変異したのは、あなただった
砂漠を裸足で歩く、持たない民。彼らは文明人を「ミュータント=変異体」と呼んだ。所有も、蓄えも、言葉も、老いも手放した部族が、滅びの前に私たちへ残した伝言とは。
本書が最初に突きつけてくる教えは、こうです。持ち物は、安心の源ではなく、恐怖の源である。
……と言われても、すぐには頷けないですよね。私たちは逆の常識の中で生きています。貯金があれば安心。保険があれば安心。家があれば、車があれば、モノがあれば安心。だから増やす。豊かさとは持っている量のことだと、ほとんど疑わずに信じています。
本書の冒頭で、その常識が燃やされます。〈真実の人〉族に招かれた著者は、財布もパスポートもカメラも宝石も、着てきた服まで、目の前の炎にくべられます。残されたのは体に巻く布が一枚。ここから彼女は、何も持たずに砂漠を歩くことになります。
ここで立ち止まって考えてみてほしいのです。持ち物がひとつ増えるとき、一緒に増えているものは何でしょうか。
失う恐怖です。
スマホを買えば、落とす心配が生まれます。家を買えば、地震と火事とローンの心配が生まれます。貯金が増えれば、減る恐怖も一緒に増えます。守るものの数だけ、心配の数は正確に増えていく。つまり私たちは、安心を買っているつもりで、恐怖を一個ずつ買い足している——本書が指差しているのは、この仕組みです。
本書によれば、〈真実の人〉族は何も所有しません。だから、何も失えません。「これは私のものだ」という線をそもそも引いていない人たちには、線の内側を見張る仕事が、最初から発生しないのです。
持ち物とは、自分と世界の間に引いた線が、物の形になったものです。そして線の引き方ひとつで、同じ世界がまるで違って見えます。私たちの目に、砂漠は「何もない場所」に映ります。彼らの目には、同じ砂漠が「必要なものが、必要なときに置いてある場所」に映っています。どちらかが嘘をついているのではありません。片方は線の内側だけを「ある」と数え、もう片方は世界の全部を「ある」と数えている。それだけの違いです。
モノで満杯の部屋に住みながら「何かが足りない」と感じる私たちと、布一枚で「すべてある」と笑う彼ら。足りなかったのはモノではなかった、ということになります。
これを読んでいるあなたの部屋にも、二年触っていない服や、解約し忘れたサブスクが、たぶんあります。それらが提供しているのは便利さではなく、小さな見張り仕事です。試しに今日、ひとつだけ手放してみてください。減るのは持ち物で、軽くなるのは恐怖のほうだと、体でわかるはずです。
冒頭の炎は、儀式でも演出でもありません。あれは、線を消す作業です。あの火で燃やされたのは、財布でも服でもなく、「私の」という二文字でした。
「備えあれば憂いなし」。冷蔵庫を満たし、貯金を積み、保険に入る。備えることは大人の責任で、備えない人は無計画な人——私たちの世界では、そういうことになっています。
本書は、その正反対を生きる人たちを描きます。〈真実の人〉族の一行は、砂漠の旅に、食料も水も、ほとんど持たずに出発します。地図もありません。本書によれば、彼らは作物も育てず、収穫もせず、ただ毎朝「今日も宇宙が必要なものを与えてくれる」と信頼して歩き出す。そして宇宙は、一度も彼らを失望させなかった、と書かれています。
そんな馬鹿な、と思いますよね。思っていいのです。ただ、本書の中で「宇宙は与えてくれる」がどう描かれるか、その一番すごい場面を先に見てください。
旅の途中、著者は突然、先頭を歩くよう命じられます。水のありかも、食べ物のありかも、彼女には分かりません。案の定、一日歩いても何も見つからない。二日目、灼熱の中、やはり水も食料も現れない。三日目、彼女は水分不足で声も出せないまま、62人の仲間ひとりひとりに、助けてくれ、このままでは死ぬ、と懇願してまわります。返ってきた言葉はこうでした——私たちも空腹で喉が渇いている。でもこれはあなたの学びだから、私たちは全力であなたを支える、と。
死を覚悟したそのとき、彼女の内側で声がします。「水になれ。水になれたとき、水が見つかる」。論理を捨て、彼女は自分が水のあらゆる姿になりきります。冷たい水、青い水、濁った水、雨、雪、湯気——あらゆる水を体の中に思い描く。すると平らな大地の先に、直径3メートルほどの、澄みきった水たまりが現れた。本書はそう書きます。
奇跡を信じるかどうかは、脇に置きます。この場面が運んでいる教えのほうが大事です。蓄えとは、「世界は与えてくれない」という不信が、物の形をとったものである。
冷蔵庫は便利な箱です。同時に、不信の箱でもあります。明日も食べ物が手に入るとは限らない、という前提がなければ、あの箱は要りません。貯金も保険も備蓄も、全部同じ前提の上に建っています。つまり私たちは、毎日せっせと「世界は信用できない」という証文を積み上げながら暮らしている。不安だから蓄えるのだと思っていますが、順番は逆かもしれません。蓄えるたびに、不信の前提を自分に再確認させているから、不安が終わらないのです。
その証拠に、考えてみてください。通帳の数字がいくらになったら、あなたは安心できますか。
即答できないはずです。ゴールのない備えは、終わらない不安と同じものだからです。
彼らの信頼を、おかしな超能力だと思う必要はありません。あなたも同じ種類の信頼を、毎日使っています。空気です。あなたは明日の分の空気を肺に貯めません。吸えばある、と信じ切っているからです。〈真実の人〉族は、食べ物と水を、私たちにとっての空気と同じ信頼度で扱っている——それだけのことです。
私たちが彼らのように明日から無一物で生きるのは、現実には無理でしょう。でも、数える方向を変えることはできます。「足りなくなったらどうしよう」と未来の欠乏を数える朝と、「今日も揃っている」と現在の充足を数える朝。同じ一日が、まるで違う一日になります。
彼らが何も持たないのは、貧しいからではありません。世界を、空気と同じくらい信じているからです。
言葉は、コミュニケーションの頂点ということになっています。語彙力を磨き、伝え方を学び、話し方の本がベストセラーになる。言葉が上手いほど、人とつながれる——そう信じられています。
本書には、その前提をひっくり返す人たちが出てきます。〈真実の人〉族は、日常の意思疎通の多くを、声を使わずに行うのです。頭から頭へ、直接。邦訳の章題は「コードレスフォン」——電話線のいらない電話、つまり心の交信です。
オカルトの話か、と身構えた方は、本書がこの力に付けている条件を先に見てください。そこだけは、テレパシーを一切信じない人にも刺さるようにできています。
本書によれば、彼らに心の交信が可能なのは、嘘を一切つかないからです。大きな嘘だけではありません。小さなごまかしも、話を盛ることも、部分的にだけ本当のことを言うのも、一切なし。嘘がゼロだから、隠すものがゼロになる。隠すものがないから、心を開きっぱなしにして、受け取ることも渡すことも恐れずにいられる。つまり本書の中で心の交信は、超能力としてではなく、隠しごとゼロの副産物として描かれているのです。
では、声は何のためにあるのか。彼らの答えがふるっています。本書によれば、声はそもそも話すための道具ではありません。歌うため、祝うため、癒すための道具です。声をおしゃべりに使うと、どうでもいい小さな会話ばかりに流れていくから、と。
著者自身が、この交信を習おうとした場面もあります。そして彼女は正直に書いています——心と頭の中に「これは隠しておきたい」というものが一つでも残っているうちは、どうしてもできなかった、と。回線をふさいでいたのは、能力の不足ではなく、隠しごとの在庫でした。
しかしこの章でいちばん背筋が冷えるのは、別の場面です。まだ交信のできない著者は、声で部族と会話し、自分たちの文化を説明します。たとえば、肉にかけるグレービーソース。ケーキを覆う砂糖の衣。ふんふんと聞いていた彼らは、即座にこう返すのです——それが、あなたたちの社会の本質だ。下にあるものを、覆って隠す。
ソースの説明をしただけで、文明の診断書が返ってきました。言われてみれば、私たちは覆うのが得意です。素材を味付けで覆い、顔を化粧で覆い、本音を建前で覆い、不安を笑顔で覆う。送信前に三回書き直すメッセージの、あの推敲も、半分は「伝える努力」ではなく「隠しながら伝える努力」です。言葉は伝達の道具である前に、頭の中身から「出していい部分」だけを切り出して出す、選別と被覆のフィルターとして、毎日フル稼働しています。
だからこの章の持ち帰りは、テレパシーの習得法ではありません。逆算です。誰かと「通じ合えない」と感じるとき、足りないのはたいてい語彙力ではなく、多すぎるのはお互いの隠しごとの量。心を全部見せている相手とは、下手な言葉でもちゃんと通じます。在庫を隠し合っている相手とは、どれだけ言葉を尽くしても、通じた気がしません。あなたにも、思い当たる顔があるはずです。
彼らの電話にコードがないのは、技術が進んでいるからではありません。隠すものが、ないからです。
体は精密な機械で、故障したら専門家に持ち込んで直してもらうもの。私たちの体観は、だいたいこれです。そして忘れてはいけないのは、本書の著者自身が、その西洋医療の世界で働いてきた人物だということです。
その彼女が目撃したと書く、本書屈指の場面があります。仲間の一人が崖から落ち、20フィート下の岩棚に叩きつけられる。脛の骨が皮膚を突き破って外に飛び出す、開放骨折です。病院も薬もない砂漠のただ中で、何が起きたか。
まず誰かの頭の布が外れ、止血のために腿に巻かれます。ヒーラーは、傷口に触れません。脚の上を、一インチほど離して、手をゆっくり滑らせる。本書によれば、これは「30年かけて作り上げた健康な脚の形を、骨に思い出させる」作業でした。骨が折れた瞬間のショックを取り除き、骨自身に「お前の本当の姿はこうだ」と記憶を呼び覚まさせる。それから三人のヒーラーが声を上げ、骨に「話しかけ」る。すると——誰も引っ張る様子がないのに、飛び出していた骨が、すっと穴に滑り戻ったというのです。
仕上げに、女ヒーラーがいつも持ち歩く謎の長い筒が登場します。普段その筒の中身が何かというと、女性たちの月経の経血を、植物の葉でくるんで保管したものでした。この日、彼女は筒の底を開け、黒いタール状の物質を取り出し、傷口を接着剤のように閉じる。翌朝、その男——偉大なる石の狩人は、何事もなかったように立ち上がり、歩き出します。びっこのかけらもない。黒い天然の接着剤は数日で乾いて剥がれ落ち、5日後には、骨が出ていた場所に細い傷跡が残るだけになった、と。
ありえない、と現代医学は言うでしょう。それでいいのです。注目すべきは奇跡の真偽ではなく、本書が描く彼らの前提のほうです。彼らの世界では、治癒の主導権は体そのものにあります。体は、心が確信していることを、そのまま実行する。「治る」と全員が疑いなく確信している場で、体は治る方向に全力を出す——彼らの医術の核心は、薬草の知識である以上に、この疑いのなさだと本書は描きます。
ここで、外部の医学の話を一つだけ接続しておきます。プラセボ効果——有効成分のない偽薬を「効く薬だ」と信じて飲むと、実際に症状が改善することがある現象——は、現代医学が確認している事実です。心の確信が体の状態に影響する経路そのものは、科学の側も認めている。本書が描くのは、その経路を細い裏道ではなく、メインストリートとして使う人たちだ、と読むことができます。
さて、ここからが読者の話です。体が心を聞いているなら、あなたは毎日、体に何を聞かせているでしょうか。
「私は風邪をひきやすい」「もう歳だから治りが遅い」「疲れが取れない体質だから」。口癖のつもりで、私たちは体に向かって、毎日同じ指示書を読み上げています。彼らの基準で言えば、これは呪いの自己処方です。逆もまた然り。体を信頼する言葉は、少なくとも害にはなりません。そして案外、タダです。
彼らの医術でいちばん効いている薬は、薬草ではなく、疑いのなさかもしれません。そしてその薬だけは、砂漠まで行かなくても、今夜から処方できます。
世界には、良いものと悪いものがある。快適は善で、不快は悪。私たちは生まれてからずっと、世界をこの二つに仕分けながら生きています。虫は嫌、暑さは敵、痛みは排除すべきもの。そう疑いもせずに。
本書には、その仕分けを根こそぎにする、強烈に気持ち悪い名場面があります。ハエです。
砂漠のハエは、生やさしいものではありません。本書によれば、夜明けとともに何百万匹もの大群が空を黒く埋め、耳に入り、鼻を上ってきて、目を引っかき、歯の隙間を抜けて喉にまで侵入する。体じゅうに張りつき、見下ろすと「動く黒い鎧」を着ているようだった。著者は、これだけの虫の脚が体を這い続けたら人は発狂する、と本気で訴えます。地獄だ、と。
すると長老リーガル・ブラック・スワンが、彼女を諭します。本書のこの返答が、白眉です。「すべてのものには意味がある。出来損ないも、はみ出し者も、偶然も存在しない。あるのは、人間がまだ理解していないものだけだ」。
そして長老は、ハエの正体を明かします。ハエは、耳の中に入り込んで、寝ている間に溜まった砂や耳垢を掃除してくれる。だから自分たちの耳は完璧に聞こえる。鼻に上って、鼻を通してくれる。これからもっと暑くなる、鼻が詰まっていたらお前は死ぬぞ、と。ハエは体に張りついて、排出された老廃物を残らず持ち去ってくれる——現代人が殺虫剤で追い払う害虫を、彼らは無料の清掃係として歓迎しているのです。
長老は締めくくります。人は、不快なものをすべて「排除」してばかりで、「理解」しようとしない。ハエが来たら、我々は降参する。お前も、そろそろ降参してはどうか、と。
ここでのけぞってください。同じハエが、著者には「地獄」で、彼らには「掃除屋」でした。ハエは何も変わっていません。変わっているのは、それを見る側の理解だけです。世界に絶対の「敵」はいない。あるのは、こちらがまだ意味を知らないものだけ——本書が言っているのは、これです。
これは砂漠の話だと思って読み流せません。私たちも毎日、仕分けています。この上司は敵。この渋滞は最悪。この失敗は人生の汚点。——でも、敵だと決めた瞬間に、私たちはその意味を理解する扉を自分で閉じてしまう。後になって「あの回り道があったから今がある」と気づくこと、ありますよね。あれは、当時「敵」と呼んだものの意味が、何年も経ってやっと分かった瞬間です。
あなたが今いちばん「最悪だ」と思っている出来事を、ひとつ思い浮かべてください。それは本当に敵でしょうか。それとも、まだ意味が見えていない掃除屋でしょうか。判定を、少しだけ保留にしてみる。それだけで、世界から「敵」が一匹ずつ減っていきます。
前の章で、彼らは「不快なものを排除するな、理解しろ」と言いました。この章は、その思想が体のレベルで現れる、もう一つの強烈な場面です。
邦訳に「生き埋め」という章があります。文字どおり、著者は首だけ出して、砂漠の地面に2時間、生き埋めにされます。
想像してみてください。全身を砂に固められ、指一本動かせない。本書で彼女は正直に書いています——もし彼らがこのまま立ち去ったら、自分はここで白骨になる。最初は、トカゲや蛇や砂漠のネズミが顔を走り回るのではと怯えた。生まれて初めて、麻痺した人の気持ちが本当に分かった。腕を動かそうと念じても、動かない、あの感覚です。
ところが、彼女が抵抗をやめ、目を閉じ、「体から毒素を放出し、地面の冷たく清らかな力を吸い込む」ことに集中し始めると、時間が速く過ぎていった。そして埋められていた体を掘り起こされたとき、彼女はこう書きます——「私たちは、臭いを地面に置いてきた」。
ここに、私たちと彼らの決定的な違いがあります。私たちは体臭を「消す」ものだと思っています。デオドラント、香水、制汗剤。要するに、フタをして覆い隠す。前の章で部族が言った「下にあるものを覆って隠す」——文明の本質、まさにそれを、私たちは脇の下で毎朝やっています。彼らは逆です。臭いの正体は体が出したい老廃物であり、覆うのではなく、大地に「放出して置いてくる」ものだと捉える。フタをするか、出しきるか。正反対の発想です。
もちろん、明日から生き埋めになる必要はありません。でも、この発想の転換は使えます。私たちは不快な感覚を——疲れも、痛みも、もやもやした気分も——すぐに「消そう」とします。薬で抑え、気晴らしで紛らわせ、見ないことにする。覆って、隠す。でも本書の見方では、その不快は、体や心が「これを出したい」と送ってきた信号かもしれない。フタをすれば、出したかったものは内側に溜まり続けます。
不快を、消すべき敵ではなく、出したい毒のサインとして眺め直す。臭いを地面に置いてきた彼女のように、ためこんだものを、どこかにちゃんと放出してやる。覆い隠す文明の作法から、出しきる作法へ。これは、砂に埋まらなくてもできることです。
私たちは毎年、奇妙な祭りをやっています。誕生日です。「おめでとう」と祝いながら、本音では誰も、歳を取りたくない。めでたいと言いながら老いを恐れる。この矛盾を、ケーキの火で毎年ごまかしています。
著者が部族に誕生日の話をしたときのやりとりが、強烈です。本書によれば、彼らはまず純粋に不思議がりました——なぜそんなことを祝うのか、と。歳を取るのに特別なことは何もない。努力も要らない。ただ起きるだけのことだ、と。
では何を祝うのかと著者が尋ね返すと、答えはこうでした。良くなったことを祝う。去年の自分より良い、賢い人間になれたかどうか。それは自分にしか分からない。だから、なれたと思った本人が、みんなに「祝う時が来た」と告げる。すると盛大に祝ってもらえる。邦訳の章題「ハッピー・アンバースデー」——誕生日ではない記念日は、こうして開かれます。
ここ、二段階でのけぞってください。一段目は、祝う対象の反転です。時間の経過(誰の手柄でもない)ではなく、成長(本人の達成)を祝う。考えてみれば誕生日は、本人が何かを成し遂げた日ではありません。ただ生きていた、というだけの日です。二段目は、宣言者の反転です。カレンダーと他人が決めるのではなく、自己申告制。私たちの感覚では図々しさの極みですが、彼らの理屈は通っています。内面の成長を観測できるのは、本人だけなのですから。
この仕組みの何が凄いかというと、老いの恐怖が、構造的に発生しないことです。歳を数える生き方は、自動的に残り時間を数える生き方になり、数字が増えるほど怖くなります。成長を数える生き方では、数字は積み上がる一方です。減りません。だから祝うたびに豊かになる。彼らが老いを恐れない(と本書が描く)のは、彼らが特別勇敢だからではなく、数えているものが違うからです。
ついでに、彼らの名前の話もここに添えておきます。本書によれば、〈真実の人〉族の名は「偉大なる石の狩人」「女ヒーラー」「秘密の番人」——その人の才能の呼び名です。そして彼らは、人は誰でも複数の才能を持って生まれ、一生はその全部を披露しきるには短すぎる、と考えている。著者は、彼らの言葉には「仕事(ワーク)」にあたる語が存在しない、とも書いています。生きることと才能の発揮が、最初から分かれていないのです。私たちのように名刺の肩書き一枚に自分を固定し、その役割が揺らぐと自分ごと揺らぐ——そういう檻が、彼らにはありません。
さて、自己申告制の祝い、あなたもやるとしましょう。条件はひとつだけ。「去年の自分より、ここが良くなった」と、自分の口で言えること。
——すぐに言えましたか。
言えなかったとしたら、それは成長していないからではなく、たぶん、数えてこなかったからです。歳は勝手に増えるので数えなくても困りませんが、成長は、数える人のところにしか積み上がりません。
彼らのカレンダーに、数字はありません。あるのは、良くなったと言えた日の印だけです。
私たちにとって、食事はほぼ「購入」です。パックに並んだ肉、袋に入った野菜。それがどこで生きていた何だったのか、考えなくて済むように、命の気配は売り場で綺麗に消されています。
本書の食卓は、その対極です。〈真実の人〉族は、口にする前に必ず、その命に感謝を捧げます。邦訳の章題には「晩餐会」「チョコレートがけの蟻?」というものがあり、察しの通り、食卓には幼虫や蟻も上ります。著者は最初、喉を通りません。しかし砂漠を歩き続けた体に、それはやがて、ご馳走に変わっていきます。
しかも彼らの「いただく」は、私たちのスーパーとは仕組みからして違います。本書によれば、彼らは狩るとき、獲物を追い詰めません。カンガルーのほうが「今、自分の体を部族に差し出す」と決めた、その気配を感じ取り、いつどこでその命が差し出されるかを知る。地面の下の、目に見えない芋にかざした手が、熟して食べ頃のものの上で震える。食べ物を奪い取るのではなく、差し出されたものを受け取る。狩りというより、待ち合わせに近いのです。
ゲテモノ食いの話だと思って読むと、この章の本体を取り逃します。本体は、感謝が何をしているかのほうです。
感謝とは、「もらった」という認識のことです。相手がいて、こちらに与えられた、という関係の確認です。一方、購入には相手がいません。お金と商品の交換があるだけで、命との関係は発生しない——というより、関係を発生させないために、あの便利な仕組みはあるのです。
人間には正直な性質があります。関係のあるものは丁寧に扱い、関係のないものは雑に扱う。友達から借りた傘は気をつかって持ち歩くのに、ビニール傘は平気で置き忘れる。あの心理です。自然を「資源」と呼んだ瞬間、相手は物になります。物には感謝しません。物は雑に扱えます。乱獲も、廃棄も、環境の使い捨ても、根っこにあるのは悪意ではなく、関係の切断です。
彼らが必要以上に獲らないのは、我慢強いからではありません。相手が「物」ではなく「差し出してくれた命」だからです。もらったものを捨てる人は、いません。
ところで、私たちの言葉には、彼らとまったく同じ場所から生まれた一語が、すでにあります。「いただきます」です。命をいただきます、という、あれは本来、食前の感謝の宣言でした。私たちはその言葉だけをきれいに残して、中身を売り場に置いてきたのです。
今日の食事から、一品だけでいい。それがどこで生きていた何だったか、思い浮かべてから箸をつけてみてください。味は変わりません。でも、食卓に「関係」が一本戻ります。線を引くのが文明なら、線を一本消すのは、今夜のあなたにもできることです。
神様、と聞いて私たちが思い浮かべるのは、だいたい監視と採点の係です。戒律があり、行いが記録され、善行は加点、悪行は減点。何をしたかで裁かれる——多くの宗教のイメージは、そうなっています。
本書によれば、〈真実の人〉族の信じる存在は、それとはかなり違います。名前は「ディヴァイン・ワンネス」——聖なる、ひとつなるもの。人の姿をした神ではなく、すべての生き物に流れている、ひとつの意識です。そしてこの存在が見ているのは、行為ではなく、意図。何をしたかではなく、なぜしたか、だと彼らは考えています。通訳のウータは、こう言います——ワンネスは、我々が何をするかにではなく、なぜするかに関心がある、と。
まず「ひとつの意識」のほうを、噛み砕きます。海と波を思い浮かべてください。波は一個ずつ別の物に見えますが、実際には全部、同じ海の動きです。波と波の間に、本当の境界線はありません。ある波が「ここからは私の水だ」と主張し始めたら、おかしいですよね。——でも、それをやっているのが私たちだ、というのが本書の世界像です。個人という囲いは、波が自分を海から切り離して数えた錯覚で、本当は全部つながって、ひとつ。第7章で骨折した狩人を、ヒーラーが触れずに治せたのも、第2章でカンガルーの「差し出す気配」を感じ取れたのも、すべてがこの「つながってひとつ」の上に乗っています。バラバラの不思議に見えた出来事が、ここで一本の世界観に束ねられます。
そうなると、「意図を見る」の意味も変わってきます。すべてがひとつなら、誰かを騙すことは、海の右端が左端を騙すようなもので、原理的に自分に隠れて何かをすることができません。見ている神は外にいない。自分の内側の、いちばん底にいる。だから問われるのは、外から観測できる行為ではなく、内側で自分が知っている意図になるのです。
この倫理は、私たちの「バレなければセーフ」を根こそぎにします。行為で裁く世界では、結果オーライも、こっそりも、可能です。意図で裁かれる世界では、ごまかしが構造的に不可能です。観客が、自分だからです。逆に言えば、誰にも見られていない場所での小さな善意は、この世界では満点です。見せるための善行より、隠れてした親切のほうが上——どこかで聞いたことのある倫理だと思いませんか。私たちの「お天道様が見ている」は、彼らのワンネスと、同じ方角を向いています。
試しに、今日した行動をひとつ選んで、「なぜ?」を三回、掘ってみてください。一回目の答えは建前が出ます。二回目で事情が出ます。三回目に出てきたものが、彼らの神が見ているものです。
彼らの神に、監視カメラは要りません。見ているのが、あなた自身だからです。
最後まで取っておいた言葉があります。タイトルにある「ミュータント」。変異体、という意味です。
この本のタイトルを見た人は、ふつう、こう思います。砂漠で原始の暮らしを続ける、風変わりな人たちの話なのだろう、と。逆です。本書によれば、〈真実の人〉族がミュータント=変異体と呼ぶのは、自分たちではありません。私たちです。5万年、本来の人間のまま生きてきた彼らから見れば、変異したのは、線を引き始めた側——文明人のほうなのです。彼らに言わせれば、ミュータントはもはや雨に裸で打たれた感触も知らずに死に、人工の冷暖房の中で暮らし、普通の気温で熱中症になる。物に囲まれ、物に幸福を探し、物を買うためだけに一生働く——本来の生から、ずれてしまった者たち。それが私たちです。
そう言われて9つの章を振り返ると、全部が一本につながります。持ち物の線。蓄えの線。言葉の線。体と心の線。「敵か味方か」の線。体臭にすらフタをする線。年齢の線。食べ物との線。そして神との線。どれひとつ、彼らは引いていませんでした。それらは全部、自然から切り離された変異体だけが必要とする道具だったのです。線を引けば引くほど安全になるはずだったのに、私たちは線の内側で、恐怖と不安と孤独を育ててきました。住んでいたのは要塞ではなく、檻でした。
そして本書の終盤、最大の事実が明かされます。〈真実の人〉族は、自分たちがこの星を去ることを、自ら選んでいました。新しい子どもをもうけず、いまの世代を最後の世代にする。種としての存続——生き物が最後まで手放せない、あの執着すら、彼らは手放したのです。なぜそんなことが、悲壮感なく可能なのか。第9章のワンネスを、彼らが本気で信じているからです。波が消えても、海は一滴も減らない。部族という波形がひとつ終わるだけで、還る先は、最初からひとつの意識。「自分たちが続かねば」という恐怖は、自分を海から切り離された一個の波だと思う者にだけ起きるのです。
では、去りゆく彼らが、最後の力で何をしたか。墓標を建てることでも、記録を残すことでもありませんでした。残される側——私たちへの伝言を、託すことでした。これがタイトルの「メッセージ」の正体です。長老は著者に告げます。我々は地球を、お前たちに残していく。お前たちの生き方が、水と動物と空気と、お互いに何をしているか、どうか見てほしい。この星を壊さずに解決策を見つけてほしい、と。去っていく彼らが心配していたのは、自分たちの消滅ではなく、残される私たちのほうだったのです。
そして伝言には、裁きも絶望もありませんでした。まだ間に合う、です。本書によれば、彼らが数いるミュータントの中から著者を使者に選んだのは、多くのミュータントが心のどこかで、本来の人間に戻りかけていると感じていたからでした。
最後に、一度だけ触れておきます。この本は、フィクションでした。著者が自分で認めています。それでもこの本は、ハーパーコリンズ版だけで世界100万部近くが読まれ、24カ国に翻訳され、いまも「人生が変わった」と言う読者を生み続けています。
不思議だと思いませんか。嘘の砂漠の、嘘の部族の教えに、なぜ本物の涙が出るのか。
答えは、もう出ています。この本が指している飢えのほうが、本物だからです。物に囲まれているのに、足りない。常時接続なのに、孤独。便利になり続けているのに、軽くならない。その感覚に心当たりがあるなら——この本を読んで何かが疼くなら——それは、あなたの中の「線を引く前の人間」が、まだ生きている証拠です。変異は、完了していないのです。
だから最後に、ひとつだけ質問をして、この記事を閉じます。
あなたが今日、いちばん必死に守っている線は、何ですか。そしてその線は——本当に、要りますか。
メッセージの宛先は、最初からあなたでした。差出人が実在するかどうかは、手紙の中身を、一文字も変えません。
著者:マルロ・モーガン/訳者:小沢瑞穂
角川書店(単行本1995年/角川文庫1999年4月22日)
文庫判・240ページ/ISBN 9784042797012/定価533円+税
原題:Mutant Message Down Under(1990年自費出版、1994年ハーパーコリンズ刊)
※邦訳は事実上の絶版。古書にて入手可。


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