持ち物を全部燃やされた女が、砂漠で人類の死刑宣告を聞く話
最初の数ページで、あなたの持ち物は燃える。
50歳のアメリカ人女性医師が、オーストラリアのアボリジニに招かれる。表彰されるのだとばかり思っていた。会場に着くと、彼らは彼女の服を、靴を、時計を、化粧品を、IDカードを──所持品のすべてを火にくべた。
裸足。着のみ着のまま。地図なし。時計なし。逃げ場なし。
そのまま彼女は、120日間、灼熱のアウトバックを歩かされることになる。同行するのは、自らを**〈真実の人〉族**と名乗る一団。彼らは彼女をこう呼ぶ。
ミュータント(突然変異種)。
侮蔑ではない。診断だ。本書によれば、彼らから見た現代人は、文明と引き換えに能力を失い、自然から切り離され、自分の身体の声すら聞こえなくなった――変異してしまった生きもの。
それはあなたのことだ。冷蔵庫を開ければ食料があり、蛇口をひねれば水が出る世界の住人である、あなたのことだ。
食料は「現れる」もの──明日の保証ゼロで歩く
旅の最初の数日、彼女は飢える。
〈真実の人〉族は、食料を蓄えない。狩らない。探さない。**ただ歩く。**そして本書によれば、その日の糧は──ヘビが、トカゲが、芋虫が、植物の根が──歩く先に必ず「現れる」。彼らはそれを当然のように受け取り、感謝して食べる。
朝、目を覚ましたとき、その日を生き延びられるかどうかは誰にもわからない。備蓄はゼロ。保険もゼロ。にもかかわらず、彼らに不安はない。本書によれば、宇宙が彼らを失望させたことは一度もないからだ。
ここで、読んでいる側の胸がざわつく。
我々は備える。貯金し、保険に入り、冷蔵庫を満たし、それでも消えない不安を抱えて眠る。持つことで安心を買おうとして、買えば買うほど不安が増える。
そして本書のなかで、〈真実の人〉族はこう言い放つ。
本書によれば──物が恐怖を生む。物を持てば持つほど、恐怖はつのる。
備蓄ゼロの人間に恐怖がなく、冷蔵庫を満たした我々が恐怖に怯えている。この逆転が、最初のドキッだ。
「社会保障ってなに?」──彼らから見た我々
本書の章タイトルがいい。「自然の靴」「ハイになる」「コードレスフォン」――そして極めつけが、**「社会保障ってなに?」**だ。
主人公は彼らに、現代社会のしくみを説明しようとする。年金、保険、銀行、警察、刑務所、法律。
すると問い返される。なぜそんなものが要るのか、と。
本書によれば、彼らに言わせれば、現代人は自分の子供を「脅して」育てる。法律と刑務所がなければ秩序を保てない。国の安全は、他国への武力でかろうじて成り立っている。恐怖は本来、動物が持つ感情だ――それを社会の隅々にまで張り巡らせて生きているのが、ミュータントなのだ、と。
宣教師がアボリジニに「感謝することを教えねば」と言うくだりで、彼らはこう返す。
本書によれば──救いが必要なのは、むしろあなたたちのほうではないか。
文明が未開を導いてやる、という前提が、静かに反転する。哀れんでいたつもりが、哀れまれていた。これが二つ目のドキッだ。
言葉のいらない種族──テレパシーと、一晩で治る骨
本書がもっとも信じがたく、もっとも読者を試すのが、彼らの「能力」だ。
本書によれば、〈真実の人〉族は数キロ離れた相手と、声を使わず意思を通わせる。テレパシーだ。なぜ使えるのか。一度も嘘をついたことがないからだという。心を隠す必要がない。だから心を開くことを恐れず、むしろ進んで開く。
手を触れるだけで身体が癒される。骨折が一晩で治る場面さえある。
ここを「ありえない」と本を閉じるのは簡単だ。実際、この描写こそが本書を「フィクション」へと追いやった原因でもある。
だが本書が突きつけてくる問いは、別の角度から来る。
なぜ我々は、心を開けないのか。
ごまかし、傷つけ合い、苦々しさにみちた世界では、心を開くことは無防備になることだ。だから閉じる。閉じ続けるうちに、開く回路そのものが錆びる。
退化とは、能力を奪われることではない。使わなくなって、忘れることだ。
テストは、受けるしか合格できない
旅のなかで彼女は何度も限界に達する。灼熱。飢え。剥けた足の裏。文明人としてのプライドの崩壊。
そのとき彼女が受け取る教えが、本書のなかでいちばん実用的な果実かもしれない。
本書によれば──テストに合格する方法は、テストを受けることだけ。
逃げても避けても、テストは消えない。形を変えて何度でも戻ってくる。やがて彼女は、最悪に見える状況さえ「精神的なテストに受かるチャンス」として受け取れるようになる。
鍵は、観察と批判を分けることだ。
何が起きているかをただ観る。ジャッジせず、ラベルを貼らず、評価を加えず、観る。すると、不快な出来事までもが、豊かさを得る入口に変わる。
これは砂漠の神秘ではない。明日の満員電車で、理不尽な会議で、家族との諍いで、そのまま試せる技術だ。
そして、種族は「自ら滅びる」と告げる
ここまでなら、よくあるスピリチュアル紀行で終わったかもしれない。
だが本書の結末は、はるかに重い。
旅の終盤、彼女は知らされる。〈真実の人〉族は、自ら絶滅することを選んでいた。
地球が誕生してからずっと、この大地と調和して生きてきた彼らは、荒れ果てていく地球を見て、ここを去ることを決めた。もう子を産まない。最後の若者が死ねば、種族は滅びる。
そして本書によれば、その滅びゆく種族が、現代人=ミュータントへの最後のメッセージを託す相手として選んだのが、この一人の女性だった――という構造になっている。
だからタイトルは『ミュータント・メッセージ』なのだ。これは、地球と調和して生きた最後の人々が、調和を失った我々に遺した遺言として書かれている。
読み終えたとき、自分の身体がやけに鈍く、重く感じられるはずだ。それがこの本の効き目だ。
ここで、立ち止まらなければならない
ただし――この本には、絶対に伏せてはならない事実がある。
『ミュータント・メッセージ』は当初、著者の実体験にもとづくノンフィクションとして刊行された。だが本物のアボリジニが独自に調査し、**贋作であることを突き止めた。**出版社は分類をフィクションに改めた。
冒頭に掲げられた「ウルンジェリ部族の長老による推薦文」――その長老は実在しないことがわかっている。作中の風土や慣習の描写は、実際のアボリジニ文化として誤りだらけだと、本物の先住民から批判されている。そして抗議活動は、今も続いている。
しかも先述の「種族は自ら絶滅を選んだ」という結末――あの設定こそが、著者マルロ・モーガンが自分自身をアボリジニだと自称する根拠に使われた。もう確かめようのない、滅びた種族。誰も反証できない物語。実在の民族を素材に、語る資格のない物語を組み立て、ベストセラーにした――その構造そのものが、批判の核心にある。
これは、本書を読むうえで隠してはいけない。
それでも、この本を読む意味
では、嘘の本だから読む価値はないのか。
そうではない。読み方を変えればいい。
この本を事実の記録として読めば、それは有害だ。実在の民族を傷つけ、誤解を撒く物語にすぎない。
だが、寓話として読めばどうか。
「物が恐怖を生む」「テストは受けるしかない」「観察と批判は違う」「救いが必要なのはどちらか」――これらの問い自体は、特定の民族に属するものではない。古今東西の思想が形を変えて語ってきた、普遍的な問いだ。マルロ・モーガンの罪は、語った内容ではなく、実在の他者の口を借りて語ったという、その語り方にある。
だから読者にできることは、ひとつ。
メッセージは受け取る。だが「アボリジニの教え」としては受け取らない。これは一人のアメリカ人女性が砂漠の幻想のなかで組み立てた、現代文明への寓話だ――そう読む。実在の人々への敬意を手放さないまま、フィクションの果実だけを摘む。
それができる読者にとって、この本はなお、自分の鈍った身体を疑うための入口になる。
最後に──あなたは何を変異させたか
裸足で砂漠を歩く彼らを、我々は哀れむことができない。
哀れまれているのは、こちらだ。
冷蔵庫を満たし、保険に入り、それでも満たされず、心を閉じ、身体の声を聞けなくなった我々。便利と引き換えに、何かを決定的に手放した我々。
この本が本当に問うているのは、〈真実の人〉族が実在したかどうかではない。
あなたは、進歩の名のもとに、何を変異させてしまったのか。
その問いだけは、たとえ作り話であろうと、消えずに残る。
スラッグ案: mutant-message-down-under-morgan


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