荼羅」を、地上に、立体的に、再現した、巨大な宗教空間である。
中心に立つのが、「根本大塔(こんぽんだいとう)」。高さ48.5メートル、朱塗りの、巨大な多宝塔。
中に入ると、世界が変わる。中央に、胎蔵界の大日如来。その周囲に、金剛界の四仏。16本の柱には、十六大菩薩が、描かれている。
ここは、立体曼荼羅、である。
絵で、見るのではない。中に、入る。そして、自分自身が、曼荼羅の、一部に、なる。
これが、空海の、設計だった。
そして、「三鈷の松」も、ここにある。第2章で書いた、空海が唐から投げた三鈷杵が、引っかかっていた、伝説の松。三本一組の松葉を、ぜひ、探してみてほしい。
【3】金剛峯寺(こんごうぶじ)
高野山真言宗、総本山。
豊臣秀吉が、亡き母の菩提を弔うために建立した「青巌寺」と、もう一つの「興山寺」が、明治時代に合併して、現在の金剛峯寺になった。
主殿に入る。
「大広間」では、雲谷派の絵師による、群鶴と松の襖絵が、目の前に広がる。
「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」は、日本最大級の石庭。京都の竜安寺の石庭よりも、広い。雲海の中を、雌雄の龍が、奥之院を守るような姿で、置かれている。
ここで、合掌しながら、ただ、座る。
時間が、止まる。
それが、金剛峯寺の、力である。
【4】霊宝館(れいほうかん)
第8章で詳しく書いた、霊宝館。
国宝21件、重要文化財148件、約10万点の収蔵品。快慶の四天王、運慶快慶の仏像、血曼荼羅、空海自筆の書。
ここで、自分が、どんな反応を、するか。
長くいられるか、すぐに出たくなるか。それで、自分の、霊的な感受性が、わかる。
入館料は、決して、安くは、ない。しかし、この値段で、これだけの国宝を、見られる場所は、世界に、ほとんど、ない。
【5】大門(だいもん)
高野山の、入口にあたる、巨大な朱塗りの門。
高さ、25.1メートル。日本で二番目に大きい、金剛力士像が、左右に立ち、入ってくる者を、睨んでいる。
これは、ただの門ではない。
高野山全体の、結界の、起点である。
空海が、高野山に結界を張った時、その七里四方の境界の、入口に、この門を、建てた。
「ここから先は、聖域である。下界の穢れを、持ち込むな」
そう、大門は、語っている。
車で高野山に来た場合、ぜひ、一度、大門を、通り抜けてから、町に、入ってほしい。
ただ通り過ぎるだけでも、空気が、変わるのが、わかる。
そして、夕方、夕日が大門を、赤く染める瞬間。それは、高野山で見られる、最も美しい光景の一つ。
【6】徳川家霊台(とくがわけれいだい)
徳川家康、二代将軍秀忠を、祀る、霊廟。
江戸時代の、徳川家の権力の、象徴である。
しかし、ここで、興味深いのは、「家康が、なぜ、高野山に、霊廟を建てたか」である。
徳川家は、もともと、真言宗とは、関係が深くない。家康は、浄土宗の信者だった。
それでも、家康は、高野山に、自分の霊廟を、建てた。
なぜか。
それは、奥之院の、空海の力を、信じていたからである。
「自分の魂を、空海に、見守ってほしい」
天下を取った男も、最後は、空海に、頼った。
【7】女人堂(にょにんどう)
これは、知らない人が、多い。
高野山は、1872年(明治5年)まで、女人禁制だった。女性は、高野山に、入ることが、できなかった。
しかし、それでも、空海に、参拝したい女性は、いた。
そのために、設けられたのが、「女人堂」である。
高野山の入口の、結界の外側に、女性のための、参拝所が、7ヶ所、設置された。「高野七口(こうやななくち)」と呼ばれる、高野山への7つの入口、それぞれに、一つずつ。
現在、残っているのは、その中の、一つだけ。「不動坂口女人堂」と呼ばれる、小さな堂である。
ここで、女性たちは、結界の中に入れない代わりに、合掌し、空海に、祈りを、捧げた。
歴史の、重みを感じる場所である。
【8】宿坊(しゅくぼう)
高野山には、現在、50を超える宿坊がある。観光客でも、誰でも、泊まれる。
宿坊に泊まると、本物の精進料理が、食べられる。朝の勤行(ごんぎょう)に、参加できる。写経や、阿字観瞑想を、体験できる。
それは、ただの観光ではない。「修行体験」である。
おすすめの宿坊を、いくつか紹介する。
「恵光院(えこういん)」。奥之院ナイトツアーの拠点として有名。英語対応も、しっかりしていて、海外からの参拝客にも人気。
「西禅院(さいぜんいん)」。庭園が、極めて美しい。重森三玲が設計した「曼荼羅庭園」がある。
「赤松院(せきしょういん)」。歴史が古く、織田信長の家臣・滝川一益の供養塔がある。
「一乗院(いちじょういん)」。明智光秀ゆかりの宿坊。
予約は、「高野山宿坊組合」のサイトから、できる。
【9】高野山ケーブル + 南海高野線
これは、場所ではない。「行き方」である。
しかし、高野山への、行き方そのものが、儀式のように、なっている。
大阪・難波から、南海高野線に乗る。約2時間。途中、橋本駅を過ぎたあたりから、車窓の景色が、一気に、山深くなる。
終点、極楽橋駅で、ケーブルカーに、乗り換える。
ケーブルカーは、平均勾配が、日本でも、有数の急勾配を、登っていく。約5分。
そして、高野山駅に、到着する。
ここから、バスに乗り換えて、町中まで、約10分。
つまり、大阪から、高野山まで、約2時間半。
これだけの時間をかけて、わざわざ、来る。
それ自体が、修行である。
「高野山に、簡単に、来れてしまったら、ありがたみが、ない」
そう、信者は、言う。
苦労して、登ってきた人だけが、空海に、会える。
それが、高野山の、ルールである。
【10】夜の高野山
これは、場所というより、「時間」である。
高野山は、観光客が、日中、たくさん来る。しかし、夕方5時を過ぎると、彼らは、一斉に、帰っていく。
そして、夜の高野山が、始まる。
宿坊に泊まらない限り、夜の高野山は、見られない。
夜、宿坊の窓から、外を見ると、町は、静まり返っている。
街灯の、少ない、薄暗い夜道。
その向こうに、樹齢700年の杉が、月光に、照らされている。
風の音だけが、聞こえる。
これが、本当の、高野山である。
日中、観光客で、賑わっていた、奥之院の参道も、夜になると、別世界に、変わる。
「ナイトツアー」に、参加すれば、夜の参道を、僧侶が、案内してくれる。提灯の明かりだけで、参道を歩く。
御廟橋を、夜に渡る。
燈籠堂の、無数の灯が、暗闇の中で、銀河のように、輝いている。
その光景を、見たら、わかる。
「ここが、宇宙と、繋がっている場所だ」
夜の高野山は、空海の、本当の世界を、見せてくれる。
以上、10の場所。
これらを、すべて、回るには、最低でも、1泊2日、できれば、2泊3日。
「日帰りでも、いいか」と思う人もいるかもしれない。
しかし、日帰りでは、夜の高野山が、見られない。宿坊の精進料理も、味わえない。朝の勤行も、参加できない。
それでは、高野山の、本当の姿は、見えない。
ぜひ、宿坊に、一泊してほしい。
そして、夜、宿坊の窓を、開けて、深呼吸をしてほしい。
その時、あなたは、初めて、わかる。
「ああ、私は、空海と、同じ空気を、吸っている」
その瞬間から、高野山は、ただの観光地ではなく、あなた自身の、人生の一部に、なる。
終章「あなたが呼ばれた、その意味」
ここまで、読んでくれて、ありがとう。
高野山について、書いてきた。
空海の、化け物のような生涯。中国から飛んできた三鈷杵。密教法具とナチスの、不思議な繋がり。入定という、永遠の瞑想。1200年間、毎日続く食事。観賢が見た、空海の不思議。アカシックレコードと、虚空蔵の、語源の一致。霊宝館で、長くいられない人々。奥之院で起きた、信じがたい体験談。コーヒーカップとロケットの、企業墓。敵と味方が、隣で眠る、奥之院。同行二人という、温かい思想。そして、高野山で、深く歩くための10の場所。
ここまで、読んだあなたは、もう、わかっているはずだ。
高野山は、ただの観光地では、ない。
それは、宇宙と、人類が、繋がっている、唯一の場所である。
そして、その中心に、空海が、いる。1200年前に、永遠の瞑想に入ったまま、今も、奥之院の御廟の中で、座っている。
そして、空海は、宇宙の図書館の扉を、開けたまま、人類が、訪れるのを、待っている。
ここで、最初の問いに、戻る。
序章で、こう、書いた。
「呼ばれないと、辿り着けない山がある」
なぜ、人は、高野山に、呼ばれるのか。
その答えを、最後に、書いておく。
人生には、節目が、ある。
仕事が、うまくいかない時。
家族との関係が、ぎくしゃくしている時。
大切な人を、失った時。
自分が、何のために、生きているのか、わからなくなった時。
病気になった時。
ふと、立ち止まりたい時。
そういう時、人は、何かを、求める。
答えを、求める。
しかし、現代社会には、答えがない。スマホを、開いても、SNSは、流れていくだけ。ニュースは、雑音ばかり。アドバイスは、矛盾している。
そんな時、頭の中に、ある単語が、降ってくる。
「高野山」
最初は、無視する。なぜ突然、高野山なのか、わからない。
しかし、その日から、おかしなことが、起き始める。
テレビで、高野山の特集をやっている。本屋に、高野山の本が、平積みされている。誰かが、高野山の話を、している。
「これは、偶然ではない」
そう、気づいた瞬間、あなたは、呼ばれている。
そして、有給を取り、新幹線と電車とケーブルカーとバスを乗り継ぎ、約2時間半かけて、高野山に、登る。
奥之院の参道を、歩く。
樹齢700年の杉。
20万基の墓と供養塔。
そして、御廟橋を、渡る。
その瞬間、何かが、起きる。
涙が、止まらなくなるかもしれない。
頭の中が、急に、静かになるかもしれない。
亡くなった家族の、声が、聞こえるかもしれない。
自分の使命が、わかるかもしれない。
何も、起きないかもしれない。
しかし、後で、振り返ってみると、その日を境に、人生が、変わっている。
それが、高野山の、力である。
そして、もう一つ、書いておきたいことがある。
呼ばれる、ということは、選ばれる、ということではない。
「特別な人」だけが、呼ばれるのではない。
すべての人が、いつか、必ず、呼ばれる。
ただ、そのタイミングが、人によって、違うだけ。
ある人は、20歳で、呼ばれる。
ある人は、50歳で、呼ばれる。
ある人は、死ぬ前に、呼ばれる。
ある人は、生まれ変わった後、呼ばれる。
しかし、すべての魂は、いつか、必ず、奥之院に、辿り着く。
そして、空海は、それを、知っている。
「いつ来ても、構わない。私は、ここで、待っている」
そう、空海は、笑っている。
最後に、もし、この記事を読んで、「高野山に行きたい」と、感じた人がいたら。
迷わず、行ってほしい。
それは、偶然では、ない。
あなたは、今、呼ばれている。
そして、奥之院では、空海が、あなたを、待っている。
「来たな」
その一言を、聞きに、行ってほしい。
そして、燈籠堂の、銀河のような光の中で、ふと、見渡してほしい。
あなたの周りに、無数の、光が、揺れている。
それは、お照の一灯であり、白河上皇の一灯であり、これまで奥之院に、参拝した、無数の人々の、祈りの一つ一つである。
そして、いつか、あなたが、また、奥之院に来た時、その光の中に、あなた自身の祈りも、加わっている。
これが、奥之院、なのである。
時間が、止まり、空間が、宇宙と繋がり、すべての魂が、ここで、共存している、場所。
呼ばれた人だけが、辿り着ける、場所。
そして、辿り着いた人を、永遠に、変えてしまう、場所。
それが、和歌山県、高野山、奥之院である。
南無大師遍照金剛。
合掌。


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