奈良 天河大辨財天社(天河神社)

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目次

プロローグ:新宿で死んだ男の手に、鈴が握られていた

東京・新宿。高層ビルが空を切り取る街の路上で、一人のサラリーマンが突然倒れ、そのまま息を引き取った。駆けつけた警察が遺体のかたわらで見つけたのは、固く握りしめられた小さな鈴だった。やがて死因は毒殺と断定される。事件をひもとく手がかりは、ただ一つ──この鈴である。

鈴の名は「五十鈴(いすず)」。奈良県の山深くに鎮座する、ある一つの神社にしか伝わらない神宝だった。捜査の足は、必然的に大都会から奈良の奥地へと向かっていく。これは内田康夫の推理小説を巨匠・市川崑が映画化した『天河伝説殺人事件』──一九九一年公開、角川映画十五周年記念作品の幕開けである。

物語そのものはフィクションだ。だが、この映画が日本中に焼きつけた一つのイメージは、まぎれもなく現実のものだった。芸能の神を祀り、三つの球を連ねた独特の鈴を伝える神社が、奈良の山中に本当に存在するということ。そして、その鈴には、人智を超えた何かが宿っていると、古くから信じられてきたということだ。

奈良県吉野郡天川村坪内。標高の高い山々と清冽な渓流に抱かれたこの土地に、天河大辨財天社──通称・天河神社は鎮座している。日本三大弁財天、あるいは五大弁財天の一つに数えられ、芸能・音楽・弁舌・財宝を司る市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を主祭神とする古社だ。創建は飛鳥時代までさかのぼり、修験道の開祖・役行者が開き、弘法大師・空海が修行に身を投じ、世阿弥の血を引く能役者が面を奉納した。一千年をゆうに越える祈りの堆積が、この山中の小さな社には積み重なっている。

それでいて、この神社をめぐって最も多く語られてきたのは、由緒でも文化財でもない。それは、ここを訪れた人々が口々に語る、おびただしい数の不思議な体験談のほうだ。昇殿した瞬間に頭上で鳴り響いた正体不明のラップ音。気づけば迷い込んでいた鎮魂の社。参拝から帰った後、誰も触れていないのに変わっていたパソコンの画面。手をかざすとジンジンと熱を帯びる、天から降ったと伝わる石──。方位磁針が狂う「ゼロ磁場」と囁かれ、社家には「鬼の血を引く一族」の伝説が残り、奥宮には光るものが飛来するという話まである。

なぜ、この一つの神社に、これほどの不思議が集まるのか。それは偶然ではない。本稿が解き明かしたいのは、まさにこの問いだ。天河神社が積み重ねてきた不思議の数々は、決して根拠のない作り話の寄せ集めではない。その一つひとつは、この社が祀る神の性格、伝えてきた神宝、刻んできた歴史と、確かな糸でつながっている。芸能の神を祀る社だからこそ、音にまつわる不思議が起きる。天岩戸の神話に連なる鈴を伝えるからこそ、魂を揺さぶる力が語られる。修験の聖地に建つからこそ、鬼の伝説が息づく。

不思議を、迷信として切り捨てるのでもなく、無批判に神秘として持ち上げるのでもなく、その背後にある千年の信仰の構造ごと解きほぐしていく。新宿で死んだ男が握っていたあの鈴の正体から、芸能の神が舞った神話の起源まで。一つずつ、たどっていこう。

その前に、避けては通れない噂が一つある。「天河神社は、呼ばれた者しか、たどり着けない」──まずは、この最も有名な言い伝えの正体から始めよう。

第一章:呼ばれる神社の正体

天河神社について調べはじめると、誰もが必ず最初にぶつかる一文がある。「呼ばれた者しか、たどり着けない」。観光ガイドにも、個人の旅行記にも、口コミサイトにも、判で押したようにこの言葉が現れる。あまりに繰り返されるので、しまいには神社が自ら掲げたキャッチコピーのようにすら聞こえてくる。この章では、天河の数ある不思議のなかでも最も広く知られたこの言い伝えの正体を、できるだけ深くまで掘り下げておきたい。そして、ここで掘り尽くしておく。なぜなら「呼ばれるかどうか」は、あくまで天河という社の入口にすぎないからだ。扉の前で立ち止まっていては、その奥にある本当の世界は見えてこない。

語られ方には、不思議なほど共通したパターンがある。「行けなかった」側の話から見ていこう。行くと決めた途端に体調を崩す。急な用事が舞い込んで予定が流れる。車が途中で故障して動かなくなる。道に迷い、いつまで経っても社殿にたどり着けない──。ある旅行記の書き手は、この言い伝えをこう要約していた。なぜか行く時になって体調が悪くなり、用事が入り、車が故障して神社まで行けない、だから「呼ばれた者しか行けない」のだ、と。彼女自身は、その存在を知りつつも「一生行くことはないだろう」と思っていたという。ところがある日、偶然にも天河と玉置神社をめぐる日帰りツアーの広告を見つけ、申し込むことになる。こういう偶然に出会うこと自体が「呼ばれた」ということらしい──そう彼女は綴っていた。行けないという話と、行けたという話は、しばしば同じ一人の中で表裏一体になっている。

この「行きにくさ」は、決して気のせいではない。天河神社が鎮座するのは、奈良県のほぼ中央、紀伊山地の奥深く。公共交通機関で向かうなら、起点は近鉄吉野線の下市口(しもいちぐち)駅だ。大阪の阿部野橋から特急と急行を乗り継いでも、ここまででゆうに一時間半近くかかる。そして本当の試練は、駅に降り立ってからだ。下市口駅から神社の最寄りバス停までは、奈良交通バスの「中庵住(なかいおすみ)行き」に揺られて、およそ一時間。山あいの道を縫うように登っていくこのバスは、一日にわずか数本しか運行されていない。一本逃せば、次の便まで数時間、何もない山あいで待ち続けることもある。車で向かっても、大阪市内からおよそ二時間。後半は対向車とすれ違うのもやっとという細い山道が延々と続き、冬には路面が凍てつく。たどり着いても、境内の駐車場はわずか三十台分。休日には順番待ちが七十分を超えることもあるという。

こうしてアクセスの実態を並べてみると、「呼ばれる/呼ばれない」という言い伝えが、いかに巧みに現実を映し出しているかが見えてくる。これだけ行きにくい場所であれば、ちょっとした体調の崩れ、わずかな予定の狂い、一本のバスの乗り遅れ、一度の積雪が、そのまま「たどり着けない」という結果に直結する。都会の駅前の神社なら、多少の不調や遅刻があっても気を取り直して参拝できるだろう。だが天河では、そうはいかない。一つの小さな綻びが旅程全体を崩し、参拝そのものを断念させてしまう。「妨げが次々と重なって行けなかった」という体験が生まれやすい構造が、この土地には地形そのものとして備わっているのだ。

では、すべては地理で説明がつく作り話なのか。そう結論づける前に、「呼ばれた」側の物語にも耳を傾けてみよう。こちらにも、はっきりとした共通の型がある。きっかけは、たいてい唐突な直感としてやってくるのだ。あるブログの書き手は、何度も予定が合わず、行こうと思っても行けない日々が続いていた。ところがある日、ふと「今、行かなきゃ」という思いが胸に込み上げ、その瞬間、それまでの停滞が嘘のように道が開けて、気づけば社殿の前に立っていたという。別の参拝者のきっかけは、もっと脈絡がなかった。知人から「今、ふと下りてきたんやけど、天川村のべんてんさん行ったことある?」という、何の前触れもないメッセージが届いたのだ。なんとなく心惹かれてその誘いに乗り、翌日には強い寒波のなか、雪で凍った道を越えて天川村へ向かっていた。

これらの体験に共通するのは、「呼ばれる」という感覚が、自分の計画や意志というよりも、外側から差し込んでくる衝動のかたちをとっている点だ。ずっと気になっていた。情報が自然と目や耳に入ってくる。誰かがふいに名前を口にする。そうした小さな偶然が連なり、ある臨界点を超えた瞬間に、人は「行くべき時が来た」と確信する。天河参りは、強い意志で計画を立てて達成する種類の参拝とは、質が根本的に異なっている。それは、待つこと、委ねること、機が熟すのを感じ取ることと結びついた、受け身の感覚なのだ。

もっとも、すべての参拝者が劇的な物語を持ち帰るわけではない。さんざん「呼ばれないと行けない」と読んで身構えていたのに、いざ行ってみたら拍子抜けするほどあっさり着いた、という声も少なくない。あるSNSの投稿者は、あちこちの警告にビビりながら向かったのに「あら?」と思うほど簡単に着いてしまい、参道は日本遺産にも登録された人気の社らしく大勢の人で賑わっていた、と正直に書いている。神秘の秘境であると同時に、紛れもない人気観光地でもある。「神に呼ばれた人しか行けない」と畏れられる神社の門前で、現代の参拝者は七十分の駐車場渋滞と向き合う。この一見矛盾した光景こそが、現代の天河参りのリアルだ。そして秘境としての神秘性と観光地としての賑わいは、矛盾しているようでいて、実は互いを増幅し合っている。「呼ばれないと行けない」という物語が人を惹きつけ、惹きつけられた大勢が、さらにその物語を語り広げていくのである。

ここで、この言い伝えの心理的な仕組みを正直に整理しておこう。最寄り駅から車で一時間以上、公共交通も限られたこの立地では、「本当に行きたい」という強い意志を持った人でなければ、そもそも旅程を組むこと自体が難しい。だからこそ偶然や直感に背中を押されて訪れる人が相対的に多くなり、その「導かれた感覚」がやがて「呼ばれた」という言葉に結晶していく。加えて、人は努力を要して手に入れたものほど価値が高いと感じる。長い乗り換え、来ないバス、くねる山道、凍る路面、満車の駐車場──それら幾重もの障壁をくぐり抜けて社殿の前に立ったとき、その労力の大きさが、そのまま「特別に選ばれた」という感覚へと変換される。たやすく行ける場所には、たやすい意味しか宿らない。容易に近づけない場所には、近づけたという事実だけで特別な意味が宿ってしまうのだ。

だが、これだけでは説明しきれない何かが、この土地には残る。なぜ天河神社という、たった一つの神社をめぐって、これほど濃密に「呼ばれる」物語が積み重なってきたのか。同じように山深く、同じようにアクセスの悪い神社なら、日本中にいくらでもある。それなのに、天河だけが特別に「呼ばれる場所」「縁がないとたどり着けない場所」として、千年を越えて語られ続けてきた。その違いを生んでいるのは、地理ではない。この社が「何を祀り、何を伝えてきたか」だ。芸能の神を祀るという性格。天岩戸の神話に連なる鈴。役行者と空海が踏み固めた修験の歴史。鬼の血を引くと伝わる社家。そうした幾層もの背景が、単なる「行きにくい山奥の神社」を、人を「呼ぶ」社へと押し上げてきた。

だから、私たちはもう「呼ばれるかどうか」の問いを手放そう。それは入口の話だ。重要なのは、その扉の奥に何があるのか、である。たどり着いた者が出会うのは、いったい何なのか。なぜ、ここまでして人は引き寄せられるのか。その答えは、この社が伝える、たった一つの小さな神宝に凝縮されている。三つの球を連ねた、奇妙なかたちの鈴。新宿で死んだ男が握っていた、あの「五十鈴」だ。次章では、いよいよこの社の心臓部へ分け入っていく。天の岩戸の神話にまでさかのぼる、五十鈴の正体へ。

第二章:天岩戸から来た鈴

新宿の路上で死んだ男の手に握られていた鈴。映画『天河伝説殺人事件』が日本中に焼きつけたあの神宝こそ、天河大辨財天社が伝える「五十鈴(いすず)」である。だが、この鈴を単なる物語の小道具と思ってはいけない。五十鈴は、天河神社という社の心臓部であり、この社が祀る神の本質そのものを、金属の小さなかたちに凝縮した存在だ。前章で手放した「呼ばれる」という入口の問いの、その先にある本当の世界は、この鈴から始まる。

五十鈴とは、三つの球形の鈴を一つに連ねた、独特のかたちをした神宝である。一般的な神社の鈴とは、まるで違う。鈴緒を振って鳴らす本坪鈴(ほんつぼすず)でもなければ、巫女が神楽で手にする神楽鈴とも異なる。三つの球が連なるその姿は、見る者に強い印象を残す。なぜ三つなのか。なぜこのかたちなのか。その問いに答えるには、日本神話の最も有名な一場面、天の岩戸の物語までさかのぼらなければならない。

神話はこう語る。弟・須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴狼藉に心を痛めた太陽神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)が、天の岩屋戸に閉じこもってしまう。光の源である太陽神が姿を隠したことで、高天原も葦原中国も闇に包まれ、あらゆる災いが噴き出した。困り果てた八百万(やおよろず)の神々は岩屋戸の前に集い、知恵をしぼる。そして、ある作戦に出た。岩屋戸の前で、盛大な祭りを催したのだ。その中心で舞ったのが、芸能の女神・天宇受売命(あめのうずめのみこと)である。彼女は神がかりとなって激しく舞い踊り、その姿に集った神々はどっと笑い、高天原はどよめいた。外の楽しげな気配を不審に思った天照大御神が、わずかに岩戸を開けて覗いた、その一瞬を捉えて、世界に再び光が戻る──。

天河神社の伝えるところによれば、五十鈴は、このとき天宇受売命が手にしていた「神代鈴(かみよすず)」と同じものとされる。天宇受売命は、鈴をつけた矛を持って岩屋戸の前で舞ったと伝わる。つまり五十鈴は、世界に光を取り戻したあの神話的な祭りの、まさに中心で鳴り響いていた鈴なのだ。芸能の女神が舞い、その舞によって閉ざされた太陽を呼び戻す──天河神社が芸能・音楽の神を祀る社であることと、この神宝が天宇受売命の鈴に由来するということは、一本の太い糸で結ばれている。音と舞こそが、閉ざされたものを開き、失われた光を呼び戻す力を持つ。五十鈴は、その神話的な確信を、かたちにしたものなのである。

そして、この鈴の最も核心的な意味は、三つの球それぞれに込められている。天河神社は、この三つの球が、魂の三つの状態をあらわすと伝えている。一つ目は「いくむすび」。二つ目は「たるむすび」。三つ目は「たまずめむすび」。この三つは、魂の進化にとって決定的に重要な、三つの状態を示すという。耳慣れない言葉だが、その響きの奥には、古代の日本人が抱いた魂についての、驚くほど精緻な世界観が横たわっている。

「むすび」とは、漢字を当てれば「産霊」。生み出し、結び、生成していく霊妙な力を指す、日本固有の概念だ。天地のはじめに高天原に成りませる造化三神のうち、二柱までが高御産巣日神(たかみむすひのかみ)・神産巣日神(かみむすひのかみ)と「むすひ」の名を負っていることからも、この力が日本の世界観のいかに根源に置かれていたかがわかる。「むすび」は、ばらばらのものを結びつけ、新たな生命や価値を生み出していく、宇宙の創造的なはたらきそのものなのである。

その「むすび」が、三つの相となって連なっている、と五十鈴は語る。一つ目の「いくむすび」は、漢字を当てれば「生魂」。万物を生み出す、いきいきとした生命力の状態をあらわす。生まれ出ようとする力、ものごとが立ち上がる活力の相だ。二つ目の「たるむすび」は「足魂」。その働きが満ち溢れ、過不足なく充足していく状態をあらわす。湧き立った生命が成熟し、満ち足りていく充実の相である。そして三つ目の「たまずめむすび」は「玉留魂」。これは、全体が統一され、一つにまとまった魂の状態をあらわす。生命力と充足とが、ばらばらのままではなく、調和して一体となる──その完成された統一の相だ。生み出す力、満ちる力、そして一つにまとめあげる力。この三つが結びあうことで、魂はあるべき調和へと至る。ある授与品の説明書きは、この三つを「肉体・精神・魂」、あるいは「天・地・人」なる三位一体の調和状態と記している。五十鈴の三つの球は、この魂の三相が調和して一つになるさまを、手のひらの上で鳴らせる小さな宇宙模型として、私たちに差し出しているのだ。

ここに、天河神社の信仰の核心がある。三つの球を連ねた鈴を振れば、いく・たる・たまずめ、三つのむすびの音が一つに溶け合って鳴り響く。それは単に魔を祓い、神を招くための音ではない。生命を生み出す力と、満ち足りる力と、それらを一つにまとめあげる力――魂の三つの相を、一度の振動のうちに調和させる音なのだ。公式の伝えるところによれば、この五十鈴の清流のような妙なる音の響きによって、心身は深く清められ、魂が調和し、本来あるべき状態に戻り、新たな活力が湧いてくるという。芸能の女神が天の岩戸の前で鈴を振り、閉ざされた世界に光を取り戻したように、五十鈴の音は、聴く者の魂のなかの滞りを解き、本来の調和を呼び戻す。天河神社が「音の神社」「魂の神社」と呼ばれる、その根拠がここにある。

考えてみれば、この社の主祭神である市杵島姫命が弁財天と習合した神であることも、五十鈴の思想と深く響き合っている。弁財天はもともと、楽器・琵琶を抱えた音楽の女神だ。そのルーツをたどれば、古代インドの河の女神サラスヴァティーに行き着く。流れる水のせせらぎ、よどみない弁舌、奏でられる楽の音――弁財天とは、目に見えぬ「流れ」と「響き」を司る神なのである。水が高きから低きへ絶えず流れ、音が空気を震わせて遠くまで伝わるように、この神は、滞ったものを動かし、巡らせる力を本性とする。生み出し・満たし・一つにまとめあげるという三つのむすびの調和も、琵琶の弦が震わせる調べも、せせらぎの音も、根は一つだ。すべては「巡り、響き、結ぶ」という、同じ一つの原理のあらわれにほかならない。五十鈴を振る神が、なぜ音楽の女神でなければならなかったのか。その答えは、この神が宇宙の「流れ」そのものを体現する存在だからなのだ。

この五十鈴の思想を知ると、天河神社にまつわる数々の不思議が、まったく違って見えてくる。後の章で詳しく見ていくが、参拝者が昇殿の瞬間に頭上で謎のラップ音を聞いたという証言。表現者やミュージシャンたちが、まるで磁石に引かれるようにこの社へ集まってくるという事実。それらは決して、ばらばらの偶然ではない。音によって魂の循環を呼び覚ます──その思想を千年以上にわたって核に据えてきた社だからこそ、音にまつわる不思議が、ここには集まる。五十鈴は、天河という社のすべての不思議を束ねる、一本の中心軸なのである。

弘法大師・空海もまた、唐の都からこの天河の地へ、密教の聖なる法具としての鈴を持ち帰り、奉納したと伝えられる。鈴は、洋の東西を問わず、目に見えぬ世界と通じ合うための神聖な音具だった。その鈴のなかでも、三つの魂の循環を一身に背負った五十鈴は、おそらく日本で最も思想的に深い鈴である。新宿で死んだ男が握りしめていたのが、よりにもよってこの鈴だったという物語の設定は、作者の卓越した直感だったと言うほかない。五十鈴は、人の生死と、魂の行方にまで届く神宝なのだから。

では、その五十鈴を振り、世界に光を取り戻した天宇受売命の「舞」とは、いったい何だったのか。なぜ、舞と音が、神を動かす力を持つのか。天河神社が「芸能の神を祀る社」であることの、さらに奥にある秘密へと、次章で分け入っていこう。音が神を降ろす、その仕組みへ。

第三章:音が神を降ろす

前章で見た五十鈴は、三つの魂を一つに調和させる、音の神宝だった。だが、その鈴を最初に振ったのが芸能の女神であったことを、もう一度思い出してほしい。天の岩戸の前で、鈴をつけた矛を手に激しく舞った天宇受売命(あめのうずめのみこと)。閉ざされた太陽神を岩屋戸から引き出したのは、理屈でも力でもなかった。一人の女神の、神がかった舞と、その身を彩る音だったのだ。ここに、天河神社という社の、もう一つの核心がある。すなわち、音と舞は、神を動かす力を持つ――という確信である。

日本神話において、天宇受売命の舞は、ただの余興ではない。それは世界の危機を救った、最も重要な神事だった。太陽神が姿を隠し、世界が闇に沈み、あらゆる災厄が噴き出したあの絶体絶命の場面で、神々が最後に頼ったのが「祭り」であり、その中心に置かれたのが舞と音だったという事実は、重い。困難を打ち破る最終手段が、武力でも策略でもなく、芸能であったということ。これは、古代の日本人が芸能というものに、どれほど深い力を見ていたかを物語っている。芸能とは、神と人とが出会うための、最も根源的な技法だったのだ。

天宇受売命が神がかりとなって舞ったという点も見逃せない。彼女は自分の意志で振り付けを演じたのではない。神を身に降ろし、神に動かされるままに舞った。これを「神懸かり(かみがかり)」という。舞い手が我を忘れ、より大きな何かに身を明け渡したとき、その身体を通して神の力が顕(あらわ)れる。芸能の起源には、つねにこの神懸かりの感覚があった。舞うこと、歌うこと、奏でることは、自我を超えた何かと一つになるための回路であり、その回路が開いたとき、ふだんは隔てられている神の世界と人の世界が、束の間つながる。天宇受売命の舞とは、まさにその回路が全開になった瞬間の記録なのである。

天河大辨財天社が、この天宇受売命の神宝を伝え、芸能・音楽の神を祀る社であることの意味は、ここまで来ればおのずと明らかだろう。この社にとって、音楽や舞や演劇は、神を楽しませるための添え物ではない。それらは、神と直接に交わるための、神聖な技法そのものなのだ。主祭神である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が、琵琶を抱えた弁財天と習合した音楽の女神であることも、この性格を一層強めている。天河は、音をもって神に至る道を説く社であり、表現することそのものが祈りになる、稀有な聖地なのである。

なぜ、これほど多くの表現者たちが、この山深い社に引き寄せられてきたのか。その問いの答えも、ここにある。詳しい顔ぶれは後の章にゆずるが、能役者から現代のミュージシャンまで、ジャンルを越えた数多くの表現者が、なかば導かれるようにして天河を訪れてきた。それは単に「芸能の神だから芸事の上達を願って」という、ご利益目当ての参拝とは少し違う。表現を生業とする者は、誰しも経験的に知っている。本当に良いものが生まれる瞬間、自分は「作っている」というより、何かに「作らされている」「降りてきた」という感覚に近いということを。優れた演奏、優れた舞、優れた言葉は、しばしば自我の計算を超えたところからやってくる。それは天宇受売命の神懸かりと、本質的に同じ体験だ。

表現者が天河に惹かれるのは、おそらく、この社が「降りてくる」という感覚を正面から肯定し、神聖なものとして祀っているからだ。自分の創造性の源泉が、自分一人のものではなく、もっと大きな流れの一部なのではないか――そうした、表現者なら誰もが心の奥で感じている直感を、天河神社は千年以上にわたって信仰のかたちにし、守り続けてきた。だからこそ、論理では説明しきれない創造の秘密と日々向き合っている人々が、この社の前で、言葉にならない深い納得を覚える。ここは、自分が普段していることの「正体」が祀られている場所なのだ、と。

この視点に立つと、天河神社をめぐる「音にまつわる不思議」の数々が、ぐっと理解しやすくなる。後の章で詳述するが、参拝者が昇殿の瞬間に頭上で正体不明のラップ音を聞いたという証言がある。あるいは、ここで何かを感じ取り、創作のインスピレーションを得たと語る表現者は数知れない。音の神を祀り、音によって神と交わることを核に据えてきた社で、人々が「音」にまつわる超常的な体験を報告する――それは奇妙な符合ではなく、むしろ筋の通った帰結だ。場所が持つ性格と、そこで起きる(と語られる)現象とは、深いところで響き合っている。天河は音の社であり、だからこそ、音の不思議がここに集まる。

ここで、芸能と神事の関係について、もう少し踏み込んでおきたい。日本の伝統芸能の多くは、その起源を神事に持つ。神楽は文字どおり神を楽しませる舞であり、能や狂言も、もとをたどれば寺社の祭礼で奉納される神聖な芸だった。芸能と信仰は、もともと一体のものだったのだ。近代以降、芸能は娯楽産業として神事から切り離され、舞台はホールへ、観客は消費者へと姿を変えていった。だが天河神社では、芸能と神事が分かれる以前の、あの根源的な結びつきが、今もなお生きている。後の章で見るように、この社には立派な能舞台があり、世阿弥の血を引く一族が奉納した能面が伝えられ、今日でも神事として能が舞われる。芸能が神事であった時代の記憶を、天河はまるごと保存している、生きた博物館なのである。

この事実は、現代を生きる私たちに、静かな問いを投げかけてくる。私たちは音楽を、配信サービスのプレイリストとして消費する。舞台を、チケットを買って鑑賞する娯楽として捉える。それらは確かに豊かな楽しみだが、その一方で、芸能がかつて持っていた「神と交わる」という次元は、すっかり背景に退いてしまった。歌うこと、踊ること、奏でることが、本来は祈りであり、自我を超えた何かと一つになる行為だったという記憶を、私たちはほとんど忘れている。天河神社の前に立つと、その忘れられた次元が、ふいに立ち上がってくる。ここでは音は商品ではなく、神に至る道だ。表現は自己実現の手段ではなく、より大きな流れに身を明け渡す祈りだ。山深いこの社が、時代を越えて表現者たちを惹きつけてやまないのは、おそらく、彼らが日々の制作のなかで薄々感じ取りながらも言葉にできずにいた、この「芸能の本来の姿」が、ここではっきりと祀られているからなのだ。

考えてみれば、神懸かりという現象は、決して古代に限ったものではない。現代のミュージシャンが「ゾーンに入る」と表現する没我の境地。作家が「キャラクターが勝手に動き出す」と語る瞬間。即興演奏家が、考えるより速く指が動いていくと感じるとき。呼び名こそ違え、それらはみな、自我の計算を手放したときに、より大きな何かが自分を通して流れ出す体験を指している。天宇受売命が岩戸の前で神がかったのと、根は同じだ。天河神社は、その普遍的な創造の秘密を、「神懸かり」という古いが正確な言葉で名指し、神聖なものとして守ってきた。だからこそ、最先端の表現を追い求める人々ほど、この最も古い社の前で、深く頷くのである。

音が神を降ろす。舞が世界に光を取り戻す。表現が祈りになる。これらはすべて、天河神社という一つの社が体現している、同じ一つの真実の別の言い方にすぎない。前章の五十鈴が「音の神宝」だったように、この社そのものが「音の聖地」なのだ。そしてその聖地の中心には、音楽と弁舌と財宝を司る一柱の女神が坐(おわ)す。次章では、その女神――市杵島姫命その人へと、視線を移そう。なぜ水の神が音楽を司り、なぜ芸能の社の中心に弁財天が坐すのか。流れる水と、響く音と、巡る富。一見ばらばらに見えるそれらが、実は一柱の神のうちで深く結ばれていることを、これから見ていく。

第四章:水の女神・市杵島姫命

天河神社の中心に坐(おわ)す神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)という。だが、この社を訪れる多くの人は、この神を別の名で呼ぶ。弁財天(べんざいてん)、と。社の正式名称が「天河大辨財天社」であることからもわかるように、ここはまぎれもなく弁財天を祀る社だ。一柱の女神が、二つの名を持つ。そのこと自体に、日本の信仰が歩んできた千年の歴史が刻まれている。前章までに見てきた「音」と「魂」の物語は、この女神という一点に流れ込み、そこで結ばれる。本章では、天河の神そのものに正面から向き合ってみたい。

まず、二つの名の関係を解きほぐしておこう。市杵島姫命は、日本神話に登場する宗像三女神(むなかたさんじょしん)の一柱だ。一方の弁財天は、もとをたどれば仏教とともに大陸から伝わった、インド由来の女神である。本来まったく出自の異なるこの二柱が、なぜ同じ神として祀られているのか。それは、日本に長くつづいた神仏習合(しんぶつしゅうごう)という信仰のあり方による。仏教の神々と日本古来の神々を重ね合わせ、同じ神の別の姿として崇める。その流れのなかで、水にゆかりの深い市杵島姫命と、水の女神・弁財天が、いつしか一つに溶け合っていった。天河神社の元の祭神名は弁財天であり、明治の神仏分離を経て、神道の神名である市杵島姫命と称するようになったと伝えられる。だが社名にも信仰にも、弁財天の名は今なお色濃く生き続けている。

では、その弁財天とは、そもそもどのような神なのか。天河神社の公式の由緒は、この神の本質を、驚くほど明快に説いている。弁財天は、川の流れの妙なるさまを神格化したとされる、古代インドのサラスヴァティー神である、と。サラスヴァティーとは、もとはインドの聖なる河の名であり、その河を神格化した女神だった。つまり弁財天の最も根源的な性格は、財宝の神でも芸能の神でもなく、まず何よりも「水の神」なのだ。これは決定的に重要な点だ。天河神社が掲げる御神徳の筆頭にも、「水の大神」が置かれている。

水の神であることから、この女神の他のすべての性格が、まるで川が支流を集めるように派生していく。天河神社の由緒は、その連なりを美しく描き出す。弁財天は「水せせらぎの如く素直で妙なる弁舌や音楽の神」である、と。考えてみれば、これほど腑に落ちる説明はない。よどみなく流れる川のせせらぎは、よどみない弁舌の比喩であり、絶えず音色を奏でる流れは、音楽そのものでもある。水の流れる音、その澄んだ響き――そこから、弁舌の神、音楽の神という性格が、ごく自然に生まれてくる。前章まで見てきた「音の聖地」としての天河の性格は、この女神が「流れる水の神」であることに、その源を持っていたのだ。水が流れ、音が響き、言葉がよどみなく紡がれる。それらはすべて、一つの神の本性の、異なるあらわれにすぎない。

そして弁財天は、もう一つの顔を持つ。財宝の神、という顔だ。だが、これも唐突に付け加わったものではない。天河神社の由緒は、これを「後に転じて『財を弁ずる』商売の神としても信仰されるようになった」と説明する。流れ、巡り、よどみなく動くもの――水のその性質は、富や財貨の循環とも重なり合う。お金もまた、滞らせず巡らせてこそ価値を生む。「弁財天」という漢字表記そのものに、「財を弁ずる」という意味が込められている。水の神は、流れと循環を司ることを通じて、富の神にもなった。生命を潤す水、心を潤す音楽、暮らしを潤す財。弁財天が司るのは、要するに「潤し、巡らせるもの」のすべてなのである。

この「水の女神」という視点は、なぜ天河神社が、よりにもよってあの山深い大峯の地に祀られたのか、という問いにも、明快な答えを与えてくれる。前章まで見てきたように、天河の神は、役行者が大峯を開いた際、最高峰・弥山(みせん)の鎮守として祀られた。なぜ山頂に水の神を祀るのか。一見、奇妙に思える。だが、山こそが水の生まれる場所なのだ。山に降った雨や雪が、岩の間に染み込み、無数の谷川となって里へと流れ下る。大峯の山々は、紀伊半島一帯を潤す、巨大な水源地だった。実際、この地の信仰は古来「水分(みくまり)」――水の分配を司る神への信仰と深く結びついていたと伝えられる。山頂に水の女神を祀ることは、この山が生み出す水の恵みそのものを神として崇め、その分配を祈ることにほかならなかった。優美な弁財天のイメージの底には、人々の生死を左右する水という、切実きわまりない現実が横たわっていたのである。

天河神社の創建にまつわる伝承も、この「水」と「音」の女神という性格を、見事に物語っている。社に伝わる縁起はこう語る。かつて皇位継承をめぐる争いで窮地に立たされた大海人皇子(おおあまのおうじ)が、大和朝廷を守護する神々のふるさと・吉野を訪れ、勝利を祈願して琴を奏でた。すると、その琴の音に乗るようにして、唐玉緒(からたまお)をまとった天女が天から現れ、戦勝を祝福したという。この天女こそ、役行者が弥山の山頂に祀ったと伝わる弥山大神だった。やがて皇子は壬申(じんしん)の乱に勝利して天武天皇となり、天女の加護に報いるために麓に神殿を造営し、これを「天の安河(あめのやすかわ)の宮」と名づけた。これが天河大辨財天社の始まりと伝えられ、この「天の安河」が、天川という地名の由来になったとも言われている。

この創建譚の美しさに、改めて目をとめたい。神を呼び出したのは、剣でも祈祷の言葉でもなく、琴の音だった。音楽が、天から女神を招き寄せたのだ。天宇受売命が舞と鈴で天照大御神を岩戸から招き出したように、大海人皇子は琴の調べで弥山の天女を招き寄せた。音が神を動かすという、この社を貫く一本の真実が、創建の物語そのもののなかに、すでに埋め込まれている。天河神社は、その成り立ちからして「音によって神と交わる社」だったのである。

天河神社は、厳島神社(広島)、竹生島の宝厳寺・都久夫須麻神社(滋賀)、江島神社(神奈川)、金華山(宮城)などと並んで、日本五大弁財天の一つに数えられる。さらに公式の由緒によれば、修験道の重要文献にこの社が日本における弁財天勧請のはじまりとして記されているとも伝えられ、これに従えば、天河こそが日本の弁財天信仰の源流ということになる。山頂の水源に祀られた一柱の天女が、琴の音に招かれて麓に降り、やがて日本中に広がる弁財天信仰の源となった――そう考えると、この山深い小さな社の持つ意味の大きさに、改めて圧倒される。

水が流れ、音が響き、富が巡り、言葉がよどみなく紡がれる。市杵島姫命=弁財天という一柱の女神のうちで、それらはすべて一つに結ばれている。前章までに見てきた五十鈴の音も、神を降ろす舞も、この女神の本性から流れ出たものだったのだ。だが、天河の神に向き合う旅は、まだ終わらない。この優美な水の女神が祀られた大峯の山には、もう一つの、まったく異なる相貌(そうぼう)の物語が刻まれている。鬼を従えた行者の伝説だ。次章では、ふたたび視線を険しい山へと戻し、この社を開いたとされる役行者と、彼に従ったと伝わる鬼たち――そして、その鬼の血を引くという社家の物語へと、分け入っていく。

第五章:役行者と鬼の血脈

優美な水の女神・弁財天を祀る天河神社。だが、この社のもう一方の顔に目を向けると、そこにはまったく異なる気配が立ちのぼってくる。鬼の気配だ。芸能や財宝を司る雅(みやび)な女神の社でありながら、天河には、鬼にまつわる伝承と信仰が、奇妙なほど濃密にまとわりついている。なぜ、弁財天の社に鬼が棲(す)むのか。その謎を解く鍵は、この社を開いたとされる一人の超人――役行者(えんのぎょうじゃ)と、彼に従ったと伝わる鬼たちの物語にある。

役行者は、修験道の開祖とされる伝説的な人物だ。飛鳥時代、七世紀後半に大和の葛城(かつらぎ)に生まれた役小角(えんのおづの)その人で、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』にも、人々を惑わす呪術を使ったとして伊豆へ流されたという記述が残る、半ば歴史・半ば伝説の存在である。彼は吉野から熊野へと至る険しい大峯の山々で苛烈な修行を重ね、ついに金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)を感得して、日本独自の山岳信仰・修験道を切り開いた。天河神社の草創は、まさにこの役行者による大峯開山のときにさかのぼる。彼が大峯を開いた際、祈りによって最初に現れた弁財天を、最高峰・弥山(みせん)に祀ったのが、この社の始まりと伝えられている。天河は、修験道がこの世に生まれたその瞬間に、産声とともに祀られた神なのだ。

その役行者の伝説に、必ず付き従う二体の存在がいる。前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)と呼ばれる、夫婦の鬼である。伝承によれば、この二体の鬼は、もともとは人々を襲い、子をさらって喰らうとさえ恐れられた、凶暴な存在だった。だが役行者は、その神通力でこの鬼夫婦を捕らえ、調伏(ちょうぶく)した――一説には、鬼が我が子を隠されて嘆く姿を通して、子を奪われる親の悲しみを身をもって教えたとも伝わる。心を入れ替えた前鬼・後鬼は、以後、役行者に忠実に付き従う弟子となり、その厳しい山岳修行を支え、大峯の行場を守る存在となった。恐ろしい鬼が、行者の導きによって聖なる守護者へと生まれ変わる。この物語が、修験道における鬼のイメージを決定づけた。

そして、ここに天河神社の鬼信仰の核心がある。前鬼・後鬼の子孫とされる人々が、その後も大峯の地で、修験者たちの世話をする宿坊を営みながら、行場を守り続けてきたのだ。実際、大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)の途上にある前鬼の里には、五鬼助(ごきじょ)をはじめとする、鬼の子孫を名乗る一族が代々暮らし、今日でも宿坊を守り継いでいる。「鬼の子孫」とは、決して比喩や作り話ではない。それは、千三百年にわたって大峯の修験を実際に支えてきた、現実の家系の物語なのである。役行者が調伏した鬼の末裔が、今なお聖なる山を守っている――この一事だけでも、大峯という山域が、いかに神話と現実の入り混じった特異な世界であるかがわかるだろう。

天河神社の社家、すなわち代々この社を守り継いできた一族もまた、この役行者をめぐる物語の系譜に深く連なっている。現在の社家は柿坂(かきさか)家で、その家系は、山岳信仰の開祖・役行者の弟子の末裔とされ、名誉宮司を務める柿坂神酒之祐(かきさかみきのすけ)氏は、実に六十五代目にあたるという。六十五代――気の遠くなるような世代の連なりだ。一つの家が、一つの社を、千年を越えて守り継いできた。その途方もない時間の重みそのものが、天河神社に、底知れぬ深さを与えている。なお、巷(ちまた)にはこの社家を「前鬼・後鬼そのものの子孫」とする語りも流布しているが、史実として鬼の子孫を名乗り継いできたのは前鬼の里の五鬼助家であり、天河の社家との関係は慎重に区別して捉える必要がある。とはいえ、役行者の弟子の末裔がこの社を守り続けてきたという事実そのものが、天河と修験道、そして鬼の物語との、分かちがたい結びつきを雄弁に語っている。

天河神社における鬼信仰の濃さを、何よりも鮮やかに示す行事がある。節分に行われる「鬼の宿(おにのやど)」だ。日本中の神社仏閣で、節分といえば「鬼は外、福は内」と豆をまき、鬼を追い払う。だが天河神社では、まったく逆のことが起きる。ここでは「鬼は内、福は内」と唱え、鬼を追い払うどころか、社のなかへ丁重に迎え入れるのだ。鬼を客人として迎え、もてなす――それが「鬼の宿」という神事の本質である。鬼を祓うべき災厄とみなすのではなく、敬うべき聖なる存在として遇する。こうした鬼を迎え入れる節分のあり方は、全国を見渡してもきわめて珍しく、天河神社の鬼信仰の独自性を際立たせている。

考えてみれば、これほど鬼を大切に遇する神社は、他にそうあるものではない。鬼を災厄として外へ追いやる大多数の社と、鬼を聖なる客人として内へ迎える天河神社。鬼を「祓うもの」とするか「敬うもの」とするか――その根本的な態度の違いのなかに、この社が背負ってきた信仰の核心が、凝縮されている。鬼を追い払わない神社。それは、鬼が象徴する荒ぶる力すらも、排除すべき敵ではなく、向き合い、迎え入れるべきものと捉える、独特の世界観のあらわれなのだ。

この「鬼は内」という発想の根には、修験道独特の鬼観(きかん)が横たわっている。前鬼・後鬼の物語が示すように、修験道において鬼とは、単なる悪や恐怖の象徴ではない。それは、調伏され、向きを変えられたとき、聖なる守護者へと転じる、強大な力の象徴なのだ。荒ぶる自然の力、人智を超えた畏(おそ)るべきもの――それを排除するのではなく、敬い、迎え入れ、味方につける。山という、人を容易には寄せつけない畏怖の対象と向き合い続けてきた修験道だからこそ、たどり着いた境地だろう。天河神社が鬼を内に迎えるのは、この社が、荒々しい山の力を恐れて遠ざけるのではなく、その力と深く交わることを選んできた聖地だからなのである。

ここで、第一章で見た「呼ばれた者しか行けない」という言い伝えを、もう一度思い返してほしい。聖なる山に容易には立ち入れないという感覚。それは本章で見てきた、鬼すら棲まう畏るべき山という、修験道の世界観と地続きだ。天河神社の神秘は、優美な弁財天という一面だけでは決して語り尽くせない。その背後には、鬼を従えた行者の伝説があり、鬼の子孫が守る山があり、鬼を客人として迎える神事がある。雅(みやび)な女神と、荒ぶる鬼。この両極が一つの社に同居していること――それこそが、天河を底知れぬ場所にしている。

役行者が切り開いたこの祈りの山を、それから百数十年の後、もう一人の巨人がたどることになる。日本仏教史上、最大の天才とも称されるその人物は、唐の都で学んだ最新の密教を携えて帰国し、高野山を開く前に、この大峯の地で修行に身を投じたと伝わる。そして天河の神に、海を越えて持ち帰った聖なる宝を捧げたという。その人物の名は、弘法大師・空海。次章では、役行者から空海へと受け継がれた、もう一筋の壮大な祈りの系譜をたどっていこう。

第五章:役行者と鬼の血脈

優美な水の女神・弁財天を祀る天河神社。だが、この社のもう一方の顔に目を向けると、そこにはまったく異なる気配が立ちのぼってくる。鬼の気配だ。芸能や財宝を司る雅(みやび)な女神の社でありながら、天河には、鬼にまつわる伝承と信仰が、奇妙なほど濃密にまとわりついている。なぜ、弁財天の社に鬼が棲(す)むのか。その謎を解く鍵は、この社を開いたとされる一人の超人――役行者(えんのぎょうじゃ)と、彼に従ったと伝わる鬼たちの物語にある。

役行者は、修験道の開祖とされる伝説的な人物だ。飛鳥時代、七世紀後半に大和の葛城(かつらぎ)に生まれた役小角(えんのおづの)その人で、正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』にも、人々を惑わす呪術を使ったとして伊豆へ流されたという記述が残る、半ば歴史・半ば伝説の存在である。彼は吉野から熊野へと至る険しい大峯の山々で苛烈な修行を重ね、ついに金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)を感得して、日本独自の山岳信仰・修験道を切り開いた。天河神社の草創は、まさにこの役行者による大峯開山のときにさかのぼる。彼が大峯を開いた際、祈りによって最初に現れた弁財天を、最高峰・弥山(みせん)に祀ったのが、この社の始まりと伝えられている。天河は、修験道がこの世に生まれたその瞬間に、産声とともに祀られた神なのだ。

その役行者の伝説に、必ず付き従う二体の存在がいる。前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)と呼ばれる、夫婦の鬼である。伝承によれば、この二体の鬼は、もともとは人々を襲い、子をさらって喰らうとさえ恐れられた、凶暴な存在だった。だが役行者は、その神通力でこの鬼夫婦を捕らえ、調伏(ちょうぶく)した――一説には、鬼が我が子を隠されて嘆く姿を通して、子を奪われる親の悲しみを身をもって教えたとも伝わる。心を入れ替えた前鬼・後鬼は、以後、役行者に忠実に付き従う弟子となり、その厳しい山岳修行を支え、大峯の行場を守る存在となった。恐ろしい鬼が、行者の導きによって聖なる守護者へと生まれ変わる。この物語が、修験道における鬼のイメージを決定づけた。

そして、ここに天河神社の鬼信仰の核心がある。役行者に調伏され、忠実な弟子へと生まれ変わった前鬼・後鬼。その子孫とされる人々が、その後も大峯の地で、修験者たちを支えながら聖なる山を守り続けてきたと伝えられているのだ。「鬼の子孫」とは、決して比喩や遠い昔の作り話ではない。それは、千三百年にわたって大峯の修験を実際に支えてきたと語り継がれる、現実の家系の物語である。役行者が向きを変えさせた鬼の末裔が、今なお聖なる山に生き、これを守っている――この一事だけでも、大峯という山域が、いかに神話と現実の入り混じった特異な世界であるかがわかるだろう。

天河神社の社家、すなわち代々この社を守り継いできた一族もまた、この役行者と鬼をめぐる物語の系譜に、深く連なっている。神社の公式の伝えるところによれば、天河社の社家は、役行者の供(とも)として祀られている前鬼・後鬼の子孫であると言い伝えられているという。役行者に調伏され、聖なる守護者へと転じたあの鬼夫婦――その末裔が、千年を越えてこの弁財天の社を守り続けてきたというのだ。現在の社家は柿坂(かきさか)家で、名誉宮司を務める柿坂神酒之祐(かきさかみきのすけ)氏は、役行者から数えて実に六十五代目にあたると伝わる。六十五代――気の遠くなるような世代の連なりだ。鬼の血を引くと伝えられる一族が、一つの社を、千年以上にわたって守り継いできた。その事実そのものが、天河という場所に、底知れぬ神話的な深さを与えている。なお、同じく前鬼・後鬼の子孫を名乗る家系としては、大峯奥駈道の途上にある前鬼の里に、五鬼助(ごきじょ)をはじめとする一族が代々暮らし、今日でも宿坊を守り継いでいることが知られている。鬼の末裔は、天河の社家として、また前鬼の里の宿坊として、それぞれ別のかたちで、今もこの聖なる山域に生き続けているのである。

天河神社における鬼信仰の濃さを、何よりも鮮やかに示す行事がある。節分の前夜に行われる「鬼の宿(おにのやど)」――別名、鬼迎えの神事だ。日本中の神社仏閣で、節分といえば「鬼は外、福は内」と豆をまき、鬼を追い払う。だが天河神社では、まったく逆のことが起きる。ここでは「鬼は内、福は内」と唱え、鬼を追い払うどころか、社家の家のなかへ、丁重に迎え入れるのだ。

その迎え方が、実に具体的で、心を打つ。神社に伝わるところによれば、節分祭の宵の晩、社家では一番座敷に布団を敷き、握り飯と梅干しを供える。そして縁側には、澄みきった真水を張った手桶を置き、そのまま一晩、静かに過ごす。翌朝、節分祭の当日、その手桶の水をのぞくと――底に、砂が沈んでいるという。鬼が手を洗ったのか、足を洗ったのか。その砂こそが、夜のあいだに鬼がたしかにこの宿に泊まった証(あかし)とされ、それを確認して、はじめて節分祭が執り行われる。一晩の客人として鬼を迎え、布団としつらえと食事でもてなし、翌朝その来訪の痕跡を確かめる。これほど鬼を大切に遇する神事が、他にあるだろうか。鬼を祓うべき災厄とみなすのではなく、敬うべき聖なる客人として遇する。こうした鬼を迎え入れる節分のあり方は、全国を見渡してもきわめて珍しく、天河神社の鬼信仰の独自性を際立たせている。

考えてみれば、これほど鬼を大切に遇する神社は、他にそうあるものではない。鬼を災厄として外へ追いやる大多数の社と、鬼を聖なる客人として内へ迎える天河神社。鬼を「祓うもの」とするか「敬うもの」とするか――その根本的な態度の違いのなかに、この社が背負ってきた信仰の核心が、凝縮されている。鬼を追い払わない神社。それは、鬼が象徴する荒ぶる力すらも、排除すべき敵ではなく、向き合い、迎え入れるべきものと捉える、独特の世界観のあらわれなのだ。

この「鬼は内」という発想の根には、修験道独特の鬼観(きかん)が横たわっている。天河神社では、鬼は大いなる御宝(おたから)を持ち、あらゆる意識を越えて物事を正しく見通す存在であるという古来からの信仰から、「神」として崇め祀られてきた。前鬼・後鬼の物語が示すように、修験道において鬼とは、単なる悪や恐怖の象徴ではない。それは、調伏され、向きを変えられたとき、聖なる守護者へと転じる、強大な力の象徴なのだ。荒ぶる自然の力、人智を超えた畏(おそ)るべきもの――それを排除するのではなく、敬い、迎え入れ、味方につける。山という、人を容易には寄せつけない畏怖の対象と向き合い続けてきた修験道だからこそ、たどり着いた境地だろう。天河神社が鬼を内に迎えるのは、この社が、荒々しい山の力を恐れて遠ざけるのではなく、その力と深く交わることを選んできた聖地だからなのである。

ここで、第一章で見た「呼ばれた者しか行けない」という言い伝えを、もう一度思い返してほしい。聖なる山に容易には立ち入れないという感覚。それは本章で見てきた、鬼すら棲まう畏るべき山という、修験道の世界観と地続きだ。天河神社の神秘は、優美な弁財天という一面だけでは決して語り尽くせない。その背後には、鬼を従えた行者の伝説があり、鬼の子孫が守る山があり、鬼を客人として迎える神事がある。雅(みやび)な女神と、荒ぶる鬼。この両極が一つの社に同居していること――それこそが、天河を底知れぬ場所にしている。

役行者が切り開いたこの祈りの山を、それから百数十年の後、もう一人の巨人がたどることになる。日本仏教史上、最大の天才とも称されるその人物は、唐の都で学んだ最新の密教を携えて帰国し、高野山を開く前に、この大峯の地で修行に身を投じたと伝わる。そして天河の神に、海を越えて持ち帰った聖なる宝を捧げたという。その人物の名は、弘法大師・空海。次章では、役行者から空海へと受け継がれた、もう一筋の壮大な祈りの系譜をたどっていこう。

第六章:空海が捧げた宝

役行者が切り開いた大峯の祈りの道を、それから百数十年の後、もう一人の巨人がたどった。弘法大師・空海(くうかい)である。日本仏教史上、最大の天才とも称されるこの人物が、高野山という一大聖地を開く前に、この天河の地で修行に身を投じ、唐の都から持ち帰った聖なる宝を捧げたと伝えられている。天河神社が刻んできた一千年の祈りの系譜は、役行者から空海へと受け継がれ、ここでもう一段、その深みを増す。

空海という人物の巨大さは、改めて語るまでもないだろう。讃岐(さぬき)に生まれ、若くして既存の学問に飽き足らず、山林での修行に身を投じた。やがて遣唐使船で唐に渡り、長安で密教の正統を継ぐ恵果(けいか)和尚から、わずかな期間で密教の奥義のすべてを授けられる。帰国後は真言宗を開き、嵯峨天皇の帰依を受け、高野山に金剛峯寺を、京には東寺を構えた。書においては三筆の一人に数えられ、土木や教育にも事績を残す。まさに万能の天才だった。その空海が、青年期から壮年期にかけて、繰り返し身を置いた修行の地の一つが、大峯であり、天河だったのである。

奈良県の公式の記録は、空海と天河の関わりを、明快にこう伝えている。役行者が開いた天河大辨財天社に、高野山の開創に先立って、大峯の山々で修行していた空海が参籠(さんろう)した、と。参籠とは、一定の期間、社寺に籠もって修行することをいう。空海はこの天河の地で弁財天を篤く信仰し、妙音院求聞持堂(みょうおんいんぐもんじどう)を建てて、修行を行ったと伝わる。求聞持とは「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」のことで、虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えることで、超人的な記憶力を得るという、密教の荒行である。若き日の空海が、この求聞持法の修行に打ち込み、室戸岬の洞窟で口に明星が飛び込む神秘体験を得たという逸話はよく知られる。その空海が、天河の地でも同じ虚空蔵の修行に励んだというのだ。

さらに驚くべきことに、空海はこの天河と大峯での修行を通じて、密教の核心的な瞑想法である「阿字観(あじかん)」を完成させたとも伝えられている。阿字観とは、梵字(ぼんじ)の「阿(ア)」の一字を観想することを通じて、宇宙の根源である大日如来(だいにちにょらい)と一体化していく、真言密教の根本的な観法だ。すべての音の始まりであり、万物の根源を象徴する「阿」の一字。それを心に観じ、呼吸を整え、自らの内なる仏性と宇宙の真理とが一つであることを体得していく。日本密教の中核をなすこの瞑想体系が、ほかならぬ天河の地で結実したというのは、この社の持つ意味を考えるうえで、見逃せない事実である。

ここで、改めて注目したいことがある。空海が天河で観想したという「阿」の一字――それは、すべての音の始まりとされる音だ。本稿でこれまで見てきたように、天河神社は、天宇受売命の舞と鈴に始まり、大海人皇子の琴の音に天女が降り、五十鈴が魂を調える、徹頭徹尾「音の聖地」だった。その同じ土地で、空海は「阿」という根源の音を観じることを通じて、宇宙との合一を目指したのである。神道の音の信仰と、密教の音の観法。出自のまったく異なる二つの霊性が、この天河の地で、「音」という一点において深く響き合っている。空海がこの地を修行の場に選んだのは、単なる偶然ではなかったのかもしれない。音によって聖なるものへ至るという、この土地に満ちた力を、稀代の天才は鋭敏に感じ取っていたのではないか。

そして空海は、この地に、海を越えてきた宝を遺(のこ)した。天河神社には、空海が唐から持ち帰ったと伝わる密教法具「五鈷鈴(ごこれい)」が、ゆかりの品として伝えられている。五鈷鈴とは、密教の修法に用いられる法具で、柄の先端が五つに分かれた「五鈷杵(ごこしょ)」の形を握りの部分に持ち、その下に鈴をつけたものだ。修法の際にこれを振り鳴らし、その清らかな音で諸仏を歓喜させ、衆生を覚醒へと誘うとされる。ここでもまた、鈴であり、音である。天宇受売命の神代鈴に由来する五十鈴と、空海が唐からもたらした密教の五鈷鈴。神道の鈴と仏教の鈴が、同じ一つの社に伝えられている。天河神社が体現する神仏習合の深さが、この二つの鈴の共存に、見事に象徴されている。

加えて、神社には「大師筆般若心経(だいしひつはんにゃしんぎょう)」、すなわち空海自筆と伝わる般若心経も残されているという。能書家としても知られた空海の筆になる経典が、この山深い社に伝えられているということ自体が、空海と天河の縁の深さを物語っている。これらの品々は、空海が確かにこの地に足を運び、ここで祈り、修行したことの、動かぬ証(あかし)として、千年を越えて受け継がれてきたのだ。

空海と天河の縁は、空海がこの地を去った後も、思わぬかたちで続いていく。高野山には「高野七弁天(こうやしちべんてん)」と呼ばれる七つの弁財天社があるが、その一つ、弁天岳の山頂に鎮座する嶽弁天社(だけべんてんしゃ)の弁財天は、なんとこの天河弁財天社から空海が勧請(かんじょう)したものと伝えられている。第四章で見た、大海人皇子に勝利をもたらしたあの天女が、空海の手によって高野山へと招かれ、密教の聖地を守る神となった。天河で修行した空海は、自らが開く高野山に、天河の女神を分け御霊(みたま)として連れていったのだ。役行者が弥山に祀り、大海人皇子が琴で招き、空海が高野山へと運んだ――一柱の女神をめぐる物語が、ここで雄大に連環(れんかん)する。

役行者の修験、空海の密教。日本の山岳信仰と仏教の、二人の巨人の足跡が、天河という一点で交わっている。これほどの聖性を重ねた社が、ほかにどれだけあるだろうか。第一章で見た「呼ばれた者しか行けない」という言い伝えの重みも、こうして歴史の層を一枚ずつ確かめてくると、まったく違って感じられてくるはずだ。ここは、千三百年にわたって、日本の霊性の最高峰の人々が、繰り返し祈りを捧げてきた場所なのである。

歴史をさかのぼる旅は、ここで一区切りつく。次章からは、ふたたび視線を、この社が祀る「芸能」へと戻そう。空海が去ってのちの中世、天河神社は、日本を代表するもう一つの芸能――能(のう)と、分かちがたく結びついていく。世阿弥の血を引く一族が、この山深い社に、最古とも伝わる能面を奉納した。次章では、その能面と、天河に刻まれた芸能の聖地としての記憶をたどっていく。

第七章:能面三十面と世阿弥の血脈

役行者の修験、空海の密教。山岳信仰と仏教の二人の巨人が刻んだ祈りの層の上に、天河神社は中世になって、もう一つの輝かしい芸能の歴史を重ねていく。日本が世界に誇る舞台芸術――能(のう)である。この山深い社には、能楽草創期の貴重な能面が数多く伝えられ、その中心には、能を大成した世阿弥(ぜあみ)の血を引く一族の、切実な祈りの物語が刻まれている。第三章で見た「音が神を降ろす」という天河の本質が、ここで最も具体的なかたちをとってあらわれる。

まず、その文化財としての価値から確かめておこう。天河神社には、木造の能狂言面(のうきょうげんめん)三十面が、国の重要文化財に指定されて伝えられている。三十面という数は、一つの神社が所蔵する能面の数として、際立って多い。しかもそれらは、能楽がまだ確立されて間もない草創期から室町期にかけての、極めて価値の高いものばかりだ。さらに、豊臣秀吉が奉納したと伝わる唐織(からおり)の能装束をはじめ、貴重な能装束や狂言装束も数多く保存されている。江戸初期の面打ちの名手・山崎兵衛が打った猩々面(しょうじょうめん)なども含まれ、天河神社はさながら、能の歴史を体現する宝庫となっている。これほどの能面・能装束が、なぜ都の大寺社ではなく、この紀伊山地の奥深い社に集まったのか。その問いの答えに、天河と能の縁の深さが凝縮されている。

その縁を象徴する一面の能面がある。「阿古父尉(あこぶじょう)」と呼ばれる、尉面(じょうめん)――老翁の相をあらわす面だ。神や、老いた高貴な人物を演じるときに用いられるこの面は、能を大成した世阿弥自身も使用したと伝えられる、由緒ある名品である。素材は樟(くすのき)、時代は南北朝から室町前期。その風格ある佇まいもさることながら、この面を真に特別なものにしているのは、その裏面に墨で記された、一行の文字である。

そこには、こう書かれている。「唐船(とうせん) 奉寄進 弁才天女御寶前(べんざいてんにょごほうぜん)……永享二年十一月日 観世十郎(かんぜじゅうろう) 敬白」。永享二年は、西暦一四三〇年。観世十郎とは、世阿弥の長男・観世元雅(かんぜもとまさ)のことだ。すなわちこの面は、世阿弥の嫡男・元雅が、「唐船」という能の演目とともに、弁財天の御宝前に奉納したものなのである。心中の所願が成就し、円満となることを願って――と、その墨書は静かに語っている。一面の能面の裏に記されたわずかな文字が、六百年の時を越えて、一人の能役者の切実な祈りを、今に伝えている。

なぜ、元雅はこの天河の地で、これほど切実な祈りを捧げねばならなかったのか。そこには、能楽史に残る、痛ましいまでの一族の苦境があった。元雅の祖父・観阿弥(かんあみ)と父・世阿弥は、将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の庇護のもとで猿楽(さるがく)を大成し、能楽を芸術の高みへと引き上げた。だが、時の将軍が義教(よしのり)の代になると、状況は暗転する。義教は、元雅の従兄弟にあたる音阿弥(おんあみ)を重用し、世阿弥・元雅父子には、容赦のない弾圧を加えていった。仙洞御所への出入りを禁じられ、由緒ある楽頭職を罷免され、父・世阿弥はやがて遠く佐渡へと流される。栄光の頂点にあった一族は、地位も、活躍の場も、次々と奪われていったのだ。

そうした不遇のただ中で、元雅は再起を期した。そして彼が頼ったのが、神楽の盛んな、芸能の神を祀るこの天河神社だった。父・世阿弥の命を受けたとも伝わる元雅は、はるばるこの山深い社を訪れ、神前の能舞台で「唐船」を舞い、阿古父尉の面を奉納して、一族の芸の再興を一心に祈願した。芸能の道に生きる者が、まさにその芸能の根源である神に、すべてを賭けて祈りを捧げる――天宇受売命の神懸かりの舞に始まったこの社の芸能の歴史が、千年近い時を経て、世阿弥の血を引く天才能役者の祈りとして、ここに結晶したのである。

だが、この物語の結末は、痛ましい。再起を願った元雅は、その願いもむなしく、奉納からわずか二年後の永享四年(一四三二年)、旅興行の地・伊勢の安濃津(あのつ)で、三十代前半の若さで客死したと伝えられる。役者としての盛りの極みにあっての、あまりにも早い死だった。父・世阿弥は、この最も才能を愛した嫡男の死に打ちのめされ、追悼の文「夢跡一紙(むせきいっし)」を書き残している。そのなかで世阿弥は、元雅を「子ながらもたぐひなき達人」、さらには「祖父にもこえたる堪能(かんのう)」――亡き父・観阿弥をも超える名手だったと、惜しみない言葉で悼んだ。そして元雅を失った失意のさなか、世阿弥自身もまた、二年後の永享六年(一四三四年)、七十二歳にして佐渡へと流される。後継者を失い、自らも流刑の身となる――一族の苦難は、底が抜けたように深まっていった。天河に奉納された阿古父尉の面は、それゆえ、果たされなかった祈りの形見でもある。再起を信じて舞った一人の天才能役者の願いと無念とを、この面は、その風格ある老翁の表情の裏に、静かに宿し続けている。今日、この阿古父尉をはじめとする能面の数々は、すべて非公開とされ、めったに人目に触れることはない。だが、それらが確かにこの社に伝えられているという事実そのものが、天河が芸能者にとっていかに特別な聖地であったかを、雄弁に物語っている。

天河神社の公式の由緒は、この社の芸能との関わりを、誇りをもってこう記している。天河社殿の杜は、磐境(いわさか)、真名井(まない)と崇められ、その全体が「妙音(みょうおん)に響きを感応する斎庭(ゆにわ)」である、と。そして、古来この地では、悪霊を鎮め、祖霊を祀るために猿楽や田楽が奉納され、ここは「神人合一(しんじんごういつ)の聖地」とされてきた、と。神と人とが、芸能を媒介として一つに溶け合う場所。第三章で見た「音が神を降ろす」という天河の本質を、これほど端的に言い表す言葉はない。元雅が阿古父尉を奉納したのも、この「神人合一の斎庭」であればこそ、芸を通じて神に願いが届くと信じたからにほかならない。

そして特筆すべきは、この芸能の伝統が、決して過去の遺物ではないという点だ。天河神社では、今日もなお、毎年七月の例大祭や春秋の大祭において、観世流をはじめとするシテ方五流の能楽師たちによって、能楽が神前に奉納され続けている。山深い社の能舞台で、六百年前と変わらず、神に捧げるために能が舞われる。元雅が阿古父尉を奉納したその同じ場所で、今も生きた芸能が、神への祈りとして続いている。天河は、芸能が神事であった時代の記憶を保存する博物館であると同時に、その記憶を今なお生きて演じ続ける、稀有な現役の聖地でもあるのだ。

役行者、空海、そして世阿弥の血脈。修験、密教、そして能。天河神社という一つの社に、日本の霊性と芸能の最も深い水脈が、幾重にも流れ込んでいる。だが、こうした歴史の厚みは、決して遠い過去の話に留まらない。次章では、時計の針を一気に現代へと進めよう。元雅が祈りを捧げたこの社に、今もなお、ジャンルを越えた数多くの表現者たちが、まるで導かれるように引き寄せられ続けている。坂本龍一、松任谷由実、長渕剛――現代の表現者たちと天河神社の、不思議な縁の物語へと分け入っていく。

第八章:表現者たちが呼ばれる

観世元雅が阿古父尉の面を奉納してから、およそ六百年。時代は移り、能役者が歩いた同じ山道を、今度は現代の表現者たちが登るようになった。天河神社は、中世に能の聖地であったのと変わらぬ磁力で、現代もなお、音楽家や芸能人たちを引き寄せ続けている。芸能の神を祀るこの社が、なぜ時代を越えて表現者たちを惹きつけるのか。第三章で見た「音が神を降ろす」という本質が、現代においてどのように息づいているのか。本章では、確かな足跡を残した表現者たちの物語をたどってみたい。

現代の天河神社と最も深く、そして具体的に結びついている表現者といえば、まず堂本剛(どうもとつよし)の名が挙がる。奈良県出身の堂本剛は、この社を二十年来の精神的な支えとし、たびたび足を運んできたことで知られる。その縁が最も鮮やかに結実したのが、二〇一一年四月にリリースされたソロ名義の楽曲「縁を結いて(えにをゆいて)」だ。彼はこの曲の歌詞の原型を、天河神社に滞在しているあいだに書き上げたと伝えられる。それだけではない。楽曲の音源収録、そしてミュージックビデオの撮影までもが、この社で行われた。芸能の神を祀る山深い社で生まれ、その地で形を与えられた一曲。「縁を結いて」というそのタイトルそのものが、人と神、人と人とを結ぶ天河の神徳を、静かに体現しているかのようだ。表現者が聖地に身を置き、そこで作品を生み出す――それは、元雅が天河で「唐船」を舞った行為と、本質において少しも変わらない。

もう一人、天河神社と確かな縁を持つのが、長渕剛(ながぶちつよし)である。彼と天河の結びつきを示す出来事は、複数伝えられている。一つは、平成元年に行われた社殿の建て替えの際の儀式だ。この厳かな神事は、長渕剛や、はっぴいえんど・YMOなどで知られる細野晴臣(ほそのはるおみ)といった、著名な音楽家たちが見守るなかで執り行われたと伝えられる。社殿という、神社にとって最も神聖な場所の刷新の場に立ち会うということ自体が、彼らとこの社との縁の深さを物語っている。さらに長渕剛は、この天河神社で結婚式を挙げたとも伝えられている。人生の大きな節目を、この山深い芸能の神の前で迎えたということ――それは、単なる一度の参拝を超えた、深い信頼の表れと言えるだろう。

この二人のほかにも、天河神社に縁があると語られる表現者は、枚挙にいとまがない。松任谷由実(まつとうやゆみ)、坂本龍一(さかもとりゅういち)、松山千春(まつやまちはる)、喜多郎(きたろう)――日本の音楽史にその名を刻む数々のアーティストが、この山深い社に参拝したと、さまざまな場で語り伝えられている。もっとも、こうした言い伝えのなかには、確かな記録に基づくものもあれば、伝聞の域を出ないものもある。それらの真偽を一つひとつ詮索することに、大きな意味はないだろう。重要なのは、これほど多くの一流の表現者たちの名が、天河神社という一つの社をめぐって、ごく自然に語られてきたという事実そのものである。なぜ、ほかならぬ天河なのか。この問いこそが、本質的なのだ。

なぜ、表現者たちは天河に惹かれるのか。その答えの一端は、これまでの章で見てきた、この社の性格そのものにある。天河神社の主祭神・市杵島姫命は、弁財天として、音楽・芸術・芸能を司る神だ。そのルーツは、流れる水のせせらぎを神格化した、音の女神サラスヴァティーにある。表現を生業とする者にとって、芸能の神に祈りを捧げることは、ごく自然な衝動だろう。だが、天河が表現者を惹きつける理由は、単に「芸能のご利益がある神社だから」という以上のところにある。

第三章で見たように、優れた表現は、しばしば自我の計算を超えたところからやってくる。本当に良いものが生まれる瞬間、作り手は「自分が作っている」というより、何かが「降りてくる」「作らされている」という感覚に近い体験をする。天宇受売命が神懸かりとなって舞ったように、創造の核心には、より大きな何かに身を明け渡す瞬間がある。天河神社は、この「降りてくる」という感覚を正面から肯定し、神聖なものとして千年以上にわたって祀り続けてきた、稀有な場所だ。だからこそ、論理では説明しきれない創造の秘密と日々向き合っている表現者たちは、この社の前で、言葉にならない深い納得を覚えるのではないか。ここは、自分が普段していることの「正体」が祀られている場所なのだ、と。

加えて、第一章から見てきた、天河へ至る道のりの険しさも、表現者を惹きつける要素と無関係ではないだろう。都会の喧騒から遠く離れ、幾重もの山を越えてようやくたどり着く、清流に抱かれた静寂の社。日常から完全に切り離されたこの場所は、創造のための深い静けさと集中を、訪れる者に与えてくれる。情報と刺激に満ちた現代社会のなかで、自らの内なる声に耳を澄ますことは、ますます難しくなっている。天河の山深い静寂は、表現者が自分自身の最も深い部分とつながり直すための、またとない環境を提供する。堂本剛がこの地で「縁を結いて」を生み出したように、ここは創造の源泉に立ち返るための場所なのだ。

天河神社が現代の表現者たちを惹きつけ続けているという事実は、この社が掲げてきた信仰が、決して過去の遺物ではないことの何よりの証である。天宇受売命の舞、大海人皇子の琴、元雅の能、そして現代のアーティストたちの音楽。媒体も様式も時代も異なるが、そこを貫いているのは、音と表現によって人智を超えた何かと交わろうとする、同じ一つの営みだ。天河神社は、その営みが千三百年にわたって絶えることなく続いてきた、生きた聖地である。芸能の神は、今もなお、新しい表現者たちを呼び続けているのだ。

さて、ここまでの章で、私たちは天河神社の祭神、神宝、歴史、そしてそこに集う人々をたどってきた。次章からは、視線を再び、この社が建つ「場所」そのものへと向けよう。天河神社の境内には、「四石三水八ツの杜(しせきさんすいやつのもり)」と称される、独特の神域の構造がある。そしてそのなかには、天から降ったと伝わる神秘の石――天石(てんせき)が点在している。手をかざすと不思議な感覚に包まれるというその石をはじめ、参拝者が「波動」や「気」を感じ取るという、天河の聖地としての空間構造へと、いよいよ分け入っていく。

第九章:四石三水八ツの杜

ここまで、天河神社の祭神、神宝、歴史、そしてそこに集う人々をたどってきた。本章では、視線をこの社が建つ「場所」そのもの、すなわち境内の空間構造へと向けてみたい。実は天河神社の境内は、ただ漫然と社殿が建っているのではない。そこには「四石三水八ツの杜(しせきさんすいやつのもり)」と称される、明確な思想に基づいた神域の設計が施されている。そしてその中心には、参拝者が「波動」や「気」を感じ取ると語る、神秘の石が点在している。訪れた者の多くが、まず確かめずにはいられないという、天石(てんせき)の世界へと分け入っていこう。

「四石三水八ツの杜」とは、天河神社の神域を言い表す言葉だ。すなわち、四つの天から降った石、三つの湧き出る清水、そして八つの杜――これらに囲まれた一帯が、聖なる神域とされる。この言葉が示しているのは、天河神社という聖地が、単なる一棟の社殿ではなく、石と水と杜という自然の要素が織りなす、一つの大きな結界として構想されているということだ。天から降った石が地に神威を降ろし、湧き出る清水が大地を潤して命を巡らせ、八つの杜がその全体を包み込んで守る。天と地と森羅万象が一体となった、生きた曼荼羅(まんだら)のような空間。それが天河の神域なのである。

なかでも、訪れる人の心を強く捉えるのが、「四石」――すなわち天石(てんせき)だ。天石とは、文字どおり「天から降ってきた」と伝えられる石で、磐座(いわくら)、つまり神が宿る石として祀られている。四つあるとされる天石のうち、三つが境内に祀られ、人がお参りできるようになっている。残る四つ目は、社のかたわらを流れる天の川のなかにあるとも伝えられるが、今ではどれがその石なのか、定かではないという。神域に降った四つの石のうち、一つだけが人の目の届かぬところにある――その事実が、かえってこの神域の奥行きと、なお解き明かされぬ神秘を、静かに感じさせる。

境内に祀られた三つの天石は、それぞれ趣の異なる場所に鎮まっている。一つは、拝殿へと続く石階段の右手に。一つは、石段を登った先の踊り場の左手、五社殿の前に。そしてもう一つは、本殿の奥、役行者を祀る行者堂のかたわらに。参拝の道筋に沿って点在するこれらの石を一つひとつ訪ねていくことは、それ自体が、天河の神域を体で味わう小さな巡礼となる。一見すると、ただそこにある自然の石にすぎない。だが、千三百年にわたって「天から降った神の石」として祀られ、無数の祈りを受け止めてきたその佇まいには、確かに、ただならぬ気配が漂っている。

この天石をめぐっては、参拝者から、印象的な体験談がいくつも寄せられている。なかでもよく語られるのが、石に手をかざしたときの感覚だ。鳥居をくぐってすぐ右手にある石に手を近づけると、手のひらがジンジンと温かくなった、と語る人がいる。あるいは、石の前に立つと、その一帯だけ空気の密度が違うように感じた、という声もある。こうした感覚を、科学的な根拠のない思い込みだと一蹴するのは易しい。だが、これほど多くの参拝者が、それぞれ独立に、似たような感覚を報告しているという事実は、軽々には扱えない。少なくとも、この場所には、訪れる人の感覚に何かしらの働きかけをする力が宿っていると、多くの人が感じ取っているのは確かなのだ。それを「波動」と呼ぶか、「気」と呼ぶか、あるいは聖地という場所がもたらす心理的な作用と捉えるかは、それぞれの受け止め方に委ねられている。

天河神社の神秘的な空間を語るうえで、もう一つ欠かせないのが、「ゼロ磁場」という言葉だ。ゼロ磁場とは、地球の磁場が打ち消し合い、方位磁針が定まらなくなるとされる特異な場所を指す言葉で、しばしば強いエネルギーが宿るパワースポットの象徴として語られる。天河神社の界隈にも、このゼロ磁場と呼ばれる地点があると伝えられている。とりわけ知られているのが、天河大辨財天社のすぐ隣に位置する来迎院(らいごういん)だ。実際に、この地を訪れてコンパスや方位磁針をかざし、その挙動を確かめてみたという参拝者の記録も残っている。針が定まらない、揺れ動く――そうした体験が、この地の特別さを物語るものとして語り継がれている。

ここで、第六章で見た空海の物語が、思いがけず再び立ち上がってくる。この来迎院には、弘法大師空海が天河での修行によって体得した真言密教の神髄を刻んだ「あ字観の碑(あじかんのひ)」がある。万物一切の源、宇宙そのものを象徴する梵字の「あ」を中心に、光明真言の文字が刻まれたこの碑は、まさに空海が天河の地で到達した境地の結晶だ。ゼロ磁場と呼ばれる特異な空間と、宇宙の根源を観じる密教の聖地とが、同じ来迎院という場所で重なり合っている。科学では測れぬ何か、人智を超えた何かを、千年以上も前に空海が鋭敏に感じ取り、現代の参拝者もまた感じ取ろうとしている。時代を越えて人々が同じ場所に「何か」を感じ続けているという事実そのものが、この土地の底知れぬ力を、何よりも雄弁に物語っているのではないだろうか。

四石三水八ツの杜という神域の構造、天から降った石、ゼロ磁場と呼ばれる特異点。これらに共通しているのは、天河神社という場所が、人為的に作られた信仰施設である以前に、まず「自然そのものが聖なる力を帯びた土地」であるという認識だ。第三章で見た公式の言葉を、もう一度思い出してほしい。天河の社殿の杜は、その全体が「妙音に響きを感応する斎庭(ゆにわ)」であると伝えられていた。石が神威を宿し、水が命を巡らせ、杜が全体を包み、その全体が妙なる響きに感応する――天河神社とは、社殿という一点ではなく、この神域の空間そのものが、一つの巨大な楽器のように、聖なる響きを発し続けている場所なのだ。参拝者が天石に手をかざして感じるという「波動」も、その響きの、ささやかな一部なのかもしれない。

境内の天石とゼロ磁場が、いわば「目に見える」かたちで天河の神秘を体現しているとすれば、この社には、さらに深い静寂のなかで、参拝者が言葉にならない体験をするという、もう一つの世界がある。次章では、いよいよ天河神社をめぐる不思議な話の核心へと迫ろう。昇殿の瞬間に頭上で鳴り響いたという正体不明の音。気づけば迷い込んでいた社。そして、参拝から帰った後に起きたという、小さな、しかし忘れがたい異変の数々。たどり着いた者だけが語る、天河の不思議の核心へと、足を踏み入れていく。

第十章:参拝中に起きること

ここまで、天河神社の神宝、祭神、歴史、空間構造をたどりながら、なぜこの社にこれほど多くの不思議が集まるのか、その背景を一枚ずつ確かめてきた。音によって神と交わる聖地であること。天から降った石が神域を成すこと。鬼を内に迎える社であること。そうした幾層もの背景を踏まえたうえで、本章ではいよいよ、参拝者たちが実際に語る、不思議な体験談そのものに耳を傾けたい。あらかじめ断っておけば、ここで紹介するのは、いずれも個々の参拝者が自らの体験として語り、書き残してきたものだ。それらの真偽を証明することはできない。だが、これほど多くの人が、それぞれ独立に、似た質の体験を語り続けているという事実そのものに、天河という場所の特異さが映し出されている。

最もよく語られるのが、「音」にまつわる体験だ。これは、音の聖地である天河神社にふさわしい不思議と言えるかもしれない。ある参拝者は、昇殿してご祈祷を受けていたときのことを、こう書き残している。祝詞(のりと)が始まると、自分の左上のあたりから、「バキバキバキッ」という、すさまじい音が鳴り響いた、と。建物が軋(きし)むような、何かが弾けるような、正体のわからない音。いわゆるラップ音と呼ばれる現象だが、それが祝詞の奏上と同時に、頭上で起きたというのだ。音の神を祀る社で、祈りの言葉が捧げられたその瞬間に、説明のつかない音が鳴る――この符合を、単なる偶然と片づけるか、それとも何かの応答と受け取るかは、その場に居合わせた者の感じ方に委ねられている。

同じ参拝者は、そこへ至る道中についても、不思議な体験を綴っている。カーナビに従って車を走らせていると、対向車とすれ違うこともできないような細い山道へと案内された。普通なら肝を冷やすところだが、不思議なことに、対向車と出くわすのは決まって、すれ違える広い道に出たときばかり。狭い隘路(あいろ)では一度も対向車に出会わず、まるで何かに導かれるように、一度も立ち往生することなく、するすると社へたどり着いた、というのだ。第一章で見た「呼ばれた」感覚の、具体的なあらわれの一つと言えるだろう。

「導かれるような迷い」という体験も、しばしば語られる。ある参拝者は、参拝の順路を思いがけず取り違えて、予定していなかった方向へと進んでしまった。そうしてたどり着いた先で、同行していた、各地の神社に詳しい友人ですら足を運んだことのなかった一画に出て、二人は顔を見合わせたという。そして、もと来た道を戻ろうとしたそのとき、山のほうから、ふいに一陣の風が吹き下ろした。風は落ち葉を巻き上げ、音を立てて地を転がしていく。その風に吹かれながら、参拝者は、まるで風で禊(みそぎ)を受けたかのような、清められた心地になったと書き記している。決めていたつもりの道筋から外れた先で、思いがけず心に残る体験をする――天河では、こうした「導かれるような道行き」が、しばしば語られるのだ。

不思議は、参拝の最中だけにとどまらない。むしろ、家に帰ってから起きたという体験談が、天河神社の場合、際立って多い。ある参拝者は、天河を訪れたことを自身のブログに書いて投稿した。すると、その後から奇妙なことが起き始めたという。パソコンの電源を入れると、誰も設定を変えていないのに、画面のトップが、いつのまにか天河神社の鳥居の写真に変わっていた。一度ならず、それが繰り返されたというのだ。さらにその人は、天河神社を何度も訪れる夢を、繰り返し見るようになったとも書いている。参拝を終え、日常に戻ったはずなのに、天河の気配が、その後もずっと自分につきまとう――こうした「帰宅後の余韻」は、天河の不思議の、一つの大きな特徴をなしている。

こうした体験談には、いくつかの共通した型があることに気づく。一つは、たった今見たように、「帰ってからも縁が続く」という型だ。夢に繰り返し現れる。ふとした拍子に天河のことを思い出す。再訪したいという思いが、抑えがたく込み上げてくる。一度天河に「呼ばれた」者は、その後も長く、この社と見えない糸でつながり続けるかのようだ。第一章で見た、堂本剛が二十年にわたってこの社を精神的な支えとしてきたという話も、こうした「続く縁」の、一つのあらわれと見ることもできるだろう。

これらの不思議な体験談を、私たちはどう受け止めればよいのだろうか。一つの態度は、すべてを偶然や思い込み、あるいは気のせいとして退けることだ。ラップ音は建材の温度変化による自然現象かもしれない。道に迷ったのは単なる不注意で、風が吹いたのはただの気象だろう。パソコンの画面が変わったのは、何かの設定ミスかもしれない。そう説明することは、確かに可能だ。だが、もう一つの態度がある。それは、これらの体験を語る人々の「感じ方」そのものを、尊重することだ。同じ自然現象に出会っても、それを「ただの偶然」と感じる場所と、「何かに導かれた」と感じずにいられない場所がある。天河神社は、明らかに後者なのだ。なぜか。それは、これまで本稿で見てきたように、この社が千三百年にわたって積み重ねてきた、音と、石と、水と、鬼と、祈りの、途方もない歴史の厚みがあるからだ。その厚みが、訪れる者の感覚を研ぎ澄まし、ふだんは見過ごしてしまう小さな出来事に、特別な意味を感じ取らせる。

つまり、天河神社で不思議な体験が語られるのは、この社が、人の感受性を最大限に開かせる場所だからなのではないか。山深い静寂、清流のせせらぎ、天から降った石、音の神への祈り――そうしたすべてが、参拝者の心を、日常とはまったく違うモードへと切り替える。その研ぎ澄まされた感覚で世界に向き合ったとき、ふだんなら気にも留めない物音や、風や、偶然の一致が、にわかに意味を帯びて立ち上がってくる。それを「気のせい」と呼ぶこともできるし、「神の応答」と呼ぶこともできる。どちらが正しいかを決めることに、おそらく意味はない。確かなのは、天河神社という場所が、人にそうした体験を「させる」力を持っているということだ。そしてその力こそが、千三百年にわたって人々をこの地へ呼び寄せ続けてきた、天河の神秘の正体なのである。

参拝中に、そして帰宅後に起きるという、これらの個人的で内的な体験。それらは、天河神社が単なる観光地ではなく、訪れる者の内面に深く働きかける聖地であることを物語っている。次章では、そうした天河の聖性が、とりわけ濃密に宿るとされる、もう一つの特別な場所へと足を運ぼう。本殿から少し離れた、静寂のなかにたたずむ禊殿(みそぎでん)。そして、そこに秘められた、男石と女石、さらには織姫と彦星の七夕伝説へと、分け入っていく。

第十一章:禊殿と七夕の織姫

天河神社の聖性は、本殿のある中心の境内だけにとどまらない。むしろ、その神秘の最も深い部分は、本殿から少し離れた、人けの少ない静寂のなかにこそ宿っているのかもしれない。本章では、清流・天ノ川のほとりにたたずむ禊殿(みそぎでん)へと足を運び、そこに秘められた、星と水と機織(はたお)りの、美しい七夕の物語へと分け入っていきたい。

本殿の建つ境内から、天ノ川に沿って歩くこと、およそ十分。距離にして五百メートルほど離れた川沿いの奥に、ひっそりとたたずむ社がある。禊殿、別名を鎮魂殿(ちんこんでん)という。前章で、ある参拝者が思いがけず行き着いたと語っていた、あの川辺の社だ。神社の公式の案内も、本殿のほか、参道石段手前の五社殿、そして境内から徒歩十分ほどの禊殿にも、ぜひ足を運んでほしいと記している。本殿の華やぎから離れ、清流のせせらぎだけが響くこの場所は、その名の通り、心身を清め、魂を鎮めるための、深い静寂の聖域だ。多くの参拝者が、この禊殿に身を置いたとき、本殿とはまた異なる、研ぎ澄まされた静けさを感じ取ると語っている。

禊殿の前を流れる天ノ川は、息をのむほど美しい。透き通ったエメラルドグリーンの水が、岩のあいだをゆったりと流れていく。気候のよい季節には、対岸でテントを張る家族連れや、川釣りを楽しむ人の姿も見られるという。その清冽な流れを眺めているだけで、心が洗われるようだと、訪れた人々は口をそろえる。弁財天が、本来は水の女神であったことを、ここでは肌で実感できる。せせらぎの音そのものが、この社の神の声なのだ。

そして、この禊殿から天ノ川の対岸に目をやると、川のなかに、ある特別な岩を望むことができる。「六角岩(ろっかくいわ)」と呼ばれる、知る人ぞ知る聖地だ。その名の通り、六角形のかたちをしたこの岩は、ちょうど天ノ川がカーブして突き当たる地点に位置している。川の流れが曲がり、さまざまな地形的・神秘的な要素が重なり合うその場所にあることから、六角岩は古来、地元の人々の信仰の対象とされてきた。禊殿の対岸、清流の真ん中に静かにたたずむこの岩は、人工の社殿とはまったく異なる、自然そのものが宿す聖性を、見る者に静かに語りかけてくる。

この天ノ川という清流が、天河神社に、もう一つの美しい物語をもたらしている。七夕(たなばた)の伝承である。地上を流れるこの「天ノ川(てんのかわ)」と、夜空にかかる「天の川(あまのかわ)」。二つの川が、同じ名で、平行して流れている――その符合が、この地に星の物語を呼び込んだ。神社に伝わる七夕の伝承は、こう語る。神代の昔、七夕の夜になると、天河神社に祀られる弁天さまと、天ノ川の対岸にある八坂社(やさかしゃ)に鎮まる牛頭天王(ごずてんのう)さまが、川のなかにある「ムシロ磐(いわ)」という石の上で、さまざまな神々とともに語り合われたという。地上の天ノ川と、天空の天の川が重なり、夜空の星が清流の川面に映る――その幻想的な情景が、この七夕の伝承を、いっそう美しく引き立てている。

ここで興味深いのは、語り合いの舞台とされる「ムシロ磐」が、第九章で見た天石(てんせき)――四石の一つだとされている点だ。神社の伝えるところによれば、はるか昔、亥(イノコ)の晩に、弁天さまを祀る琵琶山(びわやま)の周りに、四つの星、すなわち隕石が降ってきたと伝わる。その四つの石こそが「四石三水八ツの杜」の四石であり、ムシロ磐はそのうちの一つだという。

この、弁天さまが鎮まるとされる「琵琶山」という山の名にも、美しい由来が伝えられている。江戸中期の地誌『大和名所図会』によれば、役行者が大峯の険しい道を開こうとして、まずこの山で霊験を祈ったところ、岩の穴から清らかな泉が湧き流れ、神霊が円光を輝かせた。そして、その聖地からは琵琶の音色のような響きが聞こえ、それが人々の心の迷いの雲を払ったことから、この山は「琵琶山」と名づけられたのだという。ここでもまた、聖地に響く「音」が、人の心を浄める力として語られている。弁財天が琵琶を抱えた音楽の女神であることを思えば、その鎮まる山が琵琶の名を負っているのは、あまりにもふさわしい。

つまり、天から降った神の石が、星の神々が年に一度集う七夕の聖なる座となっている。天から降った石、地上の天ノ川、夜空の天の川、そして星にまつわる神々の語らい――天と地と水と星とが、この一点で分かちがたく結びついている。天河という社名そのものが、まさにこの「天の川」に由来することを思えば、この七夕の物語は、社の名の根源にまで届く、深い意味を帯びている。

この七夕の伝承には、雅(みやび)な後日譚も添えられている。平安時代を代表する歌人、在原業平(ありわらのなりひら)が、この地の七夕伝承に結びつけて語り継がれているのだ。業平には「狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に われは来にけり」――狩りをして日が暮れたので、今夜は織姫(たなばたつめ)に宿を借りよう、天の川の河原に来たのだから――という名高い歌がある。この歌そのものは、伊勢物語や古今和歌集に伝わるもので、本来は別の地で詠まれたとされるが、天河神社では、この「たなばたつめ=機織りの女性」の歌が、土地の七夕伝承と重ね合わせて語られてきた。神社の伝えるところによれば、業平は毎年七夕の夜になると、天川の里に住む機織りの上手な女性に会いに通ったといい、その業平の墓も、天河神社の近くに今なお残されているという。星の神々の語らいの物語に、王朝の歌人の恋の伝承が重なり合う。天河の七夕は、神話と王朝文学とが溶け合った、幾重にも豊かな物語の層をなしているのだ。

弁財天という水の女神を祀り、その名を天の川に由来させ、天から降った石を神域とし、星の神々の七夕を語り継ぐ――こうして見てくると、天河神社という社が、いかに「天」と「水」と「星」のイメージによって、深く編み上げられているかがわかる。第四章で見たように、弁財天はもともと、流れる水の女神サラスヴァティーだった。その水の女神が、地上の清流のほとりに鎮まり、その清流が夜空の天の川と重なり、星々の物語を地上に呼び込む。禊殿の静寂、六角岩の佇まい、七夕の伝承――それらはすべて、天河が「天と地を結ぶ水の聖地」であることの、異なるあらわれなのである。

さて、本稿もいよいよ終わりに近づいてきた。私たちは、新宿で死んだ男が握っていた五十鈴の謎に始まり、「呼ばれた者しか行けない」という言い伝えを入口として、天河神社の祭神、神宝、歴史、そこに集う人々、境内の神秘、そして禊殿と七夕の物語までをたどってきた。最終章では、これまで見てきたすべてを携えて、実際にこの社を訪れる人のために、参拝の実際的な手引きをまとめたい。古代の言霊で記されたおみくじ、芸能の神の御守、そして温泉や宿のこと。そして最後に、もう一度あの問いに立ち返ろう。「呼ばれる」とは、本当のところ、何を意味するのか――。

第十二章:参拝ガイドと、呼ばれるということ

これまで十一の章をかけて、天河大辨財天社という社の、神宝、祭神、歴史、芸能、境内の神秘、そして数々の不思議をたどってきた。最終章では、これまでの旅を携えて、実際にこの社を訪れる人のために、参拝の実際的な手引きをまとめておきたい。そして最後に、もう一度だけ、この旅の出発点となったあの問いに立ち返ろう。「呼ばれる」とは、本当のところ、何を意味するのか――。

まず、たどり着くための実際的な情報から確認しておこう。天河神社へは、公共交通機関なら近鉄吉野線の下市口(しもいちぐち)駅が起点となる。駅前から奈良交通バスの中庵住(なかいおすみ)行きに乗り、「天河大辨財天社」バス停で下車すればすぐだが、このバスは一日にわずか数本しかない。第二章でも触れたとおり、乗り遅れれば数時間を棒に振りかねないので、出発前に必ず時刻表を確認しておきたい。車で向かう場合は、大阪市内からおよそ二時間。後半は細い山道が続き、冬には路面が凍結するため、季節によっては冬用の装備が欠かせない。境内の駐車場は約三十台分。休日は満車になりやすいので、時間に余裕を持って訪れるのが賢明だ。

社務所での授与品や御朱印の頒布は、おおむね午前八時から午後四時半まで。御祈祷を希望する場合は、当日の申し込みは受け付けておらず、二日前までに電話で予約する必要がある。祭典の日や神社の作業奉仕日には御祈祷を受けられないこともあるので、事前の確認が安心だ。また、本殿に祀られる弁財天像は通常は非公開で、毎年七月十六日から十七日に執り行われる例大祭のときにのみ、ご開帳される。この社の本尊にじかに対面したいなら、この時期を狙うのも一つの巡り方だろう。

参拝の作法にも、この社ならではの見どころがある。拝殿への参拝は一方通行となっており、拝殿に向かって左手から入り、お参りを終えたら右手へと抜けていく。そして、何よりこの社で体験したいのが、第二章で見た神宝・五十鈴(いすず)を、自らの手で鳴らすことだ。拝殿の前には、参拝者が鳴らすための五十鈴が下げられている。ただし、この鈴を美しく鳴らすには、ちょっとしたコツがいる。訪れた人の話によれば、ただ振るのではなく、お腹に力を入れて、少し前に押し出してから、手前に回すように引く――そうすると、清流のせせらぎのような、澄んだ音色が響くのだという。うまく鳴らせる人は意外に少ないというから、ぜひ挑戦してみてほしい。その音は、第二章で見たように、生魂・足魂・玉留魂という三つの魂を調える、特別な響きなのだから。

授与品のなかでも、ぜひ授かりたいのが、五十鈴をかたどった御守、五十鈴守だ。真鍮(しんちゅう)でできたこの御守は、身につけて揺れるたびに、透き通るような音色を奏でる。芸能・芸術の道に携わる人はもちろん、魂の調和を願うすべての人にとって、この社にふさわしい御守と言えるだろう。なお、近年は人気が高く、品によっては残りわずかとなり、参詣者を優先して授与されることもあるという。手にできたなら、それも一つの「縁」と思って、大切にしたい。

そして、この社のおみくじは、ほかではなかなかお目にかかれない、独特なものだ。「古代言霊御託宣(こだいことだまごたくせん)」と呼ばれるこのおみくじは、その名に「古代」と冠する通り、まるで古文書のような、古めかしく難解な言葉と崩し字で記されている。普段から古い言葉に親しんでいる人でなければ、吉凶の判断くらいしか読み取れない――「日本一解読が難しいおみくじ」とすら言われるほどだ。さらに、おみくじを引く前の説明書きには「このおみくじは厳しめに書いてあります」と記されているといい、引く人をいくぶん緊張させる。もし内容が読み解けなければ、社務所で神職に意味をたずねるとよい。芸能の神、弁舌の神を祀る社で、古代の言霊によって神意を問う――そのおみくじには、自らの言葉や表現の行く先を見つめ直すような、特別な重みが宿っているように感じられるはずだ。

参拝を終えたら、ぜひ周辺の聖地にも足を延ばしたい。第九章・第十一章で見た、徒歩十分ほどの禊殿(みそぎでん)と、その対岸の六角岩は、本殿とはまた違う、静寂の神秘を味わえる場所だ。また、神社の鳥居の向かいにある来迎院(らいごういん)には、弘法大師・空海のお手植えと伝わる、樹齢八百年を超えるとも千二百年を超えるとも言われる大イチョウの巨樹がそびえている。お堂を覆い隠すほどに枝を広げたその姿からは、圧倒的な生命力が感じられる。第六章で見た空海の物語と、第九章で見たゼロ磁場の話を思い返しながら、この古木の前に立てば、感慨もひとしおだろう。

さらに足を延ばす余裕があれば、天河神社から車で二十分ほどの洞川(どろかわ)温泉へ。ここは、大峯山に挑む修験者たちの宿場として発展してきた、歴史ある温泉地だ。山深い土地ならではの清らかな水と、修験の気配を色濃く残す温泉街の風情は、天河参りの締めくくりにふさわしい。日帰りでは慌ただしいこの地を、ゆっくりと味わいたいなら、洞川温泉に一泊し、翌朝の澄んだ空気のなかで天河神社を訪れるのも、心に残る巡り方となるだろう。

さて、ここまで長い旅にお付き合いいただいた。最後に、この旅の出発点となったあの問いに、もう一度立ち返ろう。「天河神社は、呼ばれた者しか、たどり着けない」――この言い伝えは、本当のところ、何を意味しているのだろうか。

本稿をここまで読み進めてくださった方には、もう、おわかりかもしれない。「呼ばれる」とは、決して、神が気まぐれに人を選別することではない。それはむしろ、この社が千三百年にわたって積み重ねてきた、途方もない厚みと深さに、人の心が応答することなのだ。役行者が切り開いた修験の山。空海が阿字を観じた密教の聖地。世阿弥の血を引く元雅が祈りを捧げた芸能の社。天宇受売命の鈴に連なる五十鈴。天から降った石、星の神々が語らう七夕の川。鬼を客人として迎える社――。これほどの祈りと物語が幾重にも折り重なった場所は、そうあるものではない。その厚みが、訪れる者の感受性を研ぎ澄まし、ふだんは見過ごしてしまう小さな兆しに、意味を感じ取らせる。道中の偶然に「導き」を見出し、社で耳にした物音に「応答」を聞き、帰ってからも続く縁に「結びつき」を感じる。それが、「呼ばれる」という現象の正体なのではないだろうか。

だとすれば、「呼ばれる」かどうかは、神の側だけの問題ではない。それは、訪れる人の心が、この社の深さに向き合う準備ができているかどうか、という問いでもある。扉は、開きたいと願う者の前にこそ、開く。山深いこの社へ向かおうとするその思いが芽生えたとき、人はすでに、半ば「呼ばれて」いるのかもしれない。新宿で死んだ男が握っていた、あの小さな五十鈴。その三つの球がかすかに鳴らす音は、もしかすると、今これを読んでいるあなたにも、かすかに届いているのではないだろうか。もし、その音に心が動いたなら――そのときは、ぜひ、奈良の山深くへ。芸能の女神が、清流のほとりで、あなたを待っている。

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