生きがいの創造 ― 飯田史彦【完全版】
「信じなくていい」と言う本が、200万人の今日を変えた
スピリチュアルな科学研究から読み解く、人生のしくみ。「信じなくていい」と言う一冊が、なぜ今日の生き方を変えるのか。
第1章|「信じてください」と言わない本が、なぜ200万人を動かしたのか01 — IT NEVER ASKS YOU TO BELIEVE
生まれ変わりの本、と聞くと、つい身構えてしまいます。
きっと、信じる人のための本なのだろう、と。あの世はある、魂は巡る、目を覚ませ——そうやって、上から手を引かれるんだろう、と。そして、信じられない人間には、はじめから関係のない世界の話なのだろう、と。
たいていのスピリチュアル本は、確かにそういう作りをしています。著者が真理を知っていて、読者はまだ知らない。だから「あなたは呼ばれている」と囁き、信じる者を内側へ、疑う者を外側へ、そっと選り分けていく。
でも、この本の入口には、まったく別の宣言が置かれています。
——信じなくて、いいんです。
拍子抜けするほど、低い姿勢です。けれど、これは弱気な前置きではありません。本書の構え全体を決めている、いちばん大事な一行です。実際、本書ははっきりとこう書いています。信じても、信じなくてもいい。ただ、もし信じることで人生がより良くなるのなら、損はしないはずだ、と。
手がかりは、副題にもあります。本書の副題は「スピリチュアルな科学研究から読み解く人生のしくみ」。スピリチュアルの本でありながら、看板に堂々と「科学」を掲げている。版元も、この本を「画期的な科学的スピリチュアル人生論」と呼びます。スピリチュアルと科学。本来なら水と油の二語が、ためらいなく並んでいる。
この奇妙な同居が、本書の正体です。
つまり著者が証明しようとしているのは、「あの世がある」ことではありません。問いの形が、そもそも違うのです。本書が掲げる命題は、はっきりしています。「死後の生命や生まれ変わりを認めると、私たちの生き方はどう変わっていくのか」。これが、本書がページを割いて読者に差し出す問いです。
もし"仮に"、死後の生命と生まれ変わりが本当だとしたら。あなたの今日の生き方は、どう変わるでしょうか。
この「仮に」が、とても狡猾で、とても優しい。
考えてみてください。「信じろ」と言われた瞬間、人は心に壁を作ります。本当か、嘘か。自分はどちら側か。身構えて、財布の紐を握るように、心の紐を握りしめる。
ところが「仮に、で考えてみてください」と言われると、その壁が、すっと下りる。だって「仮に」でいいのですから。本当かどうかを、いま決めなくていい。信じる必要も、改宗する必要もない。ただ、一つの前提を頭の中に置いて、そこから景色を眺めてみるだけ。
これなら、生まれ変わりなど鼻で笑う唯物論者でも、参加できます。思考実験には、立場も信仰もいらないからです。「もし地球が立方体だったら」を考えるのに、地球が立方体だと信じる必要がないのと同じです。本書は、信じる/信じないという、いちばん人を身構えさせる入口を、「仮に」の一語で丸ごと迂回してみせる。
ただし——ここが肝心なところですが——本書はその「仮に」を、ふわふわした願望や、心地よい想像では支えません。
支えるのは、研究です。
本書のスタンスは明快です。死後の生命や生まれ変わりは、欧米や日本で、多くの科学者、医師、大学教授たちによって研究され、驚くべき報告がなされてきた。著者は、その研究成果の数々を踏まえながら、人生のしくみを描いていく。願望ではなく、世界で積み重ねられてきた研究報告の上に立つ。だから「科学的スピリチュアル」を名乗れるのです。
そして、この入口の宣言には、もう一つ仕掛けがあります。「信じなくていい」と言われた読者は、警戒を解いて、研究報告のほうへ近づいていく。近づいて、のけぞる。そして気づいたときには、いつのまにか「仮に本当だとしたら、自分の人生はどう見えるだろう」と、考え始めている。
つまり、この本が最終的に変えようとしているのは、あの世の風景ではありません。あなたが、今日をどう生きるか。その一点です。入口で「あの世を信じますか」と問われているように見えて、本当に問われているのは、ずっと手前——あなたの、今日の足元なのです。
では、本書が踏まえる「研究報告」とは、具体的にどういうものなのか。その代表的な現場から、覗いていきましょう。まずは、生まれ変わりなど一切信じていなかった、ある精神科医の診察室です。
第2章|「問題の起きたところへ戻りなさい」――患者は、数千年前へ戻った02 — IT HAPPENED IN A SKEPTIC'S OFFICE
生まれ変わりの研究を語るうえで、避けて通れない人物がいます。アメリカの精神科医、ブライアン・L・ワイス。本書のような「科学的スピリチュアル」が成立する土台を作った一人です。
経歴を見れば、スピリチュアルの世界とは正反対の場所にいた人だとわかります。コロンビア大学を出て、エール大学で医学博士号を取得。アメリカ・フロリダ州マイアミビーチの病院で、精神科部長を務めていました。薬を処方し、診断を下し、データで患者を診る——主流の精神医学の、ど真ん中の人です。
当然、生まれ変わりなど信じていませんでした。むしろ、そういう話を「非科学的だ」と切り捨てる側の人間だった。これは大事な前提です。彼の記録が重いのは、彼が信じたがっていた人だからではなく、信じたくなかった人だからです。
1980年、彼のもとに、キャサリンという一人の女性患者がやってきます。
彼女が抱えていた症状は、ひとつではありませんでした。水が怖い。物を飲み込むと、喉が詰まって窒息しそうで怖い。飛行機が怖い。暗闇が怖い。眠ることさえ怖い。恐怖症と神経症が、いくつも折り重なって、彼女の生活を締め上げていました。
ワイスは、できることをすべてやります。丁寧なカウンセリング。標準的な治療。けれど、何をしても、症状は引きません。手詰まりでした。
そこで彼は、催眠による年齢退行という手法に踏み込みます。
ここを誤解しないでください。これは、怪しげな術ではありません。催眠状態で患者の記憶を、少しずつ子ども時代までさかのぼらせ、いまの症状の引き金になっている、忘れられたトラウマを探し当てる——精神医学の臨床で、実際に使われてきた治療技法です。ワイスは、あくまで医師として、この道具を手に取りました。
何度かの退行で、原因らしき辛い記憶が見つかったかに思えました。けれど、症状は消えない。まだ、もっと奥に別の原因が隠れている。そう判断したワイスは、もう一度キャサリンを催眠に導き、こう指示します。
「問題の起きたところへ、戻りなさい」。
医師としては、幼少期のどこか、まだ掘り当てていないトラウマの場面に戻ることを期待していたはずです。ところが——キャサリンは、その指示に、文字通り従いました。
彼女がさかのぼった先は、子ども時代では、ありませんでした。
数百年、ときに数千年もの昔。見たこともない古代の風景の中で、彼女は、いまの自分ではない誰かの人生を語り始めたのです。その人物の暮らし、その人物の名、そして、その人物の死の瞬間までを。
診察室で、医師が、絶句する場面です。
ワイスは当然、疑います。これは患者の作り話ではないか。豊かすぎる空想ではないか。催眠下で生まれた、ただの夢物語ではないか。科学者として、そう構えるのが当たり前です。
ところが、見過ごせないことが起きました。
キャサリンが、いくつもの前世を語り、その一つひとつの「死」を催眠下で追体験していく。すると、それに合わせるように——あれほど薬でも対話でもびくともしなかった恐怖症が、一つ、また一つと、消えていったのです。
水の恐怖。窒息の恐怖。長年、彼女の首を絞めていたものが、前世の死を語り終えるたびに、ほどけていく。
これが、ワイスを最初に揺さぶった事実でした。信じる/信じない以前に、治療として、効いてしまった。原因が前世にあると認めて初めて、目の前の患者が、現実に楽になっていく。医師として、その結果を、なかったことにはできません。
彼は、生まれ変わりの真偽を判断する前に、もっと手前で立ち止まらされます。「これは何なのか」と。
——とはいえ、ここまでなら、まだ「不思議な治療例の一つ」で踏みとどまれたかもしれません。空想が、たまたま治療に役立った。そう解釈する逃げ道も、まだ残っていた。
その逃げ道を、キャサリン自身が、次の場面で完全に塞いでしまいます。彼女は、ワイス本人しか知らないはずのことを、催眠状態で口にし始めるのです。
第3章|患者が、医師の「亡くした息子」のことを語り出した03 — WHAT THE PATIENT COULD NOT HAVE KNOWN
退行を重ねるうちに、キャサリンの口から、それまでとは違う種類の声が出るようになります。
それは、彼女自身の前世の記憶ではありませんでした。「マスター」と呼ばれる、肉体を持たない存在からのメッセージ——それを、催眠状態のキャサリンが、まるで取り次ぐように語り始めたのです。
ここでワイスは、もう一段、深く揺さぶられます。なぜなら、その「取り次がれた言葉」の中身が、患者には絶対に知りようのないものだったからです。
——キャサリンは、ワイスの亡くなった父親のこと、そして、幼くして亡くした彼の息子のことを、語ったのです。
少し、立ち止まって考えてみてください。
キャサリンは、ただの患者です。ワイスの私生活を知りません。彼の家族のこと、まして、すでに世を去った父や、幼くして亡くなった我が子のことなど、知りようがない。診察室で交わすのは、彼女自身の症状の話だけです。カルテに、医師の死んだ家族の詳細など、書いてあるはずもない。
それなのに彼女は、深い催眠状態の中で、医師本人しか知らないはずの、家族の死にまつわる事柄を、口にした。
冷静な科学者であろうとしていたワイスは、ここで、決定的に崩れます。
偶然では、説明がつかない。患者が事前に調べようもない。作り話なら、こんなにピンポイントで「医師の死んだ家族」を言い当てられるはずがない。あらゆる合理的な逃げ道が、この一点で塞がれてしまった。
彼は、生まれ変わりや死後の意識の存在を、「信じる」というより、もう「認めざるを得ない」ところまで追い込まれます。否定するための材料を探していた科学者が、自分の探求の末に、否定できない一点にぶつかってしまった。これは、信じたい人の感動話ではありません。疑いたい人が、疑いきれなくなった記録です。
この一部始終が、1988年、『前世療法(Many Lives, Many Masters)』という一冊として世に出ます。版元は、奇しくも飯田の本と同じ、PHP研究所。この本は世界100カ国で読まれ、200万部を超えるベストセラーになりました。
そして、ここからのワイスの動き方が、また、いかにも科学者らしいのです。
彼は、キャサリン一人の衝撃で立ち止まりませんでした。その後、4000人を超える患者に退行催眠を行ったといいます。一回の奇跡で終わらせず、ひたすら数を積んだ。さらにワイスは、自分の臨床経験から、こう推定しています。催眠療法の過程で、患者が意図せず、自然に前世退行に入ってしまうケースが、3〜5パーセントほどあるのではないか、と。
これは、地味ですが、重い数字です。狙って起こした特別な現象ではなく、ふつうに催眠療法をしていると、一定の割合で「勝手に起きてしまう」。つまり、キャサリンは例外的な一人ではなかった、ということです。
「信じていなかった専門家が、自分の診察室のデータに押し切られる」。本書が踏まえる生まれ変わりの研究には、こういう記録が積み重なっています。次は、催眠も使わない、もっと不意打ちの研究——子どもたちの証言です。
第4章|35年で44例。それがインドでは、4週間で25例だった04 — IT WASN'T RARE, IT WAS UNREPORTED
ワイスが扱ったのは、催眠をかけた大人でした。けれど生まれ変わりの研究には、まったく別ルートの、もっと不意打ちのデータがあります。
子どもです。それも、催眠など一切かけていない、ごくふつうの幼児が、ある日とつぜん「前の自分」のことを語り出す。
この領域を、半世紀かけて築き上げたのが、イアン・スティーヴンソン。アメリカのバージニア大学医学部に、1967年、研究拠点を構えた精神科医です。彼がやったことは、霊視でも、降霊術でもありません。地道な聞き取りと、執念深い照合——つまり、限りなく科学捜査に近い、フォレンジックな手続きでした。
その手順は、おおよそこうです。幼い子が、ある日ふいに「前に住んでいた村」「前の家族」「前の自分の名前」「前の自分がどう死んだか」を語り出す。スティーヴンソンは、まず、その子の証言を書き留める。次に、その子が指し示す「前世の人物」が、本当に実在したのかを、自分の足で調べに行く。土地へ赴く。手に入るかぎりの証人に、ひとりひとり会う。役所の記録や埋葬の記録を照合する。さらに、子どもの体に、前世の人物の傷と対応する痣や欠損がないかを確認する。そして最後に、生まれ変わり以外の説明で片づかないかを、徹底的に潰していく。
刑事が、事件を一件ずつ立件していくのに、よく似ています。
始まりは、ごく静かなものでした。
スティーヴンソンが世界中の報告をかき集めても、信頼できる事例は、わずか44例。彼はそれを、1960年に論文として発表します。世界をさらって、たった44例。これだけ探して、これだけ。よほど稀な、特殊な現象なのだ——誰もがそう思いました。本人でさえ、そう考えていたはずです。
ところが、1961年。研究助成を得たスティーヴンソンは、現地調査のため、インドへ飛びます。そして、自分の足で探し始めて、たまげることになります。
わずか4週間のうちに、25例が見つかったのです。
世界中の文献をさらって、44例。それなのに、現地に身を置いて、たった4週間で、25例。この落差が突きつけた事実は、たった一つでした。
生まれ変わりを思わせる現象は、数が少なかったのではない。ただ、報告される機会が、少なかっただけだった。
考えてみれば、当たり前かもしれません。我が子が突然「前の人生では」と語り出したとして、ほとんどの親は、戸惑い、笑って流し、誰にも言わずに終わらせます。わざわざ精神科医に報告したりはしない。だから「数が少ない」のではなく、「世に出てこなかった」だけ。探しに行けば、それは、ふつうに、あちこちに在ったのです。
しかも、こうした証言を持つ文化は、特定の地域に限られませんでした。インド、スリランカ、ビルマ、タイ、トルコ、レバノン、シリア、そして後にはイギリス、ドイツ、ブラジル、アメリカ——「生まれ変わりなんて、特殊な一部の地域の信仰だろう」という思い込みを裏切るように、世界各地に、同じような子どもの証言が分布していたのです。
スティーヴンソンは、以後何十年にもわたって研究を続け、世界各地で事例を採取していきます。集まったデータは、最終的に2000例を超えました。「稀な奇談」のはずだったものが、世界規模のデータベースへと育っていったのです。
本書も、「過去の人生を語る子どもたち」を、過去生の記憶を裏づける証言の一つとして取り上げています。ただ、語りは、聞き間違いや思い込みで揺らぐ。スティーヴンソンが世界の研究者を黙らせたのは、言葉ではなく、子どもの体そのものに刻まれた、動かしようのない物証と、それを潰しにかかる徹底した手続きのほうでした。
第5章|前世で刺された場所に、痣がある05 — THE SCARS THAT CAME BACK
スティーヴンソンが集めた事例の中でも、最も背筋が寒くなるのが、これです。
——前世で負った傷と、同じ場所に、母斑や生まれつきの欠損が現れる。
殺された前世を語る子の体の、まさにその刺された位置に、痣がある。手や指を切断された前世を語る子に、ちょうどその部分の欠損がある。利き手や、体に残る傷跡までもが、語られた前世の人物と一致する。スティーヴンソンは、こうした「体に刻まれた符合」を、生涯をかけて200例以上も収集し、最後は二巻組の大著『Reincarnation and Biology(生まれ変わりと生物学)』にまとめあげました。
なぜ、これが効くのか。
言葉の証言なら、まだ反論できます。子どもの記憶違い、親の刷り込み、偶然の一致。けれど、生まれたときから体にある痣は、思い込みでは作れません。本人の意思とも関係ない。生まれ落ちた瞬間に、すでにそこに在る、動かしようのない物証です。その物証の位置が、見ず知らずの「前世の人物」の致命傷と重なる。
そして、ここからが、スティーヴンソンの真骨頂です。彼は、物証の不気味さに酔いしれたりはしません。むしろ、その物証を、片っ端から疑いにかけます。
たとえば、彼がいちばん重視したのが、「照合の順番」でした。
——子どもの証言を、前世の人物が特定される"前"に、文書に記録しておく。
これは、地味ですが、決定的な手続きです。ふつう、この種の話は「あとから話を合わせた」と疑われます。子どもの証言を聞いた家族が、それらしい故人を探し出し、後付けで「ほら、合っている」と話を盛る。順番が逆なら、いくらでも一致は作れてしまう。だからスティーヴンソンは、子どもが語った内容を、照合作業に入る前に、紙に書き留めておくことにこだわりました。証言が先、確認は後。この順番を守ったケースだけが、本当に強い証拠になる。
さらに彼は、前世の人物が、いつ、どこで、どんな傷を負って死んだのかを記録した、検死記録や医師のカルテまで入手しようとしました。紙に残された致命傷の位置と、生まれてきた子どもの痣の位置を、照らし合わせる。それが、合ってしまう。語りでもなく、記憶でもなく、紙の記録と肉体が、一致する。
そして、彼の慎重さを、何より物語るのが、この一文です。
「生まれ変わりという説明は、ほかのあらゆる説明が棄却された後に、最後の最後に採用すべきものだ」。
スティーヴンソンは、生まれ変わりを「結論」ではなく、「最後まで残ってしまった容疑者」として扱いました。彼が一件ごとに潰していった「ほかの説明」は、具体的にこれだけあります。家族による詐欺。本人や家族の思い込み(自己欺瞞)。子どもが、どこかで無自覚に情報を耳にしていた可能性。記憶の歪みや混同。昔見聞きしたことを自分の体験と取り違える、クリプトムネジア(潜在記憶)。さらには、テレパシーのような超感覚的知覚(ESP)の可能性まで。これらを一つずつ検討し、すべてが棄却されて、どうしても説明がつかずに残ったものだけを、事例として保管する。
そして、彼の誠実さの極めつけが、これです。スティーヴンソンは、自分に都合のいいケースばかりを集めたのではありません。むしろ、崩れたケースを、自分から報告しています。
たとえば、ある父親は、暗殺されたアメリカ大統領ジョン・F・ケネディの生まれ変わりが、自分の息子だと信じ込んでいました。調べてみると、それは、父親自身が見た夢から始まった思い込みで、後から記憶が作り変えられたものでした。別のケースでは、ある僧侶が、少年に「この時計はお前のものだ」と、事実上、前世の記憶を教え込んでしまっていた。村人たちは、僧侶の悲しみに調子を合わせ、いくらかの見返りを期待して、その話に乗っていた。スティーヴンソンは、こうした「偽物」を見抜き、はっきりと「これは願望的思考だった」と書き残しています。
自分の説に不利な証拠を、自分で掘り出して公表する。これが、科学者の作法です。だからこそ、生まれ変わりに否定的な研究者でさえ——たとえば、心霊研究に懐疑的だったルイザ・ラインのような人物でさえ——「少なくとも、詐欺と潜在記憶については、スティーヴンソンは確かに排除できている」と、認めざるを得ませんでした。
熱狂ではなく、消去法。証拠を増やすためではなく、減らすために働く科学者。「科学的スピリチュアル」という、本書の看板が成り立つのは、背景にこういう手続きの研究があるからです。
ここまでで、過去の人生をめぐる研究が、二つ並びました。催眠下の大人(ワイス)と、催眠なしの子ども(スティーヴンソン)。ルートはまったく違うのに、どちらも「人は前にも生きていた」を指している。そして本書の核心は、ここから、さらに奥へ進みます。「人生と人生の、あいだ」に何があるのか——本書が「中間生」と呼ぶ領域です。
第6章|死の瞬間で、止めなかった06 — WHAT LIES BEYOND THE PAST LIFE
過去の人生があった、というだけなら、まだ入口です。本書が一冊の核として描くのは、もう一歩、奥の領域です。
人が死んでから、次に生まれてくるまでの「あいだ」。生と生の、はざま。本書は、そこを「中間生」と呼びます。本書の章立てそのものに「『中間生』への帰還」という一節が置かれているほど、ここは本書の心臓部です。なぜなら、ここでだけ、「人は生まれる前に何をしているのか」という問いに、証言が出てくるからです。
この「生と生のあいだ」を、退行催眠で本格的に掘り下げた研究者がいます。催眠療法士の、マイケル・ニュートンです。
彼もまた、最初からスピリチュアルの人だったわけではありません。痛み、心の不調——そうした悩みを抱える人のカウンセリングで、年齢退行催眠を使っていた、臨床の現場の実務家でした。カウンセリング心理学の博士号を持つ、認定催眠療法士です。
きっかけは、まったくの偶然だったといいます。
ある被験者を催眠で過去へ送っていたとき、ニュートンは気づきます。被験者は、前世のさらに手前——つまり、その前世に生まれる前の、肉体を持たない、魂だけの状態にまで、さかのぼれてしまう。前世そのものを語る研究は、ワイスをはじめ、それまでにもありました。けれどニュートンが前世以上に強く惹きつけられたのは、この「魂だけになっているとき、いったい何が起きているのか」のほうでした。
そこで彼は、手順をこう変えます。被験者を前世の死の瞬間まで送り、そこで止めない。死を通り抜けた、その先へと、さらに進ませる。
すると被験者たちは、語り始めました。肉体を抜けた直後に何が起きるのか。そこで何に出会うのか。そして、次に生まれてくるまでの「あいだ」を、どう過ごすのか。
ニュートンは、その記録の最初の29人ぶんを、一冊の本にまとめます。死の瞬間から始まる「死後の生」を、これほど具体的に集めた研究は、それまで稀でした。彼の調査は、その後も続き、生涯では、35年をかけて数千人にのぼったといいます。本書が描く中間生の世界像は、こうした研究の系譜と、深く響き合っています。
ただ、ここで、当然の、そして最ももっともな疑問が湧きます。
催眠状態にある人間が、なぜ、その「向こう側」の光景を、はっきりと言葉にして報告できるのか。眠っているなら、何も話せないはずではないか。そして、療法士が「こう答えてほしい」と誘導してしまえば、いくらでも作り話ができるのではないか。
この二つの疑問に、ニュートンは、きちんと答えを用意しています。
第7章|嘘発見器のない部屋で、嘘をどう見抜くか07 — WHY THE WORDS CAN BE TRUSTED
中間生の証言を「ただの夢物語だ」と切り捨てる前に、ニュートンが、それを「どうやって聞き取り、どうやって嘘を見分けたのか」という手続きを、見ておく価値があります。ここが、意外なほど理屈っぽいからです。
まず、「なぜ言葉が出てくるのか」。
ニュートンは、人の心を、三つの層でイメージしました。いちばん外側にあるのが、ふだん私たちが「自分」だと思っている、意識の層です。物事を批判し、分析し、疑う、理屈っぽい部分。その内側に、潜在意識の層がある。ここには、いまの人生の記憶だけでなく、過去生の記憶までもが、すべて蓄えられているといいます。そして、いちばん奥に、本人の核——超意識の層がある。ニュートンは、この超意識こそが「魂そのものなのかもしれない」と考えました。
問題は、いちばん外側の「批判する意識」が、しっかり起きているあいだは、奥の記憶に手が届かない、ということです。理屈っぽい門番が、入口で腕を組んで、奥へ通そうとしないからです。
そこで使われる道具が、催眠でした。
催眠が深まっていくと、人の脳波は、段階的に変わっていきます。ふだん起きているときのベータ波から、リラックスしたときのアルファ波へ。そして、さらに深い、シータ波の領域へと入っていく。
この、シータ波の状態が、肝心なのです。
——シータ波の状態は、眠っているのとは、違います。
ここが決定的です。完全に眠ってしまえば、人は何も報告できません。逆に、ふつうに起きていれば、門番に阻まれて奥に届かない。けれど、シータ波という、その中間の深さでは——奥深くの記憶のチャンネルを開いたまま、それと同時に、催眠療法士の問いかけに答え、会話を続けることができる。いま見ているもの、感じていることを、その場で言葉にできるのです。眠っていないが、表層の批判する意識は脇にどいている。だから、いちばん奥の記憶が、言葉になって出てくる。
では、二つめ。「療法士が誘導した作り話ではないのか」。
これは、催眠を使う研究に必ず向けられる、最も鋭い反論です。ニュートンは、これに、二つの方法で答えました。
一つは、自分の構えです。彼は、こう書いています。私は、毎回のケースを、その情報を初めて聞くかのように扱う、と。答えを知っている顔で誘導するのではなく、何も知らない聞き手として、相手に問う。実際に彼の催眠を受けた人は、こう証言しています。彼は、こちらの頭に考えを植えつけたりしなかった。むしろ、本に書いてある通りの「頑固な追及者」で、私の言うことにいちいち異議を唱え、私がさっき言ったことと食い違っていないか、その場で突き合わせてきた、と。
これが、二つめの方法——反対尋問です。
ニュートンは、被験者の言葉を、鵜呑みにしません。「さっきはこう言ったが、いま言ったことと矛盾しないか」と、その場で問い詰める。被験者は、催眠下で嘘はつけないが、奥で見たものを誤って解釈してしまうことはある。だから、療法士の側が、何度も角度を変えて確かめ、整合性をチェックする必要がある。彼が早くから「入念な反対尋問」を重んじたのは、そのためでした。
そして、彼が最後にたどり着いた、いちばん強い論理が、これです。
——もし、被験者が誘導されて作り話をしているのなら、その作り話は、他のケースとすぐに食い違うはずだ。
一人の作り話なら、その人の願望や思い込みが反映されて、内容は偏ります。けれど、何千という別々の被験者の証言が、細部まで似通っているのなら、それは「誘導された個々の空想」では説明がつかない。誘導は、これほど多くの見ず知らずの人間の口を、同じ方向にそろえられない。
手続きは、わかりました。問題は、その整合性が、どれほどのものだったか、です。そして、ここからが、本書のいちばん深い場所になります。
第8章|「あの世なんてない」と言う人が、信者と同じ世界を語った08 — ATHEIST AND BELIEVER, THE SAME BLUEPRINT
ここが、本書の心臓部です。
一人の被験者が、催眠下で中間生を語っただけなら、片づけるのは簡単です。豊かな想像力ですね、よくできた夢ですね、で終わる。
けれど、ニュートンの被験者たちには、簡単には流せない特徴がありました。
——彼らの信じているものが、てんでバラバラだったのです。
熱心な信仰を持つ人。宗教になど何の関心もない人。そして、死後の世界なんて存在しないと考える、筋金入りの無神論者。生まれ育った文化も、信じる教えも、まるで違う。本来なら、語り出す「あの世」の姿も、人それぞれ、その人の信仰の色に染まって、バラバラになるはずです。
ところが、彼らはシータ波の同じ深さで、驚くほど似た構造の世界を、口々に語り出しました。
魂には、何度も一緒に生まれ変わってくる、仲間のグループのようなものがある。一人ひとりに、導き役のような存在がついている。そして、何より決定的なのが、これです。
——生まれてくる前に、自分で、次の人生の計画を立てている。
今度の人生では、どんな課題に取り組むか。誰を親に選ぶか。どんな困難を、あえて引き受けるか。それを、生まれる前の自分が、自分で決めてくる、というのです。
ここで、踏みとどまって考えてみてください。
無神論者は、死後の世界を信じていません。なのに、その無神論者が、催眠の深みで、信仰者とほとんど同じ「死後の構造」を語り出す。自分の信念に反することを、です。もし、これがその人の願望や思い込みの投影なら、無神論者は「何もない暗闇」を語るはずでしょう。そうならない。信じていないものを、信じている人と同じように描写してしまう。
これが、この領域が、たんなる与太話ではなく「データ」を名乗れる、いちばんの根拠です。打ち合わせのしようがない、信念すら超えた一致。偶然や作り話では、説明がつきにくい。
もちろん、ここで、懐疑的な人は手を挙げます。そして、その手の挙げ方も、まっとうです。
催眠下の証言なんて、暗示でいくらでも作れるじゃないか。あるいは——クリプトムネジア、潜在記憶。昔どこかで読んだり、聞いたり、観たりした輪廻の物語を、本人もすっかり忘れたまま、自分の体験として再生しているだけではないか。これらは、苦しまぎれの揚げ足取りではありません。れっきとした、名前のついた反証仮説です。
そして本書は——ここが、本当に大事なところなのですが——この反論から、逃げません。
本書の章立てには、過去の人生の記憶を検証する節の中に、「否定論者による証言」という項目まで置かれています。つまり、肯定する声だけでなく、疑う声も、自分から土俵に上げている。そのうえで、本書は、最も誠実な一線を、はっきり引きます。
——生まれ変わりも、中間生も、現代科学では証明されていない。
「証明済みだ」とは、言わないのです。あくまで「まだ科学的には解明されていない」と認める。この潔さこそが、本書を、安っぽいスピリチュアル本から、はっきりと分ける一線だと思います。証拠を誇張せず、わからないことは、わからないと認める。
そのうえで、本書は、問いを静かに反転させます。
証明されていないからといって、それを頭から「存在しない」と断じる。その態度は、本当に科学的でしょうか。百年前の人間に、いまのスマートフォンを見せても、理解できなかったはずです。理解できなかった。けれど、理解できなかったことは、それが存在しないことを意味しません。まだ計測する手段が見つかっていないだけのものは、世界に、いくらでもある。わからないものを、わからないまま、手元に置いておく——それこそが、科学の誠実な態度ではないか、と。
面白いことに、この構えは、スピリチュアルが苦手な人にこそ、届くようです。理系の読者が、「むしろ、頭から否定するほうが非科学的だと言えるくらいの内容だった」という感想を残しています。
ワイスの診察室での前世。彼を撃ち抜いた、亡くした家族のメッセージ。スティーヴンソンが照合前に書き留め、検死記録と突き合わせた、子どもの体の母斑。そしてニュートンの被験者たちが、無神論者も信仰者も区別なく描いた、同じ設計図。
こうした研究の数々を踏まえたうえで、本書は、読者の背中を、そっと押します。
頭から信じる必要はない。でも、頭から否定するのも、まだ早い。だったら、ためしに一度だけ——「仮に、自分は生まれてくる前に、この人生を自分で計画してきたのだとしたら」。その目で、自分のこれまでを、眺め直してみませんか、と。
その一歩の先に、本書の後半——人生論が、広がっています。ここから先は、「あの世」の話ではありません。あなたの、いまの人生の話です。
第9章|同じ事実は動かない。なのに、重さだけが消える09 — DEATH AS A LINE BREAK
ここまでの研究を"仮に"受け取ったとして、いちばん最初に動くのは、「死」という言葉の定義です。
本書は、こう書きます。人は意識体として、この宇宙に存在し、肉体に入り込むことで、物質世界でさまざまなことを学ぶ。そして人が死ぬと、体と意識が分かれ、意識体は、また宇宙のどこかに存在し続ける。
死で消えるのは、肉体だけ。意識体——本書が魂と呼ぶもの——は残り、また新しい人生へと生まれ変わっていく。死は、終わりではなく、次の人生の始まりにすぎない。
たった一行の、定義の書き換えです。でも、ここが、後半すべての土台になります。
その効き目を、いちばん残酷な場面で考えてみます。たとえば、幼くして亡くなる子ども。死が「終わり」なら、これは、ただ理不尽なだけの悲劇です。何も果たせず、何も味わえずに、すべてが断ち切られた。意味を探そうとしても、出口がない。
ところが、死が「改行」だとしたら——本書はここで、ひとつの読み替えを差し出します。短かった人生は、すべてを失った敗北ではなく、その魂が、その短さの中で学ぶべきことを学び終えて、次へ進んだのかもしれない。あるいは、遺された者が「喪失」という重い課題に取り組むために、二人で示し合わせた計画だったのかもしれない、と。
ここは、慎重に受け取るべきところです。これは「だから悲しむな」という話では、断じてありません。短い生を、簡単に意味づけて慰めるのは、むしろ残酷です。本書がしているのは、「理不尽以外の見方も、ありうる」という、もう一つの窓を、そっと開けて見せることだけです。
死が「終わり」なら、人生は、一度きりの、やり直しのきかない本番です。失敗すれば、取り返しがつかない。間に合わなければ、永遠に間に合わない。だから人は、怯えます。死を恐れ、損を恐れ、大切な人との別れに、打ちのめされる。「終わり」があるからこそ、何もかもが、切迫してしまうのです。
ところが、死が「改行」だとしたら、話は、まるで変わってきます。
文章は、改行しても、続いています。行が変わっても、同じ書き手が、次の行を書き継いでいく。だとすれば、今回の人生は、長く長く続いていく一つの物語の、ほんの一行にすぎないのかもしれない。今回の行で書き損じても、物語そのものが終わるわけではない。
世界は、何も変わっていません。事実も、同じです。変わったのは、「死」という、たった一つの言葉の定義だけ。それなのに、足元にかかっていた重力が、ふっと軽くなる。
研究の数々で入口を作り、ここから本書は、「いまの生きづらさ」そのものを、そっと組み替えにかかります。死を「終わり」から「改行」へと読み替えること。それが、後半の出発点です。
第10章|なぜ、退行催眠には「苦しい人生」ばかり出てくるのか10 — THE HARDER THE LIFE, THE HIGHER THE COURSE
第8章で見た、あの「生まれる前に、自分で人生を計画してくる」という証言。それが、ここから、一気に効いてきます。本書は、この考えを真正面から掲げます。
退行催眠を重ねていくと、ひとつ、不思議な偏りが見えてくる、と本書は言います。
楽な人生よりも、苦しい人生のほうが、ずっと多く現れてくるのです。
普通の感覚なら、逆だと思いますよね。生まれる前に人生を選べるのなら、誰だって、安楽で、平穏な一生を選びたい。わざわざ苦労の多い人生を選ぶ人なんて、いるはずがない。なのに、どうして、苦難に満ちた人生ばかりが、繰り返し選ばれているのか。
本書の答えが、とても見事です。本書は、はっきりとこう書いています。
——もしも、普通の人生を学校での一年間だとすれば、このような大変な人生は、大学院での一年間に相当する。退行催眠をかけると、苦しい人生のほうがずっと多く現れてくるのは、そのためだ。安楽な人生、つまり休息の時は、それほど意味をもたない。
この比喩の、うまいところを見てください。学校と大学院は、優劣ではありません。難易度の違いです。大学院生が、小学生より「偉い」わけではない。ただ、より難しい課題に、自分から取り組んでいる。苦しい人生も、それと同じだ、と本書は言うのです。劣った魂が罰を受けているのではなく、力のある魂が、あえて難問を選んでいる。
安楽な時間、つまり休息は、心地よいけれど、それほど多くを学べません。だから魂は、あえて、わざわざ、難しいコースを選んでくる。たくさんのことを、一気に学ぶために。困難は、罰として与えられた罰ゲームではない。自分で志願した、上級者向けのカリキュラムなのだ、と本書は読み替えます。
本書は、さらに踏み込みます。試練や苦難の中にこそ、学び成長するための最大の機会がある。だから魂は、その試練や苦難を、自分のほうから探し出していくのだ、と。逃げるどころか、選んで取りに行く、という発想です。
これが、本書の根幹にある「人生の自己計画」という考え方です。生まれてくる前に、自分で課題を決め、それを学ぶのにふさわしい環境を選んで、生まれてくる。第8章で見た「設計図」が、ここで、あなた自身の人生の話になる。
だとすれば、いま自分を苦しめている不幸は、外から理不尽に降ってきた災難ではなく、学ぶために、自分自身で組んだ試験問題なのかもしれません。本書の言葉を借りれば、自分の人生は、自分が自分に与えた問題集なのです。
ここで、一つ、正直に立ち止まっておきます。この考え方には、鋭い刃があります。「あなたの苦しみは、あなたが選んだ」という理屈は、一歩まちがえば、苦しんでいる人へのむごい説教になりかねない。災害や虐待の被害者に「それはあなたが選んだ課題です」と言い放つのは、暴力です。だから、この読み替えは、他人を裁くために使った瞬間に、毒に変わる。あくまで、自分が自分の苦しみを引き受け直すための、自分専用の道具——本書の射程は、そこにあります。
事実かどうかは、誰にも証明できません。でも、この枠を、自分にだけ、ためしにかぶせてみると、同じ苦しみが、まるで違って見えてきます。「なぜ、自分ばかりが、こんな目に」という、答えの出ない被害者の問いが、「自分は、何を学ぶために、この状況を選んだのだろう」という、当事者の問いへと、静かに、形を変えていくのです。
第11章|あんな親を、誰が選ぶものか――その問いに、本書はどう答えるか11 — EVEN YOUR PARENTS, YOU MAY HAVE CHOSEN
「人生の自己計画」という考え方には、いちばん飲み込みにくい、続きがあります。
親さえも、自分で選んできた、というのです。
本書は、この点をはっきり書いています。今回の人生で私たちがおかれた境遇は、決して偶然もたらされたものではない。中間生で、肉体を持たない状態のときに、自分自身が決定したことによって、今回の人生は決まる、と。
ここで、子どもたちの証言が、効いてきます。本書には、こんな証言が出てきます。何も教わっていない幼児が、ふいに「空から、お父さんとお母さんを見つけて、お母さんのお腹の中に入った」と語る。お腹の中にいたときの記憶、生まれるときの記憶を持っている子さえいる、と。
この幼児の証言が、中間生で語られる「生まれる前に、自分で親を選んだ」という話と、ぴたりと重なります。深い催眠下にある大人と、何も知らない幼児。立場も、状況も、まったく違う二つの声が、まったく同じ一点を指している。第4章で見た、スティーヴンソンの「別ルートの証言が一致する」という現象が、ここでも起きているわけです。この符合が、不気味なほどの説得力を生みます。
生まれてくる環境、家族、境遇。そのすべてを、生まれる前の自分が、自分で選んできた、と本書は言います。
つらい親のもとで、苦しんで育った人ほど、これには、強い反発を覚えると思います。あんな親を、誰が、好きこのんで選ぶものか、と。その怒りは、まったく当然のものです。そして、ここを、雑に「あなたが選んだのだから受け入れなさい」で済ませてはいけない。それは、前章で触れた「毒に変わる使い方」そのものだからです。
でも、本書の論理を、もう一歩、追っていくと、ここにも、あの読み替えが用意されています。
——選んだのは、「楽になるため」ではなく、「学ぶため」だった。
難しい親を選んだのは、その関係の中でしか学べない課題が、あったから。理不尽な境遇を選んだのは、そこにしか存在しない問いが、あったから。第10章の「上級コース」が、ここで、家族という、いちばん身近で、いちばん逃げ場のない物語になる。穏やかで優しい家庭では、決して出会えなかったであろう何かを、その苦しさの中でだけ、学ぼうとした——という読み替えです。
そして本書は、この考えの「効能」を、はっきり書いています。人生は自己計画なのだと考えることで、人はかえって、精神的に楽になることができる。なぜなら、人生で起こることはすべて自分が自分に与えた試練なのだと考えれば、ほかの人のせいにして恨んだり、運命を呪ったりすることが、できなくなるからだ、と。つまり、もう誰も恨まなくてすむようになる。
ここが、この考え方のいちばん巧妙なところだと思います。ふつう「親を許しなさい」と言われると、人は身構えます。許せるわけがない、と。ところが本書の理屈は、許すことを命じない。「あの親は、自分が学ぶために選んだ相手だ」と置くだけで、恨みの矛先が、ひとりでに行き場を失っていく。許す努力ではなく、構図の置き換えで、恨みを溶かす。
繰り返しますが、この主張を、信じる必要はありません。ただ、ためしに、そっとかぶせてみる。すると、「なぜ、こんな親のもとに生まれてしまったのか」という、どこにも出口のない問いが、「この関係の中で、自分は、何を学ぼうとしたのだろう」という、考える余地のある問いへと、形を変えていくのです。
恨みは、問いを、固く閉じてしまいます。けれど、課題としてとらえ直すと、問いが、もう一度開く。本書が差し出しているのは、答えそのものではなく、閉じてしまった問いを、もう一度開け直すための、一本の補助線なのだと思います。
第12章|憎しみは、憎まれる相手には、届かない12 — LETTING GO OF HATE, AND OF GOODBYE
ここまでの読み替えは、最後に、人の心を最も重く縛る、二つの苦しみへと、収束していきます。憎しみと、死別です。
まず、憎しみについて。
本書は、自分を取り巻く人々は——愛してくれる人も、敵対している人も——みな、理由があって、自分の成長のために存在してくれている、と書きます。本書は、そうした、何度も関わり合う相手を、ソウルメイトと呼びます。ソウルメイトというと、運命の恋人のような甘い言葉に聞こえますが、本書の使い方は、もっと厳しい。あなたを最も苦しめる相手こそ、最も深く関わるソウルメイトかもしれない、というのです。
もし、自分を傷つけたあの相手さえも、長い学びの物語の中で、憎まれ役という、いちばん損な役を引き受けてくれていたのだとしたら。憎しみは、少しずつ、行き場を失っていきます。
ここが、本書の優しいところです。本書は「許しなさい」と命じることを、しません。「許せ」と命じられて許せるなら、誰も、こんなに長く苦しんだりはしないからです。代わりに本書は、前章で見た「自己計画」の論理によって、そっと、憎しみの足場を外していきます。人生で起こることを、すべて自分が自分に与えた課題だととらえれば、もう、ほかの誰かを恨む必要が、なくなる。恨みからの解放は、相手を許す努力ではなく、世界の見方が変わった結果として、自然に訪れる。
これは、加害を許して、なかったことにする話ではありません。罪は、罪のままです。ただ、憎しみという感情の、やっかいな性質を考えてみてください。憎しみは、憎まれる相手には、ほとんど届きません。届くのは、いつも、憎んでいる自分のほうです。相手は何も知らずに眠っているのに、こちらだけが、夜中に何度もその顔を思い出し、身を焦がす。憎しみは、憎む側を、いちばん長く、いちばん深く、焼き続ける。その消えない火を、そっと下ろすこと。それは、相手のためではなく、ほかでもない、自分自身のためなのです。
次に、死別について。本書は、一冊の中でも、ここに特別に心を砕いています。「愛する故人とのコミュニケーション」という章を、まるごと、この主題に充てているほどです。
死が「改行」なのだとしたら、別れもまた、永遠ではありません。本書は、こう書きます。愛する人が先に逝くと、人は悲しむ。けれど、いつでも、その人は近くで見守ってくれているし、ときに、あなたと同じ意識の中にいることさえある、と。家族や、伴侶とは、来世でも、また巡り合い、再会する。
——けれど、本書は、ここで、甘い慰めに溺れることをしません。むしろ、一つ、強い戒めを置きます。
愛する人が先に逝っても、間違っても、追いかけてはいけない。
本書が、はっきりと書いている戒めです。これは、ただの自殺の禁止ではありません。本書の死生観の中で、これがなぜ「いけない」のかには、筋が通っています。あなたは、生まれる前に、今回の人生でやり遂げると決めた課題を、自分で組んできた。途中でそれを投げ出して追いかけることは、自分との約束を破ることになる。だから、追う必要はない——つながりは切れていないのだから。そして、追ってはいけない——課題が、まだ途中だから。慰めと戒めが、同じ一つの世界観から、矛盾なく出てくる。ここに、本書のドライな一貫性があります。
「許す」のではなく、握りしめていた手を、そっとほどく。「もう、二度と会えない」を、「いまは、少し離れているだけ」に置き換える。手放したぶんだけ、握りしめていた手が、空きます。そして、その空いた手で、また、今日を生きていくことができる。
第13章|緻密な研究を積み上げて、最後に「信じなくていい」と言う矛盾13 — IT WAS NEVER ABOUT THE AFTERLIFE
ここまで来て、いちばん最初の問いに、戻ります。
この本は、結局のところ、何を言いたかったのでしょうか。
死後の世界の、詳しい地図ではありません。生まれ変わりが事実だという、証明でもない。ワイスの診察室の前世も、彼を撃ち抜いた家族のメッセージも、スティーヴンソンが照合前に書き留めて検死記録と突き合わせた母斑も、ニュートンの中間生も、そして後半の数々の読み替えも——そのすべてが、たった一つの場所へと、向かっていたように思います。
——あなたの、今日の生き方を、少しだけ、軽くすること。
本書は、その狙いを、実は隠していません。本書がいちばん伝えたいのは、こういうことです。この世は、中間生で計画したことが試される場所だ、と認めるなら、毎日の生活は、新たな意味と目的に満ちたものになる。困難な境遇も、自分が選んだ問題集なのだと思えれば、もう、誰かのせいにして恨まずにすむ。人は、それによって、かえって精神的に楽になれる、と。
ここで、本書の構造を、もう一度、振り返ってみてください。前半で、ワイスやスティーヴンソンやニュートンの、あれほど緻密な研究を積み上げた。なのに本書は、最後に、こう言ってのけるのです。信じても、信じなくてもいい、と。
これは、矛盾でしょうか。違います。本書の狙いが、最初から「あの世の証明」ではなく「今日の生き方」にあったのだとすれば、これは、筋の通った着地です。研究は、読者をこの入口まで連れてくるための、案内役だった。中まで入ったら、もう、証明書を握りしめている必要はない。「仮に本当だとしたら」という思考実験が、すでに、あなたの今日を、少し軽くしているのだから。
行き先は、どれ一つとして、「あの世」ではありませんでした。行き先は、つねに、「この世」です。いま、生きづらさを抱えて、ここにいる、あなたの、足元です。
本書が差し出しているのは、世界そのものを変える、魔法の呪文ではありません。世界の見え方を、ほんの少しだけ変える、いくつかの補助線です。引いても、事実は、一つも動きません。亡くした人は、戻ってはこない。つらい過去も、消えはしない。動くのは、その同じ事実を、あなたがどう受け取るか。ただ、それだけ。
けれど、人間というのは、不思議な生きものです。事実そのものより、その事実に貼られた「意味」のほうに、ずっと強く、苦しめられたり、救われたりする。だからこそ、受け取り方が変われば、生き方が変わる。生き方が変われば、やがて、人生そのものが、変わっていく。
シリーズ累計200万部という、あの数字。それはおそらく、霊界の存在を信じたかった人の数では、ないのだと思います。ただ、今日という一日を、もう少しだけ、楽に生きたかった——その、静かでまっすぐな願いの、数なのです。
この本は、科学という看板で、読者を招き入れ、人生論で、そっと送り出します。その出口に、たった一つ、置かれている願い。
今日を、もう少し、軽く。
本記事は飯田史彦『生きがいの創造』の内容紹介です。引用・要約は紹介の範囲にとどめ、解釈には筆者の読みを含みます。
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