呼ばれた者だけが、
母の塔の下に立つ
高さ30メートルの、白い塔。20世紀日本最大の呪術師・岡本太郎が、母に捧げた祈り。縄文と、原爆と、メキシコと、沖縄のシャーマンを、すべて飲み込んだ男の、聖地へ。
序章 — 呼ばれないと、開けない扉がある
神奈川県川崎市、多摩区。向ヶ丘遊園駅の南口から、生田緑地に向かって歩く。木々の生い茂る丘陵を、奥へ奥へと進んでいくと、突然、視界が開ける。そして、見える。高さ30メートルの、巨大な、白い塔。「母の塔」。これは、20世紀日本最大の呪術師、岡本太郎が、自分の母・かの子に捧げた、祈りである。
「ただの芸術作品ではない」と、岡本太郎自身が言っている。彼は、芸術家ではなかった。彼は、芸術を装った、現代の呪術師だった。そのことに、気づいている日本人は、ほとんど、いない。
縄文と、原爆と、メキシコと、カバラと、エリアーデと、沖縄のシャーマンと、そして母を、すべて自分の中に飲み込んで、巨大な作品として吐き出した、男。「芸術は爆発だ」。このフレーズを、テレビCMの中で、奇怪な顔を歪ませて叫ぶおじさん、として、多くの日本人は岡本太郎を覚えている。しかし、本当の岡本太郎は、その奇怪さの遥か奥に、いた。
そして、衝撃的な事実を、書いておく。川崎市岡本太郎美術館は、2026年3月末から、2029年3月末まで、改修工事のため休館中である。つまり、現在、約3年間、内部の展示は見られない。しかし、安心してほしい。岡本太郎の作品で、最も巨大で、最も重要な「母の塔」は、屋外にある。だから、休館中でも、見られる。そして、生田緑地そのものが、岡本太郎の魂が今も漂う場所である。
呼ばれた者だけが、辿り着く。そして、辿り着いた者を、永遠に変えてしまう、場所。ここから、その扉を、開ける。
第1章 — 岡本太郎とは何者だったのか、聖家族に生まれた呪術師
岡本太郎を理解するには、まず、彼が生まれた家庭を知らなければならない。普通の家庭ではなかった。それは、日本の文学史において、後に「聖家族」と呼ばれることになる、異常な空間だった。命名したのは、ノーベル文学賞作家の川端康成である。「あの家は、芸術のために、生活を犠牲にしている。子供が、まるで一人の芸術家として、対話の相手にされている」。その「子供」が、岡本太郎である。
父は、漫画家の岡本一平。明治大正期の朝日新聞で、夏目漱石にスカウトされ、漫画記者として名を馳せた。日本における政治・社会風刺漫画の先駆者である。母は、歌人で小説家の岡本かの子。1889年生まれ。与謝野晶子のもとで学び、後に仏教研究、特に親鸞と歎異抄について膨大な論考を遺した。代表作「鶴は病みき」「生々流転」「老妓抄」は、今でも読み継がれている。この二人の間に、岡本太郎は1911年2月26日、東京・青山に生まれた。
そして、ここから岡本家の異常さが始まる。かの子には、夫の一平以外に、複数の「愛人」がいた。それも、公然と、家に住まわせていた。一平もそれを認め、かの子の愛人たちと、自分も友達のように付き合っていた。「芸術のためなら、すべてが許される」。それが、岡本家のルールだった。
母・かの子は、太郎を、一人の芸術家として扱った。夜中に太郎を起こして、自分が今書いた短歌を聴かせ、3歳の太郎に「これを、どう思う?」と聞く。子供は、抱きしめてもらえない。代わりに、芸術の議論をされる。太郎は後にこう書いている。「私は、ずっと、母から愛されることを、待っていた」。その一方で、太郎は母を誰よりも尊敬していた。「私の芸術観のすべては、母から来ている」。この「母の不在」と「母への憧れ」が、後年、彼の代表作「母の塔」を生むことになる。
母・かの子は、太郎に教えた。「世間の常識は、嘘である」「お前は、お前自身で、考えろ」。そして太郎は、その通りに生きた。「弥生文化が日本の伝統だ」と皆が言う時代に、「縄文こそ、日本の本当の芸術だ」と叫んだ。「進歩と調和」が万博のテーマだった時代に、「人類は、進歩などしていない」と太陽の塔をぶち立てた。すべて、世間の常識を真っ向からひっくり返した。なぜ、それができたのか。それは、規格外の母親が、世間の常識を、太郎の中に入れなかったからである。彼は「空っぽ」のままパリに渡り、そこにすべてが生のまま流れ込んだ。
第2章 — パリで芸術を、民族学を学んだ男、マルセル・モースという扉
1929年12月、18歳の岡本太郎は、父・一平のロンドン軍縮会議取材に同行する家族と共に、神戸港を出発した。翌1930年1月、マルセイユを経由してパリに到着。両親はロンドンへ向かい、太郎は一人、パリに残ることを決断した。そこから1940年に帰国するまで、約10年間の「パリ時代」が始まる。この10年で、彼は現代の岡本太郎の基礎を作った。彼は4つの、まったく異なる世界に、同時に潜り込んでいた。
一つ目、絵画。当時のパリは世界の芸術の中心地だった。1932年夏、太郎はポール・ローザンベール画廊でピカソの《水差しと果物鉢》を見て衝撃を受け、1933年、最も先鋭的な抽象芸術運動「アプストラクション・クレアシオン」に参加する。しかし彼は抽象芸術に留まらず、1937年に脱退した。
二つ目、シュルレアリスム。無意識、夢、狂気、性、死。人間の「裏側」を芸術の対象にする運動。1936年、太郎の油彩《傷ましき腕》がアンドレ・ブルトンに認められた。そして決定的な出会いが訪れる。1936年1月、反ファシズムの政治グループの集会で、一人の男が演説していた。ジョルジュ・バタイユである。太郎は深く感銘を受けた。「人間の本質は、合理性ではない。エロスと、死と、聖なるものへの衝動である」。
バタイユは、本気で新しい宗教を立ち上げようとした。秘密結社「アセファル(無頭人)」である。1938年7月、岡本太郎27歳。彼はバタイユの推薦により、日本人として唯一のメンバーとして、これに加わる。岡本太郎は、20世紀パリの、最も過激で危険な秘密結社の一員だった。これは誇張ではない。岡本太郎美術館の公式年表に明記されている。メンバーは、パリ郊外サンジェルマンの森、雷に打たれて引き裂かれた無頭の樫の木の下に、月のない夜、集まった。
三つ目、民族学。それが、マルセル・モースである。近代社会学の巨人。太郎は1938年、シャイヨー宮の人類博物館を訪れて衝撃を受け、パリ大学で哲学から民族学科に専攻を変更、モースに師事した。モースは教えた。「呪術と、芸術と、宗教は、本来、分離していなかった。古代の人々にとって、それらは、すべて一つだった」。これが太郎の中で爆発した。バタイユのアセファルが「実践」の場だったとすれば、モースはそれを「理論」として整理してくれる存在だった。彼が本当に求めていたのは「呪術」だった。人間が、世界の不可視の力と繋がる、その瞬間。
四つ目、戦争。1939年2月、母・かの子が日本で亡くなる。同年9月、第二次世界大戦勃発。1940年6月、ナチスがパリを占領。太郎は最後の引き揚げ船で帰路についた。そして1945年5月、東京への空襲によって、太郎が持ち帰ったパリ時代の作品は、すべて焼失した。これが、岡本太郎の最初の「死」である。しかし彼は絶望しなかった。「過去の自分は死んだ。ゼロから、もう一度始めればいい」。戦後の焼け野原で、彼は一つの土器と出会う。縄文土器である。その土器を見た瞬間、太郎は叫んだ。「なんだこれは!」
第3章 — 縄文土器との衝撃、これは爆発している、これは呪術である
1951年11月7日、東京国立博物館。40歳の岡本太郎は館内を歩いていた。戦後、日本人はまだ敗戦の傷を引きずっていた。当時の「日本美術」といえば、弥生の銅鐸、法隆寺の仏像、雪舟の水墨画。洗練された、静謐な、調和の美である。縄文の遺物は「未開、原始、野蛮」として、ただの考古学資料に過ぎなかった。
その日、博物館では特別展「日本古代文化展」が開催されていた。太郎は展示場で、考古学の遺物として淡々と陳列されていた、縄文中期の深鉢型土器を見た。器の表面に、激しくうねる文様。荒々しく、不協和な、過剰な造形。その前で、太郎は立ち止まり、叫んだ。「なんだ、コレは!」館内に彼の声が響いた。
普通の人間なら「不気味だ」「意味がわからない」と思う。しかし太郎には見えた。5000年前の縄文人が土器に込めた「祈り」が。「呪術」が。縄文人は狩猟採集の民で、その世界は不可視の力に満ちていた。山に、川に、木に、霊が宿る。すべては不可視の力との交渉だった。その交渉の道具として、土器は作られた。土器の複雑な紋様は、装飾ではない。不可視の力に呼びかけるための、呪文である。
翌1952年2月、彼は美術雑誌「みづゑ」に論文「四次元との対話 — 縄文土器論」を発表する。「縄文こそ、日本の起点である」。当時の学界に激震が走った。そして論文に決定的な一文があった。「縄文土器の紋様は、強烈に宗教的、呪術的意味を帯びて居り、云いかえれば四次元を指向しているのである」。
興味深いことに、太郎はこの縄文土器論の中に、突然「原子爆弾」という単語を入れた。「我々には既に四次元との対話はない。しかし、原子爆弾が炸裂し、二つの世界の対立があり、奇怪な経済恐慌が起る」。太郎は、縄文人が不可視の霊的な力と対話していたのと同じように、現代人も不可視の核エネルギーと対話しなければならない、と考えていた。縄文の呪術と、原爆。これを同じ「四次元の力」として見ている。これが後に、彼の代表作「明日の神話」を生むことになる。その時、彼はすでに芸術家ではなかった。忘れられた呪術を取り戻すために降臨した、現代のシャーマンだった。
第4章 — 四次元との対話、縄文呪術と原爆を、同じ目で見た男
「四次元」という言葉が、岡本太郎のすべての作品を貫くキーワードである。太郎が指していた「四次元」、つまり不可視の霊的な世界。これは太郎のオリジナルではない。世界中の古代宗教に共通する概念である。仏教では「彼岸」、神道では「常世」、チベット密教では「中陰」、ユダヤ教カバラでは「セフィロト」と呼ぶ。呼び方は違うが、すべて同じ。不可視の、もう一つの世界である。
太郎はこう考えた。「現代人は、四次元との対話を失った。だから現代芸術は、力を失った。ただの装飾になり、魂がない」。しかし、ここで太郎の凄さが現れる。彼は「では現代人は、何と対話すべきか」と問い、その答えを「原爆」に見た。原爆は「不可視」の力である。人間の目には見えない放射線。しかしそれは人間の生死を決定する。神々の怒りと、同じである。縄文人が雷を恐れて神に祈ったように、現代人も原爆を恐れて、何かに祈らなければならない。
ここで、彼の二つの代表作「太陽の塔」と「明日の神話」が生まれる。1970年の大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」。約6400万人が訪れた。しかし岡本太郎はこのテーマに強く反発した。「進歩主義こそが、原爆を生んだ」。そして彼は決めた。「この近代主義の祭典の真ん中に、近代主義をぶち壊す、縄文の神像を、ぶち立ててやる」。それが太陽の塔だった。高さ約70メートル。正面に現在の「太陽の顔」、背面に過去の「黒い太陽」、頂部に未来の「黄金の顔」。三つの顔が過去・現在・未来を貫く。そして地下に第4の顔「地底の太陽」があった。
万博当時、来場者は塔の地下から入場した。「いのち」「ひと」「いのり」の3つの空間。その「いのり」の空間こそ、太郎が最も力を入れた場所である。世界中から集めた神像と仮面。その中心に、地底の太陽。これは、現代日本の真ん中に作られた、シャーマニズムの祭祀空間である。そして地下を抜けた来場者は、塔の胎内で「生命の樹」を登り、約40億年の生物進化を追体験する。これは、シャーマニズムの「死と再生のイニシエーション」と、まったく同じ構造である。約6400万人が、知らないうちにその儀礼を体験した。
もう一つの作品「明日の神話」。縦5.5メートル、横30メートルの巨大壁画。副題は「広島と長崎」。中央に、原爆の炸裂で骨だけが残った人間の骸骨。それは口を大きく開けて笑っている。悲鳴ではない。「人間の誇りとしての怒りを爆発させている姿」である。太陽の塔と明日の神話は、対をなしている。両者ともに「人類の悲劇を、人類が誇らかに乗り越える」という同じテーマを扱う。ピカソの『ゲルニカ』が戦争の悲劇を描いたのに対し、岡本太郎の『明日の神話』は、悲劇を乗り越える人類の力を描いた。
第5章 — 太陽の塔は神像である、カバラの生命の樹とエリアーデの胎内くぐり
太陽の塔は、彫刻ではない。モニュメントでもない。太陽の塔は、神像である。これは比喩ではない。岡本太郎研究の第一人者・石井匠氏はこう解説している。「太陽の塔は、ある意味で生き物のような、人工生命のようなものとして作られている」。塔の内部にある「生命の樹」を、太郎は「血流」「動脈だ」と表現した。ちなみに構想段階の1967年10月、太郎はこれを「(仮称)生命の樹」として発表している。塔と生命の樹は、太郎にとって不可分の一体だった。
ここで、設計の背後にある二つの決定的な思想を紹介する。一つ目は、ユダヤ教神秘主義「カバラ」の生命の樹である。塔の内部の高さ約41メートルの構造物を、太郎は「生命の樹」と名付けた。しかし生物学では、こうした生物進化の樹は通常「系統樹」と呼ぶ。「生命の樹」と呼ぶのは極めて異例である。なぜか。答えは彼の旧蔵書にある。岡本太郎旧蔵とされるクルト・セリグマン著『魔法の歴史』には、カバラが詳細に解説され、その中心図像こそ「生命の樹(セフィロト)」なのである。太陽の塔の「生命の樹」は、カバラのセフィロトを、万博の中心に再現したものである。
二つ目は、宗教学者ミルチャ・エリアーデの思想である。20世紀最大の宗教学者の一人。太郎は彼の著作を深く愛読していた。美術史学者・佐々木秀憲氏の研究によれば、太郎の手元にエリアーデの原著が6冊あり、特に『シャーマニズム — 古代的エクスタシーの技法』は、すり切れるほど熱心に読んだ形跡があった。2013年、川崎市岡本太郎美術館で「岡本太郎のシャーマニズム」展が開催され、その影響が学術的にも確認されている。
エリアーデが解明したのは、世界中のシャーマニズムに共通する「死と再生のイニシエーション」である。少年は暗い洞窟に閉じ込められ、一度象徴的に死に、暗闇で神々と対話し、新しい人間として再生する。太郎はこの思想を、太陽の塔の構造に組み込んだ。来場者は、地下(死)→ 上昇(生命進化)→ 空中(未来)→ 母の胎内(再生)→ 地上(新しい生)という経路を辿らされた。石井匠氏はこう解説する。「来場者は、神像の胎内くぐりを体験することになるので、一種のイニシエーション装置としても機能していた」。
つまり、大阪万博の来場者、約6400万人は、知らないうちに、現代の巨大なシャーマニズム儀礼を体験していた。太郎はこれを意図的に設計した。狙いはただ一つ。「現代日本人に、シャーマニズムを取り戻す」。万博終了後、パビリオンはすべて取り壊されるはずだったが、太陽の塔だけは、撤去反対の署名運動を受けて残された。人々が無意識のうちに「これは、壊してはいけない」と感じたからである。2018年からは内部の一般公開が始まり、2025年8月には国の重要文化財に指定された。そして、太陽の塔には、もう一つ現代まで残る巨大な謎がある。「地底の太陽」、第4の顔の行方である。
第6章 — 地底の太陽、50年間、行方不明だった第4の顔とアガルタ伝説
太陽の塔には三つの顔があると知られている。しかし本当は、四つの顔があった。そして第4の顔は、約50年間、行方不明だった。名前は「地底の太陽」。高さ約3メートル、全長約11メートルの巨大な黄金の顔。配置されていたのは、地下空間「いのり」の中心。世界中の神々と仮面に囲まれた、その中心に、地底の太陽はいた。公式には「生命の源、原始的エネルギーの表現」とされるが、もう一歩踏み込めば、これはシャーマニズムの「地底の神」、死の世界の神である。
そして、ここで人類が古代から信じてきた巨大な神話に繋がる。「アガルタ」と「シャンバラ」。地球の内部は空洞で、その中に高度な文明が存在する、という伝説。この話を本気で探した人物が20世紀にいた。アドルフ・ヒトラーである。ヒトラー率いるナチスは、二つの方向で地底世界の探索を進めたとされる。一つ目、チベット。1938年、SS探検隊が派遣されたのは史実である。彼らはチベットから、隕石を彫って作られた「アイアンマン」と呼ばれる仏像を持ち帰った。二つ目、南極。1938-39年の南極探検隊派遣も史実である。
戦後、奇妙な噂が流布した。「ヒトラーが南極の開口部から地球空洞内部に脱出した」。これらは現在、根拠のない陰謀論として扱われている。地球内部は空洞ではなく、マントル・外核・内核の層構造である。しかし、興味深いことがある。「不可視の世界」が「下の方向」に存在するという感覚は、世界中の人類の神話に共通している。仏教の地獄、ギリシャのハデス、日本の黄泉。地下は、人類の根源的な、不可視の世界への入口である。そして太郎はそれを知っていた。だから太陽の塔の地下に「いのり」の空間を設計し、その中心に地底の太陽を置いた。
万博終了後、太陽の塔だけが保存されたが、地下空間は撤去され、地底の太陽だけが行方不明になった。高さ3メートルの巨大な顔が、簡単に紛失するはずがない。なのに消えた。それが約50年続いた。1996年に太郎が亡くなるまで、養女・敏子が何度捜しても見つからなかった。2018年、記録写真とデザイン画から、可能な限り忠実に復刻され、太陽の塔の地下に設置された。現在、人々が見ているのは復刻版である。
オリジナルはどこにあるのか。2025年5月3日、NHKが放送したドキュメントで、新たな手がかりが発見された。行方不明だった設計図面3枚が見つかり、証言を基に「1980年まで兵庫県の施設で分解保管され、施設移転時の解体で、神戸市内の布施畑処分場に埋められた可能性が高い」という説が提唱された。つまり、地底の太陽は、地下に埋まっているかもしれない。文字通り、地底の太陽が、地底に帰った。もちろんこれも確定ではない。その判断は、読者に委ねる。地下の神は、地下に帰る。それが太陽の塔の、本当の構造である。
第7章 — 明日の神話、メキシコの倉庫で奇跡的に発見された壁画
1968年、岡本太郎は太陽の塔の設計と並行して、メキシコシティでもう一つの巨大な作品を制作していた。「明日の神話」、縦5.5メートル、横30メートルの巨大壁画。太陽の塔と対をなす、双璧の作品である。なぜメキシコだったのか。メキシコオリンピック開催に合わせ、ラテンアメリカ一の規模を誇る巨大ホテルが建設されていた。オーナーのマヌエル・スアレスが、岡本太郎に壁画制作を依頼した。
メキシコは太郎にとって特別な国だった。アステカ文明、マヤ文明。彼らは太陽神に人身御供を捧げる、強烈な呪術文化を持っていた。「縄文人とアステカ人は、同じ目で世界を見ていた」と太郎は感じていた。テーマは「原爆」だった。なぜホテルのロビーに原爆の壁画を描こうとしたのか。太郎は、世界中の人々が原爆という不可視の力と、知らないうちに対話することを狙った。これも現代の呪術である。
1969年9月、壁画は完成した。しかしその時、悲劇が起きる。ホテルのオーナーの経営が急速に悪化し、ホテルは未完成のまま放置され、運営会社は倒産した。壁画はロビーから取り外され、どこかに運ばれた。太郎が命懸けで描いた最大傑作の一つが、メキシコの彼の手の届かない場所に消えた。ここから、長い行方不明の期間が始まる。倉庫から倉庫へ、絵は少しずつ損傷していった。1996年、岡本太郎は明日の神話の行方を知らないまま、84歳で亡くなった。
しかし、養女・岡本敏子は諦めなかった。「明日の神話は、太郎の最大にして最高傑作である。必ず見つけ出す」。彼女はメキシコに何度も足を運び、あらゆるルートを辿った。そして2003年9月、奇跡が起きる。メキシコシティ郊外の資材置き場。埃と雑多な資材に囲まれて、巨大な絵が立てかけられていた。明日の神話だった。34年間、行方不明だった太郎の最大傑作が、誰にも気づかれずに静かに佇んでいた。敏子は号泣した。喜びの涙だった。
ここから「明日の神話 再生プロジェクト」が始まる。2005年、壁画は日本に移送され、愛媛県で修復が始まった。日本の美術修復史上、最大級のプロジェクトだった。2006年6月に完成。同年7月、東京・汐留での初公開に、のべ約200万人が集まった。恒久設置場所は、渋谷に決まった。渋谷マークシティ内の連絡通路、毎日約30万人が通過する場所。2008年11月17日、明日の神話は渋谷に設置された。「明日の神話保全継承機構」は公式にこう認めている。「『明日の神話』の不思議な力が、街を行き交う一人ひとりに、未来へ向かうエネルギーとなって戻ってくる」。絵が、見る人にエネルギーを与える。これは絵画ではない。エネルギーを可視化し、増幅し、放射する装置である。
第8章 — 沖縄イザイホー、太郎が見届けた、現代日本で最後の神事
岡本太郎は二度、沖縄に渡った。1959年と1966年。二度目の旅で、彼はある神事を目撃する。「イザイホー」。12年に一度、午年の旧暦11月に5日間行われる、神女就任儀礼である。場所は久高島。琉球神話で、創世神アマミキヨが天から最初に降りてきた場所とされる、沖縄で最も神聖な島。「男は海人、女は神人」。女性こそが神と人を繋ぐ存在だった。30歳から41歳までの女性たちが、5日間の儀式を通して、ただの女性から神女(ナンチュ)へと変身する。
イザイホーは本来、外部の人間には絶対に公開されない秘祭だった。柳田國男、折口信夫ら民俗学者も、神事の核心には立ち入れなかった。ところが1959年、岡本太郎は、先代・久高ノロに出会うことを許された。なぜか。太郎は神事を研究するのでも消費するのでもなく、「自分自身が、その世界の中に入り込む」ために来ていた。それをノロは見抜いたのかもしれない。太郎が撮影した先代・久高ノロの写真がある。厳しい表情で知られたこのノロが、太郎のレンズの前で、稀有な柔らかな表情を見せている。孫はこう証言する。「この写真は、おばあさんが太郎さんを受け入れた顔です」。
太郎が記録したイザイホーの核心は「七つ橋渡り」である。新しく神女になる女性たちは、真っ青になりながら橋を渡る。渡り終えた瞬間、人間の女から神女へと変身する。これは、シャーマニズムの「死と再生のイニシエーション」そのものだった。太郎がパリで学んだ呪術、20年研究した縄文の呪術、エリアーデの死と再生が、すべて目の前で、生きた形で行われていた。「忘れられた日本が、ここにある」。太郎は確信した。
興味深いことに、1978年のイザイホーを最後に、この儀式は途絶えた。過疎化で、資格ある女性が見つからなくなったのである。1978年のイザイホーが、現代日本で行われた最後の本格的なシャーマニズム儀礼になった。岡本太郎は、その2回前の1966年のイザイホーを目撃した、ほぼ最後の外部の証人だった。彼の写真と著書『沖縄文化論』は、現在イザイホー研究の最も重要な一次資料の一つになっている。あと数十年遅ければ、彼はこれを見ることができなかった。
もう一つ書いておく。「後生(グソー)事件」である。太郎は1966年の取材中、男子禁制の御嶽に入り、風葬地の白骨を撮影し、雑誌に発表した。「聖域を踏み荒らした」という批判が起こった。これは太郎の痛恨の過ちだった、とも言える。一方で、太郎が公開したことで、久高島の「死と再生」の文化が現代日本に伝わったのも事実である。太郎は聖域に踏み込んだ。しかし聖域の存在を後世に伝えた。両方が同時に真実である。これも岡本太郎である。そして彼は決意した。「縄文の呪術は、まだ沖縄に生きている。そして消えつつある。自分が現代日本に、それを取り戻さなければならない」。その4年後、彼は大阪万博の中心に、太陽の塔をぶち立てた。
第9章 — 「芸術は爆発だ」の本当の意味
「芸術は爆発だ」。日本人の誰もが知る、岡本太郎の有名なフレーズである。1981年、日立マクセルのCMで、岡本太郎が奇怪な顔を歪ませながら「芸術はーっ、爆発だーっ!」と叫ぶ。当時の日本人は皆それを笑った。「変なおじさん」。このフレーズは誤解されたまま広まった。「奇抜であれば、それでいい」。しかし、岡本太郎が本当に込めた意味は、まったく違う。これは、彼の生涯の思想を、たった9文字に凝縮した、最も深い言葉である。
岡本太郎の「爆発」とは、騒ぐことでも、破壊することでもない。人間の内側に閉じ込められてきた、生命のエネルギーが、外の世界に向かって、無条件に解放される、その瞬間である。縄文人が土器を作る時、自分の中に渦巻く生命のエネルギーを、紋様として解放した。それが爆発である。太郎はこう考えた。現代人は爆発を忘れた。世間の目を気にして、会社の論理に合わせて、常識という檻の中で、自分の本当の声を押し殺している。だから現代人は、形だけ生きているように見えるが、中身は死んでいる。
なぜ太郎はこれほど「爆発」を重視したのか。それは、彼が戦争を体験したからである。1942年1月、31歳で中国戦線に召集された。戦地で約4年半を過ごし、多くの戦友が目の前で死んでいった。彼は見た。「人間が生命のエネルギーを解放することを忘れた時、世界はこうなる」。皆、本当は「戦争は嫌だ」「死にたくない」と思っていた。しかし誰一人、それを声に出さなかった。そして何百万人もが死んだ。太郎は戦地で決意した。「生きて帰れたら、二度と自分を押し殺さない。すべてを爆発させて生きる」。
そして、彼は芸術を美術館に閉じ込めるのを嫌った。「芸術はみんなのもの」「芸術はピープルのもの」。だからテレビにもCMにも積極的に出た。多くの芸術家は「品位を損なう」と批判したが、太郎は意に介さなかった。すべての日本人にメッセージを届けたかったからである。そして1980年代、CMを見て笑った日本人の何人かは、後に気づいた。「あの変なおじさんは、もっと深いことを言っていた」。彼らは太郎の本を手に取り、衝撃を受けた。「これは現代の哲学者であり、預言者だった」。
もう一つ、欠かせない事実がある。彼は自分の作品のほとんどを、商品として売らなかった。1991年、主要作品352点を故郷の川崎市に寄贈。1993年にはさらに1427点。最終的に約1800点が、川崎市民の財産として引き継がれた。普通の芸術家なら画商に売る。しかし太郎は市民全体に贈った。これも「芸術はピープルのもの」という信念の、最後の実践だった。そして、その爆発の最も大きな結晶が、生田緑地に立っている。「母の塔」である。
第10章 — 母の塔、母かの子と、聖家族の祈り
生田緑地の緑に包まれた丘陵を、奥へ進むと、突然、視界が開ける。高さ30メートルの、白い、巨大な塔。岡本太郎の生涯最後の大作の一つ。「母の塔」である。太郎は生涯、母・かの子を、特別な、複雑な感情で見続けた。愛と、尊敬と、苦悩と、解放されたいという気持ち。かの子は、太郎を抱きしめてくれなかった。代わりに3歳の太郎に芸術の議論を求めた。太郎は書いている。「私は、ずっと、母から愛されることを、待っていた」。
かの子は1939年2月18日、49歳で亡くなった。太郎はその時パリにいて、母の死を電報で知った。葬儀にも出られず、死に顔も見られなかった。最後の対話をしないまま別れた。これも太郎の生涯のしこりだった。そして太郎は、戦後の長い人生の中で、ずっと母を求め続けた。母が亡くなって23年後の1962年11月、太郎は最初の祈りの碑を建てた。「岡本かの子文学碑《誇り》」である。場所は川崎市高津区二子、二子神社の境内。母・かの子が愛した多摩川のほとり。岡本太郎がモニュメントを、丹下健三が台座を、亀井勝一郎が文を、川端康成が書を担った、極めて豪華な文学碑である。
そして約10年後の1971年、太郎は60歳の時、より大きな祈りの形を構想する。「母の塔」である。塔の上部に女性の顔、下部にもう一つの女性の顔。全体が有機的な曲線で構成されている。太郎はこう説明する。「大地に深く根ざした巨木のたくましさ」「ゆたかでふくよかな母のやさしさ」「天空に向かって燃えさかる永遠の生命」。これが母への究極の祈りだった。そしてこれは、かの子だけの話ではない。太郎にとって母とは、人類すべての根源的な母性のことだった。縄文の土偶、大地母神、ガイア、イザナミ。母の塔は、それらすべての母性の、現代における再現だった。
太陽の塔=父性・生命の上昇。明日の神話=死と再生。母の塔=母性・大地・永遠の生命。三つで一つの完結した宇宙観を形作っている。そして配置にも深い意味がある。川崎市岡本太郎美術館の公式情報にはこうある。「この塔の正面は、まっすぐに高津区二子の岡本かの子文学碑『誇り』に向けて建てられています」。息子・太郎が晩年に建てた母の塔が、若き日に建てた母への最初の祈りの碑「誇り」に、まっすぐ繋がっている。その間を、不可視の霊的な線が結んでいる。太郎は、自分が亡くなった後も永遠に母と対話を続けるための装置として、これを設計した。
外装は、太郎の「光らせるな、輝かせろ」というイメージを実現するため、「タローホワイト」という真珠色のクラッシュ・タイルが使われている。季節や時間につれて、塔はゆっくり表情を変える。母の塔は、太郎が亡くなった後、1999年10月の川崎市岡本太郎美術館開館に合わせて建立された。太郎自身は完成した塔を見ることはできなかった。母・かの子は49歳で、太郎は84歳まで生きた。息子は母よりずっと長く生き、生涯母を求め続けた。その求めの最終的な形が、生田緑地に立っている。そして、母の塔と、多摩川のほとりの「誇り」。その二つの間で、太郎は母と、永遠の対話を続けている。
第11章 — 生田緑地、岡本太郎美術館、川崎が産んだ呪術師の聖地
岡本太郎は、自分の主要作品1779点を、生まれ故郷の川崎市に託した。そして川崎市は、彼の作品を収める特別な美術館を建てた。「川崎市岡本太郎美術館」。開館は1999年10月30日。場所は多摩区の生田緑地の中。この美術館には、一つの奇妙な特徴がある。「ほとんどの施設が、地下にある」。美術館としてかなり珍しい構造である。公式の理由は「生田緑地の自然を壊さないため」。しかし、深読みしてみる。
岡本太郎は生涯、「地下=不可視の世界=死と再生の場所」というシャーマニズムの世界観を追求し続けた。太陽の塔の地下「いのり」、その中心の地底の太陽。そして彼の作品を収める美術館も、地下に建てられた。地上の母性(母の塔)と、地下の作品(不可視の世界)。これは、太陽の塔とまったく同じ構造である。結果として生田緑地には、岡本太郎のもう一つの聖地と呼べる構造が生まれた。太陽の塔は大阪万博公園。母の塔と地下の美術館は川崎・生田緑地。二つの聖地が、東西に配置されている。
収蔵品は約1800点。国内最大級の規模である。絵画、彫刻、デザイン作品、写真、アトリエの遺品まで。さらに興味深いことに、両親の作品も収蔵されている。父・一平の漫画原画、母・かの子の歌稿。つまりここは、岡本太郎一人の美術館ではなく、「聖家族」の聖地である。太郎、一平、かの子。三人の魂が、ここに集まっている。通常時は、エントランスホールの「千手」、常設展示室の「赤の部屋」、中央の「樹人」、そして座れる「いすのコーナー」。写真撮影も可能で、絵画にガラス板はなく、間近で鑑賞できる。
ここで、訪問予定の方への極めて重要なお知らせがある。川崎市岡本太郎美術館は、改修工事に伴い、2026年3月30日から2029年3月31日(予定)まで、約3年間、展示室での展覧会を休止している。つまり現在、本格的な展示は見られない。「では行く意味はないのか」。そうはならない。岡本太郎の最大の作品は、屋外の「母の塔」だからである。母の塔は改修期間中も原則として見ることができる。
そして、2026年度は、館内の無料スペースでミニ展示「ちょこっとTARO」が開催される予定で、観覧は無料である。2027年度以降の対応は、公式情報で最新情報を確認してほしい。改修期間中の訪問者には、ある特別な体験がある。「人混みのない、静かな聖地」である。人の少ない静寂の中で、高さ30メートルの母の塔と、二人きりで向き合う。これは改修中だからこそ味わえる、特別な体験である。そして2029年4月、改修が完了する(予定)。約1800点の作品が、新しい姿で再び公開される。それまでの3年間、訪問者は母の塔の前で立ち尽くし、岡本太郎が地下から放ち続ける、不可視の力を感じる。
第12章 — 太郎の作品が、人を呼ぶ、実際に起きた、信じがたい体験談
岡本太郎の作品の前に立った人は、何かを感じる。ここから書くのは、ネットや書籍に散見される、印象的な感想や噂話である。これらは特定の個人の確定的な証言として検証されたものではない。しかし、岡本太郎の作品に関しては、こうした「呼ばれた」「変わった」と語る人が、現代でも繰り返し現れ続けている。
一つ目、太陽の塔の内部見学者の感想。2018年3月19日、内部見学が48年ぶりに再開された。2016年10月の工事前最後の内部公開では、500人の定員に対して約8万人の応募が殺到したと報じられている。塔の内部に入った人々は皆、衝撃を受けたという。「空気が変わる」「ここはただの観光地ではない」。ちなみに内部で流れる音楽は、黛敏郎が作曲した「生命の讃歌」である。そして最も多く見られるのが、これである。「太陽の塔の中で、急に涙が出てきた。理由はわからない。しかし何かが自分の中で解放されるのを感じた」。これは、太郎が塔の内部を「死と再生のシャーマニズム儀礼」の経路として設計したことを知れば、説明できる。
二つ目、地底の太陽の目撃談。「兵庫県の倉庫で見た」「大阪の埋め立て地に埋められた」。これらは検証されていない噂である。しかし興味深いのは、こうした目撃情報が複数の地域から流れていることである。ある人は見たと感じる。しかし後から訪れる人には見えない。地底の神は、選ばれた人にだけ、姿を見せている。そう解釈することもできる。
三つ目、明日の神話の前で起きること。渋谷駅で毎日約30万人が通過する。その中のほんの一握りが、絵の前で足を止める。「普段は通り過ぎるだけ。しかしその日は、なぜか足が止まった」「絵を見て、迷っていた人生の決断を、その日決めた」。これは第7章で書いた保全継承機構の公式ステートメント「不思議な力が、未来へ向かうエネルギーとなって戻ってくる」と、見事に対応している。
四つ目、母の塔の前で起きること。「母の塔の前に立った瞬間、亡くなった母を思い出して号泣した」「子供を産んだばかりの自分が、自分の中の母性に初めて触れた気がした」。母の塔は、人類すべての根源的な母性への入口として設計された。だから母に関する何かを抱えている人ほど、その前で強く反応するのかもしれない。五つ目、岡本太郎美術館での体験。「絵から声が聞こえた気がした。『お前は、お前のままで、いい』」「美術館を出た後、急に笑いが止まらなくなった」「岡本太郎の作品を見て、俺は俺の人生を生きていないと気づいた」。
これらはすべて、岡本太郎が生涯放ち続けたメッセージを、受け取った結果と解釈することもできる。「お前の中の爆発を止めるな」「世間の常識に自分を合わせるな」。彼が亡くなって30年経った今でも、彼の作品はそれを放ち続けている。太陽の塔は大阪万博公園に、明日の神話は渋谷駅に、記念館は南青山に、母の塔と約1800点は川崎・生田緑地に。これらは、岡本太郎が日本中に配置した、巨大な呪術のネットワークである、と解釈することもできる。呼ばれた人は、いつか必ず、そのどこかに辿り着く。
第13章 — 生田緑地、深く歩くための10の場所
岡本太郎の聖地、生田緑地。約179.3ヘクタールが都市計画決定され、約117.4ヘクタールが供用されている、川崎市最大の都市公園である。ここに岡本太郎が眠っている。しかし生田緑地の魅力は、美術館と母の塔だけではない。緑地の中には、岡本太郎をより深く感じるための、複数の場所がある。ここでは、生田緑地を深く歩くための10の場所を、聖地巡礼のルートとして紹介する。
最寄りは、小田急線・向ヶ丘遊園駅(南口)、徒歩約17分。まず〔1〕美術館へのアプローチを歩く。樹齢の高いメタセコイアやシラカシの林を抜ける。木漏れ日、鳥の声、緑の匂い。心を整え、聖地に入る準備をする。そして視界が開け、〔2〕母の塔が現れる。しばらく塔の前に立ち尽くしてほしい。塔の正面は、多摩川のほとりの文学碑「誇り」へ、まっすぐ向けられている。その方向を感じてみてほしい。
〔3〕川崎市岡本太郎美術館(改修期間中は「ちょこっとTARO」)。母の塔の足元、地下にある。通常時は約1800点から選ばれた作品が常設展示されるが、2026年3月30日から2029年3月31日(予定)まで展示室は休室。2026年度は無料の「ちょこっとTARO」が開催される。〔4〕奥の池。高木のメタセコイアに覆われた、湧き水の池。メタセコイアは約100万年前まで広く分布していた植物の生き残りである。100万年前の植物と現代の人間が、ここで出会う。なお近くには、1971年の「川崎ローム斜面崩壊実験事故」で犠牲になった15名の慰霊碑がある。緑地は悲しい歴史も抱えている。
〔5〕枡形山展望台。標高84メートル、生田緑地で最も高い場所。鎌倉時代、稲毛三郎重成が城を構えたと伝わる枡形城の跡。展望台からは東京都心、多摩川、富士山、スカイツリーまで、関東平野のほぼすべてが視界に入る。開放時間は9:00〜17:00。〔6〕日本民家園。東日本の代表的な古民家を移築した野外博物館。文化財建造物25件。囲炉裏に火が入り、古民家の中に入れる。太郎が縄文や沖縄で見たものと地続きの、日本の古い生活の風景が、生きた形で残されている。開園は3〜10月が9:30〜17:00、11〜2月が9:30〜16:30。月曜休園。
〔7〕かわさき宙と緑の科学館。プラネタリウムがある。観覧料は一般400円ほか、川崎市在住者は無料(要証明書)。月曜休館。岡本太郎の「四次元との対話」を、星空の下で思い出してほしい。〔8〕しょうぶ園(ハナショウブの時期)。約2,800株。花期は5月下旬〜6月中旬。〔9〕生田緑地東口ビジターセンター。2012年オープン、入場無料。緑地のジオラマで聖地全体の構造を頭に入れられる。東口駐車場からすぐ。そして〔10〕岡本かの子文学碑「誇り」。これは生田緑地の外、川崎市高津区二子の二子神社境内にある。母の塔の正面が、まっすぐこの碑に向けられている。最寄りは東急田園都市線・二子新地駅、徒歩約3分。母の塔と「誇り」を両方見届けた時、岡本太郎の最も深い祈りの構造が、自分の心の中で完結する。
| 場所 | 位置・アクセス | 見どころ | 時間・料金 |
|---|---|---|---|
| 母の塔 | 生田緑地・美術館前(屋外) | 高さ30m。太郎晩年の大作。改修中も見られる | 屋外・常時 |
| 川崎市岡本太郎美術館 | 川崎市多摩区枡形7-1-5 | 約1800点収蔵。※2026/3/30〜2029/3/31休室予定 | 通常9:30〜17:00/月曜休 |
| ちょこっとTARO | 美術館 館内無料スペース | 改修期間中のミニ展示(2026年度予定) | 観覧無料 |
| 枡形山展望台 | 生田緑地内・標高84m | 関東平野の大パノラマ、富士山 | 9:00〜17:00 |
| 日本民家園 | 生田緑地内 | 古民家25件の野外博物館 | 9:30〜16:30/17:00/月曜休 |
| かわさき宙と緑の科学館 | 生田緑地内 | プラネタリウム | 一般400円ほか/月曜休 |
| 岡本かの子文学碑「誇り」 | 川崎市高津区二子1-4-1 二子神社(緑地外) | 母の塔が正面を向ける、最初の祈りの碑 | 屋外・常時/二子新地駅 徒歩3分 |
※営業時間・定休日・料金・休室期間は変動するため、訪問前に各公式サイトで要確認。

