奈良 明日香村・飛鳥

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目次

プロローグ:墓の天井に、よその国の、過去の空があった

奈良県明日香村。田んぼと古墳しかない、人口五千人ほどの小さな村に、ひとつの墓がある。キトラ古墳。七世紀の終わりごろ、誰かがここに葬られた。

その石室の天井に、星空が描かれていた。三百個を超える星を金箔で散らし、朱の線で結んで星座を描き、天の赤道や太陽の通り道までも円で示した、本格的な星図である。死者は、頭上に宇宙を抱いて眠っていた。

ここまでは、ただ美しい話だ。問題は、その後に起きた。

国立天文台の研究者たちが、図に描かれた星の位置を一つひとつ測り、計算した。この星空は、いつ、どこで、実際に観測されたものなのか──。はじき出された答えが、おかしかった。

観測された年は、西暦三百年ごろ。墓が造られたより、およそ四百年も昔だった。

そして観測された場所は、日本ではなかった。緯度が示していたのは、海を越えた大陸──中国の、長安か洛陽あたりの空だったのだ。

もう一度、整理する。七世紀末の日本の墓の天井に、四百年前の、しかも外国の空が描かれていた。なぜ、死者の頭上に、誰も見たことのない過去の、よその国の星が必要だったのか。誰が、何のために、それを運んできたのか。

答えは、今も出ていない。

これが、飛鳥という土地だ。

奈良盆地の南の端、山あいに抱かれたこの村は、日本という国が「日本」になった場所である。六世紀に大陸から仏教が伝わり、最初の本格的な寺院が建ち、天皇という制度が形を整え、「日本」という国号がここで生まれた。教科書で誰もが習う「飛鳥時代」の、まさにその飛鳥が、この田んぼの風景だ。

だが、それほど重大な歴史の中心地でありながら──いや、おそらく、だからこそ──飛鳥は、日本でいちばん謎の濃い土地でもある。村のあぜ道を歩けば、その謎が文字どおり、足元に転がっている。

田んぼの脇に、十トンを超える花崗岩を彫った亀が、千年以上もうずくまっている。村人は言う。この亀がいつか西を向いたとき、奈良盆地は泥の海に沈む、と。たかが言い伝えだ。そう笑おうとして、笑えない。すぐ近くの土地では、古代に大規模な地すべりが起き、川がせき止められて盆地の一部が湖のようになっていたことが、地質調査で確かめられているからだ。荒唐無稽なはずの怪談に、地学の事実が、静かに寄り添っている。

少し歩けば、皿状にくり抜かれ、奇妙な溝で結ばれた巨石が現れる。何のための石なのか、誰にもわからない。さらに行けば、「鬼が旅人を捕らえ、調理して喰った」と伝わる、割れた石室が野ざらしになっている。村の南には、石を階段状に積み上げた、日本に類を見ないピラミッド形の古墳が眠っている。発掘の現地説明会には、「奈良のピラミッド」を一目見ようと、四千人が田んぼのあぜ道に列をなしたという。

学者たちが百年以上かけて掘り、測り、論じてもなお、飛鳥の謎は解けきっていない。そして、その空白めがけて、まったく別の物語が流れ込んでくる。

巨石の正体をめぐる、にわかには信じがたい説。古代の異国の宗教が、この地に持ち込まれていたという仮説。日本という国の成り立ちそのものを、根こそぎひっくり返そうとする物語──。ひとりの文豪が小説に賭けたある説は、当時は学界に冷たく黙殺された。だが、それを裏付けるかもしれない一片の証拠が、数十年後、別の遺跡の土の中から掘り出されることになる。

本サイトは、そのどちらも切り捨てない。考古学が積み上げてきた「ここまでは確からしい」という事実と、その縁からあふれ出す「ここから先は誰にもわからない」という想像。その二つを、はっきり分けたうえで、両方を歩く。何が学問で、何が幻想なのか。その境界線を見失わないまま、飛鳥という磁場の正体に、できるだけ近づいてみたい。

千年の謎が、田んぼの中に転がっている。

まずは、墓の天井に描かれた、あの過去の空から。

自転車を停めて、覗き込みに行こう。

第1章 西を向いたら、奈良は終わる

近鉄飛鳥駅でレンタサイクルを借り、田んぼのあいだの細い道を北へ向かう。観光案内の地図には「亀石」とだけ書かれている。看板を頼りに脇道へ折れると、民家の生け垣のすぐ脇、木の柵で囲われた一角に、それはいた。

長さ三・六メートル、幅二・一メートル、高さ一・八メートル。巨大な花崗岩の塊だ。上半分はごつごつとした自然石のまま。だが、地面に近い下部に、目と口と、手のようなものが彫られている。ぎょろりと飛び出した二つの目。への字に結ばれた口。どこか笑っているような、それでいて何かを見据えているような、不思議な顔つきだ。亀石。明日香村観光のシンボルとして、絵はがきにもなっている、人気者である。

ところがこの愛嬌のある石には、ぞっとするような言い伝えが結びついている。

地元にこう伝わる。亀石は、はじめ北を向いていた。それがいつしか東を向き、そして今は南西を向いている。もし、この亀がさらに向きを変え、真西──当麻(たいま)の方角を睨みつけたとき、大和国一円、すなわち奈良盆地のすべては、泥の海に沈む。

なぜ「西」で、なぜ「当麻」なのか。その背景には、こんな物語がある。

遠い昔、大和盆地一帯が、まだ大きな湖だったころのこと。湖の対岸にある当麻と、ここ川原(かわはら)との間で、争いが起きた。長い争いの果てに、当麻の側が勝ち、湖の水をすべて奪っていった。水を失った川原側は干上がり、湖に棲んでいた無数の亀が、死に絶えた。これを哀れんだ村人たちが、亀の姿を石に刻んで供養した──それが、この亀石なのだという。

死んだ亀の化身が、水を奪った当麻のほうを向いたとき、奪われた水が戻ってくる。いや、戻りすぎて、すべてを呑み込む。村に伝わる終末の予言は、そういう筋立てになっている。

たかが村の言い伝えだ。湖だっただの、亀の化身だの、笑い話の類だろう──。そう片づけてしまいたくなる。ところが、その「笑い話」の足元から、思いがけないものが顔を出す。

奈良盆地の西の端、大和川が盆地を抜けて大阪平野へ流れ出す、その出口に「亀の瀬」と呼ばれる地区がある。亀石の伝説に出てくる当麻にもほど近い、この一帯は、日本でも有数の地すべり地帯として知られている。地下の特定の地層が水を含むと滑り出し、地表ごと大きく動く。明治以降だけでも、たびたび大規模な地すべりを起こし、近代では鉄道のトンネルを押し潰したこともある、危険な土地だ。

そして、その亀の瀬の地質をめぐっては、こんなことが指摘されている。はるか古代、ここで大規模な地すべりが発生し、滑り落ちた土砂が大和川をせき止めた。川は行き場を失い、水は盆地のほうへ逆流して溜まり、上流の一帯が、湖のような状態になっていた時期があった、というのだ。亀石の解説でも、この地質学的な事実が、伝説の背景として紹介されている。

つまり、「昔、大和は湖だった」という、いかにも荒唐無稽な言い伝えの核に、地質学が確かめた事実が、横たわっている。そして「水を奪い、奪い返せば盆地が水に沈む」という予言の構図は、川がせき止められれば実際に水が逆流して盆地が水浸しになる、という亀の瀬の地すべりのメカニズムと、不気味なほど形が合っている。

もちろん、古代の人々が地すべりのメカニズムを科学的に理解していたわけではないだろう。だが、彼らはこの土地で実際に起きた水のふるまいを、長い時間をかけて記憶し、亀という化身と、西という方角に託して語り継いだ。そう考えると、この言い伝えは、ただの怪談ではなくなる。土地そのものが持つ危うさを、物語のかたちで未来に送り届けようとした、古代の防災の記憶──そう読むことも、できるのだ。

では、肝心の亀石そのものは、いったい何なのか。誰が、いつ、何のために、これほど巨大な石を彫ったのか。

ここでもまた、確かなことは、ほとんどわかっていない。

最も有力とされるのは、近くにあった川原寺という寺の、敷地の四方の境界を示す標石だった、という説である。亀石から東へ五百メートルほどの場所には、飛鳥時代に建てられた川原寺の跡が残っている。寺の所領の境を示すために、目印として置かれた石の一つが、この亀石ではないか──というわけだ。ほかにも、居住地と墓地の境を示すものだった、という説もある。

だが、それなら、なぜわざわざ「亀」のかたちでなければならなかったのか。境界を示すだけなら、ただの石柱でも事足りる。そこに、答えはない。

しかも、話はもう一段ややこしくなる。実はこの石、本当に亀なのかどうかすら、議論があるのだ。本物の亀なら、顔は丸みを帯び、目は顔の横につく。ところがこの石は、顔が三角形に近く、目は上に向かって飛び出している。これはむしろ、亀ではなく蛙(かえる)ではないか──そう指摘する研究者もいる。私たちが「亀石」と呼び、亀の伝説を重ねてきたこの石は、もしかすると、まったく別の何かを彫ったものなのかもしれない。

愛嬌のある顔で、千年以上、田んぼの脇に座り続けてきた石。その正体も、向きを変えてきた理由も、なぜ亀(あるいは蛙)なのかも、何ひとつ確定していない。わかっているのは、この石が西を向いていない、ということだけだ。

飛鳥の謎は、こんなふうに始まる。観光地図に小さく載った、絵はがきの石ころ一つにすら、底の見えない問いが沈んでいる。そして亀石は、この村に転がる無数の謎の、ほんの入口にすぎない。

自転車にまたがり、次の石へ向かう。

第2章 鬼が喰った石、宇宙から来た石

飛鳥の田園を歩いていると、ときどき、現実感がぐらりと揺らぐ瞬間がある。あまりに巨大で、あまりに意味不明な石が、あまりに無造作に、そこに在るからだ。この章では、その代表格を二つ訪ねる。一つは「鬼が人を喰った」と伝わる石。もう一つは「宇宙から来た」と囁かれる石である。

近鉄飛鳥駅の北東、欽明天皇陵と天武・持統天皇陵にはさまれた一帯。畑のあいだの遊歩道を歩くと、道の脇の高台に、平たい巨大な石板が横たわっている。長さ四メートル半、幅二・七メートル、厚さ一メートルほど。表面はつるりと平らで、いかにも何かを「載せる」ための台のように見える。鬼の俎(おにのまないた)。

そこから遊歩道をはさんで数十メートル、一段低い場所には、内側がぽっかりとくり抜かれた、別の巨石が転がっている。空洞の幅は一・五メートル、高さは一・三メートルほど。こちらは鬼の雪隠(おにのせっちん)。雪隠とは、トイレの古い呼び名である。

この二つの石に、ぞっとする言い伝えが残っている。

昔、このあたりは霧ヶ峰と呼ばれ、鬼が棲んでいた。鬼は通りかかった旅人に霧を降らせて道を迷わせ、行き悩んだところを捕らえる。そして高台の「俎」の上で旅人を料理して喰らい、腹がふくれると、下の「雪隠」で用を足した──。料理台と便所。鬼の食卓の、生々しい道具立てとして、この二つの巨石は語り継がれてきた。

もちろん、これは伝説だ。実際の正体は、はっきりしている。

二つの石は、もともと一つの古墳の石室だった。正確には「刳り貫き横口式石槨(よこぐちしきせっかく)」と呼ばれる、終末期の古墳に特有の埋葬施設である。硬い石(石英閃緑岩、あるいは花崗岩とも説明される)の塊を箱状にくり抜き、その中に棺を納める。「俎」はその石室の底石、「雪隠」は上にかぶせる蓋石だった。長い年月のあいだに墳丘の盛り土が失われ、蓋石が床石の位置から転がり落ちて、二つは数十メートル離れてしまった。底石には、扉石を据えた痕跡や、後世に石材として割り取ろうとしたとみられるほぞ穴も残っている。

現在は、すぐ近くにある欽明天皇陵に付随する陪冢(ばいちょう/お供えの小古墳)の一つとして、宮内庁が管理し、両方とも柵で囲われている。つまり、これは鬼の調理場ではなく、誰かの、それも身分の高い人物の、墓だったのだ。

ただ、ここで一つ、考えてみたくなる。なぜ古代の人々は、これを「墓」ではなく「鬼の料理台と便所」だと考えたのか。

おそらく、彼らはこれが墓だと知らなかった。盛り土が消え、巨大な石だけが二つ、奇妙なかたちでむき出しになっている。片方は人を載せられそうな平たい台。片方は人がうずくまれそうな、くり抜かれた空洞。霧の出やすい谷あいに、それが転がっている。理由のわからない巨石を前にしたとき、人の想像力は、もっとも生々しい物語を選んだ。喰う鬼と、喰われる人間。墓だという真実よりも、そちらのほうが、この石の異様さを、うまく説明できたのだろう。

鬼の石が「過去の怪物」を呼び寄せたとすれば、次に訪ねる石は、「未来」や「宇宙」を呼び寄せてしまった。

飛鳥の中心部から少し西、橿原市との境にある岩船山。標高百三十メートルほどの丘の頂上近く、竹藪を分け入った先に、それは現れる。益田岩船(ますだのいわふね)。

まず、大きさに圧倒される。東西およそ十一メートル、南北約八メートル、高さ約四・七メートル。推定重量は、八百トンとも、ものによっては千トンを超えるともいわれる、飛鳥最大の石造物だ。台形の巨大な岩塊の頂上には、一辺一・六メートル、深さ一・三メートルほどの正方形の穴が、二つ、間隔をあけて穿たれている。側面の上半分は、定規で測ったように滑らかに磨き上げられ、帯状の溝が一周している。ところが下半分は、格子状の荒削りな加工跡が残されたまま、未完成のように放置されている。

この異様な姿が、見る者の想像力を激しく刺激してきた。硬い花崗岩を、これほど精密に削り上げる技術。しかもそれを、作業に不向きな急斜面の上でやってのけている。一体、誰が、いつ、何のために──。

学説の世界では、いくつもの候補が争っている。最も古いのは、平安時代に近くの益田池の完成を讃えて建てられた、弘法大師・空海ゆかりの石碑の台石だった、という説。「益田岩船」という名前自体が、ここから来ている。ほかにも、天体観測のための台だったという占星台説、火葬した骨を納める墳墓説、見張り台説などが提唱されてきた。

そして近年、もっとも有力視されているのが、横口式石槨説である。先ほどの鬼の俎・雪隠と同じ、古墳の石室というわけだ。頂上の二つの穴は、棺を納める空間にあたる。実際、益田岩船から南東に数百メートルの場所にある牽牛子塚(けんごしづか)古墳の石室は、この二つの穴とよく似た構造をしている。研究者のなかには、岩船を九十度横倒しにすれば、二つの穴がちょうど横向きの石室の入口になる、と指摘する者もいる。つまりこれは、墓として削り出している途中で、片方の穴に亀裂が入るなどして失敗し、放棄された未完成の石室ではないか──というのだ。下半分の荒削りな加工跡は、まだ仕上げに入っていなかった証拠、ということになる。

ここまでが、学問の領域である。墓の石材を作りかけて、やめた。それが、もっとも理にかなった答えだ。

だが、飛鳥の巨石は、理にかなった答えだけでは、人を放っておいてくれない。

益田岩船の、あの姿。亀の甲羅を左右にくっつけ、中央に二つの四角い穴をうがった、巨大な岩のかたまり。それを森のなかで初めて目にした人々のなかから、こんな声が上がるようになった。

──これは、宇宙船ではないか。

異星から飛来し、森のなかに不時着した宇宙船。その輪郭が、益田岩船の姿と重なる、というのだ。二つの穴は、何かを差し込む装置の跡。精密に磨かれた側面は、地球の技術では不可能な加工。作業に不向きな急斜面という立地も、「運んで設置した」のではなく「そこに降りた」のだと考えれば、説明がつく──。こうした主張は、オカルト雑誌や古代ミステリーの文脈で、繰り返し語られてきた。

念のため、はっきり書いておく。これは学説ではない。考古学的な裏づけがある話でもない。あくまで、巨石の異様な姿が呼び起こした、想像の産物である。

ただ、この「宇宙船」という発想は、突拍子もないようでいて、世界の古代ミステリーの一つの系譜につながっている。たとえば古代インドの大叙事詩『マハーバーラタ』には、「ヴィマーナ」と呼ばれる空飛ぶ乗り物が登場する。神々や英雄がそれに乗って空をかけ、ときに凄まじい兵器で都市を焼き払う。オカルトの世界では、このヴィマーナを「古代に実在した飛行機械」「あるいは宇宙船」とみなし、世界各地の説明のつかない巨石遺構と結びつける、という発想が脈々と続いてきた。益田岩船を宇宙船とみる見方も、その大きな流れのなかにある。

繰り返すが、これらは「事実」ではなく「物語」だ。学問が「未完成の石室」と答えを出しているものに、人は「宇宙船」という別の物語を重ねた。だが、その物語が生まれてしまうこと自体が、益田岩船という石の、底知れない異様さを物語っている。八百トンの花崗岩を、急斜面の上で、現代の道具でも難しい精度で削り、なぜか途中でやめた。その事実は、宇宙船説を笑う者の足元にも、変わらず転がり続けている。

鬼が人を喰い、宇宙船が森に眠る。飛鳥の巨石は、見る者の心の奥にある物語を、容赦なく引きずり出してくる。

次は、その物語の源泉ともいえる、飛鳥の「謎の石造物」たちの中心へ向かおう。

第3章 誰のための水か――神仙境とカバラの樹

飛鳥寺の南、緩やかな丘の上に、その石はある。

長さ五・五メートル、幅二・三メートル、厚さ一メートルほどの、平たい花崗岩。上面には、いくつもの丸いくぼみが彫られ、それらが細い溝で互いに結ばれている。皿と、皿をつなぐ管。あるいは、何かの回路図のようにも見える。酒船石(さかふねいし)。飛鳥の謎の石造物のなかでも、もっとも名高く、もっとも解釈の割れてきた一つだ。

名前の由来は、その姿が酒を搾る道具に似ている、という古い見立てによる。江戸時代の文人たちは、これを「昔の長者が酒を造った石」と記した。だが、本当に酒を搾ったのか。薬を煮たのか。油を採ったのか。あるいは、まったく別の何かなのか――くぼみと溝の用途は、長いあいだ、誰にもわからなかった。

転機は、二〇〇〇年に訪れた。

酒船石のある丘の北の麓、東西と南を尾根に囲まれた谷の底で、大規模な発掘調査が行われた。そして、土の中から、奇妙な石の仕掛けが現れた。

まず、砂岩の切石を十一段に積み上げた、四角い取水塔。その内部を地下水が上がってきて、最上段の口から湧き出す構造になっている。湧き出した水は、まず小判形にくり抜かれた石の水槽に溜まる。そこからあふれた水は、隣に据えられた石へと流れ込む――亀のかたちをした、石の水槽へ。

亀形石造物(かめがたせきぞうぶつ)。全長約二・四メートル、幅約二メートル。花崗岩の塊を彫り、頭と尻尾、四本の足を表現してある。背中にあたる甲羅の部分は、直径一・二五メートル、深さ二十センチほどの鉢状にくり抜かれ、水を溜められるようになっている。水は亀の鼻にあたる穴から甲羅へ流れ込み、満ちると尻尾のV字の溝から外へ流れ出す。湧き出す水を、濾し、溜め、流す――そういう、精巧な水の装置だったのだ。

この発見で、酒船石遺跡の性格が、大きく見えてきた。

谷を囲む丘の斜面には、砂岩の切石を一メートル以上も積み上げた石垣が、ぐるりと巡らされていた。その全長は七百メートルにも及ぶ。丘の上は削られ、低い部分には版築(はんちく/土を突き固める工法)による大規模な造成が行われていた。これほどの土木工事を、いったい誰が、何のために。

手がかりは、『日本書紀』にあった。斉明(さいめい)天皇の時代、西暦六五六年の記事に、こうある。「宮の東の山に石を累(かさ)ねて垣とす」――宮殿の東の山に、石を積んで垣をめぐらせた、と。そして、嶺の上の二本の槻(つき)の木のそばに高殿を建て、これを「両槻宮(ふたつきのみや)」、別名「天宮(あまつみや)」と名づけた、とも記されている。

発掘された七百メートルの石垣と、書紀の「石を累ねて垣とす」の記述。両者は、不気味なほど符合する。この一帯こそ、斉明天皇が築いた両槻宮、あるいはそれに関わる祭祀の場ではないか――そう考えられるようになった。

では、その「天宮」で、何が行われていたのか。

ここで浮かび上がってくるのが、道教の思想である。亀形石造物の発掘に携わった研究者は、こう指摘している。亀は、中国の神仙思想において、特別な意味を持つ生き物だ。不老不死の仙人が住むという伝説の山「蓬莱山(ほうらいさん)」は、大海に浮かぶ巨大な亀の背中に乗っている、と古来語られてきた。両槻宮の別名「天宮」もまた、道教の経典に登場する、神仙が住まう天上の宮殿を指す言葉である。

つまり、この説によれば――斉明天皇は、飛鳥の丘に、人工の神仙境を造ろうとしていた。蓬莱山を背負う大亀を石で象(かたど)り、そこに清らかな湧き水を引き込み、不老不死の理想郷を、地上に再現しようとした。湧き出す水で身を浄め、天と通じる。閉ざされた谷底の、空しか見えない人工の空間で、女帝はおそらく、この世のものならぬ何かと向き合おうとしていた。

実際、発掘された石敷の空間は、奇妙なほど閉鎖的だった。周囲を高い尾根と砂岩の石垣に囲まれ、そこに立つと見えるのは、真上の空だけ。大勢で宴を開くような広さもない。きわめて人工的で、外界から切り離された、密室のような祭祀の場。神と、あるいは仙界と、ひそかに通じるための装置――そう考えると、この石の仕掛けの異様さに、一つの筋が通る。

ここまでが、考古学と古代史が描く、酒船石遺跡の姿である。道教の神仙思想を背景に、天皇が水の祭祀を行った、聖なる装置。出土した土器から、ここは七世紀の中頃から十世紀ごろまで、長く使われ続けたことがわかっている。

だが――丘の上の、あの酒船石。皿と溝の刻まれた、回路図のような巨石については、まだ、決着がついていない。亀形石造物が「水の祭祀」と説明されるようになった今も、酒船石そのものの用途は、実は確定していないのだ。そして、この「説明のつかない幾何学模様」が、まったく別の物語を呼び寄せることになる。

ここから先は、ムーの世界の話である。

酒船石の上面に刻まれた、複数の丸いくぼみと、それらを結ぶ溝。この図形が、ユダヤ教の神秘思想「カバラ」に伝わる、ある聖なる図像に似ている――そう説く者がいる。

カバラには「生命の樹(せいめいのき/セフィロト)」と呼ばれる、根本的な図がある。神による天地創造の構造を、十個の円(セフィラ)と、それらを結ぶ二十二本の直線で図式化したものだ。十の円は、神の光が物質世界へと流れ下る段階を表し、その配置と経路には、宇宙と人間の秘密のすべてが畳み込まれている、とされる。西洋の神秘思想の根幹をなす、極めて重要な図像である。

オカルトの世界では、こう主張される。酒船石の、丸いくぼみと、それを結ぶ溝。その配置こそ、この「生命の樹」を写したものではないか。であるならば、古代の飛鳥に、ユダヤの神秘思想が伝わっていたことになる――と。

念のため、はっきり書いておく。これは学説ではない。酒船石とカバラを結びつける、考古学的な根拠はない。図形が「似ている」という印象から出発した、想像の産物である。そもそも生命の樹の図像が現在の形に整えられたのは、はるか後世のことであり、七世紀の飛鳥と直接つなぐには、あまりに無理が多い。

それでも、この種の説が繰り返し語られてきた背景には、一つの大きな物語がある。日本人の祖先は、はるか古代に失われたイスラエルの民とつながっているのではないか――いわゆる「日ユ同祖論」と呼ばれる、フリンジな仮説である。この物語のなかでは、飛鳥の謎の石造物群は、しばしば「日本に持ち込まれたユダヤの痕跡」として読み替えられる。酒船石=生命の樹という見立ても、その大きな物語の一部として登場するのだ。この日ユ同祖論そのものについては、のちの章で、あらためて正面から扱うことにしよう。

学問は言う。これは道教の神仙境を模した、水の祭祀の装置である、と。一方でムーは言う。これはユダヤ神秘思想の暗号を刻んだ石である、と。

どちらが「正しい」かを、今ここで決める必要はない。確かなのは、丘の上のあの平たい石が、千数百年ものあいだ、見る者にまったく異なる宇宙を見せ続けてきた、という事実だけだ。道教の不老不死。ユダヤの生命の樹。皿と溝の刻まれた一枚の岩は、東洋と西洋の、二つの神秘思想を、その背に同時に乗せている。

亀の背に蓬莱山が乗るように。

次は、死者が眠る場所へ向かう。極彩色の壁画を抱いた、二つの古墳の話だ。

第4章 古墳より四百年古い星空

このサイトの入口で、私たちは一つの謎を提示した。キトラ古墳の天井に描かれた星空が、墓そのものより四百年も古く、しかも日本ではなく大陸の空を指している、という謎である。ここでは、その星空の前に、もう一度立つ。そして、覗き込めば覗き込むほど深くなる、その底へ降りていく。

まず、この古墳がどうやって見つかったかを話しておきたい。それ自体が、すでに尋常ではないからだ。

キトラ古墳の存在は、長いあいだ、ただの小さな丘としか思われていなかった。転機は、隣接する高松塚古墳で極彩色の壁画が発見された直後のこと。近くに住む人から「似たような古墳がある」と知らされたのが、調査の糸口になった。一九八三年、ファイバースコープを石室に差し込んで内部を探ると、奥の壁に、黒い亀と蛇が絡み合う「玄武」らしき絵が浮かび上がった。一九九八年には、上下左右に向きを変えられるカメラで再探査が行われ、青龍、白虎、そして――天井の天文図が、闇のなかから姿を現した。二〇〇一年には朱雀も確認される。誰も足を踏み入れられない小さな石の箱の中に、千三百年、誰にも見られることなく、極彩色の宇宙が閉じ込められていたのだ。

石室の壁には、四方を守る四神が描かれている。東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武。日本で、この四神がすべて揃って残っているのは、キトラ古墳だけだ。さらにその下には、獣の頭に人の体を持つ十二支の像。そして天井には、二百七十あまりの星を金箔で表し、朱の線で結んだ、本格的な天文図。天の北極を中心に、内規・赤道・外規という三重の同心円と、太陽の通り道を示す黄道が描かれている。東の傾斜面には金箔の太陽、西には銀箔の月。死者は、四方を聖獣に守られ、頭上に完全な宇宙を抱いて、眠りについた。

これほど本格的な星図は、東アジアでも例がない。中国・蘇州に残る南宋時代の有名な天文図より、およそ五百年も古い。現存する、観測に基づいて星の実際の位置を描いた天文図としては、世界でも最古級だと評価されている。

問題は、ここからだ。

天文学者たちは、この星図に挑んだ。星の配置には、長い年月をかけて少しずつずれていく「歳差(さいさ)」という現象が刻まれている。だから、星の位置を精密に測れば、その星空がいつ観測されたものか、逆算できる――はずだった。

ところが、答えが、研究者によって、まるで違ったのだ。

ある研究は、紀元前八十年ごろ、という値をはじき出した。別の研究は、西暦三百年ごろ、と出した。さらに四百年ごろ、とする見方もある。同じ一枚の図を、同じ歳差の理論で分析しているのに、出てくる年代が、数百年単位でばらける。いったい、なぜなのか。

この謎に、奈良文化財研究所の研究者が、一つの答えを出している。身も蓋もないが、しかし、ぞくりとする答えだ。

――キトラの天文図は、そもそも、精密ではないから。

詳しく天文図を観察すると、奇妙なことがいくつも見えてくる。描かれた星座の位置が、実際の夜空とは入れ替わっている。星座の大きさや傾きも、本物とは違う。星の位置を示すはずの三重の円の比率も、正しくない。太陽の通り道である黄道の円に至っては、描かれた位置そのものが間違っている。さらに下描きの線を見ると、丁寧に原図を写し取ろうとした形跡すら、読み取れないという。

つまり、この天文図を使って、実際に天体の観測をすることは、とてもできない。星の位置に、歳差から年代を割り出せるほどの精度が、もともと備わっていないのだ。だから分析する研究者ごとに、てんでばらばらの年代が出てしまう。

ここで、見え方が反転する。

「世界最古級の精密な天文図」と讃えられてきたこの星空は、科学の目で細かく見ると、かなり杜撰な、いいかげんな図でもあった。では、それは古代人の技術が未熟だったから、なのか。

おそらく、違う。奈文研の研究者はこう推測する。キトラの天文図は、実用の精密な星図そのものではなく、それをもとに、石室の天井という狭い円形のキャンバスに「描き直された」図なのだ、と。本物の観測図ではなく、本物を写し取った、いわば宇宙の縮図。だとすれば、星座の位置が多少ずれていても、円の比率が狂っていても、かまわなかった。これは、生きている人間が天体観測に使うための図ではないからだ。

これは、死者のための、宇宙だった。

ここに、この章のいちばん深い謎が口を開ける。なぜ、人ひとり入るのがやっとの、暗く閉ざされた石室の天井に、誰の目にも触れない宇宙を、わざわざ描いたのか。

おそらく、古代の死生観がかかわっている。死者を、完全な宇宙の中心に据える。天の北極を頭上に置き、四方を聖獣に守らせ、日と月を従えて、小さな石室の中に、もう一つの完結した天地を造り出す。死者はそこで、永遠に、宇宙の主として横たわる。実用に堪える精度など、はじめから必要なかった。必要だったのは、「これは完全な宇宙である」という、形と意味だけだったのだ。

そして、冒頭の謎に戻る。

その「宇宙の縮図」の元になった星空は、計算上、墓が造られた七世紀末より、はるかに古い時代の、しかも日本ではない大陸の緯度の空を指していた――と、複数の分析は示唆する。年代がばらつくとはいえ、いずれも飛鳥よりずっと昔の、海の向こうの空である。

これをどう考えるか。

もっとも素直な解釈は、こうだ。飛鳥の人々は、星空を自分で観測して描いたのではない。大陸で、何百年も前に作られた星図が、書物か手本のかたちで、海を越えて日本に伝わってきた。飛鳥の絵師は、その古い大陸の星図を手本に、石室の天井へ描き写した。だから、そこに広がるのは、飛鳥の夜空ではなく、見たこともない過去の、よその国の空になった――。

異国の、過去の宇宙を、書物に乗せて運び、死者の頭上に再現する。それは、当時の日本がどれほど深く大陸の文明とつながり、その知の体系を丸ごと受け入れようとしていたか、という事実の、静かな証でもある。飛鳥という時代は、海の向こうの宇宙までも輸入した時代だった。

もちろん、これは「もっとも素直な解釈」にすぎない。なぜその星図でなければならなかったのか、誰が運んだのか、本当に飛鳥の空ではないと言い切れるのか――確定したことは、何もない。千三百年、石の闇に閉じ込められてきたこの宇宙は、最新の科学を向けてもなお、その素性のすべては明かさない。

死者が抱いて眠る、よその国の、過去の空。飛鳥でいちばん美しく、いちばん静かな謎が、今も明日香村の地下で、瞬いている。

次は、その隣にある古墳へ。極彩色の女性たちが微笑む、高松塚の話だ。

第5章 飛鳥美人は、誰を見送ったのか

キトラ古墳から、北へ歩いて十数分。同じ国営飛鳥歴史公園のなかに、もう一つの壁画古墳がある。高松塚古墳。日本中の教科書に載った、あの「飛鳥美人」が眠る場所だ。

そもそも、この古墳が見つかったのも、偶然だった。一九六二年ごろ、村人が生姜(しょうが)を貯蔵するための穴を掘っていたところ、土の奥から、四角い切石にぶつかった。それが、千三百年ものあいだ眠っていた石室の壁だった。そして一九七二年三月、本格的な調査で石室の内部が照らし出された瞬間――調査員たちは、息を呑んだ。

闇のなかに、極彩色の人々が、立っていた。

緑、黄、紺、朱、桃色。あざやかな衣をまとった女性たちが、団扇のような道具や、孫の手のような威儀具を手にして、こちらを向いている。千三百年前に描かれたとは思えないほど、色が、生きていた。この女子群像が、のちに「飛鳥美人」と呼ばれ、戦後最大の発見として全国紙の一面をカラー写真で飾ることになる。これをきっかけに、日本中に空前の「飛鳥ブーム」が巻き起こった。

石室の壁には、女子群像だけでなく、男子の群像、そして四方を守る四神が描かれていた。東に青龍、西に白虎、北に玄武。南壁には朱雀があったはずだが、ここは失われている。鎌倉時代ごろに盗掘を受け、南壁に穴を開けられていたためだ。天井には、前章で見たキトラと同じく、星空が描かれていた。死者は四神に守られ、宇宙を頭上に抱き、極彩色の従者たちにかしずかれて、永遠の眠りについていた。

これほど手厚く葬られた人物は、いったい誰なのか。

ここから、飛鳥でもっとも有名な「謎解き」が始まる。高松塚古墳の被葬者は、今に至るまで、特定されていない。そもそも飛鳥地域の古墳は、誰の墓かわかっているものの方が、珍しいのだ。

手がかりは、いくつもある。古墳が造られた年代は、出土した銅鏡などから、当初は七世紀末から八世紀初めと推定され、二〇〇五年の調査で、藤原京の時代(六九四年〜七一〇年)の間だと確定された。石室から見つかった人骨を調べると、被葬者は四十代から六十代の、初老の男性らしい。副葬品の海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)と同じ文様の鏡が、中国・西安の六九八年に造られた墓から出土していることから、この鏡は遣唐使が持ち帰ったものとみられる。

これらの手がかりをめぐって、被葬者をめぐる説は、大きく三つに分かれている。

一つめは、天皇家の皇子だとする説。この古墳のあたりは、飛鳥に宮殿を営んだ天武天皇ゆかりの墓域が広がる。だから葬られたのは天武天皇につながる皇子の一人ではないか――というわけだ。具体的な候補としては、忍壁(おさかべ)皇子、高市(たけち)皇子、弓削(ゆげ)皇子らの名が挙がる。なかでも忍壁皇子は、四十六、七歳で亡くなったとされ、出土人骨の推定年齢に近いことから、有力な候補とされている。

二つめは、皇子ではなく、臣下の有力者だとする説。代表的なのが、石上麻呂(いそのかみのまろ)という、当時の最高クラスの貴族だ。ただし、この説をとると、古墳の年代は奈良時代にまで下ることになる。

そして三つめが、渡来系の王族だとする説。百済(くだら)、あるいは高句麗(こうくり)の王族の血を引く人物ではないか、というのだ。この説が浮かび上がる背景には、壁画そのものの様式がある。四神を描く構図や、女子群像の服装は、朝鮮半島の高句麗の古墳壁画と、よく似ていることが、早くから指摘されてきた。海を渡ってきた文化、海を渡ってきた血――その痕跡が、この石室には色濃く残されている。

皇子か。大臣か。渡来の王族か。決定的な証拠は、まだ、ない。極彩色の飛鳥美人たちは、自分たちが誰を見送ったのか、千三百年、口を閉ざしたままだ。

ところで、この高松塚古墳には、被葬者の正体とは別に、もう一つ、ぞくりとさせる事実がある。

石室から見つかった被葬者の遺骨には、頭の骨が、なかった。そして、副葬されていた剣は、刀身だけが抜き取られていた。

通説では、これらは鎌倉時代の盗掘のしわざとされる。盗掘者が頭骨を持ち去り、刀身を抜いた、と。だが、ここに、別の見方を唱える者もいる。棺が納められた石室の内部には、人がほとんど入り込めるすき間がない。その狭い空間で、わざわざ頭骨だけを持ち去り、剣の刀身だけを抜く――そんな手間のかかる盗掘が、本当にあり得るのか。しかも、金目の副葬品の多くは、残されたままだったのだ。

そこから、こんな解釈が生まれる。これは盗掘ではない。最初から、頭のない遺骨と、刀身のない剣が、意図的に葬られたのではないか。だとすれば、それは何を意味するのか――死者の復活を封じるための、呪術ではなかったか、と。

念のため、書いておく。これは確定した学説ではない。頭骨と刀身が失われているのは事実だが、その理由を「呪い」と結びつけるのは、史料の裏づけがある話ではなく、あくまで一つの推論である。通説どおり、盗掘によるものと考えるのが、穏当だろう。

それでも――極彩色の従者にかしずかれ、宇宙を抱いて眠るはずだった高貴な人物が、頭を失い、剣を折られた状態で見つかった、という事実は、消えない。これほど丁重に飾られた墓の主が、なぜ、そんな姿で横たわっていたのか。手厚い葬送と、無残な欠損。その落差が、この古墳に、名状しがたい影を落としている。

誰が葬られ、なぜ頭がなく、何のために極彩色の宇宙が描かれたのか。高松塚古墳は、答えの出ない問いを三つも抱えたまま、今は密閉され、人の目から遠ざけられている。

その「密閉」もまた、苦い物語をともなっている。一九七二年の発見から三十年あまり、壁画は石室のなかでカビにむしばまれ続け、深刻に劣化していった。原因は、空調の不備や、人の出入りによってカビが持ち込まれたことだとされる。最終的に文化庁は、二〇〇七年、前代未聞の決断を下す。石室を解体し、壁画を外へ取り出して、別の施設で修復・保存することにしたのだ。飛鳥美人たちは今、生まれ育った地下の石室を離れ、人工的に管理された部屋のなかで、静かに治療を受け続けている。

千三百年、闇のなかで色を保ち続けた絵が、見つかったとたんに傷んでいく。それは、飛鳥の謎を「見たい」という私たちの欲望が、その謎を損なってしまう、という痛烈な逆説でもあった。

次は、その飛鳥で、もっとも血なまぐさい事件の現場へ向かおう。宮殿の庭で、一人の男の首が飛んだ話だ。

第6章 飛んできた首

明日香村の中心に近い、飛鳥寺。その境内を西の門から出て、田んぼのあいだの道を百メートルほど歩くと、稲穂の海のなかに、ぽつんと、小さな石塔が立っている。花崗岩でできた、五輪塔。背後には、なだらかな甘樫丘(あまかしのおか)。観光客もまばらな、のどかな場所だ。

だが、この石塔には、日本史上もっとも有名な暗殺事件の、生々しい記憶が刻まれている。

蘇我入鹿(そがのいるか)の、首塚である。

ここまで、その首が飛んできた、と伝わっているのだ。

話は、六四五年の初夏にさかのぼる。

当時、飛鳥の朝廷で絶大な権力を握っていたのが、蘇我氏だった。仏教を日本に根づかせ、寺を建て、天皇家と姻戚を結び、四代にわたって政治の中枢を握り続けた一族。その頂点に立っていたのが、大臣・蘇我蝦夷(えみし)と、その子・入鹿である。入鹿は、若いころ僧に学び、「私の塾に入った者のなかで、入鹿ほどの秀才はいない」と言わしめたほどの人物だった。だが、その権勢は、しだいに天皇家をしのぐほどに膨れ上がっていた。

これに危機感を抱いたのが、皇族の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/のちの天智天皇)と、中級豪族出身の中臣鎌足(なかとみのかまたり/のちの藤原氏の祖)だった。

二人の出会いそのものが、飛鳥らしい。きっかけは、飛鳥寺の西にあった「槻(つき)の木の広場」で催された、蹴鞠(けまり)の会だったと伝わる。蹴鞠に夢中になった中大兄皇子が、勢いあまって沓(くつ)を脱げ飛ばしてしまう。それを拾って恭しく差し出したのが、鎌足だった。この何気ない所作から、二人は親交を深めていく。そして山中で、ひそかに、ある計画を練り上げていった。打倒、蘇我氏。

機会は、その年の六月に訪れた。

朝鮮半島の三国――新羅、百済、高句麗――からの使者が、貢ぎ物を携えて来朝する。その儀式は、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の大極殿で執り行われる。大臣である入鹿も、必ず出席する。中大兄皇子と鎌足は、この儀式の場を、暗殺の舞台に選んだ。

その日は、雨だった。

大殿には、皇極(こうぎょく)天皇が座し、入鹿が居並ぶ。蘇我氏の一族でありながら計画に加わっていた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が、儀式の上表文を読み上げはじめる。だが、いざ斬りかかる役目の者たちが、恐怖で動けない。石川麻呂は、いつまでも現れない襲撃に、声を震わせ、汗を流す。入鹿が、その不審な様子を見とがめた、その瞬間――。

隠れていた中大兄皇子が、自ら飛び出し、入鹿に斬りかかった。佐伯子麻呂(さえきのこまろ)らも続く。不意を突かれた入鹿は斬りつけられ、皇極天皇に向かって、自分は無罪だと必死に訴えた。だが、止めを刺される。その遺体は、雨の降りしきる庭の外へ、無造作に打ち捨てられたという。

宮殿の庭先での、白昼の――いや、雨の日の――暗殺。それも、天皇の目の前で。これが、日本史の教科書に必ず登場する「乙巳の変(いっしのへん)」である。翌日には、入鹿の父・蝦夷も、自らの館に火を放って自害。栄華を極めた蘇我本宗家は、あっけなく滅び去った。そして、この事件をきっかけに、中大兄皇子と鎌足による国家改造――「大化の改新」が始まっていく。

ここまでが、『日本書紀』が伝える、乙巳の変の顛末である。

さて、首塚の話に戻ろう。

入鹿が斬られた飛鳥板蓋宮の跡(現在は飛鳥宮跡と呼ばれる)と、この首塚とは、直線距離で六百メートルほども離れている。常識的に考えれば、斬られた首が六百メートルも飛ぶはずがない。これは、明らかに伝説の領域の話だ。

では、なぜ、こんな伝説が生まれたのか。

斬られた入鹿の首が、飛んだ。そして、ある言い伝えでは、その首は、暗殺の首謀者である中大兄皇子を、あるいは鎌足を、追いかけたという。無念のあまり宙を舞い、自分を殺した者へと襲いかかる首――。これは、日本に残る「怨霊(おんりょう)」の伝承のなかでも、とりわけ古いものの一つに数えられる。

考えてみれば、入鹿には、怨霊になるだけの条件が、すべて揃っていた。絶大な権力を握りながら、天皇の御前で、不意打ちで斬り殺された。無罪を訴える間もなく止めを刺され、遺体は雨の中に打ち捨てられた。これほど無念な死に方も、そうはない。人々は、その横死の凄まじさに、「彼は祟(たた)るに違いない」という恐れを抱いた。飛んだ首の伝説は、加害者の側が――あるいは、それを語り継いだ人々が――入鹿の無念をどれほど恐れたか、その恐怖の深さの、裏返しなのだ。

実際、首塚が建てられている向きにも、意味が読み取れる。この五輪塔は、入鹿とその父・蝦夷の館があったとされる甘樫丘を、背にして立っている。滅ぼされた一族の本拠地を背負うように、首塚は置かれている。現存する五輪塔そのものは、南北朝時代のものと推定されるが、この場所に入鹿の首をめぐる記憶が宿り続けてきたこと自体が、千年を超える時間の重みを感じさせる。

権力者が、天皇の前で斬られ、その首が飛んで、敵を追う。それを恐れた人々が、塚を建てて、その魂を鎮めようとする。飛鳥という時代の、華やかな仏教文化や、洗練された星図の裏側には、こうした生々しい血と、怨念と、それを恐れる心が、たしかに流れていた。

田んぼの中の小さな石塔は、今日も静かに、甘樫丘を背負って立っている。観光客がカメラを向け、通り過ぎていく。だが、その足元には、千四百年前の雨の日に流された血の記憶が、今も眠っている。

次は、その血の時代を生き抜いた、もう一つの「動かないもの」の話をしよう。何度焼かれても、同じ場所に座り続ける、一体の仏の話だ。

第7章 焼けても、動かない仏

蘇我入鹿の首塚から、東へ百メートルほど。田んぼに囲まれた一角に、こぢんまりとした寺がある。飛鳥寺(あすかでら)。観光寺院のような華やかさはない。だが、この寺の本堂には、日本のすべての仏像の「はじまり」が座っている。

飛鳥大仏。日本最古の仏像である。

その前に、この寺がどれほど特別な場所かを、おさえておきたい。

飛鳥寺は、日本で最初の本格的な寺院だ。前に見た乙巳の変で滅びる、あの蘇我氏が建てた。仏教を受け入れるか拒むかをめぐって、蘇我馬子(うまこ)は、排仏派の物部守屋(もののべのもりや)と争っていた。馬子は、その戦いに勝利を祈願して、「勝てたなら寺を建て、仏法を広めよう」と誓う。そして守屋を滅ぼすと、誓いどおり、五八八年に寺の建立に着手した。完成は五九六年。塔を中心に、東・西・北の三方に金堂を配する、当時としては破格の規模の大伽藍だった。建設にあたっては、朝鮮半島から多くの技術者が招かれ、この国で初めて、瓦が焼かれた。飛鳥寺は、日本の本格的な寺院建築の、文字どおりの出発点なのだ。

ちなみに、前章で触れた中大兄皇子と中臣鎌足が出会った「槻の木の広場」も、この飛鳥寺の西にあった。乙巳の変も、大化の改新も、この寺の目と鼻の先で始まっている。飛鳥寺は、日本の宗教史と政治史が交わる、まさに結節点だった。

その本尊が、飛鳥大仏である。

正式には、銅造釈迦如来坐像。推古天皇の命を受け、渡来系の仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)が手がけた。六〇五年に制作が始まり、六〇九年に完成したと伝わる。座高はおよそ二・七五メートル。銅を十五トン使い、表面には三十キロもの金で鍍金(メッキ)が施されていた。今は金もはげ、漆黒の肌をしているが、造られた当初は、まばゆいばかりに輝いていたはずだ。

その顔を見上げると、不思議な表情に出会う。面長の輪郭。アーモンドのかたちをした、切れ長の目。そして、口元に浮かぶ、かすかな微笑。この笑みには「アルカイックスマイル」という名がついている。もともとは、古代ギリシャの彫刻に見られる表情だ。それが、シルクロードを通って、はるばる東へ伝わり、この飛鳥の地にたどり着いた。つまり飛鳥大仏は、地中海から続く長い長い文明の道の、東の最果てに咲いた花でもある。漆黒の仏の微笑みの奥に、ギリシャの陽光が、かすかに溶け込んでいる。

さて、この飛鳥大仏には、二つの大きな謎がある。

一つめ。この仏は、本当に「日本最古の仏像」なのか。言い換えれば、今この本堂に座っている仏は、どこまでが、六〇九年の創建当時のものなのか。

飛鳥寺は、その長い歴史のなかで、何度も火災に見舞われた。とりわけ、平安時代の八八七年と、鎌倉時代の一一九六年の二度の大火で、伽藍は焼け落ち、大仏も激しく損傷した。その後、伽藍の再建もままならず、大仏は長いあいだ、屋根もない露天に座らされていた時期さえあったという。

このため、長らくこう考えられてきた。飛鳥大仏は、度重なる火災で大部分が溶け落ち、後世に作り直された。創建当時のまま残っているのは、顔の一部や、右手の指の数本程度にすぎない――と。日本最古の仏像でありながら、飛鳥大仏が国宝に指定されていないのも、「大部分が後世の補修だから」というのが、その理由だとされてきた。

ところが、近年、この通説を揺るがす研究が現れた。早稲田大学の研究チームが、大仏をX線で分析したのだ。すると、「創建当時のもの」とされてきた箇所と、「鎌倉時代以降に補修された」とされてきた箇所とで、銅などの金属の組成に、際立った差がなかった。この結果は、仏身のほとんどが、実は飛鳥時代当初のままである可能性が高い――ということを示している、というのだ。

つまり、今この瞬間も、「ほとんど残っていない」のか、「ほとんど当初のままなのか」、専門家のあいだで見解が割れている。千四百年前に造られた仏が、どこまで千四百年前のものなのか。最新の科学を向けても、まだ決着がついていない。日本最古の仏像は、その「最古」の中身さえ、確定していないのである。

そして、二つめの謎――いや、これは謎というより、静かな驚きと言うべきかもしれない。

火災で全身を焼かれ、補修を重ね、一時は露天にさらされた。それほどの苦難を経ながら、この飛鳥大仏は、千四百年のあいだ、ただの一度も、その場所を動いていない。

これは、感覚的な物言いではない。調査によって、大仏が座る台座の石――兵庫県産の龍山石(りゅうざんせき)――が、創建以来、一度も動かされていないことが、確かめられている。現在の本堂は、もともと飛鳥寺の中心だった中金堂が建っていた、まさにその場所に再建されている。つまり、私たちが今、この大仏を拝んでいる位置は、千四百年前に、蘇我馬子が、そして聖徳太子が、この仏に向かって手を合わせた、まったく同じ場所なのだ。

飛鳥寺の住職は、こう語っている。大仏が動いていないということは、かつて聖徳太子が祈った、その同じ場所で、現代の私たちも手を合わせられる、ということだ、と。

仏殿は焼け、再建され、仏の体は補修され、論争の的になった。それでも、座る場所だけは、千四百年、ぴくりとも動かなかった。だからこの大仏は、外へ出されたことが一度もない。美術展に貸し出されたことすら、ない。動かせないのではなく、動かさないのだ。建物が変わっても、体の一部が変わっても、「この場所で祈る」という一点だけは、千四百年、守り抜かれてきた。

考えてみれば、この章のはじめに見た蘇我入鹿の首は、斬られて「飛んだ」と伝えられた。動かされ、奪われ、さまよう首。一方、その同じ蘇我一族が建てた寺の仏は、何があっても動かない。飛んだ首と、動かぬ仏。飛鳥という土地は、その両極を、わずか百メートルの距離のなかに、抱え込んでいる。

漆黒の大仏は、今日も、千四百年前と寸分たがわぬ場所で、かすかに微笑んでいる。ギリシャから届いた微笑みを浮かべて、焼かれても、削られても、ただそこに、座り続けている。

次は、その飛鳥に眠る、もう一つの「あり得ないもの」の話だ。日本にただ一つの、ピラミッド形の古墳である。

第8章 奈良のピラミッド

二〇一四年の夏、ある考古学の発表が、全国を駆けめぐった。

奈良県明日香村の都塚(みやこづか)古墳。それまで、ありふれた小さな方墳だと思われていたこの古墳が、発掘調査の結果、石を階段状に積み上げた、ピラミッドのような形だったと判明したのだ。報道は、これを「奈良のピラミッド」と呼んだ。後日開かれた現地説明会には、ひと目見ようと、四千人もの人々が、田んぼのあぜ道に列をなした。

日本に、ピラミッド。にわかには信じがたい話だが、これは正真正銘、学術調査の成果である。今回は、この「奈良のピラミッド」の正体に迫っていく。

都塚古墳は、明日香村の中心からやや南東、尾根の先端の傾斜地にある。発掘の前は、一辺二十八メートルほどの、ごく普通の方墳と考えられていた。ところが、二〇一三年から二〇一四年にかけての調査で、墳丘の表面に、思いがけないものが見つかった。

石が、階段状に積まれていたのだ。

一段あたりの高さは、三十センチから六十センチほど。その上に幅六メートルほどのテラス状の平らな面があり、また石積みがあって、また平らな面がある――それが何段も積み重なっていた。確認されたのは四段以上。未調査の部分も含めれば、全体では七段から八段におよぶ、階段状のピラミッドだったと復元される。墳丘全体の規模は、東西四十一メートル、南北四十二メートル。高さは四・五メートル以上、見る角度によっては七メートルを超える。当時の天皇陵に匹敵する、堂々たる大型方墳である。その築造には、のべ三万人もの人手が関わったと推計されている。

このような「階段ピラミッド」の形をした古墳は、日本では、ほかに例がない。都塚古墳は、国内でただ一つの、階段ピラミッド形の古墳なのだ。

では、なぜ、日本にこんな形の墓が、ぽつんと一つだけ存在するのか。

ここで、海の向こうに目を向ける必要がある。

実は、石を階段状に積み上げた墓――「積石塚(つみいしづか)」と呼ばれる形式は、五世紀ごろの朝鮮半島、とりわけ高句麗(こうくり)や百済(くだら)の王たちの墓に、はっきりと見られるものだ。階段状に石を積み上げ、頂上へと登っていくその姿は、まさにピラミッドを思わせる。都塚古墳の階段ピラミッド構造は、この高句麗・百済の積石塚と、深い関連があるのではないか――研究者たちは、そう指摘している。

つまり、都塚古墳の「ピラミッド」は、エジプトとも、宇宙人とも、関係がない。それは、海を越えてやってきた、大陸の墓づくりの作法だった。飛鳥が、いかに朝鮮半島の文化と深くつながっていたか――この章でも、また同じ事実に突き当たる。前章の飛鳥大仏も、その表情はギリシャから来た。ここの古墳も、その形は朝鮮半島から来た。飛鳥は、海の向こうの文明が、いくつも流れ込んでくる、巨大な河口のような場所だったのだ。

では、この大陸風のピラミッドに、誰が葬られたのか。

最有力候補として名が挙がるのが、蘇我稲目(そがのいなめ)である。

蘇我稲目は、飛鳥で権勢をふるった蘇我一族の、事実上の祖にあたる人物だ。前の章までに登場した、飛鳥寺を建てた蘇我馬子は、稲目の子。乙巳の変で滅びた蘇我蝦夷・入鹿は、稲目の子孫にあたる。つまり稲目は、飛鳥の歴史を動かし続けた、あの一族の出発点に立つ人物なのだ。

なぜ、都塚古墳が稲目の墓だと考えられるのか。手がかりは、すぐ近くにある。

都塚古墳から、北へわずか四百メートル。そこには、誰もが知る、もう一つの巨石の古墳がある。石舞台古墳(いしぶたいこふん)だ。盛り土が失われ、巨大な石を組んだ横穴式石室がむき出しになった、飛鳥のシンボル。その被葬者は、蘇我馬子だと有力視されている。

馬子の墓が、すぐ北にある。そして都塚古墳は、その石舞台古墳よりも、少しだけ古い時代に造られている。だとすれば――馬子の墓のすぐそばにあり、馬子よりひと世代前に造られた、この堂々たる大型方墳は、馬子の父、すなわち蘇我稲目のものではないか。そう考えるのは、きわめて自然なことだ。実際、都塚古墳と石舞台古墳は、谷を流れる川をはさんで向かい合っており、二つで一対の「双墓(ならびばか)」をなしていたのではないか、という見方もある。父と子の墓が、谷をはさんで、寄り添うように並ぶ――。

もちろん、稲目の墓だと断定はできない。被葬者を稲目とするには、まだ決定的な証拠が足りないし、別の古墳を稲目の墓とみる説もある。飛鳥の古墳の常で、ここでも被葬者は、確定していない。

それでも、都塚古墳が私たちに突きつける問いは、鮮烈だ。なぜ、飛鳥のこの一族は、わざわざ大陸の王の墓の形――階段ピラミッドを、自分たちの墓に選んだのか。

一つの見方は、こうだ。当時の日本は、長く続いた前方後円墳の時代が終わり、新しい墓の形を模索していた、ちょうど過渡期にあった。その模索のなかで、蘇我氏は、最先端の文明国であった中国や朝鮮半島の積石塚に学び、この階段ピラミッドを造ったのではないか――。仏教を最初に受け入れ、最初の寺を建て、大陸の技術者を招き続けた蘇我氏。その一族が、墓の形にまで、大陸の最先端を取り入れた。都塚古墳は、蘇我氏という一族が、いかに「海の向こう」を志向していたかを、その形そのもので物語っているのかもしれない。

ちなみに、この都塚古墳には、もう一つ、ささやかな別名がある。「金鳥塚(きんちょうづか)」。元旦の朝、この墳丘の上で、金色の鶏が鳴く――そんな言い伝えが、地元に残されている。階段ピラミッドの頂で、新年の光のなかを舞う金の鶏。飛鳥の古墳は、学術的な謎の隣に、いつも、こうした静かな伝説を寄り添わせている。

大陸の王の作法で築かれた、日本にただ一つのピラミッド。その頂で、金の鶏が鳴く。飛鳥の南の尾根に、それは今も、四角い影を落としている。

次は、飛鳥の謎の、いよいよ核心へ近づいていく。海の向こうから来たのは、文化や技術だけだったのか。それとも――人も、来ていたのか。一人の文豪が命を賭けて挑んだ、「飛鳥ペルシャ説」の話だ。

第9章 ペルシャ人は、いた

ここまで、私たちは何度も同じ事実に突き当たってきた。ギリシャから来た微笑み。朝鮮半島から来たピラミッド。大陸から来た星図。飛鳥は、海の向こうの文明が、いくつも流れ込む土地だった。

では、文化や技術だけでなく――人も、来ていたのだろうか。

それも、中国や朝鮮半島だけでなく、もっと、はるか西から。シルクロードのかなた、現在のイランのあたり、古代ペルシャから。

この、一見すると荒唐無稽な問いに、生涯をかけて挑んだ一人の男がいる。日本を代表する作家、松本清張である。

清張といえば、『点と線』『砂の器』などで知られる、社会派推理小説の巨匠だ。だが、その晩年、彼は古代史に深くのめり込んでいった。なかでも執念を燃やしたのが、飛鳥の謎の石造物群だった。そして一九七三年から翌年にかけて、新聞連載という形で、一つの長編小説を世に問う。『火の路(ひのみち)』である。

物語の主人公は、高須通子(たかすみちこ)という、若き女性の古代史研究者だ。彼女は、飛鳥の謎の石造物――酒船石、益田岩船、猿石といった、用途不明の巨石群に、ある仮説を抱く。これらは、日本古来のものでも、中国や朝鮮から来たものでもない。もっと遠い、ペルシャの宗教文化の産物ではないか――と。

清張が小説のなかで展開した仮説は、こうだ。

七世紀の飛鳥に、ペルシャ人が渡来し、住みついていた。そして彼らは、古代ペルシャの宗教――ゾロアスター教(拝火教)を、この地に持ち込んだ。あの酒船石は、ゾロアスター教の儀式で用いる聖なる酒「ハオマ」を製造するための装置だった。そして益田岩船は、火を神聖視するゾロアスター教徒が築いた、拝火壇だったのではないか。前に見た、斉明天皇が築いたという「両槻宮(ふたつきのみや)」――道教の天宮とも呼ばれたあの施設も、実は日本の宗教とも、朝鮮の宗教とも異質な、はるか西方の宗教の色を帯びていたのではないか――。

念のため、断っておく。これは小説である。高須通子は、清張が創造した架空の人物だ。だが、彼女が作中で発表する論文の内容は、清張自身が本気で考え抜いた、ひとつの「学説」だった。清張は、この小説を書くために、わざわざイランまで取材に赴き、ゾロアスター教の遺跡を自分の足で歩いている。小説の体裁をとりながら、その実、彼は飛鳥ペルシャ説という自説を、世に問うていたのだ。

では、学界は、この文豪の挑戦を、どう受け止めたか。

冷たかった。

専門の古代史研究者たちの反応は、ほとんど黙殺に近かった。畑違いの作家が唱える「大胆な仮説」――そう皮肉まじりに笑うだけだった、と当時を知る研究者は語っている。七世紀の飛鳥に、ペルシャ人が住んでいた? ゾロアスター教が伝わっていた? そんな話は、学問的な裏づけを欠いた、作家の空想にすぎない――。それが、当時の学界の、大方の受け止め方だった。

酒船石とゾロアスター教を直接結びつける証拠は、たしかに、ない。今日の研究でも、酒船石とゾロアスター教の関連は薄いとみられている。その点では、清張の具体的な仮説は、学問的に支持されているとは言いがたい。

だが――話は、ここで終わらない。

清張が没してから、二十年あまり。二〇一六年十月、奈良文化財研究所が、ある発表を行った。それは、清張の「珍説」を笑った人々を、静かに、しかし深く、ざわつかせるものだった。

奈良市の平城宮跡から、一枚の木簡が見つかっていた。長さおよそ二十七センチ、幅三センチほどの、細長い木の札。それ自体は、一九六六年、もう半世紀も前に出土していたものだ。役人を養成する「大学寮」の、宿直勤務の記録である。だが、書かれた文字が薄れ、長いあいだ、名前の一部が読めないまま、眠っていた。

その木簡に、最新の赤外線撮影が行われた。すると、それまで読めなかった文字が、闇から浮かび上がった。

「破斯(はし)」。

これは、ペルシャを意味する中国語「波斯(はし/ボーシー)」と、同じ言葉だ。木簡には、こう記されていた。「員外大属(いんがいだいさかん) 破斯清通(はしのきよみち)」。つまり、「破斯(ペルシャ)」を名字とする「清通」という名の役人が、奈良の都の役所で、定員外の事務官として働いていた――(なお、この人物の名は、当初「清通」と読まれたが、その後「清道(きよみち)」と読み改められている)。

国内の出土品から、ペルシャ人を示す文字が確認されたのは、これが初めてだった。研究者は言う。彼は国際的な知識を買われ、役人として登用された可能性がある、と。

古代の日本に、ペルシャ人が、いた。それも、ただ流れ着いたのではなく、都の役所で官僚として働いていた。清張が小説で「ありえた」と書き、学界が鼻で笑ったその光景が、土の中から出てきた一枚の木の札によって、まぎれもない事実として、立ち上がってきたのだ。

ただし、ここで、立ち止まって、正確を期さねばならない。この感動的な「逆転劇」を、過剰に語ってはいけないからだ。

この木簡は、奈良時代、七六五年のものだ。一方、清張が舞台にしたのは、それより百年以上も前の、飛鳥時代である。場所も、飛鳥ではなく、奈良の都・平城京だ。つまり、この木簡は「奈良時代の平城京にペルシャ人がいた」ことを証明するものであって、「飛鳥時代の飛鳥にペルシャ人がいた」ことを、直接証明するわけではない。ましてや、酒船石がハオマ酒の製造装置だったとか、益田岩船が拝火壇だったとか、清張の具体的な仮説そのものを裏づけるものでは、まったくない。

それでも――この木簡の意味は、決して小さくない。

古代の日本という国が、私たちが漠然と思っているよりも、はるかに広く、世界とつながっていた。シルクロードの東の果てに浮かぶこの島国に、ペルシャ人が、現実に、海を越えてやってきていた。その確かな証拠が、地中から現れた。だとすれば――その百年前の飛鳥に、西方からの人や文化が流れ込んでいた可能性を、頭から「ありえない」と笑い飛ばすことは、もう、できない。清張が見ていた風景は、少なくとも、まったくの空想ではなかったのだ。

文豪は、小説という形でしか、その直感を世に問えなかった。学界は、それを黙殺した。だが、土の中から出てきた一枚の木簡が、半世紀の時を超えて、こう告げた。「ペルシャ人は、いた」と。

飛鳥の謎は、こうして、東洋の枠をはるかに超えて、広がっていく。そして、その「広がり」を、もっと大胆に、もっと過激に推し進めた物語がある。日本という国の成り立ちそのものを、根底からひっくり返そうとする物語だ。

次の章から、私たちはいよいよ、考古学の地図の外へ、足を踏み出すことになる。

第10章 太陽の道

一枚の地図を、思い浮かべてほしい。

奈良盆地を中心に、西は大阪湾の向こうの淡路島から、東は三重県の伊勢まで。その東西二百キロにわたる地図の上に、定規を当てて、まっすぐな一本の線を引く。北緯三十四度三十二分。地球を東西にぐるりと一周する、緯度の線だ。

その線の上に、何が並ぶか。

箸墓(はしはか)古墳。卑弥呼の墓ではないかとも言われる、巨大な前方後円墳。檜原(ひばら)神社。三輪山をご神体とする、伊勢神宮の元宮とも伝わる古社。長谷寺(はせでら)。室生寺(むろうじ)。そして東のはてには、伊勢神宮に仕える皇女が暮らした、斎宮(さいくう)の跡。西へたどれば、堺の大鳥大社(おおとりたいしゃ)。さらに海を越えて、淡路島の古社へ――。

太陽崇拝や、古代の祭祀に関わる聖地が、判で押したように、この一本の線の上に、ずらりと並ぶ。

これが、「太陽の道」と呼ばれる、日本でもっとも有名なレイラインである。

「レイライン」とは、古代の遺跡や聖地が、地図上で直線的に並ぶ現象、またその直線を指す言葉だ。世界各地で報告されており、「古代人が意図的に聖地を直線上に配置したのではないか」という、ロマンと謎をかきたてるテーマである。そして日本における、その代表格が、この奈良の「太陽の道」なのだ。

この説の出発点は、一人の写真家だった。

奈良の古美術を撮り続けてきた写真家・小川光三(おがわこうぞう)は、一九七三年に著した『大和の原像』という本のなかで、奇妙なことに気づいた、と記している。奈良の箸墓古墳を基点にして、その真東・真西――つまり同じ緯度の線上に、太陽崇拝に関わる聖地が、いくつも並んでいる。彼はその緯度線を「太陽の道」と名づけた。

この説に、強く心を奪われた人物がいた。NHKのディレクター、水谷慶一(みずたにけいいち)である。水谷は小川の説に魅せられ、ついに一本のテレビ番組を作り上げる。一九八〇年二月十一日――建国記念の日――に放映された、NHK特集『知られざる古代 謎の北緯三十四度三十二分をゆく』。番組は、淡路島から伊勢まで二百キロを取材し、この線上に並ぶ聖地の謎を追い、国土地理院の協力のもと「古代人はどうやってこの東西線を引けたのか」を検証してみせた。この番組によって、「太陽の道」は、一躍、全国に知れわたることになる。

実際、線上の地点の緯度を並べてみると、その符合は、不気味なほどだ。

箸墓は、北緯三十四度三十二分二十一秒。檜原神社は、三十四度三十二分十八秒。長谷寺は、三十四度三十二分九秒。室生寺は、三十四度三十二分十六秒。三輪山も、三十四度三十二分台。多くの聖地が、三十四度三十二分の、それも二十秒前後という、ごくわずかな幅のなかに、見事に収まっている。緯度の一秒は、距離にしておよそ三十メートル。これらの聖地は、東西何十キロも離れているにもかかわらず、南北方向には、数百メートルの範囲にぴたりと並んでいるのだ。

そして、この「太陽の道」を語るうえで、もっとも詩的で、もっとも有名なのが、東の起点をめぐる話である。

線の東のはて、伊勢にある斎宮。ここは、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)に仕えるため、都から遣わされた皇女「斎王(さいおう)」が暮らした場所だ。天照大神は、日の神――すなわち太陽神である。一方、線の西寄りにある檜原神社もまた、古くから太陽神・天照大神とのつながりが深い古社として知られる。太陽の神を祀る二つの聖地が、東西、ほとんどずれることなく、同じ緯度の上に置かれている。

偶然だろうか。それとも――。

春分と秋分の日、太陽は、真東から昇り、真西に沈む。その日、檜原神社のあたりに立って、まっすぐ東を見れば、はるか伊勢の方角から、朝日が昇ってくる。沈む夕日は、まっすぐ西、大阪湾の彼方へと落ちていく。「太陽の道」とは、古代の人々が、昇る朝日と沈む夕日を結んだ、太陽そのものの軌跡を、地上に写し取った線ではないか――。そう考えると、この一本の緯度線は、にわかに神聖な意味を帯びはじめる。

では、飛鳥は、この物語のどこに位置するのか。

「太陽の道」の本線そのものは、飛鳥のやや北、三輪山のあたりを通っている。だが、この説を広めた水谷慶一は、飛鳥の謎の石造物についても、興味深い指摘を残している。たとえば、これまで何度も登場した益田岩船。水谷は、益田岩船と三輪山を線で結ぶと、その延長線上に、大和三山の一つ・香具山(かぐやま)が並ぶ、と指摘した。さらに、二上山(にじょうざん)から見て、ちょうど夏至の日に太陽が沈む方角に、益田岩船が位置している、とも言う。もしこれが事実なら、あの謎の巨石もまた、太陽の運行を意識して、意図的にその場所に据えられた――ということになる。飛鳥の石造物の謎は、こうして、太陽と方位のレイラインという、より大きな幾何学のなかに、組み込まれていく。

ここまで読むと、「太陽の道」は、動かしがたい古代の真実のように思えてくるかもしれない。だが――ここで、立ち止まらなければならない。誠実であるために。

「太陽の道」は、学界が公式に認めた定説、というわけではない。そして、よく調べると、この「一直線」には、無視できない「ほころび」もあるのだ。

たとえば、線の西の終点とされる、淡路島の聖地。その緯度を測ると、北緯三十四度三十二分の本線から、大きく南へずれている地点がある。東の斎宮にしても、その正確な中心がどこなのかは、実ははっきりしない。つまり、「すべての聖地がぴたりと一直線に並ぶ」というのは、やや美しく語りすぎで、現実には、線から外れたり、当てはめる地点を選んだりしている部分が、たしかにある。「ほぼ一直線」の「ほぼ」のなかに、解釈の余地が、かなり含まれているのだ。

それに、こうも考えられる。奈良盆地の周辺には、無数の古墳や神社や寺がある。それだけ点が多ければ、どこかに一本の線を引いたとき、たまたまその近くにいくつかの聖地が並ぶことは、確率的に起こりうる。後から線を引いて、「これだけ並んでいる」と言うのは、たやすいことだ――そう批判する声も、根強い。

それでも、である。

仮に、いくつかの地点が偶然だったとしても、太陽神を祀る斎宮と檜原神社が、ほとんど同じ緯度の上にあるという事実は、消えない。そして何より、確かなことが一つある。前の章までに、私たちは繰り返し見てきた。飛鳥の人々が、大陸から最先端の天文知識を受け入れ、暦をつくり、星を観測し、藤原京や平城京のような、方位を正確に意識した都市を、実際に造り上げたことを。彼らは、太陽の運行を読み、方位を測る、高度な技術を、現実に持っていたのだ。

太陽の動きを知り、東西の方位を測れる人々が、聖なる場所を選ぶとき、太陽の軌跡を、まったく意識しなかったと言い切れるだろうか。「太陽の道」が、隅々まで精密な設計だったかどうかは、わからない。だが、古代の人々が、太陽と、方位と、聖地のつながりに、何らかの意味を見いだしていた――その可能性まで否定するのは、かえって不自然なのかもしれない。

朝日が昇り、夕日が沈む。その一日の太陽の旅路の下に、人々は、墓を築き、神を祀り、祈りを捧げた。そう想像しながら、奈良盆地の地図に、そっと一本の線を引いてみる。線の上に並ぶ聖地の名前を、東から西へ、指でなぞってみる。それだけで、千数百年前の人々が見上げていた空の広さが、ふいに、胸に迫ってくる。

これが、確かな学問なのか、美しい錯覚なのか。その判断は、あなたに委ねたい。ただ、この一本の線が、これほど多くの人の心を惹きつけてきたという事実だけは、たしかなのだ。

さて――次の章で、私たちはついに、考古学の地図を完全に離れる。日本という国の起源そのものを、はるか中東のユダヤと結びつけてしまう、壮大で、危うく、そして抜群に面白い「裏の日本史」の世界へ。心の準備を。

第11章 裏の日本史

ここから先は、これまでとは、はっきり毛色が違う。

前の章まで、私たちはおもに、考古学や歴史学が積み上げてきた事実と、その縁からあふれる「諸説」のあいだを歩いてきた。だが、この章で扱うのは、学術の世界では「フリンジ理論」――周縁的な、根拠の薄い仮説――と位置づけられ、多くは陰謀論やオカルトとして語られてきた、まったく別種の物語である。

最初に、いちばん大事なことを書いておく。これから紹介する説は、いずれも、学術的に証明されたものではない。むしろ、専門家の多くは明確に否定している。それを承知のうえで、「こんなにも壮大で、こんなにも人を惹きつけてきた物語がある」という、文化現象として読んでほしい。本物の歴史と、見分けがつかなくなってはいけない。境界線は、はっきり引いておく。

では、その「裏の日本史」の入口へ。

すべての出発点は、一つの、とほうもない仮説だ。

「日本人の祖先は、古代イスラエルの、失われた民である」。

日ユ同祖論(にちゆどうそろん)と呼ばれる。

旧約聖書によれば、古代イスラエルは十二の部族から成っていた。そのうち十の部族が、紀元前八世紀ごろ、アッシリアに征服され、歴史から忽然と姿を消す。世にいう「失われた十支族」だ。彼らはどこへ消えたのか――この古代史最大の謎の一つに、こんな答えを与える人々がいる。彼らは東へ、東へと旅を続け、シルクロードを越え、ついに極東の島国・日本までたどり着き、日本人の祖先になったのだ、と。

この説は、十七世紀ごろから現れ、明治時代に来日した西洋人によって体系化された、かなり古い歴史を持つ。そして、その「証拠」として挙げられるものが、実に多彩だ。いくつか紹介しよう。ただし、それぞれに、研究者からの反論があることも、必ず付け加える。

たとえば、神社。日ユ同祖論では、日本の神社の構造が、古代ユダヤの移動式神殿「幕屋(まくや)」に似ていると主張される。聖域を幕や塀で囲い、その奥での祭祀は秘儀とされ、入口には清めの水盤があり、明かりが灯される――たしかに、共通点を数え上げることはできる。だが、これに対しては、こんな反論がある。現在のような社殿のかたちが整ったのは、仏教が伝来し、寺院を見ならって社を建てるようになって以降のことだ。古代ユダヤの神殿と直接結びつけるのは無理がある、と。

たとえば、伊勢神宮の灯籠に刻まれた、六芒星(ダビデの星)。日ユ同祖論では、これこそ伊勢神宮とユダヤのつながりの証だ、とされる。だが、これには決定的な反論がある。そもそも、伊勢神宮の参道のあの灯籠は、第二次世界大戦後に寄贈されたもので、古代から伝わるものではない。しかも、六芒星という図形そのものが、ユダヤのシンボルとして定着したのは比較的新しく、古代から「ユダヤの紋章」だったわけではない。単純な幾何学模様である六芒星は、洋の東西を問わず、いたるところに現れる。研究者がこれを重視しないのは、当然なのだ。

たとえば、童歌の「かごめかごめ」。日ユ同祖論では、「かごめ」は「籠の目」、すなわち六芒星(ダビデの星)を指し、歌詞全体がユダヤの聖書的な暗号だ、と解釈される。だが、これも学術的な裏づけはなく、想像力に頼った解釈にすぎない、というのが大方の見方だ。

たとえば、言葉の響き。日本語とヘブライ語には、音と意味が似た単語がある、とされる。だが、世界中の言語には無数の単語があり、偶然、音が似てしまうことは、ごくありふれている。言語の類似は、それだけでは何の証拠にもならない――これも、言語学の常識だ。

このように、日ユ同祖論の「証拠」は、一つひとつ検証していくと、ほぼすべてに、もっともな反論が存在する。学術界では、これは明確に「フリンジ理論」として扱われている。つまり、まじめな歴史学の主張としては、成立していない。それは、はっきりさせておきたい。

それでも、この物語は、なぜか、人を惹きつけてやまない。そして飛鳥は、その物語の重要な舞台として、たびたび登場する。

ここで、一人の特異な人物の名を挙げねばならない。飛鳥昭雄(あすかあきお)。漫画家であり、超古代史やUFO、UMAといった分野で、膨大な著作を発表してきた、いわゆる「サイエンス・エンターテイナー」である。彼が描き出す世界観は、日ユ同祖論を、さらに大胆に、さらに過激に推し進めたものだ。

その中心にあるのが、「迦波羅(かばら)」という概念である。

飛鳥昭雄の説では、こうだ。日本の歴史の表側には、陰陽道(おんみょうどう)という呪術がある。だが、その裏には、もう一つ、隠された呪術体系が存在する。それが「迦波羅」――名前からも察せられるとおり、ユダヤの神秘思想「カバラ」と通じる、秘められた知の体系だ、というのである。そして、この裏の呪術を司ってきたのが、古代の渡来氏族・秦氏(はたうじ)であり、それと同族とされる賀茂氏(かもうじ)だ、と説く。秦氏は、ユダヤ系の原始キリスト教徒だった、とまで主張される。

さらに、その賀茂氏の一部が、「八咫烏(やたがらす)」と呼ばれる秘密結社を組織し、神道や宮中の祭祀を、千年以上にわたって裏で操ってきた――という壮大な物語へと展開していく。八咫烏といえば、本来は、神武天皇の東征を導いたとされる、三本足の霊鳥だ。それが、天皇家の祭祀を陰で支配する、影の組織の名として読み替えられているのだ。

念のため、もう一度、強調しておく。この「迦波羅」「八咫烏という秘密結社」「秦氏=ユダヤ系」といった説は、学術的に認められたものではまったくない。八咫烏結社の存在そのものが、陰謀論・オカルト上の主張であると、はっきり位置づけられている。これらは歴史的事実ではなく、現代に作られた壮大なフィクションに近い。

では、なぜ、この物語に、飛鳥が登場するのか。

理由は、いくつもある。まず、飛鳥は、渡来人がもっとも活躍した時代の中心地だった。前の章までに見たとおり、ここには、ギリシャから来た仏の微笑みがあり、朝鮮半島から来たピラミッドがあり、大陸から来た星図があり、そして、ペルシャ人がいた痕跡まであった。これほど「海の向こう」の気配に満ちた土地は、ほかにない。だから、「もっと遠く、ユダヤから来た者もいたはずだ」という想像が、ここでは、ことのほか膨らみやすい。

さらに、この章までに見てきた飛鳥の謎が、次々と、この「裏の日本史」の物語のなかに、回収されていく。酒船石の幾何学模様は、ユダヤ神秘思想カバラの「生命の樹」だとされた。前方後円墳という、日本独特の墓の形さえ、古代ユダヤの聖なる器「マナの壷」をかたどったものだ、と説く者がいる。聖徳太子が馬小屋の前で生まれたという伝説は、馬小屋で生まれたイエス・キリストの物語と重ねられる。飛鳥という、謎に満ちた古代の磁場は、この壮大な物語にとって、これ以上ない格好の舞台なのだ。

整理しよう。

学術の世界では、こうだ。飛鳥は、中国・朝鮮半島を中心とする東アジアの文明を、深く受け入れて発展した。そこに、はるか西方のペルシャあたりからの文物や人も、わずかに混じっていた。それは、シルクロードの東の終着点としての、ごく自然な国際性だ。

一方、「裏の日本史」の物語では、こうなる。飛鳥は、ユダヤの失われた民が築いた、隠された聖地である。その痕跡が、石造物に、古墳に、神社に、暗号として刻み込まれている。そして、それを守る秘密結社が、今もどこかで、息づいている――。

くりかえすが、後者は、歴史ではない。学術的な根拠を欠いた、フリンジな物語である。だが、これほど多くの本が書かれ、これほど多くの人が魅了されてきたのも、また事実だ。なぜ人は、こうも、日本とユダヤを結びつけたがるのか。なぜ、飛鳥の石に、地球の反対側の神秘を見たがるのか。

おそらく、それは、飛鳥という土地そのものが放つ、あの「説明のつかなさ」のせいだ。用途不明の巨石。過去の異国の星空。日本にただ一つのピラミッド。それらを前にしたとき、人の想像力は、東アジアという枠を軽々と越えて、地球の果てまで、物語を伸ばしていく。フリンジな物語の数々は、飛鳥の謎が、いかに人の心を遠くまで連れていくか、その射程の長さの、証なのかもしれない。

事実と、物語。その境界線を見失わないこと。それさえ忘れなければ、この「裏の日本史」は、飛鳥という磁場の、もう一つの顔として、存分に味わうことができる。

さて、長い旅も、終わりに近づいてきた。次は、その飛鳥に生き、未来を見通したと伝えられる、一人の皇子の話をしよう。聖徳太子と、彼が残したという「予言」の話だ。

第12章 未来を見た皇子

飛鳥の物語の、最後の主人公は、この人をおいてほかにない。

聖徳太子(しょうとくたいし)。厩戸皇子(うまやどのみこ)とも呼ばれる、飛鳥時代を代表する伝説の人物だ。冠位十二階を定め、十七条憲法を制定し、仏教を篤く敬い、遣隋使を送り出した――教科書でおなじみの、古代日本の偉大な政治家。その人である。

だが、この章で語りたいのは、教科書に載る「政治家・聖徳太子」ではない。人々が、千年以上にわたって語り継いできた、もう一人の――超人としての、予言者としての、聖徳太子だ。

まず、その出生からして、ただ事ではない。

太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は、宮殿のなかで、馬小屋(厩)の前を通りかかったとき、にわかに産気づき、太子を産み落とした、と伝わる。だから「厩戸(うまやど)皇子」と呼ばれた、というのだ。馬小屋の前で生まれた聖人――どこかで聞いた話だと思った人もいるだろう。前章で触れたとおり、この伝説は、馬小屋で生まれたとされるイエス・キリストの物語と重ね合わせて語られることがある。記紀が編まれたころ、すでに中国にはキリスト教(景教)が伝わっていたため、その影響ではないか、という見方もある。もちろん、これも確証のある話ではない。

生まれてからの太子も、超人だった。最も有名なのが、こんな逸話だ。太子は、一度に十人の人が同時に話す訴えを聞き分け、それぞれに正しく答えることができた――。一度に複数の声を聞き分ける、超人的な能力。この伝説から、太子は「豊聡耳(とよとみみ)」、すなわち「豊かに聡い耳の持ち主」とも呼ばれた。

このような数々の超人伝説を背負った太子だからこそ、後世、ある「噂」が生まれた。

聖徳太子は、未来を見通すことができたのではないか。そして、その予言を、書き残していたのではないか――。

この、太子が残したとされる予言書を、「未来記(みらいき)」という。

きっかけは、奈良時代に編まれた歴史書『日本書紀』の、一節にあった。太子について、「兼ねて未然を知ろしめす」と記されていたのだ。「未然を知る」――まだ起きていない未来のことを、あらかじめ知っていた、という意味にも読める。この一文が、後世、「聖徳太子は予言者だった」「彼は未来を記した書物を残した」という伝説の、大きな源泉になっていく。

この「未来記」は、中世の人々の想像力を、強くかきたてた。たとえば、軍記物語の傑作『太平記』には、こんな場面がある。鎌倉幕府の倒幕に挑んだ武将・楠木正成(くすのきまさしげ)が、四天王寺で、聖徳太子の「未来記」を実際に開いて読んだ、というのだ。そこには、未来の政変が予言されており、正成はそれを見て、後醍醐天皇の復権を確信した――。物語のなかで、太子の予言書は、歴史を動かす鍵として登場する。

ただし、ここでも、はっきりさせておかねばならない。

聖徳太子が、本当に未来を予言する書物を残したという証拠は、何もない。「未来記」と称する書物は、中世から近世にかけて、いくつも世に現れたが、そのほとんどは、後の時代に作られた偽作だと考えられている。太子自身が未来を記した「本物」が見つかったことは、一度もない。

それでも、なぜ、人々は「太子の未来記」を求め続けたのか。

おそらく、先の見えない不安な時代を生きる人々にとって、「あの偉大な聖人なら、この乱世の行く末を知っていたはずだ」と思いたかったのだろう。予言書は、未来への不安を、過去の聖人に託して鎮めるための、心の装置だった。聖徳太子という存在が、それほどまでに深く信じられ、敬われてきた――「未来記」をめぐる伝説は、そのことの、何よりの証なのだ。近年でも、太子の予言と称するものが、たびたびオカルト的な文脈で取りざたされる。千四百年を経てなお、太子は「未来を知る者」であり続けている。

さて――予言の話は、このあたりにして。

その聖徳太子が生まれたと伝わる場所が、飛鳥にある。長い旅の終わりに、そこを訪ねてみよう。

橘寺(たちばなでら)。明日香村の田園のなかに建つ、こぢんまりとした寺だ。寺伝によれば、この地には、かつて欽明天皇の別宮「橘の宮」があった。太子の母が、その宮のなかで産気づき、太子を産んだ。つまり、ここが聖徳太子の生誕地だというのだ。太子が建立したと伝わる、いわゆる「聖徳太子建立七大寺」の一つにも数えられる。創建当初は、六十六もの堂宇が並ぶ大伽藍だったというが、度重なる火災で焼失し、現在の建物は、おもに江戸時代以降のものだ。境内には、太子の産湯に使ったと伝わる井戸も残っている。

そして、この橘寺の境内にも、飛鳥らしい「謎の石造物」が、ひっそりと置かれている。

二面石(にめんせき)。高さ一メートルほどの花崗岩に、左右、それぞれ向きの違う、二つの人の顔が彫られている。一方は穏やかな相、もう一方は険しい相。右が善の顔、左が悪の顔だ、と伝えられる。人間の心がもつ、善と悪の二面性を表したものだ――そう説明されることが多い。

もっとも、これも飛鳥時代の石造物であり、本当のところ、何のために、誰が彫ったのかは、わかっていない。亀石や酒船石と同じく、二面石もまた、用途不明の謎の石の一つなのだ。ただ、聖徳太子の生誕地に置かれた、善悪二つの顔を持つ石、というその取り合わせが、見る者に、人の心の奥を覗き込ませる。穏やかな顔と、険しい顔。それは、太子が説いたとされる仏の教えの、人の心と向き合うことの難しさを、無言で語っているようにも見える。

ここで、この長い旅を、いったん地図のうえで振り返っておこう。

飛鳥は、自転車があれば、一日で多くをめぐれる、小さな村だ。亀石で予言の不気味さに触れ、酒船石で神仙の幻を見る。石舞台や都塚で巨石の墓を仰ぎ、高松塚やキトラで極彩色の宇宙に出会う。飛鳥寺で千四百年動かぬ仏に手を合わせ、その隣の首塚で、飛んだ首の伝説に身を震わせる。そして橘寺で、生誕の地に立ち、二面石に己の心を映す。

田んぼと古墳しかない、と思っていた村が、歩けば歩くほど、底なしの謎をたたえた巨大な迷宮であることに気づく。それが、飛鳥という土地なのだ。

未来を見たと伝えられる皇子が、この村で生まれた。そして彼の生誕地には、善と悪の二つの顔を持つ、答えのない石が、今も置かれている。

次は、いよいよ最後の章だ。これほど多くの謎をたたえた飛鳥は、なぜ、これほどまでに、人を惹きつけてやまないのか。長い旅の、その意味を、考えてみたい。

第13章 なぜ、飛鳥は人を呼ぶのか

長い旅も、ここで終わりだ。

最後に、自転車を停めて、もう一度、明日香村の風景を見渡してみたい。低い山に囲まれた、棚田と古墳の広がる、静かな盆地。コンビニより田んぼの多い、どこにでもありそうな農村。なのに、この小さな村は、千三百年以上ものあいだ、人を呼び続けてきた。学者を、文豪を、オカルティストを、そして、何かに引き寄せられるように訪れる、無数の旅人を。

なぜ、飛鳥は、これほど人を呼ぶのか。最後に、その問いを考えてみたい。

一つの答えは、「謎の密度」だろう。

この旅で見てきたものを、思い返してほしい。西を向けば奈良が沈むと恐れられた亀石。鬼が人を喰ったと伝わる石室。宇宙船とまで言われた益田岩船。神仙境の幻を宿す酒船石。墓より四百年古い、異国の星空。極彩色の飛鳥美人と、頭のない遺骨。飛んだ首と、千四百年動かぬ仏。日本にただ一つのピラミッド。ペルシャ人がいた痕跡。太陽の道のレイライン。そして、ユダヤにまでつながるという、壮大な裏の物語――。

これだけの謎が、わずか数キロ四方の、田んぼの広がる村に、ぎっしりと詰まっている。一つひとつが、本来なら一冊の本になるほどの謎だ。それが、あぜ道を曲がるたびに、次から次へと現れる。これほど「わからないもの」が高密度で集まった土地は、日本中を探しても、ほかにない。人は、わからないものに、抗いがたく惹きつけられる。飛鳥は、その「わからなさ」の、巨大な貯水池なのだ。

だが、謎が多いだけでは、こうも長く人を呼び続けることは、できないだろう。飛鳥には、もう一つ、特別な性質がある。

それは、ここが「日本のはじまりの場所」だ、ということだ。

この村で、大陸から来た仏教が、初めて根を下ろした。最初の本格的な寺が建ち、日本最古の仏が座った。天皇という制度が形を整え、「日本」という国号が決まった。乙巳の変が起き、大化の改新が始まり、律令国家の骨格が築かれていった。私たちが「日本」と呼ぶこの国の、いちばん深い根っこが、この田んぼの下に埋まっている。

だからこそ、飛鳥の謎は、ただの謎ではない。それは、「自分たちは、いったいどこから来たのか」という、根源的な問いと、分かちがたく結びついている。亀石の正体を知りたいという気持ちの奥には、この国の始まりを知りたいという、もっと大きな願いが、潜んでいる。飛鳥に立つとき、私たちは、日本という物語の、第一ページを覗き込んでいるのだ。

そして――この旅を通して、私たちは、もう一つの大切なことを、繰り返し確かめてきた。

飛鳥は、決して、閉じた島国の村ではなかった、ということだ。

仏の微笑みは、はるかギリシャから、シルクロードを伝って届いた。ピラミッドの形は、朝鮮半島の王の墓から来た。死者の頭上の星空は、大陸で観測された宇宙だった。そして、ペルシャ人が、現実に、この国の役所で働いていた。飛鳥は、東アジアの、いや、ユーラシア大陸の西の果てからの文物までもが流れ込む、巨大な河口だった。世界に向かって、大きく開かれた窓だったのだ。

その「開かれていた」という事実こそが、後の時代に、あの壮大な物語たち――ペルシャ説、カバラ説、日ユ同祖論――を生む、豊かな土壌になった。ここまで世界とつながっていたのなら、もっと遠くから、もっと不思議なものが来ていたのではないか。そう想像せずにはいられないほど、飛鳥の国際性は、本物だったのだ。

この旅で、私たちは、一つのルールを守り続けてきた。

考古学が積み上げた「ここまでは確からしい」という事実と、その縁からあふれ出す「ここから先は誰にもわからない」という物語。その二つを、はっきり分けること。何が学問で、何が幻想なのか。その境界線を、見失わないこと。

亀石が西を向くと奈良が沈む、という言い伝えは、伝説だ。だが、その足元には、亀の瀬の地すべりという、地学の事実が横たわっていた。益田岩船が宇宙船だ、という話は、空想だ。だが、その空想を生むほど、あの巨石は本物の異様さをまとっていた。飛鳥の魅力は、事実と物語の、どちらか一方にあるのではない。その二つが、せめぎ合い、溶け合い、互いを照らし合う、まさにその境界線の上に、宿っている。

だから、飛鳥は、どんな人をも拒まない。

厳密な事実だけを求める人には、世界とつながった古代国家の、確かな出発点を見せてくれる。果てしない空想を愛する人には、宇宙船やユダヤや予言の、めくるめく物語を差し出してくれる。そのどちらでもない、ただ静かな田園を歩きたいだけの人にも、棚田と古墳の、おだやかな風景を、惜しみなく開いてくれる。

千三百年前、ここに生きた人々は、もういない。彼らが何を考え、なぜあの石を彫り、なぜ死者の天井に異国の星を描いたのか。本当のところは、永遠に、わからないのかもしれない。

だが、わからないからこそ、人は、また飛鳥を訪れる。あぜ道に転がる石の前で立ち止まり、千数百年前の誰かの心を想像し、自分なりの答えを、そっと胸にしまって、帰っていく。そしてまた、別の誰かがやってきて、同じ石の前で、また別の物語を紡ぐ。

その営みが、千三百年、絶えることなく続いてきた。これからも、続いていくだろう。

田んぼの中に、千年の謎が転がっている。

それを覗き込みに、あなたも、飛鳥へ。

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