月から帰る途中、
宇宙飛行士は「神」を見た
物理学は、方程式から「神」を引き算してきた。絶対零度でも消えない真空の海、ゼロ・ポイント・フィールド。一人の医療ジャーナリストが、世界中の科学者を訪ね歩いて拾い集めたのは——あなたは孤立した物質ではなく、巨大なエネルギーの海と脈打ち続ける「光の存在」だという、教科書に載らない物理だった。
「すべては、つながっている」。スピリチュアルの決まり文句だ。聞き飽きた。だがこの本は、その一言を物理学者の実験ノートまで引きずり下ろす。
量子真空。慣性質量。バイオフォトン。乱数発生器。脳のホログラム。並ぶのは怪しげな造語ではなく、査読論文に載った言葉ばかりだ。にもかかわらず、賞賛と「疑似科学」の罵倒が真っ二つに割れた。なぜ割れたのか。その断層線こそ、この本の正体だ。
地球が、窓の外にあった。
1971年2月。アポロ14号の指令船が、月から地球へ向かって落ちていく。乗っているのは、六人目の月面歩行者となった宇宙飛行士エドガー・ミッチェル。任務は終わった。あとは帰るだけだった。
休息の時間。彼はただ、窓の外の地球を眺めていた。そのとき、来た。
説明のつかない感覚だった。自分と、地球と、宇宙のすべてが——人も、物も、時間も——目に見えない一枚の網で繋がっている。バラバラではない。最初からひとつだった。後に彼はこれを「圧倒的な一体感」と呼び、ヒンドゥーの「サマーディ(三昧)」という言葉でしか説明できないと語った。
工学博士で、海軍のパイロットで、徹底した技術者。理性で世界を測ってきた男が、理性の外にあるものに触れた。本書『フィールド』は、この一場面から始まる。
著者リン・マクタガートは、医療ジャーナリストだ。1951年、ニューヨーク生まれ。英国の医療界を真正面から揺るがしたニュースレター『医者があなたに言わないこと(What Doctors Don’t Tell You)』の編集者として知られる——発行部数は10万部を超えるとされる。製薬と医療の「言わない部分」を一つずつ暴いてきた、調査報道の人だ。
そのマクタガートが、ある日、別の問いに取り憑かれる。ミッチェルが宇宙で感じたあの「繋がり」は、ただの幻覚や宗教的興奮だったのか。それとも——物理学で説明できる、実在する「何か」なのか。
彼女は四年をかけた。世界中の最先端の科学者を訪ね歩いた。量子物理学者、生物物理学者、神経科学者。彼らが実験室で見ていた、教科書には載らない現象を、一つずつ拾い集めていった。そして本書は生まれた。賞賛と、罵倒を同時に浴びながら。「現代科学の地殻変動を捉えた傑作だ」と讃える声と、「疑似科学だ」と切り捨てる声に、評価は真っ二つに割れた。
だが、割れたという事実こそが面白い。本書が問うているのは、小さな反論で潰せる些細な主張ではないからだ。マクタガートが拾い集めた科学者たちは、こう言っている——あなたが「自分」だと思っているこの体は、宇宙から切り離された孤立した物質ではない。あなたは、巨大なエネルギーの海と、たえず触れ合い続けている。
ミッチェルが窓の外に見たものは、気の迷いではなかったかもしれない。それを、これから物理学で追っていく。
何もない、を作ってみる。箱の中の空気を抜く。光を遮る。温度を下げる。下げて、下げて、これ以上は下げられない絶対零度(マイナス273.15℃)まで持っていく。分子の動きは止まる。完璧な「無」が、そこにあるはずだ。
ところが、止まらない。
絶対零度でも、その「無」は微細に震え続けている。量子力学が要求する、消せない揺らぎ。これがゼロ・ポイント・フィールド(ZPF)——零点場だ。本書によれば、それは空っぽの空間という常識をひっくり返す。真空とは、何もない場所ではない。エネルギーで満たされた、沸き立つ海なのだ。
では、なぜ我々はそれを習わなかったのか。物理学者がそれを消してきたからだ。
計算上、零点場のエネルギーは無限大に発散してしまう。そのままでは方程式が壊れる。だから物理学者たちは「くりこみ」という手続きで、この無限を引き算して消す。計算は通る。実験ともよく合う。実用上、何の問題もない。
マクタガートは、この引き算に名前をつける。「方程式から神を引き算する」行為だ、と。
挑発的な言い方だ。だが核心を突いている。物理学は、扱いにくいものを「とりあえず無視する」ことで前に進んできた。零点場は、その無視された「何か」の代表格だった。実在するのに、消されたもの。本書の出発点は、ここにある——消された海を、もう一度、方程式に戻したらどうなるのか。
机を叩く。固い。痛い。確かにそこに「物」がある。質量がある。重い。動かそうとすると抵抗する。これを我々は慣性と呼ぶ。物質に固有の、当たり前の性質だ——と、思ってきた。
三人の物理学者が、その当たり前に手をかけた。ハロルド・プソフ、バーンハルト・ハイシュ、アルフォンソ・ルエダ。1994年、彼らは一つの論文を世に出す。慣性質量は、物質に内蔵された性質ではないかもしれない、と。
本書によれば、彼らの仮説はこうだ。物を加速させようとすると、抵抗を感じる。だがその抵抗の正体は、物質そのものではない。物質を構成する素粒子が、零点場の中を動こうとするときに生まれる「電磁的な抵抗」——いわば、海の中を進む手のひらが受ける水の抵抗のようなものだ、と。
つまり「重さ」とは、物に貼りついた札ではない。物と、場との関係から生まれてくる。NASAの資金も入り、ロッキード・マーチンの研究所やカリフォルニア州立大学で検討された。学術的には「論争的だが、中身のある(controversial but substantive)」と評された——つまり、簡単には笑い飛ばせない仮説として扱われた。
ここからマクタガートは、めまいのするような一歩を踏み出す。慣性が場との相互作用なら、「固い物質」とは何か。それは、場の中でエネルギーが濃縮されたパターンにすぎないのではないか。机も、椅子も、あなたの体も。固く見えるのは、場が押し返しているからだ。
物質は、海に浮かぶ渦のようなものだ。渦は確かにそこにある。だが、水から切り離して取り出すことはできない。
真っ暗な実験室。高感度の光子計数管に、ひとつの生きた細胞を入れる。何も起きないはずだ。細胞は光らない。常識だ。
計器の針が、振れた。
細胞が、極めて微弱な光を放っていた。ドイツの生物物理学者フリッツ=アルベルト・ポップが見たのは、これだった。あらゆる生物が放つ、ごく弱い光。彼はそれをバイオフォトンと名づけた。植物も、バクテリアも、動物も、そして人間も。あなたの皮膚は、いま、光を漏らしている。
発端は、がんの研究だった。ポップは発がん物質を調べる中で、ある波長の光——380ナノメートル——に細胞が特別な反応を示すことに気づく。それは細胞が自分を修復するときに好んで使う波長でもあった。光が、細胞の修復に関わっている。では、その光はどこから来るのか。
本書によれば、ポップの答えはDNAだった。DNAこそが、この生体の光の発信源であり、貯蔵庫だというのだ。太陽から、食べ物から取り込んだ光を、DNAが蓄え、必要なときに放つ。生命は、光を溜め込む装置でもある。
そしてポップは、もっと踏み込む。健康な体ほど、整った光を出す。レーザーのようにコヒーレントな——位相のそろった光だ。病とは何か。それは、この光の通信が乱れた状態だという。本書はポップの言葉を引く。健康とは、完璧な量子レベルの通信状態であり、病とは、その通信が崩れた状態だ、と。
あなたは、物質の塊である前に、光を編んでいる存在なのかもしれない。
あなたの体は、約37兆個の細胞でできている。その一つひとつが、いま、何をすべきか知っている。心臓の細胞は拍ち、肝臓の細胞は解毒し、傷ついた皮膚は塞がる。誰が指揮しているのか。
化学物質だ——というのが、生物学の標準的な答えだ。ホルモンや神経伝達物質が、分子のバケツリレーで信号を運ぶ。だがポップは、それだけでは速度が足りないと考えた。体の中で起きる無数の反応を、化学物質の移動だけで間に合わせるには、遅すぎる。
本書によれば、ポップの仮説はこうだ。細胞は、特定の周波数の光で会話している。分子は、その周波数に共鳴して応答する。光は、化学物質よりもはるかに速く、体じゅうに情報を行き渡らせる。
彼が使った比喩が美しい。光は、オーケストラの指揮者のようだ、と。何万もの楽器(細胞)が、てんでばらばらに鳴っているのではない。一本のタクトのもとで、全体がひとつの曲を奏でている。健康な体とは、完璧に調律されたオーケストラだ。
さらにポップは、生命最大の謎のひとつ——形態形成にも光を持ち込む。一個の受精卵が、なぜ手は手に、目は目に、寸分たがわず分化していくのか。どの細胞も同じDNAを持つのに、なぜ役割を間違えないのか。光の干渉パターンが、その設計図を運んでいるのではないか。これはあくまで仮説だ。だが、もし本当なら、生命は分子の化学反応である前に、光の振り付けだということになる。
体の中で、いま、光のコンサートが鳴り続けている。
コインを百万回投げれば、表と裏はほぼ半々になる。これが確率だ。揺るがない。人の気持ちで結果が変わるなら、カジノは成立しない。
ところが、変わったというのだ。
1979年、プリンストン大学。工学・応用科学部長だったロバート・ジャンが、ある研究所を立ち上げる。PEAR(プリンストン工学異常研究所)。きっかけは、一人の学部生の卒業研究だった。乱数発生器——電子的にゼロと1をランダムに吐き出す装置——を、人間が「念じる」だけで結果を偏らせられるか。実験すると、わずかな、しかし無視できないズレが出た。学部長は驚き、本格的に調べることにした。
本書によれば、PEARは28年間で33人の被験者、数百万回の試行を積み上げた。結果、乱数発生器の出力は、確率50%からごくわずかに——一説には1%にも満たないほど——ズレた。だが試行回数が膨大なため、その差は統計的に有意とされた。人間の意図が、物理的な機械の挙動に触れているように見えた。
ここで正直に書く。この実験には強い批判がある。他の研究室での再現実験は失敗した。被験者の一人(研究所スタッフとされる)が全試行の15%を占め、観測された効果の半分を担っていたという指摘もある。実験管理の甘さを問う声も根強い。
では、なぜ本書はこの実験を捨てないのか。マクタガートの賭けは、こうだ。もし零点場が実在し、すべてが情報でつながっているなら、意識が物理に触れる「経路」は理屈の上では存在しうる。PEARの微小なズレは、その経路の、かすかな足跡かもしれない——と。証明ではない。だが、無視するには惜しい異常(アノマリー)として、彼女はテーブルに残す。
窓のない部屋。一人の人物が、目を閉じて座っている。数キロ離れた場所に、別の研究者が立っている。どこに立つかは、直前に乱数で決められた。部屋の中の人物は、その場所を知らない。なのに、語り始める。「円形のプールが見える。直径は三十メートルほど……」。実際の標的は、給水処理場だった。
これがリモートビューイング(遠隔透視)だ。離れた場所を、意識だけで「見る」とされる現象。本書はこれを、零点場を通じた情報伝達——空間を超えて情報が場に蓄えられている可能性——として説明しようと試みる。
驚くべきは、これがオカルト雑誌の話ではないことだ。1972年、カリフォルニアのスタンフォード研究所(SRI)で、物理学者ハロルド・プソフとラッセル・ターグが研究を始めた。そう、プソフ——第3章で慣性質量を零点場で説明しようとした、あの物理学者だ。場を物理で追った男が、意識でも場を追っていた。
そして資金を出したのは、CIAだった。冷戦下、ソ連の超能力研究に後れを取るまいと、アメリカ政府はこの研究に金を投じた。SCANATE、のちにSTARGATEと呼ばれる一連の極秘プロジェクト。諜報の現場で、実際に使われた。アフリカに墜落したソ連機の場所を、ある「ビューア」が数キロの誤差で言い当てたという逸話も残る。1995年、その一部が機密解除された。
もちろん、評価は割れている。1984年の米国科学アカデミーの評価は否定的だった。それでも、国家が二十年以上も予算をつけ続けた事実は重い。本書が突きつけるのは、結果の真偽そのものより、「ありえない」と切り捨てられた現象に、大国が本気で賭けたという構図だ。
記憶は脳のどこかに、書類のようにしまわれている。そう信じてきた。ある場所を傷つければ、その記憶だけが消えるはずだ。
消えなかった。
神経科学者カール・プリブラムが直面したのは、この謎だった。動物の脳の一部を取り除いても、特定の記憶だけがきれいに消えることはない。記憶は、脳のどこか一点ではなく、全体に散らばっているように見えた。
プリブラムは、思いがけない比喩にたどり着く。ホログラムだ。ホログラムの乾板は、割っても、その小さな破片の一つひとつに「全体の像」が宿っている。情報が、一点ではなく、干渉パターンとして全面に分散しているからだ。脳も同じではないか。記憶は、神経が描く波の干渉パターンとして、脳全体にホログラムのように刻まれているのではないか。
本書によれば、この発想は物理学者デヴィッド・ボームの「内蔵秩序(implicate order)」——宇宙全体が、たたみ込まれた一枚のホログラムのような秩序を持つという考え——と響き合う。脳がホログラムで、宇宙もホログラムなら、両者は同じ言語を話している。
ここでマクタガートは、最後の跳躍をする。もし記憶が脳の中の物質に「保存」されていないなら、それはどこにあるのか。零点場だ。脳は記憶の保管庫ではなく、場に書き込まれた情報を読み取る受信機(アンテナ)なのかもしれない。意識は、頭蓋骨の中に閉じ込められた現象ではなく、場とつながる窓だという仮説——本書はそこへ向かっていく。
ここまで並べてきたものを、もう一度見渡す。絶対零度で震える真空。場が押し返す「固さ」。皮膚から漏れる光。光で会話する細胞。念じるとズレる機械。意識で見る遠くの景色。脳に散らばる記憶。
てんでばらばらの話に見える。物理学、生物学、心理学、神経科学——分野も違えば、評価の確からしさも違う。だがマクタガートは、これらを一本の糸で縫おうとする。その糸が、零点場だ。
本書の主張を一言にすれば、こうなる。これらの異常は、別々の謎ではなく、ひとつの大きな前提から生まれる枝葉なのではないか。その前提とは——宇宙のすべてが、見えない情報の場で、たえず触れ合い、記録し合っているということ。慣性も、生体の光も、意識の遠隔作用も、記憶の分散も、同じ「場」の別々の現れにすぎない。
ここで効いてくるのが、プソフの二度の登場だ。彼は物質の慣性を場で説明しようとし、意識の遠隔作用も場で追った。物質と意識を、同じ一枚の布の表と裏として扱う——それが本書の縫い目だ。
もちろん、この縫合は危うい。確度の高い物理(零点場の実在)と、論争中の現象(PEAR、リモートビューイング)を、同じ強さで並べると、全体が「証明された一枚の絵」のように見えてしまう。批判者が「疑似科学」と呼ぶのは、まさにこの縫い目の強引さに対してだ。
だが、見方を変えれば——本書の野心は、分断された知を、もう一度ひとつの問いに束ね直すことにある。正しいかどうかは別として、その束ね方自体が、ひとつの世界観の提示なのだ。
第2章で、物理学者は方程式から零点場を引き算した、と書いた。扱いにくい無限を消すために。マクタガートはそれを「方程式から神を引き算する」行為と呼んだ。本書がたどり着く結論は、その引き算を取り消すことだ。
引き算された「神」を、もう一度、方程式に返す。ここで言う「神」は、宗教の神ではない。すべてを結ぶ、見えない場——その存在を、計算の都合で消すのをやめよう、という宣言だ。
すると、世界の見え方が反転する。あなたは、環境から切り離された孤立した物質ではない。皮膚という境界線で世界と区切られた、独立した存在ではない。本書の言葉を借りれば、あなたは巨大なエネルギーの海と、たえず相互作用し続ける「脈打つ力の塊」だ。境界線は、便宜上の線にすぎない。
そして本書を最後まで貫く問いが、立ち上がる。観測すること——意識を向けること——こそが、世界を形づくる創造行為なのではないか。量子力学では、観測が現象を確定させる。観測されるまで、世界はぼやけた可能性の雲だ。ならば、見るという行為は、ただ受け取るだけではない。世界を、そのつど創っているのかもしれない。
これは証明された科学ではない。本書の弱さも、強さも、そこにある。だがマクタガートが残すのは、答えではなく、姿勢の転換だ。自分を、宇宙から切り離された孤独な点として見るのをやめる。場とつながった、開かれた窓として見直す。
月から帰る宇宙船の窓で、エドガー・ミッチェルが感じたあの一体感。それは幻覚だったのか、それとも——いちばん正確な観測だったのか。本書は、その問いをあなたに手渡して、静かに閉じる。
- 書名
- フィールド 響き合う生命・意識・宇宙
- 原題
- The Field: The Quest for the Secret Force of the Universe
- 著者
- リン・マクタガート(Lynne McTaggart)
- 原書刊行
- 2001年(英)/2002年(米・改訂版)
- ジャンル
- サイエンス・ノンフィクション/意識・新物理学


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