長野 戸隠神社・戸隠山の謎

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戸隠神社の謎

目次

扉を隠した山の、四つの封印

戸隠神社は、ただの山奥の神社ではありません。

長野県の霊山・戸隠山のふもとに鎮座し、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、二千年以上の歴史を持つ神社です。祀られているのは、天岩戸開き神話にゆかりの深い神々。

けれど、戸隠の本当の姿は、その肩書きの奥にあります。

神話があり、龍がいて、修験者が籠もり、忍者の呪術が受け継がれた。普通なら別々の土地で語られるものが、戸隠では、たった一つの山の中に折り重なっています。

そして、その名前そのものが、すでに一つの謎です。

戸隠。

戸を、隠す。扉を、隠す。

何の扉なのか。なぜ、隠されているのか。


天界の扉が、落ちた

話は、日本でいちばん有名な神話から始まります。

弟・素戔嗚尊の度重なる乱暴に、天照大神が怒りました。天の岩屋に入り、戸を閉ざして、隠れてしまった。太陽の神が姿を消したことで、世界は真っ暗闇になりました。あらゆる悪い神々がうごめき出し、恐ろしいこと、悲しいことが、次々に起こりました。

困り果てた八百万の神々は、岩屋の前に集まって相談します。どうすれば、大神にもう一度出てきていただけるのか。

そのとき、知恵を絞ったのが、今の中社に祀られる天八意思兼命でした。岩戸の前で、楽しそうに踊って騒ごう。きっと大神は「あの者たちは何をしているのか」と、のぞきに出てこられるに違いない、と。

神々は準備をします。まず、たくさんの鶏を集めて鳴かせました。そして、踊りの上手な天鈿女命――今の火之御子社の神――が、伏せた桶の上に乗り、足拍子も面白く「とんとん、とととん」と舞い踊った。大勢の神々が「やんや、やんや」と手を打って応えます。思兼命が「コケコッコー」と長鳴鶏の鳴き真似をすると、集めた鶏が一斉に鳴き出した。天鈿女命の踊りがあまりに可笑しく、神々は「わっははは」と腹を抱えて笑い、つられて踊り出す者まで現れました。

岩屋の中の天照大神は、外の騒ぎが気になって仕方がない。何事が起きているのかと、そっと岩戸を開けて、外をのぞきました。

その一瞬を、岩戸の陰で待ち構えていた神がいます。天手力雄命――今の奥社の神。高天原一の怪力の持ち主です。手力雄命は、開いた岩戸に手をかけ、渾身の力で一気に引き開けました。天照大神は引き出され、世界に再び光が戻りました。

ここからが、戸隠の話になります。

手力雄命は、大神がまた岩屋に入ってしまっては大変だと考えました。そこで、その重い岩戸を「えいっ」と持ち上げ、はるか遠くの下界へ放り投げてしまった。

宙を飛んだ岩戸は、日本のちょうど真ん中あたりに落ちました。

その岩戸が、戸隠山になった――。

戸隠という名は、ここから来ています。室町時代の一四五八年に書写された『戸隠山顕光寺流記』にも、天手力雄命が天岩戸を隠し置いた地ゆえに戸隠と言う、と記されています。

つまり戸隠は、神話の中で、天界の扉が落ちてきた場所なのです。

実際に戸隠山を見ると、この伝説の重みに唸らされます。戸隠山は、屏風のように薄く、切り立った独特の山容をしています。両側がすっぱりと谷に落ち込み、巨大な岩の板が地面に突き立っているように見える。岩戸が飛んできて刺さった、と言われれば、たしかにそう見えなくもありません。

神話は、しばしば目の前の地形を説明するために生まれます。戸隠の場合、その地形が、あまりに神話的なのです。


一つの山に、四つの封印

天界の扉が落ちた山。それが戸隠の表の顔です。

けれど、扉が「落ちた」だけなら、ただの神話の舞台にすぎません。戸隠が本当に不気味で、本当に面白いのは、この山が、何かを「隠し」「封じて」きた場所だからです。

経の力で、龍が岩に封じられた。 九字という呪術で、見えない敵が封じられた。 女人禁制の掟を破った者が、石に変えられて封じられた。 人魚を食べた子供が、不老不死の体に封じられた。

戸隠とは、言葉と印と掟によって、見えない力を制し、封じ込めようとしてきた山なのです。

これから、その四つの封印を、一つずつ開けていきます。

まず、神話よりも古くからこの山にいた、龍の話から。

なぜ、天岩戸の神々が来るより前から、戸隠には龍がいたのか。そして、その龍は、誰に、どうやって、岩の中へ封じられたのか。


一章 ― 龍は、神話の前からいた

奥社へ向かう参道は、戸隠で最も異界感の強い場所です。

入口の鳥居から本社まで、片道およそ二キロ。長い杉並木を進み、萱葺き屋根の随神門を越え、さらに奥へ進む。その道の終わりに、奥社と、そのすぐ手前に九頭龍社が鎮座しています。

この九頭龍社が、戸隠の謎を、ぐっと深くします。

祭神は、九頭龍大神。水を司る神、雨乞いの神、そして縁結びの神、さらには虫歯の神として信仰されてきました。

戸隠神社の公式は、この神について、はっきりとこう記しています。九頭龍大神は、天手力雄命が祀られる以前から、この地の地主神として祀られていた、と。

ここが、肝心です。

九頭龍は、あとから持ち込まれた神ではない。天岩戸神話の神々が来るより前から、この山にいた神なのです。

そう考えると、戸隠神社は二重構造になります。

表の顔は、天岩戸神話の神社。

裏の顔は、九頭龍が守る、もっと古い山岳信仰の聖地。

そして面白いことに、戸隠の五社のうち、九頭龍社だけが、この構造を体現しています。奥社の天手力雄命、中社の天八意思兼命、宝光社の天表春命、火之御子社の天鈿女命――この四社は、すべて天岩戸神話の登場人物です。岩戸を開けた神、開ける作戦を立てた神、その子の神、岩戸の前で舞った神。五社をめぐることは、それ自体が、神話を地理として歩くことになります。

ところが、九頭龍社の祭神だけは、神話の登場人物ではありません。五社の中で、この社だけが、神話の外にいる。神話より古い地層から、ぽつんと突き出している。

では、その龍は、いったいどこから来たのか。そして、どうやってこの山に「鎮まった」のか。

経で、龍を封じる

戸隠には、岩戸伝説とはまったく別の、もう一つの起源譚があります。こちらのほうが、はるかに古く、はるかに不気味です。

鎌倉時代に記された仏教文献『阿裟縛抄諸寺略記』に、その話が残されています。

嘉祥二年(八四九)頃のこと。「学問(学門)」という名の修行者が、飯縄山で修行をしていました。仏教の栄える地を求め、持っていた独鈷を西へ投げると、それは戸隠山の岩窟に落ち、光を放った。学問がその光を追って山に分け入り、岩窟にたどり着いて法華経を唱えていると――深夜、南の方から、九つの頭と龍の尾を持つ、異形のものが現れたのです。

伝承の生々しいバージョンでは、この九頭龍は、こう告げます。

自分は、かつてこの地の別当――寺を管理する者――であった。仏に献じられた財物を着服した罪で、この龍の姿に堕とされたのだ、と。

そして、唱えられた法華経の功徳によって成仏し、自ら岩窟の中へ身を隠した。学問は、大きな岩で、その入口を封じました。

龍が、岩の戸に隠れ、封じ込められた。

だから、この山を戸隠山と呼ぶ。

これが、戸隠という地名の、もう一つの由来です。

ここで、見逃してはいけないことがあります。

学問が龍を鎮めた手段は、剣でも、力でもありません。法華経という「言葉」です。経の功徳で異形をねじ伏せ、罪ある龍を成仏させ、岩に封じた。

これは、れっきとした呪術です。言葉の力で、見えない存在を制し、封じ込める術。

戸隠という山は、その名の最初から、呪術と分かちがたく結びついていたのです。

罪を背負った龍が、神になる

この起源譚には、もう一つ、深い余韻があります。

封じられた龍は、そのまま消えたわけではありません。荒ぶる力を鎮められ、罪を浄められた龍は、やがて善なる神へと転じました。水を司り、雨を降らせ、田を潤し、人々を助ける神に。

それが、九頭龍大神です。

罪を背負った異形が、封じられることで浄化され、人を生かす神になる。封印とは、ただ閉じ込めることではなく、荒ぶるものを「鎮めて、役立つ力に変える」営みでもあった。戸隠の龍は、そのことを静かに語っています。

戸隠神社の社紋が、それを裏づけます。当社の紋は「鎌卍(かままんじ)」といい、四本の鎌を卍型に配したものです。戸隠の神が、古くから水の神、豊作の神として信仰されてきたこと。荒れた草を刈り払い、豊かな土壌を作り出す農具の鎌を、ご利益の象徴として形にしたものだといいます。封じられた龍が、人を生かす水と実りの神になった――その記憶が、紋章にまで刻まれているのです。

今でも、戸隠講の人々は、参拝のとき必ず米を持参し、神前に供えるといいます。龍は、千二百年を経た今も、水と実りの神として、生きています。

梨を断ち、虫歯を治す

善神となった九頭龍には、ひとつ奇妙な顔があります。

水の神でありながら、なぜか、虫歯・歯痛の神でもあるのです。

江戸後期、十返舎一九が著した『戸隠善光寺往来』には、こう記されています。九頭龍権現は岩窟の内におられ、梨を供物とする。虫歯を患う者は、梨を断って祈れば、必ず治る、と。

龍は梨を好物とします。好物の梨を供えれば、歯の痛みを取り除いてくれる。逆に願掛けをする側は、龍の好物である梨を、あえて断って祈る。

「断つ」という代償を捧げて、見えない力を動かす。これもまた、龍と取引する、呪術的な作法です。

なぜ梨で、歯なのか。明快な理由は、伝わっていません。それでも今なお、戸隠で梨を断って祈る人がいる。理由のわからないまま受け継がれているということ自体が、この信仰の古さを物語っています。

全国に散らばる、龍を鎮める術

ちなみに、この「修行者が、荒ぶる龍を法力で鎮め、善神に変える」という型は、戸隠だけのものではありません。

神奈川の箱根神社では、箱根を開いた万巻上人が、芦ノ湖の九頭龍を調伏して帰依させた、と伝わります。芦ノ湖ではかつて、龍への生贄として、若い娘を差し出す慣習があった。それを、修行中の万巻上人が、法力で龍を改心させたといいます。

九頭龍をめぐる信仰は、箱根、長野、福井など、日本各地に分布しています。そして、その多くが「水」と結びついている。

戸隠の龍は、孤立した奇談ではありません。全国に散らばる「言葉と法力で、荒ぶる水神を鎮める」呪術の、ひとつの結び目なのです。

経で封じられた龍が、この山の最も古い主でした。

では次は、その同じ「言葉と印で力をねじ伏せる」技術が、まったく別の姿で受け継がれた話を。

忍者の、呪術です。


二章 ― 忍者の呪術は、本当にあった

戸隠には、神話とも龍とも違う、もう一つの有名な顔があります。

忍者です。

戸隠は、伊賀・甲賀と並ぶ「戸隠流忍術」発祥の地とされています。忍法資料館には、忍具や実技を伝えるパネルが数百点も展示され、観光地としての戸隠は、この「忍者の里」の顔でよく知られています。

けれど、本当に面白いのは、その先です。

漫画の演出だと思っていた、あれ

時代劇やアニメで、忍者が「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」と唱えながら、手刀で空を縦横に切る場面を見たことがあるはずです。

九字を切る、といいます。

あれを、漫画の演出だと思っていませんか。手裏剣を投げるのは「技」だとわかる。でも、呪文を唱えて印を結び、姿を消すなんて、創作の中だけの絵空事だろう、と。

ところが、違います。

あの九字は、実在します。フィクションが勝手に作ったのではなく、もともと実在した呪術を、漫画や映画が借りてきただけなのです。

九字とは、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」という九つの文字からなる呪文と、それに対応する印(手の組み方)によって、災いを除き、敵に勝つことを祈る作法です。

簡略な「早九字護身法」では、こうします。右手の人差し指と中指を伸ばし、薬指と小指を親指で押さえて、手で刀の形(刀印)を作る。その手刀を、いったん左手で作った「鞘」に収めて、精神を統一する。整ったら手刀を抜き、「臨・兵・闘・者…」と一字ずつ唱えながら、空中を横に五本、縦に四本、交互に切っていく。映画で見るのは、たいていこの所作です。

本格的な作法では、九つの文字それぞれに、別々の印を結びます。独鈷印、大金剛輪印、外獅子印、内獅子印、外縛印、内縛印、智拳印、日輪印、そして宝瓶印。

この最後の宝瓶印には、別名があります。

「隠形印」――姿を隠す、印。

忍者が姿を消す、という漫画の表現は、まったくの出鱈目ではなかった。九字の作法の中に、文字どおり「隠形」と名のついた印が、実在するのです。

出典は、山に入る者の魔除けだった

では、この九字は、どこから来たのか。

九字護身法は、しばしば仏教や密教のものと思われていますが、その起源は仏教ではありません。道教です。

中国の道士・葛洪が、四世紀(西暦三〇〇年代)に著した『抱朴子』という道教の書物に、九字の最も古い記述があります。

そして、それが収められている章の名前が、実にいい。

第十七章「登渉篇」――山に登り、川を渡る、という意味の章です。

葛洪は、そこで、山に入る者が用いるべき呪文として、この九字を紹介しています。山に入る者は、この秘呪を知っておくとよい。その呪文を、常にひそかに唱えれば、避けられぬ災いは、何もない、と。

つまり九字は、もともと「山に分け入る者が、山の魔から身を守るための呪文」だったのです。

人智の及ばない異界――山。そこへ踏み込むときの、護身の術。

これが日本に伝わり、まさに山に籠もって修行する人々に受け継がれます。

修験道の、山伏たちです。

九字護身法は、道教の「六甲秘呪」が修験道に流れ込み、密教やさまざまな要素が混ざり合ってできあがった、日本独自の作法だとされています。仏教が正式に伝えた作法ではなく、山の宗教のごった煮の中から立ち上がってきた呪術なのです。

山の力で、敵をねじ伏せる

宗教学者の宮家準によれば、修験道で九字を切るとは、ただのまじないではありません。

呪文を唱え、印を結び、本尊である神仏を心に観じ、その神仏を通して「山の霊力」と一体化する。そして、その山の力をもって、自分を害する敵を調伏する――ねじ伏せる――ことを目的とします。

九字は、自分ひとりの気合いではない。山という巨大な存在の力を、印と呪文という回路を通して引き込み、敵にぶつける技術なのです。山伏が山に籠もって修行するのは、この「山の力と一体化する」回路を、自分の体に通すためでもありました。

宮家は、九字の所作そのものにも注目しています。目に見える形で、はっきりと手を動かし、空を切る。この具体的で力強いアクションには、敵に対する積極的な攻撃の意思が表れている、と。

修験道で本来求められたのは、目に見えない煩悩や悪霊を払う、調伏の効果でした。けれど日本では、そこに、目に見える現実の敵をも調伏する効果が期待されるようになる。そしてそれが、兵法書を通じて「忍者」という像が作られていく過程で、忍術の中にも採り入れられていったのです。

なぜ、よりによって戸隠なのか

ここで、戸隠に話が戻ります。

戸隠流忍術の歴史上の始祖とされるのは、平安時代末期の仁科大助(別名・戸隠大助)という人物です。一一八一年頃、木曾義仲の家臣だった彼が、戸隠山や隣の飯縄山で修験道の修行を積むかたわら、独特の技を身につけたのが始まりだと伝えられています。義仲が戦に敗れた後、大助は伊賀へ逃れ、戸隠で培った修験の技に伊賀流の忍術を取り入れて、戸隠流を完成させたといいます。

ただし、ここは正直に置いておかねばなりません。仁科大助を始祖とするこの系譜には、文献による確かな裏付けがありません。伝説上の始祖を、日本に亡命してきた中国の将軍だとする説まである。だから「一一八一年に創始した」というのは、歴史的事実というより、そう語り継がれてきた物語として受け取るのが正しい。

それでも、見逃せない一点があります。戸隠流忍術のルーツが、ほかでもない修験道だとされていること。

ここで、すべてがつながります。

戸隠の忍者が九字を切り、印を結ぶのは、特別な超能力を持っていたからではない。彼らの母体が修験道だったから、山伏が山の力を引き出すために使っていた呪法を、そのまま受け継いだのです。

道教の道士が、山の魔除けに九字を生んだ。 それが、修験道の山伏の護身法になった。 その修験道から、戸隠流忍術が生まれた。

戸隠の忍者が九字を切るのは、何ら超常的なことではありません。山伏の呪術を継いだ者が、その呪術を使っている。ただ、それだけのことなのです。

「忍者の超能力」だと思っていたものが、「山岳信仰の正統な作法の継承」へと裏返る。この瞬間、忍者の呪術は、急にリアルな手触りを帯びてきます。煙に巻いて消えるイリュージョンではなく、千年かけて山から受け継がれてきた、身を守る技術の体系。戸隠が修験道の一大霊場だったからこそ、そこから「呪術を使う忍び」が生まれたのは、むしろ自然な帰結でした。

倒すより、生き延びる

戸隠流忍術には、もう一つ面白い特徴があります。

他の流派と比べて、敵を倒すことよりも、敵の攻撃をかわし、いかに生き延びるかという、護身・隠密・生存の術に重きを置いていた、とされる点です。

これも、九字の出自と響き合います。思い出してください。九字の元になった『抱朴子』の呪は、山に入る者が「身を隠し、危険を避ける」ための呪でした。攻めるための呪ではなく、生き延びるための呪。

戸隠流が「倒すより生き延びる」を旨としたのは、その根が、山で生き延びるための呪術にあったからだと考えれば、きれいに筋が通ります。

忍術書に「呪術」は、文字として書かれている

九字が観念論ではない、決定的な証拠が、近年、出てきました。

二〇二二年、滋賀県甲賀市で、忍術書の原典とされる古文書が発見されました。忍術の三大伝書のひとつ『万川集海』(一六七六年成立)が、この古文書を下敷きにしていたことが知られています。忍術の知識体系の、さらに大元にあたる書です。

その中に、何が書かれていたか。

実戦的な潜入や諜報の技術と並んで――「番犬に吠えられないための呪術」が、四十八カ条のひとつとして、しっかりと記されていたのです。

これは象徴的です。忍術というと、身軽な体術や、毒や火薬の知識を思い浮かべます。けれど彼らが本当に書き残した「秘伝」の中には、呪術が、技術と同じ重みで、文字として並んでいた。

忍びにとって呪術は、空想の飾りではなく、生き延びるための実用知識の一部だったのです。犬に吠えられれば、任務は失敗し、命を落とす。その犬を黙らせる呪術は、手裏剣の投げ方と同じくらい、真剣に伝承されました。

忍者の呪術は、本当にあった。漫画が盛ったのではありません。漫画は、実在したものを、少し派手にしただけなのです。

なお、戸隠流忍術は、過去の遺物ではありません。現存する忍術の流派として今に受け継がれ、その三十四代宗家とされた初見良昭は、映画『〇〇七は二度死ぬ』の忍術指導を務めた人物として知られます。戸隠の山で生まれた(とされる)技は、海を越え、今では国内よりむしろ海外に多くの修行者を持っています。

経で龍を封じ、九字で敵をねじ伏せる。

戸隠は、言葉と印で見えない力を制してきた山でした。

けれど、この山が封じてきたのは、龍や敵だけではありません。

人間も、封じられました。


三章 ― 石になった女、消えた姫

戸隠には、人にまつわる、忘れがたい三つの話が伝わっています。

石にされた女。 去っていった姫。 不老不死に封じられた、子供たち。

どれも、戸隠神社が公式に「戸隠の神話」として伝えているものです。そして、どれも背筋が、ひやりとします。

女人禁制を破った者は、石になる

戸隠は、かつて女人禁制の地でした。

今では信じがたいことですが、当時、女性は不浄なものと考えられ、女性が立ち入ることで霊場が汚れ、神の怒りに触れる、とまじめに信じられていたのです。

長野市街の方から中社を過ぎ、旧越後道をしばらく歩くと、かつて「女人堂」という建物があった場所にたどり着きます。善光寺方面から来た女性は、ここまでしか入ることを許されませんでした。女人堂で遥拝――遠くから拝むこと――をして、そのまま引き返すしかなかった。柏原方面から登ってくる道にも、女人結界の碑が建っていました。やはり、ここから先へ、女性は進めなかった。

今からは想像もつかないほど、厳しい掟でした。

そして、こんな話が伝わっています。

よく晴れた、ある秋の日のこと。一人の比丘尼――尼僧――が、お供を連れて戸隠へやってきました。二人は、女性が立ち入れる限界点である、女人堂までたどり着きます。

お供はもちろん、比丘尼自身も、この先が女人禁制であることを、十分に承知していました。

ところが、比丘尼は、その掟など気にもかけないように、女人堂より奥へ、ずんずんと歩き出したのです。

お供は慌てて引き止めました。ここで遥拝をして、早く下山しましょう、と。けれど、いくら申し入れても、比丘尼は聞き入れず、さらに奥へ進もうとします。

お供は、ついに主を止めることができませんでした。掟を破った恐ろしさに震え、前にも後にも動けなくなり、ただただ、主の身に神の怒りが及ばぬよう、一心に祈ることしかできなかった。

ところが、どうでしょう。

比丘尼が、奥へしばらく進んだそのとき。今まで元気だった様子が、一変しました。ふと、歩みを止めたかと思うと、その場にバッタリと倒れ込んだのです。

そして、みるみるうちに、身が硬直していく。

どんどん、石に変わっていく――。

後ろでそれを見ていたお供は、あまりの驚きに駆け寄ろうとしましたが、この先が女人禁制であることを思い出し、あわてて本坊まで駆け戻りました。

今でも、女人堂跡から奥社方面へしばらく行った場所に、「比丘尼石」と呼ばれる大きな岩が、横たわっています。

長いあいだ、どの岩が比丘尼石なのか、わからなくなっていました。それが近年、近くに住む老人が、いつもある一つの岩にお供えをしているのが見つかったことをきっかけに、その岩こそが比丘尼石だと判明したといいます。

掟を破った女が、歩きながら、石になる。

戸隠が「封じる山」であることを、これほど直接に物語る話はありません。

皿を割って、姫は去った

二つ目は、もう少し優しく、けれど、やはり静かに怖い話です。

昔、戸隠に多くの院坊があった頃。参拝者は、戸隠権現に詣でたあと、院坊に一泊して帰るのが常でした。

中院にある坊、能海坊の住職は、ひとつの心配事を抱えていました。一度に大勢の参拝者が訪れると、もてなすための膳や茶碗が、足りなくなってしまうのです。

ある夜、住職が床に就いていると、枕元で、か細い女の声がしました。

「もしもし、能海坊どの……」

やがて、美しい姫が、どこからともなく現れて、こう告げます。わらわは、裏手のかまど池に住む「さらかし姫」と申す者。あなたが日夜、戸隠権現のために働く姿を愛でて、足りない調度品を整えて進ぜましょう。不足する品を紙に記して、池に沈めなさい、と。

半信半疑の住職は、翌朝、紙に「皿二十枚、お膳十膳」と書き、小石を包んで、人目を忍んで池に沈めました。

しばらくして池を訪れると――なんということでしょう。紙に書いたとおりの、美しい調度品の数々が、池のほとりに、積まれていたのです。

それからというもの、大勢の参拝者が来るときは、池から調度品を借りるようになりました。借りた品は、洗い清めて池のほとりに置いておけば、いつのまにか消えている。この話は近隣の坊にも広まり、皆が毎日のように、池から品を借りるようになりました。

ところが、ある日のこと。

近くの坊が、忙しさのあまり、借りた皿を一枚、割ってしまったのです。慌てた坊の主は、割れた皿を池のほとりに置くと、逃げるように帰ってしまいました。

その後、能海坊の住職が、いつものように紙に必要な数を書いて池に沈めても――もう、何も出てこなくなりました。

その夜、住職の枕元に、再びさらかし姫が現れます。

そして、こう告げました。先夜、ある人が皿を割った。それは事故であり、何の罪でもない。けれど、なぜその人は、過ちを認めて、堂々と許しを請いに来ないのか。自分の過ちを隠して、こそこそと逃げる人間の姿ほど、醜いものはない。わらわは、嘘と偽りの心を持つ者の、力にはなりたくありません――。

そう言い残して、姫の姿は、闇のかなたへ消えていきました。

かまど池は、今も旧能海坊の屋敷の裏に、昔と変わらず水を湛えているといいます。

割れた皿そのものではなく、それを隠して逃げた心。姫が去ったのは、過ちではなく、過ちを覆い隠そうとした、その一点に対してでした。戸隠の神は、嘘を、何より嫌う。

人魚を食べた子は、不死になった

三つ目は、中社の前に立つ、三本の杉にまつわる話です。

中社の鳥居を中心に、大きな杉の木が三本、正三角形を描いて立っています。その一辺は、およそ七十二メートル。なぜこの三本が植えられたのか――そこに、こんな伝説があります。

物語は、山中の戸隠とは縁のなさそうな、海辺の漁師から始まります。

昔、若狭の国に、妻を亡くし、子供たちと暮らす漁師がいました。

ある日、漁師が一人で漁をしていると、入江の奥で水浴びをする、美しい女性を見つけます。見とれているうちに、その体に、美しい鱗があるのに気づいた。人魚だ、と漁師は思いました。珍しいものを捕らえて、皆に見せてやろう。そう考えた漁師は、人魚を網で捕らえてしまいます。

人魚は、一生懸命に命乞いをしました。けれど、珍しい獲物に有頂天になった漁師は、聞き入れず、ついに人魚を殺してしまった。そして、その肉を家に持ち帰り、隠しておいたのです。

翌日、漁師は再び漁に出ました。留守番の子供たちは、遊んでいるうちに腹を空かせ、食べるものを探します。そして、父親が隠した、あの肉を見つけてしまった。

それが何の肉か、子供たちが知るはずもありません。空腹に耐えかね、子供たちは、その肉を煮て、食べてしまいました。

漁師が帰り、肉がないことに気づいて子供に問うと、「食べてしまった」という。漁師は、たいそう驚きました。

人魚の肉を食べた者は、人魚になる――そう、古くから言い伝えられていたからです。

果たして、言い伝えのとおり、子供たちの体に、次々と鱗が生えてきた。漁師は、なすすべもなく、眠れぬ日々を過ごしました。

そんなある日、疲れ果ててまどろんだ漁師の夢に、お告げがありました。剃髪して出家せよ。戸隠大権現に詣で、子供を救うために、三本の杉を植えよ。そして、戸隠三社の御庭草を八百日踏んで、無益な殺生を悔いる真情を、神に祈れ――。

ハッと目覚めると、傍らには、すでに冷たくなった、三人の亡骸がありました。

漁師は、お告げのとおり剃髪し、子供と妻の位牌を身につけ、はるばる海辺から戸隠大権現へと赴きます。名を「八百比丘」と改めて。そして、正三角形に三本の杉を植え、三社の御庭草を八百日踏んで、殺生の罪を悔いつづけました。

中社の前に立つ三本杉は、その漁師が、悔いとともに植えたものだと伝わっています。

人魚を殺した父の罪が、人魚の肉を食べた子の体に、不死となって現れる。戸隠は、罪と、その報いと、悔いとが、杉の姿になって今も立っている山なのです。

石にされた女。去った姫。不死に封じられた子。

戸隠が封じてきたのは、龍や敵だけではない。掟を破る心、嘘をつく心、命を粗末にする心――人の心のありようまでもが、この山では、容赦なく形に変えられ、留め置かれてきました。

そして、その封印の山を、私たちは歩くことになります。

四百年の杉並木の、奥へ。


四章 ― 四百年の杜と、修行者の糧

戸隠で、いちばん体に残るのは、社殿そのものよりも、奥社へ続く参道かもしれません。

入口の鳥居から本社まで、片道およそ二キロ。中ほどに、萱葺き屋根の赤い随神門が立ち、それをくぐった先から、樹齢約四百年の杉並木が、五百メートルにわたって続きます。クマスギの巨樹が二百本以上、参道の両側に並び、見上げれば、梢が空を覆う。

多くの人が、ここで言葉を失います。神々しい、という言葉が、ここでは陳腐ではなくなる。

自然林ではなく、人が造った杜

ここで、戸隠で最も意外な事実を一つ。

あの杉並木は、神代から自然に生えていた原生林ではありません。

人の手で、植えられたものです。

戸隠神社の公式が、はっきりとそれを認めています。杉並木の起源には、複数の契機がある。戦国の争乱で荒廃した戸隠を、朝鮮出兵から帰国した上杉景勝が復興した一五九四年頃。徳川幕藩体制が固まる慶長期、一六一二年頃。松本藩主・水野忠清が整備した、一六四三年頃。慶長十七年(一六一二)には、幕府から千石の朱印地を拝領した戸隠が、参道に植樹して、一山の威容を整えたといいます。

つまり、この神々しい景観は、戦国から江戸初期にかけて、武将と幕府の力によって、意図的に造形されたものでした。

「自然信仰の杜」が、実は「人が造形した杜」だった。この逆説こそ、戸隠の杜の、最も面白いところです。神聖さは、自然に湧くのではない。人が、四百年かけて育て、守ってきた結果なのです。

そして、なぜ四百年も守られたのか。

寛永二十年、徳川家康の側近であった天海――あの「黒衣の宰相」――が発給した法度によって、境内の竹木の伐採が厳しく禁じられました。この禁令によって、奥社の杜は、四百年近く、開発と破壊から守られてきたのです。

経で龍を封じた山にふさわしく、その参道もまた、人の祈りと権力によって守り抜かれた、結界のような杜でした。両脇の巨木を、結界の柱だと思って見上げると、空気が変わります。

杜の、巨きさ

この杉並木は、広大な杜のほんの入口にすぎません。

戸隠神社の保全調査によって、驚くべき数字が明らかになっています。社叢全域の巨樹調査で、胸高直径一メートル以上の巨木が、六百本を超えること。その半数以上が杉で、最大の巨樹は、直径二百二十七センチに達すること。杉のほかにも、ハルニレ、ブナ、トチ、ミズナラなどが混じり、全体で十五万四千坪に及ぶ自然林を成していること。域内随一の巨大なブナや、「ミズナラ大王」と呼ばれる巨木もあります。

もう一つ、暦をめぐる不思議な話があります。随神門から参道入口の鳥居へ至る延長線上、その先から、立春と立冬の朝に、太陽がまっすぐ昇る。参道が、暦の太陽軸に沿って引かれているかのように見えるのです。意図して設計したと断定する記録はありませんが、立春・立冬の御来光が参道の延長線上に昇る、という現象は、実際に観測されています。

呪術の山の参道が、太陽の運行と重なる。そう知って歩けば、ただの並木道が、急に意味を帯びてきます。

山の、いちばん険しい顔

奥社の参道は、本社の手前で終わります。けれど、戸隠山そのものは、その先で、まったく別の顔を見せます。

奥社のすぐ脇が、戸隠山の登山口です。杉並木の荘厳さに代わって、登るほどに道は険しくなり、脆く崩れやすい岩を這い伝う、修験の道が始まります。

その象徴が、「蟻の戸渡り」です。幅五十センチ前後しかない尾根の上が道となり、その両側が、断崖絶壁。文字どおり、蟻のように這って渡るしかない、一本道です。

岩戸が飛んできて立った山、という神話が、ここでは比喩ではなく、目の前の地形そのものになります。神話の「岩戸」が、地形として、垂直に立っている。

そして戸隠山には、修験の本体ともいうべき行場があります。「戸隠三十三窟」――山の周辺に分布する岩屋や洞穴の総称で、かつて修験者が籠もって修行した場です。第一番の本窟から、第三十三番まで番号が振られている。そして、その第一番の本窟こそが、戸隠神社の奥社なのです。奥社が岩窟に貼りつくように建っているのは、それが修験の出発点だったから。九頭龍社の龍窟と奥社の本窟は、今は社殿に覆われて見えませんが、残る窟は、今も山中に点在しています。

学問行者が龍を封じた岩窟。九字を切った山伏の道。蟻の戸渡りの断崖。三十三の修行窟。戸隠山は、神話と呪術と地形が、分かちがたく溶け合った、巨大な信仰の山なのです。

五穀を断った者の、糧

その険しい山から降りてきたら、最後に、蕎麦です。

戸隠蕎麦は、岩手のわんこそば、島根の出雲そばと並ぶ、日本三大そばの一つ。けれど、ここでも、観光ガイドの決まり文句の奥に、呪術の山ならではの背景があります。

戸隠は山岳密教の聖地で、かつてこの山には、米や麦などの五穀を持ち込むことが禁じられていた、と伝わります。

だから、平安時代に戸隠で修行した山伏たちは、修行中、常に蕎麦の実を携えました。すりつぶして水で掻いて食べたり、練ったものに梅干しをすり入れて、丸薬のように丸めて持ち歩いたりしたといいます。

戸隠の蕎麦は、もともと「ごちそう」ではなかった。五穀を断ち、山の力と一体化しようとした修行者が、それでも生き延びるための、最後の糧だったのです。

そのストイックな糧が、製粉とそば切りの技術が広まるとともに、戸隠神社を訪れる参拝客に振る舞う、ごちそうへと姿を変えていきました。

戸隠蕎麦は、蕎麦殻だけを取り除いた「挽きぐるみ」の粉を使うため、麺は黒っぽく、香りが強い。麺棒一本で丸く延ばし、冷水で締めた腰の強い蕎麦を、水をあまり切らずに、手で巻くように小分けにして、竹ざるに盛ります。

この盛り方を「ぼっち盛り」といいます。一口ほどの束を、五つか六つ、円いざるに馬蹄形に並べる。

なぜ、五束なのか。

一説には、この五つの束は、戸隠の五社の神を表しているといいます。天鈿女命、九頭龍神、天表春命、天手力雄命、天八意思兼命――。つまり、ざるの上に、戸隠の神々が五柱、蕎麦の姿で並んでいることになる。

修行者の糧として山に入った蕎麦は、参拝客のごちそうとなり、ついには、神そのものを象る供物にまで昇りました。毎年十一月には、職人が打ちたての新蕎麦を神前に供える、献納祭も行われます。

戸隠で蕎麦を手繰るとは、ただ腹を満たすことではない。五穀を断った修行者が噛んだ糧を、神の数だけ、自分の口に入れることなのです。黒く、冷たく、香りの立つ一杯を、どうか、そう思って味わってください。


結び ― 扉の奥へ

戸隠は、扉を隠した山でした。

天界の扉が、飛んできて落ちた。 経の力で、罪ある龍が、岩の戸の奥に封じられた。 九字という呪術で、見えない敵が、ねじ伏せられた。 掟を破った女が石になり、嘘を嫌った姫が消え、命を粗末にした報いが、不死の子の姿で留め置かれた。

戸隠とは、言葉と、印と、掟によって、見えない力を制し、封じ込めようとしてきた山なのです。

戸を、隠す。扉を、隠す。

神の世界へ通じる扉が、この山のどこかに、隠されている。もちろん、これは確認された事実ではなく、名前と伝承から生まれる読み方にすぎません。けれど、戸隠という土地が持つ空気を言い表すには、かなり的を射ています。

戸隠神社の本当の謎は、幽霊や怪事件のような、単純なものではありません。

なぜ、この一つの山に、これほど多くの神話と、信仰と、呪術が集まったのか。なぜこの地が、神の扉と、龍神と、修験者と、忍者を、すべて結びつける場所になったのか。

その答えは、奥社へ向かう杉並木の奥に、今も静かに、隠されているのかもしれません。

扉の奥へ歩く、心得

最後に、現実的なことを。

その扉の奥へは、自分の足で歩いてしか、たどり着けません。戸隠は、とにかく歩く場所です。

まず、五社は離れています。奥社・九頭龍社と、中社、宝光社、火之御子社は、それぞれ数キロずつ離れて点在している。全部めぐるなら、社と社の移動には、車か定期バスが要ります。

そして本丸の奥社参道は、入口の鳥居から本社まで片道約二キロ、往復でおよそ四キロ。前半の杉並木までは平坦ですが、随神門を過ぎたあたりから、急な坂と石段に変わります。最後の石段は、かなり急で、息が上がる。革靴やヒールでは、まず後悔します。だから、歩きやすいスニーカーで来てください。

標高千二百メートルの高原ですから、夏でも朝晩は涼しく、天気も変わりやすい。羽織れる一枚があると安心です。装いは「お参り」より、「軽いハイキング」に寄せておくのが正解です。

それから、季節。奥社・九頭龍社へ続く参道は、例年おおむね十一月下旬から四月上旬の冬季、雪のため閉鎖されます。周辺の駐車場の多くも閉まる。雪の戸隠は息を呑むほど美しいけれど、奥社まで参拝したいなら、訪れる時期は、必ず事前に確認してください。

龍が封じられ、忍者が九字を切り、山伏が呪文で山の力と一体化した、その山を、自分の足で歩く。

九字の元になった呪が、もともと「山に入る者の魔除け」だったことを、思い出しながら。巨木の参道を、登っていく。降りてきて、神の数だけ並んだ蕎麦を、手繰る。

戸隠という呪術の山は、本でわかる場所ではありません。歩いて、登って、食って、はじめて、体に入ってくる。

だから、もう一度だけ言います。

扉の奥へは、スニーカーで。

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