埼玉県秩父市三峯神社

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目次

序章 — 関東の奥に、薄くなる場所がある

東京の池袋から特急に乗ると、約八十分で西武秩父駅に着く。そこからバスに乗り換えて、また約七十五分。窓の外を流れていく景色が、駅前のコンビニや住宅地からだんだんに山に変わり、やがて荒川の上流に作られた人造湖が見えてくる。秩父湖、と地図には書いてある。そのダムの堰堤(えんてい)を、バスは渡る。堰堤を渡り終えると、道は急に細くなり、つづら折りになって山を登りはじめる。スマートフォンの電波が途切れる。耳の奥が、少しだけ詰まる。標高が上がっているのがわかる。しばらく走ると、駐車場に着く。バスを降りる。空気が違う、と多くの人が言う。澄んでいる、というだけでは足りない。何か、別のものが混じっている、と感じる人がいる。

ここが、三峯神社(みつみねじんじゃ)の参道の入口である。

埼玉県秩父市三峰。標高千百二メートル。三峯神社の境内(けいだい)は、東京都・埼玉県・山梨県の三県の境にまたがる奥秩父(おくちちぶ)の山塊(さんかい)の中にある。すぐ南には、雲取山(くもとりやま)、白岩山(しらいわやま)、妙法ヶ岳(みょうほうがたけ)という三つの峯が連なっている。神社の名の由来になった三つの峯である。雲取山は標高二千十七メートル、東京都の最高峰。白岩山は千九百二十一メートル。妙法ヶ岳は千三百二十九メートルで、その山頂には三峯神社の奥宮が祀られている。

つまり三峯神社は、ただ古い神社というだけではない。東京から最も近い、本格的な深山(しんざん)の入口にある神社なのだ。バスを降りて駐車場から拝殿(はいでん)まで歩く十数分のあいだに、参拝者の足元にはすでに奥秩父の原生林が広がっている。

ここには、たくさんの話がある。

約千九百年前、東国の平定に向かったヤマトタケルが、この山中で霧に巻かれて道を失った。そのとき、白い狼が忽然と現れて道を導いたという。それが三峯神社のはじまりであり、狼を「お犬様」「御眷属様(ごけんぞくさま)」として神の使いに祀る、関東で最も古い狼信仰のはじまりでもある。

享保十二年(きょうほう・一七二七年)九月十三日の夜。この山に入って境内を復興させた日光法印(にっこうほういん)という僧が、ひとり庵室(あんしつ)で静座(せいざ)していた。そのとき、山中から大量の狼が現れて、境内を埋め尽くしたという。日光法印はそれを神託(しんたく)と受け取り、翌年から狼の神札(しんさつ)を信者に貸し出しはじめた。それが「御眷属拝借(ごけんぞくはいしゃく)」と呼ばれる、三峯神社独自の儀式の起源である。神札は、一年間、家を守る。神札の入った箱には、小さな穴がいくつも開けられている。中に「生きた」御眷属がいらっしゃるから、息ができるように、と伝えられている。

平成二十四年(二〇一二年)、辰年のこと。拝殿の左手の石畳を水で濡らしてブラシで磨いたところ、赤い目をした龍の姿が浮かび上がった。今もそこには柄杓が置かれていて、参拝者は誰でも水をかけて龍を拝むことができる。

明治三十八年(一九〇五年)、ニホンオオカミは奈良県東吉野村で捕獲されたのを最後に絶滅した、とされている。しかし平成八年(一九九六年)十月十四日、八木博という人物が、秩父山中の林道でガードレールから現れた一匹のイヌ科動物に十九枚のシャッターを切った。ニホンオオカミ研究の権威であった今泉吉典博士が、その写真をオランダの標本と比較し、「ニホンオオカミの可能性がある貴重な動物」と所見を出した。秩父野犬(ちちぶのいぬ)、と仮称されたその動物が何だったのかは、今も決着していない。

これは、史実と伝承の入り混じった土地である。

しかし、三峯について書こうとするとき、史実と伝承を分けて並べるだけでは届かないものがある、と私は思う。なぜなら、ここを訪れた人の口から繰り返し語られる現象は、伝承の枠の中だけでは収まらないからだ。「三ツ鳥居(みつとりい)をくぐった瞬間、雑音が一斉に消えて静寂に包まれた」「ご祈祷を受けている最中、理由もわからずに涙が止まらなくなった」「拝殿でお参りが終わった瞬間、急に深い霧が境内を覆った」「奥宮で何かを連れて帰ってしまった気がする」。

霧、というのは三峯の境内でよく出る。山が高く、空気が湿っているから、気象的にはおかしくない。ただ、三峯では古来、霧は神様(お犬様)のお姿である、と伝えられている。霧が出ているということは、御眷属がいま、ここに、現れている、ということだ。参拝した日に霧が出ると、普通の山なら「景色が見えなくて残念だった」となる。三峯では逆である。霧が出ると、歓迎されている。

そして、三峯のすぐ近くの山では、UFOを見たという話が、複数残っている。三峰の一つである雲取山の山小屋から、夜空に「絶対にあれはUFOだった」という光るものを目撃した登山者の記録がある。もっと古くて、もっと具体的な事件もある。昭和五十六年(一九八一年)八月十六日の早朝、埼玉県毛呂山町(もろやままち)の田んぼの上空に、銀色のお碗型の物体が約十五分間ホバリングし、複数の住民が目撃した「毛呂山事件」である。物体は秩父山系の方向に飛び去り、翌日の埼玉新聞と読売新聞埼玉版に報道された。続報では、最初の目撃者が物体内に拉致(らち/アブダクション)され、犬のような顔の乗組員に何かをされて解放された、という証言まで出ている。

奥秩父の山系。三峯神社のある山域。お犬様の山域。そこで起きた事件で、目撃者がアブダクションを語り、乗組員は犬のような顔をしていた、と言ったのである。

これは、史実と伝承の入り混じった土地である、と書いた。正確には、史実と伝承と現代の現象が、まだ一つの層を成して動いている土地である。近代化された日本の関東圏にあって、三峯神社の山中には、神話の時代に山で道を失ったヤマトタケルの困惑と、江戸時代の僧が見た夜の境内の狼の群れと、二〇一二年に石畳に現れた龍と、一九九六年に林道で人と目を合わせた絶滅獣と、一九八一年に秩父山系に飛び去った銀色のものと、現代の参拝者が鳥居の前で感じる静寂とが、すべて同じ重みで並んでいる。

何が本当で、何が嘘か、という問いの立て方が、ここではあまり意味をなさない。三峯山は、現実の手触りが、少し頼りなくなる場所である。普段の世界の硬さが、ここに来ると、ほんの少し緩む。それを「気のせいだ」と片づけることは、いつでもできる。ただ、これだけのことが、これだけの長さの時間にわたって、これだけの数の人によって、同じ場所で語られ続けているという事実そのものは、簡単には片づかない。

これから語る話は、関東の奥の一つの山と、その山に祀られた一柱(ひとはしら)の神と、その神の使いである狼と、そこを訪れた人々の話である。千九百年前から、いま、この瞬間まで、続いている話である。霧が出やすい山だから、いつも視界がはっきりしているとは限らない。ただ、霧が出ているということは、すでに、何かが、来ているということだ。

第1章 — ヤマトタケル、霧に呑まれる — 神話と三つの峯

第十二代景行天皇(けいこうてんのう)の御代(みよ)。約千九百年前のこと、と三峯神社の縁起(えんぎ)は伝えている。景行天皇の皇子(みこ)であったヤマトタケルは、父の命を受けて、東国の平定に向かった。古事記(こじき)では倭建命、日本書紀(にほんしょき)では日本武尊と書かれる。「ヤマトタケル」というのはもともと、彼が西国遠征のときに討ち取ったクマソタケルの兄弟が、死の直前に「あなたこそタケル(=猛き者)の名にふさわしい」と差し出した名である。一人の若者が、敵の血で名を貰い、そのまま父の命でまた次の戦(いくさ)に出されていく — それが東征(とうせい)のはじまりだった。

東征の足取りは、古事記と日本書紀で少し異なる。ただ、おおよその経路は、伊勢(いせ)を発って駿河(するが)、相模(さがみ)、武蔵(むさし)、上野(こうずけ)、信濃(しなの)、そして甲斐(かい)の酒折宮(さかおりのみや)へ至り、そこから北上して武蔵・上野方面をめぐり、最後は碓氷峠(うすいとうげ)を越える、という大きな弧を描いている。日本書紀によれば、ヤマトタケルは甲斐の酒折宮を発ったのち、武蔵・上野をめぐって碓日坂(うすいさか/碓氷峠)に向かった、とある。山梨県から群馬県へ抜けるためには、途中の険しい峠を越えなければならない。雁坂峠(かりさかとうげ)である。

雁坂峠は、奥秩父の主稜線(しゅりょうせん)にある標高二千八十二メートルの峠で、古来「秩父往還(ちちぶおうかん)」と呼ばれた古道の最大の難所であった。山梨県側からこの峠を越えると、目の前に広がるのが、三峯神社の鎮座(ちんざ)する三峰山を含む、奥秩父の山塊(さんかい)である。そこで、ヤマトタケルは、霧に呑まれた。

三峯神社の縁起によれば、雁坂峠を越えたヤマトタケルの一行は、山中で道を見失った。霧、と書いてあるだけでは、山に登ったことのない人にはピンとこないかもしれない。奥秩父の霧は、ただ視界を白くするのではない。音を消す。普段は遠くで響いている沢の水音や、風が木々を揺らす音、自分の足が落ち葉を踏む音まで、霧が出ると、なぜかすべて、輪郭がぼやけて、近くで起きているのか、遠くで起きているのかが判別しにくくなる。方向がわからなくなる。来た道を振り返っても、もう同じ景色には見えない。地図を持っていても、自分がいま、その地図のどこに立っているのか、確信が持てなくなる。

ヤマトタケルは、軍勢を率いていた。供の者もいた。それでも、迷った。そのとき、白い狼が、忽然(こつぜん)と現れたのである。縁起の言葉では「忽然」とある。前触れもなく、ということだ。霧の中から、白い狼が一頭、姿を現した。狼は、ヤマトタケルの一行を導くように、先を歩きはじめた。一行がその後ろを着いていくと、ある場所で霧が晴れた。そこが、現在の三峯神社のある三峰山の山中であった。ヤマトタケルは、そこに立って、山々を見渡した。東南の方向に、三つの峯が美しく連なっているのが見えた。雲取山(くもとりやま)、白岩山(しらいわやま)、妙法ヶ岳(みょうほうがたけ)である。

その光景を見て、ヤマトタケルは何を思ったか。縁起はこう伝える。彼は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉册尊(いざなみのみこと)を祀ったのだ、と。伊弉諾尊と伊弉册尊は、日本神話における国生(くにう)みの二神である。天地のはじまりに天浮橋(あめのうきはし)に立ち、矛(ほこ)を下ろして島々を生み、そこから草木、山、川、そして神々を産み出していった、最初の創造神話の中心にいる夫婦神(めおとがみ)である。東国を平定するために遠征している若き武人(ぶじん)が、霧から救われた直後、この山々を見て、なぜいきなり「国生みの神」を祀ろうと思ったのか。縁起はその理由を、こう書いている。「この国が永遠に平和であるように」と祈った、と。

ヤマトタケルは、戦に明け暮れていた。彼は戦争のプロフェッショナルとして父に使われ、九州を平定し、東国を平定するために旅を続けていた。そして近い将来、伊吹山(いぶきやま)の神に祟られて、命を落とすことになる。古事記の伝える彼の最後の姿は、足が三重(みえ)に折れ曲がって動けなくなった、悲劇の英雄である。そんな彼が、奥秩父の山中で、霧から救われた直後、最初に祈ったことが「平和」だった。戦のことではなかった。戦果のことでも、武運のことでも、自分の生還のことでもなかった。この国の、永遠の平和。一人の青年が、霧の中で、白い狼に救われて、それから何かを思った。彼が祈ったのは、自分の戦のことではなく、この島々の長い未来のことだった。それが三峯神社の、最初の祈りである。

東国巡行の際、景行天皇は息子のヤマトタケルが祀ったこの山に、自ら登った、と伝えられている。そして、社地(しゃち)を囲む白岩山、妙法ヶ岳、雲取山の三つの山を賞(め)でて、「三峯宮(みつみねのみや)」の社号(しゃごう)を授けた、という。ここから「三峯」の名がはじまる。ただし注意したいのは、現在「三峰山」と表記される山と、神社の名前である「三峯」は、字が違うということだ。山は「三峰」、神社は「三峯」と書き分けられている。「峯」の方が古い字で、神社では今もこの古字(こじ)を守っている。

そして、もう一つ。三峯神社のある場所は、地理的には三峰山の山頂ではない。標高千百二メートルの中腹(ちゅうふく)にある。神社が祀られているのは、神社のある場所そのものではなく、神社から見える東南の三つの峯 — 雲取山、白岩山、妙法ヶ岳 — を含めた山域全体である。つまり三峯神社は、山の中の一点ではなく、三つの山に囲まれた一つの霊場(れいじょう)全体を意味している。境内を歩いているとき、参拝者は同時に、雲取山と白岩山と妙法ヶ岳の三方からの気の流れの中にいる。

その三つの峯のことを、少し詳しく書いておく。雲取山は標高二千十七メートル。東京都・埼玉県・山梨県の三県の境にそびえる、東京都の最高峰である。「東京都」と聞くと意外に感じる人もいるが、奥多摩の最奥に位置するこの山は、れっきとした東京都の一部であり、そして関東地方を代表する深山(しんざん)の一つでもある。雲取、という名前は、山が雲を抱え込むほどに高いことを表している。白岩山は標高千九百二十一メートル。雲取山の北東にあり、その名のとおり、山頂付近に石灰岩(せっかいがん)の白い岩肌が現れることからこの名がついた。石灰岩というのは、太古の海でサンゴや有孔虫(ゆうこうちゅう)の殻が堆積してできた岩である。つまりこの山の頂上付近の岩は、かつて海の底にあった。それが地殻変動で押し上げられて、関東のいちばん奥の山頂になった。妙法ヶ岳は標高千三百二十九メートル。三つの中で最も低いが、三峯神社にとっては最も重要な山である。なぜなら、この山の山頂に、三峯神社の奥宮(おくみや)が祀られているからだ。神社の本殿から東南東に約二・五キロ、片道約一時間の登山道を登ったところに、小さな祠と秩父宮登山記念碑が立っている。

この三つの山は、地質学的に「秩父帯(ちちぶたい)」と呼ばれる地層帯(ちそうたい)に属している。チャートや石灰岩などの硬い岩石でできているため、切り立った山頂と急峻(きゅうしゅん)な斜面を形成している。そして、この秩父帯という地層帯は、ここで終わっているわけではない。南紀(なんき/和歌山)、四国、九州まで、一本の線として続いているのである。

秩父地方の研究者の間で、古くから指摘されていることがある。秩父の山の名前と、熊野(くまの)の山の名前が、似すぎている、ということだ。熊野の修験道(しゅげんどう)の聖地である那智(なち)山系には、「大雲取山(おおくもとりやま)」「小雲取山(こくもとりやま)」という山がある。そして、那智山系のすぐ西には「妙法山(みょうほうさん)」がある。秩父の三峰には、「雲取山」がある。そして「妙法ヶ岳」がある。雲取と妙法。この二つの名前が、関東のいちばん奥と、紀伊半島(きいはんとう)の最南端に、同じセットで存在している。これを偶然と片づけるのは、難しい。

ジオパーク秩父の解説はこう書く。秩父帯と四万十帯(しまんとたい)という地層帯は、秩父から南紀、四国、九州まで続いている。同じ地質帯の上に、同じ地形が現れる。そして同じ地形を見た古代の修験者(しゅげんじゃ)たちは、そこに同じ名前をつけた。地形の類似が、信仰の類似を生んだのである。熊野修験は、平安時代に成立した日本の山岳信仰(さんがくしんこう)の最大の体系の一つで、紀伊半島の山中を歩き、滝に打たれ、洞窟(どうくつ)で籠(こも)もる修行者たちの集まりだった。彼らの一部が、関東の奥に同じ地形を見つけて、そこに同じ名前をつけ、同じ修行の場とした。それが秩父の三峰山であった、というのである。

三峯神社の歴史を縁起の言葉でたどると、奈良時代に修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ/役小角・えんのおづぬ)が伊豆(いず)から三峯山に渡って修行した、と書かれている。役行者は熊野修験の系譜の中心に立つ人物である。彼が伊豆に流罪(るざい)となった後、三峰山に往来して修行したという伝承がここに残っている。つまり、三峯神社は、ヤマトタケルが霧の中で白い狼に導かれて辿り着いた地、というだけではない。熊野から関東の奥に伸びてきた、修験道のもう一本の脈が、ここで止まっている。雲取と妙法という名前が、その脈の痕跡である。

ここまで書いてきて、もう一度、霧の話に戻る。三峰山は、古来「霧の三峯山」と呼ばれてきた。標高千メートルを超える山で、周囲を二千メートル級の山々に囲まれた窪地のような位置にあるため、気象的に霧が発生しやすい。秩父盆地(ちちぶぼんち)から立ち上る湿った空気が、奥秩父の急峻な斜面にぶつかって冷やされ、雲となり、そのまま境内に流れ込んでくる。霧は、年に何度も出る。晴れた日に登ってきて、神社に着いた瞬間に、突然霧に包まれることもある。ご祈祷を受けている間に、外が一変して、白い壁の中になっていることもある。

そして、三峯神社では、この霧について、特別な伝承がある。霧は、神様(お犬様)の姿である。霧が出ているということは、御眷属様 — 大口真神(おおぐちのまかみ) — が、いま、ここに、現れている、ということだ。だから三峯神社の参拝で霧に遭遇することは、悪いことではない。それどころか、最高の歓迎の徴(しるし)である。これは、近代スピリチュアル系の解釈ではない。境内の現役の神職(しんしょく)が、参拝者にそう説明している。神社の公式ガイドにも、繰り返しこのことが書かれている。

そう考えると、ヤマトタケルの神話は、別の意味を帯びてくる。雁坂峠を越えたヤマトタケルが、奥秩父の山中で霧に呑まれた、というのは、単に「視界が悪くなって道に迷った」という話ではない。古来この山では、霧そのものが御眷属の姿である。つまり、神話の最初の段階で、ヤマトタケルはすでに、お犬様の領域に、文字通り入っていたのである。霧の中から白い狼が現れた、というのは、別のところから狼がやって来たのではない。霧そのものが、狼の姿を取って、形になった、ということだ。霧に呑まれる、という現象と、白い狼が現れる、という現象は、本質的に同じことなのである。ヤマトタケルが見たのは、お犬様の身体そのものだった。

千九百年前、ヤマトタケルが見た霧と、現代の参拝者がご祈祷の最中に境内で目撃する霧は、同じ霧である。地理的な意味で同じ場所に発生し、気象的に同じ仕組みで生じ、そして信仰的に同じ存在の現れとして解釈されている、同じ霧である。これは、神話と現代の間に、断絶がない、ということでもある。普通、神話というのは、現代から遠く隔てられた過去の物語として扱われる。「昔々、こういうことがありました」という形で語られる。しかし三峯神社では、神話の中でヤマトタケルが体験した霧と、参拝者が今日体験する霧が、同じ物理現象として、いまだに続いている。

ヤマトタケルが見たお犬様は、過去の出来事ではない。霧が出るたびに、お犬様は今もこの山に現れている。それは、参拝者の前に、いつでも、姿を見せる準備をしている、ということだ。千九百年経って、関東は近代化され、東京から特急に乗れば二時間半でこの神社に着くようになった。バスがダムの上を走り、駐車場には何百台もの車が停まる。観光客が御朱印(ごしゅいん)を求めて列を作り、お守りを買い、写真を撮って帰る。それでも、霧は今も、出続けている。そして、霧が出るたびに、白い狼の物語が、もう一度、はじまっている。これが、三峯神社という場所の、最も古い層である。

第2章 — 山に入った人々 — 役行者から月観道満まで

ヤマトタケルが伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉册尊(いざなみのみこと)を祀ってから、約六百年が経った。奈良時代に入って、一人の男がこの山に現れた。役小角(えんのおづぬ)、後に役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれる、修験道の開祖である。

役小角という人物の輪郭は、はっきりしない。生没年もわからない。確実な記録は、奈良時代に編まれた『続日本紀(しょくにほんぎ)』に書かれた、たった一文だけである。文武天皇三年(六九九年)五月二十四日、役君小角(えのきみおづぬ)を伊豆島に流す、という記述だ。その後に続く文章は、こう書いている。役小角は葛城山(かつらぎさん)に住み、呪術に長けていた。鬼神(きじん)を使役して水を汲ませ、薪を採らせ、命令に背くと呪術で縛って動けなくしてしまう、と世間では噂されていた。弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が、師の力をねたんで、彼が妖術で世人を惑わしていると朝廷に訴え出た。その結果、遠島の刑に処せられた。

『続日本紀』の記述としては、いささか奇妙である。普通、正史にはこうした神通力(じんつうりき)や鬼神使役の話は載せない。それなのに、役小角に関する記述には、彼の超能力的な噂が、淡々と書き残されている。これは編纂者たちが、当時すでに役小角の名前が世間に知られすぎていて、その霊力を伏せて書くことができなかったからだろう、と研究者は考えている。

伊豆に流された役小角は、夜になると雲に乗って富士山に登り、修行を重ねた、と伝えられている。三峯神社の縁起は、その時期に、彼が伊豆から三峰山にも往来して修行していた、と書いている。伊豆大島には今も「役行者窟(えんのぎょうじゃくつ)」という海食洞(かいしょくどう)があり、彼が住んで修行したと伝えられている。間口十六メートル、高さ十一メートル、奥行二十四メートルの大きな洞窟である。一九五二年に東京都の史跡に指定されている。伊豆大島から三峰山まで、現代の地図で計っても直線距離で百五十キロ以上ある。間に海があり、関東平野がある。当時、徒歩で往復できるような距離ではない。そして、海と平野を越えてこの山に通った、ということになっている。

なぜ役小角はわざわざここに来たのか。その答えは、おそらく、前章で書いた地形と地名の話に繋がっている。役小角は熊野修験(くまのしゅげん)の系譜に立つ呪術者だった。彼は熊野の山で修行し、葛城山と金峯山(きんぷせん/吉野)を結ぶ修行ルートを開いた。そして熊野・葛城・金峯を歩いた彼は、関東のいちばん奥に、熊野とそっくりの地形が広がっていることを知っていた、ということではないか。雲取山、白岩山、妙法ヶ岳。熊野の那智(なち)山系には、大雲取山、小雲取山、妙法山がある。同じ秩父帯・四万十帯(しまんとたい)の上に、同じ岩質、同じ起伏、同じ気象が現れる。役小角は、伊豆に流された境遇を利用して、関東の三峰山まで自分の修行の場を伸ばしたのである。これが、修験道の脈が三峯神社に通った最初の瞬間だった。

それから三十数年後の天平八年(七三六年)、国々に疫病が流行した。聖武天皇は三峯神社に葛城連好久(かつらぎのむらじよしひさ)を遣わして祈願させ、「大明神」の神号を奉った、と縁起は伝えている。天平の疫病は、日本史上有数の大流行で、当時の朝廷の中枢にいた藤原四兄弟までもが全員命を落とした。聖武天皇が東大寺の大仏建立を決意したのも、この疫病の鎮静を願ってのことだった、と言われる。その天皇が、わざわざ秩父の奥の山中の神社にまで使者を送って祈らせた、という事実は重い。三峯神社の名は、すでに奈良の都にまで届いていた、ということになる。

平安時代に入ると、もう一人、決定的な人物がこの山に登った。弘法大師空海である。空海は、平安時代の初頭に唐から密教を持ち帰り、高野山を開いて真言宗を立ち上げた、日本仏教史の中心人物の一人である。彼が日本中の山を歩いたことはよく知られているが、その中に三峰山も含まれていた、と三峯神社の縁起は伝える。空海は登山ののち、三峯宮の傍らに十一面観音像を奉祀(ほうし)して、天下泰平を祈った、という。これが、三峰山に仏教が公式に入った瞬間である。それ以降、三峯神社は神道と仏教が一体となった神仏混淆(しんぶつこんこう)の山となり、奉仕するのは神官ではなく僧侶(山伏・やまぶし)になっていった。空海が登った時期について、縁起は明記していないが、彼の生涯から考えれば淳和天皇(じゅんなてんのう)の御代(八二三〜八三三年)前後、と推定される。

つまり、ヤマトタケルが祀った伊弉諾尊・伊弉册尊の山は、奈良時代に役小角の修験道で「使われる山」になり、平安時代に空海の十一面観音で「祀られる山」になった。神話、修験、仏教。三つの層が、ここで重なった。

時代は鎌倉に進む。源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時代、関東は新しく開かれた武士の土地になった。その鎌倉武士の中に、畠山重忠(はたけやましげただ)という男がいた。武蔵国の出身で、頼朝の挙兵に従い、源平合戦から奥州合戦まで、数々の戦に勝ち抜いた、鎌倉初期を代表する武将である。畠山重忠は、三峯神社を篤く信仰した。縁起によれば、彼は祈願成就の御礼として、神社の周囲「十里四方」の土地を寄進したという。江戸時代以前の一里は約四キロメートルだから、十里というと約四十キロ。半径四十キロの円内の土地を、まるごと三峯神社に寄進した、ということになる。これがどれだけ広大な規模であるかは、現代の地図に円を描いてみればわかる。秩父市の全域はもちろん、その周辺の山岳地帯までを含む広さである。

なぜ重忠がそこまで篤く信仰したのかは、はっきりしない。ただ、三峯神社の境内に今も立つ巨大な御神木「重忠杉(しげただすぎ)」が、その篤さの規模を、今も無言で伝えている。樹齢約八百年、幹周約七メートル、樹高約四十六メートルの杉の巨木で、重忠の手植えと伝えられている。重忠が一二〇五年に北条氏に討たれて没したことを考えると、本当に手植えなら、樹齢の計算は合う。

重忠の寄進以降、三峯神社は東国武士の信仰を集めていく。しかし、繁栄は永遠には続かなかった。時代が鎌倉から南北朝、室町へと進む中で、関東の覇権を巡る争いが続いた。一三五二年(正平七年)、足利氏と新田氏の戦いで、新田氏の側が敗北した。そのとき敗れた新田義興(にったよしおき)の一族が、三峯山に逃げ込んで身を潜めた。これが、三峯神社の運命を変えた。勝った足利氏は、敗者をかくまった神社を許さなかった。社領を没収し、神官たちを罷免した。神社の格式は失われ、堂宇は荒廃していった。

そこから、長い暗黒の時代が始まった。ほぼ百五十年。社殿は崩れ、参拝者は減り、山は人の手から離れて荒れていった。役小角の修行の場、空海の観音、畠山重忠の祈り — それらの蓄積が、ほとんど忘れられかけていた。ヤマトタケル以来、千四百年続いていた三峯神社の歴史が、ここで一度、消えかけたのである。

文亀二年(一五〇二年)、一人の修験者が、その荒廃した山に立った。月観道満(げっかんどうまん)という名の修験者である。生没年はわかっていない。どこから来てどこへ行ったのかも、はっきりしない。ただ、彼は、荒れ果てた三峯山を見て、何かを決意した。彼は、再建を志した。ただ、金も人もない。寺院は廃絶寸前で、頼れる組織はもうなかった。彼は、歩き始めた。全国を、一人で。

復興資金を集めるために、彼は約二十七年間、日本中を行脚(あんぎゃ)した。京から関東、東北まで、おそらく信濃や甲斐、武蔵、上野、下野(しもつけ)、各地の集落を回り、三峯山の名と荒廃の状況を語り、寄付を募った。「三峯山の再建に協力してください」と、町から村へ、宿から宿へ、歩き続けた。二十七年というのは、人の一生の三分の一に近い時間である。三十歳で歩き始めたとしたら、終わるのは五十七歳。当時の平均寿命を考えれば、彼はこの行脚に、自分の残りの人生をほとんど全部投じたことになる。

そして、彼の歩いた二十七年の終わりに、奇跡が起きた。天文二年(一五三三年)、後奈良天皇(ごならてんのう)の代に、月観道満は集めた資金で三峯山の社殿・堂宇を再建した。同年、後奈良天皇は三峯神社を、京の聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)の末寺に指定した。聖護院は、本山修験(ほんざんしゅげん/天台修験)の総本山である。つまり、三峯神社は、関東における天台修験の総本山として、再び正統な位置に戻った。月観道満は、これによって「中興の祖」と仰がれることになった。一人の名もない修験者が、二十七年間一人で歩き続けて、三峯山を蘇らせた、という話である。これは伝説ではなく、神社の正史に書かれている事実である。

月観道満の二十七年について、ここで少し考えてみたい。歩く、ということは、現代の私たちが思っているよりも、ずっと大きな行為である。彼は車にも電車にも乗らなかった。携帯電話もなかった。次にどこに泊まれるか、どこで食事ができるか、誰が話を聞いてくれるか、すべて行ってみないとわからない。一日中歩いて、夜は人の家か寺の軒先で寝かせてもらう。雨が降れば濡れ、雪が降れば寒さに耐え、それでも次の村を目指して歩く。その日々を、二十七年間、続けた。

なぜ、彼はそこまでしたのか。縁起には、彼の動機は書かれていない。ただ「三峯山の荒廃を嘆いた」とあるだけだ。しかし、嘆いただけで、二十七年間歩き続けられるものだろうか。月観道満は、何かを見たのではないか。あるいは、何かを聞いたのではないか。山の側から、彼に対して、何らかの呼びかけがあったのではないか。三峯神社という場所は、第1章で書いたように、神話の時代から霧と狼の形で人に何かを伝え続けてきた場所である。荒廃した山に最初に入り、立ち直りを志した一人の修験者が、その山から何も受け取らなかった、と考える方が、むしろ不自然である。これは、もちろん、私の推測である。記録にはない。ただ、二十七年という時間の長さは、合理的な計算や信仰心の表明だけでは説明できない長さだと、私には思える。あの長さで山に向かって歩き続けた人間がいた、という事実そのものが、この山が彼にとって何だったのかを、間接的に語っている。

月観道満の中興から、三峯神社は再び栄えていく。天文二年に聖護院の末寺となり、関東における天台修験の総本山となった。山主(さんしゅ)は花山院家(かざんいんけ)の養子となり、寺の僧正になることを常例とした。花山院家の家紋である「菖蒲菱(あやめびし)」が、寺の定紋(じょうもん)として使われた。寛文五年(一六六五年)には、それまで越生(おごせ)の修験山本坊(やまもとぼう)の配下にあったところから独立して、京の聖護院の直末(じきまつ)となった。本社は「三峰山大権現(みつみねさんだいごんげん)」、別当寺院(べっとうじいん)は「三峰山観音院高雲寺平等坊(みつみねさんかんのんいんこううんじびょうどうぼう)」と称した。この時期に、三峯神社は、関東の十万石の格式を持つ霊地として、徳川幕府からも遇された。十万石、というのは大名のランクである。神社が大名と同じ格で扱われていた、ということだ。

ヤマトタケルが祈った山。役小角が修行した山。空海が観音を祀った山。畠山重忠が四十キロ四方を寄進した山。足利氏に没収されて百五十年荒廃した山。そして、月観道満が二十七年歩いて取り戻した山。それが、十万石の山に、なった。

しかし、三峯神社の最も三峯らしい現象は、まだ起きていない。御眷属(ごけんぞく)、お犬様、大口真神(おおぐちのまかみ) — 狼を神の使いとして拝借する独自の信仰は、この段階ではまだ生まれていない。それは、月観道満の中興からさらに二百年後、享保十二年(一七二七年)九月十三日の夜、日光法印(にっこうほういん)という一人の僧が見たものから始まる。その話は、章を改める。

第3章 — 観音院高雲寺の時代 — 神仏混淆の山

月観道満(げっかんどうまん)が二十七年の行脚(あんぎゃ)で三峯山を再建したのが天文二年(一五三三年)。それから明治二年(一八六九年)に廃寺となるまでの、約三百三十年間。三峯神社は「観音院高雲寺(かんのんいんこううんじ)」と呼ばれる寺院であった。現代の私たちが「三峯神社」と呼んでいるあの場所は、明治より前は、神社ではなく、寺だったのである。

正確に言えば、神仏混淆(しんぶつこんこう)の霊場であった。本殿に祀られていたのは伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)。しかし同時に、その本地仏(ほんじぶつ)として十一面観音が祀られていた。鳥居があり、社殿があり、しかし同時に堂塔があり、僧侶(山伏・やまぶし)が常駐していた。神も仏も、同じ山の中で、同じように祀られ、同じ僧の手で奉仕された。これが神仏混淆という、近代以前の日本の宗教の最もありふれた姿だった。その時代、三峯山の正式な名称は「三峰山大権現(みつみねさんだいごんげん)」、別当寺院(べっとうじいん)の名前は「三峰山観音院高雲寺平等坊(みつみねさんかんのんいんこううんじびょうどうぼう)」だった。

「大権現(だいごんげん)」という言葉は、神道の神を、仏が仮の姿として現れたものと解釈する「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」の思想に基づいている。仏が本体(本地)で、神はその仏が日本人に向けて姿を変えて現れた化身(垂迹)、という考え方である。三峰山の本地仏は十一面観音、その権現としての姿が、ヤマトタケルが祀った伊弉諾尊・伊弉册尊である、という構造になっていた。これは、現代の感覚からすると、少し奇妙に聞こえるかもしれない。神道の神と仏教の仏が、同じ祭壇で、同じ僧によって、同じように拝まれている。神道なのか仏教なのか、はっきりしない。ただ、これが、近代以前の日本の山岳信仰の、本来の姿だった。三峯神社は、神道の神社として始まったわけではなく、神道と仏教と修験道が一体となった、一つの霊場として千五百年以上続いてきた。それを「神社」だけに、無理やり切り取って残したのが、明治の神仏分離である。

まず、観音院高雲寺の時代がどんなものだったかを、見ておきたい。月観道満の中興のあと、三峯神社は京の聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)の末寺となった。聖護院は、本山修験(ほんざんしゅげん/天台修験、寺門系)の総本山である。修験道には大きく二つの系統がある。一つは京の聖護院を本山とする本山派。もう一つは京の醍醐寺三宝院(だいごじさんぼういん)を本山とする当山派(とうざんは/真言系)。三峯神社が属したのは前者、聖護院系の本山修験である。これによって、三峯神社は、関東における本山修験の総本山という位置づけを得た。簡単に言えば、関東一円の山伏たちの、いちばん上の山になった、ということだ。山伏たちが、自分たちの修験道の根元を辿ったときに、行き着く山。彼らが奉る神札の出所となる山。それが、三峯山だった。

歴代の山主(さんしゅ)は、京の公家・花山院家(かざんいんけ)の養子となるのを常例とした。花山院家は藤原氏の流れを汲む名家で、藤原師実(ふじわらのもろざね/平安後期の摂政・関白)の血を引く家柄である。その花山院家の養子になることで、山主は朝廷の血脈に連なり、寺の格式が公的に保証された。寺の定紋(じょうもん)は、花山院家の家紋である「菖蒲菱(あやめびし)」を採用した。今も三峯神社の至るところで、この菖蒲菱の紋を見ることができる。

寛文五年(一六六五年)、三峯神社は転機を迎える。それまで越生(おごせ)の修験「山本坊(やまもとぼう)」の配下にあったところから独立して、京の聖護院の直末(じきまつ)となったのである。これは、関東の中堅修験道の傘下にあった三峯山が、京の本山の直接の傘下に入った、という出世である。組織でいうところの、本社直轄になった、というようなものである。このとき、本社は「三峰山大権現」、別当寺院は「三峰山観音院高雲寺平等坊」と正式に称することになった。寛文元年(一六六一年)、現在も残る本殿が造営された。極彩色の彫刻で飾られた、春日造(かすがづくり)一間社(いっけんしゃ)の本殿である。後に埼玉県の文化財に指定されることになる、堅牢な社殿である。

宝永七年(一七一〇年)、当時の山主であった一如法印(いちにょほういん)が亡くなった。それから約十年間、無住の状態になり、境内は再び荒れた。月観道満の中興から二百年弱、三峯山は再び放置されかけたのである。享保五年(一七二〇年)、日光法印(にっこうほういん)という僧が入山して、社殿と堂宇を修復した。日光法印は、後に三峯神社の最も重要な存在の一つ ─ 御眷属拝借(ごけんぞくはいしゃく) ─ を始めることになる人物である。彼の名前と、彼が見たものについては、章を改めて詳しく書く。ここでは、彼が入山したことで、三峯山が再び栄え始めた、とだけ書いておく。

江戸時代の三峯神社の繁栄を、いくつかの数字で示しておきたい。まず、寺領の規模である。江戸幕府は三峯神社を、「十万石の格式」をもって遇した。これは大名のランクであり、外様の中堅大名と同じ格式である。実際の石高がそのまま十万石分の収入があった、ということではなく、儀礼的・身分的な扱いの話だが、それでも幕府が一寺院をここまで高く扱った例は多くない。関東郡代の伊奈半十郎(いなはんじゅうろう)が秩父を検地したとき、三峯神社の周辺「三里四方」を境内地として除地(じょち/年貢免除地)に指定した。鎌倉時代に畠山重忠が寄進したという「十里四方」よりは小さいが、それでも半径十二キロの円である。広大な山岳地帯が、まるごと三峯山の所領になっていた。

そして、参拝者の規模である。明治中期、つまり神仏分離の少し後の記録ではあるが、三峯神社の社務所には「六百人が泊まれる施設」があり、客のための料理や酒も自家製で賄っていた、という記述がある。江戸時代の盛期は、これよりさらに多かった、と推測される。六百人。これがどれだけ大きな数字か、想像してみてほしい。深い山中の、車道もない時代の神社で、毎晩のように六百人規模の宿泊客を受け入れていた、ということだ。彼らはバスでも電車でも来ない。徒歩で、何日もかけて、表参道を歩いて登ってきた。その規模の人々が、繰り返し、この山を訪れた。なぜか。理由はおそらく一つではない。修験道の修行の場としての権威、霊験あらたかな祈祷の評判、そして — これが本書の中心テーマだが — 御眷属(ごけんぞく/お犬様)の神札の力である。

ただ、ここで一つ、押さえておきたい事実がある。江戸時代の三峯山は、現代の私たちが知っている「三峯神社」よりも、はるかに大きく、はるかに賑やかな霊場だった、ということだ。現代の参拝者の多くは、車かバスで駐車場まで来て、拝殿で参拝して、敷石の龍を拝んで、お守りを買って帰る。早ければ一時間で済む。しかし江戸時代の参拝者は、麓の大輪(おおわ)から表参道を二時間以上かけて登り、清浄の滝(しょうじょうのたき)で禊(みそぎ)をし、女人堂(にょにんどう/薬師堂)で休み、宿坊に泊まり、何日も山に滞在した。山伏の案内で境内の摂末社(せつまつしゃ)を巡り、修行の真似事のような行をして、神札を授かって帰った。三峯山に登る、ということは、それだけで一つの精神的な体験だった。山に登り、山に泊まり、山の空気の中で何日も過ごす、ということ自体が、参拝の本体だった。

その時代の三峯山の中心にいたのが、観音院高雲寺の僧侶たち、つまり山伏たちである。彼らは、神主ではなく、僧侶でもなく、修験者だった。神道の祝詞(のりと)も読み、仏教の経も読み、護摩(ごま)を焚き、滝に打たれた。神札を作り、お犬様の信仰を広め、関東一円の三峯講中(みつみねこうじゅう)を組織した。彼らがいたから、三峯山は三峯山だった。

明治元年(一八六八年)三月二十八日、明治新政府は「神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)」(通称「神仏分離令」)を発した。神社から仏教的な要素を排除せよ、という命令である。具体的には、神名に仏教用語を使っている神社の届け出、仏像を神体としている神社からの仏像の撤去、本地仏・鰐口(わにぐち)・梵鐘(ぼんしょう)の取り外し、僧侶が神職を兼ねている場合の選択 — 神主になるか僧侶になるか — を強制した。明治政府は、近代国家としての日本を作るために、神道を国家の中心に据える政策(神道国教化)を進めようとしていた。そのためには、千年以上続いてきた神仏混淆の状態を、神道と仏教にきっぱり切り分ける必要があった。

このとき、各地で「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」と呼ばれる、暴力的な仏教排斥運動が起きた。寺院は破壊され、仏像は焼かれ、経典は捨てられた。特に山岳信仰の聖地 — 修験道の山々 — は、神道でも仏教でもない曖昧な存在として、激しく整理された。三峯山も、その対象になった。明治二年(一八六九年)、三峯山観音院高雲寺は廃寺となった。三百三十年以上続いてきた寺が、命令一つで、なくなった。仏教堂宇は用途を変更され、仏像は移動させられ、僧侶たちは選択を迫られた。三峯山の場合、最後の山主は神官になることを選んだ、と記録は伝えている。それ以降、奉仕は神官のみが行うようになり、寺院としての三峯山は、完全に消滅した。このとき、随身門(ずいしんもん)に祀られていた仁王像(におうぞう)は、埼玉県鴻巣市(こうのすし)の勝願寺(しょうがんじ)に移された。今もその寺に、三峯山にあった仁王像が安置されている。そして、本山であった京の聖護院との関係は、断ち切られた。観音院高雲寺、という名前は使われなくなった。代わりに、神社の名前として、もとの古い称号「三峯神社」が復活した。これが、現在の三峯神社の、公式な始まりである。

明治の神仏分離は、表面的には、神道と仏教を分けただけ、のように見える。しかし、三峯山にとっては、もっと根本的な断絶を意味した。三峯山は、神道の神社として始まったわけではない、と前に書いた。それは伊弉諾尊・伊弉册尊を祀った神社であると同時に、十一面観音を祀る寺院でもあり、そして — もっと言えば — 神道と仏教の枠を超えた、修験道の山だった。山伏たちがそこにいて、山伏たちの祈りで成り立っていた山だった。明治の分離は、その山伏たちの存在の根拠を、奪った。修験道は、神仏分離と廃仏毀釈の中で、組織として徹底的に解体された。聖護院も醍醐寺三宝院も、本山としての修験道組織の運営を停止した(両者ともに、戦後になってから修験道の宗派として再興する)。修験道は、明治の数十年間、公式には「存在しない」宗教となった。三峯山も、その渦の中にあった。

それまで山に常駐していた僧侶(山伏)たちは、神官になるか、山を下りるか、を選ばされた。神札の発行は続いた。御眷属拝借も続いた。本殿の祭神も伊弉諾尊・伊弉册尊のままだった。だから、参拝者の目には、神社としての三峯山は、それほど変わらずに見えたかもしれない。しかし、内側では、山の宗教的な構造が、根本的に書き換えられていた。神仏混淆の三峯山は、終わった。近代国家・日本の中の、一つの神社としての三峯神社が、始まった。

そう書くと、まるで、三峯山が明治以降は「ただの神社」になってしまったかのように聞こえるかもしれない。しかし、実際にはそうではない。明治以降も、御眷属拝借は続いた。三峯講中は関東一円で活動を続けた。お犬様の信仰は、衰えるどころか、明治・大正・昭和を通じて広がり続けた。大正末期に秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう/大正天皇の第二皇子)が参拝したことをきっかけに、信徒は全国的に増え、講社の数も増大した。そして、現代に至るまで、三峯神社は関東でも有数のパワースポットとして、人を集め続けている。

つまり、明治の神仏分離は、三峯山の制度的な構造は変えたが、山そのものは、変えなかった。山伏の組織が解体されても、十一面観音の本堂が小教院(しょうきょういん)というカフェに転用されても、仁王門が随身門と名前を変えても — 山は、依然として山だった。霧は出続け、狼は祀られ続け、参拝者は何かを感じ取って帰っていった。これは、たぶん、三峯神社という場所の本質に関わる事実である。制度は変わる。組織は解体される。名前は書き換えられる。それでも、山そのものは変わらない。山がそこにあり、霧が出て、御眷属が祀られているかぎり、三峯山は三峯山であり続ける。明治の神仏分離は、三峯山に深い傷を残した。しかし、致命傷ではなかった。なぜなら、三峯山を三峯山にしていたものは、結局のところ、組織でも制度でも名前でもなく、山そのものの側にあるものだったからだ。

ここまでで、三峯神社の歴史の縦軸は、おおよそ書けた。ヤマトタケル(神話)→役行者(修験)→空海(仏教)→畠山重忠(鎌倉武士)→足利による衰退→月観道満の中興(室町)→観音院高雲寺(江戸)→神仏分離(明治)。二千年弱の歴史を、ここまでで一気に降りてきた。しかしまだ、三峯神社の最も三峯らしい現象には触れていない。御眷属拝借、つまり「神札に生きた狼が宿っている」という、三峯独自の信仰のことである。その話のために、私たちは時間を少し巻き戻して、享保十二年(一七二七年)九月十三日の夜、一人の僧が見たものから、もう一度、始めなければならない。

第4章 — 1727年9月13日、夜の境内に狼が満ちた — 御眷属拝借のすべて

享保五年(一七二〇年)、日光法印(にっこうほういん)という僧が、三峯山に入山した。第3章で書いたとおり、十年前の宝永七年(一七一〇年)に当時の山主・一如法印(いちにょほういん)が亡くなり、その後の十年間、三峯山は無住の状態だった。月観道満(げっかんどうまん)が二百年前に再建した堂宇は、再び荒れ始めていた。三峯神社の歴史において、二度目の危機である。日光法印は、その荒れた山に入って、もう一度、堂宇を修復した。彼の名前について、神社の正式な記録は多くを語らない。「日光」という名前から、栃木の日光山との関係を持っていた僧、ないし日光修験出身の山伏(やまぶし)ではないか、と推測する研究者もいる。ただ、確たる証拠はない。確かなのは、彼が三峯山に入って、神社を立て直し、そして、ある夜、何かを見た、ということだ。

享保十二年(一七二七年)九月十三日の夜。入山してから七年が経っていた。日光法印は、その夜、山上の庵室(あんしつ)で静座していた。庵室というのは、僧が修行のために籠もる小さな建物である。一人で、夜の闇の中で、座っていた。そのとき。山中から、多くの狼が現れた。そして、境内を埋め尽くした。これが、御眷属拝借(ごけんぞくはいしゃく)の起源として、神社の縁起に記されている出来事である。

縁起の言葉は、簡潔で淡々としている。「日光法印が山上の庵室に静座していると、突如、山中から多くの狼が現れ境内を埋め尽くした。その光景に神託(しんたく)を感じた日光法印が、猪鹿(いのししか)、火盗(かとう)除けとして山犬の神札を信者に貸し出したところ霊験(れいげん)があり、それが御眷属拝借の始まりだと言われている」。この短い記述の中に、いくつもの説明されない部分がある。まず、「多くの狼」とは、何頭だったのか。十頭か、五十頭か、それ以上か。記録はない。ただ「境内を埋め尽くした」とある。三峯神社の境内は広い。本殿の前の広場だけでも、相当な面積がある。それを埋め尽くした、というのだから、相当な数だったことは想像できる。なぜ、その夜、狼たちが集まったのか。何かを伝えに来たのか。日光法印に、何を見せたかったのか。縁起は、それを「神託」と書く。神からの言葉が、狼の群れという形で日光法印に伝えられた、というのだ。

日光法印は、その光景を見て、何を読み取ったのか。縁起の続きを読むと、彼が始めたのは「山犬の神札」の配布である。猪や鹿が田畑を荒らす害から農作物を守るため、そして火事や盗賊から家を守るために、お犬様の力を貸し出す。これが、御眷属拝借という制度の始まりである。つまり日光法印は、夜の境内に現れた狼の群れを見て、「この狼たちを、人々の家を守るために、貸し出してほしいということだ」と解釈したのだ。普通の僧であれば、夜中に山犬の群れに囲まれたら、恐怖しか感じないはずだ。逃げ出すか、祈祷で追い払うか、そういう対応になる。日光法印は違った。彼は、群れを、「使者」として受け取った。ここに、御眷属拝借の本質がある。

ここで一つ、確認しておきたい。「御眷属拝借」という言葉の意味である。「御眷属(ごけんぞく)」とは、神の使い、ということだ。三峯神社の場合、これは大口真神(おおぐちのまかみ)、つまり狼を意味する。お犬様、ご神犬、御眷属様、などとも呼ばれる。「拝借」とは、「お借りする」ということ。つまり「御眷属拝借」とは、「神様のお使いをお借りする」という意味になる。一般的な神社のお札は、神様の霊力の写し ─ 一種の「コピー」 ─ として理解されている。お札に神様が宿っているわけではない。お札は、神様とつながるための道具、神様の加護のしるしである、と。

しかし、三峯神社の御眷属拝借は、これとは違う。神社の側は、御眷属様を「貸し出す」と言う。お札は神霊そのものの「現物」である、と言う。一年間、その神札を家に祀っているあいだ、生きた御眷属様が、本当にそこにいる、と。これは、近代スピリチュアル系の解釈ではない。三峯神社のご由緒書『當山大縁起(とうざんだいえんぎ)』には、こう書かれている。「山神は元来、山の氣の勇猛をもちて、撰びてこれを使者とす。これにより当山に参詣して擁護を祈る輩(ともがら)は、神前に誓いて狼を借り、その家を防ぎてその身を安んずること、霊験は挙げて数ふるに遑(いとま)あらず。これ万人の存る処なり」。意訳すれば、山の神様は、山の気の勇猛さをもって狼を選んで使者とした。三峯山に参詣して守護を祈る者は、神前に誓って狼を借り、その家を守り、身の安全を得る。その霊験は数え切れないほどで、これは万人の知るところである、という意味になる。「神前に誓いて狼を借り」とある。本当に、狼を、借りるのだ。

御眷属拝借には、特殊な作法と装具がある。申し込みは、神社の社務所で行う。住所と氏名を申込用紙に記載し、初穂料(はつほりょう)五千円を納める。初回の場合は、御眷属様を収める木箱「眷属箱(けんぞくばこ)」を二千円で授かる。一回限りの購入で、毎年使い続ける。申し込みが完了すると、拝殿でご祈祷を受ける。祝詞(のりと)が奏上され、御眷属様が神札に降りる(と、神社の側では言われている)。ご祈祷後、神札が授けられ、それを眷属箱に入れて家に持ち帰る。家では、神棚、あるいは目線より高い清浄な場所に、眷属箱ごと祀る。お米とお水と塩を供える。毎月一日と十九日には、特別なお供えをする。

そして、ここからが、特に注目すべき点だ。眷属箱の蓋には、小さな穴が、三つから六つ、開けられている。なぜか。中に「生きた」御眷属様がいらっしゃるから、息ができるように。これは、神社の側の公式な説明ではない。神社が公文書として「狼が呼吸している」と書いているわけではない。しかし、参拝者や三峯講(みつみねこう)の人々の間では、この空気穴は「呼吸のため」と理解されてきた。長く三峯神社を担当した神職に取材した記事の中にも、神職自身が「そういうことになっている」と苦笑混じりに認めている記述がある。東京・中央区の出版社「グッドブックス」が三峯神社の協力を得て出版した『三峯神社 開運ビジュアルブック』を制作した編集者の一人は、御眷属拝借の取材中に複数の不思議な体験をしたことを書き残している。その中に、こんな話がある。眷属箱が、家の中で、夜に音を立てた、という。何かが箱の中で動いている、ような音だった、と。これらは、もちろん、すべて「気のせい」で説明できる。木箱の内部の温湿度変化で材が鳴ることはある。気圧の変化でも音は出る。ただ、興味深いのは、三峯神社の信仰の構造の中に、「神札が生きている」という前提が、しっかりと組み込まれているということだ。穴を開けるという物理的な装具の設計まで含めて、神札は「呼吸する存在」として扱われている。これは、御札一般の感覚とは、根本的に違う。

御眷属拝借の期間は、一年間である。一年が経つと、神札と眷属箱を持って、再び三峯神社に登る。神札を返納し、新しい神札を授かる。これを「お返しと、新たな拝借」と言う。返却の作法も決まっている。古い神札は風呂敷に包んで運ぶ。眷属箱はそのまま持参する。神社では、古い神札を境内の御仮屋(おかりや)に納め、お焚き上げで天に還す。御仮屋というのは、三峯神社の境内のもっとも奥、縁結びの木のさらに先にある、大口真神を祀る小さなお宮である。「遠宮(とおみや)」とも呼ばれる。お犬様は普段、深い山の中にいらっしゃるので、境内のここを「仮の宮」としてお祀りしている、という意味の名前である。御仮屋には、お犬様の像が並んでいる。狼の親が子を従えた像もある。雰囲気は、神社の他の場所とは違う。本殿前の華やかさはなく、ただ静かで、少し暗い、原始的な気配が満ちている。霊力の強い場所、と参拝者は口を揃える。

毎月十九日には、ここで「遠宮御焚上祭(とおみやおたきあげさい)」という祭典が行われる。お犬様への感謝と祈りを捧げる祭で、誰でも参列できる。供物として赤飯が捧げられる。ここに、もう一つの伝承がある。この日に供えた赤飯が、しばしば、消える、というのだ。供えてしばらくすると、皿の上の赤飯が、なくなっている。誰かが食べたのか、と神職は最初は不審に思ったらしい。しかし、御仮屋は人気のない奥まった場所で、誰かが盗んで食べるような場所ではない。動物が食べたとしても、皿の上の赤飯だけを綺麗に食べることは、ふつう、できない。それで、神社の側はこう解釈してきた。「これは、お犬様が召し上がっているのだ」と。奇妙な話だ。神様の使いである狼が、お供えの赤飯を、物理的に食べてなくなる、と言うのである。これも、もちろん、合理的に説明できる。鳥や小動物が食べたのかもしれない。風で飛ばされたのかもしれない。あるいは神職の誰かが片付けただけかもしれない。しかし、三峯神社の伝承の中では、これは「お犬様の食事」として語り継がれている。御眷属が、いま、ここで、ご飯を食べた、と解釈されてきた。

霧は狼の姿。赤飯はなくなる。眷属箱は穴が開いている。御眷属様という存在は、三峯神社では、抽象的な「神の使い」ではなく、霧として現れ、ご飯を食べ、箱の中で呼吸する、極めて物質的な存在として扱われている。これが、三峯神社の御眷属信仰の独自性である。

御眷属拝借の話を、もう一度、日光法印の時代に戻したい。一七二七年九月十三日の夜、彼が見た狼の群れの「神託」をもとに、彼は神札を作って配布し始めた。最初は秩父の周辺の村々に、猪鹿除けとして配ったのだろう。山里では、田畑を荒らす猪や鹿は深刻な問題だった。狼は、その猪鹿を捕食する存在として、農民に恩恵を与えていた。「狼=家畜の敵」というイメージは、近代以降のヨーロッパ由来の話で、日本の山里では、狼はむしろ「益獣(えきじゅう)」として認識されていた。その狼の力を、神札に封じて持ち帰れる、と日光法印は信者に説いた。これが、たちまち効いた。御眷属拝借の評判は、瞬く間に関東一円に広まった。

なぜ江戸の町人が、秩父の山中の神社の狼信仰に飛びついたのか。理由は明確である。火事である。江戸は、火事の都だった。世界史上類を見ないほど、火災が頻繁に起きた都市だった。明暦の大火(めいれきのたいか・一六五七年)、明和の大火(めいわのたいか・一七七二年)、文化の大火(ぶんかのたいか・一八〇六年)など、数千人〜数万人が犠牲になった大火災が、繰り返し起きた。木造の長屋がびっしりと建ち並ぶ江戸の町では、一軒の出火が一日で何千軒に広がった。そして、もう一つ、盗賊である。江戸時代の後期になると、武家屋敷や商家を狙う盗賊集団が頻繁に活動した。鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち)のような義賊から、組織的な強盗団まで、町の不安は絶えなかった。火事と盗賊。これが江戸の二大恐怖である。三峯神社の御眷属様は、この二つから家を守る、と言われていた。狼の鋭敏な感覚は、火災や侵入者をいち早く察知し、追い払う、と。これが、江戸の町人に決定的に刺さった。御眷属拝借は流行した。江戸の長屋の入り口、商家の門口、武家屋敷の塀 ─ 三峯神社の御札が、町中に貼られるようになった。そして、信徒たちは、自分たちで組織を作り始めた。

「講(こう)」というのは、同じ神仏を信仰する人々が作る団体のことである。江戸時代には、富士講、大山講、御嶽講(みたけこう)、三峯講など、関東一円で様々な講が組織された。三峯講のしくみは、こうだ。一つの村や町内、あるいは同じ職種の人々が、十人から数十人で講を作る。毎月、決まった日に集まって、講金を出し合う。集まった金で、毎年または数年に一度、代表を数名選んで、三峯神社まで参拝に行かせる。これを「代参(だいさん)」と呼ぶ。代参者は、皆を代表して三峯山に登り、御祈祷を受け、御眷属拝借の神札を授かって戻ってくる。戻ったら、講員一同が集まって「オコモリ」と呼ばれる会合を開き、神札を分配し、飲食を共にする。これが、三峯講の年中行事である。

東京の葛飾区にあった「東京本田講(ほんでんこう)」は、明治時代に始まり、最盛期には会員数千人を超えたという。全国でも最大級の三峯講である。今も活動を続けている。千葉県鎌ケ谷市の「初富三峯講(はつとみみつみねこう)」は、明治の屯田兵(とんでんへい)による開拓地から始まった講で、令和に入る頃まで活動していた。会員数は最盛期で三十名超。毎年一月のオコモリでくじ引きをして代参者を選び、四月六日に三峯神社へ参拝に行く、というスケジュールが決まっていた。これは令和元年(二〇一九年)に高齢化で講を閉じたが、講で使われていた歴史資料は鎌ケ谷市郷土資料館に寄贈されている。長野県の松本地区の「三峯講」は、地区の旅行を兼ねた登拝(とうはい)として始まり、コロナ禍で代参が郵送に切り替わったあとも、地区行事として続いている。葛飾、鎌ケ谷、松本。東京、千葉、長野。つまり三峯講は、江戸時代から令和に至るまで、関東・甲信越を中心に、村単位、町内単位、職場単位で、数百年にわたって組織され続けてきた、息の長い民間信仰のネットワークなのだ。その結節点に、三峯神社がある。

御眷属拝借という制度の不思議さを、もう一度確認しておきたい。一七二七年、一人の僧が夜の山中で見た狼の群れを、彼は「神の使いを貸し出してほしいというサイン」と解釈した。それから三百年。その解釈に基づいて作られた小さな神札の制度が、関東一円に広がり、今も毎月十日には御眷属拝借者大祭が行われ、毎月十九日には御仮屋で赤飯が供えられて、しばしば消える、と語り継がれ、眷属箱の蓋には今も三つから六つの穴が開いている。これは、考えれば考えるほど、奇妙な制度である。普通、宗教制度の中で「神霊そのものを物質的に貸し出す」という発想は、ほとんど例がない。お守りや御札は神霊の「象徴」「依代(よりしろ)」「縁の手段」として扱われるのが普通だ。御眷属拝借のように「神霊現物」を「期間限定でレンタル」する制度は、世界宗教史を見渡しても、極めて珍しい。そして、この制度を成立させたのは、一七二七年九月十三日の夜、日光法印が見たもの、そしてその夜の解釈である。彼が、もし、狼の群れに恐怖だけを感じて、祈祷で追い払っていたら、御眷属拝借は生まれなかった。彼が、もし、群れを単なる自然現象として片づけていたら、お犬様信仰はここまで広がらなかった。彼は、夜の境内に現れた狼たちを、神の使者として、両手を開いて受け止めた。そして、「これは、貸し出してほしいということだ」と読んだ。その一人の僧の読解が、関東一円の三百年の信仰の基礎になった。これが、三峯神社の最も三峯らしい現象である、と私は思う。

最後に、もう一度、夜の境内の話に戻る。享保十二年(一七二七年)九月十三日。山中から、多くの狼が現れて、境内を埋め尽くした。その「多くの狼」が、現実の動物としての狼だったのか、それとも別の何かだったのか、私たちには知る術がない。ただ、第1章で書いたことを、もう一度、思い出してほしい。三峯神社では、霧そのものが御眷属の姿だ、と古来から言い伝えられている。霧が出ているということは、お犬様が、いま、ここに、現れている、ということだ。一七二七年九月十三日の夜、三峰山に霧が出ていた可能性は、十分にある。秋の山は朝晩に霧が出やすい。「山中から多くの狼が現れて境内を埋め尽くした」という光景は、もしかしたら、夜の境内に流れ込んだ深い霧の中で、白い影が無数に蠢いているように見えた、ということだったかもしれない。あるいは、本物の狼の群れが、本当に、境内に集まったのかもしれない。当時の秩父の山中には、ニホンオオカミがまだ無数に生息していた。どちらにしても。日光法印は、その夜、お犬様の身体に、囲まれた。霧であろうと、生身の狼であろうと、それは同じ存在だった。三峯山においては、両者の区別は、本質的にない。彼は御眷属の中に、文字通り、立っていた。そして、彼は、両手を開いて、「これを、貸し出させてください」と頷いた。これが、御眷属拝借の、本当の始まりである。

第5章 — 境内を歩く — 三ツ鳥居・敷石の龍・御仮屋・奥宮

ここまで、三峯神社の歴史と御眷属拝借(ごけんぞくはいしゃく)という独自の信仰を見てきた。この章では、いったん時間の話を離れて、現代の参拝者が実際に三峯神社を歩いたときに、目の前に現れるものを、順に見ていきたい。三ツ鳥居(みつとりい)から始まり、随身門(ずいしんもん)、拝殿、敷石の龍、御神木、御仮屋(おかりや)、そして奥宮(おくみや)へ。ただし、これは観光ガイドではない。それぞれの場所には、不思議な現象が、伝承として、あるいは現代の参拝者の体験として、貼り付いている。物の説明と、現象の説明が、織り合わせになる。

駐車場から参道を歩いて坂を登ると、最初に現れるのが、白い大きな鳥居である。これが、三峯神社の有名な三ツ鳥居である。普通の神社の鳥居は、二本の柱と笠木(かさぎ)、貫(ぬき)からなる、シンプルな構造をしている。明神鳥居(みょうじんとりい)、神明鳥居(しんめいとりい)、両部鳥居(りょうぶとりい)など、いくつかの形式はあるが、いずれも基本的には「一つの鳥居」である。三峯神社の鳥居は違う。明神型の鳥居が、横一列に三つ、組み合わさっている。中央に大きな鳥居が一基、その左右の柱に寄り添うように、やや小さな鳥居が一基ずつ。合計三つの鳥居が一体になっている、極めて珍しい形である。日本中でこの形式の三ツ鳥居がある神社は、十数か所しかない。

その中で最も有名なのが、奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)の三ツ鳥居である。日本最古の神社の一つで、御神体は山そのもの(三輪山・みわやま)。三ツ鳥居は山に向かう拝殿の奥、禁足地(きんそくち)との境界に立っている。神官さえ普段は近寄れない神聖な場所にあり、一般の参拝者は直接見ることができない。大神神社の三ツ鳥居は、古文書に「古来一社の神秘なり」と記されていて、起源も由来も不明である、と公式に書かれている。神社の側がそう書く、というのは、相当のことだ。普通、起源不明の物体について、神社の公式が「神秘である」と書くのは、その物が制度や思想で説明できない、本当に「来歴のわからないもの」であることを意味する。そして、三峯神社の三ツ鳥居は、大神神社のそれとほぼ同じ形をしている。これは、大きな謎である。三輪山を御神体とする大神神社と、お犬様信仰の三峯神社は、信仰の体系がまったく違う。距離的にも、奈良と秩父では数百キロ離れている。それなのに、両者の境内入り口に、ほぼ同じ「三ツ鳥居」が立っている。研究者の中には、これも修験道のつながりで説明する者がいる。前章までに見たとおり、三峯山は熊野修験(くまのしゅげん)の流れを汲む山で、雲取山や妙法ヶ岳という名前自体が紀伊半島の地名と一致している。修験者たちが、熊野や三輪の信仰を、関東の奥にまで運んできた、その痕跡の一つが、この三ツ鳥居の形である、と。ただし、これは推測にすぎない。三峯神社の三ツ鳥居がいつ建てられたのか、なぜこの形式を選んだのか、確定した記録は残っていない。

参拝者は、この三ツ鳥居を、中央の門だけくぐればよい。両脇の小さな鳥居は、結界の意味合いを持ち、人が通る場所ではない。そして、ここで「鳥居をくぐった瞬間に音が消えた」という体験談を語る参拝者が、たくさんいる。これは、ネット上の口コミから、Yahoo知恵袋の書き込み、現役の参拝記の中まで、繰り返し出てくる証言である。「三ツ鳥居をくぐった瞬間、それまで聞こえていた周りの音が一斉に消えて、静寂に包まれた」「気圧が変わったような感覚があった」「空気の質が違うのがわかった」。もちろん、それは気のせいだ、と片づけることはできる。山中なので風向きや遮蔽物で音が変わることはあるし、心理的な期待が知覚を変えることもある。ただ、同じ場所で同じ体験を、複数の人が、別々の時期に、繰り返し語っている、という事実は、それだけで一つの現象になる。三ツ鳥居は、参拝者にとって、明らかに「ここから先は違う場所だ」と感じさせる結界として機能している。

三ツ鳥居をくぐると、両脇に狼の像が二体、立っている。普通の神社で、鳥居の脇に立つのは「狛犬(こまいぬ)」である。狛犬は、もともとはライオン(獅子)の像が中国経由で日本に入ってきて、神社の守護獣として定着したものだ。しかし三峯神社では、狛犬ではなく、狼が、その役を担う。これが、三峯神社の境内のあちこちに繰り返し現れる、最も三峯らしい光景である。本殿前にも、御仮屋にも、奥宮への登山道にも、境内の摂末社(せつまつしゃ)のそれぞれにも、合計で何十体もの狼の像が、参拝者を見ている。狼の像は、犬とは明らかに違う。耳が立っていて、口が長く、肋骨が浮き出ていて、姿勢が低い。動物としてのリアリティが、犬とは違うレベルで彫り込まれている。江戸時代から明治にかけて、地元の石工(いしく)たちが、実際に山中にいたニホンオオカミを観察して刻んだ像も少なくない、と言われる。境内で最も古いお犬様像は、文化七年(一八一〇年)に奉納されたもので、拝殿に上る階段の左右に立っている。

三ツ鳥居から参道を進むと、右手の眼下に、朱色の堂々とした門が現れる。随身門である。寛政四年(一七九二年)の建立、と縁起にある。約二百三十年前の建物だ。明治の神仏分離より前は、この門は「仁王門(におうもん)」と呼ばれていた。中には仁王像(におうぞう/金剛力士像)が祀られていた。仏教の寺院の門として作られたものである。神仏分離で、寺院としての三峯山が廃止されたとき、この仁王門も問題になった。仏教の門を神社が持つわけにはいかない、という理屈である。ここで、神社側は、賢明な決断をした。仁王像だけを取り外し、埼玉県鴻巣市(こうのすし)の勝願寺(しょうがんじ)に移した。そして門自体は、名前を「随身門」に変えて、そのまま残した。「随身(ずいしん)」というのは、神道で神を護衛する人形のこと。仏教の仁王と機能は似ているので、像を入れ替えるという形で、門を救った。今、随身門の中には何もない。空っぽの門が、ただ立っている。しかし、この門の天井を見上げると、そこに龍の顔が描かれている。知る人ぞ知る、と言われる。三峯神社の参拝者の多くは、この龍の存在を知らずに門を素通りしてしまう。後で書く「敷石の龍」は有名になりすぎたが、随身門の龍は、今もひっそりと天井で参拝者を見下ろしている。

随身門をくぐって、さらに参道を進む。鬱蒼(うっそう)とした杉林に囲まれて、空気の密度が変わるのを感じる。そして、青銅鳥居をくぐった先に、見えてくるのが御神木である。二本の巨大な杉の木。重忠杉(しげただすぎ)である。第2章で書いた、鎌倉時代の武将・畠山重忠(はたけやましげただ)が手植えしたと伝えられる杉である。樹齢約八百年、幹周約七メートル、樹高約四十六メートル。重忠が没したのは一二〇五年だから、本当に手植えなら、計算は合う。この御神木の特徴は、参拝者が直接触れることができるということだ。普通の神社の御神木は、柵で囲まれていて、人は近寄れない。木に過剰なストレスを与えない、というのが現代の神社管理の基本である。しかし、重忠杉は違う。参拝者は、二本の杉の幹に、両手のひらを当てることができる。コロナ禍以降、手のひらをかざすスタイルに変更されたが、それでも至近距離で木と向き合うことができる。この御神木に手を当てると、何かが流れ込んでくる、と感じる人がいる。「ツリーパワーをいただいた」「体が温かくなった」「気が通った」。スピリチュアル系の表現を抜きにしても、八百年の生命と接することの感覚は、確かにある。

御神木の先に、拝殿がある。寛政十二年(一八〇〇年)建立。総漆塗(そううるしぬり)の権現造り(ごんげんづくり)で、極彩色の彫刻が内外を飾る。天井には三峯山の草花が描かれている。日光東照宮を思い出させる、と言う人も多い。拝殿で参拝を済ませて、左手に目を落とすと、石畳がある。ここに、敷石の龍がいる。平成二十四年(二〇一二年)、辰年(たつどし)のことである。三峯神社の中山宮司が、参道の石畳をきちんと磨くよう指示した。それまでも石畳は時々掃かれていたが、特別な意味を持っていなかった。水をかけて、ブラシで磨いたところ、石畳の一枚に、何かが浮かび上がってきた。赤い目を持つ、龍の姿だった。口が長く、ひげが生えていて、流線形の体に鱗のような模様がある。明らかに龍の形をしている。そして、目だけが、赤い。辰年に、龍が出現した。この符合は、神社の側を含めて、誰もが「これは何かの徴である」と受け取った。さらに、右側にも赤い点が幾つかあり、神社の解釈ではこれは「子供の龍の目」だという。親龍と子龍が、同じ石畳の中に、現れているのだ。

今、この場所には、柄杓(ひしゃく)と桶が置かれている。参拝者は誰でも、水をかけて龍を浮かび上がらせ、拝むことができる。この龍の写真を撮ってスマートフォンの待ち受けにすると、運気が上がる、という噂が広まった。今では多くの参拝者が、この龍の写真を保存して持ち帰る。「鰯(いわし)の頭も信心から」と片づける人もいる。確かに、これは自然の岩の模様であり、たまたま龍の形に見えただけかもしれない。地質学的には、石灰岩や砂岩の中に、酸化鉄や有機物の沈着で、生物の輪郭に似た模様が現れることはある。ただ、この龍が現れた場所が、三峯神社の拝殿の真横であり、その年が辰年であり、神社の歴史の中で偶然「磨いてみよう」という指示が出されたタイミングであった、という条件が重なったことは、合理的に説明しきれない。そして、三峯神社は、もともと「龍洞(りゅうどう)」と呼ばれる深い井戸が三峰山の上にある、龍神信仰の山でもある。秩父地方は、富士山から東京湾へ流れる気の脈 ─「進龍(しんりゅう)」と呼ばれる龍脈(りゅうみゃく) ─ の上に位置するとも言われる。龍は、もともとこの山にいた。それが、二〇一二年の辰年に、石畳の上に姿を見せた。そう解釈する方が、三峯神社の文脈の中では、自然である。ちなみに、随身門の天井に描かれている龍の顔と、この敷石の龍は、別物である。随身門の方は人が描いた絵画。敷石の方は石の模様が自然に龍の形になったもの。前者は意図的な装飾、後者は突如としての出現。それでも、同じ三峯山の境内で、両方が「龍」として認識されている。

拝殿から右手に進むと、二十以上の摂末社が並んでいる。祖霊社(それいしゃ)、国常立神社(くにのとこたちじんじゃ)、日本武神社(やまとたけるじんじゃ)、伊勢神宮、月讀神社(つきよみじんじゃ)、猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)、塞神社(さいのかみじんじゃ)、鎮火神社(ちんかじんじゃ)、厳島神社(いつくしまじんじゃ)、杵築神社(きづきじんじゃ)、琴平神社(ことひらじんじゃ)、屋船神社(やふねじんじゃ)、稲荷神社、浅間神社(せんげんじんじゃ)、菅原神社、諏訪神社、金鑽神社(かなさなじんじゃ)、安房神社(あわじんじゃ)、御井神社(みいじんじゃ) ─ 十六の小祠(しょうし)に二十八柱の神々が、ずらりと並んでいる。日本の神社の総覧のようである。三峯神社の境内は、本殿だけではない。これらの摂末社全体が、一つの宗教的な宇宙を構成している。山伏たちが、修験道の修行の一環として、関東一円・日本各地の主要な神々を、ここに勧請(かんじょう)してきた結果である。勧請とは、ある神社に祀られている神様の分身(分霊・わけみたま)を、別の場所に新しく招いて祀ることです。

神道では、神様は分けても元が減らない、という考え方があります。たとえば伊勢神宮の天照大神を、地方の神社が「うちにも来てください」とお招きして、その地に天照大神を祀る ── これが勧請です。本家から「のれん分け」してもらうイメージが近いです。

その先に、奥宮遥拝殿(おくみやようはいでん)がある。ここは、奥宮(妙法ヶ岳の山頂)に登れない人のための「拝む場所」である。神社の本殿から東南東を見ると、奥宮の祠が見える方向に、遥拝殿が向いている。ここから手を合わせれば、奥宮を直接拝んだことになる、というしくみだ。奥宮遥拝殿からは、奥秩父の山々が幾重にも連なる絶景が見える。雲海が出ているときは、雲の海の上に山頂だけが浮かんでいる、まさに「天空のパワースポット」の名にふさわしい景色になる。

そして、境内の奥に進むと、御仮屋、別名遠宮(とおみや)がある。第4章で触れた、御眷属拝借の核心の場所である。縁結びの木(ヒノキとモミが寄り添う二本の樹)を通り過ぎて、さらに山道を進むと、黄土色に近い渋い色合いの鳥居が見えてくる。それが、御仮屋の入り口である。御仮屋は、文字通り「仮の宮」である。三峯神社の御眷属である大口真神(おおぐちのまかみ/お犬様)は、本来、深い山の中に住んでいらっしゃる。だから、境内のこの場所は、お犬様が「人界に降りてくるときに、一時的に滞在する場所」として設けられている。本拠地は、もっと奥の山中である。社の両脇には、お犬様の像が立つ。子供を従えた親狼の像もある。本殿の前の華やかさはなく、ただ静かで、薄暗い空気が満ちている。参拝者の多くが、ここで「雰囲気が違う」と言う。本殿前は観光客で賑わっていても、御仮屋まで足を伸ばす人は少ない。だから、静寂の中で、参拝することができる。ある参拝記には、こんな体験が書かれている。御仮屋の前で手を合わせていたとき、突然、強い風が吹いた。境内の他のどこにも風はなかったのに、御仮屋の前だけ、葉が舞うほどの風が、瞬間的に吹いた。第4章で書いた、毎月十九日の「遠宮御焚上祭(とおみやおたきあげさい)」が行われるのも、この場所である。お犬様への赤飯の供物が、しばしば消える、と語り継がれている場所である。御仮屋に立つと、ここから三峰山の奥のどこか、見えないところに本当のお犬様がいる、ということが、肌で感じられる。仮の宮、という名前が、そのことを正直に告げている。

そして、最も奥にあるのが、奥宮である。三峯神社の本殿から、東南東に約二・五キロ。妙法ヶ岳の山頂、標高一三二九メートルに、小さな祠が立っている。奥宮までは、登山道を片道約一時間。三峯神社の境内を抜け、奥宮一の鳥居(両部鳥居)をくぐり、千年の森と呼ばれる原生林を抜け、独標(どくひょう/一三二九メートル)を越え、最後の鎖場(くさりば)を登り切ったところに、祠がある。祠の隣には、たくさんのお犬様の像が並んでいる。古い石碑もある。秩父宮登山記念碑も立っている。秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)が大正末期にこの山に登った記念碑である。秩父宮の登山がきっかけで、三峯神社の信徒が全国的に増えた、というのは第3章で書いたとおりである。奥宮からの眺望は、抜群である。奥秩父の山々が、東西南北、すべての方角に広がっている。

そして、ここに登ると、「何かを感じる」と多くの参拝者が言う。Yahoo知恵袋には、こんな投稿がある。「夫が三峯神社の奥宮付近で、山の神様を連れてきたようです」。霊感のある親族が、家に来た夫の様子を見て、それを指摘した、という話である。「土地柄、獣の霊が多い土地らしいので。神様が二体いるのは良くないと、母に言われていて。『旦那より力のある人に頼んで、山の神様を連れて帰りなさい』そうよく言われます」。事実かどうかは、わからない。ただ、こういう話が、現実に投稿されている。そして、こういう話が投稿される場所として、奥宮が選ばれている。奥宮は、三峯神社の中で、最も境界が薄い場所である。本殿前の境内ですら、参拝者は「気配」を感じる。御仮屋では、それがもう一段濃くなる。奥宮では、もはや、何かを連れて帰ってきてしまう可能性さえある、と語られる。

ここまで、三峯神社の境内を、駐車場から奥宮まで、駆け足で歩いてきた。三ツ鳥居で音が消え、随身門の天井に龍が描かれ、御神木で気が流れ、敷石の龍が二〇一二年に現れ、御仮屋で風が吹き、奥宮で何かを連れて帰ってきてしまう。それぞれの場所には、それぞれの現象が、貼り付いている。そして、それぞれの現象は、長い時間の中で、繰り返し参拝者によって報告されてきた。一つ一つは、「気のせい」で説明できる。全部を一度に説明する、合理的な枠組みは、ない。そして、三峯神社という場所の本当の姿は、その「全部を一度に」体験するときに、初めて現れる。霧が出て、鳥居で音が消えて、御神木が温かくて、龍が浮き上がっていて、御仮屋で風が吹いて、奥宮で何かが寄ってくる。これらが、一日のうちに、同じ参拝の中で、連続して起きる。そういう日が、ある。参拝者は、それを体験して帰る。そして、家に帰ってから、ようやく、自分が何を体験したのかを、考え始める。これが、三峯神社という場所の歩き方である。

第6章 — 狼は消えたのか — 1905年の最後、1996年の写真

ここまで、三峯神社という山が、狼を神の使いとして祀ってきた歴史を見てきた。御眷属(ごけんぞく)、お犬様、大口真神(おおぐちのまかみ)。それらはすべて、狼を指す言葉である。

しかし、ここで、避けて通れない事実がある。

その狼 ── ニホンオオカミ ── は、もう、いない。

公式には、絶滅した。

この章では、ニホンオオカミがどのように消えたのか、そして、本当に消えたのか、という話をしたい。三峯神社の信仰の根幹にいる存在が、現実の世界から姿を消し、しかし完全には消えきっていないかもしれない、という、奇妙な宙吊りの状態について。

まず、絶滅の事実から確認する。

ニホンオオカミの、確実な最後の生息情報は、明治三十八年(一九〇五年)一月二十三日である。場所は、奈良県吉野郡小川村鷲家口(わしかぐち)。現在の東吉野村(ひがしよしのむら)である。

その日、一頭の若いオスのニホンオオカミが、村にもたらされた。数日前に罠にかかっていたところを撲殺された、という。当時、その村には、アメリカ人の動物学者マルコム・アンダーソンが滞在していた。ロンドン動物学会とロンドン自然史博物館(大英博物館)が、東アジアの哺乳動物を研究するために派遣した調査隊の一員だった。地元の猟師が、その動物学者が動物の標本を集めていると知って、捕獲したニホンオオカミを宿屋に持ち込んだのである。

交渉の末、金八円五十銭で、売買が成立した。

腐敗が進んでいたため、毛皮と頭骨だけが、海を渡った。

その毛皮と頭骨は、今もロンドン自然史博物館に保管されている。これが、記録に残る、最後のニホンオオカミである。一匹の若いオスが、奈良の山中で罠にかかり、撲殺され、八円五十銭でアメリカ人に売られ、毛皮と骨になってロンドンに渡った。それが、この種の、公式な最後だった。

なぜ、ニホンオオカミは絶滅したのか。

理由は、一つではない。

最も大きな要因とされているのが、狂犬病である。江戸時代後期から明治にかけて、日本に狂犬病が広がった。狼は群れで行動し、犬とも接触する。狂犬病に感染した狼は、攻撃的になり、人や家畜を襲うようになった。それまで「益獣(えきじゅう)」 ── 猪や鹿を食べて田畑を守ってくれる、ありがたい存在 ── として敬われていた狼が、突然、人を襲う恐ろしい獣に変わった。

人間は、狼を駆除し始めた。

加えて、明治の近代化が、狼の生息地を奪った。森林が伐採され、山が開発され、狼の獲物である鹿や猪の生息環境も変わった。新政府は、家畜を守るために、狼の駆除を奨励した。毒餌が撒かれ、銃で撃たれ、罠が仕掛けられた。

狂犬病、生息地の喪失、そして組織的な駆除。

これらが重なって、わずか数十年のうちに、日本中の山にあれほどいた狼が、ほぼ完全に姿を消した。

そして、皮肉なことに、ニホンオオカミが急速に減っていったまさにその時期 ── 明治の前半 ── は、三峯神社のお犬様信仰が、最も盛んだった時期と重なっている。

人々は、三峯山に登り、御眷属拝借(ごけんぞくはいしゃく)の神札を授かり、お犬様の加護を求めていた。火事から、盗賊から、家を守ってくれる狼を、家に迎え入れていた。

その一方で、現実の狼は、毒餌と銃と罠で、殺され続けていた。

神として祀られる狼と、害獣として駆除される狼。

同じ動物が、同じ時代に、一方では神札の中に「生きた御眷属」として迎え入れられ、もう一方では山の中で次々と殺されていった。

これは、奇妙なねじれである。

人々がお犬様の神札を最もありがたがっていたとき、その神札の「本体」であるはずの現実の狼は、絶滅に向かって突き進んでいた。神札の中の狼は増え続け、山の中の狼は減り続けた。

そして、一九〇五年。現実の狼は、いなくなった。

しかし、三峯神社のお犬様は、いなくならなかった。

神札は発行され続けた。御眷属拝借は続いた。毎月十九日の遠宮御焚上祭(とおみやおたきあげさい)では、相変わらず赤飯が供えられ、しばしば消えた。霧は出続け、それはお犬様の姿だと言われ続けた。

現実の狼が絶滅した後も、三峯山のお犬様は、何ひとつ変わらずに、そこにいた。

これは、考えてみると、不思議なことである。

普通、信仰の対象が現実から消えれば、その信仰は弱まるか、形を変えるはずだ。しかし、三峯神社のお犬様信仰は、現実のニホンオオカミの絶滅によって、まったく揺らがなかった。

なぜか。

おそらく、三峯神社のお犬様は、はじめから、生物としてのニホンオオカミとは、別の存在だったからだ。

第1章で書いたように、三峯山では、霧そのものがお犬様の姿である。お犬様は、生身の獣であると同時に、霧であり、気配であり、神霊である。だから、生物としてのニホンオオカミが絶滅しても、霧は出続け、気配は残り、お犬様は山にいた。

絶滅したのは「動物」であって、「神」ではなかった。

そう考えれば、辻褄(つじつま)は合う。

しかし、話は、ここで終わらない。

なぜなら、絶滅したはずのニホンオオカミを「見た」という人が、その後も、絶えなかったからである。

一九〇五年に最後の一頭が捕獲された後も、「ニホンオオカミを見た」「遠吠えを聞いた」という証言は、各地で繰り返し報告されてきた。特に、奥秩父の山域では、その種の証言が多い。

そして、一九九六年。

決定的な出来事が起きた。

その年の十月十四日、午後四時頃。小雨の降る、埼玉県秩父地方の林道。八木博(やぎひろし)という人物が、車を運転していた。

すると、ガードレールの向こうから、一匹のイヌ科の動物が現れた。

体長は八十から九十センチ。八木氏は、その動物と、目が合った。

「目と目が合い、この動物がニホンオオカミだと確信した」と、後に彼は語っている。

彼は、車を停めて、カメラを取り出した。動物は、車の周囲を、うろうろと歩き回った。逃げなかった。八木氏は、震える手で、シャッターを押し続けた。

苦労の末、十九枚の写真を撮影した。

絶滅したはずのニホンオオカミと思しき動物の姿を、十九枚。

八木氏は、その写真を、師と仰ぐ人物に送った。国立科学博物館の元動物研究部長・今泉吉典(いまいずみよしのり)博士である。ニホンオオカミ研究の、日本における第一人者だった。

今泉博士は、その写真を、オランダのライデンにあるニホンオオカミのタイプ標本(=種の基準となる標本)と、詳細に比較検討した。耳の形。前脚の短さ。体の比率。

そして、十二の根拠を挙げて、こう所見を述べた。

「ニホンオオカミの可能性がある貴重な動物であることだけは確かです」。

この動物は、「秩父野犬(ちちぶのいぬ)」と仮称され、全国紙やテレビで紹介された。

絶滅したはずのニホンオオカミが、秩父の山に、生きているかもしれない。

このニュースは、大きな反響を呼んだ。

もちろん、批判もあった。「イヌにしか見えない」「写真だけでは判断できない」「犬と狼の交雑種だろう」。学術的に「ニホンオオカミの生存」が認められたわけではない。今泉博士の所見も、あくまで「可能性がある」という慎重な表現にとどまっている。

しかし、ここで注目したいのは、学術的な真偽ではない。

撮影された場所が、秩父だった、ということである。

三峯神社のある、奥秩父の山域。お犬様の山域。御眷属が今も棲むと信じられてきた、あの山。

そこで、絶滅したはずの狼が、人の前に姿を現し、目を合わせ、逃げずに、十九枚の写真に収まった。

八木氏は、後にこう語っている。「まるで神様が遣わしたように、私の前に姿を現してくれた」。

この言葉は、重要だ。

彼は、研究者として、何十年もニホンオオカミを探し続けてきた人物である。その彼が、決定的な遭遇を、「神様が遣わした」と表現した。秩父の山で狼に出会う、ということは、彼にとって、単なる生物学的な発見ではなく、何か神的なものとの遭遇だった。

第1章で、ヤマトタケルの前に白い狼が「忽然と現れた」と書いた。 第4章で、日光法印の前に狼の群れが現れて境内を埋め尽くした、と書いた。

そして、一九九六年、八木博の前に、一匹の狼が「神様が遣わしたように」現れた。

二千年の時を隔てて、同じ秩父の山で、人の前に、狼が、現れ続けている。

八木博氏は、その後、活動を本格化させた。彼の元には、写真の公表後、二百件以上の目撃・体験談が寄せられた。二〇一〇年には「NPO法人ニホンオオカミを探す会」を設立し、会員とともに、奥秩父の山域を中心に、八十から九十台の赤外線カメラを仕掛けて、調査を続けている。毎週のように、山に入っている。

そして、二〇一八年の秋。

山中に仕掛けたカメラの音声データの中に、ある咆哮(ほうこう)が記録されていた。

八木氏は、その音声を、日本音響研究所に持ち込んで、分析を依頼した。

結果は、こうだった。シンリンオオカミ(=北米やユーラシアにいるオオカミ)の咆哮のサンプルに非常に近く、ただしやや低音。小型のオオカミの可能性が高い。

ニホンオオカミは、世界のオオカミの中で、最も小型の亜種だったとされる。

つまり、奥秩父の山の中で録音された咆哮は、「小型のオオカミ」のものである可能性が、音響分析によって示された、ということになる。

これも、もちろん、決定的な証拠ではない。犬の声かもしれない。他の動物かもしれない。録音の状態の問題かもしれない。

しかし、事実として、こういうことが起きている。

絶滅したはずのニホンオオカミを、半世紀以上、奥秩父の山で探し続けている人がいる。一九九六年に、秩父の林道で、それらしき動物を十九枚撮影した。研究の権威が、「可能性がある」と所見を出した。二百件以上の目撃談が集まった。二〇一八年には、小型オオカミのものらしき咆哮が録音された。

これらすべてが、奥秩父 ── 三峯神社のある山域 ── を中心に、起きている。

ここで、私たちは、奇妙な円環の前に立つ。

一九〇五年、ニホンオオカミは公式に絶滅した。生物としての狼は、いなくなった。

しかし、三峯神社のお犬様は、絶滅しなかった。霧として、気配として、神として、山にい続けた。

そして、絶滅から九十年あまりが過ぎた一九九六年、その同じ山域で、絶滅したはずの狼が、再び人の前に現れた。

これを、どう考えればいいのか。

合理的に言えば、こうなる。秩父の山には、犬と狼の交雑種か、野生化した犬か、あるいはごく少数生き残ったニホンオオカミの子孫が、今も生息しているのかもしれない。それが、時々、人の前に姿を現す。それだけのことだ。

しかし、三峯神社の文脈の中で言えば、こうも言える。

お犬様は、はじめから絶滅などしていない。生物としてのニホンオオカミが減っても、絶えても、お犬様は山にい続けた。そして、今もなお、山を歩く者の前に、時々、姿を現す。一九九六年の秩父野犬も、その「現れ」の一つだった。八木博氏が「神様が遣わした」と感じたのは、正しかった。

どちらが本当か、私には決められない。

ただ、一つだけ、確かなことがある。

奥秩父の山では、二千年前から今日まで、人の前に、狼が、現れ続けている。

ヤマトタケルの前に。日光法印の前に。そして、八木博の前に。

霧の中から、ガードレールの向こうから、夜の境内から。

その狼が、生物なのか、神なのか、幻なのか ── その問いに答えを出すことを、この山は、ずっと、拒み続けている。

そして、その答えの出なさこそが、三峯神社という場所の、核心なのである。

第7章 — 霧、赤飯、空気穴 — 物理が抜ける場所

ここまで、三峯神社の歴史と信仰と、境内の現象を見てきた。

この章では、いったん立ち止まって、これまで出てきた三峯神社の不思議な現象を、一つの視点から並べ直してみたい。

その視点とは、こうだ。

三峯神社では、しばしば、物理が抜ける。

物理が抜ける、というのは、私の造語である。意味はこうだ。普段、私たちが当たり前だと思っている物理的な法則 ── ものはそこにあり続ける、音は鳴り続ける、供えたものは消えない、空気は通る ── そうした「当たり前」が、三峯神社では、ときどき、すっと抜ける。

一つずつ、振り返ってみよう。

まず、霧である。

第1章で書いたとおり、三峯神社では、霧そのものがお犬様の姿だ、とされている。霧が出ているということは、御眷属(ごけんぞく)が、いま、ここに、現れている、ということだ。

気象的に言えば、三峰山は標高が高く、周囲を二千メートル級の山に囲まれた窪地のような位置にあるため、霧が発生しやすい。これは、科学で説明がつく。

しかし、三峯神社の参拝者がよく語るのは、「拝殿で参拝を済ませた、まさにその瞬間に、急に深い霧が境内を覆った」というような、タイミングの一致である。晴れていたのに、お参りが終わった途端、白い壁に包まれる。あるいは、ご祈祷(きとう)の最中に、外が一変している。

霧が出ること自体は、物理現象だ。しかし、その霧が、参拝の節目に、まるで「応えるように」出る ── このタイミングの一致は、気象では説明しにくい。

ここで、視界という「当たり前」が、抜ける。

さっきまで見えていた山が、社殿が、鳥居が、見えなくなる。世界の輪郭が、白く溶ける。自分が今どこにいるのか、急に頼りなくなる。

これが、三峯神社で最もよく起きる「物理が抜ける」現象である。

次に、音である。

第5章で書いた、三ツ鳥居(みつとりい)をくぐった瞬間に「音が消えた」という証言。これも、繰り返し、複数の参拝者が語っている。それまで聞こえていた周囲の物音 ── 風、人声、鳥、葉ずれ ── が、鳥居をくぐった瞬間、一斉に消えて、静寂(せいじゃく)に包まれる。

音が鳴り続ける、という「当たり前」が、ここで抜ける。

物理的には、鳥居をくぐることで、風の通り道が変わったり、地形の関係で音の反響が変わったりすることは、あり得る。心理的な期待が、知覚を変えることもある。

しかし、「鳥居をくぐる」という、まさにその瞬間に、音が消える、というタイミングの正確さは、やはり、ただの偶然とは思いにくい。

そして、赤飯である。

第4章で書いた、毎月十九日の遠宮御焚上祭(とおみやおたきあげさい)で、御仮屋(おかりや)に供えた赤飯が、しばしば消える、という伝承。

これは、最も露骨に「物理が抜ける」現象である。

ものはそこにあり続ける、という、最も基本的な物理法則 ── これが、抜ける。皿の上に確かに置いた赤飯が、しばらくすると、なくなっている。神社の側は、これを「お犬様が召し上がった」と解釈する。

もちろん、鳥や小動物が食べたのかもしれない。風で飛んだのかもしれない。誰かが片付けたのかもしれない。

しかし、現象としては、「供えたものが、消える」。物質が、その場から、抜ける。

そして、空気穴である。

これは、現象というより、装置である。御眷属拝借(ごけんぞくはいしゃく)の眷属箱(けんぞくばこ)の蓋に開いている、三つから六つの小さな穴。中に「生きた」御眷属がいらっしゃるから、息ができるように、と説明される穴。

これは、信仰の側が、あらかじめ「物理が抜ける」ことを、装置として組み込んでいる例である。

普通、神札はただの紙や木である。呼吸などしない。しかし、三峯神社の眷属箱は、「神札が呼吸している」という前提で、設計されている。物質(神札)と、生命(呼吸する狼)の境界が、装置のレベルで、抜けている。

霧で、視界が抜ける。 鳥居で、音が抜ける。 御仮屋で、赤飯(物質)が抜ける。 眷属箱で、物質と生命の境界が抜ける。

これらを並べてみると、三峯神社という場所の、一つの性質が、浮かび上がってくる。

ここでは、「こちら側」と「向こう側」を隔てている膜が、薄い。

普段、私たちの生きている世界は、しっかりとした物理法則で、できている。ものは消えないし、空気は通らないし、視界は急に閉じたりしない。その「しっかりした世界」のおかげで、私たちは安心して暮らしている。

しかし、三峯神社では、その「しっかりした世界」が、ところどころ、薄くなっている。

霧が出て、視界という膜が薄くなる。 鳥居で、音という膜が薄くなる。 赤飯が消えて、物質という膜が薄くなる。 眷属箱で、生命と物質の膜が薄くなる。

そして、膜が薄くなった場所では、「向こう側」のものが、染み出してくる。

御眷属が、霧として現れる。 何かの気配が、静寂の中に立つ。 お犬様が、赤飯を、召し上がる。 生きた狼が、箱の中で、呼吸する。

これが、三峯神社という場所の、構造である。

序章で、私はこう書いた。三峯山は、現実の手触りが、少し頼りなくなる場所である、と。

その「頼りなくなる」を、もう少し具体的に言えば、こうなる。

三峯山では、世界を成り立たせている物理的な「当たり前」が、ところどころ、抜ける。そして、抜けた穴から、普段は見えない「向こう側」が、こちらに、顔を出す。

霧、音、赤飯、空気穴 ── これらは、すべて、その「穴」である。

ここで、一つ、考えておきたいことがある。

なぜ、三峯山では、こういうことが起きるのか。

科学的に言えば、これらの現象は、それぞれ別個の、たまたまの偶然である。霧は気象、音は地形、赤飯は動物、空気穴は信仰の作法。互いに関係はない。それを「物理が抜ける」という一つの言葉でまとめるのは、人間の側が、勝手にパターンを見出しているだけだ ── そう言うことは、できる。

しかし、三峯神社の側に立てば、答えは、もっとシンプルである。

ここは、お犬様の山だからだ。

お犬様 ── 大口真神(おおぐちのまかみ) ── は、生身の獣であると同時に、霧であり、気配であり、神霊である。生命と物質と自然現象の境界を、自由に行き来する存在である。

そういう存在が「いる」場所では、生命と物質と自然現象の境界が、薄くなるのは、当然のことだ。お犬様は、その境界そのものを、身体としている。

だから、お犬様の山では、霧が狼になり、狼が霧になり、赤飯が消え、神札が呼吸する。

それは、バラバラの偶然ではなく、「境界を行き来する存在が、そこにいる」ことの、一貫した現れなのである。

ここまで来て、私たちは、ある予感に、たどり着く。

もし、三峯山が、本当に「物理が抜ける場所」であるなら ── もし、ここで、こちら側と向こう側の膜が、本当に薄いのなら ──

向こう側から、こちら側へ、染み出してくるものは、霧や、狼や、消える赤飯だけ、とは限らないのではないか。

膜が薄い場所には、もっと別の、もっと奇妙なものも、出てくるのではないか。

実は、それを見た、という人たちが、いる。

三峯神社の境内ではない。その周りに広がる、お犬様の山域 ── 奥秩父の山と、その麓で。

彼らが見たものは、霧でも、狼でもなかった。

次の章で、その話をする。

第8章 — 山の上で人が見たもの

昭和五十六年(一九八一年)八月十六日。日曜日の、早朝だった。

埼玉県入間郡毛呂山町箕和田(みのわだ)。秩父山地の東の麓に広がる、静かな田園地帯である。

午前六時頃。一人の農家の男性が、草刈りのために、家のすぐ脇の水田に向かった。当時、五十五歳。夏の朝の、いつもの仕事だった。

彼は、水田のあぜ道に腰を下ろし、鎌を研ぎ始めた。周りには、誰もいない。蝉が鳴いていたかもしれない。朝靄(あさもや)が、田の上に薄く残っていたかもしれない。なんということのない、夏の朝である。

ひとしきり鎌を研いで、彼は、立ち上がった。

そのとき。

道路をはさんだ前方の水田の、真上。十メートルほどの高さに、それは、浮かんでいた。

銀色の、お碗を伏せたような形。半球型。大きさは、直径四メートルから十メートルほど。底の面は、網目のような構造をしていた。そして、それは、音もなく、ゆっくりと、自転していた。

彼は、それを、見つめた。

それも、彼を、見ていたのかもしれない。

物体は、その場に、留まっていた。逃げもせず、近づきもせず、ただ、十メートルの高さに、浮いていた。一分や二分ではない。

約十五分間。

その奇妙な物体は、夏の朝の水田の上に、ホバリングし続けた。

そして、見ていたのは、彼一人ではなかった。通りがかった人、息子夫婦 ── 複数の住民が、同じ物体を、目撃したと伝えられている。

やがて、物体は、ゆっくりと動き出した。

そして、ある方向へ、飛び去っていった。

その方向は ── 越生(おごせ)。秩父山系の、奥の方角だった。


目撃したのは、彼一人ではなかった。複数の住民が、同じ物体を見ていた。

そして、この出来事は、翌日の新聞に載った。

『埼玉新聞』昭和五十六年八月十七日の朝刊、社会面。「毛呂山町にUFO来襲!? 早朝、数人が目撃 お碗型、上空十メートルに浮く」── そういう見出しで、目撃した物体の図と、住民の証言とともに、報道された。同じ日の『読売新聞』の埼玉版にも、記事が出ている。

これらの新聞記事は、現在、国立国会図書館のレファレンス協同データベースに、調査記録として正式に登録されている。つまり、「毛呂山町で、複数の住民がお碗型の物体を目撃し、それが新聞に報道された」という事実そのものは、今日でも、公的な記録として、確認することができる。

これは、ネットの噂でも、後から作られた都市伝説でもない。一九八一年の夏、確かに、埼玉県の田園地帯で、複数の人間が、空に浮かぶ銀色の物体を見て、それが新聞沙汰になった。そこまでは、動かしようのない事実である。

問題は、ここから先だ。


事件の後、この出来事は、UFO番組の第一人者だったテレビディレクター、矢追純一(やおいじゅんいち)氏らによって、取材された。

そして、その取材の中で、最初の目撃者であるあの農家の男性について、新聞記事には載らなかった「続き」が、語られることになる。

ここから先は、新聞で確認できる事実ではない。本人が、後に語った、証言である。だから、信じるかどうかは、読む人に委ねるしかない。

その続きとは、こうだ。

彼は、ただ、物体を見ただけではなかった。

彼は、その中に、連れ込まれた、というのである。

いわゆる、アブダクション ── 異星のものによる、誘拐。気がつくと、彼は、あの銀色の物体の、内部にいた。そして、そこで、人間ではない「乗組員」と、向き合った。

その乗組員が、どんな姿をしていたか。

彼は、こう語ったと、伝えられている。


その話に進む前に、思い出してほしいことがある。

私たちは、この記事の序章から、ずっと、一つの存在を追いかけてきた。

二千年前、雁坂峠(かりさかとうげ)を越えたヤマトタケルが、霧の中で道を失ったとき、忽然(こつぜん)と現れて、彼を導いた、白い狼。

享保十二年の夜、日光法印(にっこうほういん)が庵室(あんしつ)に座っていたとき、山中から現れて、境内を埋め尽くした、狼の群れ。

そして、一九九六年、絶滅したはずなのに、秩父の林道で、八木博(やぎひろし)と目を合わせ、十九枚の写真に収まった、あのイヌ科の動物。

この山では、二千年のあいだ、人の前に、繰り返し、ある「姿」が、現れ続けてきた。

霧の中から。 夜の境内から。 林道のガードレールの向こうから。

そして今、一九八一年の夏、空から降りてきた銀色の物体の、内部で。

毛呂山の農家の男性が、その乗組員の顔について、語った言葉は ── こうだった。

犬のような顔を、していた。


ここで、この事件が起きた場所を、もう一度、確かめてほしい。

この事件が起きたのは、秩父山系の、麓だった。 物体が飛び去ったのは、秩父山系の、奥だった。 つまり、これは、お犬様の山域の入り口で起きて、お犬様の山の奥へと、消えていった出来事だった。

そして、その物体の中で、人を迎えたものは ── 犬の顔を、していた。

ヤマトタケルを導いた白い狼。 日光法印を囲んだ狼の群れ。 八木博と目を合わせた絶滅獣。 そして、毛呂山の農夫を迎えた、犬の顔の乗組員。

この山域では、人の前に現れる「向こう側のもの」は、なぜか、いつも、犬の姿、あるいは犬に似た姿を、している。

それが、霧の狼であれ、生身のニホンオオカミであれ ── 空飛ぶ物体の乗組員であれ。


ここで、最初の問いに、戻りたい。

狼は、神になったのか。 それとも、神が、狼の姿で、現れているのか。

ヤマトタケルを導いた白い狼は、神の使いとして「お犬様」になった。生身の獣が、神格を与えられた。これが「狼は神になった」という読み方である。

しかし、もう一つの読み方も、できる。

はじめに、何かが、いた。それを、神と呼んでもいい。その何かが、人の前に現れるとき、たまたま、狼の姿を取った。だから、ヤマトタケルの前にも、日光法印の前にも、八木博の前にも、そして毛呂山の農夫の前にも、それは、「犬のようなもの」として、姿を見せた。これが「神は狼の姿で現れる」という読み方である。

この二つの読み方は、矛盾しているようで、実は、同じことの、表と裏なのかもしれない。

狼が神になったのか、神が狼の姿を取ったのか ── その問いに、答えは、出ない。

そして、その答えの出なさこそが、三峯神社という場所の、核心である。

ここは、現実の手触りが、少し頼りなくなる場所だ。物理が、ところどころ、抜ける場所だ。こちら側と向こう側の膜が、薄い場所だ。

だから、ここでは、神と獣の区別も、薄い。 生命と霊の区別も、薄い。 過去と現在の区別さえ、薄い。

千九百年前にヤマトタケルが見た霧と、今日あなたが見る霧は、同じ霧である。 あの白い狼と、今もこの山域に現れる「犬のようなもの」は、同じ存在である。


東京から特急で、二時間半。バスでダムを渡り、つづら折りの坂を登った先に、その山は、ある。

霧が出やすい山だから、訪れた日に、いつも視界がはっきりしているとは、限らない。

もし、あなたが三峯神社を訪れた日に、霧が出たなら ── がっかりする必要は、ない。

それは、すでに、何かが、来ているということだ。

そして、その何かは、おそらく、犬のような顔を、しているのかもしれない、、、、。

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