[ 空海の聖地 / 宇宙と繋がる山 ]
呼ばれた人だけが、辿り着く山がある
KOYASAN OKUNOIN — NEON PILGRIMAGE
和歌山県・標高800メートル。117の寺院が密集する宗教都市、高野山。その奥之院に、空海は1200年、座り続けている。ガイドブックが書かない、入定・生身供・アカシック・企業墓、そして密教法具とナチスを繋ぐ奇妙な糸。
SCROLL ▽序章 呼ばれないと、辿り着けない山がある
和歌山県の北東部、標高800メートルの山上。
紀伊半島の深い山々に囲まれた窪地に、117の寺院が密集する宗教都市がある。世界中、どこを探しても、ここだけだ。山の上に、街が丸ごと一つ、宗教のためだけに存在している。
それが、高野山だ。
地図で見ると、高野山は奇妙な場所にある。奈良からも、和歌山市からも、大阪からも遠い。新幹線は通っていない。最寄りの駅からケーブルカーに乗り換え、さらにバスに揺られて、ようやく辿り着く。山道は急で、冬は雪に閉ざされる。
なのに、年間140万人以上の人が、この山を目指す。
なぜか。
「呼ばれた」と感じるからだ。
これは比喩じゃない。高野山に行ったことのある人に話を聞くと、ほとんどの人が同じことを言う。
「気がついたら、行くことになっていた」
「ある日突然、高野山のことが頭から離れなくなった」
「テレビや雑誌で『高野山』という文字を、急に頻繁に目にするようになった」
「予定が、勝手に空いた」
人生の節目、心が疲れた時、何かを失った時。そんなタイミングで、高野山は人を呼ぶ。そして、呼ばれた人は、必ず辿り着く。
呼んでいるのは、誰か。
公式には、こう答えられる。「弘法大師空海です」。
835年3月21日、午前4時。空海は、高野山の奥之院の地下で結跏趺坐の姿勢で目を閉じ声を発するのをやめた。これを、密教では「入定(にゅうじょう)」と呼ぶ。「死」ではない。「永遠の瞑想に入った」、ということになっている。
1200年経った今も、高野山では空海は生きている。
毎日2回、午前6時と10時半。空海に食事が運ばれる。「生身供(しょうじんぐ)」と呼ばれる儀式だ。料理は精進料理を基本に、時にはパスタやシチューも出る。年に一度、空海の入定日には、新しい衣も届けられる。雨の日も、雪の日も、台風の日も、戦争中も、コロナ禍も。1200年間、一度も止まったことがない。
これを「信仰」と呼ぶか、「奇跡」と呼ぶかは、あなた次第だ。ただ、事実として、それは続いている。
高野山に行くと、人は変わる。理屈は分からない。ただ、変わる。
ある人は、参道を歩いている途中で、急に涙が止まらなくなる。ある人は、奥之院の御廟橋を渡った瞬間、空気が「変わる」と言う。ある人は、霊宝館に入った瞬間、頭痛がして外に出る。ある人は、宿坊の部屋で夜、誰もいないはずの隣の部屋から、読経の声を聴く。ある人は、高野山から帰ってから、人生のステージが丸ごと変わる。
「気のせいだ」と言う人もいる。「標高800メートルだから気圧の問題だ」と言う人もいる。ただ、説明はつかない。
なぜなら、この山は、ただの観光地ではないからだ。
この記事では、高野山について、ほとんどのガイドブックが書かない話を書く。空海とは何者だったのか。1200年間、毎日続いている食事の儀式は何なのか。霊宝館に充満する圧倒的なパワー。奥之院に並ぶ、ヤクルトとUCCとロケットの形をした企業の墓。そして、密教の法具が、後にナチスドイツの闇と繋がっていく、その奇妙な糸。
「信じるか信じないかは、あなた次第」という古い決まり文句があるが高野山の場合それは逆だ。信じても信じなくても、呼ばれた人は、辿り着く。
第1章 空海とは何者だったのか — 化け物の生涯
弘法大師空海。日本史上、これほど神格化された人物は、他にいない。
「弘法大師」という名前は、空海が死んだあと、921年に醍醐天皇から贈られた諡号(しごう)である。つまり国家が公式に、「あなたは大師、つまり大いなる師である」と認めた。仏教の僧で、こんな扱いを受けた者はいない。
しかし、空海を「偉い坊さん」だと思ったら、間違いだ。空海は、坊さんの枠をはるか昔に突き抜けている。
774年、讃岐国(現在の香川県・善通寺市)で生まれた。幼名は真魚(まお)。父は地方豪族・佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)、母は玉依御前(たまよりごぜん)。家柄は決して低くない。
15歳になると、真魚は都(長岡京)に呼び寄せられた。伯父の阿刀大足(あとのおおたり)が、当時の皇族・伊予親王の家庭教師をしていた大学者だったからである。伯父のもとで3年間、徹底的に学問を叩き込まれた真魚は、18歳で大学(当時の国立大学)に入学する。成績は、常に首席だった。
このまま進めば、官僚として出世することは確実だった。当時のエリートコースに、彼は乗っていた。しかし、真魚は、その道を捨てた。エリート官僚の地位を、自分から放り投げた。理由は、本人が後に書いている。「人として、真に生きる道を求めたい」。そして、山に入った。
ここから真魚の「行方不明」の時期が始まる。正確な足取りは、誰も知らない。確かなのは、彼が山岳修行の日々を過ごしたことだ。日本中の山を、たった一人で歩き、滝に打たれ、洞窟で瞑想し、食べ物も最小限に絞った。
そして、彼は、一つの修行に出会う。「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」。この修行を理解しないと、空海の「化け物ぶり」は何も理解できない。
虚空蔵求聞持法とは何か。虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を本尊とする、密教最高峰の荒行の一つである。「虚空蔵」とは、サンスクリット語で「アーカーシャガルバ」。「広大な宇宙のように果てしない、はかり知れない知恵と慈悲が詰まった蔵」を意味する。つまり、宇宙そのものを、自分の中に取り込む修行である。
やり方は、こうだ。虚空蔵菩薩の真言を唱える。「のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか」。これを、1回唱えるのに約3秒。それを、1日1万回。100日間、毎日。合計100万回。
ただ唱えればいいわけではない。数を数えながら唱える。途中で数を見失ったら、やり直し。
そして、これを成し遂げると、どうなるか。無限の記憶力が手に入る、と言われている。一度見聞きしたものを、絶対に忘れない。あらゆる経典を、瞬時に理解して記憶する。あらゆる言語、あらゆる学問が、頭の中に永久に格納される。「1000年に一人の天才」の能力が、開花する。
これは、伝説ではない。空海自身が、自分の手記『三教指帰(さんごうしいき)』に、こう書いている。「ここに一人の沙門(修行者)がいて、私に虚空蔵聞持法を教えた。その経には、こう書かれている。『もしこの法に従って、この真言を100万回唱えれば、一切の経典の文義を暗記できる』と。私は仏陀の言葉を信じて、阿波国(徳島県)の大瀧岳(たいりゅうだけ)に登り、土佐国(高知県)の室戸岬で勤念した」。
そして、彼は続けて書く。「谷、響を惜しまず。明星来影す」。谷は、唱える真言の声を惜しまずに反響させた。そして、明けの明星(=金星)が来て、影を落とした。
これが、何を意味するか。夜空の金星が降りてきた。真魚の口の中に、金星が飛び込んできた。金星は、虚空蔵菩薩の化身である。これは、虚空蔵求聞持法の「成就」を意味する。修行が完成した、という証である。
ただし、この修行は、ただ過酷なだけではない。100日間、堂に籠って、ひたすら同じ真言を、何百万回も唱え続ける。すると、悪魔と睡魔が、次々に襲ってくる。幻覚を見る。声を聞く。体が動かなくなる。逆に体が勝手に動き出す。「一歩間違えば、発狂、または死と隣り合わせの荒行」。そう、密教の世界では伝えられている。
それを、20代前半の真魚は、生きて突破した。成就した。ここで、彼の脳は書き換えられた、と言ってもいい。普通の人間の記憶力ではなくなった。普通の人間の集中力ではなくなった。普通の人間の認識能力ではなくなった。
ここから先の空海の「人間離れした業績」は、すべて、この虚空蔵求聞持法の上に成り立っている。サンスクリット語と中国語を、数ヶ月で習得した。唐に渡って、わずか3ヶ月で、密教の全奥義を伝授された。留学中、儒教、道教、景教(キリスト教)、ゾロアスター教、マニ教まで学んだ。これらは「天才だから」ではない。虚空蔵求聞持法を成就した者だから、できた。そう考えると、すべての辻褄が合う。
30歳の時、空海は「唐へ渡る」と決めた。中国の密教の奥義を、自分で取りに行く。これは、命懸けの旅だった。当時の遣唐使船は、半分が沈んだ。生きて中国に着けるかも分からないし、生きて帰ってこれるかも分からない。しかも、留学生は20年間中国で修行することが規則だった。20年。日本に帰る頃には、空海は50歳になっている。それでも、行くと決めた。
31歳の延暦23年(804年)、空海は東大寺戒壇院で正式に得度し、僧名を「空海」と改めた。私度僧から、正式な国家公認の僧になった。そして同年、遣唐使船に乗り、難波津を出港した。
船は嵐に遭った。4隻のうち、2隻が遭難した。空海の船もコースを大きく外れ、福州長渓県赤岸鎮という、本来上陸するはずではなかった場所に漂着した。地方役人は、空海たちを密入国者と疑った。
ここで、空海の「化け物ぶり」が、最初に発揮される。空海は、流暢な中国語で、しかも当時の中国の最高峰の文体で、上申書を書いた。地方役人は驚愕した。「これは普通の日本人ではない」。長安への入境が、特別に許可された。
長安に到着した空海は、すぐに密教の正統な継承者・恵果(けいか)阿闍梨のいる青龍寺を訪ねた。恵果は、中国密教の頂点に立つ僧だった。皇帝も帰依する、生きた仏である。すでに千人を超える弟子を持ちその中には10年20年と修行を積んだ高弟がずらりと並んでいた。
恵果は、その時、すでに病に倒れていた。死期を悟っていた。そして、空海が部屋に入ってきた瞬間、恵果は、こう言ったとされる。「あなたを待っていた」。
千人の弟子を差し置いて、来たばかりの異国の僧に、恵果は密教の全てを伝えると決めた。「我、汝に法を授けん」。胎蔵界灌頂、金剛界灌頂、阿闍梨伝法灌頂 — 通常なら10年以上かかるとされる三段階の奥義を、恵果は空海にわずか3ヶ月で伝授した。経典、法具、曼荼羅、印契、真言。密教の全て。そして、密教の最高位「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の名を授けた。伝授を終えた数ヶ月後、恵果は亡くなった。まるで、空海に伝えるためだけに、生きていたかのように。
空海は20年の留学規則を破って、わずか2年で日本に帰国した。これは本来、死罪に値する。しかし、空海は唐で得た知識と密教の霊力を使って、嵯峨天皇の絶対的な信頼を得た。
810年、「薬子の変(くすこのへん)」という政変が起きた。空海は朝廷に呼ばれ、「仁王経法(にんのうきょうほう)」という密教の修法を行った。乱は、鎮まった。これは、ただの偶然か。朝廷は、そう思わなかった。「空海の祈りで、戦が止まった」。ここから、空海の伝説が加速していく。
書道では「三筆」の一人とされる。残る二人は嵯峨天皇、橘逸勢。つまり、空海は、当時の天皇と並ぶレベルの能筆だった。日本書道史の頂点である。
土木技術者として、讃岐国の満濃池(まんのういけ)という巨大なため池を、わずか3ヶ月で修復した。朝廷が何年もかけても直せなかった難工事を、空海はあっという間に終わらせた。彼は唐で、土木工学と水理学も学んでいたのである。
日本最初の私立学校「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を設立。庶民にも教育を開放した。当時、教育はエリートの特権だった。空海は、それを破った。「いろは歌」を作ったのも空海であるという伝説。仮名文字を作ったのも空海であるという伝説。これらは諸説あるが、「空海が作ったのではないか」と語り継がれること自体が、彼の異常さを物語る。
そして、全国各地に、空海の伝説が残る。福岡県糸島市の「まむし温泉」は、空海が霊力で湧き出させた。群馬県の川場温泉は、空海が錫杖(しゃくじょう)で大地を突いたら、湯が噴き出した。四国八十八ヶ所霊場は、空海が修行のために巡った道がベースになっている。北海道から沖縄まで、空海が湧き出させた水、空海が建てた寺、空海が刻んだ仏像、空海が退治した妖怪、空海が一夜で建てた橋 — それらの伝説が、無数にある。研究者でも、空海の伝説を全て把握できない。
民衆にとって、空海は「真言密教の開祖」ではなかった。「困った時に助けに来てくれるスーパーマン」だった。雨が降らない時、空海を呼べば雨が降った。病気が流行った時、空海が真言を唱えれば、病気が止まった。戦が起きた時、空海が祈れば、戦が鎮まった。これを、当時の人々は信じた。そして、1200年経った今でも、信じている人がいる。
61歳になった頃、空海は朝廷に「もう都には戻りません」と告げた。そして、自ら開いた高野山に籠った。弟子たちは、不安だった。空海は、何かを準備していた。その「準備」が何だったのかは、第4章で書く。
第2章 三鈷の松 — 空中を飛んできた法具と、犬2匹の案内人
時を、少し戻す。空海が、唐で密教の全てを伝授されて、日本に帰る直前のこと。中国の明州(みんしゅう、現在の寧波)の港。
空海は、これから日本に帰る。しかし、一つ、決まっていないことがあった。「日本に帰ったら、どこに密教の道場を作ればいいのか」。日本のどこに、密教を広めるのにふさわしい聖地があるのか。空海は、それを知らなかった。
そこで、彼は、奇妙な行動に出る。恵果阿闍梨から授かった密教の法具、「三鈷杵(さんこしょ)」を取り出した。
三鈷杵とは何か。サンスクリット語で「ヴァジュラ」と呼ばれる、密教の最重要法具である。形は、両端が三つに分かれた金属の杵。長さは、20センチほど。元々は、古代インドの神話に登場する、最強の神「インドラ(帝釈天)」が持っていた武器である。インドラは、雷を操る神だった。蛇の形をした悪魔ヴリトラを、このヴァジュラで粉砕したという伝説がある。「ヴァジュラ」とは、「ダイヤモンドより硬いもの」「雷電そのもの」を意味する。
密教では、このインドの神話上の武器を「煩悩を打ち砕く悟りの心の象徴」として法具に取り入れた。ヴァジュラを持つ者は、魔を打ち破り、災いを跳ね除け、邪心を消す。
そんな法具を、空海は、明州の海岸で振りかぶった。そして、東に向かって投げた。日本に向かって投げた。「真言密教を広めるのにふさわしい聖地に、留まってくれ」。そう祈りながら、空海は三鈷杵を空に放った。
三鈷杵は、高く舞い上がった。そして、東の空に向かって飛んでいった。海を越えて。雲を貫いて。日本のどこかに向かって。
これが、後に「飛行三鈷杵(ひぎょうさんこしょ)」と呼ばれる、密教史最大の伝説である。
「そんなこと、ありえない」と、現代の科学的常識は言う。しかし、ここで一度、思い出してほしい。これは、虚空蔵求聞持法を成就した男の話である。夜空の金星を、口の中に呼び込んだ男の話である。この男にとって、「三鈷杵を中国から日本まで飛ばす」ことが、どこまで「ありえない」ことなのか。その判断は、読者に委ねる。
帰国後、空海は、自分が投げた三鈷杵を探した。しかし、日本は広い。北は北海道から、南は沖縄まで。三鈷杵が、どこに落ちたのか。
そんな時、空海は奇妙な人物に出会う。舞台は、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)あたり。一人の狩人が現れた。赤ら顔。背丈は六尺(180センチ以上)。青い小袖を着て、がっちりした体格。弓矢を背負っている。そして、彼は、犬を2匹連れていた。白い犬と、黒い犬。
狩人は、空海に話しかけた。「どちらへ行かれるのですか」。空海は、正直に答えた。「真言密教の修行場に最適な場所を探しています。実は、唐から投げた三鈷杵が、どこかに落ちているはずなのです。それを探しに行く途中です」。狩人は、笑った。「私は、南山の犬飼(いぬかい)です。その場所に心当たりがあります。すぐに犬に案内させましょう」。
そう言って、狩人は2匹の犬を放した。白と黒の犬は、駆け出した。そして、消えた。「向こうの山に向かっています。後を追ってください」。
空海は、犬の後を追って、山に入った。すると、もう一人、現れた。山人(やまびと)の姿をした、神々しい女性だった。彼女は、空海を、さらに奥へと案内した。そして、ある山上の平地に辿り着いた。
そこは、紀伊山地の中。標高800メートルの、人里から完全に隔絶された場所。四方を山に囲まれた、不思議な窪地だった。中央に、一本の大きな松の木が立っていた。
空海は、その松を見上げた。そして、息を呑んだ。松の枝に、何かが引っかかっていた。それは、金属の光を放っていた。両端が三つに分かれた金属の杵。唐の明州の港から、空海が東に向かって投げた、あの三鈷杵だった。3年もの時を経て、海を越えて、空を飛んで、この松の枝に辿り着いていた。
空海は、その場で決めた。「ここだ」。ここが、密教を広める聖地である。ここに、道場を作る。
この時空海を案内した「狩人」と「山人」が実は人間ではなかったことが後に明らかになる。狩人は、「狩場明神(かりばみょうじん)」、別名「高野明神(こうやみょうじん)」。山人は、「丹生都比売(にうつひめ)」、別名「丹生明神(にうみょうじん)」。どちらも、紀伊山地に古くから祀られていた、地主の神々である。
つまり、空海は、神々に導かれて、高野山に辿り着いた。そして、2匹の犬は、神の使いだった。この伝説のせいで、後世、弘法大師ゆかりの神社や寺に、犬の像が置かれるようになる。空海と犬は、セットなのだ。
ちなみに、松にかかっていたあの三鈷杵は、現在も実在する。「飛行三鈷杵」として高野山金剛峯寺に国の重要文化財として大切に保管されている。実物がある。中国から空海が投げたという伝説の法具が、今も高野山にある。
その三鈷杵がかかっていた松は、「三鈷の松(さんこのまつ)」と呼ばれ、今も高野山の壇上伽藍(だんじょうがらん)に立っている。
ここに、もう一つ、面白い話がある。普通、松の葉は、2本一組で生えている。しかし、この三鈷の松は、3本一組で葉が生える。三鈷杵の「3つに分かれた刃」と、同じ数。「これは、お大師様の法力によるものだ」と、信者は言う。
そして、この三鈷の松の下に落ちている3本一組の松葉を拾うと幸せが訪れると言われている。四つ葉のクローバーの、高野山版である。財布に入れれば金運が上がる。バッグに入れれば、旅行安全。お守りとして持っていれば、災いを跳ね返す。
今も、壇上伽藍の三鈷の松の周りには、下を向いて松葉を探す観光客の姿が絶えない。子供連れの家族が、夢中で探している。カップルが、二人で探している。外国人観光客が、何かを必死に探している日本人を見て、不思議そうな顔をしている。三本葉の松葉は、滅多に見つからない。しかし、見つけた瞬間、人は声を上げる。「あった!」。
その瞬間、その場にいる全員が、空海の伝説に繋がる。1200年前、唐の海岸から、東に向かって投げられた三鈷杵。それが、神の使いである犬2匹に案内されて、紀伊の山中で、松の枝に引っかかっていた。その物語が、今、この瞬間、子供の手のひらにある一本の松葉に繋がっている。これが、高野山という場所の空気である。
そして、空海が拾った、もう一つの大事なもの。それは、「結界」という概念である。空海は、高野山に辿り着いてから、すぐに気づいた。ここは、ただの山ではない。「気が、強すぎる」。このままでは、修行者が耐えられない。
空海は、密教の修法を使って、高野山の周囲に結界を張った。「高野山上、七里四方を、結界とする」。七里、つまり約28キロ四方。その範囲を、聖域として、外界から切り離した。
高野山の入口に立つ「大門(だいもん)」は、その結界の象徴である。高さ25.1メートル。日本で二番目に大きい金剛力士像が、左右に立ち、入ってくる者を睨んでいる。「ここから先は、聖域である。下界の穢れを、持ち込むな」。そう、大門は語っている。
そして、この結界の中で、空海は、真言密教の総本山を建てた。壇上伽藍(だんじょうがらん)。ここに、根本大塔(こんぽんだいとう)、金堂(こんどう)、御影堂(みえいどう)、そして三鈷の松。密教の世界観を、立体的に再現した、巨大な曼荼羅(まんだら)である。高野山は、ただの寺の集まりではない。地上に降りた、密教の宇宙そのものである。
そして、その宇宙の中心に、空海は、自分の墓所を決めた。奥之院。ここに、彼は、永遠に籠ることになる。
第3章 ヴァジュラとハーケンクロイツ — 密教法具がナチスを呼んだ夜
ここから書く話は、人によっては「飛躍しすぎ」と感じるかもしれない。しかし、点と点は、確実に繋がっている。繋がりを否定しようとする方が、無理がある。
時代は、第二次世界大戦前夜の1938年。場所は、チベット。雪に覆われたヒマラヤの山中を、5人のドイツ人が登っていた。彼らは、観光客ではない。ナチス親衛隊(SS)の、エルンスト・シェーファー率いるSS探検隊である。
派遣したのは、SS長官ハインリヒ・ヒムラー。ヒトラーの側近として、ナチスドイツで事実上の最高権力者の一人だった男。そして、ヒトラー以上に、オカルトに狂った男だった。ヒムラーは、なぜ、チベットにSSの部下を送り込んだのか。理由は、一つだ。「アーリア人の起源を、探すため」。
ここで、話は、一度、別の方向に飛ぶ。時代を、もっともっと遡る。紀元前1500年頃。中央アジアの草原から、ある民族集団が、移動を始めた。彼らは、自分たちを「アーリア人」と呼んだ。サンスクリット語で「高貴な人」を意味する言葉である。
アーリア人は、南へ、南へと進んだ。そして、二つの集団に分かれた。一つは、現在のイランへ。もう一つは、現在のインドへ。インドに入ったアーリア人は、そこで、独自の宗教文化を作り上げた。それが、ヒンドゥー教であり、後に仏教の母体となった世界観である。そして、アーリア人たちが信仰した最高神の一人が、雷を操る神「インドラ」だった。
インドラの武器が、ヴァジュラ。そう、空海が中国から日本に持ち帰った、あの三鈷杵の起源である。
ここで、線が一本引かれる。古代インド・アーリア人の最高神インドラのヴァジュラが、中国に伝わり、密教の法具になり、空海によって、日本の高野山へ。これは、密教の正統な系譜である。
しかし、19世紀のヨーロッパで、別の解釈が生まれてしまう。ドイツの考古学者ハインリヒ・シュリーマンが、トロイの遺跡を発掘した時、ある奇妙な記号を発見した。「卍(まんじ)」である。サンスクリット語で「スワスティカ」と呼ばれる、古代から「幸運」を意味する記号。シュリーマンは、これを古代インド・ヨーロッパ語族に共通の宗教シンボルだと考えた。
そして、この発見が、20世紀のドイツで暴走する。「アーリア人は、古代インドから世界に広がった、最高の人種である」「ゲルマン民族は、アーリア人の最も純粋な末裔である」「アーリア人の聖なるシンボルは、卍である」。この疑似科学を、ナチスは、自分たちのイデオロギーに取り込んだ。そして、卍を、自分たちの党旗のシンボルにした。それが、ハーケンクロイツ(鉤十字)である。正確に言うと、ナチスが採用したのは、卍を45度傾けた「卐(右まんじ)」だった。向きは違うが、起源は同じ。
つまり、こうである。ナチスの党旗に描かれたハーケンクロイツの、その先祖は、空海が中国から持ち帰った三鈷杵と、同じ場所、同じ神話、同じ宇宙観から来ている。古代インド・アーリアの聖なる象徴。一方は、密教の法具として、日本の高野山に。もう一方は、人類史上最悪の独裁政権の旗印に。同じ根から、まったく違う方向に伸びた二本の枝。
なぜ、こんなことが起きたのか。そこに、ハインリヒ・ヒムラーという狂信者がいた。ヒムラーは、ナチスの幹部の中でも、突出してオカルトに傾倒していた。彼は、こう信じていた。「アーリア人の本当のふるさとは、中央アジアにある」「特に、チベット高原のどこかに、純粋なアーリア人の血を引く民族が、隔離されて住んでいるはずだ」「彼らの中に、世界の支配権を握るための、霊的な力の鍵がある」。
そして、彼は、もう一つ信じていた。チベット高原のどこかに、「シャンバラ」という地上の楽園または「アガルタ」という地下王国が存在する。そこには、超人的な知識と霊的な力が眠っている。それを手に入れた者が、世界を支配する。これは、もはや、政治家の発想ではない。オカルティストの妄想に近い。しかし、ヒムラーは、本気だった。
そして、彼は、SSの中に「アーネンエルベ(ドイツ先史遺産研究所)」という、オカルト研究組織を1935年に設立した。アーネンエルベの仕事は、世界中の古代遺跡、神秘思想、超古代史を「研究」することだった。聖杯探索。アトランティスの調査。ルーン文字の研究。ゲルマン神話の調査。そして、チベットへの探検。これは、後にスティーブン・スピルバーグが映画『インディ・ジョーンズ』で描いた、そのままの世界である。虚構ではない。現実に、ナチスは、これをやっていた。
1938年4月。エルンスト・シェーファー率いるSS探検隊は、チベットに到着した。彼らは、ラサを訪れ、当時のチベットの摂政・レティン・リンポチェと会見した。そして、頭蓋骨を採集し、写真を撮り、地形を測量した。すべて、「アーリア人の起源を証明するため」である。
そして、彼らは、ある仏像を持ち帰ったとされる。ベルリンに帰国したシェーファーは、ヒムラーに、その仏像を見せた。仏像は、毘沙門天(びしゃもんてん)別名ヴァイシュラヴァナ密教の四天王の一人だった。特徴的だったのは、二つ。一つ、その仏像の胸には、はっきりと「卍」が刻まれていた。もう一つ、その仏像は、隕石から作られていた。宇宙から降ってきた隕鉄を、削って仏像にした。「宇宙から来たブッダ」。
これは、ヒムラーを震わせるのに十分すぎる代物だった。彼にとって、これは「証拠」だった。アーリア人の起源は、チベットにある。聖なる卍のシンボルは、宇宙から来た。ナチスのハーケンクロイツは、宇宙の意志である。
この隕石仏像は、その後、長らく行方が分からなくなる。そして、戦後70年近く経った2012年シュトゥットガルト大学のElmar Buchnerらの研究グループが学術誌『Meteoritics and Planetary Science』に「Buddha from space(宇宙から来たブッダ)」というタイトルの論文を発表した。ナチスのチベット探検隊が持ち帰ったとされる隕石仏像は、確かに隕鉄製(シベリア・モンゴル国境付近に落ちた「チンガ隕石」由来)であった、と。(その後、この仏像はナチスがチベットから持ち帰った確証はなく、20世紀にヨーロッパで作られた贋作の可能性も指摘されている。しかし、ナチスがチベットに探検隊を送り何かを持ち帰ったこと自体は史実である。)
ここから、話は、もう一つの線で繋がる。ヒムラーは、SSのシンボルとして、もう一つの記号を使った。「SS」と書かれた、稲妻のような形。これは、古代ゲルマンのルーン文字「ジゲル(Sigel)」つまり「太陽・勝利・雷」を意味する文字を二本並べたものである。
雷。ここで、もう一度、思い出してほしい。古代インド・アーリア人の最高神インドラの武器、ヴァジュラ。ヴァジュラの本来の意味は、「雷電」である。ヒムラーが、SSのシンボルに、雷の意味を持つ記号を選んだ。古代インドの聖なる武器は、雷を象徴していた。そして、その雷の武器が、密教では、煩悩を打ち砕く法具になった。「雷」と「ナチス」と「密教」。これは、偶然か。それとも、ヒムラーは、彼が探していた「アーリア人の霊的な力」が、東洋の密教に純粋な形で残っていることを、知っていたのか。正解は、誰にも分からない。
しかし、これだけは言える。空海が、中国から日本に持ち帰った三鈷杵。その同じ起源を持つシンボルが、20世紀のヨーロッパで、最悪の独裁者の旗印になった。そして、ヒムラーの探検隊は、密教の聖地チベットに辿り着いた。
ヒムラーが探していた「霊的な力」は、彼が見つける前に、すでに、日本の高野山に、1100年以上、存在していた。空海が、結界を張った場所に。奥之院の地下に。永遠の瞑想に入った、空海の中に。ヒムラーが、もし、その存在を知っていたら、彼はチベットではなく、日本に探検隊を送ったかもしれない。しかし、彼は、知らなかった。
そして、ナチスドイツは、敗北した。ヒムラーは、敗戦直後、自殺した。彼が信じた「アーリア人の霊的な力」は、ついに手に入らなかった。一方、高野山の奥之院では、その同じ日も、空海への食事が運ばれ続けていた。何事もなかったかのように。戦争中も、敗戦の日も、ヒムラーが自殺した日も。1200年間、ただの一度も止まらずに。
これが、密教の力なのか。ただの偶然の積み重ねなのか。あなたが、高野山に行って、自分の目で見て、感じて、決めてほしい。ヒムラーが、欲しくて欲しくて、ついに手に入れられなかったものを、あなたは、もしかしたら、奥之院の参道で、ふと手にしているかもしれない。
第4章 入定 — 死ではなく、永遠の瞑想という選択
61歳で高野山に籠った空海が、準備していたもの。それが、入定である。
実は、空海の入定は、その日に突然始まったわけではない。彼は、自分の入定を、何年も前から準備していた。高野山に籠ってから、空海の食事は、日に日に減っていった。最初は、米を食べなくなった。次に、麦を食べなくなった。豆も。野菜も。最後には、水だけになった。これは、即身仏になるための「木食行(もくじきぎょう)」と、よく似ている。体内の脂肪と水分を、極限まで落とす作業。新陳代謝を、限りなくゼロに近づけるための、肉体の準備である。
そして、835年3月15日。空海は、弟子たちを集めた。死期を悟った師の周りに、彼の高弟たちが、ずらりと並んだ。空海は、静かにこう告げた。「私は、6日後の3月21日、寅の刻(午前4時)に、永遠の禅定に入る。死ぬのではない。56億7000万年後弥勒菩薩がこの世に下生する時私はその従者として共に降りてくる。それまで、私はここで、瞑想を続ける。私の体は、ここに残す」。
弟子たちは、号泣した。空海は、続けた。「悲しむな。私は、いなくならない。ただ、形を変えるだけだ。私の意識は、これから宇宙全体に拡散する。だから、お前たちが私を必要とする時、いつでも、私はそこにいる」。
それから6日間、空海は、ほとんど何も口にしなかった。ただ、弟子たちと共に、弥勒菩薩の宝号を唱え続けた。「南無当来導師弥勒尊仏(なむとうらいどうしみろくそんぶつ)」。来たるべき導師、弥勒菩薩よ、と。
そして3月21日の午前4時、空海は石室に入った。結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢を取る。両足を組み、背筋を伸ばし、両手で大日如来の印を結ぶ。これは、密教における最も基本的な、そして最も深い瞑想の姿勢である。空海は目を閉じ、真言を唱え始めた。
弟子たちは外で、息を殺して見守っていた。そして、時間が過ぎていく。ある時、弟子の一人が気づいた。空海の、唱える声が、聞こえなくなっている。弟子は近づいた。空海は座ったまま、動かなかった。呼吸が止まっているように見えた。しかし誰も、彼の体に触れなかった。誰も、彼の名前を呼ばなかった。誰も、彼の脈を確かめなかった。なぜなら、これは死ではないからだ。
これが、「入定(にゅうじょう)」である。
入定とは何か。辞書的に言えば「禅定に入ること」。禅定とは瞑想の深い状態のことを指す。しかし、空海の入定は、ただの瞑想ではない。これは、密教における最終奥義である。肉体を、生きたまま、瞑想の中に固定する。呼吸を極限まで遅らせ、新陳代謝を限りなくゼロに近づける。そして、意識を肉体から切り離す。切り離された意識は、宇宙の根源である「大日如来」と一体化する。肉体はここに残したまま、意識だけが宇宙全体に拡散する。
これが、密教の「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」である。「この身、このままで、仏になる」。
普通の仏教では「悟りを開いて仏になる」までに、気が遠くなるような時間がかかるとされている。具体的には「三劫(さんこう)」という単位の時間が必要、と言われる。一劫が約43億2000万年。三劫は約129億6000万年。つまり、宇宙の年齢以上の時間をかけて、ようやく人は仏になる。それが普通の仏教の教えである。しかし、空海はそれを否定した。「そんな時間は要らない。この身、このままで、この瞬間に、仏になれる」。これが、密教の革命だった。そしてその究極の形が、入定である。
ここで、もう一つ、重要なキーワードが出てくる。「弥勒菩薩」である。弥勒菩薩(みろくぼさつ)とは、仏教において釈迦の次にこの世に現れてすべての衆生(しゅじょう)を救うと約束された仏である。釈迦は、自分が死ぬ前に、こう予言した。「私が死んでから56億7000万年後、弥勒菩薩がこの世に下生(げしょう)する。その時、弥勒は私が救えなかったすべての人々を救う」。これが、仏教の「終末論」であり「救済論」である。
56億7000万年。数字としては、想像を絶する。太陽が膨張して赤色巨星になり、地球を飲み込むのが、約50億年後と言われている。つまり、弥勒が下生する時、地球は、すでに存在しないかもしれない。それでも、弥勒は来る、とされている。そして、空海は、その弥勒の下生を、待つと宣言した。「私は、弥勒の従者として、彼と共に再び現れる」と。
これは、ただの願望ではない。密教の世界観において、空海は、すでに大日如来と一体化している。大日如来は、宇宙そのものである。宇宙が存在する限り、空海も存在する。56億7000万年など、宇宙の時間軸では、一瞬である。空海は、その「一瞬」を、奥之院の地下で過ごしている。
ここで、「即身成仏」とよく混同される言葉がある。「即身仏(そくしんぶつ)」だ。即身仏とは、簡単に言えばミイラである。主に東北地方の湯殿山(ゆどのさん)信仰で行われた修行で、僧侶が生きながらに自分の体をミイラ化させる。何年もかけて「木食行」をし、木の実だけを食べて体の脂肪を完全に落とす。次に特殊な漆(うるし)を飲んで、体内の腐敗を防ぐ。そして自分の意思で、地下の石室に入る。石室には鈴が一本置かれる。鈴を鳴らせる限り生きている、という合図である。毎日、鈴の音が聞こえる。数日後、数週間後。そしてある日、鈴の音が止まる。弟子たちは3年と3ヶ月待ってから、石室を開ける。中には、瞑想の姿勢のまま、乾燥した遺体が残っている。これが即身仏である。現在も山形県には十数体の即身仏が寺院に安置され、実物が見学できる。
しかし、空海が目指したのはこれとは違う。空海はミイラになろうとしたわけではない。むしろ「即身成仏」は、ミイラを残すことではなく生きながらに仏の境地に達することであると空海は説いた。肉体が朽ちようが残ろうが、それは本質ではない。本質は、意識が大日如来と一体になっているかどうか。
ただし、空海が入定した後、奥之院の御廟の中で、彼の肉体がどうなっているのか。これについては、1200年間、諸説が語り継がれてきた。一説には、石棺の中に納められている。一説には、入定された時の姿のまま、座っている。一説には、ミイラのような状態になっている。一説には、実は火葬されていた。どれが正しいのか、誰も知らない。なぜなら、奥之院の御廟は、皇族でさえ立ち入れない禁足地だからだ。
入れるのは、ただ一人。「維那(ゆいな)」と呼ばれる、空海の食事を運ぶ役目の僧だけ。そして維那は、御廟の中で見たことを、誰にも語ってはならない。「他言無用」の規則で、固く縛られている。そのため、御廟の真実は、現代でも、永遠の謎である。
歴史的な記録によれば、空海の遺体は火葬された可能性が高い、とされている。「続日本後紀(しょくにほんこうき)」という当時の公式記録には、空海の遺体は荼毘(火葬)に付されたという記述がある。一方で、後代になると「永遠の瞑想に入った」という入定信仰の文献が現れる。これが史実上の二つの伝承である。
しかしその後、空海への信仰が爆発的に広まる過程で、伝説が加わっていく。「空海は死んだのではない。永遠の瞑想に入ったのだ」「奥之院の御廟の中で、今も、座って瞑想している」「いつか、弥勒菩薩が下生する時、彼は再び目を開ける」。
これは史実か、伝説か。研究者の間でも意見は分かれる。しかし、ここで重要なことを書く。史実と伝説のどちらが正しいか、ではない。「空海は今も生きている」と信じる人々が、1200年間いた。そして、その人々が奥之院に、毎日、食事を運び続けた。雨の日も、雪の日も、台風の日も、戦争中も、コロナ禍も。ただの一度も止まらずに。これが、「事実」である。
歴史的に空海が火葬されたかどうかは、もはや問題ではない。1200年間、毎日、食事が運ばれ続けたという事実が、空海を今も生かしている。人々の信仰が、空海を永遠の瞑想の中に留めている。
奥之院は、ただの墓所ではない。「待機所」である。空海が、宇宙の時間軸の中で、次の出番を待っている、その場所。そう考えると、奥之院に漂うあの独特の空気の意味が見えてくる。参道を歩くと、人によっては急に涙が止まらなくなる。御廟橋を渡ると、空気が「変わる」と感じる。燈籠堂の前で、頭の中が真っ白になる。これは気のせいではない。そこには確かに誰かがいる。座っている。待っている。そして参拝に訪れたあなたを見ている。「来たか」。声にはならない。しかし、伝わってくる。
これが、入定である。死ではない。ただ、永遠に続いている。そして奥之院で今この瞬間も続いている、もう一つの信じがたい事実がある。空海への食事である。
第5章 1200年、毎日続く食事 — 生身供と、貧女の一灯
奥之院では、毎朝午前6時、そして午前10時半。合計1日2回、空海への食事が運ばれる。「生身供(しょうじんぐ)」と呼ばれる儀式である。「生身」とは「生きた身」を意味する。空海は今も生きた身体を持っている、という前提に立った言葉だ。だから、食事が要る。
この儀式は、空海が入定した835年3月21日の翌日から始まったとされる。835年3月22日、その日から現在まで、1200年間ただの一度も欠かしたことがない。これがどれほど異常なことか、考えてみてほしい。1200年とは約44万日。朝と昼の2回として、約88万回。そのすべてが、毎日運ばれてきた。
雨の日も。雪の日も。台風の日も。地震が起きた日も。応仁の乱で京都が焼け落ちた日も。織田信長が高野山を焼き討ちにしようとした日も。明治政府が廃仏毀釈で多くの寺を破壊した日も。第二次世界大戦で日本中の都市が空襲された日も。広島と長崎に原爆が落ちた日も。終戦の玉音放送が流れた日も。東日本大震災が起きた日も。コロナ禍で日本中が止まった日も。止まらなかった。
これは、信仰なのか。狂気なのか。執念なのか。それとも、本当に空海が、まだ生きているのか。
生身供の手順は、こうである。朝の5時半、奥之院の「御供所(ごくしょ)」と呼ばれる建物で、食事の準備が始まる。調理を担当するのは「行法師(ぎょうほうし)」と呼ばれる、特別な資格を持った僧侶だ。彼らは、空海への食事を作ることだけが仕事である。メニューは伝統的に精進料理が基本で、米、味噌汁、野菜の煮物、漬物、お茶。動物性の食材は使わない。
しかし、興味深いことに、現代になってから、メニューに変化が起きた。パスタが出される日がある。シチューが出される日もある。カレーが出される日もある。これは誰かが決めたわけではない。「空海も、たまには違うものを食べたいだろう」という、行法師たちの判断である。そして毎年3月21日、空海の入定の日には、新しい衣も届けられる。空海は瞑想の中で衣が古くなる。だから新調する。これも1200年間続いている。
調理が完了すると、食事は白木の箱に納められる。行列の先頭を歩くのは「維那(ゆいな)」と呼ばれる僧。維那は、空海の食事を御廟まで運ぶ役目を代々受け継いでいる。維那の後ろに、白木の箱を持った僧が2人。3人で御供所を出発する。
そして御供所のすぐ近くにある「嘗試地蔵(あじみじぞう)」の前で立ち止まる。ここで奇妙なことが行われる。地蔵に、食事を味見してもらう。「お地蔵様、今日の空海のお食事は、味は大丈夫でしょうか」。そう問いかけて、しばらく待つ。地蔵が何か言うわけではない。しかし、これは形式上の儀式ではない。本気で行われている。地蔵が「OK」を出して、初めて、食事は御廟へと進む。
嘗試地蔵を通過した後、行列は奥之院の参道を進んでいく。参道の両側には、樹齢700年を超える巨大な杉の木がそびえ立っている。その下には、20万基を超える墓と供養塔が並んでいる。戦国武将の墓、皇族の墓、庶民の墓、企業の墓。そのすべての視線の中を、3人の僧が、白木の箱を持って進んでいく。
そして最後の橋、「御廟橋(ごびょうばし)」に辿り着く。御廟橋は特別な橋である。橋の長さは36枚の橋板でできていて、橋全体を1枚と数えると合計37。これは、密教の「金剛界37尊」を表している。さらに36枚の橋板の裏には、それぞれ梵字で37尊が刻まれている。つまり、御廟橋を渡るということは、密教の37尊の上を踏みしめて渡るということになる。
橋を渡った先は、聖域である。ここから先は写真撮影禁止、飲食禁止、帽子も外す、礼をしてから渡る。橋の向こうに、「燈籠堂(とうろうどう)」が見えてくる。この燈籠堂が、奥之院の本当の心臓である。
中に入ると、世界が変わる。天井から床まで、空間のすべてを埋め尽くすように、燈籠が吊られている。その数、2万基以上。一つ一つに、参拝者の願いが込められている。すべての燈籠が、ゆらゆらと小さく揺れながら、光を放っている。それは、銀河のように見える。上を見ても、下を見ても、横を見ても、光、光、光。
そして、この銀河の中に、1000年以上消えたことのない火が、2つ燃えている。
一つは、「祈親灯(きしんとう)」、別名「貧女の一灯(ひんじょのいっとう)」。これには、お照(おてる)という少女の物語がある。
平安時代、和泉国(現在の大阪南部)に、お照という少女がいた。実の親に捨てられたところを、奥山源左衛門・お幸という夫婦に拾われ、育てられた。お照は16歳になったとき、養母が流行病で亡くなった。心のこもった介抱もむなしく、間もなく、養父も後を追うようにこの世を去った。お照は一人ぼっちになった。
旅人から、高野山燈籠堂の話を聞いた。「冥土の道を、灯が照らしてくれる」と。お照は、養父母のあの世の幸せを祈るため、奥の院に灯を捧げようと決心した。しかし、お金がない。お照は、自分の長い黒髪を切った。その髪を売って得たわずかな金で、小さな燈明を買った。そして、高野山に登り、その燈明を、燈籠堂に捧げた。それが、長和5年(1016年)のこと。
その火が、今も消えずに燃え続けている。1000年以上、ずっと。お照が捧げた、たった一つの小さな火が、巨大な燈籠堂を支える根本の光になっている。
もう一つの永遠の火は、「白河灯」。寛治2年(1088年)、白河上皇が献じた灯である。記録には「上皇が30万灯を献じた」とある。俗に「長者の万灯」と呼ばれる。
「貧女の一灯」と「長者の万灯」。貧しい少女が髪を切って捧げた火と、上皇が30万灯捧げた中の一灯。しかし、燈籠堂の中で、二つの火は、まったく同じ明るさで燃えている。これが、空海の教えである。「貧富の差は、関係ない。心の純粋さが、すべてである」。
そして、燈籠堂のさらに奥に、空海の御廟がある。維那と2人の僧は、燈籠堂を通り抜けて、御廟の前に立つ。そして白木の箱から食事を取り出す。ここで外の参拝者には、何も見えない。御廟の中で何が行われているのか、誰も知らない。維那だけが、空海の前に食事を置く。そして読経をする。「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」。何度も唱える。そして合掌して退出する。
これが毎朝午前6時に行われている、生身供の儀式である。朝が終わると、午前10時半にもう一度繰り返される。1日2回、毎日続いている。
明日の朝、午前6時。奥之院では、また、空海への食事が運ばれる。あなたが、この記事を読んでいる、その時間にも。あなたが寝ている、その時間にも。あなたが別のことを考えている、その時間にも。奥之院では、儀式が続いている。1200年、止まらずに。そして空海は、今日も、食事を受け取る。
第6章 148歳の空海 — 観賢が御廟を開けた日
空海が入定したのは、835年3月21日。それから時が過ぎた。
平安時代、910年代。世の中は変わっていた。空海を直接知る弟子たちは、皆、亡くなっていた。空海の教えを受け継いだ第二世代、第三世代の僧たちが、高野山を守っていた。空海の御廟は、奥之院の地下に変わらず存在していた。生身供も、毎日続いていた。
しかし、世の中には、こんな声も聞こえ始めていた。「空海は、本当に、まだ生きているのか」「もう骨だけになっているのではないか」。
そして921年(延喜21年)、醍醐天皇が、空海に「弘法大師」の諡号(しごう)を贈ることを決めた。「弘法大師」とは「広く仏法を弘めた、大いなる師」という意味である。これは、国家が公式に空海を最高位の聖人として認定するという、歴史的な出来事だった。
ここで、一つの儀式が必要になった。天皇から授かった諡号と、新しい袈裟(けさ)を、空海に直接届ける。そのためには、御廟の中に入らなければならない。御廟を開けなければならない。これは、空海が入定してから、初めての御廟開扉(ごびょうかいひ)である。入定から、86年後のことだった。
その大役を任されたのが、当時の高野山の最高位の僧、観賢(かんげん)である。観賢は空海の孫弟子の世代にあたる。彼自身も優れた密教僧であり、朝廷の信頼も厚い人物だった。
しかし観賢は、緊張していた。御廟を開ける。空海の眠る、聖域中の聖域に足を踏み入れる。もし御廟の中が、ただの遺骨やミイラの残骸だったら。もし空海が、ただの「死んだ昔の僧」だったら。長年信じられてきた「空海は生きている」という伝説が、その瞬間に崩れる。人々の信仰は、どうなるのか。高野山は、どうなるのか。観賢は、考えただろう。しかし、命令である。御廟を開けるしかない。
伝承によれば、その日、観賢は特別な禊(みそぎ)をし、純白の法衣を身につけ、弟子の淳祐(じゅんゆう)を従えて、奥之院に向かった。御廟の前に立った観賢は、静かに扉を開けた。そして、中に足を踏み入れた。
御廟の中は、暗かった。外の光が、わずかに差し込むだけ。しかし、しばらくすると、観賢の目は暗闇に慣れてきた。そして、彼は見た。
御廟の奥に、人が座っていた。結跏趺坐の姿勢で。両手で印を結び。目を閉じ。ただ、座っていた。空海だった。86年前、入定したときの、その姿勢のままで、空海は、そこに座っていた。肉体は、朽ちていなかった。ミイラに、なっていなかった。ただ、生きているかのように、座っていた。
そして観賢が見たのは、それだけではない。空海の髪と髭が、長く伸びていた。肩を越し、胸を越し、床に届くほど伸びていた。死人の髪は、伸びない。しかし、空海の髪は、伸び続けていた。
観賢は、その場で号泣した、と伝えられる。「大師は、生きておられる」。「お祖父様(おじいさま)、お久しぶりでございます」。観賢は空海を、まるで生きた肉親のように呼んだ。そして観賢は震える手で、空海の長く伸びた髪と髭を剃った。新しい袈裟を着替えさせた。醍醐天皇から授かった「弘法大師」の諡号を伝えた。「お祖父様、天皇から、新しいお名前を頂きました。これからは、弘法大師、と呼ばれます」。
空海は、もちろん、何も答えない。しかし観賢は、確かに感じた。空海が、それを聞いている、と。観賢はゆっくりと後ずさり、御廟を退出した。そして扉を閉めた。外で待っていた者たちに、観賢は何も語らなかった。ただ、こう告げただけだった。「大師は、生きておられた」。
それ以上のことは、観賢は誰にも語らなかった。「他言無用」。その規則は、この時、観賢によって確立された、とされる。御廟の中で見たことは、誰にも語ってはならない。なぜか。語れば、人々は確かめに行きたくなる。しかし、空海の瞑想を邪魔してはならない。御廟の中の空海は、宇宙と繋がっている。その繋がりを、世俗の好奇心で断ち切ってはならない。だから、見たことを口にしてはならない。これが、観賢が未来の維那たちに託したルールである。
そして、ここで、計算してみてほしい。空海が入定したのは、62歳の時。それから観賢の御廟開扉まで86年。つまり、観賢が見たとされる空海の肉体上の年齢は、62足す86で、148歳である。100歳をはるかに超えた人間が、髪と髭を伸ばしながら、結跏趺坐の姿勢で座っている。これは、もはや、人間ではない。しかし空海は、確かに、そこにいた。
観賢の物語は、その後、高野山の根本的な「証拠」となった。「空海は、本当に生きている」。これは、伝説ではない。観賢という当時の最高位の僧が、自分の目で確かめた。そして、その目撃を、彼は、生涯、口外しなかった。しかし観賢が御廟を出てきた時の、彼の表情。号泣した、と伝えられる、その涙。そして、彼が放った、たった一言。「大師は、生きておられた」。これだけで、十分だった。人々は、確信した。奥之院の御廟の中で、空海は、今も生きている。
そして、観賢以降、御廟は、永遠に封印された。維那だけが、毎日、御廟の前室まで入ることを許される。しかし御廟の最奥、空海が座っている、その場所には、誰も入れない。皇族も、入れない。最高位の僧も、入れない。ただ、空海だけが、そこにいる。
そして観賢が見た、伸び続ける髪と髭の話は、現代まで語り継がれている。近代になってから、合理主義の研究者たちは、この話を「伝説」として片付けようとした。「死人の髪が伸びるはずがない」と。しかし、興味深い事実がある。近年の科学研究で「死後、髪が伸びたように見える現象は実在する」ことが確認されている。正確には、髪自体が伸びるのではなく、死後、皮膚が乾燥して縮むため、毛根の根元が露出し、「髪が伸びたように見える」のである。つまり観賢が見たのは、「髪が伸びた」という視覚的事実だった。それを彼は、「空海は生きている」と解釈した。
合理主義者は、笑うかもしれない。しかし、ここで、もう一度、考えてみてほしい。86年間、皮膚が縮み続けた、ということは、空海の遺体が、その間、ずっと、ある状態を保ち続けていた、ということになる。普通の遺体なら、86年経てば、骨だけになる。しかし空海の遺体は、86年後も、観賢が「座っている」と認識できる形を保っていた。これは、ミイラ化ではない。ミイラなら、皮膚は乾燥してパリパリになり、姿勢を保つことはできない。
何かが、86年間、空海の肉体を、結跏趺坐の姿勢のまま、保ち続けていた。その「何か」が、入定である。観賢は、それを目撃した。
そして現代まで、空海は、その状態のまま、奥之院の御廟の中で座っている。髪は、今も伸びているのだろうか。それは、誰にも分からない。維那でさえ、御廟の最奥には入れない。ただ、もしかしたら、と想像してほしい。1200年経った今、空海の髪と髭は、御廟の床を覆い尽くし、壁を這い、天井まで届いているのかもしれない。そして空海は、その髪に包まれて、なお座っている。目を閉じて。印を結んで。宇宙と繋がりながら。弥勒菩薩が下生する、56億7000万年後の、その日を待ちながら。
第7章 奥之院はアカシックレコードである
奥之院は、アカシックレコードである。
第1章で書いた、空海が若き日に成就した「虚空蔵求聞持法」。その伏線を、ここで回収する。
まず、「アカシックレコード」とは何か。簡単に言えば「宇宙誕生以来のすべての存在の、あらゆる情報が記録されている、宇宙規模の図書館」のことである。スピリチュアルの世界では「宇宙の図書館」「宇宙のインターネット」とも呼ばれる。138億年前、宇宙が誕生してから現在まで、起きたすべての出来事、すべての魂の記憶、すべての感情、すべての知識が、そこに記録されている。過去だけではない。現在の出来事も、リアルタイムで記録されている。さらに、未来に起こりうる可能性も、そこに含まれている。アカシックレコードに「ないデータ」は、存在しない。
そして、アカシックレコードにアクセスできる人間は、ほんの一握りだけだ。歴史上、エドガー・ケイシー、ルドルフ・シュタイナー、エマヌエル・スヴェーデンボリ、そういった「霊能者」「神秘家」と呼ばれた人々が、アカシックレコードに繋がったと記録されている。
しかし、もっと遥か昔、東洋では、アカシックレコードに繋がる方法を、すでに体系化していた人物がいた。弘法大師空海である。
「アカシック」という言葉の語源は、サンスクリット語の「アーカーシャ」。意味は「虚空」。そして、空海が若き日に成就した、人生最大の修行が、「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」だった。「虚空蔵」とは、「アーカーシャガルバ」。「アーカーシャ(虚空)」を「ガルバ(蔵)」した菩薩、つまり「宇宙のすべての知識を蔵した菩薩」という意味である。
ここで、はっきりと書く。「アカシックレコード」と「虚空蔵」は、同じ概念である。語源が、同じである。西洋の19世紀末に流行した神秘思想で「アカシックレコード」と名付けられた概念は、東洋では、空海の時代より遥か昔から、「虚空蔵」として、すでに知られていた。そして空海は、20代前半で、その「虚空蔵」にアクセスする修行を成就していた。
虚空蔵菩薩の真言を、100万回唱える。100日間、毎日1万回。その途中で、夜空の金星が、口の中に飛び込んでくる。それは「修行成就」の証だった。空海は、宇宙の根源データバンクに、自分を接続した。これが、空海が、超人的な記憶力、瞬時に外国語を習得する能力、唐の恵果阿闍梨に「あなたを待っていた」と言わしめた、その理由である。彼はすでに、人類の通常の認識を超えた場所に立っていた。
そして、入定。それは、「肉体を、生きたまま、瞑想の中に固定し、意識を宇宙の根源と完全に一体化させる」修行だった。つまり、こうである。空海は、自分の意識を、アカシックレコードと永遠に接続したまま、肉体を奥之院に残した。そして御廟の中で、彼は座っている。今も、座っている。1200年間、ずっと座っている。
ということは、奥之院の御廟とは、何か。「アカシックレコードの入口」である。「宇宙の図書館」の、現世における物理的な窓口である。空海という、人類史上最も偉大な「アクセス権限保持者」が、御廟の中で、永遠に、そのドアを開けたままにしている。
奥之院を訪れた人々の体験を、聞いてみてほしい。「参道を歩いていたら、急に、過去のことが全部思い出された」「御廟橋を渡った瞬間、自分が生まれてくる前のことを、知っているような感覚になった」「燈籠堂の中で、何かに見られている、というよりも、何かに見渡されている、と感じた」「奥之院から帰ってから、人生の選択が、はっきりと見えるようになった」「自分の使命が、わかった」「これまでの人生で、悩んでいたことが、急に、どうでもよくなった」。これらは、ネットを少し検索すれば、いくらでも出てくる、奥之院体験談である。これだけの人々が、これだけ似た体験をしている。
そして、第3章で書いた、ヒムラー。彼は、チベットに探検隊を送り、必死で「アーリア人の霊的な力」を探していた。ヒマラヤの山中で、シャンバラを探した。アガルタを探した。地下王国を探した。しかし、彼は、見つけられなかった。なぜか。それは、彼が、間違った場所を探していたからだ。彼が探していた「宇宙への接続点」は、チベットにはなかった。それは、日本の、和歌山の、高野山の、奥之院の地下に、すでに存在していた。空海によって、1100年前から開かれていた。ヒムラーは、そのことを知らなかった。
そして、現代を生きるあなた。スマホで、Googleで、世界中の情報に瞬時にアクセスできる時代を生きるあなた。しかし、Googleで検索できるのは、人類が文字に残した知識だけである。宇宙の138億年分の記憶。すべての魂の、過去・現在・未来。あなたが、生まれてくる前の、あなた自身の魂が、何を経験してきたか。あなたが、なぜ、この時代に、この国に、この家に、生まれてきたのか。あなたの、本当の使命は、何なのか。それらは、Googleでは検索できない。しかし、奥之院では、できる。
そう信じる人々が、毎年100万人以上、高野山に登っている。そして、何かを持って帰る。明確な「答え」ではない、かもしれない。しかし、「方向」を感じる。「自分が、何のために生きているのか」がわかる。それは、空海が、御廟の中から、宇宙の図書館の本のページをめくってくれているからだ。「お前の質問の答えは、ここにある」。そう空海は、参拝者に、声には出さずに伝える。参拝者は、その「答え」を、自分でもよくわからないまま、受け取って帰る。そして、しばらく経ってから、ふと気づく。「ああ、あの時、奥之院で感じたあれは、これだったのか」。
これが、奥之院の本当の機能である。ただの墓所ではない。ただのパワースポットでもない。ただの宗教施設でもない。人類が、宇宙と接続するための、唯一の、永続的なハードウェアである。空海が、自分の肉体を、そのハードウェアのコア部品として提供している。1200年間、ずっと。そしてこれから、56億7000万年、ずっと。
そして、燈籠堂の2万基の燈籠は、銀河の星々の比喩ではない。それは、宇宙そのものの再現である。空海は、その銀河の中心で座っている。座ったまま、56億7000万年後まで、宇宙と対話している。維那が、御廟の中で、空海の唱える真言の声を、時々聞くという伝説がある。それは、空海を通じて、宇宙そのものが語りかけているのである。
最後に、もう一つ書いておく。アカシックレコードに、誰でもアクセスできるわけではない。歴史上、繋がれた人間は、ほんの一握りだ。しかし、アクセスする方法はある。それは、「呼ばれること」である。アカシックレコードの方が、「この人間に、情報を伝えたい」と判断したとき人間は奥之院に呼ばれる。そして、呼ばれた人間は、必ず辿り着く。
序章で書いた、「呼ばれないと、辿り着けない山がある」という言葉の、本当の意味が、これである。呼んでいるのは、空海ではない。空海を通じて、宇宙そのものが呼んでいる。あなたが、今、この記事を読んでいる、ということは、もしかしたら、すでに呼ばれている、ということなのかもしれない。
第8章 霊宝館 — パワーが強すぎて長くいられない
高野山には、宇宙と直結した奥之院がある。1200年消えない火を抱いた燈籠堂がある。空海が中国から投げた三鈷杵をかけた松がある。そして、もう一つ。「行く場所」というよりも、「耐える場所」と呼んだ方が正確な施設がある。霊宝館(れいほうかん)である。
霊宝館は、高野山の中心地、壇上伽藍のすぐ近くにある。1921年に開館した、日本最古級の木造建築博物館。高野山全体の117の寺院が、1200年間蓄えてきた、仏像、仏画、書跡、工芸品を、ここに集めて保管・展示している。その規模は、想像を超える。国宝、21件。重要文化財、148件。和歌山県指定文化財、17件。重要美術品、2件。そして、未指定品まで含めると、収蔵品は約10万点。霊宝館の建物の中には、1200年分の高野山の「重み」が、すべて凝縮されている。
霊宝館には、特別なルールがある。「館内、写真撮影禁止」。それは、文化財保護のためでもあるが、それだけではない。入った人は、わかる。「ここでは、写真を撮ってはいけない」。撮ろうという気持ちが、起きない。何かを、奪ってはいけない、と感じる。そういう場所である。
霊宝館の展示の核は、仏像である。中でも、ひときわ存在感を放つのが、鎌倉時代の仏師・快慶の作とされる「四天王立像」だ。四天王とは、持国天(東)、増長天(西)、広目天(南)、多聞天(北)、の四神。インド仏教の世界観において、世界の中心にそびえる聖山・須弥山(しゅみせん)に住む、最高神・帝釈天の家来である。彼らは、須弥山の四方の門を守護している。
快慶が彫った四天王は、ただの守護神像ではない。筋肉が、リアルすぎる。血管が、浮き出ている。太もも、腕、肩、すべてが、生きた人間の体のように緊張している。足元には、邪鬼(じゃき)を踏みつけている。邪鬼とは、人間の煩悩と、悪霊が混ざった存在である。四天王は、彼らを踏み潰し、力を抜けないようにしている。
仏像の前に立つ。すると、空気が変わる。来館者の中には、こんな声を漏らす人がいる。「作品の前に立つだけで、背筋が伸びる」「筋肉の表現があまりにもリアルで、今にも像が動き出しそうだ」「視線が、合った気がした」。そして、こんな声もある。「ここに、長くいられない」「気分が、悪くなる」「頭が、痛い」「胸が、苦しい」「早く、外に出たい」。霊能者の中には、霊宝館を訪れた後、こう書いている人もいる。「波動が、高すぎる。私は、霊能者だが、それでも、ここでは、長くいられない」。
ここで、重要なことを書いておく。霊宝館の仏像は、「怖い」のではない。仏像が、人を襲ってくるわけではない。仏像が、人に危害を加えるわけではない。しかし、仏像の周りに漂っているエネルギーが、強い。強すぎる。普通の人間の体は、それに耐えられるようにできていない。
これは、たとえるなら、こうだ。100ワットの電球には、誰でも近づける。しかし、太陽には、近づけない。エネルギーが、強すぎる。霊宝館の仏像は、太陽に近い。そこに込められている「祈り」と「霊力」のエネルギーが、800年、900年、1000年と蓄積されてきた。それが、ガラスケースの中で凝縮されている。人によっては、そのエネルギーに耐えられない。体が、拒否反応を起こす。頭痛、吐き気、めまい、動悸。それは、決して「気のせい」ではない。
霊宝館の入り口の係員は、長年勤めていると、わかってくる、という。「この人は、長くいられない」「この人は、すぐに外に出る」。逆に、「この人は、ずっとここにいる」「この人は、もう何時間も見つめている」。人によって、霊宝館への反応が、まったく違う。それは、その人の霊的な感受性の違いである。
そして、霊宝館で最も強烈なエネルギーを放つ、ある作品がある。「血曼荼羅(ちまんだら)」と呼ばれる、巨大な絹の曼荼羅である。「血」と名がついているのは、誇張ではない。本当に、絹に、血で描かれている。これは、平清盛の作とされる。平安時代末期、平清盛が、密教の修行のために、自分の頭から血を取り、その血で曼荼羅を描かせた、と伝えられる。
血で、絹に描かれた、密教の世界観。人間の血液が、絹に染み込み、そして、それを絵にした。そんなものを、人間が作れるのか。実物は、霊宝館にある。サイズは、信じられないほど大きい。広げて展示されると、壁一面を覆い尽くす。その前に立つと、人は固まる。「これは、平清盛の血なのか」「800年以上前の、人間の血が、ここにある」「それで描かれている曼荼羅が、ここにある」。
血曼荼羅の前で、急に涙が止まらなくなった、という体験談がある。過去世の記憶のようなものが、フラッシュバックした、という体験談がある。立っていられなくなって、座り込んだ、という体験談がある。そして、霊宝館を出た後、しばらく頭痛が続いた、という体験談もある。
これは、ただの博物館ではない。これは、1200年分の祈りと、血と、霊力を保管している、「霊的な倉庫」である。霊宝館の中で、人は、その重みに耐えなければならない。
しかし、ここで、もう一つ書いておきたいことがある。霊宝館は、「怖い場所」ではない。「強い場所」である。そして、その強さに耐えられる人は、ここで、人生を変えるような体験をする。血曼荼羅を見て、自分の人生の使命を悟った人がいる。快慶の四天王を見て、ずっと迷っていた決断を、その場で決めた人がいる。弘法大師の自筆の書「三教指帰」を見て空海が一気に書き上げたその筆の勢いに何か自分の中の何かが動いたという人がいる。
霊宝館は、人を選ぶ。長くいられる人と、長くいられない人がいる。しかし、どちらも正しい。長くいられない人は、それだけ感受性が高い、ということ。長くいられる人は、それだけ、その場のエネルギーに共鳴できる、ということ。どちらの体験も、霊宝館でしかできない。
最後に、一つのアドバイスを書いておく。霊宝館を訪れるなら、奥之院の前に行くこと。霊宝館で、高野山の1200年分の「重み」を、体に入れる。その後で、奥之院に向かう。すると、奥之院で感じる空海の存在が、まったく違って見えてくる。霊宝館で見た、快慶の四天王。血曼荼羅。空海の自筆の書。それらすべてが、奥之院の御廟の、空海から生まれてきた。その流れを、体で感じてから、御廟の前に立つ。その時、あなたは、もはや、ただの観光客ではない。1200年の重みを引き受けた者として、空海と向き合う。そして、もしかしたら、その時、あなたは聞くかもしれない。「来たな」。空海の声を。
ただし、霊宝館で体調を崩したら、無理はしないこと。それは、あなたが、霊宝館のエネルギーに、すでに十分繋がった、という証である。一度、外に出て、空気を吸う。霊宝館の周りには、シャクナゲや、新緑や、紅葉が、季節ごとに咲いている。その自然の中で、深呼吸をする。それだけで、霊宝館で受け取ったエネルギーが、体の中に定着する。そして、奥之院に向かえばいい。霊宝館は、高野山の「準備室」である。ここで、心と体を整えてから、空海に会いに行く。それが、高野山の正しい歩き方である。
第9章 呼ばれた人々 — 高野山で起きた、信じがたい話
高野山に行った人は、何かを持って帰る。それは、お土産ではない。「体験」である。
ここから書くのは、ネット上に散在する、奥之院、燈籠堂、御廟、そして宿坊で、実際に起きた、信じがたい話をまとめたものである。すべて、別々の人が、別々の時期に、別々の場所で体験している。共通点があるとすれば、ただ一つ。「高野山に、呼ばれた」と、本人が感じていることである。
一つ目。東京で会社員をしていた、30代の女性。
人生に、何の不満もなかった、と本人は言う。仕事は順調、恋愛も順調、家族も健康。しかし、ある日、急に、頭の中に「高野山」という単語が降ってきた。最初は、無視した。なぜ突然、高野山なのか、自分でもわからなかった。しかし、その日から、おかしなことが起き始める。つけたテレビで、たまたま、高野山の特集番組をやっている。本屋に入ると、入口に、高野山の本が平積みされている。ランチに入ったカフェで、隣の席の人が、「先週、高野山に行ってきてさあ」と話している。「これは、呼ばれている」。彼女は、そう判断した。3週間後、有給を取って、一人で高野山に向かった。
奥之院の参道を歩き始めて、約500メートル。突然、涙が止まらなくなった。理由は、わからない。悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。ただ、涙が、後から後からこぼれてくる。参道の両側には、樹齢700年を超える巨大な杉。地面には、20万基の墓と供養塔。彼女は、その中を、泣きながら歩き続けた。御廟橋を渡る頃には、涙は止まっていた。代わりに、頭の中が、不思議なほど静かになっていた。
そして、燈籠堂に入った瞬間、彼女は聞いた。「ありがとう」。声ではない。しかし、確かに、頭の中に、それが響いた。誰の声か、わからない。しかし、彼女は、それが「亡くなった父」の声だと、わかった。父は、3年前に亡くなっていた。生前、彼女は、父に「ありがとう」と言えなかった。それが、ずっと、心に引っかかっていた。彼女は、その場で号泣した。
そして、東京に戻ってから、人生が変わった、と本人は書いている。何が変わったのか、説明は難しい。しかし、彼女は、こう書く。「父と、ちゃんとお別れができた。それまで、私の人生は、止まっていたのだと、わかった。今、私は、ようやく前に進めている」。
二つ目。九州の、50代の女性。
彼女は、ガンの宣告を受けていた。ステージは、3期。手術を勧められていた。しかし、何かが引っかかった。手術を受ける前に、行きたい場所がある。そう感じた。それが、高野山だった。行ったことは、なかった。なぜ、高野山に行きたいのか、自分でもわからない。しかし、行かなければ、と感じた。夫と二人で、高野山に登った。
奥之院の御廟の前で、彼女は、長い時間合掌した。「お大師様、私は、まだ死にたくないです。もう少し生きたいです。家族と、まだ過ごしたいです」。そう、心の中でお願いした。その時、頭の中に、こう響いた。「大丈夫。お前は、まだ、ここで生きる」。声ではない。しかし、明確に、それが伝わった。彼女は、その場で号泣した。そして、その場で決めた。「私は、生きる」。
その後、手術を受けた。経過は、極めて良好だった。5年後、彼女は、完治の診断を受けた。「高野山に呼ばれていなかったら、私は、絶望のまま、手術台に上がっていた。あの『大丈夫』という声がなかったら、私の体は、回復しなかったかもしれない」。そう、本人は振り返っている。
三つ目。これは、宿坊での話である。
宿坊とは、寺院が運営する宿のことである。高野山には、50を超える宿坊がある。観光客でも、泊まれる。朝晩の精進料理と、朝の勤行(ごんぎょう)、写経などが体験できる。ある20代の男性が、初めて、宿坊に泊まった。
夕食を食べ、風呂に入り、部屋に戻った。深夜、彼は、目を覚ました。何かが聞こえる。読経の声だった。低く、ゆっくりと、男の声が、お経を唱えている。最初、彼は、隣の部屋の宿泊客が、何かを唱えているのかと思った。しかし、声が近すぎる。隣の部屋からではない。彼の、すぐ近くで聞こえている。部屋の中を見渡した。誰もいない。しかし、声は続いている。10分、20分、30分。読経は、止まらない。彼は、怖くはなかった。なぜか、わからないが、安心していた。それは、彼に害をなす存在ではないと、本能でわかった。しばらくして、彼は、また眠ってしまった。
朝、宿坊の僧侶に、その話をした。僧侶は、笑った。「珍しいことでは、ないですよ。お大師様の弟子の誰かが、夜中も、お勤めを続けているのでしょう」。「弟子は、生きている方ですか」。「いいえ、もう亡くなった方です。しかし、お大師様と同じく、瞑想の中で、お経を唱え続けているのです」。彼は、絶句した。しかし、確かに、彼が聞いた読経は、現代の言葉ではなかった。古い、平安時代の発音のような、不思議な節回しだった。「私は、誰かの、千年前のお勤めを聞いたのか」。彼は、そう書いている。
四つ目。これは、別の女性の話。
彼女は、奥之院で、こんな体験をした。参道を歩いている時、急に、自分の足が止まった。何かに引っ張られたわけではない。しかし、足が動かない。立ち止まった彼女の目の前に、一つの小さな墓があった。知らない名前。誰の墓か、わからない。しかし、彼女は、そこから動けない。そして、頭の中に、こう響いた。「ありがとう」。知らない男性の声だった。
彼女は、その墓に手を合わせ、しばらく祈った。何かをお願いしたわけではない。ただ、その声に応えるように合掌した。5分ほど、そうしていただろうか。ふと、足が動くようになった。彼女は、それから、参道を最後まで歩いた。
東京に帰ってから、彼女は、ある夢を見た。夢の中に、知らない男性が現れた。「先日は、ありがとうございました。私は、長い間、誰にも気づかれずに、あそこで待っていました。あなたが、立ち止まってくれて、嬉しかった。これで、私は行けます」。そう、男性は言って、消えた。それ以来、彼女は、その夢を見ない。「あの墓は、誰のものだったのか。なぜ、私が止まったのか。今でも、わからない。しかし、何かが、私を通じて解放されたのだと思う」。そう、本人は書いている。
これらは、すべて、奥之院に行った人々が、ネット上で報告している、実在の体験談である。検索すれば、もっと出てくる。何百、何千、もしかしたら、何万件。そして、すべてに共通点がある。それは、「行く前と、行った後で、人生が変わった」ということ。明確に変わる。無視できないほど変わる。そして、変わった人々は、こう言う。「私は、呼ばれて行った」「そして、答えをもらって帰ってきた」。
「答え」が、何だったのか、本人にも、はっきりとわからないことが多い。しかし、後から振り返ってみると、奥之院で、何かが起きていた。それが、空海なのか、宇宙なのか、自分自身の魂なのか、それは、わからない。しかし、確かに、何かが起きた。
第10章 企業墓の森 — コーヒー、ヤクルト、ロケット、シロアリ
奥之院の参道は、ただの参道ではない。そこには、20万基を超える墓と供養塔が並んでいる。戦国武将の墓もある。第11章で書く、織田信長、武田信玄、徳川家康、上杉謙信、伊達政宗、明智光秀。日本史の主要人物たちが、ほぼここに揃っている。
しかし、参道を歩いていると、戦国武将とはまったく異なる、別の種類の墓が視界に入ってくる。それが、「企業墓(きぎょうばか)」である。奥之院には、約100基から140基の企業墓があるとされる。
ここで、想像してほしい。会社の墓である。会社が、死んだわけではない。会社は、まだ現役で営業している。なのに、会社の名前で、墓が建っている。なぜか。それは、その会社が、社員や、取引先や、お客様、そして「商品」自体の魂を、供養するために建てた墓だからである。
「商品の魂」とは、なんだ、と思うかもしれない。しかし、日本人は、古くから、ものに魂が宿る、と信じてきた。針供養、人形供養、刃物供養。物にも、魂はある。だから、その物を、長年お世話になって、捨てる時には、感謝の気持ちで供養する。それを、企業レベルでやっている。そして、その「企業墓のメッカ」が、奥之院の参道なのである。
参道を歩いていると、見えてくる、いくつかの印象的な企業墓を紹介する。
一つ目、UCC上島珈琲の墓。参道を歩いていると、巨大なコーヒーカップとソーサーが視界に入ってくる。立派なソーサーの上に、ぼってりと、丸いコーヒーカップが乗っている。中には、赤石でコーヒー色まで再現されている、という凝りようだ。これが、UCC上島珈琲の企業墓である。この墓には、明確なメッセージがある。「お世話になったすべてのコーヒー豆と、すべてのお客様の魂を、ここで供養いたします」。私たちは、毎日、コーヒーを飲んでいる。一杯のコーヒーには、約100粒のコーヒー豆が使われている。その背後には、想像を絶する数のコーヒーの実があり、それを育てた農家があり、運んだ人々がいて、焙煎した職人がいる。そのすべての命と労力に、UCCは、感謝の気持ちを形にした。それが、この、コーヒーカップの墓である。
二つ目、ヤクルトの墓。UCCの近くに、もう一つ、印象的な墓がある。それは、巨大な「ヤクルト容器」である。実物の、何十倍にも巨大化したヤクルト容器が、参道に立っている。これも、UCCと同じ思想である。ヤクルトには、1本あたり、無数の乳酸菌が生きている。その乳酸菌の、数えきれない命に、ヤクルトは、感謝を捧げている。「ヤクルトが今日の隆盛をみていることは同志が互に結束して健康社会建設に努力を続けてきた成果であり……ヤクルト業界に従事していた物故者の御霊を合祀し、併せて全ヤクルトの霊場として後世の人々の思い出のよすがにする」。これが、株式会社ヤクルト本社が昭和39年(1964年)に奥之院に建立した企業墓に刻まれた文章である。そして、この巨大なヤクルト容器の墓は、見る者に、こう問いかける。「私たちは、毎日、ヤクルトを飲んでいる。しかし、その乳酸菌の魂を、供養したことがあるだろうか」。
三つ目、新明和工業のロケット。参道を歩いていると、視界の奥に、何かが見える。宇宙ロケットである。正確には、「アポロ11号」の模型。白と黒のツートーンカラー。先端は、尖っている。全長は、見上げるほどの大きさ。新明和工業は、航空機部品の製造をしている会社である。彼らは、自社の墓として、「アポロ11号のロケット」を、奥之院に建てた。この墓には、深い意味がある。人類が、月に行った。それは、人類史上、最大級の科学的成果である。しかし、その背後には、無数の技術者、無数の犠牲、無数の祈りがあった。新明和工業は、その航空産業の歴史に関わってきた企業としてすべての関係者の魂をここで供養している。宇宙開発と、密教。最先端の科学技術と、1200年前の信仰。それらが、奥之院の参道で出会っている。
四つ目、日本しろあり対策協会のシロアリ供養塔。シロアリ駆除を業務とする業界団体・日本しろあり対策協会が、奥之院に供養塔を建てた。その目的は、何か。「これまで駆除してきた、すべてのシロアリの魂を、供養するため」。供養塔には、こう刻まれている。「しろあり やすらかに ねむれ」。協会のホームページには、こう書かれている。「生をこの世に受けながら、人間生活と相容れないために失われゆく生命への憐憫と先覚者への感謝の象徴」。シロアリは、人間にとって、害虫である。家を食い荒らし、財産を壊す。駆除しなければならない。しかし、シロアリにも、命がある。殺すからには、感謝と供養の気持ちを持つべきである。シロアリ駆除業者は、毎年、奥之院のシロアリ供養塔に足を運ぶ。そこで合掌し、これまで命を奪ってきたシロアリたちに、頭を下げる。これほど徹底した、命への向き合い方が、他にあるだろうか。仕事で、他の命を奪わなければならない人々が、世の中には、たくさんいる。漁師、農家、屠畜場、研究者、医療従事者。彼らは、命を扱う。そして、扱う以上、感謝と供養が必要である。シロアリ供養塔は、そのことを、最も極端な形で見せてくれる。
五つ目、福助の福助人形。足袋メーカーの福助は、奥之院に自社のキャラクターである「福助人形」の像をそのまま墓として建てている。頭が大きく、ちょこんと座っている、あの人形。それが、奥之院の杉の下で、永遠に座っている。「お世話になったすべての足袋と、すべてのお客様の足の魂を、供養いたします」。福助は、奥之院で、永遠に、お客様に頭を下げ続けている。
六つ目、パナソニックの創業者・松下幸之助の墓。これは、企業墓のブームの発端と言われる。松下幸之助は、生前、空海を深く尊敬していた。1938年、彼は高野山に、当時の松下電器産業の企業墓を建てた。これが、高野山における株式会社としての最古の企業墓と言われている。これが、戦後の経営者たちに、大きな影響を与えた。「松下幸之助が、高野山に企業墓を建てた。ならば、自分の会社も建てよう」。そして、企業墓が、続々と奥之院に増えていく。今や、奥之院は、日本最大の企業墓の集積地となっている。
日産自動車、コクヨ、クボタ、アデランス、デンカ、キリンビール。数えきれない日本企業の名前が、奥之院の参道に並んでいる。世界中の墓地を研究してきた研究者の中には、奥之院を見て、絶句する人がいる。「私は、世界中の墓を見てきたがこんなに独創的な墓が並んでいる場所は初めてだ。コーヒーカップの墓、ヤクルトの墓、ロケットの墓、シロアリの墓。これは、世界のどの墓地とも違う」。そして、こう続ける。「これほど、命と魂への深い敬意を感じる墓地も、初めてだ」。
これが、奥之院の本質である。すべての企業が、本気で、自分たちが扱う商品と、お客様と、社員と、関連する命のすべてに、感謝と供養の気持ちを込めて、ここに墓を建てている。そして、空海は、それをすべて受け入れている。「来たな。お前たちも、ここに来たか」。空海は、奥之院の御廟の中で、座ったまま、企業墓の一つ一つを受け入れている。戦国武将も、皇族も、庶民も、企業も、シロアリも。すべての魂が、ここに、平等に集まる。
奥之院は、「日本最大の墓地」ではない。「日本最大の、命と魂の博物館」である。人間も、動物も、植物も、商品も、すべての「存在」が、ここで、永遠に共存している。そして、空海は、そのすべてを見守っている。
参道を歩く時、ふと、視線を上げてほしい。樹齢700年の杉の枝の間から空海があなたを見ているのがわかるかもしれない。「お前は、何の魂を、ここに預けに来た?」。そう問いかけられているように感じるかもしれない。そして、参道を歩き終えた時、あなたは気づく。自分自身の中に、どれだけ多くの「他者の命」が入っているか、ということに。毎日、食べているもの。毎日、使っているもの。毎日、出会っている人々。そのすべてが、あなたの中で生きている。
第11章 敵も味方も眠る場所 — 信長・信玄・家康
奥之院の参道を歩く。20万基を超える墓と供養塔の中を進んでいく。樹齢700年を超える巨大な杉。苔むした石塔。木漏れ日。そして、ある場所で、足が止まる。「織田信長 墓所」。
巨大な看板も、派手な装飾もない。しかし、その存在感は、圧倒的である。戦国時代、日本を恐怖と暴力で統一しようとした、あの男の墓が、ここにある。そして、その近くに、別の墓がある。「明智光秀 墓所」。本能寺で、信長を殺した男の墓である。さらに少し歩くと、「豊臣秀吉 墓所」。信長の家臣として仕え、信長亡き後、天下を統一した男の墓。そして、もう少し歩くと、「徳川家康 墓所」。豊臣家を滅ぼし、260年続く江戸幕府を開いた男の墓。
ここで、奇妙なことに気づく。信長、光秀、秀吉、家康。彼らは、生きている時、お互いを殺し合っていた。光秀は信長を殺し、秀吉は光秀を殺し、家康は豊臣家を滅ぼした。憎しみ、裏切り、戦、殺戮。彼らの関係は、日本史上、最も血なまぐさいものだった。その彼らの墓が、奥之院の同じ参道に並んでいる。
これは、世界的に見ても、極めて異例である。普通の宗教の墓地では、こんなことは起こらない。キリスト教の墓地、イスラム教の墓地、ユダヤ教の墓地、ヒンドゥー教の墓地。それぞれ、自分の宗派の信者しか入れない。そして、敵だった人間の墓と、隣同士に並ぶ、ということもありえない。しかし、奥之院では、それが起きている。なぜか。それは、空海が、こう宣言したからである。「奥之院は、すべての魂を受け入れる」。
宗派は、関係ない。身分は、関係ない。善悪は、関係ない。敵か味方かは、関係ない。すべての魂は、奥之院に来ることができる。これは、密教の根本思想である。「曼荼羅(まんだら)」の世界観、と言ってもいい。曼荼羅とは、密教の世界観を、絵で表したものである。中央に、大日如来がいる。その周りに、無数の仏、菩薩、明王、天部、そして人々、動物、自然、すべてが配置されている。そして、曼荼羅の中では、すべての存在が平等である。中心も、周辺も、上下もない。すべてが、宇宙の一部として共存している。奥之院は、それを、地上に再現した、巨大な曼荼羅である。空海が、その中心にいる。
織田信長の墓。信長は、1582年6月2日、本能寺で、明智光秀の襲撃を受け、自害した。49歳だった。彼の遺体は、本能寺の火災の中で灰となり、発見されなかった。つまり、信長の遺体はない。しかし、奥之院には、信長の墓がある。これは、「供養塔」と呼ばれるものである。遺体は、入っていない。しかし、信長の魂を、ここで供養するために建てられた。興味深いことに、信長は、生前、高野山と敵対していた。1581年、信長は、高野山を攻撃し、焼き討ちにしようとしていた。本能寺の変が起きなければ、高野山は、信長によって破壊されていた可能性が高い。その信長を、高野山は許した。信長が死んだ後、高野山の僧侶たちは、奥之院に、信長の供養塔を建てた。「信長公の魂よ、ここで安らかに眠れ」。彼を殺そうとした男を、許し、迎え入れた。これが、空海の教えである。「敵を許す」「過去を水に流す」「すべての魂を平等に扱う」。
そして、その近くに、明智光秀の墓もある。光秀は、信長を殺した後、わずか11日で、秀吉に討たれた。「三日天下」と呼ばれる、短い天下取りだった。そして、光秀の供養塔も、奥之院にある。信長の供養塔と、光秀の供養塔が、近くに並んでいる。「殺した者と、殺された者」が、隣り合って眠っている。奥之院でしか見られない光景である。ちなみに、光秀の供養塔には、こんな言い伝えがある。「何度直しても、石にひびが入る」。信長の恨みのため、と語られている。
豊臣秀吉の墓。秀吉は、信長の家臣だった頃から、奥之院を深く尊敬していた。彼自身、亡き母の供養のために、高野山に、「青巌寺(せいがんじ)」という寺を建てた(後の金剛峯寺)。秀吉が亡くなった後、彼の墓も、奥之院に建てられた。彼の周辺には、母・大政所、弟・秀長、息子・秀頼、正室・北政所など、豊臣家の主要人物の墓が、まとまって配置されている。「豊臣家の墓地」と呼べる一角である。そして、その横に、徳川家康の墓もある。家康は、関ヶ原の戦いで、豊臣の家臣たちを破った。そして、大坂夏の陣で、豊臣秀頼を自害させ、豊臣家を滅ぼした。その家康の墓が、豊臣家の墓地の、すぐ近くにある。豊臣家を滅ぼした男と、滅ぼされた豊臣家。両者が、隣り合って眠っている。そして、生前、敵だった彼らの墓の間を、現代の観光客が、自由に歩いている。500年前の、憎しみと、戦と、殺戮が、ここではない。ただ静かな奥之院の参道がありそこに供養塔が並んでいる。
武田信玄の墓。そして、上杉謙信の墓。戦国時代、信玄と謙信は、5回にわたって、川中島で戦った。「川中島の戦い」と呼ばれる、日本史上、最も激しい戦の一つである。両者は、お互いを殺そうとした。何千人もの兵士が、両者の戦いで命を落とした。その信玄と謙信の墓が、奥之院の同じ参道に並んでいる。しかも、不思議なことに、武田信玄・勝頼父子の供養塔と、上杉謙信の朱塗りの華麗な霊廟(重要文化財)が、参道をはさんで向かい合っている。「戦国の龍虎が、500年経って、川中島さながらに向き合っている」。
伊達政宗の墓。そして、石田三成、加藤清正、結城秀康、堀秀政、浅井長政、朝倉義景。日本史の教科書に出てくる戦国武将のほとんどが、ここにいる。数えていくと、その規模に圧倒される。奥之院は、「戦国時代の、最終的な集合場所」と言ってもいい。戦って、殺し合って、最後には、皆、ここに来た。そして、空海が、彼らを迎え入れた。
なぜ、彼らは、奥之院に来たかったのか。それは、奥之院に来れば、56億7000万年後、弥勒菩薩が下生する時、その救済に与れる、と信じられていたからである。「弥勒下生(みろくげしょう)」という、密教の思想である。弥勒菩薩は、釈迦の次に現れる仏である。彼が下生する時、すべての衆生(しゅじょう)が救われる。そして、空海は、その時、弥勒の従者として、共に降りてくる。奥之院に、自分の墓を建てておけば、空海が、自分を見つけてくれる。そして、弥勒菩薩の救済に与ることができる。戦国武将たちは、それを信じた。彼らは、生きている時、無数の命を奪った。罪の意識を抱えていた。死後の世界で、地獄に堕ちることを恐れていた。しかし、奥之院に、自分の供養塔を建てておけば、空海が、自分を救ってくれる。彼らは、そう信じた。そして、空海は、それを受け入れた。「来い。お前たちも、ここに来い。罪は、許す。すべての魂を、受け入れる」。
そして、もう一つ、面白い話がある。奥之院の参道を歩いていると、「無縁塚(むえんづか)」と呼ばれる一角に出会う。ここには、誰のものか、わからない、無数の小さな墓と供養塔が積み上げられている。引き取り手のない、孤独な魂たち。家族も、子孫も、いない。誰にも覚えられていない。歴史にも残らなかった、無数の普通の人々の墓である。そして、彼らも、奥之院にいる。戦国武将と、無名の庶民が、同じ参道に並んでいる。空海にとっては、どちらも同じである。「魂は、皆、平等である」。
これが、奥之院の本当のすごさである。世界中、どこを探しても、こんな場所はない。身分も、宗派も、敵味方も、関係なく、すべての魂を受け入れる。その思想を、1200年間、貫いてきた。
奥之院を参拝する時、ぜひ、信長の墓の前で、足を止めてほしい。そして、こう考えてみてほしい。「この男は、生きている時、何万人もの人を殺した。彼は、地獄に堕ちるべきだ、と思うかもしれない。しかし、彼は、ここにいる。空海に許されている。なぜか」。その答えは、簡単である。空海は、すべての魂を許す。なぜなら、すべての魂は、宇宙から来て、宇宙に帰っていく、同じ存在だからである。信長も、光秀も、秀吉も、家康も、信玄も、謙信も。彼らは、生きている時、敵だった。しかし、死んだ後は、皆、同じ「魂」になる。そして、すべての魂は、宇宙から来て、宇宙に帰る。その通り道に、奥之院がある。そして、空海が、その通り道で、すべての魂を見送り、迎え入れている。「お疲れさん。よく来た」。そう、空海は、すべての魂に声をかける。そして、その「すべて」の中には、いつか、あなたも含まれる。私たちは、皆、いつか、奥之院に来る。戦国武将と、同じ参道の、どこかに。
第12章 同行二人 — お遍路と空海が共にいる思想
四国に、ある巡礼の道がある。「四国八十八ヶ所霊場(しこくはちじゅうはっかしょれいじょう)」、別名「お遍路(おへんろ)」。四国の島をぐるりと一周する、約1400キロの巡礼の道である。途中に、空海ゆかりの寺院が88箇所、点在している。それらを順番に訪ね歩く。歩いて回れば、約45日。車なら、約10日。
お遍路に行く人は、特別な衣装を身に着ける。白い装束。白い笠(かさ)。手には、金剛杖(こんごうづえ)。腰には、納経帳(のうきょうちょう)。首には、輪袈裟(わげさ)。そして、笠と金剛杖には、こう書かれている。「同行二人(どうぎょうににん)」。
「同行二人」とは何か。文字通り、「二人で共に行く」という意味である。しかし、お遍路では、一人で歩いている人がほとんどである。一人で、四国を一周する。歩く道は長く、寂しい。山道もあり、海沿いの道もあり、街中もある。雨の日もあれば、嵐の日もある。足は痛む。背中は重い。それでも、彼らは「同行二人」と書く。それは、なぜか。
答えは、こうだ。「私は、一人で歩いているのではない。常に、空海が隣にいる」。これが、「同行二人」の本当の意味である。お遍路を歩いている人の隣には、いつも空海がいる。見えないけれど、確かにいる。雨の日も。嵐の日も。足が痛む時も。心が折れそうな時も。空海は、隣で一緒に歩いている。「お前は、一人ではない」「私が、一緒に歩いている」「だから、続けなさい」。そう、空海は、声には出さずに語りかけている。
お遍路を経験した人は、皆こう言う。「最初は、一人で歩いていると思っていた。しかし、ある日ふと、隣に誰かがいるような気がした。それから、足取りが軽くなった」「自分が一人ではない、と気づいた時、お遍路は、全然違うものになった」。これが、お遍路の本当の姿である。
そして、ここでもう一つ、重要なことを書いておく。「同行二人」という思想は、お遍路だけではない。それは、密教の根本的な世界観である。空海は、入定した後も生きている。そして、彼の意識は、奥之院の御廟の中だけに留まっていない。宇宙全体に拡散している。ということは、空海は、いつでも、どこでも、誰の隣にもいる、ということになる。お遍路を歩いている人の隣にも。仕事で疲れているサラリーマンの隣にも。受験勉強で悩んでいる学生の隣にも。病院のベッドで、不安に押しつぶされそうな患者の隣にも。夜中に、一人で泣いている人の隣にも。空海は、皆に同行している。ただ、ほとんどの人は、それに気づかない。しかし、お遍路を歩いた人は気づく。「ああ、ずっと隣にいてくれたんだ」「私は、いつも一人だと思っていたが、本当は一人ではなかった」。これが、密教の最も温かい教えである。
そして、お遍路の話をもう少し続ける。なぜ、四国に88箇所なのか。これには諸説あるが、最も有力なのは「人間の煩悩の数」だと言われる。人間には、108の煩悩があるとされる。除夜の鐘を108回つくのは、それを打ち消すためである。しかし、お遍路は88箇所である。なぜ、108ではないのか。それは、こう説明される。「人間の根本的な、八十八の煩悩を、一つ一つ消していく旅」。四国を一周することで、自分の中の煩悩を、一つずつ消していく。そして、最後の88番、大窪寺(おおくぼじ)に到達した時。人は、煩悩から解放されている。これが、お遍路の最終目標である。
そして、88箇所を回り終えた後、お遍路は、最後にもう一つの場所を訪れる。高野山の、奥之院である。これを「結願(けちがん)」と呼ぶ。四国の88箇所を回り終え、最後に空海に報告に行く。「お大師様、私は、四国を一周してきました。あなたと、ずっと一緒に歩いてきました。お疲れさまでした。そして、ありがとうございました」。そう、奥之院の御廟の前で合掌する。これで、お遍路の旅は完結する。
毎年、何万人もの人々が、お遍路を歩く。健康のため。修行のため。亡くなった家族の供養のため。人生の節目のため。理由は、人によって違う。しかし、彼らは、必ず同じ場所に辿り着く。奥之院の、御廟の前。そして、空海に頭を下げる。
そして、もう一つ、お遍路には興味深い伝統がある。「お接待(おせったい)」というものである。四国の人々は、お遍路を歩いている人を見かけると、自然に声をかける。「お疲れさまです。よければ、これをどうぞ」。そう言って、お茶やお菓子やおにぎりを渡す。時には、家に泊めてくれる。風呂に入れてくれる。次の宿まで、車で送ってくれる。これを「お接待」と呼ぶ。これは、観光客への親切ではない。四国の人々は、お遍路を歩いている人を「空海そのもの」と見ている。「同行二人」だから、お遍路を歩いている人の隣には、空海がいる。そして、空海そのものにお茶を差し上げる。お接待をする人にとって、お遍路を歩いている人は、空海の化身である。これも、密教の教えである。「すべての他者の中に、仏がいる」。目の前の、見知らぬ人。その人の中にも、仏がいる。だから、その人に親切にする。それが、自分自身の仏性を育てることに繋がる。お遍路と、お接待。この二つが組み合わさって、四国全体が、一つの巨大な修行の場になっている。そして、その中心に、奥之院の空海がいる。
ここで、私たちの人生に戻ろう。私たちは、四国を歩いていない。お遍路の白装束は着ていない。金剛杖も持っていない。しかし、私たちも、人生という長い道を歩いている。仕事の道。家庭の道。夢の道。病気との闘いの道。失恋の道。死別の道。すべて、長い巡礼の道である。そして、その道の隣にも、空海はいる。「お前は、一人ではない」「私が、一緒に歩いている」。声にはならない。しかし、ふと感じる時がある。夜中に絶望して泣いている時。誰かが隣で、ティッシュを渡してくれているような気がする。朝、起きるのが辛い時。誰かが後ろから、背中を押してくれているような気がする。それは、すべて空海である。空海は、奥之院の御廟の中だけにいるわけではない。宇宙全体に拡散している空海の意識は、私たちの隣に、いつでもいる。ただ、私たちは、それに気づいていない。しかし、気づいた瞬間、私たちの人生は変わる。「私は、一人ではない」。その確信があれば、人は、どんな困難も乗り越えられる。それが、「同行二人」なのである。
そして、最後にもう一つ、書いておきたい。奥之院の参道を歩いている時、ふと振り返ってみてほしい。あなたの後ろに、誰かいるはずである。見えないかもしれない。しかし、確かに、誰かがついてきている。それは、空海ではない。それは、あなたがこれまでの人生で出会った、すべての人々である。亡くなった家族。別れた恋人。昔の友達。すれ違った見知らぬ人。そのすべての人々の魂が、あなたと一緒に、奥之院の参道を歩いている。そして、その先頭に、空海がいる。「お前は、これだけの人々と繋がって生きてきた。そのすべてが、お前の人生を支えてきた。そして、これからも、お前を支え続ける」。そう、空海は、あなたに伝えている。これが、「同行二人」の本当の深さである。私たちは、空海と二人で歩いているのではない。私たちは、無数の魂と共に歩いている。そして、その全員を、空海がまとめ上げている。これが、奥之院に来た人だけが感じることのできる、最大のギフトである。
第13章 高野山、深く歩くための10の場所
高野山は、広い。東西、約3.5キロ。117の寺院が密集する宗教都市。一日で、すべてを回ることはできない。しかし、ここで紹介する10の場所を押さえれば、高野山の本当の深さがわかる。一度きりの訪問でも、何度目の訪問でも、この10ヶ所を、しっかり歩いてほしい。
【1】奥之院。言うまでもなく、高野山の心臓である。一の橋から、御廟までの、約2キロの参道を歩く。参道の両側に、樹齢700年以上の杉、20万基を超える墓と供養塔。戦国武将も、皇族も、企業墓も、すべて、ここにある。そして、御廟橋を渡り、燈籠堂を抜け、空海の御廟の前に立つ。ここが、すべての始まりであり、終わりである。参拝の正式な順序は、こうだ。「一の橋」から入る。参道を、ゆっくり歩く。「中の橋」を過ぎる。汗かき地蔵、姿見の井戸を、横目に見ながら、参道を進む。御供所で、頭を下げ、嘗試地蔵で合掌する。そして、御廟橋を渡る。橋を渡る前に、必ず、橋に向かって一礼する。これは、現世と聖域の境界である。橋を渡った後は、写真撮影禁止。脱帽。私語を控える。燈籠堂で合掌する。そして、燈籠堂の裏に回り、空海の御廟の前で、最も深い合掌をする。帰りは、来た道を戻る。これも、参拝の作法。奥之院に来たら、ここで、最低でも2時間は取ってほしい。参拝には、「夜の参拝」もある。「ナイトツアー」と呼ばれる、僧侶が、夜の参道を、提灯の明かりだけで案内してくれるツアーがある。これは、人気で、予約必須。日中とは、まったく違う、奥之院の表情が見える。
【2】壇上伽藍(だんじょうがらん)。奥之院と並ぶ、高野山の二大聖地、もう一つ。空海が、高野山を開いた時、最初に整備した場所。密教の世界観である「胎蔵曼荼羅」を、地上に立体的に再現した巨大な宗教空間である。中心に立つのが、「根本大塔(こんぽんだいとう)」。高さ48.5メートル、朱塗りの、巨大な多宝塔。中に入ると、世界が変わる。中央に、胎蔵界の大日如来。その周囲に、金剛界の四仏。16本の柱には、十六大菩薩が描かれている。ここは、立体曼荼羅である。絵で見るのではない。中に入る。そして、自分自身が、曼荼羅の一部になる。これが、空海の設計だった。そして、「三鈷の松」も、ここにある。第2章で書いた、空海が唐から投げた三鈷杵が引っかかっていた、伝説の松。三本一組の松葉を、ぜひ、探してみてほしい。
【3】金剛峯寺(こんごうぶじ)。高野山真言宗、総本山。豊臣秀吉が、亡き母の菩提を弔うために建立した「青巌寺」と、もう一つの「興山寺」が、明治時代に合併して、現在の金剛峯寺になった。主殿に入る。「大広間」では、雲谷派の絵師による、群鶴と松の襖絵が、目の前に広がる。「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」は、日本最大級の石庭。京都の竜安寺の石庭よりも広い。雲海の中を、雌雄の龍が、奥之院を守るような姿で置かれている。ここで、合掌しながら、ただ座る。時間が止まる。それが、金剛峯寺の力である。
【4】霊宝館(れいほうかん)。第8章で詳しく書いた、霊宝館。国宝21件、重要文化財148件、約10万点の収蔵品。快慶の四天王、運慶快慶の仏像、血曼荼羅、空海自筆の書。ここで、自分が、どんな反応をするか。長くいられるか、すぐに出たくなるか。それで、自分の霊的な感受性がわかる。入館料は、決して安くはない。しかし、この値段で、これだけの国宝を見られる場所は、世界に、ほとんどない。
【5】大門(だいもん)。高野山の入口にあたる、巨大な朱塗りの門。高さ、25.1メートル。日本で二番目に大きい金剛力士像が、左右に立ち、入ってくる者を睨んでいる。これは、ただの門ではない。高野山全体の、結界の起点である。空海が、高野山に結界を張った時その七里四方の境界の入口にこの門を建てた。「ここから先は、聖域である。下界の穢れを、持ち込むな」。そう、大門は語っている。車で高野山に来た場合、ぜひ、一度、大門を通り抜けてから、町に入ってほしい。ただ通り過ぎるだけでも、空気が変わるのがわかる。そして、夕方、夕日が大門を赤く染める瞬間。それは、高野山で見られる、最も美しい光景の一つ。
【6】徳川家霊台(とくがわけれいだい)。徳川家康、二代将軍秀忠を祀る霊廟。江戸時代の、徳川家の権力の象徴である。しかし、ここで興味深いのは、「家康が、なぜ、高野山に霊廟を建てたか」である。徳川家は、もともと、真言宗とは関係が深くない。家康は、浄土宗の信者だった。それでも、家康は、高野山に、自分の霊廟を建てた。なぜか。それは、奥之院の、空海の力を信じていたからである。「自分の魂を、空海に見守ってほしい」。天下を取った男も、最後は、空海に頼った。
【7】女人堂(にょにんどう)。これは、知らない人が多い。高野山は、1872年(明治5年)まで、女人禁制だった。女性は、高野山に入ることができなかった。しかし、それでも、空海に参拝したい女性はいた。そのために設けられたのが、「女人堂」である。高野山の入口の、結界の外側に、女性のための参拝所が、7ヶ所、設置された。「高野七口(こうやななくち)」と呼ばれる高野山への7つの入口それぞれに一つずつ。現在、残っているのは、その中の一つだけ。「不動坂口女人堂」と呼ばれる、小さな堂である。ここで、女性たちは、結界の中に入れない代わりに、合掌し、空海に祈りを捧げた。歴史の重みを感じる場所である。
【8】宿坊(しゅくぼう)。高野山には、現在、50を超える宿坊がある。観光客でも、誰でも泊まれる。宿坊に泊まると、本物の精進料理が食べられる。朝の勤行(ごんぎょう)に参加できる。写経や、阿字観瞑想を体験できる。それは、ただの観光ではない。「修行体験」である。おすすめの宿坊を、いくつか紹介する。「恵光院(えこういん)」。奥之院ナイトツアーの拠点として有名。英語対応も、しっかりしていて、海外からの参拝客にも人気。「西禅院(さいぜんいん)」。庭園が、極めて美しい。重森三玲が設計した「曼荼羅庭園」がある。「赤松院(せきしょういん)」。歴史が古く、織田信長の家臣・滝川一益の供養塔がある。「一乗院(いちじょういん)」。明智光秀ゆかりの宿坊。予約は、「高野山宿坊組合」のサイトからできる。
【9】高野山ケーブル + 南海高野線。これは、場所ではない。「行き方」である。しかし、高野山への行き方そのものが、儀式のようになっている。大阪・難波から、南海高野線に乗る。約2時間。途中、橋本駅を過ぎたあたりから、車窓の景色が、一気に山深くなる。終点、極楽橋駅で、ケーブルカーに乗り換える。ケーブルカーは、平均勾配が、日本でも有数の急勾配を登っていく。約5分。そして、高野山駅に到着する。ここから、バスに乗り換えて、町中まで、約10分。つまり、大阪から、高野山まで、約2時間半。これだけの時間をかけて、わざわざ来る。それ自体が、修行である。「高野山に、簡単に来れてしまったら、ありがたみがない」。そう、信者は言う。苦労して、登ってきた人だけが、空海に会える。それが、高野山のルールである。
【10】夜の高野山。これは、場所というより、「時間」である。高野山は、観光客が、日中、たくさん来る。しかし、夕方5時を過ぎると、彼らは、一斉に帰っていく。そして、夜の高野山が始まる。宿坊に泊まらない限り、夜の高野山は見られない。夜、宿坊の窓から、外を見ると、町は、静まり返っている。街灯の少ない、薄暗い夜道。その向こうに、樹齢700年の杉が、月光に照らされている。風の音だけが聞こえる。これが、本当の高野山である。日中、観光客で賑わっていた、奥之院の参道も、夜になると、別世界に変わる。「ナイトツアー」に参加すれば、夜の参道を、僧侶が案内してくれる。提灯の明かりだけで、参道を歩く。御廟橋を、夜に渡る。燈籠堂の、無数の灯が、暗闇の中で、銀河のように輝いている。その光景を見たら、わかる。「ここが、宇宙と繋がっている場所だ」。夜の高野山は、空海の本当の世界を見せてくれる。
以上、10の場所。これらを、すべて回るには、最低でも、1泊2日、できれば、2泊3日。「日帰りでもいいか」と思う人もいるかもしれない。しかし、日帰りでは、夜の高野山が見られない。宿坊の精進料理も味わえない。朝の勤行も参加できない。それでは、高野山の本当の姿は見えない。ぜひ、宿坊に一泊してほしい。そして、夜、宿坊の窓を開けて、深呼吸をしてほしい。その時、あなたは、初めてわかる。「ああ、私は、空海と同じ空気を吸っている」。その瞬間から、高野山は、ただの観光地ではなく、あなた自身の人生の一部になる。
終章 あなたが呼ばれた、その意味
ここまで、読んでくれて、ありがとう。
高野山について、書いてきた。空海の、化け物のような生涯。中国から飛んできた三鈷杵。密教法具とナチスの、不思議な繋がり。入定という、永遠の瞑想。1200年間、毎日続く食事。観賢が見た、148歳の空海。アカシックレコードと、虚空蔵の、語源の一致。霊宝館で、長くいられない人々。奥之院で起きた、信じがたい体験談。コーヒーカップとロケットの、企業墓。敵と味方が、隣で眠る、奥之院。同行二人という、温かい思想。そして、高野山で、深く歩くための10の場所。
ここまで読んだあなたは、もう、わかっているはずだ。高野山は、ただの観光地ではない。それは、宇宙と、人類が繋がっている、唯一の場所である。そして、その中心に、空海がいる。1200年前に、永遠の瞑想に入ったまま、今も、奥之院の御廟の中で座っている。そして、空海は、宇宙の図書館の扉を開けたまま、人類が訪れるのを待っている。
ここで、最初の問いに戻る。序章で、こう書いた。「呼ばれないと、辿り着けない山がある」。なぜ、人は、高野山に呼ばれるのか。その答えを、最後に書いておく。
人生には、節目がある。仕事が、うまくいかない時。家族との関係が、ぎくしゃくしている時。大切な人を失った時。自分が、何のために生きているのか、わからなくなった時。病気になった時。ふと、立ち止まりたい時。そういう時、人は、何かを求める。答えを求める。しかし、現代社会には、答えがない。スマホを開いても、SNSは、流れていくだけ。ニュースは、雑音ばかり。アドバイスは、矛盾している。
そんな時、頭の中に、ある単語が降ってくる。「高野山」。最初は、無視する。なぜ突然、高野山なのか、わからない。しかし、その日から、おかしなことが起き始める。テレビで、高野山の特集をやっている。本屋に、高野山の本が平積みされている。誰かが、高野山の話をしている。「これは、偶然ではない」。そう気づいた瞬間、あなたは、呼ばれている。
そして、有給を取り、新幹線と電車とケーブルカーとバスを乗り継ぎ、約2時間半かけて、高野山に登る。奥之院の参道を歩く。樹齢700年の杉。20万基の墓と供養塔。そして、御廟橋を渡る。その瞬間、何かが起きる。涙が、止まらなくなるかもしれない。頭の中が、急に静かになるかもしれない。亡くなった家族の声が聞こえるかもしれない。自分の使命が、わかるかもしれない。何も起きないかもしれない。しかし、後で振り返ってみると、その日を境に、人生が変わっている。それが、高野山の力である。
そして、もう一つ、書いておきたいことがある。呼ばれるということは選ばれるということではない。「特別な人」だけが、呼ばれるのではない。すべての人が、いつか、必ず呼ばれる。ただ、そのタイミングが、人によって違うだけ。ある人は、20歳で呼ばれる。ある人は、50歳で呼ばれる。ある人は、死ぬ前に呼ばれる。ある人は、生まれ変わった後、呼ばれる。しかし、すべての魂は、いつか、必ず、奥之院に辿り着く。そして、空海は、それを知っている。「いつ来ても、構わない。私は、ここで待っている」。そう、空海は、笑っている。
最後に、もし、この記事を読んで、「高野山に行きたい」と感じた人がいたら。迷わず、行ってほしい。それは、偶然ではない。あなたは、今、呼ばれている。そして、奥之院では、空海が、あなたを待っている。「来たな」。その一言を、聞きに行ってほしい。
そして、燈籠堂の、銀河のような光の中で、ふと、見渡してほしい。あなたの周りに、無数の光が揺れている。それは、お照の一灯であり、白河上皇の一灯であり、これまで奥之院に参拝した、無数の人々の祈りの一つ一つである。そして、いつか、あなたが、また奥之院に来た時、その光の中に、あなた自身の祈りも加わっている。これが、奥之院なのである。時間が止まり、空間が、宇宙と繋がり、すべての魂が、ここで共存している場所。呼ばれた人だけが辿り着ける場所。そして、辿り着いた人を、永遠に変えてしまう場所。それが、和歌山県、高野山、奥之院である。
南無大師遍照金剛。
合掌。
高野山、ふらっと行ったら
撮れん・食えん・帰れん。
日本仏教の聖地は、知らんと痛い目見るポイントだらけ。先回りして、ぜんぶ気持ちよう抜けていこう。
PHASE 01行く前に決めとくと、ぜんぶ楽になるけん
01拝観券は「共通券」を先に知っとく
高野山の主要なお堂は、施設ごとに別々の拝観料がかかる。金剛峯寺、金堂、根本大塔…と個別に払うと、地味に積み上がる。先に諸堂共通内拝券を買えば、まとめて割安になる。券は二系統あって、宿坊協会の案内所で買えるものは霊宝館を除く5ヶ所セット。観光協会の案内所で買える2,000円・2日間有効のものは霊宝館を含む6施設が対象。どっちを使うか、先に決めとくとよか。
02護摩・阿字観は「予約」と「早起き」が要
高野山の醍醐味は、見るだけやのうて受けること。ばってん、護摩祈祷は朝に組まれることが多か。宿坊に泊まっとれば予約不要で参加できるばってん、泊まらん人は事前申込が要る。瞑想法の阿字観も、ほぼ要予約で電話受付不可の寺もある。当日ふらっと行って「受けられんかった」が一番もったいなか。
03冬(12月以降)は雪と凍結が前提
高野山は標高約800m。冬は雪が積もり、路面が凍る。高野龍神スカイライン(国道371号)は12月中旬から3月下旬まで冬期規制。夜間(17時〜翌7時)は全面通行止め、昼も冬用タイヤかチェーンが要る。そして二輪車は終日通行止め。原付で龍神方面から登るのは、冬は最初から無理たい。車で来るならスタッドレス+チェーン携行が事実上必須で、2月はピーク。雪の日は無理せず公共交通が無難たい。
PHASE 02山に着いたら、まず足回りとお腹の段取り
01原付・車は「ルート選び」で明暗
麓から高野山へ登る道は複数あるばってん、国道371号は道幅が狭く路面も荒れとる。原付なら勾配で速度が出ず、後続の車に延々抜かれて気持ちが折れる。広くて安心なのは国道480号ルート。カーナビが371号を勧めても、初めてなら480号を選んどくと楽たい。
02駐車場は「中の橋」を基点に、繁忙期は早着
奥之院に近い中の橋駐車場は台数が多く無料で、基点にしやすか。ばってん紅葉期と正月は別物。満車・入庫待ちが当たり前で、元旦は御廟で夜通し読経する人で朝から埋まる。混む時期は、とにかく早く着くのが正解。
03昼と夜の「食べる場所」は先に押さえる
ここが盲点。高野山は広うて観光は一日がかりやのに、食堂系が少なく、夜に開いとる店がほぼない。宿坊に泊まらん人は夕食難民になりやすか。コンビニも2軒だけで、メイン道路から外れとって見つけにくい。正月三が日はほとんど休業。昼も夜も、食べる算段は先に立てとこ。
PHASE 03奥之院は、橋の手前で気持ちを切り替える
01御廟橋から先は、撮影なし・脱帽・一礼
奥之院のいちばん奥、弘法大師御廟へ続く御廟橋。この橋から先は撮影が一切できん。テレビ番組ですら滅多に許可が下りん聖域たい。橋の手前までは撮ってよか。橋の前では帽子をとって、一礼してから渡る。傘で橋を突きながら歩くのも控える。知っとけば、ちゃんと様になる。
02お堂の中も、撮らんのが基本
撮影禁止は橋の先だけやなか。金堂・根本大塔の堂内、霊宝館の展示室も撮影禁止。仏様やご本尊にレンズを向けんのが、お寺の基本作法。外観や境内は撮れるけん、メリハリつけて楽しめばよか。
03働く僧侶に、勝手にレンズを向けん
奥之院では、お大師さまへ食事を運ぶ僧侶の姿に出会えることがある。神聖な所作やけん、つい撮りたくなるばってん、許可なく僧侶にカメラを向けるのは控える。目に焼き付けて、心で持ち帰る。それがいちばん粋たい。
PHASE 04受けるなら、知っとくと様になる嗜み
01護摩木は「願い」を先に決めとく
護摩祈祷では、願いを書いた特別な薪=護摩木を炉にくべて、仏の智慧の火で煩悩を焼く。願意(願い事)は先に決めとくのが嗜み。家内安全、厄除け、心願成就…願意ごとに祈祷料が違うこともあるけん、その場で迷わんごと、ひとつ胸に決めて臨むとよか。
02所作は気負わんでよか
儀式が佳境に入ると、自分の護摩木を壇上で納め、導師が一人ひとりの手を握って祈ってくれる。真言を無理に唱えんでよか。暗記しとる常連が唱和する中、静かに手を合わせとけば充分。流れは僧侶が導いてくれるけん、身をまかせるだけでよか。
03炎を撮りたくなっても、まず確認
燃え盛る護摩の炎は、ほんとに美しか。撮りたくなるばってん、堂や寺によって撮影の扱いが違う。勝手に判断せず、撮ってよかか先に確かめる。ダメなら、その迫力ごと心に焼き付ければよか。それが受け手の品格たい。
PHASE 05締切と体に気を配って、気持ちよう帰る
01「生身供」は朝6時と10時半
奥之院では1200年続く儀式・生身供で、お大師さまへ毎日二度、食事が運ばれる。出発は朝6時と10時半(御供所発)。これを知らんと、ただ参拝して帰ってしまう。6時の回は供養を申し込まんでも外陣に上がってお勤めに参加できる(昼間の外陣は供養申込者のみ)。早起きの価値、じゅうぶんあるとよ。
02夕方は「奥の締切」に間に合わせる
奥之院は終日お参りできるばってん、奥には時間がある。地下法場は16時45分まで。霊宝館は閉館30分前で受付終了、冬季は御供所が16時半で早じまい。夕方着なら、まず奥から押さえるのが段取り。日が傾いたら巻きで動くとよか。
03標高800mの寒暖差と、疲れに先回り
高野山は平地よりぐっと冷える。冬は宿坊の廊下が凍えるほど。厚手のインナー、滑らん靴があると安心。奥之院は20万基の墓碑が続く静かな道。気が滅入ったり疲れたら、無理せずベンチで休んで、温かい飲み物で体をいたわる。それも立派な参り方たい。
高野山を、体感せよ
KOYASAN — NEON PILGRIMAGE弘法大師・空海が開いた天空の聖地。精進料理に舌鼓を打ち、護摩の炎に祈り、写経で心を研ぎ、温泉で溶ける。食・癒し・修行が一夜で交差する旅のガイド。
高野山の名物料理
高野山のグルメの主役は、仏教の戒律から生まれた精進料理と、その至宝胡麻豆腐。肉も魚も使わず、野菜・豆腐・湯葉だけで五感を満たす。質素なはずなのに、なぜか満たされる——それが高野山の食の不思議。
精進料理
塗りの御膳に色とりどりの小鉢。肉魚を使わぬとは思えない満足感。胃にやさしく、翌朝は体が軽い。
胡麻豆腐
白胡麻・吉野葛・高野山の清水だけで練る名物。白くなめらか、驚くほどの弾力。山内随一の一品。
高野豆腐・生麩
高野山発祥の凍り豆腐と、もちもちの生麩。煮物や田楽で滋味深く。
やきもち・麩饅頭
ふもと花坂の「やきもち」、笹に包んだよもぎ風味の麩饅頭。食べ歩き&土産に。
名物を味わう店
高野山の店は不定休・売切れ終了・曜日限定が多め。精進料理系は開店直後狙い+営業日確認が鉄則。外すと昼食難民に。
心を整える、修行体験
高野山の真骨頂は「泊まって、体験する」こと。写経・阿字観・護摩はいずれも初めてでOK。日常を完全に断ち切り、千二百年続く祈りの時間に身を浸す。

写経
般若心経をなぞり書きする、もっとも手軽な修行。一字一字に集中するうち、頭の雑音が静まり呼吸が深くなる。書き上げた写経は奥之院・御廟前に奉納できる。

阿字観(瞑想)
梵字「阿」(大日如来)の前に座り、呼吸を整え、自分と宇宙が溶け合う感覚をたどる真言密教の瞑想。普段非公開の道場で、僧侶の指導のもと約1時間。

護摩行
護摩木を炎にくべ、読経が響くなか立ち上る火に願いを託す密教の代表的な修法。間近で見る炎の迫力と腹に響く読経は、五感を根こそぎ揺さぶる。

宿坊に泊まる
写経・阿字観・護摩をすべて無料体験できる宿坊「恵光院」。精進料理の夕朝食、戦国武将ゆかりの庭園、早朝の朝勤行——体験のすべてを一夜の流れに組み込める。
弘法大師が今も瞑想を続けると伝わる奥之院。夜の参道を僧侶やガイドと歩く特別なツアー。20万基の墓碑と灯籠が闇に浮かび、昼とは別世界の霊気に包まれる。
奥之院ナイトツアーを予約(アソビュー)高野山と周辺の温泉・泊まる
山内で唯一の天然温泉福智院でととのえ、足を延ばせば弘法大師開湯と伝わる龍神温泉へ。聖地の旅は、湯と宿で締めくくる。
高野山に泊まる
龍神温泉に泊まる
龍神温泉 元湯
宿泊せず日帰り入浴も可。7:00–21:00(最終20:40)・年中無休・大人800円。※冬期は路面凍結注意
| 温泉 | アクセス | 営業・料金 | 泉質・特徴 |
|---|---|---|---|
| 高野山温泉 福智院 山内唯一の天然温泉 | 金剛峯寺から徒歩圏(山内) | 受付 9:00–20:00 | 重森三玲作庭の日本庭園、大浴場・露天・サウナ。タトゥー不可。日帰りはプラン要確認。 |
| 龍神温泉 元湯 日本三美人の湯 | 高野龍神スカイライン経由・車向き | 7:00–21:00(最終20:40) 年中無休/大人800円 | ナトリウム炭酸水素塩泉。肌つるつる。弘法大師開湯伝説。 |
| 天然温泉 ゆの里 | 橋本市側・電車でも可/橋本駅から無料送迎 | 10:00–22:00/水曜定休 | 「金水」「銀水」をブレンド。やわらかな肌あたり。食事処・カフェ併設。 |
1泊2日 モデルルート
1日目・昼 — 参拝と食
奥之院・壇上伽藍を参拝。昼は花菱かさんぼうで精進料理、角濱で胡麻豆腐。
1日目・夕 — 体験と宿坊
写経か阿字観で心を整え、宿坊へ。精進料理の夕食をいただく。夜は奥之院ナイトツアーも。
2日目・朝 — 朝勤行
声明と読経が響く本堂で、荘厳な一日の始まりに立ち会う。
2日目・昼 — 温泉で締め
車なら高野龍神スカイラインで龍神温泉へ。電車派は橋本側のゆの里で旅の疲れを癒す。
聖地に、泊まる。
日帰りでは、高野山の本当の顔は見えない。夜の静寂、早朝の勤行、精進料理——泊まってこそ、千二百年の祈りが体に沁みる。あなたの旅の予算で、宿を選べ。


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