神奈川 川崎・岡本太郎の謎

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これから書く話は、本当は書かない方がいいのかもしれない。

神奈川県川崎市、多摩区。

向ヶ丘遊園駅の南口から、生田緑地に向かって、約20分。木々の生い茂る丘陵を、奥へ奥へと進んでいくと、突然、視界が開ける。

そして、見える。

高さ30メートルの、巨大な、白い塔。

「母の塔」。

これは、20世紀日本最大の呪術師、岡本太郎が、自分の母・かの子に捧げた、祈りである。

「ただの芸術作品ではない」と、岡本太郎自身が言っている。

彼は、芸術家ではなかった。

彼は、芸術を装った、現代の呪術師だった。

そのことに、気づいている日本人は、ほとんど、いない。

これから書くのは、その男の話である。

縄文と、原爆と、メキシコと、カバラと、エリアーデと、沖縄のシャーマンと、そして母を、すべて自分の中に飲み込んで、巨大な作品として吐き出した、男の話である。

「芸術は爆発だ」。

このフレーズを、テレビCMの中で、奇怪な顔を歪ませて叫ぶおじさん、として、多くの日本人は岡本太郎を覚えている。

しかし、本当の岡本太郎は、その奇怪さの遥か奥に、いた。

そして、彼の作品の前に立った人は、皆、何かを感じる。

説明できない、何かを。

それは、彼が作品に込めた、呪術の力、である。

呼ばれた者だけが、辿り着ける、岡本太郎の世界。

ここから、その扉を、開ける。

目次

序章「呼ばれないと、開けない扉がある」

岡本太郎は、20世紀の日本に生まれた、最大の謎の一人である。

彼は、何者だったのか。

「芸術家」と、教科書は言う。「大阪万博のシンボル『太陽の塔』を作った人」と、観光ガイドは言う。「『芸術は爆発だ』のおじさん」と、テレビ世代は言う。

すべて、正しい。しかし、すべて、表面でしかない。

岡本太郎は、それらの肩書きの遥か奥で、もっと深いことを、やっていた。

彼は、現代の日本に、呪術を、取り戻そうとしていた。

これは、比喩ではない。文字通り、彼は、縄文時代の呪術師たちが行っていた「四次元との対話」を、20世紀の日本で再現しようとしていた。

太陽の塔も、明日の神話も、母の塔も、すべて、その呪術の道具である。

そして、その作品の前に立つと、人は、何かを感じる。

「ただの彫刻」「ただの絵」では、ない何かが、そこから、放たれている。

それを感じた人は、岡本太郎に、呼ばれている。

逆に、何も感じない人もいる。「ふーん」と言って、通り過ぎる。それも、構わない。

岡本太郎は、選ばない。

しかし、感じる人は、感じる。

そして、感じた人は、その後、彼の作品を、もっと深く知りたくなる。

彼の本を、読みたくなる。

彼の足跡を、辿りたくなる。

そして、いつか、必ず、ある場所に、辿り着く。

神奈川県川崎市、生田緑地、川崎市岡本太郎美術館、である。

岡本太郎が、自分の故郷である川崎市に寄贈した、約1800点の作品が、ここに眠っている。

そして、その美術館の前には、高さ30メートルの「母の塔」が、立っている。

これが、岡本太郎の、聖地である。

しかし、ここで、衝撃的な事実を、書いておく。

この美術館は、2026年3月末から、令和11年(2029年)3月末まで、改修工事のため、休館中である。

つまり、現在、約3年間、内部の展示は、見られない。

しかし、安心してほしい。

岡本太郎の作品で、最も巨大で、最も重要な「母の塔」は、屋外にある。だから、休館中でも、見られる。

そして、生田緑地そのものが、岡本太郎が育った場所であり、彼の魂が、今も、この緑の中に、漂っている。

休館中の3年間、来館者は、減るかもしれない。

しかし、それでも、呼ばれた人は、来る。

そして、母の塔の下に、立つ。

その瞬間、岡本太郎は、その人に、語りかける。

声には、ならない。

しかし、確かに、伝わる。

「お前は、よく来た。お前の中の、爆発を、止めるな」

これが、岡本太郎、なのである。

この記事では、岡本太郎について、ほとんどのガイドブックが書かない話を書く。

岡本太郎が、なぜ縄文土器に「呪術」を見たのか。
太陽の塔が、なぜユダヤ教神秘主義カバラの「生命の樹」と呼ばれるのか。
太陽の塔の「第4の顔」が、なぜ50年間、行方不明だったのか。
明日の神話が、なぜメキシコの資材置き場で、奇跡のように発見されたのか。
1966年、岡本太郎が沖縄久高島で目撃した、最後のシャーマン神事とは何だったのか。
母の塔は、なぜ「祈り」と呼ばれるのか。
そして、なぜ、あなたは今、この記事を読んでいるのか。

岡本太郎は、1996年1月7日に、84歳で亡くなった。

しかし、彼の作品は、生きている。

太陽の塔も、明日の神話も、母の塔も、彼の魂を、今も放ち続けている。

そして、それらの作品の前に立った人は、皆、感じる。

「ここから、何かが、放たれている」

それが、岡本太郎の、本当の力である。

縄文の呪術師たちが、土器に込めたものと、同じ力。

20世紀に、ただ一人、それを再現した男。

その男の聖地が、神奈川県川崎市の、生田緑地に、ある。

呼ばれた者だけが、辿り着く。

そして、辿り着いた者を、永遠に、変えてしまう、場所。

第1章「岡本太郎とは何者だったのか — 聖家族に生まれた呪術師」

岡本太郎を理解するには、まず、彼が生まれた家庭を、知らなければならない。

普通の家庭では、なかった。

それは、日本の文学史において、後に「聖家族」と呼ばれることになる、異常な空間だった。

「聖家族」と命名したのは、ノーベル文学賞作家の川端康成である。

川端は、岡本一家を見て、こう書いている。「あの家は、芸術のために、生活を犠牲にしている。普通の家庭の常識が、まったく通用しない。子供が、まるで一人の芸術家として、対話の相手にされている」。

その「子供」が、岡本太郎、である。

父は、漫画家の岡本一平。明治大正期の朝日新聞で、夏目漱石にスカウトされ、漫画記者として名を馳せた。日本における政治・社会風刺漫画の先駆者である。「漫画」という呼称を確立したのも、一平だったとされる。

母は、歌人で小説家の岡本かの子。1889年生まれ。明治の女学校時代から短歌で才能を発揮し、与謝野晶子のもとで学んだ。後に仏教研究に深く傾倒し、特に親鸞と歎異抄について、膨大な論考を遺した。代表作の小説「鶴は病みき」「生々流転」「老妓抄」は、今でも読み継がれている。

この、芸術家の父と、歌人で仏教研究者の母の間に、岡本太郎は1911年(明治44年)2月26日、東京・青山に生まれた。

そして、ここから、岡本家の異常さが、始まる。

岡本かの子には、夫の一平以外に、複数の「愛人」がいた。

それも、こっそりではない。

公然と、家に住まわせていた。

一平もそれを、認めていた。それどころか、かの子の愛人たちと、自分も友達のように付き合っていた。

岡本家には、太郎と、両親と、母の愛人(複数)が、同居していたのである。

これが、川端康成が「聖家族」と呼んだ、岡本家の構成である。

「芸術のためなら、すべてが許される」「世間の常識など、関係ない」

それが、岡本家のルールだった。

そして、その家で、太郎は育った。

母・かの子は、太郎を、一人の人間として、芸術家として、扱った。

「お前は、子供ではない。お前は、独立した魂を持つ存在だ」

そう、かの子は、太郎に言い続けた。

夜中に、太郎を起こして、自分が今書いた短歌を、聴かせる。「これを、どう思う?」と、3歳の太郎に、聞く。

太郎は、答える。3歳の言葉で。

かの子は、それを、真剣に、聞く。

そういう、母親だった。

普通の母親では、なかった。

子供は、抱きしめてもらえない。代わりに、芸術の議論を、される。

愛情よりも、知性が、優先される。

太郎は、後に、こう書いている。

「私は、ずっと、母から愛されることを、待っていた」

母の愛は、いつも、芸術に、奪われていた。

しかし、その一方で、太郎は、母を、誰よりも、尊敬していた。

「母は、生涯、芸術のために生きた。私の、芸術観のすべては、母から、来ている」

愛と、尊敬と、苦悩と、解放されたい、という気持ち。それらすべてが、太郎の中で、複雑に絡み合った。

そして、この「母の不在」と「母への憧れ」が、後年、彼の代表作の一つ「母の塔」を、生むことになる。

岡本太郎は、18歳の時、家族と共に、ヨーロッパへ渡る。

きっかけは、1929年。父・一平が、朝日新聞特派員としてロンドンの軍縮会議を取材することになり、家族全員で同行することになった。母・かの子と、太郎と、母の愛人2名が、随行した。

普通の特派員一家では、ない。

しかし、岡本家にとっては、これが普通だった。

会議が終わると、家族はそのままヨーロッパに、滞在した。太郎は、パリに残ることを、決めた。

ここから、太郎の「パリ時代」が始まる。

1929年から1940年まで、約11年間。

岡本太郎は、パリで、芸術と、民族学と、哲学の、最先端を、吸収した。

そして、彼の「呪術師」としての、目覚めが始まる。

しかし、その話は、第2章で詳しく書く。

ここで、もう一度、太郎の家庭環境に、戻る。

岡本太郎が、後年、「縄文の呪術」「四次元との対話」「太陽の塔は神像である」というような、オカルト的な思想を、芸術として展開したのは、なぜか。

それは、彼が、生まれた家が、すでに、普通の家ではなかったからである。

普通の人間は、子供時代に「世間の常識」を、刷り込まれる。「人前で泣くな」「我慢しろ」「目立つな」。

そういう、「日本社会の見えない呪縛」を、太郎は、ほとんど受けずに、育った。

母・かの子は、太郎に、こう教えた。

「世間の常識は、嘘である」「お前は、お前自身で、考えろ」「他人と同じになるな」

そして、太郎は、その通りに、生きた。

「他人と同じになるな」というのは、現代でもよく聞く、自己啓発のフレーズである。

しかし、岡本太郎の場合、そのレベルではなかった。

彼は、「日本人の常識」を、根本から、覆そうとした。

「弥生文化が、日本の伝統だ」と、皆が言う時代に。
「縄文こそ、日本の本当の芸術だ」と、彼は、叫んだ。

「進歩と調和」が、大阪万博のテーマだった時代に。
「人類は、進歩などしていない」と、彼は、太陽の塔を、ぶち立てた。

「芸術は、美しいものだ」と、皆が言う時代に。
「芸術は、呪術である」と、彼は、書いた。

すべて、世間の常識を、真っ向から、ひっくり返した。

なぜ、彼に、そんなことができたのか。

それは、彼が、世間の常識を、最初から、持っていなかったからである。

岡本かの子という、規格外の母親が、それを、太郎の中に、入れなかった。

そして、太郎は、その「空っぽ」の状態のまま、パリに、渡った。

パリで、彼は、世界の芸術と、文化人類学と、シュルレアリスムと、抽象芸術と、民族学に、出会う。

そして、それらが、彼の「空っぽ」の中に、次々と、流れ込んでいく。

普通の日本人なら、「日本の常識」というフィルターを通して、これらを、消化する。しかし、太郎には、そのフィルターが、なかった。

すべてが、生のまま、入ってきた。

そして、彼の中で、それらが、独自に、混ざり合い、発酵した。

その結果、誕生したのが、後年の「岡本太郎」、である。

縄文の呪術と、現代芸術と、ユダヤ教神秘主義と、原爆と、沖縄のシャーマンが、全て、彼の中で、繋がっている。

普通の人間なら、これらは、繋がらない。

しかし、太郎の中では、繋がった。

そして、彼は、それを、作品として、世に、放った。

太陽の塔。
明日の神話。
母の塔。
無数の絵画。
膨大な著作。

すべて、岡本太郎という、規格外の人間の、頭の中で、混ざり合った宇宙の、断片である。

そして、その断片が、現代の日本人に、何かを、語りかけている。

「お前は、本当に、生きているか?」

「お前の中の、爆発を、抑えていないか?」

「世間の常識に、自分を、合わせていないか?」

これが、岡本太郎の、本当のメッセージである。

彼は、芸術家では、ない。

彼は、現代日本に、呪術を、取り戻そうとした、最後の呪術師である。

そして、その出発点が、東京・青山の、聖家族と呼ばれた、岡本家にあった。

第2章「パリで芸術を、民族学を学んだ男 — マルセル・モースという扉」

1929年12月、18歳の岡本太郎は、父・一平のロンドン軍縮会議の取材旅行に同行する家族と共に、神戸港を出発した。翌1930年1月、マルセイユを経由して、パリに到着した。両親はその後ロンドンへ向かい、太郎は一人、パリに残ることを決断した。そこから、1940年に第二次大戦の戦火で帰国するまで、約10年間、彼はパリで暮らした。これが、岡本太郎の「パリ時代」である。

この10年で、彼は、現代の岡本太郎の、基礎を作った。

何を学んだのか。普通の留学生なら、フランス語と、絵画技法と、せいぜいヨーロッパ哲学を学んで帰る。岡本太郎は、違った。彼は、4つの、まったく異なる世界に、同時に潜り込んでいた。

一つ目、絵画。

太郎は、まずパリで、抽象芸術の世界に飛び込んだ。当時のパリは、世界の芸術の中心地だった。ピカソ、ブラック、マティス、デュシャン。後に20世紀美術を定義することになる、巨匠たちが、現役で活動していた。太郎は、その中に入っていった。

特に大きな出会いは、ピカソだった。1932年夏、太郎はパリのラ・ボエシー街21番地にあるポール・ローザンベール画廊で、ピカソの作品《水差しと果物鉢》(1931年)を見て、衝撃を受けた。「これは、絵画の革命だ。これに、自分も、参加しなければならない」。そして、1933年、太郎は、抽象芸術運動「アプストラクション・クレアシオン」に参加する。当時、最も先鋭的だった、抽象芸術のグループである。日本人としては、彼が、ほぼ唯一の参加者だった。

しかし、太郎は、抽象芸術に留まらなかった。1937年、彼は同協会を脱退する。

二つ目、シュルレアリスム。

抽象芸術の純粋さに、太郎は満足しなかった。「形だけ、色だけの抽象は、人間の魂を、表現しきれない」。そう感じた彼は、別の世界へ向かった。

それが、シュルレアリスム(超現実主義)、である。

シュルレアリスムは、無意識、夢、幻覚、狂気、性、暴力、死。そういった、人間の「裏側」を、芸術の対象にする運動だった。中心人物は、アンドレ・ブルトン、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリ、マルセル・デュシャン。太郎は、彼らと深く交流した。1936年、太郎の油彩《傷ましき腕》が、サロン・デ・シュル・アンデパンダン展で発表され、アンドレ・ブルトンに認められた。後に、アンドレ・ブルトンとポール・エリュアールの共編『シュル・レアリスム簡易辞典』(1938年)にも掲載される。1938年1月、彼は「国際シュルレアリスム・パリ展」に、この《傷ましき腕》を出品した。日本人として、シュルレアリスムの中心圏に、極めて近い位置に立っていた。

そして、もう一人、決定的な人物との出会いが、訪れる。

1936年1月、マックス・エルンストに誘われて、太郎は、ある政治集会に、足を運んだ。「コントル・アタック」と呼ばれる、反ファシズム・反スターリン主義の政治グループ。グラン・ゾーギュスタン街にある、屋根裏部屋。そこで、一人の男が、演説していた。

ジョルジュ・バタイユ(1897-1962)、である。

バタイユは、シュルレアリストの一人だったが、ブルトン派の本流からは離脱して、独自の哲学・文学・人類学を展開していた、もっと過激な思想家だった。後年「呪われた部分」「エロティシズム」「内的体験」など、20世紀フランス思想の、最も重要な著作を遺した。

太郎は、バタイユの演説に、深く感銘を受けた。彼は、こう考えていた。「人間の本質は、合理性ではない。エロスと、死と、過剰と、聖なるものへの、衝動である。現代社会は、それを抑圧している。だから、人間は生きていない。芸術と宗教と犠牲(サクリファイス)は、人間が、自分の本質に触れるための、回路である」。

太郎は、これに強く影響された。そして、バタイユは、ただ、こうした思想を書物の中で論じていただけではなかった。彼は、本気で、それを実践しようとしていた。その「実践の場」が、ある秘密結社だった。

「アセファル(Acéphale)」、と呼ばれる。

フランス語で、「無頭(むとう)」、つまり「頭のない人」を意味する。1936年6月、雑誌『アセファル』第1号が刊行され、その名のもとに、バタイユは秘密結社を結成した。シンボルは、首のない人間。頭(=合理、理性、社会、権力)を切り落とした、無頭の人間。両手に短刀と、燃えさかる心臓を握り、腹からは腸を露出している。この奇怪な図像は、画家アンドレ・マッソンが描いた。レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」(=西洋古典理性の象徴)を、転倒させたものだった。

バタイユは、こう考えていた。「キリスト教は、すでに、力を失った。共産主義も、ファシズムも、人間を、本当の意味で、救えない。我々には、新しい神話、新しい宗教、新しい秘儀が、必要だ」。そして、彼は、本気で、新しい宗教を、立ち上げようとした。

1938年7月、岡本太郎、27歳。彼は、バタイユからの推薦により、このアセファルに、加わることになる。日本人として、唯一の、メンバーとして。

これは、誇張ではない。岡本太郎美術館の公式年表に、明確にこう書かれている。「1938(昭和13年)27歳 7月/バタイユからの推薦により、秘密結社『アセファル(無頭人)』に参加する」。

アセファルは、ただの読書会ではなかった。彼らは、本気で、儀礼を実践した。場所は、パリ郊外、サンジェルマン=アン=レー近郊の森。そこに、雷に打たれて、引き裂かれた、一本の巨大な、樫の木があった。落雷で、上部を奪われた、無頭の木。アセファルにとって、それは、聖なる木だった。

メンバーたちは、月のない夜、その木の下に集まった。沈黙の中で、何かを行った。何を行ったのか、その正確な記録は、ほとんど残されていない。メンバーは、秘密の保持を誓っていた。

しかし、近年、書簡や、回状、内部記録が、徐々に公開されつつある。そこから、わかってきたのは、こうだ。彼らは、ニーチェの思想に深く影響を受けていた。「神は死んだ」。しかし、神を失った人類は、その代わりに、何を信じるのか。バタイユの答えは、「悲劇」だった。人間は、死を見据えて、生きるべきだ。そして、共同体の中で、聖なるものを、再び体験するべきだ。

そして、その「聖なるもの」を、本気で現代に蘇らせるために、彼らは、ある計画を立てていた。

人身供犠(じんしんくぎ)、である。

メンバーの誰かを、儀礼の中で、殺す。それによって、共同体に、聖性をもたらす。これは、決して、単なる象徴ではなかった。

バタイユ研究者・酒井健(法政大学名誉教授)らによれば、バタイユ自身が、その生贄となることを、志願したという。しかし、執刀を志願する者が、いなかった。殺人の罪に問われることを、誰もが恐れたからである。だから、人身供犠は、実現しなかった。(なお、他の非致死的な儀礼が行われた可能性については、学界でも判断が分かれている)

岡本太郎は、その秘密結社の、メンバーだった。サンジェルマンの森の、雷に打たれた樹の下に、岡本太郎は、立った。月の出ない夜、無頭の儀礼に参加した。

これが、岡本太郎の、本当のパリ時代である。

戦後、太郎が描いた、二つの絵画がある。「夜」と、「電撃」。前者は、暗闇の中、巨大な、無頭の人物が、立っている。背景は、混沌とした、森の闇。後者は、落雷の瞬間を、抽象的に表現した、激しい作品。岡本太郎記念館の公式説明によれば、両者ともに、サンジェルマンの森でのアセファルの秘儀体験が、モチーフになっている、と言われている。

つまり、岡本太郎の戦後の作品は、パリ時代のアセファルの、秘儀体験を、出発点としている。

これが、岡本太郎が、ただの「変な芸術家」ではなかった証拠である。彼は、20世紀パリの、最も過激で、最も呪術的で、最も危険な秘密結社のひとつの、メンバーだった。

なお、太郎自身は、後年の著作で「思想の相違によりアセファルを脱退した」と書き残している。しかし、バタイユとの友情は、生涯続いた。1953年、太郎が戦後初めてパリで個展を開いた時、ヴェルニサージュ(オープニング)に、バタイユも、駆けつけてきた、と公式年表に記されている。

そして、もう一人、決定的な人物が、現れる。

三つ目、民族学。

それが、マルセル・モース、である。

モース(1872-1950)は、フランスの社会学者・民族学者で、近代社会学の創始者の一人であるエミール・デュルケムの甥である。「贈与論」「呪術論」「祈祷論」「身体技法論」など、数多くの古典的著作を遺した、20世紀人類学の巨人である。

太郎は、1938年、シャイヨー宮内に新たに開館した「ミュゼ・ド・ロム」(人類博物館)を訪れて、衝撃を受けた。シャイヨー宮は、前年1937年のパリ万博のために建てられた建物である。世界中の民族の、神像、仮面、儀礼の道具が、収蔵されている博物館。「これだ。これが、本物の芸術だ。これが、本物の生命の表現だ」。同年、太郎は、パリ大学(ソルボンヌ)で、それまで学んでいた哲学から、民族学科に、専攻を変更した。そして、マルセル・モースに師事することになる。

同じ時期、モースの周りには、別の若者たちも集まっていた。クロード・レヴィ=ストロース(後の構造人類学の中心人物)。ミシェル・レリス(作家・人類学者)。彼らとともに、岡本太郎もまた、20世紀人類学の、最も重要な潮流の中に、入っていた。

モースは、何を教えていたのか。「未開社会の人々は、原始的でも、未開でもない。彼らは、現代の我々が忘れた、もう一つの世界、つまり『四次元との対話』を、日常的に行っている。呪術と、芸術と、宗教は、本来、分離していなかった。古代の人々にとって、それらは、すべて、一つだった。現代社会は、それを引き裂いた。芸術を、美術館に閉じ込め、呪術を迷信として笑い、宗教を制度に閉じ込めた。しかし、それらは、本来、人間の生命そのものの、表現だった」。

これが、太郎の中で、爆発した。

「これだ」

太郎は思った。「これが、自分が、ずっと、探していたものだ」。抽象芸術も、シュルレアリスムも、太郎が本当に求めていたものへの、入口でしかなかった。

そして、バタイユのアセファルが、それを「実践」する場だったとすれば、マルセル・モースは、それを「理論」として、整理してくれる存在だった。太郎は、二つを、両輪として、自分の中に取り込んでいった。アセファルで、雷の木の下で、秘儀を体験する。ソルボンヌで、モースから、それを人類学の言葉で、理解する。

彼が、本当に求めていたのは、「呪術」だった。人間が、世界の不可視の力と繋がる、その瞬間。縄文人が、土器を作る時に感じていた、その同じ、不可視の力。それを、20世紀の芸術として再現すること。それが、太郎の、人生の目的になった。

彼は、ソルボンヌの民族学科に、本格的に入学した。一時は、絵筆を置き、民族学者として、博士号を取ることまで、考えていた、と後に語っている。

普通の画家ではない。普通の芸術家でもない。岡本太郎は、画家であり、民族学者であり、哲学者であり、秘密結社の一員であり、そして、現代に呪術を取り戻そうとする者、だった。

四つ目、政治と、戦争。

そして、太郎のパリ時代の最後に、戦争が来る。

1939年2月18日、母・岡本かの子が、日本で亡くなる(享年49)。太郎は、海を越えた電報で、母の死を知った。葬儀には、出られなかった。同年9月、第二次世界大戦勃発。

1940年6月、ナチス・ドイツが、パリを占領。太郎は、マルセイユから出る最後の引き揚げ船・白山丸で、帰路についた。

太郎は、パリ時代の作品を、自分とともに、日本へ持ち帰った。しかし、歴史は、まだ、彼を待っていた。

1945年5月、東京への空襲によって、太郎が持ち帰ったパリ時代の作品は、すべて焼失した。青山高樹町の、太郎の自宅とともに、である。アメリカ軍B29の焼夷弾によって、太郎が、命を懸けて作った作品の、すべてが、失われた。

これが、岡本太郎の、最初の「死」、である。

普通の人間なら、絶望する。しかし、太郎は、絶望しなかった。彼は、こう考えた。「これで、いい。過去の自分は、死んだ。ゼロから、もう一度、始めればいい」。

それは、彼がアセファルで学んだことでもあった。「死を見据えて、生きよ」「無頭になれ」「過去の自分を、殺し続けて、生まれ変わり続けよ」。

そして、彼は、戦後の焼け野原の日本で、まったく新しい岡本太郎として、再起する。ここから、彼の「縄文の発見」が、始まる。しかし、その話は、第3章で。

このパリ時代を、まとめておく。

岡本太郎は、パリで、4つの世界に潜り込んだ。抽象芸術。シュルレアリスム。民族学。そして、最後に、戦争。そして、その中心に、二つの絶対的な核が、あった。マルセル・モースの「呪術論」と、ジョルジュ・バタイユの「秘密結社アセファル」。つまり、「人間が、不可視の力と繋がる回路」の、理論と、実践。

これが、岡本太郎の、生涯の、テーマになる。

太郎にとって、芸術は、呪術だった。それは、ただのキャッチフレーズではない。それは、彼が、パリ大学のソルボンヌでマルセル・モースから学び、そして、サンジェルマンの森でアセファルの仲間たちと、自らの身体で体験した、人類学と神秘思想の、真理である。

そして、彼は、その真理を、芸術として、世に放つことを、決めた。戦後の焼け野原の日本に戻った彼が、最初に出会ったもの。それが、東京国立博物館のガラスケースの中に置かれていた、一つの土器、だった。

縄文土器、である。

その土器を見た瞬間、太郎は、叫んだ。

「なんだこれは!」

そして、その叫びの下で、何かが、すでに、爆発していた。

その瞬間、岡本太郎の、本当の人生が、始まった。

第3章「縄文土器との衝撃 — これは爆発している、これは呪術である」

1951年(昭和26年)11月7日水曜日、東京国立博物館。40歳の岡本太郎は、館内を歩いていた。

戦後の混乱が、ようやく落ち着き始めた頃。日本人は、まだ、敗戦の傷を、引きずっていた。「日本の伝統」と呼ばれるものに、誇りを持てる時代ではなかった。アメリカに敗北した、後進国。それが、当時の日本人の、自己認識だった。

そして、当時の「日本美術」と言えば、何だったか。弥生時代の銅鐸。法隆寺の仏像。雪舟の水墨画。能、茶道、和歌。つまり、「弥生文化以降」の、洗練された、静謐な、調和の美。それが、「日本の伝統美」だった。

縄文時代の遺物は、ただの考古学の資料として、扱われていた。「縄文 = 未開、原始、野蛮」。それが、当時の常識だった。

しかし、その日、東京国立博物館では、ある特別展が、開催されていた。「日本古代文化展」。縄文から古墳時代までの、日本古代の文化財を、集めた、企画展。連日、多数の観覧者が押し寄せ、当初10月10日から11月10日までの予定だった会期は、急遽11月25日まで延長されていた。

太郎は、その展示場に、足を踏み入れた。

そして、彼は、それを見た。

考古学の遺物として、淡々と陳列されていた、縄文中期の深鉢型土器。後の研究によれば、長野県伊那郡の宮ノ前遺跡や、富山県氷見市の朝日貝塚から出土した、5000年前の、力に満ちた土器だったとされる。器の表面に、激しくうねる文様。荒々しく、不協和な、過剰な造形。

その前で、太郎は、立ち止まった。

そして、彼は、叫んだ。

「なんだ、コレは!」

館内に、彼の声が、響いた。周囲の客が、振り返った。しかし、太郎は、止まらなかった。

彼は、土器を、凝視した。

普通の人間が、この縄文土器を見ても、こう思うだろう。「不気味だな」「装飾過剰だな」「意味がわからない」。しかし、太郎には、見えた。5000年前の縄文人が、土器に込めた、その「祈り」が。その「呪術」が。その「四次元との対話」が。

縄文人は、なぜ、こんな複雑な、過剰な、燃え盛るような土器を、作ったのか。

それは、実用のためではない。水を運ぶだけなら、もっとシンプルな土器でいい。しかし、彼らは、わざわざ、何時間もかけて、こんな複雑な紋様を、土器に刻んだ。

なぜ、か。

それは、土器が、「ただの容器」ではなかったからである。土器は、祈りの道具だった。土器は、儀礼の道具だった。土器は、四次元との対話の、回路だった。

縄文人は、狩猟採集の民だった。今日、獲物が獲れるか、獲れないか、毎日、不確実な生活を送っていた。彼らの世界は、不可視の力に満ちていた。山に、川に、木に、岩に、それぞれ、霊が宿っていた。それらの霊が、機嫌を損ねれば、獲物は獲れない。獲れたとしても、それが、感謝の祈りを伴わなければ、次の獲物は、与えられない。

すべては、不可視の力との、交渉だった。

その交渉の道具として、土器は作られた。土器の、複雑な紋様。それは、装飾ではない。それは、不可視の力に、呼びかけるための、呪文である。文字で書かれた呪文と、同じ機能を、土器の紋様は、持っていた。縄文人にとって、土器を作ることは、呪術を行うことと、同じだった。そして、その呪術が、見事に成功した時、彼らは、爆発するような、力に満ちた、作品を生み出した。

それは、本人たちにとって、「芸術」ではなかった。「芸術」という概念は、近代になってから、生まれたものである。縄文人には、芸術と呪術と宗教の、区別はなかった。すべてが、一つだった。

太郎は、それを見抜いた。

「この土器は、芸術だ。しかし、ただの芸術ではない。これは、呪術が芸術として、結晶化したものだ」

そして、太郎は、興奮を抑えきれなかった。

「これこそ、日本の、本当の伝統だ。弥生以降の、洗練された美ではない。縄文の、激しく、強靭で、四次元と繋がった、生命の美こそ、日本の根源だ」

その日、太郎は、館内で1時間ほど過ごした後、銀座のレストランで予定されていた座談会へと向かったという。しかし、彼の頭の中は、もはや、縄文のことしか、なかった。座談会の席で、彼は唐突に、「きょう実は縄文式の土器を見たんです」と切り出し、参加者たちに、その衝撃を語り始めている。

そして、太郎は、その日の体験から、しばらく動けなかった。会期延長後の閉幕前日、11月24日、彼は、もう一度、この展示を訪れている。最後にもう一度、縄文土器と、対面するために。

そして、年が明けた翌1952年2月。彼は、ある論文を、発表する。美術雑誌「みづゑ」(美術出版社)、1952年2月号。タイトルは、「四次元との対話 — 縄文土器論」。

この論文で、太郎は、日本美術史を、ひっくり返した。

「縄文こそ、日本の起点である」「縄文土器は、世界中のプリミティブアートの中でも、最も激しく、最も呪術的で、最も四次元と繋がった作品である」「現代の日本美術は、縄文を、取り戻さなければならない」。

これは、当時の学界に、激震を走らせた。考古学者は、「縄文は、未開な、土俗的な遺物である」と思っていた。それを、岡本太郎という、芸術家が、「縄文は、世界最高峰の芸術である」と論じた。

そして、論文に、決定的な一文があった。

「縄文土器の紋様は、強烈に宗教的、呪術的意味を帯びて居り、云いかえれば四次元を指向しているのである」。

「四次元」。これは、ただの比喩ではない。太郎は、本気で、こう考えていた。

ここで、現代の読者のために、整理しておきたいことがある。

「次元」については、現代の物理学では、こう考えられている。私たちが日常的に生きるこの世界は、空間の三次元(縦・横・高さ)に、時間の一次元を加えた、四次元時空である。これは、アインシュタインの相対性理論で、確立した。そして、その「四次元時空」のさらに先に、もう一つ以上の次元が存在する、という理論物理学の概念がある。

1921年、ドイツの数学者テオドール・カルツァが提唱し、1926年にスウェーデンの物理学者オスカル・クラインが補完した「カルツァ=クライン理論」。重力と電磁気力を、5次元時空において統一的に説明しようとした。後に、超弦理論は10次元時空を、M理論は11次元時空を要請するようになる。これらは、ただの数学的な遊びではなく、現代物理学の、最先端の議論である。

つまり、現代物理学において、「私たちの世界の、その先」を指す概念として、5次元・10次元・11次元といった、高次元の議論が、確かに存在する。そして、現代のスピリチュアル思想においても、「私たちの世界(4次元)の、その先」を「5次元」と呼ぶことが多い。これは、物理学とは別系統の議論だが、共通の方向性を持っている。

ところが、岡本太郎が1952年に「四次元」と書いた時、彼はこのどちらの意味でも、なかった。

1952年の日本では、相対性理論はまだ一般的な知識ではなく、「四次元」という言葉は、文学者や思想家が、「目に見えない、神秘的な、もう一つの世界」を指すために、自由に使う、詩的な用語だった。岡本太郎も、その流れの中で、「四次元」を、「不可視の霊的な世界」を指す言葉として、選んだ。

現代の物理学的な厳密さで言えば、岡本太郎の「四次元」は、私たちの世界の「その先」を指す概念であり、現代物理学の高次元理論や、現代スピリチュアル思想の「5次元以上」の方向性と、共鳴している。古代の呪術師も、現代の物理学者も、現代のスピリチュアル思想も、岡本太郎も、皆、同じ場所、つまり「私たちの世界の、その先」を見ようとしてきた。岡本太郎は、それを、1952年の日本で、芸術として実行しようとした。

ただし、太郎本人の言葉を尊重して、この記事では引き続き「四次元」と表記する。

太郎が指していた「四次元」、つまり、私たちの世界を超えた、不可視の、もう一つの世界。それは、霊の世界。神々の世界。死後の世界。生と死を貫く、もう一つの現実。

縄文人は、「四次元」と、日常的に対話していた。そして、その対話の証拠が、土器の、激しい紋様として、残されている。しかし、現代の我々は、「四次元」との対話を失った。科学が発達し、合理主義が広まり、人間は、目に見えるものしか、信じなくなった。そして、人間は、生きる力を、失っていった。

太郎は、こう書いた。「現代の芸術が、力を失っているのは、四次元との対話を、失ったからだ。我々が、もう一度、芸術に、生命を取り戻すには、縄文人がやっていた、四次元との対話を、再開しなければならない」。

これが、岡本太郎の、芸術論の根本である。「芸術は、呪術である」。このフレーズが、ここで、生まれた。

そして、興味深いことに、太郎は、この縄文土器論の中に、突然、ある単語を入れた。

「原子爆弾」。

彼は、こう書いた。

「我々には既に四次元との対話はない。しかし、宛(あたか)も彼らが超自然の世界と交渉したように、同じく不可視ではありながら極めて現実的に迫って来る切実な問題にふれている。原子爆弾が炸裂し、二つの世界の対立があり、奇怪な経済恐慌が起る」。

「これらの問題を、芸術と無関係なものと、切り離して考えるところに、今日の芸術の不幸がある」。

これは、何を意味するか。

太郎は、縄文人が「不可視の霊的な力」と対話していたのと同じように、現代人も「不可視の核エネルギー」と対話しなければならない、と考えていた。

縄文の呪術と、原爆。これを、同じ「四次元の力」として、見ている。

縄文の祈りも、原爆の爆発も、共に、「不可視」「強烈」「生死を分ける」、人間の運命を左右する、何か、である。そして、両者は、深く、繋がっている。縄文の呪術が、自然と、神々と、対話する芸術だったように、現代の芸術は、核と、原爆と、対話する芸術で、なければならない。

これが、後に、彼の代表作の一つ、「明日の神話」を、生むことになる。しかし、その話は、第7章で。

論文発表後、太郎は、自分の論を、より深めるために、実際の縄文土器を、自らのカメラで撮影し始めた。長野県の井戸尻考古館をはじめ、東京近郊の大学や博物館を、彼は何度も訪れたという。そして、新潟の信濃川流域から出土した、あの炎のような土器 — 火焔型土器とも、その後、出会うことになる。口縁部に、四つの大きな突起が、燃え盛る火焔のように、突き出した、約5000年前の、爆発する土器。太郎は、その写真を、後に「縄文土器論」の中心に、据えた。

そうして撮影された土器・土偶の写真は、1956年に『日本の伝統』(光文社)として、書籍にまとめられた。

ここで、もう一度、強調しておく。

岡本太郎は、縄文土器を見て、ただ「カッコいい」と思ったのではない。彼は、縄文土器の中に、人類の根源的な、呪術の力を、見た。そして、「現代の芸術も、その力を、取り戻さなければならない」と決意した。

これが、後年の彼の作品、すべての出発点である。太陽の塔。明日の神話。母の塔。無数の絵画。すべて、「四次元との対話」を、現代に取り戻す試みである。

そして、岡本太郎自身が、現代の縄文の、呪術師として生きることを、決めた。

その時、彼は、すでに、芸術家ではなかった。彼は、20世紀の日本に、忘れられた呪術を、取り戻すために、降臨した、現代のシャーマンだった。

そして、彼の本当の戦いが、始まる。

第4章「四次元との対話 — 縄文呪術と原爆を、同じ目で見た男」

岡本太郎が、1952年の縄文土器論で書いた、ある一文がある。「土器の紋様は、強烈に宗教的、呪術的意味を帯びて居り、云いかえれば四次元を指向しているのである」。この「四次元」という言葉が、岡本太郎のすべての作品を貫く、キーワードである。

太郎が指していた「四次元」、つまり、不可視の、霊的な世界。これは、太郎のオリジナルの概念ではない。世界中の古代宗教、シャーマニズム、神秘思想に、共通する概念である。仏教では「彼岸」と呼ぶ。神道では「常世」と呼ぶ。チベット密教では「中陰」と呼ぶ。キリスト教神秘主義では「神の国」と呼ぶ。ユダヤ教カバラでは「セフィロト(生命の樹)」と呼ぶ。呼び方は違うが、すべて同じ。不可視の、霊的な、もう一つの世界、である。

縄文人は、この「四次元」と、日常的に対話していた。土器を作る時、彼らは、土と火と自分の手と、そして「四次元」の力を、結合させた。土器に刻まれた、複雑な紋様。それは、「四次元」の力を、土器に宿らせるための呪文だった。そして、その土器が完成した時、土器は、ただの容器ではなく、「四次元」と繋がった、聖なる道具になった。

これが、縄文の呪術である。

そして、岡本太郎は、こう考えた。「現代人は、四次元との対話を失った。だから、現代芸術は、力を失った。現代芸術は、ただの装飾になり、ただのデザインになり、ただの自己満足になった。魂が、ない。生命が、ない」。

太郎は、それを激しく批判した。そして、彼自身は、「四次元との対話」を、自分の芸術の中で、再開する、と決意した。

しかし、ここで太郎の凄さが現れる。彼は、ただ「縄文に戻ろう」と言ったのではない。彼は、こう考えた。「縄文人は、自然の不可視の力と対話していた。では、現代人は、何と対話すべきか」。

その答えが、原爆だった。

ここから、太郎の最も独創的な思想が、展開される。

太郎は、こう書いた。「現代人は、もう、四次元との対話をしない。しかし、現代人にも、不可視でありながら極めて現実的に迫って来る、切実な問題がある。原子爆弾が炸裂し、二つの世界の対立があり、奇怪な経済恐慌が起こる」。

太郎が、ここで何を言っているか。原爆は、「不可視」の力である。人間の目には見えない、放射線。しかし、それは、人間の生死を決定する。広島と長崎で、何十万人もの人々の生命を、一瞬で奪った力。それは、神秘ではない。物理学である。科学である。しかし、その効果は、神々の怒りと、同じである。

「神は、雷で、人を打ち殺す」と、古代人は信じていた。そして、現代人は、原爆で人を、何十万人も、打ち殺した。同じ、ことではないか。縄文人が雷を恐れて、神に祈ったように。現代人も、原爆を恐れて、何かに祈らなければならない。しかし、現代人は、祈ることを忘れた。だから、芸術が、それを引き受けなければならない。

これが、太郎の思想である。

ここで、彼の二つの代表作が、生まれる。

「太陽の塔」と「明日の神話」、である。

太陽の塔は、1970年の大阪万博のシンボル。明日の神話は、同じ時期にメキシコで描いた、巨大壁画。両者は対をなす、と太郎自身が語っている。

ここで、大阪万博そのものの背景を、整理しておく。

1970年の日本万国博覧会(EXPO’70、大阪万博)は、戦後日本の復興と経済成長を、世界にアピールする、国家プロジェクトだった。会場は大阪府吹田市の千里丘陵。テーマは「人類の進歩と調和」。約183日間の会期中、約6400万人が訪れ、当時の万博史上最高記録となった。

しかし、岡本太郎は、このテーマ「人類の進歩と調和」に、強く反発していた。テーマ館の展示プロデューサーとして就任が決まった時点で、彼は「人類は、進歩なんかしていない」と公言していた。「進歩主義こそが、原爆を生んだ。進歩主義こそが、人間を、生きていない人間に、変えた」。

そして、太郎は、こう考えた。「この近代主義の祭典の真ん中に、近代主義をぶち壊す、縄文の神像を、ぶち立ててやる」。

それが、太陽の塔だった。

高さ約70メートル。基底部の直径約20メートル。腕の長さ片側約25メートル。鉄骨、鉄筋コンクリート造。1967年9月9日、太郎が現在の形のラフスケッチを描いた。両腕を広げて、大屋根を貫いて、空にそびえ立つ、巨大な神像。

その正面に、現在を象徴する「太陽の顔」(直径約12メートル)。背面に、過去を象徴する「黒い太陽」(直径約8メートル、信楽焼の黒色陶板)。頂部に、未来を象徴する「黄金の顔」(直径約10.6メートル、目の直径2メートル)。三つの顔が、過去・現在・未来を、貫いている。

そして、塔の地下には、第4の顔があった。「地底の太陽」。高さ約3メートル、全長約11メートルの、巨大な黄金の仮面。これが、人間の精神世界、または祈りや心の源を、表現していた。

万博当時、来場者は、塔の地下から、入場した。地下展示は、「いのち」「ひと」「いのり」の3つの空間で、構成されていた。テーマは「過去・根源の世界 — 生命の神秘」。そこで、来場者は、生命の誕生から、人類の精神世界の、根源まで、辿った。

その「いのり」の空間こそ、岡本太郎が、最も力を入れた場所、である。

太郎は、世界中から、神像と仮面を、集めた。当時の若手の文化人類学者たちに依頼して、世界各地の宗教的造形物を、調達させた。アフリカの仮面、オセアニアの神像、アメリカ先住民の祭祀道具、アジアの仏像、日本の土偶。何百という、人類の祈りの結晶が、地下空間に並べられた。

そして、その中心に、地底の太陽が、置かれた。

これは、何か。

これは、現代日本の真ん中に作られた、シャーマニズムの祭祀空間、である。世界中の人類が、太古から行ってきた、不可視の力との対話。その記憶を、岡本太郎は、大阪万博の中心に、再現した。

万博のテーマ「人類の進歩と調和」を、地下から、根本から、ひっくり返した。「人類は、進歩していない。人類の根源は、いつの時代も、ここにある。祈りの中に。呪術の中に。不可視との対話の中に」。

それが、太郎の、メッセージだった。

そして、地下「いのり」の空間を抜けた来場者は、太陽の塔の、真っ赤な胎内に入る。

塔の内部には、高さ約41メートルの「生命の樹」がそびえている。一本の樹に、原生生物から、人類まで、約40億年にわたる生物の進化の過程を辿る、33種類の生き物が貼り付いている(万博当時の生物模型は292体、現在は183体)。

来場者は、塔の底から、エスカレーターで、上昇していく。アメーバから、三葉虫、魚類、両生類、爬虫類、恐竜、哺乳類、そして、人類へ。生命の進化を、自分の身体で、追体験していく。そして、塔の頂部、大屋根の空中展示空間に、辿り着く。テーマは「未来・進歩の世界」。

これは、シャーマニズムの「死と再生のイニシエーション(通過儀礼)」と、まったく同じ構造である。

世界の宗教学者ミルチャ・エリアーデ(1907-1986)は、世界中のシャーマニズムを、研究して、こう結論づけた。「シャーマンは、象徴的に死に、地下の世界に降り、そこで超自然的存在と出会い、再生して、地上に戻る。これが、世界中のシャーマニズム儀礼の、根本構造である」。

そして、岡本太郎は、エリアーデを、深く読み込んでいた。Wikipediaにも明記されているように、太陽の塔の基本構想の思想的背景として、岡本が愛読した世界的宗教学者ミルチャ・エリアーデの著書の存在が指摘されている。

つまり、大阪万博の来場者は、知らないうちに、シャーマニズムの儀礼を、追体験させられていた、ということになる。

地下の「いのり」で、世界中の神々と、仮面と、地底の太陽と、出会う。それは、シャーマニズムにおける「死と、地下の世界への降下」である。塔の内部で、生命の樹を、登っていく。それは、シャーマニズムにおける「再生」である。塔の頂部で、未来の空間に、辿り着く。それは、シャーマニズムにおける「新しい人間として、地上に戻ること」である。

岡本太郎は、ただの記念碑として、太陽の塔を、作ったのではない。彼は、それを、現代日本の、巨大な、呪術装置として、作った。そして、それは、機能した。万博を訪れた約6400万人の日本人は、知らないうちに、シャーマニズムの「死と再生」の儀礼を、体験することになった。

これが、岡本太郎の、最大の、呪術である。

そして、もう一つの作品、「明日の神話」。

縦5.5メートル、横30メートルの、巨大壁画。1968年から1969年にかけて、メキシコシティで制作された。完成当時の副題は「広島と長崎」、と付けられていた。そう、これは、原爆をテーマにした作品、である。

中央に、原爆の炸裂の瞬間が描かれている。その瞬間、肉が消し飛び、骨だけが残った、人間の骸骨。骸骨は、燃え盛りながら、口を大きく開けて、笑っている。これは、悲鳴ではない。「人間の誇りとしての怒りを爆発させている姿」(岡本敏子)、である。

骸骨の周りに、亡者の行列、増殖するきのこ雲。画面の右側には、1954年にビキニ環礁の水爆実験で被曝した日本のマグロ漁船・第五福竜丸が、何も知らずに死の灰を浴びながらマグロを引き上げている。画面の左側には、その悲劇を乗り越え、平安の中で憩い合う人々が描かれている。

素材は、アスベスト製の板に、一部コンクリートを盛り付け、アクリル系塗料で描かれている。重さ約14トン。

これは、ただの反核アートではない。これは、現代の呪術である。原爆という、不可視の、現代の力を、絵画として可視化し、そのエネルギーを、人間が引き受け、誇らかに乗り越える、その瞬間を描いている。

縄文人が、雷を、土器の紋様として可視化したように。岡本太郎は、原爆を、絵画として可視化した。そして、その絵を見た人々は、知らないうちに、原爆という不可視の力と、対話することになる。

これも、現代の呪術である。

そして、太陽の塔と、明日の神話。両者は、対をなしている。

太陽の塔 = 縦の構造。地下から、地上、空中へ。死から、再生へ。

明日の神話 = 横の構造。右に、原爆の悲劇と第五福竜丸。中央に、燃え盛る骸骨。左に、誇り高く乗り越える人類。

両者ともに、「人類の悲劇を、人類が、誇らかに、乗り越える」という、同じテーマを、扱っている。そして、両者ともに、岡本太郎が、現代の呪術師として、20世紀の不可視の力(原爆、シャーマニズム、四次元)と、対話するために、作った装置である。

ここで、もう一つ書いておきたいことがある。岡本太郎の、もう一つの代表作、「母の塔」(神奈川県川崎市・生田緑地)。これも、同じ系譜の作品である。母・かの子への、祈りの結晶であり、同時に、人類の根源的な母性、宇宙の母性、への、入口でもある。(母の塔については、第10章で詳しく書く)

ここで、章をまとめる。

岡本太郎にとって、芸術とは何だったか。それは「四次元との対話」、だった。物理学的な四次元ではなく、その先にある、不可視の世界との対話。縄文人が、自然と神々と対話していたように、岡本太郎は、20世紀の不可視の力と対話することを、芸術として行った。

太陽の塔は、地下の「いのり」と地上の「生命の樹」を貫く、巨大な、現代の祭祀空間。明日の神話は、原爆という不可視の現代の力を可視化した、現代の呪術絵画。母の塔は、亡き母を通じて、宇宙の母性へ繋がる、巨大な祈りの塔。すべて、不可視の世界との対話、である。

そして、これらの作品の前に立った人は、皆、何かを感じる。「ただの芸術ではない」と感じる。「何か、不思議な力が、放たれている」と感じる。それは、気のせいではない。それは、本当に、放たれている。岡本太郎が、作品に込めた、不可視の力。それが、現代も、生田緑地の母の塔から、大阪万博公園の太陽の塔から、渋谷駅の明日の神話から、放たれ続けている。

そして、それを感じた人は、岡本太郎に呼ばれる。

「お前も、こちら側に、来い」

「不可視の世界との対話を、お前も、始めよう」

そう、岡本太郎は、現代の日本人に、呼びかけている。呼ばれた人だけが、その声に気づく。

第5章「太陽の塔は神像である — カバラの生命の樹とエリアーデの胎内くぐり」

1970年、大阪万博。会場の中心に、高さ70メートルの、奇妙な塔が立っていた。

太陽の塔である。

頂部に「黄金の顔(未来)」。正面に「太陽の顔(現在)」。背面に「黒い太陽(過去)」。三つの顔を持つ、白い、巨大な塔。来場者は、その姿を見て、戸惑った。「進歩と調和」というテーマの万博なのに、なぜ、これほど原始的な、神像のような、奇怪なものが、中心にあるのか。しかし、ここに、岡本太郎の、本当の意図があった。

太陽の塔は、彫刻ではない。太陽の塔は、モニュメントでもない。

太陽の塔は、神像である。

そして、これは比喩ではない。岡本太郎研究の第一人者である石井匠氏(岡本太郎記念館客員研究員)は、こう解説している。「太陽の塔は、ある意味で生き物のような、人工生命のようなものとして作られている」。塔の内部にある「生命の樹」を、太郎は「血流」「血管であり神経系であり」「太陽の塔の動脈だ」と表現した。つまり、太陽の塔は、生き物として、設計されている。そして、現代日本に降臨した、巨大な神像として、岡本太郎は、これをぶち立てた。

ちなみに、太陽の塔の最初の構想段階では、その正式名称は、まだ「太陽の塔」ではなかった。1967年10月22日付『読売新聞』に掲載された記者会見では、岡本太郎は、これを「(仮称)生命の樹」として、発表している。つまり、岡本太郎が最初に頭に思い描いた名前は、塔そのものではなく、内部にある巨大な構造物の方、だった。塔と、生命の樹は、岡本太郎にとって、不可分の、一体のものだった。

ここで、太陽の塔の設計の背後にある、二つの決定的な思想を、紹介する。

一つ目は、ユダヤ教神秘主義「カバラ」の、生命の樹である。

太陽の塔の内部には、高さ約41メートルの巨大な構造物がある。岡本太郎は、これを「生命の樹」と名付けた。原始生物から人類まで、生物進化の過程を表現した、垂直に伸びる構造物。当時の生物模型は292体、現在(2018年復元後)は183体。

ここで、興味深い事実がある。生物学において、こうした生物進化を樹状に表現したものは、通常「系統樹」「進化の樹」と呼ばれる。ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケル(1834-1919)が、こうした樹状の図像を、生物学において広く知らしめた。岡本太郎旧蔵書の八杉龍一著『生物学』(1956年版)にも、「系統樹」として、紹介されている。これを「生命の樹」と呼ぶことは、生物学では、極めて、異例である。

岡本太郎は、なぜ「生命の樹」という独自の名前を、付けたのか。

答えは、彼の旧蔵書の中にある。岡本太郎旧蔵とされる、クルト・セリグマン著『魔法の歴史』という本があった。この本には、ユダヤ教神秘主義「カバラ」が、詳細に解説されている。そして、カバラの中心的な図像こそが、「生命の樹(セフィロト)」、なのである。これは、Wikipedia「太陽の塔」の記事にも、明記されている事実である。

カバラの「生命の樹」とは何か。それは、ユダヤ教神秘主義における、宇宙の構造図である。神(無限の光)が、この世界を創造する時、十個の「セフィラ(球)」が、段階的に流出した。それが、生命の樹の十個の球で、表現される。最上部の「ケテル(王冠)」が、神に最も近い。最下部の「マルクト(王国)」が、物質世界。その間に、八つの球が、垂直に連なる。

これは、宇宙の構造であり、同時に、人間の魂の構造でもある。人間が、神に到達するための、垂直な、霊的な、上昇の経路。それが、カバラの生命の樹である。

そして、岡本太郎は、太陽の塔の内部に、垂直に伸びる、生命進化の構造物を作り、それを「生命の樹」と命名した。

これは、偶然か。

太郎が、カバラの『魔法の歴史』を、所蔵していた、という事実。そして、生物学では異例の「生命の樹」という名前を、わざわざ選んだ、という事実。この二つを合わせると、答えは、明白である。

太陽の塔の「生命の樹」は、カバラの「セフィロト」を、現代の万博の中心に、再現したものである。

つまり、太陽の塔の内部で、来場者は、知らないうちに、ユダヤ教神秘主義の、宇宙構造図を、垂直に登っていた、ということになる。

これは、ただの彫刻では、絶対にない。

二つ目は、宗教学者ミルチャ・エリアーデの、思想である。

ミルチャ・エリアーデ(1907-1986)は、ルーマニア出身の、20世紀最大の宗教学者の一人である。世界中のシャーマニズム、神話、儀礼、聖と俗の構造を、比較宗教学の手法で研究した。彼の代表作は『シャーマニズム — 古代的エクスタシーの技法』(1951)、『聖と俗』『永遠回帰の神話』『生と再生』など、多数。

そして、岡本太郎は、エリアーデの著作を、深く愛読していた。岡本太郎の蔵書を調査した美術史学者・佐々木秀憲氏の研究によれば、フランスで出版されたエリアーデの原著が、太郎の手元に6冊あった。特に『シャーマニズム — 古代的エクスタシーの技法』(1951)は、すり切れるほど熱心に読んだ形跡があり、太郎自身の下線・書き込みが確認されている、という。

2013年、川崎市岡本太郎美術館で「岡本太郎のシャーマニズム」展が開催され、併せて開かれた学術シンポジウムで、1950年頃以降の太郎の創作活動に、エリアーデの思想が深く影響を及ぼしていたことが、学術的にも確認されている。

エリアーデが解明したのは、何か。

世界中のシャーマニズムには、共通の構造がある。それは、「死と再生のイニシエーション」、である。

未開社会の少年が、大人になる時、または、新しいシャーマンが誕生する時、必ず、一つの儀礼を経る。それは、「象徴的な死」を体験し、「再生」する、という儀礼である。

少年は、暗い洞窟に、閉じ込められる。あるいは、地下に降りる。そこで、一度、社会的・象徴的に、死ぬ。そして、暗闇の中で、神々や霊と対話し、新しい知識を、授かる。その後、地上に戻ってきて、新しい人間として、再生する。

これが、世界中のシャーマニズムに共通する、イニシエーションの構造である。仏教の修行も、これに近い。修験道の「胎内くぐり」も、これである。キリスト教の洗礼も、これである。死から、再生への、垂直な経路。

そして、岡本太郎は、エリアーデのこの思想を、太陽の塔の構造に、組み込んだ。

ここで、太陽の塔の動線を、もう一度、見てほしい。これは、岡本太郎研究者・石井匠氏が、公式に解説している経路、そのものである。

来場者は、まず、地下に降りる。地下空間「過去・根源の世界」では、「いのち」「ひと」「いのり」の3つの空間が、用意されていた。その中心、「いのり」の空間には、世界中の神像と仮面が、来場者を取り囲み、中心に「地底の太陽」という、巨大な顔が、置かれていた。死と、霊と、原始の世界。

次に、エスカレーターで、塔の内部に登る。生命の樹を、下から上へ。原始生物から、人類へ。生命進化の道筋を、辿る。

そして、塔の上部から、丹下健三が設計した大屋根に出る。空中の、未来都市の展示。「未来・進歩の世界」。

最後に、もう一度、地上に降りる。来場者は、ここで、「母の塔」(太陽の塔とは別の、胎盤形のモニュメント)を、通って、地上に戻ってくる。

ここで、混同しないでほしい点が、ある。この「母の塔」は、1970年大阪万博の中で、太陽の塔の出口側に作られた、胎盤形のモニュメントである。万博閉幕後、お祭り広場の解体に伴い、1978年に解体された。岡本太郎が、晩年に作り、現在、神奈川県川崎市・生田緑地に立っている「母の塔」(高さ30メートル、白い塔)は、これとは別の、後年の独立した作品である。母・かの子への祈りの結晶として作られた。後者については、第10章で詳しく書く。

つまり、万博当時の母の塔は、胎盤の形をしていた。来場者は、母の胎内を通って、新しく生まれ直すように、地上に、戻ってくる。

これが、何を意味するか。

来場者は、エリアーデが解明した、シャーマニズムのイニシエーションを、完璧に再現する経路を、辿らされていた。

地下(死) → 上昇(生命進化) → 空中(未来) → 母の胎内(再生) → 地上(新しい生)。

これは、修験道の胎内くぐり(現世から他界を通り抜け、死と再生を体験する修行)と、まったく同じ構造である。これは、シャーマンが、霊界へ降りて、知識を授かり、戻ってくる旅と、まったく同じ構造である。

岡本太郎研究の第一人者・石井匠氏は、こう解説している。「来場者は、神像の胎内くぐり(現世から他界を通り抜け、死と再生を体験する修験道の修行)を体験することになるので、一種のイニシエーション装置としても機能していた」。

つまり、大阪万博の来場者、約6400万人は、知らないうちに、現代の巨大なシャーマニズム儀礼を、体験していた、ということになる。

恐ろしい話だが、本当である。

岡本太郎は、これを、意図的に、設計した。彼は、エリアーデを読み、カバラを学び、世界中のシャーマニズムを研究した上で、これを、「進歩と調和」というテーマの万博の中心に、ぶち立てた。

そして、彼は、何を狙ったのか。

「現代日本人に、シャーマニズムを、取り戻す」

これが、太陽の塔の、本当の目的である。

戦後の高度成長期、日本人は、合理主義に、染まりつつあった。「進歩」「経済」「科学」が、すべて。古代の祭り、神事、呪術は、「迷信」として、忘れられつつあった。

そんな時代に、太郎は、危機感を持っていた。「このままでは、日本人は、自分たちの根源を、完全に失ってしまう」。

そこで、彼は、決断した。万博という、戦後日本最大のイベントを、巨大なシャーマニズム儀礼に、変えてしまおう。来場者は、進歩のシンボルを見に来たつもりが、実は、縄文の呪術を、体験して帰る。気づかないうちに、彼らの中の、忘れられた縄文の血が、目覚める。

これが、太郎の、企みだった。

そして、それは、機能した。

万博終了後も、太陽の塔だけは、取り壊されずに、保存することが、決まった。本来、万博のパビリオンは、すべて、終了後に取り壊されるはずだった。1975年1月23日、施設処理委員会で、太陽の塔の永久保存が、決定した。1977年から1978年にかけて、大屋根や母の塔(胎盤形のモニュメント)は解体されたが、太陽の塔だけは、撤去反対の署名運動などを受けて、残された。岡本太郎自身も、「岡本太郎に過去はない」が口癖だったが、太陽の塔の存続だけは、強く希望した。

なぜ、それほど、人々を、惹きつけたのか。

それは、人々が、無意識のうちに、太陽の塔から、何かを感じていたからである。理屈ではなく、本能的に、「これは、壊してはいけない」と、感じた。

それが、太郎の、呪術の、効果である。

そして、現在も、太陽の塔は、大阪万博公園の中心に、立っている。2018年3月19日からは、内部の一般公開も、始まった。予約制で、塔の中に入り、「いのり」の地下空間と、「生命の樹」を、登ることができる。さらに、2025年8月27日、太陽の塔は、国の重要文化財に指定された。

太郎が、設計した、シャーマニズム儀礼の経路を、現代の私たちも、辿ることができる。

ただし、注意してほしい。

太陽の塔の内部に入ると、人は、変わる。

これは、誇張ではない。実際に内部見学をした人々の感想を、ネットで検索すれば、わかる。

「言葉にできない、何かが、自分の中に入ってきた」 「泣きそうになった」 「人生観が、変わった」 「夢に、太陽の塔が、出てくるようになった」

理屈では、ない。しかし、確かに、何かが、起きている。それは、岡本太郎が、太陽の塔に込めた、シャーマニズムの力、である。

カバラの生命の樹と、エリアーデの胎内くぐり。世界中の神秘思想の、核心を、岡本太郎は、太陽の塔の中に、織り込んだ。

そして、そこに入った人は、知らないうちに、神秘思想の儀礼を、体験することになる。

これが、太陽の塔の、本当の正体である。

ただの、彫刻ではない。

巨大な、現代の、神像である。

そして、太郎が、太陽の塔と対をなす作品として、同時期に制作していた、もう一つの巨大な作品がある。

それが、「明日の神話」、である。

しかし、その話は、次の章で。

そして、太陽の塔には、もう一つ、現代まで残る、巨大な謎が、存在する。

「地底の太陽」、第4の顔の、行方である。

万博終了後、約50年間、行方不明だった、岡本太郎の、最も重要な作品の一つ。

その話を、次に書く。

第6章「地底の太陽 — 50年間、行方不明だった第4の顔とアガルタ伝説」

太陽の塔には、三つの顔がある、と一般的には知られている。頂部の「黄金の顔(未来)」、正面の「太陽の顔(現在)」、背面の「黒い太陽(過去)」。しかし、本当は、四つの顔があった。そして、その第4の顔は、約50年間、行方不明だった。これが、岡本太郎の作品をめぐる、最大の謎の一つ、である。

第4の顔の名前は、「地底の太陽」、という。サイズは、高さ約3メートル、全長約11メートル。巨大な顔である。配置されていたのは、太陽の塔の地下空間「いのり」、その中心。

「いのり」とは、何か。前章でも触れたが、太陽の塔の地下には、特別な空間があった。岡本太郎の指示で、世界中から集められた、神像、仮面、民族資料、宗教的な道具が、無数に、並べられていた。エスカレーターで地下に降りた来場者は、まず、その空間に足を踏み入れた。そして、見渡す限り、世界中の神々と、仮面に、囲まれた。その中心に、地底の太陽が、いた。

巨大な、黄金色の顔。両側に、太陽のプロミネンス(炎)のような造形が、たなびく。顔と背景の照明が刻々と変わり、金、銀、ブロンズ、赤、青と、変化する。古刹の御本尊の前に立つような、空気感。

岡本太郎は、これを、何のために、作ったのか。公式には、「生命の源を生み出す、原始的なエネルギーの表現」とされる。しかし、もう一歩、踏み込んで考えると、これは、シャーマニズムの「地底の神」、つまり、死の世界の神、である。

そして、ここで、人類が古代から信じてきた、ある巨大な神話に、繋がる。

「アガルタ」と、「シャンバラ」。

知っているだろうか。

地球の内部は、空洞である。その空洞の中に、地上を遥かに凌駕する、高度な文明が、存在している。彼らは、長寿で、超能力を持ち、独自の人工太陽を持ち、円盤形の飛行艇を操る。地上にやってくる時、人間はそれを「UFO」と呼ぶ。地下世界の首都の名前は「シャンバラ」。地下世界全体の名前は「アガルタ」、または「シャングリラ」。

入口は、複数ある。チベットのポタラ宮殿の地下。中央アジアのゴビ砂漠の地下。南極の極点付近。アンデス山脈の谷底。これらの場所では、今もUFOが、頻繁に目撃されている。それらの中には、宇宙から飛来したものもあるだろう。しかし、一部のUFOは、宇宙から来ているのではなく、地球の内部から出てきている、という説も、根強く存在している。

——という、伝説が、ある。

この話、笑う人は、笑えばいい。しかし、これを、本気で信じて、本気で探した人物が、20世紀に、いた。

アドルフ・ヒトラーである。

ヒトラーは、ナチス党員になる前、1920年代に、ある人物から、地底世界と超古代文明についての書物を、勧められた。それを読んだヒトラーは、たちまち、その内容に魅了されてしまった。地下に眠る理想郷。黄金都市。想像を絶する高速で飛行できる乗り物。それらに通じる秘密のトンネル。ヒトラーは、これらが、地球上のどこかに、実在すると、信じ込んだ、とされる。

そして、彼は、第三帝国の力で、これを、本気で、探し始めた、と言われている。

ヒトラー率いるナチスは、二つの方向で、地底世界の探索を、進めた、とされる。

一つ目、チベット。SS長官ハインリヒ・ヒムラーは、1938年、エルンスト・シェーファー率いるSS探検隊を、チベットに派遣した。これは史実である。表向きの目的は、「アーリア人の起源を求めて」、だった。しかし、ナチス内部のオカルト思想と結びつき、地下王国シャンバラへの入口探索もまた、彼らの目的の一つだった、と言われている。チベットのラサ、ポタラ宮殿の地下に、その入口がある、というのが、当時のオカルト思想の中で囁かれていた伝説の一つだった。

実際、SS探検隊は、チベットから、奇妙な仏像を持ち帰った。「アイアンマン」と呼ばれるその仏像は、高さ24センチ、重さ10.6キロの、毘沙門天の座像。胸に「卍」が刻まれている。2012年、シュトゥットガルト大学の研究で、この仏像は、約1万5000年前にシベリア・モンゴル境界に落下した、チンガー隕石を彫って作られたもの、と判明した。宇宙から来た仏像、である。

二つ目、南極。これも、戦時中の史実である。ナチスは、1938-39年、ノイシュヴァーベンラントと名付けた地域に、南極探検隊を派遣した。表向きは、捕鯨基地の確保。鯨油は、当時のドイツにとって、マーガリン、石鹸、そして軍事用ニトログリセリンの、重要な原料だった。

ここまでは、史実である。

しかし、戦後、奇妙な噂が、流布する。「アドルフ・ヒトラーと少数の側近が、南極にある開口部を通って、地球の空洞内部に脱出した」。「ナチスは、南極の氷の下に、極秘の地下基地を建設していた」。これらは、現在、歴史学的には、根拠のない陰謀論として、扱われている。

しかし、その陰謀論を裏付けるかのような、ある軍事作戦が、戦後すぐに、行われた。

1946年12月から1947年3月にかけて、アメリカ海軍は、「ハイジャンプ作戦」と銘打った、大規模な南極観測を行った。指揮官は、リチャード・バード少将。投入された戦力は、艦船13隻、航空機33機、兵員4700名。公式目的は、「恒久基地建設の調査、寒冷地での技術研究」。だが、この規模は、観測には、明らかに過剰だった。だから、戦後すぐから、「実際は、ナチスの南極基地の残党を、追跡するための、軍事作戦だったのではないか」、という陰謀論が、流布した。

そして、その作戦中、バード少将は、奇妙な体験をした、と伝えられる。南極上空を飛行中、地下から葉巻型のUFOが現れ、彼の機を監視した。バード少将は、地下世界に降下し、アジア人のような外見の人々と、出会った。彼らは、地表とは異なる、高度な文明を持っていた。

——という、話が、ある。

これらは、現代の科学的検証では、ほぼ否定されている。地球の内部は、マントル、外核、内核の層構造であり、空洞ではない。これは、地震波の解析で、確認されている。バード少将の「地底世界体験」も、検証可能な一次資料は、存在しない。

しかし、ここで、興味深いことがある。

地球内部が「物理的に」空洞である、という説は、現代科学では、否定されている。

しかし、「不可視の世界」「霊的な、もう一つの世界」が、「下の方向」に存在する、という感覚は、世界中の人類の神話に、共通している。

仏教の地獄は、地下にある。ギリシャ神話のハデスの国も、地下。北欧神話のヘルの国も、地下。日本神話の黄泉の国も、地下。シュメール神話の冥界も、地下。

なぜ、世界中の人類が、「死者の国」「不可視の世界」を、「下」に置いたのか。

それは、人間が直感的に、「地下には、何かがある」と、感じてきたからである。

縄文人も、土器に、地下の力を、込めた。古墳時代の人々も、巨大な墓を、地下に作った。エジプトのファラオも、ピラミッドの地下に、王の遺体を、納めた。

地下は、人類の根源的な、不可視の世界、への入口である。

そして、岡本太郎は、それを、知っていた。彼は、エリアーデを読み、世界中のシャーマニズムを研究し、世界中の神話を、把握していた。「地下 = 死の世界、不可視の世界、もう一つの世界」という、人類の根源的な認識を、彼は、深く、理解していた。

だから、彼は、太陽の塔の「地下」に、「いのり」の空間を、設計した。そして、その中心に、「地底の太陽」を、置いた。これは、現代の日本人に、「地下には、不可視の世界がある」「あなたは、それを、忘れているが、それは、確かにある」と、思い出させるための、装置だった。

万博終了後、ほとんどのパビリオンは、取り壊された。太陽の塔だけが、保存された。しかし、太陽の塔の地下空間は、撤去された。「いのり」の空間は、解体された。世界中の神像と仮面の多くは、国立民族学博物館に、引き継がれた(1977年に開館)。

そして、地底の太陽だけが、行方不明になった。

撤去作業の途中で、消えた。正確には、撤去された後、どこかへ運ばれた。しかし、その「どこか」が、わからなくなった。記録が、残っていなかった。

巨大な、高さ3メートル、全長11メートルの顔である。簡単に、紛失するようなサイズでは、ない。なのに、消えた。これが、約50年間、続いた。

太陽の塔の他の三つの顔(黄金、太陽、黒い太陽)は、塔と一体になっている。だから、塔が保存されている限り、残っている。しかし、地底の太陽だけは、独立した作品として、地下に置かれていた。だから、撤去後、行方を、追跡できなかった。

岡本太郎本人も、これを知っていた。1996年に太郎が亡くなるまで、地底の太陽は、行方不明のままだった。太郎の養女・敏子も、何度も、行方を捜したが、見つからなかった。

なぜ、消えたのか。正確な経緯は、今もわかっていない。

しかし、ここで、オカルト的な解釈をすれば、こう、言える。

地底の太陽は、シャーマニズムにおける「地底の神」である。地底の神は、地上に、長居しない。本来、地下に、隠れているべき存在である。

岡本太郎の手によって、一時的に、万博という「祭り」の中心に、引き出された。半年間、地底の神は、太陽の塔の地下で、来場者と、対面した。そして、祭りが終わった瞬間、地底の太陽は、自ら、地上から、姿を消した。

「もう、ここに、いる必要はない」と、判断したかのように。

そして、50年間、再び、地下に、戻った。アガルタへ。シャンバラへ。地下の、不可視の世界へ。人間の倉庫の片隅で、誰にも気づかれず、地底の神は、静かに、眠っていた。

——と、解釈することも、できる。

2018年。50年近い時を経て、地底の太陽が、復刻された。正確には、オリジナルは、未だ見つかっていない。当時の記録写真、デザイン画、関係者の証言を、すべて集めて、可能な限り忠実に、復刻された。海洋堂が、復元に協力した。そして、太陽の塔の内部、地下のスペースに、設置された。2018年から、内部の一般公開と共に、地底の太陽も、見学できるようになった。

つまり、現在、太陽の塔の地下で、人々が見ているのは、復刻版の地底の太陽、である。

オリジナルは、今、どこに、あるのか。

——と、長年、誰にも、わからなかった。

しかし、2025年5月3日、NHKが放送した『太陽の塔 消えた顔を追え 万博”未解決の謎”に迫る異色のミステリードキュメント』で、新たな手がかりが、発見された。生物学者の福岡伸一(2025年大阪・関西万博のシグネチャーパビリオンを担当した一人)とNHKによる、独自の調査である。番組では、行方不明だった岡本太郎事務所による設計図面3枚が、発見された。さらに、兵庫県の元職員や、廃棄物処理組合などの証言を基に、「地底の太陽は、1980年まで、兵庫県の施設で、分解された状態で保管されていた。しかし、その施設が移転する際の解体作業で、他の廃材と共に、神戸市内の布施畑処分場に、埋められた可能性が高い」、という説が、提唱された。

つまり、地底の太陽は、地下に、埋まっているかもしれない。

文字通り、地底の太陽が、地底に、帰った。

これが、本当なら、岡本太郎の作品にふさわしい、奇妙な詩を、現代に、書き残したことになる。地底の神の像が、地底に、戻った。それは、太郎の意図ではなかったかもしれないが、結果として、最も、太郎らしい結末である。

もちろん、布施畑処分場の説も、まだ、確定ではない。現時点で、オリジナルが発掘されたわけでは、ない。今も、可能性は、複数ある。すでに、廃棄されているかもしれない。まだ、どこかの倉庫で、眠っているかもしれない。あるいは、ヒトラーがチベットに探し、ナチスのSSが南極に探した、あのアガルタの地下世界に、地底の太陽は、戻ったのかもしれない。

その判断は、読者に、委ねる。

ただし、これだけは、言える。

岡本太郎は、太陽の塔を作ることで、現代日本に、地下の世界、つまり、人類が古代から信じてきた、不可視のもう一つの世界、を、思い出させようとした。

そして、その中心となるはずだった「地底の太陽」が、約50年間、行方不明になった、という、この奇妙な事実。これも、岡本太郎の、呪術の、効果の一部だったのではないか。

地下の神は、地下に、帰る。

それが、太陽の塔の、本当の構造である。

そして、岡本太郎の作品で、一度行方不明になり、奇跡的に発見された、もう一つの巨大な作品がある。「明日の神話」、である。メキシコの、資材置き場で、30年間、放置されていた、巨大壁画。次の章で、その話を、書く。

第7章「明日の神話 — メキシコの倉庫で奇跡的に発見された壁画」

1968年。岡本太郎は、太陽の塔の設計と並行して、もう一つの巨大な作品を、制作していた。

メキシコシティで、である。

「明日の神話」、と名付けられた、巨大壁画。縦5.5メートル、横30メートル。これは、太郎の生涯の代表作の一つであり、太陽の塔と対をなす、双璧の作品である。

まず、なぜ、メキシコだったのか。話は、こうである。

1968年、メキシコシティでは、メキシコオリンピックの開催が、決まっていた。世界中から、観光客が押し寄せる。そして、メキシコシティの中心部に、当時ラテンアメリカ一の規模を誇る、44階建ての巨大ホテル「オテル・デ・メヒコ(Hotel de México)」が、建設されていた。

ホテルのオーナーは、マヌエル・スアレス。芸術家のパトロンとして知られる、メキシコ人実業家、だった。彼は、メキシコ在住の作庭師・小栗順三を通じて、岡本太郎の作品を知った。そして、岡本太郎に、ホテルのロビーを飾る、巨大壁画の制作を、依頼した。

太郎は、この依頼を、引き受けた。

1967年7月、太郎はモントリオール万博を視察した後、テレビ映画『岡本太郎の探る中南米大陸』の収録のために、メキシコを訪れていた。ホテルの建設現場を訪れて、壁画制作の依頼を承諾した。

太郎は、1968年から1969年にかけて、メキシコシティで、約30回、現地を訪れている。建設中のスーパーマーケットを転用した、専用アトリエに入り、巨大壁画を制作した。大阪万博のテーマ館の仕事の合間を縫って、何度も日本とメキシコを往復した。

メキシコは、太郎にとって、特別な意味を持つ国だった。古代メキシコには、アステカ文明、マヤ文明があった。彼らは、太陽神に、人身御供を捧げる、強烈な呪術文化を持っていた。岡本太郎が縄文に見たのと同じ、「四次元との対話」を、彼らも、行っていた。

太郎は、メキシコの古代文明に、深い親近感を持っていた。「縄文人とアステカ人は、同じ目で、世界を見ていた」と、彼は感じていた。

だから、太郎が、メキシコで描いた壁画には、メキシコの古代の呪術と、日本の縄文の呪術が、両方、流れ込んでいる。

そして、テーマは、「原爆」だった。

なぜ、メキシコのホテルのロビーに、原爆の壁画を、描こうとしたのか。

これが、岡本太郎の、独自の世界観である。

太郎にとって、原爆は、現代の人類が直面する、最大の「不可視の力」だった。広島と長崎で、何十万人もの命を、一瞬で奪った、目に見えない、放射線。それは、神々の怒りの、現代版だった。古代人が、雷を、神の力として、恐れたように。現代人は、原爆を、人類自身が生み出した、神の力として、恐れなければならない。

そして、太郎は、こう、考えた。「メキシコのホテルのロビーは、世界中から、人々が、集まる場所である。アメリカ人も、ヨーロッパ人も、アジア人も、来る。そこに、原爆の壁画を、置く。それを、世界中の人々が、毎日、目にする。これが、現代の祈りの、場になる」。

これは、すごい発想である。

普通の芸術家なら、こんな依頼は、受けない。「ホテルのロビーに、原爆の絵?クライアントが、怒るだろう」と、考える。

しかし、岡本太郎は、違った。彼は、世界中の人々に、原爆という不可視の力を、可視化して、見せたかった。そして、その絵を見た人々が、知らないうちに、原爆という現代の神と、対話することを、狙った。

これは、現代の呪術である。

完成当時の副題は、「広島と長崎」、と付けられていた。つまり、太郎は、最初から、明確に、原爆をテーマとして、この壁画を構想していた、ということである。

そして、完成した壁画は、衝撃的なものだった。

中央に、人間の形をした、骸骨が、燃え盛りながら、立っている。それは、原爆の炸裂の瞬間に、肉が消し飛び、骨だけが残った人間である。骸骨は、口を大きく開けて、笑っている。岡本敏子は、これを、こう、解説している。「焼かれる骸骨は、口を大きく開けて笑っており、人間の誇りとしての怒りを、爆発させている姿である」。

骸骨の周りには、第五福竜丸(1954年にビキニ環礁の水爆実験で被曝した、日本のマグロ漁船)、亡者の行列、増殖するきのこ雲、そして、左には、平安に憩い合う人々が、描かれている。

これが、明日の神話の、核心である。

原爆を、ただの悲劇として、描かなかった。原爆を、人類が、乗り越え、新しい神話を、創造する、その出発点として、描いた。残酷な惨劇さえも、人類は、誇らかに、乗り越えることができる。そして、その先にこそ、新しい神話が、生まれる。

ピカソの『ゲルニカ』が、戦争の悲劇を、描いたのに対して。岡本太郎の『明日の神話』は、悲劇を乗り越える、人類の力を、描いた。

これが、両者の、根本的な違いである。

1969年9月、壁画は、完成した。

サインを入れて、依頼主に正式に引き渡すだけの状態だった。ホテルのロビーに、仮設置されていた。

しかし、その時、悲劇が、起きる。

ホテルは、完成しなかった。マヌエル・スアレスの経営状況が、急速に、悪化した。建築中のホテルは、未完成のまま、放置されることになった。1970年前後に、ホテルの運営会社は、倒産した。

太郎との連絡も、途絶えた。

そして、壁画は、ホテルのロビーから、取り外された。

太郎が、命懸けで描いた、最大の傑作の一つが、ホテルから、引き剥がされ、どこかに、運ばれた。サインすら、入っていなかった。

その時、太郎は、まだ生きていた。しかし、彼は、壁画を、追跡することが、できなかった。日本に戻り、太陽の塔の完成と、大阪万博の開幕に、追われていた。壁画は、メキシコの、彼の手の届かない場所に、消えていった。

そして、ここから、明日の神話の、長い、長い、行方不明の期間が、始まる。

壁画は、メキシコ各地を、転々とした。

どこに、行ったのか、誰も、正確には、知らない。倉庫から倉庫へ、所有者から所有者へ、巨大な絵が、移動した。途中で、修復もされず、保管も適切ではなく、絵は、少しずつ、損傷していった。

なお、ホテルの建築物は、後の1994年に、「世界貿易センター」として開業した。1989年か1990年頃までは、建物の中に、壁画があった、という記録がある。

その後、消えた。

完全に、消えた。

太郎は、それを、知らないまま、過ごした。1996年1月7日、岡本太郎は、84歳で亡くなった。明日の神話の行方を、知らないまま。

しかし、太郎の養女・岡本敏子は、諦めなかった。

敏子は、太郎の秘書として、長年、彼を支え続けた女性である。後に、養女として、太郎の遺産と、岡本太郎記念館を、引き継いだ。

敏子は、こう、信じていた。「明日の神話は、太郎の、最大にして、最高傑作である。これを、必ず、見つけ出して、日本に、持ち帰る」。

彼女は、メキシコに、何度も、足を運んだ。手がかりを、追った。スアレスの関係者、メキシコの美術関係者、倉庫業者、不動産業者、あらゆるルートを、辿った。

そして、2003年9月。

奇跡が、起きた。

メキシコシティの郊外に、ある資材置き場が、あった。倉庫業者が、長年、ガラクタを、保管している場所だった。

敏子は、現地に、向かった。

そして、彼女は、見た。

埃と、雑多な資材に、囲まれて、巨大な絵が、立てかけられていた。

明日の神話だった。

34年間、行方不明だった、太郎の最大傑作が、メキシコの資材置き場の片隅で、誰にも気づかれずに、静かに、佇んでいた。

岡本敏子は、絵の前で、立ち尽くした。

そして、号泣した。

「太郎が、命懸けで描いた絵が、こんなところで……」

しかし、それは、悲しみの涙では、なかった。喜びの涙だった。

「見つけた。これで、日本に、連れて帰れる」

敏子は、その場で、決意した。「絵を、買い戻す。日本に、運ぶ。修復する。そして、日本中の人々に、見せる」。

ここから、「明日の神話 再生プロジェクト」が、始まる。

(財)岡本太郎記念現代芸術振興財団内に、再生プロジェクト事務局が、発足。壁画の移送・修復に向けた取り組みが、本格的に始動した。買い戻すための交渉、輸送のための手続き、修復のための資金集め。敏子は、すべてを、自分で、やった。

2005年、明日の神話は、ついに、日本に、移送された。

そして、愛媛県で、修復作業が、開始された。

縦5.5メートル、横30メートルの、巨大な絵を、修復する。これは、日本の美術修復史上、最大級のプロジェクトだった。30年以上、劣悪な環境で放置されていた絵は、大きなダメージを、受けていた。それを、太郎が制作した当時の姿に、可能な限り、復元する。

修復は、難航した。しかし、関係者の執念で、2006年6月に、完成した。完成から37年、発見から3年の歳月を、経て、明日の神話は、再び、その輝きを、取り戻した。

2006年7月。修復された明日の神話は、東京・汐留で、初めて、一般公開された。50日間という短期間に、のべ約200万人の入場者が、集まった。

2007年4月27日〜2008年6月29日。東京都現代美術館で、特別公開された。マスコミでも大きく取り上げられ、この時から、岡本太郎の「神話」が、現代日本人の中で、再構築されていく。

そして、明日の神話を、恒久的に設置する場所が、議論された。広島市(被爆地)、大阪府吹田市(太陽の塔の場所)、東京都渋谷区(岡本太郎のアトリエの近く)。

岡本太郎記念館の館長は、すべての候補地を、視察した。そして、最終的に、こう、判断した。

「多くの人が行き交う、大きな力を持っている場所。パブリックアートとして、観賞目的以外の人が、偶然作品に出会うのに、適した場所」。

その答えは、渋谷だった。

具体的には、渋谷マークシティ内の連絡通路。JR渋谷駅と京王井の頭線渋谷駅を、結ぶ通路。毎日、約30万人もの人々が、通過する場所。

2008年8月27日、設置工事を着工。駅と駅を結ぶ連絡通路での設置工事のため、終電から始発までの深夜作業となった。

2008年11月17日、明日の神話は、渋谷に、設置された。

これも、奇跡のような、選択だった。

なぜ、渋谷だったのか。

「明日の神話保全継承機構」の公式ステートメントから、引用する。

「『明日の神話』を渋谷に招聘したのは、古き良きものと先端が共生する街、人々のエネルギーを受け止めることによって増幅される『明日の神話』の不思議な力が、街を行き交う一人ひとりに、未来へ向かうエネルギーとなって戻ってくる場所を、提供できるのは、『渋谷』『しぶや』『SHIBUYA』だけです」

「『明日の神話』の不思議な力」。

これが、公式の言葉である。

つまり、明日の神話保全継承機構は、公式に、こう、認めている。

この壁画には、ただの芸術作品では説明できない、不思議な力がある。

そして、その力は、街を行き交う人々の、エネルギーを、受け止めて、増幅される。

そして、それが、未来へ向かうエネルギーとなって、人々に、戻ってくる。

これは、まさに、岡本太郎が、設計した、現代の呪術である。

絵が、見る人に、エネルギーを与える。

これは、絵画ではない。装置である。エネルギーを、可視化し、増幅し、放射する、装置。

そして、明日の神話は、現在も、渋谷駅の連絡通路で、毎日、約30万人もの人々の前で、エネルギーを、放出している。

ただし、2023年10月から、設置から15年の老朽化を受けて、大規模な改修・修復が始まっている。クラウドファンディングなども実施されている。明日の神話は、これからも、世代を超えて、保全されていく予定である。

通行人の多くは、絵に、気づかない。気づいても、足を止めない。スマホを見ながら、通り過ぎる。

しかし、何人かは、足を止める。

そして、絵の前で、しばらく、立ち尽くす。

その人は、岡本太郎に、呼ばれている。

絵から放たれているエネルギーを、その人は、無意識のうちに、受け止めている。

そして、その後、人生の何かが、変わる。

これが、明日の神話の、本当の機能である。

ここで、もう一度、考えてみてほしい。

岡本太郎が、命懸けで描いた、最大傑作が、メキシコの資材置き場で、34年間、誰にも気づかれずに、静かに、眠っていた。

これは、第6章で書いた、地底の太陽と、よく似た構造である。

地底の太陽も、約50年間、誰にも気づかれずに、どこかの倉庫で(または夢洲の海底で)、眠っていた。

岡本太郎の最も重要な作品が、なぜ、誰にも気づかれずに、消えてしまうのか。

それは、それらの作品が、不可視の世界に、属しているからである。

地底の太陽は、地底の神である。だから、地下に、戻った。

明日の神話は、原爆という不可視の力の、可視化である。だから、人間の目から、消えた。

そして、いずれも、ある時期が来ると、再び、人間の目の前に、現れる。

地底の太陽は、2018年、復刻されて、現れた。明日の神話は、2003年、岡本敏子の執念で、発見された。

太郎の作品は、自分のタイミングで、現れたり、消えたりする。

これも、岡本太郎の、呪術の、効果である。

そして、現在、渋谷駅の連絡通路で、明日の神話は、静かに、エネルギーを、放っている。

通行人の中で、それを感じる人は、ごく僅か。

しかし、感じた人は、知らないうちに、岡本太郎の世界に、引き込まれていく。

そして、最終的に、その人は、ある場所に、辿り着く。

神奈川県川崎市、生田緑地、岡本太郎美術館。

岡本太郎の、聖地である。

その話を、するためには、もう一つ、岡本太郎の重要なフィールドワークについて、書かなければならない。

1966年、沖縄県久高島(くだかじま)。岡本太郎が、自分のカメラで、最後のシャーマン神事「イザイホー」を、目撃した、その記録。

次の章で、その話を、書く。

第8章「沖縄イザイホー — 太郎が見届けた、現代日本で最後の神事」

岡本太郎は、二度、沖縄に渡った。1959年11月から12月にかけて、と、1966年12月。そして、二度目の旅で、彼は、ある神事を目撃する。

「イザイホー」と呼ばれる、12年に一度、午年(うまどし)の旧暦11月15日から、5日間にわたって行われる、神女就任儀礼である。場所は、沖縄県南城市(旧・島尻郡知念村)、久高島(くだかじま)。沖縄本島から、フェリーで20分。周囲わずか8キロの、小さな、神聖な島。久高島は、琉球神話の中で、創世神アマミキヨが、天から最初に降りてきて、国造りを始めた場所、とされている。沖縄全体の中で、最も神聖な、根源の島である。

そして、この島には、古くから、ある格言が伝わっている。「男は海人、女は神人」。男たちは、成人すると、漁師になる。女たちは、神女になる。久高島では、女性こそが、神と人を、繋ぐ存在だった。

その神女になるための、就任儀礼が、イザイホーである。30歳から41歳までの、久高島で生まれ育ち、久高島の男に嫁いだ女性たちが、この5日間の儀式を通して、ただの女性から、神女(ナンチュ)へと、変身する。神女になった女性は、70歳で引退するまで、神に仕え、ナンチュとして島民の健康と繁栄を、祈り続ける。

イザイホーは、本来、外部の人間には、絶対に、公開されない、秘祭だった。「神事は、見世物ではない」。久高島の最高司祭主・久高ノロは、本土から来る民俗学者・記者たちに、何度も、立ち入りを拒んできた。戦前から戦後にかけて、柳田國男、折口信夫、鳥越憲三郎、湧上元雄らが、久高島を訪れて取材を試みているが、神事の最も深い核心にまで、立ち入ることは、できなかった。折口信夫は、1923年に、先代の久高ノロを撮影しているが、それも、ノロの衣装に扮した姿の写真だった。

ところが、1959年。岡本太郎は、久高島で、先代・久高ノロに、出会うことを、許された。

なぜか。正確な経緯は、分からない。しかし、岡本太郎自身が、後に、こう書き残している。「沖縄の中にこそ、忘れられた日本がある」「沖縄で、私は自分自身を再発見した」。民俗学者は、研究対象として神事を覗き込もうとする。マスコミは、スクープとして神事を消費しようとする。しかし、岡本太郎は、違った。彼は、神事を、研究するのでも、消費するのでもなく、「自分自身が、その世界の中に、入り込む」ために、来ていた。

岡本太郎は、芸術家として来たのではない。縄文の呪術を再発見しようとする、現代の呪術師の卵として、来ていた。それを、先代の久高ノロは、見抜いたのかもしれない。そして、太郎を、中に招き入れた。

ここで、太郎が1959年に出会った先代・久高ノロについて、もう少し書いておく。

彼女は、島の神女たちから「乃木大将」とあだ名されるほど、厳格な人物だった、と伝えられている。家族でさえも、彼女の笑顔を、めったに見たことがなかったという。著名な民俗学者が島を訪れても、「神行事は見世物じゃない」と、一切、取材を拒んできた。

そして、島の伝承では、彼女には、特別な背景があった、と言われている。久高島では、ノロの伝承制度は、長く娘継ぎだったが、明治の世となり、嫁継ぎへと変わっていった。太郎が出会った先代・久高ノロは、長く途絶えていた由緒ある家系から、再びノロとして立った女性だった、と伝えられている。

しかし、彼女には、もう一つの、悲しい運命があった。久高ノロを継ぐべき後継者が、もう、見つからなくなってしまっていた。

つまり、彼女は、自分の代でイザイホーが終焉することを既に予感していた、最後の世代の、久高ノロ、だったのである。

その彼女が、自分の代で系譜が途絶えるという運命を背負いながら、岡本太郎に、心を、開いた。

岡本太郎が、1959年11月24日に撮影した、先代・久高ノロの一枚の写真がある。縁側に座った、年老いた、女性。厳しい表情で知られていたこのノロが、太郎のレンズの前で、稀有な、柔らかな表情を、見せている。後年、彼女のお孫さんは、この写真について、こう、証言している。「この写真は、おばあさんが、太郎さんを受け入れた顔です。受け入れなければ、こんな顔、絶対にしない」。

これは、奇跡のような、一枚である。

なお、先代・久高ノロは、太郎が出会った2年後の1961年に、亡くなっている。だから、1966年、太郎が再び久高島を訪れ、イザイホーを取材した時、彼女は、もう、この世にはいなかった。1966年の久高島で、太郎を迎え入れ、イザイホーやマスコミへの公開を仕切ったのは、先代・久高ノロの息子、島の新リーダーとなった人物だった。

そして、太郎が記録したイザイホーの儀式は、衝撃的なものだった。儀式の核心は、「七つ橋渡り」と呼ばれる、最高潮の場面である。新しく神女になる女性たち(ナンチュ)は、極度に緊張して、真っ青になりながら、橋を渡る。この時、橋から落ちたり、躓いたりすると、「日頃の素行が悪く、神女の資格がない」とされる、厳格な、選別の儀式だった。

その橋を渡り終えた瞬間、彼女たちは、人間の女から、神女へと、変身する。つまり、これは、シャーマニズムの「死と再生のイニシエーション」、そのものだった。

第5章でも書いたが、世界中のシャーマニズムには、共通の構造がある。「象徴的な死」を体験し、「再生」する。久高島のイザイホーは、それを、現代の日本で、リアルに行っていた。

岡本太郎は、この儀式の前で、震えた。「むきだしに粗野、だからこそ、凄い。ドラマティックだ。それは、原始の神秘である。橋渡りは、祭りの最高潮で、女たちは極度に緊張して真っ青になるそうだ。これによって、人間の女から、ナンチュに変身する。つまり、これは、神聖なイニシエーションの儀式なのだ」。太郎の著書『沖縄文化論 — 忘れられた日本』(中央公論社、1972年10月刊)に、そう記されている。

太郎が、なぜ、イザイホーに、これほど心を震わせたのか。それは、彼が、パリのソルボンヌで、マルセル・モースから学んだ「呪術」と、20年以上、研究してきた「縄文の呪術」と、エリアーデの「死と再生のシャーマニズム」が、すべて、目の前で、生きた形で、行われていたからである。民俗学の教科書の中の話ではない。岡本太郎が、自分の思想として、追求してきた、すべてのものが、久高島の、この小さな島で、リアルに、息づいていた。

「忘れられた日本が、ここにある」

岡本太郎は、確信した。「沖縄こそ、本当の日本だ。本土が、近代化で、すべてを失った中で、沖縄だけが、縄文時代から続く、人類の根源を、守り続けている」。太郎は、そう書いた。

そして、興味深いことに、岡本太郎が記録した1966年のイザイホー、その12年後の1978年のイザイホーを最後に、この儀式は、途絶えた。1990年、2002年、2014年、いずれも、新しく神女になる資格のある女性が見つからずに、儀式は中止になった。久高島の過疎化と、若い女性が島を離れる現状で、もはや、儀式を続けることが、できなくなった。

つまり、1978年のイザイホーが、現代日本で行われた、最後の本格的なシャーマニズム儀礼になった。そして、岡本太郎は、その2回前の1966年のイザイホーを目撃した、ほぼ最後の、外部の証人、だった。

これも、岡本太郎の、奇妙な運命である。彼が訪れた時期は、ぎりぎり、儀式が生きていた時代だった。あと数十年、彼が訪れるのが遅ければ、彼は、イザイホーを見ることが、できなかった。そして、彼が1966年に撮影した写真と、彼が書いた『沖縄文化論』は、現在、イザイホー研究の、最も重要な一次資料の一つに、なっている。岡本太郎は、消えゆく神事を、最後に目撃し、記録した、世界唯一の芸術家になった。

しかし、ここで、もう一つ書いておかなければならないことがある。岡本太郎の、沖縄での、もう一つの「事件」、である。

「後生(グソー)事件」、と呼ばれる。

「後生」とは、沖縄の言葉で、「死後の世界」を意味する。久高島には、独特の風葬の風習があった。死者の遺体を、岩陰や洞窟の中に、安置する。そして、自然に、白骨化させる。その後、骨を洗い、再び納める。これが、久高島の「グソー」(死者の家)、である。外部の人間には、絶対に、立ち入りが禁止された、聖域。

ところが、岡本太郎は、1966年の取材中、男子禁制のフボー御嶽(クボー御嶽)に入り、風葬の地で、安置されていた白骨を、撮影した。その写真を、太郎は、雑誌『週刊朝日』(1967年1月20日号)に発表した。

これが、当時、大きな波紋を呼んだ。「岡本太郎は、聖域を、踏み荒らした」「死者の尊厳を、踏みにじった」「沖縄の文化を、商業的に消費した」という批判が、起こった。

これは、太郎の、生涯の、もう一つの、しこりだった。

彼は、何を意図して、グソーに入ったのか。これは、推測になるが、こうだろう。岡本太郎は、世界中のシャーマニズムを研究してきた男である。彼にとって、「死者の世界」「不可視のもう一つの世界」は、芸術の、最も重要なテーマだった。そして、久高島のグソーは、現代日本に、奇跡的に残されていた、不可視の世界の、具体的な、入口だった。太郎は、それを、見ずに帰ることが、できなかった。

しかし、彼は、外部の人間である。本来、入ってはいけない場所だった。そして、その写真を雑誌に発表することで、聖域は、世間の目に晒された。これは、太郎の、痛恨の、過ちだった、とも言える。

一方で、別の角度から、見ることもできる。岡本太郎が、グソーを世間に公開したことで、久高島の「死と再生」の文化が、現代日本に伝わった。それがなければ、グソーも、イザイホーも、誰にも知られないまま、消滅していた可能性が高い。なお、これが直接の原因かどうかは確定していないが、現在では、久高島では風葬は行われていない。

太郎は、聖域に、踏み込んだ。しかし、聖域の存在を、後世に、伝えた。両方が、同時に、真実である。

これも、岡本太郎、なのである。

そして、太郎は、沖縄での体験から、決定的な、メッセージを受け取った。「縄文の呪術は、まだ、生きている。沖縄に、生きている。そして、それは、消えつつある。だから、自分が、現代日本に、それを取り戻さなければ、ならない」。

ここから、岡本太郎の、最後の、大きな、戦いが始まる。

1966年の沖縄取材から、わずか4年後、1970年。岡本太郎は、大阪万博の中心に、太陽の塔をぶち立てた。太陽の塔の地下「いのり」の空間には、世界中の神像と仮面が並べられた。

つまり、岡本太郎は、太陽の塔という、巨大な現代の祭祀空間の中に、消えゆく沖縄のシャーマニズムのエッセンスを、織り込んだ。万博を訪れた約6400万人の日本人は、知らないうちに、岡本太郎が沖縄で目撃した、イザイホーの「死と再生」の構造を、追体験することになった。

これが、岡本太郎の、最大の、呪術である。

沖縄の、消えゆく神事を、自分の中で消化し、それを、大阪万博という、戦後日本最大のイベントの中で、現代日本人全員に、無意識のうちに、追体験させた。そして、現代まで、その効果は続いている。太陽の塔の前に立つ、現代の日本人。彼らは、知らないうちに、1966年の久高島のイザイホーの儀式と、繋がっている。岡本太郎が見た、あの神女たちの、変身の瞬間と、繋がっている。そして、彼らの中の、忘れられた縄文の血が、目覚めようとしている。

それが、岡本太郎の、本当の、戦いだった。

そして、岡本太郎は、もう一つ、母なる存在に、最後の祈りを捧げた。それが、神奈川県川崎市・生田緑地に立つ、高さ30メートルの、母の塔、である。次の章で、その話を、書く。

第9章「『芸術は爆発だ』の本当の意味」

「芸術は爆発だ」。これは、日本人の誰もが知っている、岡本太郎の、有名なフレーズである。

1981年、日立マクセル(maxell)のエピタキシャルビデオカセット(VHS/ベータマックス)のCMで、岡本太郎が、奇怪な顔を歪ませながら「芸術はーっ、爆発だーっ!」と叫ぶ。梵鐘篇とピアノ篇、二種類のCMがあった。テレビを見ていた当時の日本人は、皆、それを笑った。「変なおじさん」「芸術家って、皆、こんな感じなのか」「言ってる意味が、わからない」。そして、このフレーズは、誤解されたまま、日本中に広まった。「芸術は、突拍子もないことを、爆発させればいい」「感情のままに、爆発させればいい」「奇抜であれば、それでいい」。そういう、軽い意味として、消費された。1986年には、このフレーズが、新語・流行語大賞の語録賞を、受賞している。

しかし、岡本太郎が、本当にこのフレーズに込めた意味は、まったく違う。

「芸術は爆発だ」は、軽いキャッチコピーではない。これは、岡本太郎の、生涯の思想を、たった9文字に凝縮した、最も深い言葉である。実は、「爆発」という言葉は、岡本太郎が、戦後の活動初期から、用いていた言葉だった。彼が、1947年頃から唱えた「対極主義」(=反発する二つの要素を、折衷せずに、結びつける芸術理論)の中で、すでに、「爆発」は、彼の思想の核心を表す言葉として、使われていた。

ここで、「爆発」とは何か、を正確に定義する必要がある。

岡本太郎が言う「爆発」は、騒ぐことではない。破壊することでもない。感情のままに、奇行を繰り広げることでもない。

岡本太郎の「爆発」とは、こうである。「人間の内側に、ずっと閉じ込められてきた、生命のエネルギーが、外の世界に向かって、無条件に解放される、その瞬間」。

これが、爆発である。

縄文人が、土器を作る時、彼らは、自分の中に渦巻く生命のエネルギーを、土器の紋様として解放した。それは、計算ではなかった。技巧でもなかった。自分の中に、抑えきれないものがあった。それを、紋様として、外に噴出させた。その瞬間、土器は、ただの容器ではなく、生命の力を放つ、聖なる道具になった。これが、爆発である。

そして、岡本太郎は、こう考えた。

現代人は、爆発を忘れた。自分の中の、生命のエネルギーを、抑え込んで、生きている。世間の目を気にして。会社の論理に合わせて。家族の期待に応えるために。常識という名の、見えない檻の中で、自分の本当の声を、押し殺している。だから、現代人は、生きていない。形だけ、生きているように見えるが、中身は、死んでいる。自分の中の、生命のエネルギーを、解放しなければ、本当に生きたことには、ならない。

これが、岡本太郎の根本的なメッセージである。そして、その「解放」が、つまり「爆発」、なのである。

つまり、「芸術は爆発だ」とは、こう言い換えることができる。「芸術とは、人間の内側に閉じ込められた生命のエネルギーが、外の世界に解放される、その瞬間である」。

そして、これは、芸術家だけの話ではない。

岡本太郎は、芸術を、特別な人だけのものとは、考えていなかった。彼は、生涯、「芸術は、特別なものではなく、身近に存在するもの。芸術はピープルのもの」と、説き続けた。サラリーマンも、爆発するべきだ。主婦も、爆発するべきだ。学生も、爆発するべきだ。老人も、爆発するべきだ。子供も、爆発するべきだ。すべての人間が、自分の中の生命のエネルギーを、毎日、解放して、生きるべきだ。それが、「芸術は爆発だ」の、本当の意味である。

ここで、深く踏み込む。なぜ、岡本太郎は、これほどまでに「爆発」を重視したのか。

それは、彼が、戦争を体験したからである。

岡本太郎は、第二次世界大戦中、1942年1月、31歳で中国戦線に召集された。長年の海外在住によって延期されていた徴兵検査を、帰国後に受け、甲種合格。広島の宇品港から、中国大陸へ送られた。すでに、芸術家として、二科展で受賞し、滞欧作品展まで開催していた頃である。

太郎は、戦地で約4年半を過ごした。自動車中隊の輜重兵として、岳州(現・湖南省岳陽市)など、中国大陸の戦地を、転戦した。多くの戦友が、目の前で、死んでいった。1945年5月、母国・東京では、アメリカ軍B29の焼夷弾による大空襲が、南青山高樹町一帯を襲い、太郎が出征前に自宅に残していたパリ時代の全作品も、自宅と共に、焼失した。

太郎自身は、終戦後、約半年間の中国・洞庭湖近くの俘虜生活を経て、1946年6月、復員した。

そして、彼は、戦地で見た。「人間が、生命のエネルギーを解放することを忘れた時、世界はこうなる」。戦争は、人間が、自分自身を抑え込んだ結果だった。「お国のために」「天皇陛下のために」「家族のために」と言いながら、皆、本当は、自分の本当の声を押し殺していた。「戦争は嫌だ」「人を殺したくない」「死にたくない」。皆、本当はそう思っていた。しかし、誰一人、それを声に出さなかった。そして、何百万人もの人々が、死んだ。

岡本太郎は、戦地で、こう決意した。「戦後、もし、自分が、生きて日本に帰れたら、絶対に、二度と、自分を押し殺さない。生命を抑え込まない。すべてを爆発させて、生きる。そして、日本人にも、同じことを、求める」。

それが、戦後の岡本太郎の、すべての出発点だった。太陽の塔も、明日の神話も、母の塔も、無数の絵画も、無数の著作も、すべて、「日本人よ、爆発せよ」というメッセージの、別表現だった。

そして、彼は、メディアにも積極的に出た。テレビ番組に出演し、写真週刊誌に登場し、CMにも出た。マクセルCMだけでなく、1976年のキリン・シーグラム「ロバートブラウン」、1983年の日本電信電話公社(現NTT)「INS高度情報通信システム」など、複数のCMに出演した。多くの芸術家は、こう批判した。「岡本太郎は、芸術家の品位を損なっている」「テレビなんかに出る芸術家は、本物ではない」。

しかし、岡本太郎は、それを意に介さなかった。彼は、芸術を、美術館の中に閉じ込めるのを、嫌った。「芸術はみんなのもの」「芸術はピープルのもの」というのが、彼の信念だった。だから、街の中で、人々の中で、生命を爆発させたかった。だから、テレビにも、CMにも、積極的に出た。すべての日本人に、メッセージを届けたかった。

これが、彼の戦略だった。そして、その戦略は、機能した。

1980年代、テレビCMの「芸術は爆発だ」を見て、笑った日本人。その中の、何人かは、後にこう気づいた。「あの、変なおじさん。本当は、もっと深いことを、言っていたのではないか」。そして、彼らは、岡本太郎の本を、手に取った。『今日の芸術』(1954年)、『日本の伝統』(1956年)、『忘れられた日本—沖縄文化論』(1961年)、『美の呪力』、『自分の中に毒を持て』、『青春ピカソ』。

それらを読んで、衝撃を受けた。「岡本太郎は、ただの、変なおじさんではなかった。これは、現代の、哲学者であり、預言者だった。俺は、岡本太郎を、誤解していた」。

そして、彼らは、岡本太郎の聖地、神奈川県川崎市・生田緑地の、岡本太郎美術館に向かった。「岡本太郎の、本物の作品を、見たい」。

そこで、彼らは、母の塔の前に立つ。高さ30メートルの、白い、巨大な塔。しばらく見上げて、自分の中の、何かが動くのを、感じる。「俺の中にも、爆発がある。俺は、爆発できる。俺は、爆発しなければ、ならない」。その瞬間、岡本太郎の、戦後の戦いは、その人の人生の中で、結実する。

これが、「芸術は爆発だ」の、本当の意味である。

そして、もう一つ、岡本太郎の生涯を、語る上で、欠かせない事実がある。

彼は、自分の作品の、ほとんどを、商品として売らなかった。

岡本太郎が亡くなる、わずか数年前の1991年。彼は、自分の所有する主要作品352点を、生まれ故郷である川崎市に、寄贈した。これが、川崎市岡本太郎美術館建設の、きっかけになった。さらに、1993年には、追加で、1427点を寄贈。最終的に、約1800点に及ぶ、彼の生涯の主要作品が、川崎市民の財産として、引き継がれた。

これは、極めて、異例の行為である。

普通の芸術家なら、自分の作品を、画商に売り、コレクターに渡し、お金に変える。それで、生活する。それで、名声を得る。

しかし、岡本太郎は、違った。彼は、自分の作品を、市民全体に、贈った。

これも、「芸術はピープルのもの」という、彼の生涯の信念の、最後の、実践だった。

そして、岡本太郎は、1996年1月7日、84歳で亡くなった。しかし、彼の作品は、現在も、生田緑地で、渋谷駅で、大阪万博公園で、現代の日本人に、爆発を呼びかけ続けている。

「お前も、爆発しろ。お前の中の、生命を、解放しろ。お前の人生を、芸術として、生きろ」。

それが、岡本太郎が、今も私たちに放ち続けている、メッセージである。そして、その爆発の、最も大きな、結晶が、神奈川県川崎市の生田緑地に、立っている。「母の塔」、である。

次の章で、その話を、書く。

第10章「母の塔 — 母かの子と、聖家族の祈り」

神奈川県川崎市、多摩区。生田緑地の中。緑に包まれた丘陵を、奥へ奥へと進むと、突然、視界が開ける。

そして、それは、現れる。

高さ30メートルの、白い、巨大な塔。岡本太郎の生涯の、最後の大作の一つ。「母の塔」である。

第1章で、岡本太郎の母・かの子について書いた。歌人で小説家、仏教研究家。複数の愛人を家に住まわせていた、奔放な女性。芸術のために、すべてを犠牲にして生きた、規格外の母。川端康成が「聖家族」と呼んだ、岡本一家の中心。

そして太郎は、生涯、彼女のことを、特別な、複雑な感情で見続けた。

愛と、尊敬と、苦悩と、解放されたいという気持ち。

母・かの子は、太郎を抱きしめてくれなかった。代わりに、3歳の太郎に芸術の議論を求めた。母の愛情は、いつも、芸術と、彼女自身の愛人たちに奪われていた。

太郎は、後にこう書いている。「私は、ずっと、母から愛されることを、待っていた」。

しかしその一方で、太郎は母を、誰よりも尊敬していた。「母は、生涯、芸術のために生きた。私の芸術観のすべては、母から来ている」。

岡本かの子は、1938年12月、油壷(あぶらつぼ)の宿に滞在中、脳溢血で倒れた。約2か月後、1939年2月18日、東京帝国大学附属病院小石川分院で、49歳で亡くなった。代表作は「鶴は病みき」「母子叙情」「老妓抄」「生々流転」など。耽美妖艶の作風で知られる、大正・昭和を代表する女流作家だった。

太郎はその時、パリにいた。母の死を、父からの電報で知った。葬儀には出られなかった。母の死に顔も、見られなかった。

太郎は母と、最後の対話をしないまま、別れることになった。これも、太郎の生涯のしこりだった。

そして太郎は、戦後の長い人生の中で、ずっと、母を求め続けた。

「母にもう一度会いたい」「母に自分の作品を見せたい」「母に愛してほしかった」「母をもっと愛したかった」。

しかし、母はもう、いない。

その満たされない想いが、太郎の中に、ずっと渦巻いていた。

そして、母が亡くなって23年が経った、1962年11月。

太郎は、最初の祈りの碑を、母のために建てた。

「岡本かの子文学碑《誇り》」である。

場所は、川崎市高津区二子の、二子神社の境内。多摩川のすぐ近く。母・かの子が幼少期を過ごした地であり、太郎自身が生まれた地でもある。母・かの子は多摩川のほとりに生まれ、生涯、この河を愛した。だから、この地が選ばれた。

岡本太郎がモニュメントを制作した。建築家の丹下健三が、台座と築山を設計した。文学碑の隣には、文芸評論家・亀井勝一郎がかの子について書いた文を、ノーベル文学賞作家・川端康成の直筆によって刻んだ碑も置かれた。

岡本太郎、丹下健三、亀井勝一郎、川端康成——4人の20世紀日本を代表する人物が、岡本かの子のために結集した、極めて豪華な文学碑である。

「誇り」の正面、御影石には、岡本かの子の代表的な歌が、彼女自身の筆跡から拾字されて、刻まれている。

「としとしにわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり」

(年々に、わが悲しみは深くして、いよいよ華やぐ、いのちなりけり)

これは、かの子の代表作「老妓抄(ろうぎしょう)」に、女主人公の歌として小説の末尾に掲げられたものである。晩年のかの子自身の心境を、そのままに歌ったと言われる、絶唱である。

そして台座には、岡本太郎自身の手による、こんな銘が刻まれている。

「この誇りを 亡き一平とともに かの子に捧ぐ 太郎」

1962年といえば、父・一平が亡くなって(1948年)、すでに14年が経っていた。そして、母・かの子が亡くなってから23年。岡本一家の「聖家族」の中で、生き残ったのは、太郎一人。その太郎が、両親にまとめて、この祈りを捧げた。

これが、岡本太郎の、母への最初の祈りの碑である。

そしてそれから約10年後の1971年。

太郎は60歳の時、もう一つの、より大きな祈りの形を構想する。

「母の塔」である。

岡本太郎は、自分のアトリエで原型を制作した。土を捏ね、塔の形を、自分の手で作り上げた。塔の上部に女性の顔がある。塔の下部にも、もう一つの女性の顔がある。塔の全体が、女性の身体のような、有機的な曲線で構成されている。

これは、何か。

岡本太郎は、後にこう説明している。

「大地に深く根ざした巨木のたくましさ」 「ゆたかでふくよかな母のやさしさ」 「天空に向かって燃えさかる永遠の生命」

この三つの要素が、母の塔のテーマだった。

母は、大地に深く根ざしている。 母は、豊かで優しい。 母は、天空に向かって、永遠の生命を燃やし続けている。

これが、岡本太郎の、母への究極の祈りだった。

そして、これは岡本かの子だけの話ではない。

岡本太郎にとって、母とは、自分の母・かの子であると同時に、人類すべての、根源的な母性のことだった。

縄文の土偶に表現されている、豊満な母性。

世界中の神話に登場する、大地母神。

ヒンドゥー教のシャクティ(宇宙の女性原理)。

ギリシャ神話のガイア(大地の女神)。

中国の女媧(にゅうわ、人類を創造した女神)。

日本神話のイザナミ(国生みの女神)。

これらすべてが、岡本太郎にとって「母」だった。そして、母の塔は、それらすべての母性の、現代における再現だった。

岡本太郎は、太陽の塔で、現代日本にシャーマニズムを取り戻そうとした。明日の神話で、原爆という不可視の力を、現代の呪術として可視化した。そして、母の塔で、人類の根源的な母性へ、最後の祈りを捧げた。

これが、岡本太郎の三大作品の構造である。

太陽の塔 = 父性、生命の上昇、進化 明日の神話 = 死と再生、原爆を乗り越える人類 母の塔 = 母性、大地、永遠の生命

三つで、一つの完結した宇宙観を形作っている。

そして、母の塔の配置にも、深い意味がある。

母の塔は、生田緑地の中、岡本太郎美術館の屋外に立っている。しかし、その向きが重要である。

川崎市岡本太郎美術館の公式情報には、こう書かれている。「この塔の正面は、まっすぐに高津区二子の岡本かの子文学碑『誇り』に向けて建てられています」。

つまり、生田緑地の母の塔は、多摩川のほとりの、母・かの子の文学碑「誇り」に向かって、まっすぐにその正面を向けている。

息子・太郎が晩年に建てた祈りの塔(母の塔)が、若き日に建てた、母への最初の祈りの碑(誇り)に、まっすぐに繋がっている。

そして、その間を、不可視の、霊的な線が結んでいる。

岡本太郎は、自分が亡くなった後も、永遠に母と対話を続けるための装置として、これを設計した。

これが、母の塔の本当の意味である。

そして、母の塔の施工方法にも、太郎らしさがある。

塔の先端からまず完成させ、そこから押し上げては、順に下を製作していくという、特殊な工法(ジャッキアップ工法)がとられた。まるで大地から生えてくるように、塔はゆっくりと伸びていき、6回のジャッキアップを経て完成した。

外装は、岡本太郎の「光らせるな、輝かせろ」というイメージを実現するため、「タローホワイト」という、真珠色のクラッシュ・タイルが使われている。季節や時間の変化につれて、塔はゆっくりと表情を変え、微妙な揺らぎや光を放っている。

母の塔は、太郎が亡くなった1996年1月7日(84歳)の後、川崎市岡本太郎美術館の開館(1999年10月)に合わせて、生田緑地の中央に、シンボルタワーとして建立された。太郎自身は、完成した塔を、自分の目で見ることはできなかった。しかし、彼の意図は忠実に再現された。

母・かの子は49歳で亡くなった。太郎は84歳まで生きた。息子は、母よりもずっと長く生きた。そして生涯、母を求め続けた。

そして、その求めの最終的な形が、生田緑地に立っている。

母の塔。

高さ30メートル。白く輝く塔。多摩川のほとりの、母の文学碑「誇り」を見つめながら。母の塔は、今も、生田緑地で立ち続けている。

そして、生田緑地の母の塔と、多摩川のほとりの「誇り」。その二つの間で、太郎は、母・かの子と、永遠の対話を続けている。

これが、母の塔の本当の構造である。

ただの彫刻ではない。ただのモニュメントでもない。これは、岡本太郎の、母への永遠の祈りの結晶である。

そして、現代、母の塔の前に立つ人々がいる。

彼らの多くは、母の塔のこうした深い意味を知らない。

「あ、岡本太郎の作品だ」「変な形だな」「30メートル、大きいな」。

そういう感想で、写真を撮って、通り過ぎる。

しかし、その中に、ごく僅か、何かを感じる人がいる。

母の塔の前で立ち止まり、しばらく見上げる人。そして、自分の中の何かが動き始めるのを感じる人。

それは、岡本太郎が母の塔に込めた、根源的な母性へのアクセスなのである。

人間は皆、母から生まれた。すべての人間に、母がいた。そして母を通じて、人類は永遠に繋がっている。

母の塔の前で、その繋がりを感じる瞬間。

それが、岡本太郎の、最後の祈りの結実である。

そして、その母の塔がある場所、神奈川県川崎市・生田緑地。これが、岡本太郎の聖地である。

そこには、もう一つ、岡本太郎のすべてが収められている場所がある。

「川崎市岡本太郎美術館」である。

岡本太郎が生涯をかけて制作した、約1800点の作品が収蔵されている。その話を、次の章で書く。

第11章「生田緑地、岡本太郎美術館 — 川崎が産んだ呪術師の聖地」

岡本太郎は、自分の主要作品1779点を、生まれ故郷である神奈川県川崎市に託した。

これは、ただの「故郷への恩返し」ではない。少なくとも、太郎の作品が最も深く集められ、保存され、次の時代へ手渡される場所として、川崎市が選ばれたのである。

そして川崎市は、その思いを受け取り、彼の作品を収める特別な美術館を建てた。

「川崎市岡本太郎美術館」である。

開館は、1999年10月30日。場所は、川崎市多摩区の生田緑地の中。最寄り駅は、小田急線・向ヶ丘遊園駅。

そして、この美術館には、一つの奇妙な特徴がある。

「ほとんどの施設が、地下にある」。

これは、美術館としてかなり珍しい構造である。普通、美術館は地上に堂々と建てる。しかし、川崎市岡本太郎美術館は、地下に潜っている。

なぜか。

公式の理由は、こうである。「自然と融合した美術館」をコンセプトとし、生田緑地の自然を壊さないために、主要な施設の多くを地下に収めた。地上には、母の塔を中心とする公園スペース、カフェテリア、湧水を利用した池や滝などが配置されている。

しかし、ここで、深読みしてみる。

もちろん、これから書くことは、公式にそう説明されているわけではない。ここから先は、岡本太郎の作品構造から読み解く、一つの解釈である。

岡本太郎の思想を、思い出してほしい。

第5章、第6章で書いた、太陽の塔の地下空間「いのり」。世界中の神像と仮面が並べられた、シャーマニズムの祭祀空間。その中心に、地底の太陽。

岡本太郎は生涯、「地下 = 不可視の世界 = 死と再生の場所」という、シャーマニズムの世界観を追求し続けた。

そして、彼の作品を収める美術館も、地下に建てられた。

これは、偶然か。

偶然ではない可能性が、高い。

生田緑地の地上には、母の塔が立っている。そして、その地下に、岡本太郎の約1800点の作品が収められている。

地上の母性(生命の樹)と、地下の作品(不可視の世界)。

これは、太陽の塔とまったく同じ構造である。太陽の塔の場合は、地上の塔と、地下の地底の太陽。生田緑地の場合は、地上の母の塔と、地下の美術館。

もちろん、岡本太郎が生田緑地全体を自ら設計し直した、とは言えない。しかし、結果として生田緑地には、岡本太郎のもう一つの聖地と呼べる構造が生まれた、ということになる。太陽の塔は、大阪万博公園。母の塔と地下の美術館は、川崎市・生田緑地。二つの聖地が、東西に配置されている。

これを、岡本太郎の晩年のヴィジョンが死後に形を取ったものとして読むことはできる。

そして、川崎市岡本太郎美術館の収蔵品。約1800点。

これは、岡本太郎作品を収蔵する施設として、国内最大級の規模である。

絵画。彫刻。デザイン作品。書籍。写真。スケッチ。原稿。手紙。アトリエの遺品。アクセサリー、グラス、椅子などの生活用品。

岡本太郎の生涯のすべてが、ここにある。

そして、興味深いことに、岡本太郎の両親、岡本一平と岡本かの子の作品も収蔵されている。

第1章で書いた、「聖家族」と呼ばれた岡本一家。父・一平の漫画原画、母・かの子の歌稿や原稿。これらも、川崎市岡本太郎美術館で見ることができる。

つまり、ここは、岡本太郎一人の美術館ではなく、「聖家族」の聖地である。

太郎、一平、かの子。三人の魂が、ここに集まっている。

そして、彼らの魂は、ここから母の塔を見上げている。

そして母の塔は、その視線を受け止めて、多摩川のほとりの、二子神社・かの子の文学碑「誇り」へ繋いでいる。

これが、川崎市岡本太郎美術館の本当の構造である。

ただの美術館ではない。岡本一家の聖地である。

そして、その聖地の中心に、地下の約1800点の収蔵品がある。

訪れた人は、まず、生田緑地の自然の中を歩く。母の塔を見上げる。そして、エントランスから地下へと降りていく。

エスカレーターで、下へ、下へ。

地下に降りた瞬間、空気が変わる。

生田緑地の緑の世界から、岡本太郎の宇宙の中へ。

そこに、約1800点の作品が待っている。

通常時は、エントランスホールで、躍動感ある「千手」がお出迎え(展示作品は定期的に入れ替わる)。常設展示室には、入口すぐの「赤の部屋」(人気のフォトスポット)、中央には「樹人」、そして「いすのコーナー」。座面に目や口をかたどった『坐ることを拒否する椅子』や、リアルな手の形の『手の椅子』など、様々なデザインのイスに実際に座ることができる。常設展示室は写真撮影が可能で、絵画の表面にガラス板はなく、作品を間近でじっくり鑑賞できる。

絵画の前で立ち止まると、絵から何かが放たれているのを感じる。

彫刻の前で立ち止まると、彫刻がこちらを見つめているのを感じる。

これは、ただの美術鑑賞ではない。岡本太郎の呪術との、対面である。

そして、訪問者の多くは、この体験に圧倒される。

「岡本太郎を、テレビでしか知らなかった。しかし、本物の作品の前に立つと、まったく違う」

「絵が、生きていた」

「言葉にできない。しかし、何かを受け取った」

そういう感想を、多くの人が残している。

これが、川崎市岡本太郎美術館の本当の機能である。

岡本太郎が生涯をかけて作品に込めた、不可視の力。それが、地下の展示室で、来館者を待ち構えている。

訪れた人は、知らないうちに、その力を受け取る。

そして、帰る頃には、何かが変わっている。

これが、岡本太郎の、最後の贈り物である。

ここで、訪問のための実用情報を書いておく。

【場所】神奈川県川崎市多摩区枡形7-1-5、生田緑地内 【最寄り駅】小田急線・向ヶ丘遊園駅(南口)から徒歩約17分。または、東口「生田緑地東口ビジターセンター」から徒歩約8分 【バス】向ヶ丘遊園駅南口から、市バス・東急バスで「生田緑地入口」下車、徒歩約8分。溝の口駅・たまプラーザ駅方面とを結ぶバス路線もある 【駐車場】美術館に専用駐車場はなし。生田緑地の有料駐車場を利用

通常時の展示室は、9:30〜17:00(入館は16:30まで)。月曜定休(祝日の場合は開館)。

しかし、ここで、訪問予定の方への、極めて重要なお知らせがある。

川崎市岡本太郎美術館は、改修工事に伴い、令和8年(2026年)3月30日から、令和11年(2029年)3月31日(予定)まで、約3年間、展示室での展覧会を休止している。

つまり、現在、岡本太郎の本格的な展示は見られない。

「では、行く意味はないのか」

そうはならない。

なぜなら、岡本太郎の最大の作品は、屋外にある「母の塔」だからである。母の塔は屋外にあるため、改修期間中も原則として見ることができる。

そして、令和8年度(2026年4月〜2027年3月)は、館内の無料スペースでミニ展示「ちょこっとTARO」が開催される予定で、観覧は無料となる。岡本太郎の立体作品などを楽しむことができる。令和9年度以降の対応は、川崎市岡本太郎美術館の公式情報で最新情報を確認してほしい。

つまり、改修期間中も、岡本太郎の聖地を訪れる価値は、十分にある。

そして、もう一つ、改修期間中の訪問者には、ある特別な体験がある。

それは、「人混みのない、静かな聖地」を体験できることである。

通常時は、展覧会や観光で訪れる人が多い。しかし、改修期間中は、本格的な展示が休止されているため、より静かに母の塔と向き合える可能性がある。生田緑地の静かな自然の中で、母の塔とゆっくり対話することができる。

これは、改修中だからこそ味わえる、特別な体験である。

人の少ない静寂の中で、高さ30メートルの母の塔と、二人きりで向き合う。

その時、母の塔は、訪問者に語りかける。

「お前は、よく来た。お前の中の、爆発を、止めるな」

そして、訪問者は、母の塔の前で立ち尽くす。

しばらく、見上げる。

そして、自分の中の何かが動き始めるのを感じる。

これが、現在(2026〜2029年)の、川崎市岡本太郎美術館の、特別な楽しみ方である。

そして、2029年4月。改修が完了する(予定)。

新しくなった岡本太郎美術館で、約1800点の作品が、再び公開される。

その時、岡本太郎のすべての作品が、新しい姿で来館者を迎える。

これは、新しい聖地の誕生である。

3年間、母の塔だけが訪問者を迎え続けた、生田緑地。その地下に眠っていた約1800点の作品が、再び目覚める。

岡本太郎の、新しい聖地巡礼の時代が始まる。

それまでの3年間。訪問者は、母の塔の前で、ただ立ち尽くす。

そして、岡本太郎が地下から放ち続ける、不可視の力を感じる。

これが、現在の生田緑地の、本当の姿である。

最後に、もう一つ書いておきたい。

岡本太郎の作品は、川崎市岡本太郎美術館にだけあるのではない。

東京・南青山には、岡本太郎が晩年まで住み、制作していたアトリエがある。「岡本太郎記念館」として、現在公開されている。彼の生活空間が、ほぼ当時のまま残されており、岡本太郎の生活の場を見学することができる。

そして、渋谷駅の連絡通路には、「明日の神話」がある。

そして、大阪万博公園には、「太陽の塔」がある。

岡本太郎の聖地は、複数ある。

しかし、その中で、最も深い、最も根源的な、最も彼自身の魂に近い聖地が、生田緑地の、川崎市岡本太郎美術館である。

なぜなら、ここには、彼が生涯をかけて作った約1800点の作品が、地下に眠っているからである。

地下 = 不可視の世界 = 魂の世界。

岡本太郎は、自分の魂を、生田緑地の地下に預けた。

そして、今も、そこにいる。

訪問者を、待っている。

次の章で、もう少し、生田緑地の歩き方について書く。

第12章「太郎の作品が、人を呼ぶ — 実際に起きた、信じがたい体験談」

岡本太郎の作品の前に立った人は、何かを、感じる。それは、ただの「芸術鑑賞」では、ない。

ここから書くのは、岡本太郎の作品にまつわる、ネットや書籍に散見される、印象的な感想や噂話である。太陽の塔、明日の神話、母の塔、岡本太郎美術館の収蔵作品。これらと出会った人々が、その後、人生を変えた、と語ることがある。

これらは、すべて、特定の個人の確定的な証言として、検証されたものでは、ない。しかし、岡本太郎の作品に関しては、こうした「呼ばれた」「変わった」と語る人が、現代でも、繰り返し、現れ続けている。

一つ目、太陽の塔の内部見学者の、感想。

2018年3月19日、太陽の塔の内部見学が、48年ぶりに、再開された。万博終了後の1970年以降、48年間、塔の内部は、原則として、非公開だった。それが、突然、見られるようになった。

2018年の内部公開を控えて、2016年10月に行われた、工事前最後の内部公開では、500人の定員に対して、約8万人の応募が殺到した、と報じられている。

そして、内部公開以降も、予約は4か月先までいっぱい、という状況が、しばらく続いた。

塔の内部に入った人々は、皆、衝撃を、受けたと言われる。

ネット上には、こうした感想が、繰り返し、書き込まれている。「中に入ると、内部で流れている音楽が、ちょっと怖い」「『この世の始まりなのか、この世の終わりなのか』、そんな感じの音楽だ」「空気が、変わる」「ここは、ただの観光地では、ない」「何か、神聖な場所に、足を踏み入れたような感覚がする」。

ちなみに、塔の内部で流れている音楽は、「生命の讃歌」、と呼ばれる、黛敏郎(まゆずみ・としろう、1929-1997)の作曲した、曲である。黛敏郎は、戦後のクラシック音楽、現代音楽界を代表する音楽家の一人で、テレビ番組『題名のない音楽会』の司会も務めた。1970年の万博当時は、下からは「地底の唄」、上からは「天上の唄」が、流れていて、中央で重なって、「生命の讃歌」になっていた。現在は、「生命の讃歌」のみが、採用されている。

また、こんな感想も、繰り返し、報告されている。「階段を上がっていくと、突然、自分の中の、何かが、動き始めるのを感じた」「1階から、2階、3階と、上がるごとに、自分が、別の人間に、なっていく感覚」「原始生物から、人類への、進化の過程を、自分の身体で、追体験しているような気がした」。

そして、最も多く、見られるのが、これである。

「太陽の塔の中で、急に、涙が出てきた」「理由は、わからない。しかし、何かが、自分の中で、解放されるのを感じた」。

これは、第5章で書いた、太陽の塔の構造を、知っていれば、説明できる。岡本太郎は、太陽の塔の内部を、「死と再生のシャーマニズム儀礼」の経路として、設計した。地下の「いのり」で、象徴的な死を体験し、生命の樹を登りながら、原始から現代へ、進化を辿り、頂部で、再生する。

これは、世界中のシャーマニズムにおける、イニシエーション(通過儀礼)の構造である。

そして、太陽の塔の中で、その儀礼を、追体験した人は、無意識のうちに、自分自身の「死と再生」を、経験する。だから、涙が、出る。何かが、解放される。出てきた時、別の人間に、なっている。

これが、岡本太郎が、太陽の塔に、込めた、本当の呪術である、と言われている。

二つ目、地底の太陽の、本物を見たという、噂話。

第6章で書いた、地底の太陽。1970年の万博終了後、約50年間、行方不明になっている、岡本太郎の作品。2018年に復刻版が公開されたが、本物は、未だに、見つかっていない。

しかし、ネット上には、地底の太陽の、奇妙な目撃情報が、流れている。

「兵庫県の、ある倉庫で見た」
「静岡県の、ある場所で見た」
「大阪の埋め立て地を作る際に、廃材に紛れて、一緒に埋められた」

これらは、検証されていない、噂である。前の章で書いた、2019年放送『志村&所の戦うお正月』での調査による「夢洲埋め立て説」も、解体業者の証言を元にした、未確認情報の一つに過ぎない。

しかし、興味深いのは、こうした「目撃情報」が、複数の地域から、流れていることである。

地底の太陽は、本当に、どこかに、ある。

しかし、その「どこか」が、特定できない。

それは、まるで、地底の太陽が、自分の意志で、人々に、姿を、見せたり、隠したりしているかのようでもある。

ある人は、見たと、感じる。

しかし、後から訪れる人には、もう、見えない。

これは、第6章で書いた、地底の神の性質、そのものである。地底の神は、地下に、隠れている。時々、地上に、姿を、見せる。しかし、それは、限られた人にだけ、である。

地底の太陽は、選ばれた人にだけ、姿を、見せている。

そう、解釈することも、できる。

三つ目、明日の神話の前で、起きること。

渋谷駅の連絡通路に、設置されている、明日の神話。1日に、約30万人もの人々が、その前を、通過する。

その中で、ほんの一握りの人が、絵の前で、足を止める、と言われている。

そして、ネット上には、こうした感想も、見られる。

「渋谷駅で、通勤途中に、明日の神話の前を、通った」「普段は、ただ通り過ぎるだけ」「しかし、その日は、なぜか、足が、止まった」「絵の前で、5分くらい、立ち尽くしていた」「気がついたら、頬を、涙が、伝っていた」。

「明日の神話を見て、何かが、変わった」「それまで、迷っていた、人生の決断を、その日、決めた」「会社を辞めて、本当にやりたいことを、始めた」。

「絵を見た夜、岡本太郎の夢を、見た」「彼が、私に、何かを、語りかけていた」「目が覚めた時、その言葉は、覚えていなかった」「しかし、自分の中の、何かが、確かに、変わっていた」。

こうした感想が、繰り返し、ネット上に、現れる。

これは、第7章で書いた、明日の神話保全継承機構の、公式ステートメントと、見事に、対応している。

「『明日の神話』の不思議な力が、街を行き交う一人ひとりに、未来へ向かうエネルギーとなって戻ってくる」。

その「不思議な力」を、感じる人が、いる。

絵から、エネルギーが、放たれている。

そして、それを、受け取った人は、人生が、変わる、と言われている。

これも、岡本太郎の、呪術である。

四つ目、母の塔の前で、起きること。

神奈川県川崎市・生田緑地に、立つ、高さ30メートルの母の塔。改修工事中の現在も、屋外なので、見ることが、できる。

母の塔の、SNSや、ブログでの感想を、見てみると、こんな声が、ある、と言われている。

「母の塔の前に立った瞬間、亡くなった母のことを、思い出して、号泣した」「長い間、母の死を、ちゃんと、悲しめていなかった」「母の塔の前で、初めて、ちゃんと、泣くことが、できた」。

「子供を産んだばかりの自分が、母の塔の前で、自分の中の母性に、初めて、触れた気がした」「私は、ちゃんと、母に、なれるかもしれない、と思えた」。

「私には、母との関係に、深い、傷があった」「しかし、母の塔の前で、その傷が、少しだけ、癒えた気がした」「それまで、母に対して、感じていた、複雑な感情が、その日から、少しずつ、変化していった」。

母の塔は、人類すべての、根源的な母性への、入口として、岡本太郎が、設計した。だから、母に関する、何かを、抱えている人ほど、その前で、強く、反応するのかもしれない。

岡本太郎自身が、母・かの子に対して、複雑な感情を、抱え続けた。そして、その感情を、塔として、結晶化させた。だから、似た感情を抱える人は、母の塔の前で、自分の感情と、共鳴することになる、と言われている。

これも、岡本太郎の、呪術である。

五つ目、岡本太郎美術館での、体験。

川崎市・生田緑地の、岡本太郎美術館は、現在、改修工事中(2026年3月〜2029年3月予定)。本格的な展示は、見られない。

しかし、過去の来館者の感想を、ネットで見ると、こんな声が、繰り返し、現れる。

「展示室で、岡本太郎の絵を、見ていた時、絵から、声が、聞こえた気がした」「『お前は、お前のままで、いい』」「誰の声か、わからない。しかし、それは、確かに、自分に、向けられた、言葉だった」。

「美術館を、出た後、生田緑地の中を、歩いていたら、急に、笑いが、止まらなくなった」「何が、おかしいのか、わからない。しかし、自分の中で、何かが、爆発したような、感覚だった」「岡本太郎の言う、『芸術は爆発だ』が、自分の中で、起きたのだと、思った」。

「岡本太郎美術館に行ってから、人生が、変わった」「それまで、世間体ばかり、気にしていた」「しかし、岡本太郎の作品を、見て、『俺は、俺の人生を、生きていない』と、気づいた」「その日から、徐々に、変えていった」「今は、本当に、やりたいことを、やっている」。

これらは、すべて、岡本太郎が、生涯をかけて、メッセージとして、放ち続けたものを、来館者が、受け取った、結果と、解釈することもできる。

「お前の中の、爆発を、止めるな」
「お前自身として、生きろ」
「世間の常識に、自分を、合わせるな」

岡本太郎は、生涯、それを、叫び続けた。そして、彼が亡くなって、30年経った今でも、彼の作品は、それを、放ち続けている。

そして、それを、感じた人は、本当に、人生が、変わる、と言われている。

ここで、もう一度、第1章で書いた、岡本太郎の言葉を、思い出してほしい。

「すべての人間は、芸術家であるべきだ。自分自身の生命を、芸術として、生きるべきだ」

岡本太郎の、芸術は、絵画ではなく、彫刻でもなく、生き方そのもの、だった。

そして、彼の作品の前に立った人は、その「生き方」を、受け取る。

絵が、語りかける。

塔が、見つめている。

そして、その人の中の、忘れられていた、生命の声が、目覚める。

「俺も、爆発しよう」

「俺も、自分の人生を、生きよう」

そう、決意する。

それが、岡本太郎の、本当の力である、と言われている。

そして、ここで、最後に、書いておきたいことがある。

岡本太郎の作品は、生田緑地だけに、あるのではない。

太陽の塔は、大阪万博公園に。
明日の神話は、渋谷駅に。
岡本太郎の作品は、東京・南青山の岡本太郎記念館に。
母の塔と、約1800点の作品は、川崎市・生田緑地に。

これらは、岡本太郎が、日本中に、配置した、巨大な、呪術の、ネットワークである、と解釈することもできる。

そして、それらが、放つエネルギーは、現代も、生きている。

呼ばれた人は、いつか、必ず、そのどこかに、辿り着く。

そして、辿り着いた人は、永遠に、変えられる、と言われている。

それが、岡本太郎、なのである。

最後に、岡本太郎を、深く、辿るための、生田緑地の歩き方を、書く。

次の章が、最終章である。

第12章「太郎の作品が、人を呼ぶ — 実際に起きた、信じがたい体験談」

岡本太郎の作品の前に立った人は、何かを、感じる。それは、ただの「芸術鑑賞」では、ない。

ここから書くのは、岡本太郎の作品にまつわる、ネットや書籍に散見される、印象的な感想や噂話である。太陽の塔、明日の神話、母の塔、岡本太郎美術館の収蔵作品。これらと出会った人々が、その後、人生を変えた、と語ることがある。

これらは、すべて、特定の個人の確定的な証言として、検証されたものでは、ない。しかし、岡本太郎の作品に関しては、こうした「呼ばれた」「変わった」と語る人が、現代でも、繰り返し、現れ続けている。

一つ目、太陽の塔の内部見学者の、感想。

2018年3月19日、太陽の塔の内部見学が、48年ぶりに、再開された。万博終了後の1970年以降、48年間、塔の内部は、原則として、非公開だった。それが、突然、見られるようになった。

2018年の内部公開を控えて、2016年10月に行われた、工事前最後の内部公開では、500人の定員に対して、約8万人の応募が殺到した、と報じられている。

そして、内部公開以降も、予約は4か月先までいっぱい、という状況が、しばらく続いた。

塔の内部に入った人々は、皆、衝撃を、受けたと言われる。

ネット上には、こうした感想が、繰り返し、書き込まれている。「中に入ると、内部で流れている音楽が、ちょっと怖い」「『この世の始まりなのか、この世の終わりなのか』、そんな感じの音楽だ」「空気が、変わる」「ここは、ただの観光地では、ない」「何か、神聖な場所に、足を踏み入れたような感覚がする」。

ちなみに、塔の内部で流れている音楽は、「生命の讃歌」、と呼ばれる、黛敏郎(まゆずみ・としろう、1929-1997)の作曲した、曲である。黛敏郎は、戦後のクラシック音楽、現代音楽界を代表する音楽家の一人で、テレビ番組『題名のない音楽会』の司会も務めた。1970年の万博当時は、下からは「地底の唄」、上からは「天上の唄」が、流れていて、中央で重なって、「生命の讃歌」になっていた。現在は、「生命の讃歌」のみが、採用されている。

また、こんな感想も、繰り返し、報告されている。「階段を上がっていくと、突然、自分の中の、何かが、動き始めるのを感じた」「1階から、2階、3階と、上がるごとに、自分が、別の人間に、なっていく感覚」「原始生物から、人類への、進化の過程を、自分の身体で、追体験しているような気がした」。

そして、最も多く、見られるのが、これである。

「太陽の塔の中で、急に、涙が出てきた」「理由は、わからない。しかし、何かが、自分の中で、解放されるのを感じた」。

これは、第5章で書いた、太陽の塔の構造を、知っていれば、説明できる。岡本太郎は、太陽の塔の内部を、「死と再生のシャーマニズム儀礼」の経路として、設計した。地下の「いのり」で、象徴的な死を体験し、生命の樹を登りながら、原始から現代へ、進化を辿り、頂部で、再生する。

これは、世界中のシャーマニズムにおける、イニシエーション(通過儀礼)の構造である。

そして、太陽の塔の中で、その儀礼を、追体験した人は、無意識のうちに、自分自身の「死と再生」を、経験する。だから、涙が、出る。何かが、解放される。出てきた時、別の人間に、なっている。

これが、岡本太郎が、太陽の塔に、込めた、本当の呪術である、と言われている。

二つ目、地底の太陽の、本物を見たという、噂話。

第6章で書いた、地底の太陽。1970年の万博終了後、約50年間、行方不明になっている、岡本太郎の作品。2018年に復刻版が公開されたが、本物は、未だに、見つかっていない。

しかし、ネット上には、地底の太陽の、奇妙な目撃情報が、流れている。

「兵庫県の、ある倉庫で見た」
「静岡県の、ある場所で見た」
「大阪の埋め立て地を作る際に、廃材に紛れて、一緒に埋められた」

これらは、検証されていない、噂である。前の章で書いた、2019年放送『志村&所の戦うお正月』での調査による「夢洲埋め立て説」も、解体業者の証言を元にした、未確認情報の一つに過ぎない。

しかし、興味深いのは、こうした「目撃情報」が、複数の地域から、流れていることである。

地底の太陽は、本当に、どこかに、ある。

しかし、その「どこか」が、特定できない。

それは、まるで、地底の太陽が、自分の意志で、人々に、姿を、見せたり、隠したりしているかのようでもある。

ある人は、見たと、感じる。

しかし、後から訪れる人には、もう、見えない。

これは、第6章で書いた、地底の神の性質、そのものである。地底の神は、地下に、隠れている。時々、地上に、姿を、見せる。しかし、それは、限られた人にだけ、である。

地底の太陽は、選ばれた人にだけ、姿を、見せている。

そう、解釈することも、できる。

三つ目、明日の神話の前で、起きること。

渋谷駅の連絡通路に、設置されている、明日の神話。1日に、約30万人もの人々が、その前を、通過する。

その中で、ほんの一握りの人が、絵の前で、足を止める、と言われている。

そして、ネット上には、こうした感想も、見られる。

「渋谷駅で、通勤途中に、明日の神話の前を、通った」「普段は、ただ通り過ぎるだけ」「しかし、その日は、なぜか、足が、止まった」「絵の前で、5分くらい、立ち尽くしていた」「気がついたら、頬を、涙が、伝っていた」。

「明日の神話を見て、何かが、変わった」「それまで、迷っていた、人生の決断を、その日、決めた」「会社を辞めて、本当にやりたいことを、始めた」。

「絵を見た夜、岡本太郎の夢を、見た」「彼が、私に、何かを、語りかけていた」「目が覚めた時、その言葉は、覚えていなかった」「しかし、自分の中の、何かが、確かに、変わっていた」。

こうした感想が、繰り返し、ネット上に、現れる。

これは、第7章で書いた、明日の神話保全継承機構の、公式ステートメントと、見事に、対応している。

「『明日の神話』の不思議な力が、街を行き交う一人ひとりに、未来へ向かうエネルギーとなって戻ってくる」。

その「不思議な力」を、感じる人が、いる。

絵から、エネルギーが、放たれている。

そして、それを、受け取った人は、人生が、変わる、と言われている。

これも、岡本太郎の、呪術である。

四つ目、母の塔の前で、起きること。

神奈川県川崎市・生田緑地に、立つ、高さ30メートルの母の塔。改修工事中の現在も、屋外なので、見ることが、できる。

母の塔の、SNSや、ブログでの感想を、見てみると、こんな声が、ある、と言われている。

「母の塔の前に立った瞬間、亡くなった母のことを、思い出して、号泣した」「長い間、母の死を、ちゃんと、悲しめていなかった」「母の塔の前で、初めて、ちゃんと、泣くことが、できた」。

「子供を産んだばかりの自分が、母の塔の前で、自分の中の母性に、初めて、触れた気がした」「私は、ちゃんと、母に、なれるかもしれない、と思えた」。

「私には、母との関係に、深い、傷があった」「しかし、母の塔の前で、その傷が、少しだけ、癒えた気がした」「それまで、母に対して、感じていた、複雑な感情が、その日から、少しずつ、変化していった」。

母の塔は、人類すべての、根源的な母性への、入口として、岡本太郎が、設計した。だから、母に関する、何かを、抱えている人ほど、その前で、強く、反応するのかもしれない。

岡本太郎自身が、母・かの子に対して、複雑な感情を、抱え続けた。そして、その感情を、塔として、結晶化させた。だから、似た感情を抱える人は、母の塔の前で、自分の感情と、共鳴することになる、と言われている。

これも、岡本太郎の、呪術である。

五つ目、岡本太郎美術館での、体験。

川崎市・生田緑地の、岡本太郎美術館は、現在、改修工事中(2026年3月〜2029年3月予定)。本格的な展示は、見られない。

しかし、過去の来館者の感想を、ネットで見ると、こんな声が、繰り返し、現れる。

「展示室で、岡本太郎の絵を、見ていた時、絵から、声が、聞こえた気がした」「『お前は、お前のままで、いい』」「誰の声か、わからない。しかし、それは、確かに、自分に、向けられた、言葉だった」。

「美術館を、出た後、生田緑地の中を、歩いていたら、急に、笑いが、止まらなくなった」「何が、おかしいのか、わからない。しかし、自分の中で、何かが、爆発したような、感覚だった」「岡本太郎の言う、『芸術は爆発だ』が、自分の中で、起きたのだと、思った」。

「岡本太郎美術館に行ってから、人生が、変わった」「それまで、世間体ばかり、気にしていた」「しかし、岡本太郎の作品を、見て、『俺は、俺の人生を、生きていない』と、気づいた」「その日から、徐々に、変えていった」「今は、本当に、やりたいことを、やっている」。

これらは、すべて、岡本太郎が、生涯をかけて、メッセージとして、放ち続けたものを、来館者が、受け取った、結果と、解釈することもできる。

「お前の中の、爆発を、止めるな」
「お前自身として、生きろ」
「世間の常識に、自分を、合わせるな」

岡本太郎は、生涯、それを、叫び続けた。そして、彼が亡くなって、30年経った今でも、彼の作品は、それを、放ち続けている。

そして、それを、感じた人は、本当に、人生が、変わる、と言われている。

ここで、もう一度、第1章で書いた、岡本太郎の言葉を、思い出してほしい。

「すべての人間は、芸術家であるべきだ。自分自身の生命を、芸術として、生きるべきだ」

岡本太郎の、芸術は、絵画ではなく、彫刻でもなく、生き方そのもの、だった。

そして、彼の作品の前に立った人は、その「生き方」を、受け取る。

絵が、語りかける。

塔が、見つめている。

そして、その人の中の、忘れられていた、生命の声が、目覚める。

「俺も、爆発しよう」

「俺も、自分の人生を、生きよう」

そう、決意する。

それが、岡本太郎の、本当の力である、と言われている。

そして、ここで、最後に、書いておきたいことがある。

岡本太郎の作品は、生田緑地だけに、あるのではない。

太陽の塔は、大阪万博公園に。
明日の神話は、渋谷駅に。
岡本太郎の作品は、東京・南青山の岡本太郎記念館に。
母の塔と、約1800点の作品は、川崎市・生田緑地に。

これらは、岡本太郎が、日本中に、配置した、巨大な、呪術の、ネットワークである、と解釈することもできる。

そして、それらが、放つエネルギーは、現代も、生きている。

呼ばれた人は、いつか、必ず、そのどこかに、辿り着く。

そして、辿り着いた人は、永遠に、変えられる、と言われている。

それが、岡本太郎、なのである。

最後に、岡本太郎を、深く、辿るための、生田緑地の歩き方を、書く。

次の章が、最終章である。

第13章「生田緑地、深く歩くための10の場所」

岡本太郎の聖地、生田緑地。総面積、約179.3ヘクタールが都市計画決定され、その内約117.4ヘクタールが市民に供用されている、川崎市最大の都市公園である。

ここに、岡本太郎が眠っている。約1800点の作品が、地下に収められている。母の塔が、立っている。

しかし、生田緑地の魅力は、岡本太郎美術館と母の塔だけではない。緑地の中には、岡本太郎をより深く感じるための、複数の場所がある。

ここでは、生田緑地を深く歩くための、10の場所を紹介する。岡本太郎を感じるための、聖地巡礼のルートとして、参考にしてほしい。

【1. 岡本太郎美術館・エントランスへのアプローチ】

最寄りは、小田急線・向ヶ丘遊園駅(南口)。徒歩約17分。

駅から川を渡り、稲生橋の大きな交差点を渡って、生田緑地に入る。中央の園路を5分ほど奥に進むと、岡本太郎美術館のエントランスに辿り着く。

このアプローチの途中で、樹齢の高いメタセコイアや、シラカシなどの林の中を抜ける。木漏れ日。鳥の声。緑の匂い。生田緑地は、川崎市の里山の風情を、今も残している。

この道を歩きながら、心を整える。岡本太郎の聖地に入る、心の準備をする。

そして、視界が開ける。

高さ30メートルの、白い、巨大な塔。

母の塔が、現れる。

【2. 母の塔】

第10章で詳しく書いた、岡本太郎の、母への永遠の祈りの結晶。

しばらく、塔の前に立ち尽くしてほしい。

「大地に深く根ざした巨木のたくましさ」 「ゆたかでふくよかな母のやさしさ」 「天空に向かって燃えさかる永遠の生命」

この三つのテーマが、塔の中に込められている。

ここから約10キロ離れた、多摩川のほとりの、二子神社・かの子の文学碑「誇り」へ、塔の正面が、まっすぐに向けられている。塔の前で、その方向を感じてみてほしい。

そして、自分の心を開く。

母の塔から、何かが放たれているのを感じる人がいる、と言われている。

【3. 川崎市岡本太郎美術館・常設展示室(改修期間中は「ちょこっとTARO」)】

母の塔の足元、地下に、川崎市岡本太郎美術館がある。エントランスから、地下に降りる。

通常時は、約1800点の収蔵品から選ばれた作品が、常設展示室で展示されている。エントランスホールの「千手」、常設展示室の「赤の部屋」、中央の「樹人」、「いすのコーナー」(「坐ることを拒否する椅子」「手の椅子」など)。写真撮影も可能。

ただし、注意してほしい。美術館は、令和8年(2026年)3月30日から、令和11年(2029年)3月31日(予定)まで、約3年間、展示室を休室している。

この期間中、令和8年度は、館内の無料スペースで、ミニ展示「ちょこっとTARO」が開催される予定(令和8年度は2026年4月18日から)。観覧は無料。岡本太郎の立体作品などを楽しむことができる。なお、工事期間中は、美術館屋外の通路が狭くなるなど、工事の影響がある。

令和9年度以降の対応は、川崎市岡本太郎美術館の公式情報で、最新の情報を確認してほしい。

【4. 奥の池】

母の塔から、生田緑地の南側へ歩く。

高木のメタセコイアに覆われた、奥の池が現れる。

メタセコイアは、約100万年前まで地球上に広く分布していた、植物の生き残りである。その背の高い針葉樹の林の中、湧き水でできた池。秋には、カエデの紅葉が見事。

奥の池には、ホタル、ドジョウなど、水辺の生き物が生息している。

この池の前で、深呼吸をしてほしい。100万年前の植物と、現代の人間が、ここで出会う。

岡本太郎が生涯追求した「四次元との対話」が、ここでは、自然そのものとして行われている。

なお、このメタセコイアの林の中、岡本太郎美術館の近くには、1971年に起きた「川崎ローム斜面崩壊実験事故」の慰霊碑がある。降雨を再現する斜面崩壊の実験中に、想定を超える土砂崩れが発生し、研究者・報道関係者ら15名が犠牲になった事故である。緑地は、悲しい歴史も抱え込んでいる場所である。

【5. 枡形山展望台】

奥の池から、緑地の北側へ向かう。途中、山道を登る。

標高84メートル、枡形山。生田緑地の中で、最も高い場所。

ここは、鎌倉時代、源頼朝の侍大将であった、稲毛三郎重成が城を構えたと伝えられている、枡形城の跡。山頂は、平坦な四角形の平地で、まるで「枡」のような形をしている。そこから、枡形山と名付けられた。

山頂には、1995年3月、川崎市制70周年を記念して建設された展望台がある。展望台の開放時間は、9:00〜17:00。

展望台から、360度のパノラマが楽しめる。東京都心、多摩川、富士山、東京スカイツリー、東京タワー、東京都庁。天気の良い日には、関東平野の、ほぼすべてが視界に入る。

高さは84メートルしかないが、周囲が低い土地なので、視野は極めて広い。

ここで、しばらく、風に吹かれてほしい。

岡本太郎が生まれ育った、川崎の土地。彼の魂が、この緑地の地下に眠っている。そして、その上に、関東平野の、無限の景色が広がっている。

【6. 日本民家園】

枡形山から、緑地の中央へ下りる。

川崎市立日本民家園。東日本の代表的な古民家を移築した、野外博物館である。文化財建造物、25件。江戸時代の民家が、ここに移されて、保存されている。

囲炉裏に、火が入っている。古民家の中に入ることができる。民具製作の実演。昔話の語り。

ここを訪れた人は、皆こう感じるという。「時間が、止まっている」。

岡本太郎が、縄文に見たもの、沖縄久高島で見たもの。それと地続きにある、日本の古い生活の風景が、ここに残されている。

開園時間は、3〜10月が9:30〜17:00、11〜2月が9:30〜16:30(入園は閉園30分前まで)。月曜休園(祝日の場合は翌火曜)。

岡本太郎は、生涯、「忘れられた日本」を追求した。その「忘れられた日本」が、ここでは、生きた形で残されている。

【7. かわさき宙(そら)と緑の科学館】

日本民家園の近く。

かわさき宙(そら)と緑の科学館。プラネタリウムがある。

プラネタリウム観覧料は、一般400円、高大生200円、65歳以上200円、中学生以下は無料(要証明書)。なお、川崎市在住の方は、年齢を問わず無料(要証明書)。月曜休館。

ここは、ファミリー向けの科学体験施設だが、岡本太郎の聖地巡礼の中に、組み込んでみてほしい。

なぜなら、岡本太郎は、宇宙を深く追求した人だったから、である。第3章で書いた、彼の「四次元との対話」。物理学の、五次元、十次元、十一次元の世界。これらは、すべて、宇宙の構造なのである。

プラネタリウムで、星空を見上げながら、岡本太郎の宇宙観を思い出してほしい。

「縄文人は、宇宙と対話していた。現代人も、それを取り戻すべきだ」。

太郎のメッセージが、星空の中に響く。

【8. しょうぶ園(ハナショウブの時期)】

緑地の中央に、しょうぶ園がある。

約2,800株の、ハナショウブが植栽されている。

例年の花期は、5月下旬〜6月中旬。紫や白の花が、一面に咲き誇る。

しょうぶ園の中心には、東屋が立っている。風情ある風景。

岡本太郎は、生涯、自然の中に、生命のエネルギーを見出した。ハナショウブの一輪一輪が、それぞれに、生命を爆発させている。

「桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり」

第10章で紹介した、母・かの子の歌である。桜だけではない。ハナショウブも、同じである。

この花の前で、岡本太郎と、母・かの子の、二人の、生命への視線を思い出してほしい。

【9. 生田緑地東口ビジターセンター】

生田緑地・東口にある、総合案内所。2012年4月にオープンした。

入場料、無料。緑地内の施設や、四季折々の自然の見どころなどを紹介している。太陽光発電や、神奈川県内産木材を使用するなど、環境にも配慮された建物。

ここで、緑地のジオラマを見ることができる。岡本太郎の聖地全体の構造を、頭に入れる。

また、東口の駐車場から、すぐの場所にある。車で来た人は、ここで地図を入手して、緑地の散策を始めると良い。

そして、心の準備を整えて、岡本太郎の聖地へ向かう。

【10. 岡本かの子文学碑「誇り」(生田緑地外)】

10番目は、生田緑地の中ではない。

生田緑地から約10キロ離れた、川崎市高津区二子1-4-1、二子神社の境内。

岡本太郎が、1962年11月に建立した、母・かの子のための、最初の祈りの碑、「誇り」。

第10章で詳しく書いた。岡本太郎(モニュメント)、丹下健三(台座と築山)、亀井勝一郎(文)、川端康成(書)。4人の20世紀日本を代表する人物が、岡本かの子のために結集した、極めて豪華な文学碑。

母の塔の正面は、まっすぐに、この「誇り」に向けて建てられている。

つまり、生田緑地の母の塔と、二子神社の「誇り」の、二つの碑が、不可視の、霊的な線で繋がっている。

そして、その間に、岡本太郎の、母への永遠の対話が流れている。

最寄り駅は、東急田園都市線・二子新地駅。徒歩約3分。

岡本太郎の聖地巡礼の、最後の場所として、ここを訪れてほしい。

そして、母の塔と「誇り」を、両方、見届けた時、岡本太郎の、最も深い祈りの構造が、自分の心の中で完結する。

これが、生田緑地、岡本太郎の聖地、最終形態である。

【聖地巡礼の、お勧めの順序】

最後に、聖地巡礼の、お勧めの順序を書いておく。

午前:向ヶ丘遊園駅(南口) → 1. メタセコイアの森のアプローチ → 2. 母の塔 → 3. 岡本太郎美術館(改修期間中はちょこっとTARO)

昼食:カフェテリアTARO、または、近隣のレストラン

午後:4. 奥の池 → 5. 枡形山展望台 → 6. 日本民家園 → 7. かわさき宙と緑の科学館

(時期によって)8. しょうぶ園

夕方:9. 東口ビジターセンター(駐車場が近い)

別日に:10. 岡本かの子文学碑「誇り」(東急田園都市線・二子新地駅)

すべて回ると、たっぷり一日かかる。岡本太郎は、急いで消費する対象ではない。ゆっくりと、深く感じてほしい。

そして、すべての場所を訪れた時、あなたは、岡本太郎と深く繋がる。

岡本太郎の、約1800点の作品。母の塔。そして、母・かの子の文学碑「誇り」。

それらすべてが、岡本太郎が、現代に放ち続けている、不可視の力の結晶である。

呼ばれた人だけが、辿り着く、聖地。

そして、辿り着いた人を、永遠に変える、聖地。

それが、神奈川県川崎市、生田緑地なのである。

次の章が、最終章、終章である。

終章「太郎は、あなたを呼んでいる — 縄文の呪術が、現代に蘇る」

ここまで読んでくれて、ありがとう。

岡本太郎について、書いてきた。聖家族と呼ばれた、岡本一家。パリでのマルセル・モースとの出会い。1951年、東京国立博物館での、縄文土器との衝撃。「四次元との対話」という、独自の思想。物理学の高次元理論と、世界中の神秘思想と共鳴する、不可視の世界。太陽の塔の、カバラの生命の樹と、エリアーデの胎内くぐり。50年間、行方不明だった、地底の太陽。アガルタ、シャンバラ、ナチスの地下探索。メキシコの資材置き場で、奇跡的に発見された、明日の神話。1966年、沖縄久高島で目撃した、イザイホー。「芸術は爆発だ」の、本当の意味。母・かの子への、最後の祈りとしての、母の塔。川崎市・生田緑地、岡本太郎美術館。そこで語られてきた、数々の体験談。そして、生田緑地で深く歩くための、10の場所。

ここまで読んだあなたは、もう、わかっているはずだ。岡本太郎は、ただの芸術家ではない。彼は、20世紀の日本に、忘れられた呪術を取り戻すために降臨した、最後の呪術師である。

そして、彼は、1996年1月7日、84歳で亡くなった。パーキンソン病による、急性呼吸不全。場所は、東京・新宿区の慶應義塾大学病院。生前、彼はこう語っていた。「死は、祭りだ」。葬式を極端に嫌っていた、岡本太郎。彼の遺志を尊重して、葬儀は行われなかった。代わりに、亡くなった翌月、1996年2月26日(これは奇遇にも、岡本太郎の生まれた日でもあった)、東京・草月会館で、お別れ会「岡本太郎と語る広場」が開催された。会場には、彼の作品が展示され、参加者たちは、別れを惜しんだ。

しかし、彼の作品は、生きている。太陽の塔も、明日の神話も、母の塔も、彼の魂を、今も放ち続けている。

ここで、最初の問いに戻る。序章で、こう書いた。「呼ばれないと、開けない扉がある」。なぜ、人は、岡本太郎に呼ばれるのか。その答えを、最後に書いておく。

現代の日本人は、生きているように見えて、生きていない。毎日、会社に行き、決められた仕事をして、決められた給料をもらって、決められた電車で家に帰る。週末は、決められた娯楽で、時間を潰す。そして、ある日、ふと気づく。「俺の人生は、これでいいのか。俺は、本当に生きているのか」。

しかし、その問いの答えは、現代社会にはない。スマホの中にも、ない。SNSの中にも、ない。会社の中にも、ない。家族の中にも、ない。

そんな時、頭の中に、ある単語が降ってくる。「岡本太郎」。最初は、無視する。なぜ突然、岡本太郎なのか、わからない。しかし、その日から、おかしなことが起き始める。テレビで、岡本太郎の特集をやっている。本屋に、岡本太郎の本が平積みされている。誰かが、岡本太郎の話をしている。「明日の神話」が、ニュースに出ている。「太陽の塔」の中を見学した人が、SNSで感動を語っている。「これは、偶然ではない」。そう気づいた瞬間、あなたは、呼ばれている。

そして、あなたは、岡本太郎の本を手に取る。『今日の芸術』(1954年)。『日本の伝統』(1956年)。『忘れられた日本 — 沖縄文化論』(1961年)。『美の呪力』。『自分の中に毒を持て』。『青春ピカソ』。読んで、衝撃を受ける。「俺が、ずっと探していたものが、ここに書いてある」。

岡本太郎は、こう呼びかけている、と言われている。「お前は、お前のままで、いい」「世間の常識に、自分を合わせるな」「お前の中の、生命を解放しろ」「爆発しろ」「自分の人生を、芸術として生きろ」。

そして、その言葉が、自分の中で爆発する。それまで抑え込んでいた、自分の本当の声が、目覚める。「俺は、本当は、こうしたかったんだ」「俺は、本当は、こう生きたかったんだ」「俺は、本当は、ずっと、自分を押し殺していたんだ」。涙が、止まらなくなる。そして、あなたは、決意する。「自分の人生を、生きよう」。ここから、人生が変わる、と言われている。

そして、ある日、あなたは、ある場所に足を運ぶ。神奈川県川崎市、生田緑地。岡本太郎の、聖地。向ヶ丘遊園駅から、徒歩約17分。生田緑地の、緑の中を歩く。樹齢の高い、木々。木漏れ日。鳥の声。そして、視界が開ける。高さ30メートルの、白い、巨大な塔。母の塔。

あなたは、塔の前に立つ。しばらく、見上げる。そして、あなたは、聞く。声ではない。しかし、確かに、頭の中に、それが響く、と言われている。「お前は、よく来た」「お前の中の、爆発を、止めるな」「お前の人生を、芸術として、生きろ」。

その瞬間、あなたは、岡本太郎と繋がる。亡くなって30年経った、岡本太郎の魂が、母の塔を通じて、あなたに語りかけている。そして、あなたは、知る。岡本太郎は、死んでいない。彼は、母の塔の中に、太陽の塔の中に、明日の神話の中に、約1800点の作品の中に、生きている。そして、彼は、現代の日本人を待っている。呼ばれた人が、辿り着くのを。そして、辿り着いた人を、永遠に変えてしまう。それが、岡本太郎なのである。

ここで、もう一度、書いておく。岡本太郎の聖地は、複数ある。太陽の塔は、大阪万博公園。明日の神話は、渋谷駅の連絡通路(JR渋谷駅と京王井の頭線渋谷駅を結ぶ、渋谷マークシティ内)。岡本太郎記念館は、東京・南青山。そして、岡本太郎美術館と母の塔は、神奈川県川崎市・生田緑地。しかし、その中で、最も深い、最も根源的な聖地が、生田緑地である。なぜなら、ここには、岡本太郎の約1800点の作品が、地下に眠っているからである。彼の母・かの子への、最後の祈りである、母の塔が立っているからである。彼の故郷である、川崎の緑の中に、彼の魂が眠っているからである。

ぜひ、生田緑地に足を運んでほしい。そして、母の塔の前で、立ち尽くしてほしい。その時、岡本太郎は、あなたに語りかける、と言われている。そして、あなたの中の、爆発が目覚める。それが、岡本太郎の、最後の贈り物である。

最後に、もう一度、書いておく。岡本太郎は、生涯、こう伝え続けた。「芸術はみんなのもの」「芸術はピープルのもの」。これは、特別な人だけの話ではない。すべての日本人に向けられた、メッセージである。サラリーマンも。主婦も。学生も。老人も。子供も。すべての人間が、自分の中の生命のエネルギーを、毎日、爆発させて、生きるべきだ。それが、岡本太郎が、生涯をかけて伝えたかった、すべてである。

そして、その言葉を受け取った人は、人生が変わる、と言われている。明確に、変わる。無視できないほど、変わる。そして、変わった人は、こう言うのかもしれない。「私は、岡本太郎に呼ばれていた」「そして、答えをもらった」「私は、自分の人生を、爆発させて生きる」。それが、岡本太郎の、本当の力である。

そして、もし、この記事を、ここまで読んだ人がいたら。迷わず、生田緑地に行ってほしい。それは、偶然ではない。あなたは、今、岡本太郎に呼ばれている。そして、生田緑地の、母の塔の前で、岡本太郎が、あなたを待っている。「来たな」。その一言を聞きに、行ってほしい。

そして、母の塔の、白い、巨大な姿の中で、ふと、振り返ってみてほしい。あなたの後ろに、誰か、いるはずである。見えないかもしれない。しかし、確かに、誰かがついてきている。それは、岡本太郎だけではない。それは、あなたが、これまでの人生で出会った、すべての人々。亡くなった、家族。別れた、恋人。昔の、友達。すれ違った、見知らぬ人。そして、これから出会う、未来の人々。そのすべての魂が、あなたと一緒に、生田緑地の、緑の中を歩いている。そして、その先頭に、岡本太郎がいる。「お前は、これだけの人々と繋がって、生きてきた。そして、これからも、お前は、爆発して生きていく」。そう、岡本太郎は、あなたに伝えている、と言われている。

これが、生田緑地の、本当の深さである。時間が止まり、空間が、母なる宇宙と繋がり、すべての魂が、ここで共存している場所。呼ばれた人だけが、辿り着ける場所。そして、辿り着いた人を、永遠に変えてしまう、と言われている場所。それが、神奈川県川崎市、生田緑地、川崎市岡本太郎美術館、母の塔である。

南無、岡本太郎。

爆発を忘れず、生きよ。

合掌。

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岡本太郎美術館 ナビ

TARO OKAMOTO MUSEUM ・ IKUTA RYOKUCHI
美術館は改修工事のため、2026年3月30日〜2029年3月末(予定)まで展示を休止しています。 この期間、館内展示室の展覧会は見られません。ただし屋外の《母の塔》(高さ30m)や生田緑地の自然、周辺施設(日本民家園・科学館)は楽しめます。来館前に公式サイトで最新情報をご確認ください。
エリアマップ
IKUTA RYOKUCHI 生田緑地 向ヶ丘遊園駅 東口・WC 食事・カフェ 日本民家園 岡本太郎美術館 《母の塔》30m・屋外OK
太郎作品・美術館 トイレ・休憩 食事・カフェ — — おすすめルート
おすすめ動線
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向ヶ丘遊園駅

小田急線が最寄り。美術館まで徒歩約17分、またはバス「生田緑地入口」下車徒歩約8分。バス利用が楽。

1

生田緑地 東口

ビジターセンターでトイレ・ロッカー・Wi-Fi。園内は高低差があるので歩きやすい靴で。

2

《母の塔》

高さ30mの屋外シンボルタワー。展示休止中でも屋外は鑑賞可。一周まわると角度で表情が変わる。

3

美術館(展示休止中)

2026年3月30日〜2029年3月末(予定)は展示室休止。ショップ・カフェの営業は公式で要確認。

4

周辺施設

日本民家園(古民家野外博物館)、かわさき宙と緑の科学館(プラネタリウム)が徒歩圏。半日たっぷり遊べる。

5

食事

民家園内のそば処、科学館内のカフェで休憩。緑を眺めながら一息ついて締めくくり。

スポット一覧(座標確認済み)
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