羽咋の謎
円盤が降りる町、目を閉じて入る森
石川県羽咋(はくい)市。能登半島の付け根、日本海に面した町です。
この町には、二千年の信仰と、空を飛ぶ光の伝説と、本物の宇宙船が、同じ地平に並んでいます。
江戸時代の古文書に、空を自在に飛ぶ光の玉の記述がある。その光は、夜ごと山を越え、能登一宮・氣多大社へと向かって消えていったと伝わる。そしてその氣多大社には、神官でさえ目を閉じてしか入れない森が、今も口を閉ざして広がっている。
降りてくるものと、見てはならない森。羽咋は、その二つが一本の線で結ばれた町です。
この町の物語は、空を見上げることの、恐れと憧れの両方でできています。順を追って、その線をたどっていきます。
一章 ― そうはちぼんが、降りる
その物体には、名前があります。「そうはちぼん」。別名を「ちゅうはちぼん」ともいいます。
石川県に伝わる、怪火のような姿をした謎の物体です。名前は仏具に由来します。シンバルのような楕円形をした「妙八」という楽器。怪火のような姿がこの楽器に似ていたことから、そう呼ばれるようになりました。
秋の夜、群れて光るもの
言い伝えは、こうです。
秋の夜。羽咋市にある眉丈山(びじょうざん)の中腹を、不気味な光を放ちながら、それは移動する。一つではない。群れをなして、東から西へと、ゆっくり飛んでいく——。
円盤状の発光する物体が、夜の山の中腹を、列をなして横切っていく。これを、この土地の人々は見ました。そして、その形が仏具のそうはちぼんに似ていたことから、「そうはちぼん伝説」として語り伝えたのです。
シンバルのような楕円形は、現代のUFOの分類でいえば、いわゆるアダムスキー型の円盤に重なります。鍋のフタのような形、と言ってもいい。
六所の宮から、一ノ宮へ
この伝説には、見過ごせない構造があります。そうはちぼんは、決まったルートを移動していたのです。
言い伝えによれば、そうはちぼんは「羽坂の六所の宮」から現れ、「一ノ宮」へと向かって移動した、とされます。
この「一ノ宮」とは、能登国一宮——氣多大社のことです。
光る円盤が、夜ごと山の中腹を移動し、能登でもっとも格式の高い神社の方向へと消えていく。ある社から現れ、別の社へと収束していく、光の道。空の現象と、地上の信仰の中心とが、一本の線で結ばれている。これが、この伝説のいちばん奥にある形です。
そして、この物体は、美しいだけのものとしては語られていません。古い言い伝えには、「毎夜、人を取り食はんとして、日暮れ方より現れ」という文言が残っています。日が暮れると現れ、人を取って食おうとする光るもの。それは神秘であると同時に、土地の人々にとって、確かな恐れの対象でもありました。
古文書に記された「空を飛ぶ物体」
そうはちぼんは、口伝だけのものではありません。文字として、記録に残っています。
羽咋市寺家町にある古刹・正覚院。氣多大社ゆかりのこの寺に伝わる『気多古縁起』という古文書に、神通力を用いて自由自在に空中を浮遊する光の玉である、と記されています。
空を、自在に飛ぶ、光の玉。江戸時代、あるいはそれ以前に記されたこの一文を、現代の私たちが読むと、ある言葉が自然に浮かびます。これは、UFOのことではないか、と。
ここは、慎重に置いておきたいところです。これを「江戸時代に現れたUFOの記録だ」と断定はできません。正体不明の光の現象は、世界各地の山や湿地で古くから目撃され、狐火、鬼火、人魂と、さまざまな名で呼ばれてきました。そうはちぼんも、その一つの土地における呼び名だと考えるのが、おそらく穏当です。
それでも、この土地の伝承には、ほかの怪火譚にはない特徴があります。形が円盤状であること。群れて飛ぶこと。決まったルートを移動すること。そして、神社という一点へ収束していくこと。ただの「光」ではなく、明確な「形」と「方向」を持った何かとして語られている。そこに、この伝説の手触りの確かさがあります。
鍋のフタが、人をさらう
能登半島には、そうはちぼんと響き合う、もう一つの言い伝えがあります。「鍋のフタが飛んできて、人をさらう」という、神隠しの伝説です。
空を飛ぶ円盤状のもの。それが、人をさらっていく。そうはちぼんの「人を取り食わん」という文言と、この「人をさらう鍋のフタ」は、同じ恐れを共有しています。
空から来るもの。光を放つもの。人を連れ去るもの。この土地の人々は、頭上の空に、得体の知れないものの気配を、長く感じてきました。それを、あるときは「そうはちぼん」と呼び、あるときは「飛ぶ鍋のフタ」と呼んだ。名は違っても、見上げる空の不穏さは同じだったのかもしれません。
その記憶が、長い年月を経て、現代の羽咋を動かすことになります。
二章 ― 宇宙の出島
羽咋が「UFOの町」を掲げているのには、確かな根があります。それは、土地に眠っていた記録を、住民自身が掘り起こしたところから始まりました。
古文書から始まった
事の起こりは、町おこしのために「羽咋ギネスブック」のようなものを作ろうとした、地元の青年たちの活動でした。羽咋の歴史を調べていた一人が、奇妙なことが書かれた古文書に行き当たります。
その昔、羽咋には「そうはちぼん」と呼ばれる謎の飛行物体が、頻繁に目撃されていた——。
調べてみると、そうはちぼんとは、鍋のフタのような形をした仏具のこと。その形をしたものが、空を飛んでいたという。これは、UFOのことではないか。そう気づいたとき、鳥肌が立った、と当時の関係者は振り返っています。
そして、賛同するメンバーを集めて「羽咋ミステリークラブ」というUFO町おこし団体を結成した。これが、すべての始まりでした。
羽咋のUFOは、誰かがゼロから考え出した売り文句ではありません。土地に実在した記録を、住民が掘り起こし、現代の言葉で読み直したものです。郷土史への執着が、町の個性そのものになった。その出発点に、敬意を払いたくなります。
宇宙の、出島
その活動は、一九九六年、宇宙科学博物館「コスモアイル羽咋」のオープンという形で実を結びます。
「コスモアイル」とは、「宇宙の出島」という意味です。出島といえば、江戸時代、鎖国下の日本でただ一つ外国に開かれていた窓口でした。外国人との交流の最前線。羽咋を運営する人々は、ならば羽咋は、宇宙人との交流の最前線になろう、と考えました。
その背景には、一つの思想があります。江戸末期、黒船の来航をきっかけに、日本人は初めて「世界」を意識し、国内で争っている場合ではないと気づいて、一つにまとまった。同じように、もし人類が「宇宙」という規模で物事を見られるようになれば、小さな争いや悩みは吹き飛び、戦争や環境破壊もなくなるかもしれない。そのきっかけを与えてくれる現代の黒船こそが、UFOではないか——。
「宇宙の出島」という名には、その願いが込められています。地球の外から物事を見る視点を持とうという、まじめな思想が、この町の根にあります。
本物の宇宙船が、ある
そしてコスモアイル羽咋には、本物があります。
NASAや旧ソ連から提供された、本物の宇宙船。実際の宇宙開発で使われた、本物の機体。館内は宇宙空間をイメージした薄暗い照明で、人類の宇宙開発史を入口から出口へたどれるように順路が設計されています。なかでも、見ておきたいものを三つ挙げておきます。
一つめは、マーキュリー宇宙船。アメリカが開発した、最初の有人宇宙船です。中をのぞくと、宇宙飛行士がたった一人、やっと乗り込めるだけの広さしかないことがわかります。もともと弾道ミサイルの弾頭部分に取り付けられるよう設計されたため、必要最低限のスペースしかない。人類が初めて宇宙へ出た頃の、ぎりぎりの覚悟が、その狭さから伝わってきます。屋外には、この宇宙船を打ち上げたのと同型の、マーキュリー・レッドストーン・ロケットが本物の機体でそびえています。
二つめは、ヴォストークの宇宙カプセル。旧ソ連の宇宙船です。同じヴォストークの六号には、「私はカモメ」の言葉で知られる世界初の女性宇宙飛行士テレシコワが乗り、一九六三年に地球を四十八周しました。米ソが宇宙を競い合った、あの時代の空気が、丸い金属のカプセルにそのまま閉じ込められています。
三つめは、月探査機ルナと、ルナ・マーズローバー。完全な形で地球に残るルナは、これが世界で最後の一機とされる、きわめて貴重なものです。そしてローバーは、NASAから特別の許可を得て百年間借り受けているもので、世界中でここにしかない一台。人類が月や火星の上を走らせようとした、その夢の実物が、能登の町の一室に置かれている。
伝説のそうはちぼんと、本物の宇宙船。江戸の古文書と、二十世紀の宇宙開発。羽咋では、その二つが同じ町の中で、何の矛盾もなく同居しています。空を見上げて「あれは何だ」と問うた江戸の人々と、空の向こうへ機械を飛ばした現代の人類。羽咋は、その両方を地続きのものとして抱えている町です。
そして、その町の空が指し示す先に、氣多大社の森があります。
三章 ― 目を閉じて入る森
氣多大社は、能登国一宮。万葉の昔から鎮座する古社です。『万葉集』には、七四八年、越中国守として赴任した大伴家持が参詣したときの歌が載っています。それほど古くから、この地の中心であり続けてきました。
その本殿の背後に、約三万三千平方メートル——約一万坪に及ぶ、深い原生林が広がっています。この森を、「入らずの森(いらずのもり)」といいます。
入らずの森
名のとおり、人が入ることのできない森です。古代から、神聖な禁足地とされてきました。椎、たぶ、椿、やぶ肉桂などの常緑広葉樹の巨木に覆われ、太古のままの自然が手つかずで残っている。その貴重さから、国の天然記念物に指定されています。
人が千年以上、足を踏み入れなかった。だからこそ、日本でも稀な原始の森が、そのまま残りました。加賀藩もこの森を保護し、四百年以上前から、神官のほかは立ち入りが禁じられてきました。
神官すら、目を閉じる
この森が並の禁足地と違うのは、入る資格を持つただ一人の例外——神官でさえ、この森をまともに見ることが許されない点です。
氣多大社に伝わるところによれば、神官は年に一度、森の奥にある奥宮の神事を勤めるためにのみ、森の中を通行する。そのとき、目隠しをして通る、といわれています。
目を閉じて、入る。森の中を、見てはならない。入る資格のある、ただ一人の人間ですら、その奥を見ることを禁じられている。立入禁止をはるかに超えた、視覚そのものへの禁忌です。
なぜ、見てはならないのか。森の奥に、何があるのか。それを語る者はいません。語れないのです。見た者が、いないのですから。
表の神と、奥の神
この森には、もう一つの謎があります。
氣多大社の表の祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)。またの名を大国主命。出雲大社と同じ、縁結びの神です。だから氣多大社は、縁結びの社として知られています。
ところが、入らずの森の奥、奥宮に鎮まっているとされるのは、別の神です。須佐之男尊(すさのおのみこと)と、奇稲田姫(くしなだひめ)。二柱の、夫婦の神。
表で参拝者を迎えるのは、縁結びの大国主。誰も見てはならない森の奥に在すのは、八岐大蛇を斬った荒ぶる神スサノオとその妃。見える神と、見てはならない神が、違う。
明るく整えられた表の信仰の、さらに奥に、人が直視してはならない、もっと古く荒々しい神が在す。入らずの森は、その奥の存在を、文字どおり森で覆い隠しています。
海鳴り小坊主
その森は、無音ではありません。
風が吹けば、巨木の梢が鳴る。日本海から吹きつける海の風が、原生林を揺らし、独特の音を立てる。
この土地の人々は、その森の中から聞こえてくる音を、「海鳴り小坊主(うみなりこぼうず)」と呼びました。誰も入れない森から、音がする。その音に、人々は名前をつけた。見えないけれど確かにそこにいる何かを、人々は「海鳴り小坊主」という名で捉えようとしたのでしょう。
近年は、海の風や台風の影響で、森の木が倒れることもあるといいます。倒れた木の隙間から、森の中に光が差し込む場所も増えてきた。それでも、この森が「見てはならない」聖域であることに、変わりはありません。
天皇が、入った
この森に、近代以降、踏み入った数少ない記録があります。
昭和五十八年(一九八三)五月。石川県で植樹祭が行われた折、昭和天皇が氣多大社を参拝されました。当時の宮司の案内で入らずの森に足を踏み入れ、金沢大学の植物学者の説明を受けられた、と記録されています。
神官すら目を閉じて通る森に入った、数少ない人。そのとき昭和天皇は、斧の入らないこの社の森に、めずらしくも、からたちばなの生えているのを見た、という意の御製を詠まれました。
斧の入らない森。誰も手をつけてこなかった、太古のままの森。その貴さに、植物学者も天皇も、深く心を打たれたのです。
降りてくる円盤が向かう先に、この森はあります。奥に荒ぶる神を在し、海鳴り小坊主が鳴る森。羽咋の空の不穏さは、すべてこの一点に収束していきます。
四章 ― 化鳥を退治した神の、土地
なぜ羽咋は、これほど「空から来るもの」「得体の知れないもの」の物語を抱えているのか。その手がかりは、氣多大社の祭神の由来にあります。
出雲から舟で渡り、化け物を退治した神
氣多大社の祭神・大己貴命には、こんな縁起が伝わっています。大己貴命は、三百余りの神々を率いて、出雲から舟で能登に入った。そして、この地を荒らしていた化鳥(けちょう)や大蛇を退治し、海路を切り開いた。のちに、この地の守護神として鎮まった——。
化け鳥と、大蛇。この土地は、神が化け物を退治することで開かれた。荒ぶるものを討ち、鎮めることで、人の住める土地になった。その物語の上に、氣多大社は建っています。
羽咋という地名の、由来
そして「羽咋」という地名そのものが、化け物退治の物語から生まれています。
羽咋神社に伝わる縁起によれば、その昔、羽咋の地には怪鳥が住み着き、住民を困らせていました。垂仁天皇の勅命を受けた磐衝別命(いわつくわけのみこと)が、この地へ派遣されます。磐衝別命は弓矢で怪鳥を射止め、連れていた三匹の犬が、その怪鳥の羽を喰った。
「羽を喰い」。それが転じて、「羽咋(はくい)」という地名になった、といわれています。
地名の由来そのものが、空を飛ぶ怪鳥を退治した物語です。この土地には、磐衝別命や、怪鳥を退治した三匹の犬、磐衝別命の宝物などを祀った七つの古墳が残されています。「羽咋七塚」と呼ばれ、羽咋の神話とともに、今も大切にされています。
空から来るものと、向き合ってきた土地
並べてみると、羽咋という土地の通奏低音が見えてきます。
化鳥・大蛇を退治して、神がこの地を開いた。怪鳥の羽を喰ったことが「羽咋」という名になった。そうはちぼんという光る円盤が、夜ごと空を飛び、人を取り食わんとした。鍋のフタが飛んできて、人をさらった。
羽咋とは、太古から「空から来るもの」と向き合い続けてきた土地です。あるときは弓矢で射落とし、あるときは犬がその羽を喰い、あるときは神が大蛇を斬った。そして、討ち取れないものは、見てはならない森の奥へと、鎮め隠した。
戸隠が、龍や鬼や掟破りを「封じる山」だったとすれば、羽咋は、空から「降りてくるもの」と向き合い続けてきた町です。封じる山と、向き合う町。
そして現代、羽咋はその空の記憶を、恐れではなく希望に変えました。かつて人を取り食わんとした空の物体を、「宇宙の出島」として迎え入れる町に。射落とす相手だった空の彼方を、人類が一つにまとまるための視点の源に。怪鳥を射た土地が、宇宙へ手を伸ばす町になった。羽咋の物語は、空を見上げることの、恐れと憧れの両方でできています。
結び ― 降りてくるものへ
羽咋は、降りてくるものの町でした。
秋の夜、眉丈山の中腹を、光る円盤が群れて飛んだ。それは六所の宮から現れ、一ノ宮——氣多大社へと消えていった。その円盤が向かう先の神社には、神官すら目を閉じて入る、見てはならない森がある。森の奥には、表の縁結びの神とは別の、荒ぶるスサノオ夫婦が在し、海鳴り小坊主が鳴いている。
戸隠が、見えない力を「封じる山」だったとすれば、羽咋は、空から「降りてくるもの」を見つめ続けてきた町です。封じることと、見上げること。日本の聖地は、見てはならないものを、さまざまな形で抱えています。
空から円盤が降り、森が口を閉ざし、神が化け物を退治し、地名が怪鳥退治から生まれた町。それでも羽咋は、その空を、恐れだけでなく希望として見上げ直しました。怪鳥を射た弓は、いつしか、宇宙へ向ける視線になったのです。
降りてくる町への、行き方
羽咋への玄関口は、金沢です。北陸新幹線で金沢に入り、そこを起点にするのが王道。金沢駅からは、JR七尾線に乗り換えます。特急「能登かがり火」なら約三十五分、普通電車でも約一時間で、羽咋駅に着きます。
羽咋駅は、七尾線では数少ない、特急も停まる有人駅。羽咋市の玄関口です。UFOの町らしく、かつては七尾線にUFOをあしらった列車が走っていたこともあります。降りた瞬間から、この町は少し様子が違う。
車がなくても、町はめぐれます。羽咋駅から、市内循環バスやタクシーが出ていて、千里浜エリアの主要スポットへは、バスで五分から十分ほど。氣多大社へも、羽咋駅からバスで向かえます(毎月一日には、金沢駅と氣多大社を結ぶ観光バスが運行される日もあります)。もちろん、車があれば自由度は上がりますが、電車とバスだけでも、十分にこの町を歩けます。
そして、羽咋に来たら外せないのが、海です。千里浜なぎさドライブウェイ——砂浜を、車やバイクでそのまま走れる、日本で唯一の道。波打ち際を、タイヤで踏みながら進む。空と海しかない、その直線の先に、羽咋の町はあります。車がなくても、なぎさを歩くだけで、その広さに圧倒されます。
コスモアイル羽咋で、本物の宇宙船と、そうはちぼんの伝説に出会う。そして氣多大社へ。縁結びの社殿の背後に、誰も見てはならない太古の森が、口を閉ざして広がっています。森の前に立てば、その奥の気配を、あなたも感じるかもしれません。
空を、見上げてみてください。何かが、降りてくるかもしれません。
琥珀色の湯で、締める
歩いて、見て、空を見上げたあとは、湯に浸かって締めるのがいい。
羽咋市には、「千里浜温泉郷(ちりはまおんせんきょう)」があります。羽咋の地下から湧く、三種類の天然温泉。その名称は、地元の観光協会が、羽咋地区の温泉地の共通名として定めたものです。
この湯の特徴は、その色と、肌ざわりにあります。なかでも地下千三百メートルから汲み上げる湯は、弱アルカリ性の炭酸水素塩泉に、セラミドの保湿成分(メタけい酸)を併せ持つ、琥珀色の湯。肌の新陳代謝を促すとされ、「美人の湯」「美肌の湯」と呼ばれています。源泉かけ流しで浸かれる施設もあります。
縁結びの社・氣多大社で良縁を願い、そのあとで美人の湯に浸かる。動線として、これ以上ないでしょう。日帰りで立ち寄れる温泉施設もあり、電車とバスで来た人でも、帰りにさっと汗を流していけます。
もっと手軽にいくなら、千里浜の道の駅には、足湯もあります。なぎさドライブウェイで遊んだ足を、ここで温める。それだけでも、能登の湯の質の良さは、十分に伝わってきます。
さらに能登を深めたいなら、足を延ばして、和倉温泉へ。羽咋から七尾方面へ向かった先にある、能登最大の温泉地です。海に面した名湯で、もう一泊して能登を味わい尽くすなら、ここを締めにするのもいい。
降りてくるものの町で、空を見上げ、森に対峙し、最後は琥珀色の湯にゆっくり身を沈める。羽咋は、そういう一日を過ごせる町です。
(※温泉施設の営業時間・日帰り入浴の可否・バスの時刻などは変わることがあります。訪問前にご確認ください)
補章 ― 金沢で、腹を満たす
羽咋へ向かう前に、玄関口の金沢で腹を満たしておくこと。これは寄り道ではなく、この旅の正式な作法です。金沢は、日本でも指折りの食の町だからです。
金沢の食を支えているのは、加賀百万石という背景です。江戸時代、加賀藩は日本最大の藩でした。その豊かさが、洗練された食文化を育てた。食材の持ち味を活かした繊細な味付けと、美しい盛り付けを特徴とする加賀料理は、その百万石の食文化を今に受け継いでいます。氣多大社の入らずの森を守った、その同じ加賀藩が、この食文化も育てたのです。
海の幸
まず、日本海です。金沢の台所と呼ばれるのが、近江町市場(おうみちょういちば)。鮮魚店がずらりと並び、その場で食べられる海鮮丼や寿司、食べ歩きの串もある、金沢の食の中心地です。能登の海から揚がった魚が、ここに集まってきます。
なかでも、金沢を代表する魚が、のどぐろ。正式にはアカムツという高級魚で、その名のとおり喉の奥が黒い。脂が全身にのっていて、「白身のトロ」とも呼ばれます。焼いても、煮ても、寿司でも旨い。これだけを食べに金沢へ来たいという人がいるほどの魚です。
甘えびも外せません。北陸の甘えびは、とろけるような濃厚な甘みが特徴。立ち食いの寿司でも気軽に味わえます。
そして、冬に訪れるなら、カニです。石川県産のブランドズワイガニは「加能ガニ(かのうがに)」と呼ばれ、十一月から三月の冬季だけの味覚。さらに通好みなのが、香箱蟹(こうばこがに)。加能ガニのメスで、体は小ぶりですが、内子(うちこ)と外子(そとこ)という卵が絶品です。漁が許されるのは十一月から十二月の、ごく短い期間だけ。この時期に金沢にいられたら、それだけで幸運です。
加賀の郷土料理
加賀料理の代表が、治部煮(じぶに)です。鴨肉(または鶏肉)に小麦粉をまぶし、出汁で煮込んだ郷土料理。小麦粉をまとわせることで出汁にとろみがつき、肉がしっとり仕上がる。そこへ金沢独特のすだれ麩や、加賀れんこん、季節の野菜が加わる。仕上げにわさびを添えて食べるのが金沢流です。とろりとした上品な出汁が、口の中で肉と野菜をまとめあげる。派手さはないけれど、加賀百万石の洗練が静かに詰まった一皿です。
加賀野菜も金沢の食の柱です。加賀れんこん、金時草(きんじそう)、加賀太きゅうりなど、独自に育まれてきた野菜たち。天ぷらや蒸し物で、その滋味を味わえます。
締めと、甘いもの
金沢はB級グルメの町でもあります。濃厚なルーをステンレスの皿に盛り、千切りキャベツを添えた「金沢カレー」。寒い季節に体を温める「金沢おでん」。このあたりは、肩肘張らずに腹を満たしてくれます。
甘いものなら、やはり金箔です。金沢は、金箔の国内生産のほとんどを担う町。ソフトクリームに金箔を一枚まるごと貼った贅沢なスイーツは金沢ならでは。加賀棒茶(ほうじ茶)を使ったラテやアイスも、香ばしくて旅の休憩にちょうどいい。
新幹線を降りて、まず近江町市場でのどぐろと甘えびを味わい、夜は治部煮で加賀の歴史を味わう。そうやって金沢で十分に満たされてから、七尾線に揺られて、能登の——降りてくるものの町へ向かうのです。
(※魚介には旬があり、カニ類は冬季限定です。提供時期や各店の最新情報は、訪問前にご確認ください)


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