埼玉県秩父市三峯神社

  • URLをコピーしました!
LANGUAGE:JPEN
三峯神社へ続く渓谷の朱橋
[ 狼の聖地 / 霧のふるさと ]

三峯神社を、体感せよ

MITSUMINE — NEON PILGRIMAGE

東京から特急とバスで二時間半。秩父湖のダムを渡り、つづら折りを登った標高千百メートルの神域に、二千年続く狼信仰の山がある。霧が出れば、それは歓迎の徴。ここは、現実の手触りが少しだけ頼りなくなる場所だ。

SCROLL ▽

00Prologue — A Place Where Reality Thins

序章 — 関東の奥に、薄くなる場所がある

東京の池袋から特急に乗ると、約八十分で西武秩父駅に着く。そこからバスに乗り換えて、また約七十五分。窓の外を流れていく景色が、駅前のコンビニや住宅地からだんだんに山に変わり、やがて荒川の上流に作られた人造湖が見えてくる。秩父湖、と地図には書いてある。そのダムの堰堤を、バスは渡る。堰堤を渡り終えると、道は急に細くなり、つづら折りになって山を登りはじめる。スマートフォンの電波が途切れる。耳の奥が、少しだけ詰まる。標高が上がっているのがわかる。しばらく走ると、駐車場に着く。バスを降りる。空気が違う、と多くの人が言う。澄んでいる、というだけでは足りない。何か、別のものが混じっている、と感じる人がいる。

ここが、三峯神社の参道の入口である。埼玉県秩父市三峰。標高千百二メートル。三峯神社の境内は、東京都・埼玉県・山梨県の三県の境にまたがる奥秩父の山塊の中にある。すぐ南には、雲取山、白岩山、妙法ヶ岳という三つの峯が連なっている。神社の名の由来になった三つの峯である。雲取山は標高二千十七メートル、東京都の最高峰。白岩山は千九百二十一メートル。妙法ヶ岳は千三百二十九メートルで、その山頂には三峯神社の奥宮が祀られている。つまり三峯神社は、ただ古い神社というだけではない。東京から最も近い、本格的な深山の入口にある神社なのだ。

ここには、たくさんの話がある。約千九百年前、東国の平定に向かったヤマトタケルが、この山中で霧に巻かれて道を失った。そのとき、白い狼が忽然と現れて道を導いたという。それが三峯神社のはじまりであり、狼を「お犬様」「御眷属様」として神の使いに祀る、関東で最も古い狼信仰のはじまりでもある。享保十二年九月十三日の夜、この山で静座していた日光法印という僧の前に、山中から大量の狼が現れて境内を埋め尽くした。彼はそれを神託と受け取り、狼の神札を信者に貸し出しはじめた。それが「御眷属拝借」と呼ばれる、三峯神社独自の儀式の起源である。神札の入った箱には、小さな穴がいくつも開けられている。中に「生きた」御眷属がいらっしゃるから、息ができるように、と伝えられている。

平成二十四年、辰年のこと。拝殿の左手の石畳を水で濡らして磨いたところ、赤い目をした龍の姿が浮かび上がった。明治三十八年、ニホンオオカミは絶滅したとされている。しかし平成八年十月十四日、八木博という人物が、秩父山中の林道で一匹のイヌ科動物に十九枚のシャッターを切った。ニホンオオカミ研究の権威であった今泉吉典博士が、その写真を「ニホンオオカミの可能性がある貴重な動物」と所見した。秩父野犬と仮称されたその動物が何だったのかは、今も決着していない。これは、史実と伝承の入り混じった土地である。

しかし、三峯について書こうとするとき、史実と伝承を分けて並べるだけでは届かないものがある。ここを訪れた人の口から繰り返し語られる現象は、伝承の枠の中だけでは収まらないからだ。三ツ鳥居をくぐった瞬間に雑音が一斉に消えた。ご祈祷の最中、理由もわからずに涙が止まらなくなった。拝殿でお参りが終わった瞬間、急に深い霧が境内を覆った。奥宮で何かを連れて帰ってしまった気がする。霧、というのは三峯の境内でよく出る。そして三峯では古来、霧は神様(お犬様)のお姿である、と伝えられている。霧が出ているということは、御眷属がいま、ここに、現れている、ということだ。普通の山なら霧は「景色が見えなくて残念」となる。三峯では逆である。霧が出ると、歓迎されている。

そして、三峯のすぐ近くの山では、UFOを見たという話が複数残っている。昭和五十六年八月十六日の早朝、埼玉県毛呂山町の田んぼの上空に、銀色のお碗型の物体が約十五分間ホバリングし、複数の住民が目撃した「毛呂山事件」である。物体は秩父山系の方向に飛び去り、翌日の埼玉新聞と読売新聞埼玉版に報道された。続報では、最初の目撃者が物体内に拉致され、犬のような顔の乗組員に何かをされて解放された、という証言まで出ている。お犬様の山域。そこで起きた事件で、目撃者がアブダクションを語り、乗組員は犬のような顔をしていた、と言ったのである。

何が本当で、何が嘘か、という問いの立て方が、ここではあまり意味をなさない。三峯山は、現実の手触りが、少し頼りなくなる場所である。普段の世界の硬さが、ここに来ると、ほんの少し緩む。それを「気のせいだ」と片づけることは、いつでもできる。ただ、これだけのことが、これだけの長さの時間にわたって、これだけの数の人によって、同じ場所で語られ続けているという事実そのものは、簡単には片づかない。これから語るのは、関東の奥の一つの山と、そこに祀られた神と、その使いである狼と、訪れた人々の話である。霧が出やすい山だから、いつも視界がはっきりしているとは限らない。ただ、霧が出ているということは、すでに、何かが、来ているということだ。

01Yamato Takeru, Swallowed by Fog

第一章 — ヤマトタケル、霧に呑まれる — 神話と三つの峯

mitsumine_01_yamatotakeru

霧の中、白い狼に導かれるヤマトタケル / Yamato Takeru & the white wolf

第十二代景行天皇の御代。約千九百年前のこと、と三峯神社の縁起は伝えている。景行天皇の皇子であったヤマトタケルは、父の命を受けて、東国の平定に向かった。「ヤマトタケル」というのはもともと、彼が西国遠征のときに討ち取ったクマソタケルの兄弟が、死の直前に「あなたこそタケルの名にふさわしい」と差し出した名である。一人の若者が、敵の血で名を貰い、そのまま父の命でまた次の戦に出されていく。それが東征のはじまりだった。

東征の経路は、伊勢を発って駿河、相模、武蔵、上野、信濃、そして甲斐の酒折宮へ至り、そこから北上して武蔵・上野方面をめぐり、最後は碓氷峠を越える、という大きな弧を描いている。山梨県から群馬県へ抜けるためには、途中の険しい峠を越えなければならない。雁坂峠である。雁坂峠は、奥秩父の主稜線にある標高二千八十二メートルの峠で、古来「秩父往還」と呼ばれた古道の最大の難所であった。山梨県側からこの峠を越えると、目の前に広がるのが、三峯神社の鎮座する三峰山を含む、奥秩父の山塊である。そこで、ヤマトタケルは、霧に呑まれた。

三峯神社の縁起によれば、雁坂峠を越えたヤマトタケルの一行は、山中で道を見失った。奥秩父の霧は、ただ視界を白くするのではない。音を消す。沢の水音や、風が木々を揺らす音、自分の足が落ち葉を踏む音まで、霧が出ると、すべて輪郭がぼやけて、近くで起きているのか、遠くで起きているのかが判別しにくくなる。方向がわからなくなる。来た道を振り返っても、もう同じ景色には見えない。ヤマトタケルは、軍勢を率いていた。供の者もいた。それでも、迷った。そのとき、白い狼が、忽然と現れたのである。前触れもなく、霧の中から、白い狼が一頭、姿を現した。狼は、一行を導くように先を歩きはじめた。後を着いていくと、ある場所で霧が晴れた。そこが、現在の三峯神社のある三峰山の山中であった。

ヤマトタケルは、そこに立って、山々を見渡した。東南の方向に、三つの峯が美しく連なっているのが見えた。雲取山、白岩山、妙法ヶ岳である。その光景を見て、彼は、伊弉諾尊と伊弉册尊を祀った。日本神話における国生みの二神である。東国を平定するために遠征している若き武人が、霧から救われた直後、この山々を見て、なぜいきなり国生みの神を祀ろうと思ったのか。縁起はその理由を、こう書いている。「この国が永遠に平和であるように」と祈った、と。彼が祈ったのは、自分の戦のことではなく、この島々の長い未来のことだった。それが三峯神社の、最初の祈りである。

その三つの峯のことを、少し詳しく書いておく。雲取山は標高二千十七メートル。東京都・埼玉県・山梨県の三県の境にそびえる、東京都の最高峰である。白岩山は標高千九百二十一メートル。山頂付近に石灰岩の白い岩肌が現れることからこの名がついた。石灰岩は、太古の海でサンゴや有孔虫の殻が堆積してできた岩である。つまりこの山の頂上付近の岩は、かつて海の底にあった。それが地殻変動で押し上げられて、関東のいちばん奥の山頂になった。妙法ヶ岳は標高千三百二十九メートル。三つの中で最も低いが、三峯神社にとっては最も重要な山である。この山の山頂に、三峯神社の奥宮が祀られているからだ。

この三つの山は、地質学的に「秩父帯」と呼ばれる地層帯に属している。そして、この秩父帯は、ここで終わっているわけではない。南紀、四国、九州まで、一本の線として続いている。秩父の研究者の間で古くから指摘されてきたことがある。秩父の山の名前と、熊野の山の名前が、似すぎている、ということだ。熊野の修験道の聖地である那智山系には、「大雲取山」「小雲取山」という山がある。そして、那智山系のすぐ西には「妙法山」がある。秩父の三峰には、「雲取山」がある。そして「妙法ヶ岳」がある。雲取と妙法。この二つの名前が、関東のいちばん奥と、紀伊半島の最南端に、同じセットで存在している。同じ地質帯の上に、同じ地形が現れる。そして同じ地形を見た古代の修験者たちは、そこに同じ名前をつけた。地形の類似が、信仰の類似を生んだのである。

三峯神社の縁起をたどると、奈良時代に修験道の開祖である役行者が伊豆から三峯山に渡って修行した、と書かれている。彼は熊野修験の系譜の中心に立つ人物である。つまり、三峯神社は、ヤマトタケルが霧の中で白い狼に導かれて辿り着いた地、というだけではない。熊野から関東の奥に伸びてきた、修験道のもう一本の脈が、ここで止まっている。雲取と妙法という名前が、その脈の痕跡である。

ここで、もう一度、霧の話に戻る。三峰山は、古来「霧の三峯山」と呼ばれてきた。周囲を二千メートル級の山々に囲まれた窪地のような位置にあるため、気象的に霧が発生しやすい。そして、三峯神社では、この霧について特別な伝承がある。霧は、神様(お犬様)の姿である。霧が出ているということは、御眷属様 — 大口真神 — が、いま、ここに、現れている、ということだ。これは近代スピリチュアルの解釈ではない。境内の現役の神職が、参拝者にそう説明している。そう考えると、ヤマトタケルの神話は別の意味を帯びてくる。霧に呑まれた、というのは、単に道に迷った話ではない。神話の最初の段階で、ヤマトタケルはすでに、お犬様の領域に、文字通り入っていたのである。霧の中から白い狼が現れたというのは、霧そのものが狼の姿を取って形になった、ということだ。ヤマトタケルが見たのは、お犬様の身体そのものだった。

千九百年前にヤマトタケルが見た霧と、現代の参拝者がご祈祷の最中に目撃する霧は、同じ霧である。地理的に同じ場所に発生し、気象的に同じ仕組みで生じ、信仰的に同じ存在の現れとして解釈されている、同じ霧である。これは、神話と現代の間に、断絶がないということでもある。お犬様は今もこの山に現れている。千九百年経って関東は近代化され、観光客が御朱印を求めて列を作る。それでも、霧は今も出続けている。そして、霧が出るたびに、白い狼の物語が、もう一度はじまっている。これが、三峯神社という場所の、最も古い層である。

02Those Who Entered the Mountain

第二章 — 山に入った人々 — 役行者から月観道満まで

mitsumine_02_ennogyoja

原生林を歩く修験者 / En-no-Gyoja in the primeval forest

ヤマトタケルが伊弉諾尊と伊弉册尊を祀ってから、約六百年が経った。奈良時代に入って、一人の男がこの山に現れた。役小角、後に役行者と呼ばれる、修験道の開祖である。役小角という人物の輪郭は、はっきりしない。生没年もわからない。確実な記録は、奈良時代に編まれた『続日本紀』に書かれた、たった一文だけである。文武天皇三年五月二十四日、役君小角を伊豆島に流す、という記述だ。彼は葛城山に住み、呪術に長け、鬼神を使役したと噂された。弟子の韓国連広足が、師の力をねたんで朝廷に訴え出た結果、遠島の刑に処せられた。

伊豆に流された役小角は、夜になると雲に乗って富士山に登り、修行を重ねたと伝えられている。三峯神社の縁起は、その時期に、彼が伊豆から三峰山にも往来して修行していた、と書いている。伊豆大島から三峰山まで、現代の地図で計っても直線距離で百五十キロ以上ある。間に海があり、関東平野がある。当時、徒歩で往復できるような距離ではない。なぜ役小角はわざわざここに来たのか。その答えは、おそらく前章の地形と地名の話に繋がっている。彼は熊野・葛城・金峯を歩いた呪術者だった。関東のいちばん奥に、熊野とそっくりの地形が広がっていることを知っていた、ということではないか。役小角は、伊豆に流された境遇を利用して、関東の三峰山まで自分の修行の場を伸ばしたのである。これが、修験道の脈が三峯神社に通った最初の瞬間だった。

それから三十数年後の天平八年、国々に疫病が流行した。聖武天皇は三峯神社に使者を遣わして祈願させ、「大明神」の神号を奉ったと縁起は伝える。天平の疫病は、日本史上有数の大流行で、藤原四兄弟までもが全員命を落とした。その天皇が、わざわざ秩父の奥の山中の神社にまで使者を送って祈らせた、という事実は重い。三峯神社の名は、すでに奈良の都にまで届いていたことになる。

平安時代に入ると、もう一人、決定的な人物がこの山に登った。弘法大師空海である。彼は唐から密教を持ち帰り、高野山を開いて真言宗を立ち上げた、日本仏教史の中心人物の一人である。三峯神社の縁起によれば、空海は登山ののち、三峯宮の傍らに十一面観音像を奉祀して天下泰平を祈ったという。これが、三峰山に仏教が公式に入った瞬間である。それ以降、三峯神社は神道と仏教が一体となった神仏混淆の山となり、奉仕するのは神官ではなく僧侶になっていった。つまり、ヤマトタケルが祀った伊弉諾尊・伊弉册尊の山は、奈良時代に役小角の修験道で「使われる山」になり、平安時代に空海の十一面観音で「祀られる山」になった。神話、修験、仏教。三つの層が、ここで重なった

時代は鎌倉に進む。鎌倉武士の中に、畠山重忠という男がいた。武蔵国の出身で、源平合戦から奥州合戦まで数々の戦に勝ち抜いた、鎌倉初期を代表する武将である。彼は三峯神社を篤く信仰し、祈願成就の御礼として、神社の周囲「十里四方」の土地を寄進したという。一里は約四キロだから、半径約四十キロの円内の土地をまるごと寄進したことになる。境内に今も立つ巨大な御神木「重忠杉」が、その篤さの規模を、今も無言で伝えている。樹齢約八百年、幹周約七メートル、樹高約四十六メートルの杉の巨木で、重忠の手植えと伝えられている。

しかし、繁栄は永遠には続かなかった。一三五二年、足利氏と新田氏の戦いで新田氏が敗北し、敗れた新田義興の一族が三峯山に逃げ込んで身を潜めた。これが、三峯神社の運命を変えた。勝った足利氏は、敗者をかくまった神社を許さなかった。社領を没収し、神官たちを罷免した。そこから、ほぼ百五十年の暗黒の時代が始まった。社殿は崩れ、参拝者は減り、山は荒れていった。ヤマトタケル以来千四百年続いていた三峯神社の歴史が、ここで一度、消えかけたのである。

文亀二年、一人の修験者が、その荒廃した山に立った。月観道満という名の修験者である。生没年はわかっていない。彼は、荒れ果てた三峯山を見て、再建を志した。ただ、金も人もない。彼は、歩き始めた。全国を、一人で。復興資金を集めるために、彼は約二十七年間、日本中を行脚した。「三峯山の再建に協力してください」と、町から村へ、宿から宿へ、歩き続けた。二十七年というのは、人の一生の三分の一に近い時間である。三十歳で歩き始めたとしたら、終わるのは五十七歳。当時の平均寿命を考えれば、彼はこの行脚に、自分の残りの人生をほとんど全部投じたことになる。

そして、彼の歩いた二十七年の終わりに、奇跡が起きた。天文二年、月観道満は集めた資金で三峯山の社殿・堂宇を再建した。同年、後奈良天皇は三峯神社を、京の聖護院門跡の末寺に指定した。聖護院は、本山修験の総本山である。つまり、三峯神社は、関東における天台修験の総本山として、再び正統な位置に戻った。月観道満は、これによって「中興の祖」と仰がれることになった。一人の名もない修験者が、二十七年間一人で歩き続けて、三峯山を蘇らせた。これは伝説ではなく、神社の正史に書かれている事実である。

なぜ、彼はそこまでしたのか。縁起には、彼の動機は書かれていない。ただ「三峯山の荒廃を嘆いた」とあるだけだ。しかし、嘆いただけで、二十七年間歩き続けられるものだろうか。三峯神社という場所は、神話の時代から霧と狼の形で人に何かを伝え続けてきた場所である。荒廃した山に最初に入り、立ち直りを志した一人の修験者が、その山から何も受け取らなかったと考える方が、むしろ不自然である。これは私の推測である。記録にはない。ただ、二十七年という時間の長さは、合理的な計算や信仰心の表明だけでは説明できない長さだと、私には思える。月観道満の中興から、三峯神社は再び栄えていく。そして、十万石の格式を持つ霊地として、徳川幕府からも遇された。十万石、というのは大名のランクである。神社が大名と同じ格で扱われていた、ということだ。しかし、三峯神社の最も三峯らしい現象は、まだ起きていない。それは、さらに二百年後、享保十二年九月十三日の夜から始まる。

03The Age of Kannon-in Koun-ji

第三章 — 観音院高雲寺の時代 — 神仏混淆の山

mitsumine_03_haiden

極彩色の拝殿(権現造) / The vermilion Haiden

月観道満が二十七年の行脚で三峯山を再建したのが天文二年。それから明治二年に廃寺となるまでの、約三百三十年間。三峯神社は「観音院高雲寺」と呼ばれる寺院であった。現代の私たちが「三峯神社」と呼んでいるあの場所は、明治より前は、神社ではなく、寺だったのである。正確に言えば、神仏混淆の霊場であった。本殿に祀られていたのは伊弉諾尊・伊弉册尊。しかし同時に、その本地仏として十一面観音が祀られていた。鳥居があり、社殿があり、しかし同時に堂塔があり、僧侶が常駐していた。神も仏も、同じ山の中で、同じように祀られ、同じ僧の手で奉仕された。これが神仏混淆という、近代以前の日本の宗教の最もありふれた姿だった。

「大権現」という言葉は、神道の神を、仏が仮の姿として現れたものと解釈する「本地垂迹」の思想に基づいている。仏が本体で、神はその仏が日本人に向けて姿を変えて現れた化身、という考え方である。三峰山の本地仏は十一面観音、その権現としての姿が、ヤマトタケルが祀った伊弉諾尊・伊弉册尊である、という構造になっていた。現代の感覚からすると少し奇妙に聞こえるかもしれない。神道なのか仏教なのか、はっきりしない。ただ、これが、近代以前の日本の山岳信仰の本来の姿だった。三峯神社は、神道の神社として始まったわけではない。神道と仏教と修験道が一体となった、一つの霊場として千五百年以上続いてきた。それを「神社」だけに無理やり切り取って残したのが、明治の神仏分離である。

月観道満の中興のあと、三峯神社は京の聖護院門跡の末寺となった。聖護院は、本山修験の総本山である。これによって、三峯神社は、関東における本山修験の総本山という位置づけを得た。簡単に言えば、関東一円の山伏たちの、いちばん上の山になった、ということだ。歴代の山主は、京の公家・花山院家の養子となるのを常例とした。寺の定紋は、花山院家の家紋である「菖蒲菱」を採用した。今も三峯神社の至るところで、この菖蒲菱の紋を見ることができる。寛文五年、それまで越生の修験山本坊の配下にあったところから独立して、京の聖護院の直末となった。本社は「三峰山大権現」、別当寺院は「三峰山観音院高雲寺平等坊」と称した。寛文元年、現在も残る本殿が造営された。極彩色の彫刻で飾られた、春日造一間社の本殿である。

江戸幕府は三峯神社を、「十万石の格式」をもって遇した。これは外様の中堅大名と同じ格式である。関東郡代の伊奈半十郎が秩父を検地したとき、三峯神社の周辺「三里四方」を境内地として除地に指定した。半径十二キロの円である。広大な山岳地帯が、まるごと三峯山の所領になっていた。そして、参拝者の規模である。明治中期の記録では、三峯神社の社務所には「六百人が泊まれる施設」があり、客のための料理や酒も自家製で賄っていた、という記述がある。江戸時代の盛期は、これよりさらに多かったと推測される。深い山中の、車道もない時代の神社で、毎晩のように六百人規模の宿泊客を受け入れていた。彼らはバスでも電車でも来ない。徒歩で、何日もかけて、表参道を歩いて登ってきた。

江戸時代の参拝者は、麓の大輪から表参道を二時間以上かけて登り、清浄の滝で禊をし、宿坊に泊まり、何日も山に滞在した。山伏の案内で境内の摂末社を巡り、神札を授かって帰った。山に登り、山に泊まり、山の空気の中で何日も過ごすこと自体が、参拝の本体だった。その時代の三峯山の中心にいたのが、観音院高雲寺の僧侶たち、つまり山伏たちである。彼らは、神主でもなく、僧侶でもなく、修験者だった。神道の祝詞も読み、仏教の経も読み、護摩を焚き、滝に打たれた。彼らがいたから、三峯山は三峯山だった。

明治元年三月二十八日、明治新政府は「神仏判然令」を発した。神社から仏教的な要素を排除せよ、という命令である。明治政府は、近代国家としての日本を作るために、神道を国家の中心に据える政策を進めようとしていた。そのためには、千年以上続いてきた神仏混淆の状態を、神道と仏教にきっぱり切り分ける必要があった。このとき、各地で「廃仏毀釈」と呼ばれる、暴力的な仏教排斥運動が起きた。特に山岳信仰の聖地は、神道でも仏教でもない曖昧な存在として、激しく整理された。明治二年、三峯山観音院高雲寺は廃寺となった。三百三十年以上続いてきた寺が、命令一つで、なくなった。随身門に祀られていた仁王像は、埼玉県鴻巣市の勝願寺に移された。観音院高雲寺という名前は使われなくなり、代わりに、もとの古い称号「三峯神社」が復活した。これが、現在の三峯神社の、公式な始まりである。

明治の神仏分離は、三峯山の制度的な構造は変えた。山伏の組織は解体され、本山であった京の聖護院との関係も断ち切られた。しかし、山そのものは、変えなかった。明治以降も、御眷属拝借は続いた。三峯講中は関東一円で活動を続けた。お犬様の信仰は、衰えるどころか、明治・大正・昭和を通じて広がり続けた。十一面観音の本堂が小教院というカフェに転用されても、仁王門が随身門と名前を変えても、山は、依然として山だった。霧は出続け、狼は祀られ続け、参拝者は何かを感じ取って帰っていった。制度は変わる。名前は書き換えられる。それでも、山そのものは変わらない。三峯山を三峯山にしていたものは、結局のところ、組織でも制度でも名前でもなく、山そのものの側にあるものだったからだ。

04The Night the Courtyard Filled with Wolves

第四章 — 1727年9月13日、夜の境内に狼が満ちた — 御眷属拝借のすべて

mitsumine_04_wolves_night

夜の境内に満ちる狼の群れと日光法印 / Nikko-Hoin & the wolves at night

享保五年、日光法印という僧が、三峯山に入山した。十年前に当時の山主・一如法印が亡くなり、その後の十年間、三峯山は無住の状態だった。月観道満が二百年前に再建した堂宇は、再び荒れ始めていた。三峯神社の歴史において、二度目の危機である。日光法印は、その荒れた山に入って、もう一度、堂宇を修復した。確かなのは、彼が三峯山に入って神社を立て直し、そして、ある夜、何かを見た、ということだ。

享保十二年九月十三日の夜。入山してから七年が経っていた。日光法印は、その夜、山上の庵室で静座していた。一人で、夜の闇の中で、座っていた。そのとき。山中から、多くの狼が現れた。そして、境内を埋め尽くした。これが、御眷属拝借の起源として、神社の縁起に記されている出来事である。縁起の言葉は簡潔で淡々としている。「日光法印が山上の庵室に静座していると、突如、山中から多くの狼が現れ境内を埋め尽くした。その光景に神託を感じた日光法印が、猪鹿、火盗除けとして山犬の神札を信者に貸し出したところ霊験があり、それが御眷属拝借の始まりだと言われている」。

普通の僧であれば、夜中に山犬の群れに囲まれたら、恐怖しか感じないはずだ。逃げ出すか、祈祷で追い払うか、そういう対応になる。日光法印は違った。彼は、群れを、「使者」として受け取った。ここに、御眷属拝借の本質がある。「御眷属」とは、神の使い、ということだ。三峯神社の場合、これは大口真神、つまり狼を意味する。「拝借」とは「お借りする」ということ。つまり「御眷属拝借」とは、「神様のお使いをお借りする」という意味になる。一般的な神社のお札は、神様の霊力の写し ─ 一種の「コピー」 ─ として理解されている。お札に神様が宿っているわけではない。しかし、三峯神社の御眷属拝借は、これとは違う。神社の側は、御眷属様を「貸し出す」と言う。お札は神霊そのものの「現物」である、と言う。一年間、その神札を家に祀っているあいだ、生きた御眷属様が、本当にそこにいる、と。

御眷属拝借には、特殊な作法と装具がある。申し込みは社務所で行い、初穂料五千円を納める。初回は御眷属様を収める木箱「眷属箱」を二千円で授かる。申し込みが完了すると、拝殿でご祈祷を受け、御眷属様が神札に降りる。家では、神棚あるいは目線より高い清浄な場所に、眷属箱ごと祀る。お米とお水と塩を供える。そして、ここからが特に注目すべき点だ。眷属箱の蓋には、小さな穴が、三つから六つ、開けられている。なぜか。中に「生きた」御眷属様がいらっしゃるから、息ができるように。穴を開けるという物理的な装具の設計まで含めて、神札は「呼吸する存在」として扱われている。これは、御札一般の感覚とは、根本的に違う。

御眷属拝借の期間は、一年間である。一年が経つと、神札と眷属箱を持って、再び三峯神社に登る。神札を返納し、新しい神札を授かる。古い神札は境内の御仮屋に納め、お焚き上げで天に還す。御仮屋というのは、境内のもっとも奥にある、大口真神を祀る小さなお宮である。「遠宮」とも呼ばれる。お犬様は普段、深い山の中にいらっしゃるので、境内のここを「仮の宮」としてお祀りしている、という意味の名前である。雰囲気は、神社の他の場所とは違う。本殿前の華やかさはなく、ただ静かで、少し暗い、原始的な気配が満ちている。毎月十九日には、ここで「遠宮御焚上祭」という祭典が行われる。供物として赤飯が捧げられる。ここに、もう一つの伝承がある。この日に供えた赤飯が、しばしば、消える、というのだ。神社の側はこう解釈してきた。「これは、お犬様が召し上がっているのだ」と。御眷属が、いま、ここで、ご飯を食べた、と解釈されてきた。霧は狼の姿。赤飯はなくなる。眷属箱は穴が開いている。御眷属様という存在は、三峯神社では、抽象的な「神の使い」ではなく、霧として現れ、ご飯を食べ、箱の中で呼吸する、極めて物質的な存在として扱われている。

御眷属拝借の評判は、瞬く間に関東一円に広まった。なぜ江戸の町人が、秩父の山中の神社の狼信仰に飛びついたのか。理由は明確である。火事である。江戸は、火事の都だった。明暦の大火、明和の大火など、数千人から数万人が犠牲になった大火災が、繰り返し起きた。そして、もう一つ、盗賊である。火事と盗賊。これが江戸の二大恐怖である。三峯神社の御眷属様は、この二つから家を守る、と言われていた。狼の鋭敏な感覚は、火災や侵入者をいち早く察知し、追い払う、と。これが、江戸の町人に決定的に刺さった。江戸の長屋の入り口、商家の門口、武家屋敷の塀 ─ 三峯神社の御札が、町中に貼られるようになった。

そして、信徒たちは、自分たちで組織を作り始めた。「講」というのは、同じ神仏を信仰する人々が作る団体のことである。三峯講のしくみはこうだ。一つの村や町内が、十人から数十人で講を作る。毎月、講金を出し合う。集まった金で、毎年または数年に一度、代表を選んで、三峯神社まで参拝に行かせる。これを「代参」と呼ぶ。代参者は、皆を代表して三峯山に登り、御眷属拝借の神札を授かって戻ってくる。葛飾、鎌ケ谷、松本。東京、千葉、長野。三峯講は、江戸時代から令和に至るまで、関東・甲信越を中心に、数百年にわたって組織され続けてきた、息の長い民間信仰のネットワークなのだ。その結節点に、三峯神社がある。

最後に、もう一度、夜の境内の話に戻る。享保十二年九月十三日。山中から、多くの狼が現れて、境内を埋め尽くした。その「多くの狼」が、現実の動物だったのか、それとも別の何かだったのか、私たちには知る術がない。ただ、三峯神社では、霧そのものが御眷属の姿だ、と古来から言い伝えられている。秋の山は朝晩に霧が出やすい。「山中から多くの狼が現れて境内を埋め尽くした」という光景は、夜の境内に流れ込んだ深い霧の中で、白い影が無数に蠢いているように見えた、ということだったかもしれない。あるいは、本物の狼の群れが、本当に集まったのかもしれない。どちらにしても、日光法印は、その夜、お犬様の身体に、囲まれた。霧であろうと、生身の狼であろうと、それは同じ存在だった。彼は御眷属の中に、文字通り、立っていた。そして、両手を開いて、「これを、貸し出させてください」と頷いた。これが、御眷属拝借の、本当の始まりである。

05Walking the Grounds

第五章 — 境内を歩く — 三ツ鳥居・敷石の龍・御仮屋・奥宮

mitsumine_05_mitsutorii

三ツ鳥居とお犬様像 / The Triple Torii & wolf guardians

この章では、いったん時間の話を離れて、現代の参拝者が実際に三峯神社を歩いたときに、目の前に現れるものを、順に見ていきたい。ただし、これは観光ガイドではない。それぞれの場所には、不思議な現象が、伝承として、あるいは現代の参拝者の体験として、貼り付いている。駐車場から参道を歩いて坂を登ると、最初に現れるのが、白い大きな鳥居である。これが、三峯神社の有名な三ツ鳥居である。明神型の鳥居が、横一列に三つ、組み合わさっている。中央に大きな鳥居が一基、その左右の柱に寄り添うように、やや小さな鳥居が一基ずつ。合計三つの鳥居が一体になっている、極めて珍しい形である。日本中でこの形式の三ツ鳥居がある神社は、十数か所しかない。

その中で最も有名なのが、奈良県桜井市の大神神社の三ツ鳥居である。御神体は山そのもの(三輪山)。大神神社の三ツ鳥居は、古文書に「古来一社の神秘なり」と記されていて、起源も由来も不明である、と公式に書かれている。そして、三峯神社の三ツ鳥居は、大神神社のそれとほぼ同じ形をしている。三輪山を御神体とする大神神社と、お犬様信仰の三峯神社は、信仰の体系がまったく違う。距離的にも数百キロ離れている。それなのに、両者の境内入り口に、ほぼ同じ「三ツ鳥居」が立っている。研究者の中には、これも修験道のつながりで説明する者がいる。修験者たちが、熊野や三輪の信仰を、関東の奥にまで運んできた、その痕跡の一つが、この三ツ鳥居の形である、と。ただし、これは推測にすぎない。

そして、ここで「鳥居をくぐった瞬間に音が消えた」という体験談を語る参拝者が、たくさんいる。「三ツ鳥居をくぐった瞬間、それまで聞こえていた周りの音が一斉に消えて、静寂に包まれた」「気圧が変わったような感覚があった」。もちろん、それは気のせいだ、と片づけることはできる。ただ、同じ場所で同じ体験を、複数の人が、別々の時期に、繰り返し語っている、という事実は、それだけで一つの現象になる。三ツ鳥居をくぐると、両脇に狼の像が二体、立っている。普通の神社で、鳥居の脇に立つのは「狛犬」である。しかし三峯神社では、狛犬ではなく、狼が、その役を担う。これが、三峯神社の境内のあちこちに繰り返し現れる、最も三峯らしい光景である。狼の像は、犬とは明らかに違う。耳が立っていて、口が長く、肋骨が浮き出ていて、姿勢が低い。境内で最も古いお犬様像は、文化七年に奉納されたものである。

三ツ鳥居から参道を進むと、右手に朱色の堂々とした門が現れる。随身門である。寛政四年の建立。明治の神仏分離より前は、この門は「仁王門」と呼ばれていた。中には仁王像が祀られていた。仏教の寺院の門として作られたものである。神仏分離で寺院としての三峯山が廃止されたとき、神社側は賢明な決断をした。仁王像だけを取り外して勝願寺に移し、門自体は名前を「随身門」に変えて、そのまま残した。今、随身門の中には何もない。しかし、この門の天井を見上げると、そこに龍の顔が描かれている。三峯神社の参拝者の多くは、この龍の存在を知らずに門を素通りしてしまう。

随身門をくぐって、青銅鳥居をくぐった先に、見えてくるのが御神木である。二本の巨大な杉の木、重忠杉である。樹齢約八百年、幹周約七メートル、樹高約四十六メートル。この御神木に手を当てると、何かが流れ込んでくる、と感じる人がいる。八百年の生命と接することの感覚は、確かにある。御神木の先に、拝殿がある。寛政十二年建立。総漆塗の権現造で、極彩色の彫刻が内外を飾る。拝殿で参拝を済ませて、左手に目を落とすと、石畳がある。ここに、敷石の龍がいる。平成二十四年、辰年のことである。水をかけて、ブラシで磨いたところ、石畳の一枚に、何かが浮かび上がってきた。赤い目を持つ、龍の姿だった。辰年に、龍が出現した。今、この場所には、柄杓と桶が置かれている。参拝者は誰でも、水をかけて龍を浮かび上がらせ、拝むことができる。

確かに、これは自然の岩の模様であり、たまたま龍の形に見えただけかもしれない。ただ、この龍が現れた場所が、三峯神社の拝殿の真横であり、その年が辰年であり、神社の歴史の中で偶然「磨いてみよう」という指示が出されたタイミングであった、という条件が重なったことは、合理的に説明しきれない。そして、三峯神社は、もともと龍神信仰の山でもある。秩父地方は、富士山から東京湾へ流れる気の脈 ─「進龍」と呼ばれる龍脈 ─ の上に位置するとも言われる。龍は、もともとこの山にいた。それが、二〇一二年の辰年に、石畳の上に姿を見せた。そう解釈する方が、三峯神社の文脈の中では、自然である。

拝殿から右手に進むと、二十以上の摂末社が並んでいる。日本の神社の総覧のようである。山伏たちが、修験道の修行の一環として、関東一円・日本各地の主要な神々を、ここに勧請してきた結果である。その先に、奥宮遥拝殿がある。ここは、奥宮(妙法ヶ岳の山頂)に登れない人のための「拝む場所」である。雲海が出ているときは、雲の海の上に山頂だけが浮かんでいる、まさに「天空のパワースポット」の名にふさわしい景色になる。

そして、境内の奥に進むと、御仮屋、別名遠宮がある。御眷属拝借の核心の場所である。縁結びの木を通り過ぎて、さらに山道を進むと、黄土色に近い渋い色合いの鳥居が見えてくる。それが、御仮屋の入り口である。お犬様は、本来、深い山の中に住んでいらっしゃる。だから、境内のこの場所は、お犬様が人界に降りてくるときに一時的に滞在する場所として設けられている。社の両脇には、お犬様の像が立つ。本殿の前の華やかさはなく、ただ静かで、薄暗い空気が満ちている。ある参拝記には、こんな体験が書かれている。御仮屋の前で手を合わせていたとき、突然、強い風が吹いた。境内の他のどこにも風はなかったのに、御仮屋の前だけ、葉が舞うほどの風が、瞬間的に吹いた。御仮屋に立つと、ここから三峰山の奥のどこか、見えないところに本当のお犬様がいる、ということが、肌で感じられる。

そして、最も奥にあるのが、奥宮である。妙法ヶ岳の山頂、標高一三二九メートルに、小さな祠が立っている。奥宮までは、登山道を片道約一時間。千年の森と呼ばれる原生林を抜け、最後の鎖場を登り切ったところに、祠がある。奥宮からの眺望は、抜群である。そして、ここに登ると、「何かを感じる」と多くの参拝者が言う。奥宮は、三峯神社の中で、最も境界が薄い場所である。本殿前の境内ですら、参拝者は「気配」を感じる。御仮屋では、それがもう一段濃くなる。奥宮では、もはや、何かを連れて帰ってきてしまう可能性さえある、と語られる。一つ一つの現象は「気のせい」で説明できる。全部を一度に説明する、合理的な枠組みは、ない。そして、三峯神社という場所の本当の姿は、その「全部を一度に」体験するときに、初めて現れる。

06Did the Wolves Vanish?

第六章 — 狼は消えたのか — 1905年の最後、1996年の写真

mitsumine_06_chichibu_inu

秩父の林道で目が合ったイヌ科動物(1996) / The Chichibu canine, 1996

ここまで、三峯神社という山が、狼を神の使いとして祀ってきた歴史を見てきた。御眷属、お犬様、大口真神。それらはすべて、狼を指す言葉である。しかし、ここで、避けて通れない事実がある。その狼 ── ニホンオオカミ ── は、もう、いない。公式には、絶滅した。ニホンオオカミの、確実な最後の生息情報は、明治三十八年一月二十三日である。場所は、奈良県吉野郡小川村鷲家口。現在の東吉野村である。その日、一頭の若いオスのニホンオオカミが、村にもたらされた。数日前に罠にかかっていたところを撲殺された、という。当時、その村には、アメリカ人の動物学者マルコム・アンダーソンが滞在していた。交渉の末、金八円五十銭で売買が成立した。腐敗が進んでいたため、毛皮と頭骨だけが、海を渡った。その毛皮と頭骨は、今もロンドン自然史博物館に保管されている。これが、記録に残る、最後のニホンオオカミである。

なぜ、ニホンオオカミは絶滅したのか。最も大きな要因とされているのが、狂犬病である。江戸時代後期から明治にかけて、日本に狂犬病が広がった。狂犬病に感染した狼は、攻撃的になり、人や家畜を襲うようになった。それまで「益獣」として敬われていた狼が、突然、人を襲う恐ろしい獣に変わった。加えて、明治の近代化が、狼の生息地を奪った。新政府は、家畜を守るために、狼の駆除を奨励した。毒餌が撒かれ、銃で撃たれ、罠が仕掛けられた。狂犬病、生息地の喪失、そして組織的な駆除。これらが重なって、わずか数十年のうちに、日本中の山にあれほどいた狼が、ほぼ完全に姿を消した。

そして、皮肉なことに、ニホンオオカミが急速に減っていったまさにその時期 ── 明治の前半 ── は、三峯神社のお犬様信仰が、最も盛んだった時期と重なっている。人々は、三峯山に登り、御眷属拝借の神札を授かり、お犬様の加護を求めていた。その一方で、現実の狼は、毒餌と銃と罠で、殺され続けていた。神札の中の狼は増え続け、山の中の狼は減り続けた。そして、一九〇五年。現実の狼は、いなくなった。しかし、三峯神社のお犬様は、いなくならなかった。神札は発行され続けた。御眷属拝借は続いた。霧は出続け、それはお犬様の姿だと言われ続けた。おそらく、三峯神社のお犬様は、はじめから、生物としてのニホンオオカミとは、別の存在だったからだ。三峯山では、霧そのものがお犬様の姿である。だから、生物としてのニホンオオカミが絶滅しても、霧は出続け、気配は残り、お犬様は山にいた。絶滅したのは「動物」であって、「神」ではなかった。

しかし、話は、ここで終わらない。絶滅したはずのニホンオオカミを「見た」という人が、その後も、絶えなかったからである。特に、奥秩父の山域では、その種の証言が多い。そして、一九九六年。決定的な出来事が起きた。その年の十月十四日、午後四時頃。小雨の降る、埼玉県秩父地方の林道。八木博という人物が、車を運転していた。すると、ガードレールの向こうから、一匹のイヌ科の動物が現れた。体長は八十から九十センチ。八木氏は、その動物と、目が合った。「目と目が合い、この動物がニホンオオカミだと確信した」と、後に彼は語っている。彼は、車を停めて、カメラを取り出した。動物は、逃げなかった。八木氏は、震える手で、シャッターを押し続けた。苦労の末、十九枚の写真を撮影した。

八木氏は、その写真を、師と仰ぐ人物に送った。国立科学博物館の元動物研究部長・今泉吉典博士である。ニホンオオカミ研究の、日本における第一人者だった。今泉博士は、その写真を、オランダのライデンにあるニホンオオカミのタイプ標本と、詳細に比較検討した。そして、十二の根拠を挙げて、こう所見を述べた。「ニホンオオカミの可能性がある貴重な動物であることだけは確かです」。この動物は、「秩父野犬」と仮称され、全国紙やテレビで紹介された。もちろん、批判もあった。「イヌにしか見えない」「犬と狼の交雑種だろう」。学術的に「ニホンオオカミの生存」が認められたわけではない。しかし、ここで注目したいのは、学術的な真偽ではない。撮影された場所が、秩父だった、ということである。三峯神社のある、奥秩父の山域。お犬様の山域。そこで、絶滅したはずの狼が、人の前に姿を現し、目を合わせ、逃げずに、十九枚の写真に収まった。

八木氏は、後にこう語っている。「まるで神様が遣わしたように、私の前に姿を現してくれた」。彼は、研究者として、何十年もニホンオオカミを探し続けてきた人物である。その彼が、決定的な遭遇を、「神様が遣わした」と表現した。第一章で、ヤマトタケルの前に白い狼が「忽然と現れた」と書いた。第四章で、日光法印の前に狼の群れが現れて境内を埋め尽くした、と書いた。そして、一九九六年、八木博の前に、一匹の狼が「神様が遣わしたように」現れた。二千年の時を隔てて、同じ秩父の山で、人の前に、狼が、現れ続けている。八木博氏は、その後、活動を本格化させ、二〇一〇年には「NPO法人ニホンオオカミを探す会」を設立した。二〇一八年の秋には、山中に仕掛けたカメラの音声データの中に、ある咆哮が記録されていた。日本音響研究所の分析結果は、シンリンオオカミの咆哮のサンプルに非常に近く、ただしやや低音、小型のオオカミの可能性が高い、というものだった。ニホンオオカミは、世界のオオカミの中で、最も小型の亜種だったとされる。

一九〇五年、ニホンオオカミは公式に絶滅した。しかし、三峯神社のお犬様は、絶滅しなかった。霧として、気配として、神として、山にい続けた。そして、絶滅から九十年あまりが過ぎた一九九六年、その同じ山域で、絶滅したはずの狼が、再び人の前に現れた。合理的に言えば、秩父の山には、犬と狼の交雑種か、野生化した犬か、あるいはごく少数生き残ったニホンオオカミの子孫が、今も生息しているのかもしれない。しかし、三峯神社の文脈の中で言えば、こうも言える。お犬様は、はじめから絶滅などしていない。今もなお、山を歩く者の前に、時々、姿を現す。どちらが本当か、私には決められない。ただ、一つだけ、確かなことがある。奥秩父の山では、二千年前から今日まで、人の前に、狼が、現れ続けている。その狼が、生物なのか、神なのか、幻なのか ── その問いに答えを出すことを、この山は、ずっと、拒み続けている。そして、その答えの出なさこそが、三峯神社という場所の、核心なのである。

07Where Physics Slips

第七章 — 霧、赤飯、空気穴 — 物理が抜ける場所

mitsumine_07_okariya

静寂に満ちる御仮屋(遠宮) / Okariya, the distant shrine

この章では、いったん立ち止まって、これまで出てきた三峯神社の不思議な現象を、一つの視点から並べ直してみたい。その視点とは、こうだ。三峯神社では、しばしば、物理が抜ける。物理が抜ける、というのは、私の造語である。意味はこうだ。普段、私たちが当たり前だと思っている物理的な法則 ── ものはそこにあり続ける、音は鳴り続ける、供えたものは消えない、空気は通る ── そうした「当たり前」が、三峯神社では、ときどき、すっと抜ける。

まず、霧である。三峯神社では、霧そのものがお犬様の姿だ、とされている。気象的に言えば、三峰山は霧が発生しやすい。これは科学で説明がつく。しかし、参拝者がよく語るのは、「拝殿で参拝を済ませた、まさにその瞬間に、急に深い霧が境内を覆った」というような、タイミングの一致である。晴れていたのに、お参りが終わった途端、白い壁に包まれる。霧が出ること自体は物理現象だ。しかし、その霧が、参拝の節目に、まるで「応えるように」出る。ここで、視界という「当たり前」が、抜ける。次に、音である。三ツ鳥居をくぐった瞬間に「音が消えた」という証言。それまで聞こえていた周囲の物音が、鳥居をくぐった瞬間、一斉に消えて、静寂に包まれる。音が鳴り続ける、という「当たり前」が、ここで抜ける。

そして、赤飯である。毎月十九日の遠宮御焚上祭で、御仮屋に供えた赤飯が、しばしば消える、という伝承。これは、最も露骨に「物理が抜ける」現象である。ものはそこにあり続ける、という、最も基本的な物理法則 ── これが、抜ける。皿の上に確かに置いた赤飯が、しばらくすると、なくなっている。そして、空気穴である。御眷属拝借の眷属箱の蓋に開いている、三つから六つの小さな穴。中に「生きた」御眷属がいらっしゃるから、息ができるように、と説明される穴。これは、信仰の側が、あらかじめ「物理が抜ける」ことを、装置として組み込んでいる例である。物質(神札)と、生命(呼吸する狼)の境界が、装置のレベルで、抜けている。

霧で、視界が抜ける。鳥居で、音が抜ける。御仮屋で、赤飯が抜ける。眷属箱で、物質と生命の境界が抜ける。これらを並べてみると、三峯神社という場所の、一つの性質が、浮かび上がってくる。ここでは、「こちら側」と「向こう側」を隔てている膜が、薄い。普段、私たちの生きている世界は、しっかりとした物理法則で、できている。その「しっかりした世界」のおかげで、私たちは安心して暮らしている。しかし、三峯神社では、その「しっかりした世界」が、ところどころ、薄くなっている。そして、膜が薄くなった場所では、「向こう側」のものが、染み出してくる。御眷属が、霧として現れる。何かの気配が、静寂の中に立つ。お犬様が、赤飯を、召し上がる。生きた狼が、箱の中で、呼吸する。

なぜ、三峯山では、こういうことが起きるのか。科学的に言えば、これらの現象は、それぞれ別個の、たまたまの偶然である。霧は気象、音は地形、赤飯は動物、空気穴は信仰の作法。互いに関係はない。それを「物理が抜ける」という一つの言葉でまとめるのは、人間の側が、勝手にパターンを見出しているだけだ ── そう言うことは、できる。しかし、三峯神社の側に立てば、答えは、もっとシンプルである。ここは、お犬様の山だからだ。お犬様 ── 大口真神 ── は、生身の獣であると同時に、霧であり、気配であり、神霊である。生命と物質と自然現象の境界を、自由に行き来する存在である。そういう存在が「いる」場所では、生命と物質と自然現象の境界が、薄くなるのは、当然のことだ。お犬様は、その境界そのものを、身体としている。

ここまで来て、私たちは、ある予感に、たどり着く。もし、三峯山が、本当に「物理が抜ける場所」であるなら ── もし、ここで、こちら側と向こう側の膜が、本当に薄いのなら ── 向こう側から、こちら側へ、染み出してくるものは、霧や、狼や、消える赤飯だけ、とは限らないのではないか。膜が薄い場所には、もっと別の、もっと奇妙なものも、出てくるのではないか。実は、それを見た、という人たちが、いる。三峯神社の境内ではない。その周りに広がる、お犬様の山域 ── 奥秩父の山と、その麓で。彼らが見たものは、霧でも、狼でもなかった。次の章で、その話をする。

08What People Saw on the Mountain

第八章 — 山の上で人が見たもの

mitsumine_08_moroyama_ufo

毛呂山の田園上空の銀色の物体(1981) / The Moroyama sighting, 1981

昭和五十六年八月十六日。日曜日の、早朝だった。埼玉県入間郡毛呂山町箕和田。秩父山地の東の麓に広がる、静かな田園地帯である。午前六時頃。一人の農家の男性が、草刈りのために、家のすぐ脇の水田に向かった。当時、五十五歳。夏の朝の、いつもの仕事だった。彼は、水田のあぜ道に腰を下ろし、鎌を研ぎ始めた。周りには、誰もいない。なんということのない、夏の朝である。ひとしきり鎌を研いで、彼は、立ち上がった。そのとき。道路をはさんだ前方の水田の、真上。十メートルほどの高さに、それは、浮かんでいた。銀色の、お碗を伏せたような形。半球型。大きさは、直径四メートルから十メートルほど。底の面は、網目のような構造をしていた。そして、それは、音もなく、ゆっくりと、自転していた。

彼は、それを、見つめた。それも、彼を、見ていたのかもしれない。物体は、その場に、留まっていた。逃げもせず、近づきもせず、ただ、十メートルの高さに、浮いていた。一分や二分ではない。約十五分間。その奇妙な物体は、夏の朝の水田の上に、ホバリングし続けた。そして、見ていたのは、彼一人ではなかった。通りがかった人、息子夫婦 ── 複数の住民が、同じ物体を、目撃したと伝えられている。やがて、物体は、ゆっくりと動き出した。そして、ある方向へ、飛び去っていった。その方向は ── 越生。秩父山系の、奥の方角だった。

この出来事は、翌日の新聞に載った。『埼玉新聞』昭和五十六年八月十七日の朝刊、社会面。お碗型の物体の図と、住民の証言とともに、報道された。同じ日の『読売新聞』の埼玉版にも、記事が出ている。これらの新聞記事は、現在、国立国会図書館のレファレンス協同データベースに、調査記録として正式に登録されている。つまり、「毛呂山町で、複数の住民がお碗型の物体を目撃し、それが新聞に報道された」という事実そのものは、今日でも、公的な記録として、確認することができる。これは、ネットの噂でも、後から作られた都市伝説でもない。一九八一年の夏、確かに、埼玉県の田園地帯で、複数の人間が、空に浮かぶ銀色の物体を見て、それが新聞沙汰になった。そこまでは、動かしようのない事実である。問題は、ここから先だ。

事件の後、この出来事は、UFO番組の第一人者だったテレビディレクター、矢追純一氏らによって、取材された。そして、その取材の中で、最初の目撃者であるあの農家の男性について、新聞記事には載らなかった「続き」が、語られることになる。ここから先は、新聞で確認できる事実ではない。本人が、後に語った、証言である。だから、信じるかどうかは、読む人に委ねるしかない。その続きとは、こうだ。彼は、ただ、物体を見ただけではなかった。彼は、その中に、連れ込まれた、というのである。いわゆる、アブダクション ── 異星のものによる、誘拐。気がつくと、彼は、あの銀色の物体の、内部にいた。そして、そこで、人間ではない「乗組員」と、向き合った。

その乗組員が、どんな姿をしていたか。その話に進む前に、思い出してほしいことがある。私たちは、この記事の序章から、ずっと、一つの存在を追いかけてきた。二千年前、雁坂峠を越えたヤマトタケルが、霧の中で道を失ったとき、忽然と現れて、彼を導いた、白い狼。享保十二年の夜、日光法印が庵室に座っていたとき、山中から現れて、境内を埋め尽くした、狼の群れ。そして、一九九六年、絶滅したはずなのに、秩父の林道で、八木博と目を合わせ、十九枚の写真に収まった、あのイヌ科の動物。この山では、二千年のあいだ、人の前に、繰り返し、ある「姿」が、現れ続けてきた。霧の中から。夜の境内から。林道のガードレールの向こうから。そして今、一九八一年の夏、空から降りてきた銀色の物体の、内部で。毛呂山の農家の男性が、その乗組員の顔について、語った言葉は ── こうだった。犬のような顔を、していた

この事件が起きたのは、秩父山系の、麓だった。物体が飛び去ったのは、秩父山系の、奥だった。つまり、これは、お犬様の山域の入り口で起きて、お犬様の山の奥へと、消えていった出来事だった。そして、その物体の中で、人を迎えたものは ── 犬の顔を、していた。ヤマトタケルを導いた白い狼。日光法印を囲んだ狼の群れ。八木博と目を合わせた絶滅獣。そして、毛呂山の農夫を迎えた、犬の顔の乗組員。この山域では、人の前に現れる「向こう側のもの」は、なぜか、いつも、犬の姿、あるいは犬に似た姿を、している。

ここで、最初の問いに、戻りたい。狼は、神になったのか。それとも、神が、狼の姿で、現れているのか。ヤマトタケルを導いた白い狼は、神の使いとして「お犬様」になった。生身の獣が、神格を与えられた。これが「狼は神になった」という読み方である。しかし、もう一つの読み方もできる。はじめに、何かが、いた。それを、神と呼んでもいい。その何かが、人の前に現れるとき、たまたま、狼の姿を取った。だから、ヤマトタケルの前にも、日光法印の前にも、八木博の前にも、そして毛呂山の農夫の前にも、それは、「犬のようなもの」として、姿を見せた。この二つの読み方は、矛盾しているようで、実は、同じことの、表と裏なのかもしれない。狼が神になったのか、神が狼の姿を取ったのか ── その問いに、答えは、出ない。そして、その答えの出なさこそが、三峯神社という場所の、核心である。

ここは、現実の手触りが、少し頼りなくなる場所だ。物理が、ところどころ、抜ける場所だ。こちら側と向こう側の膜が、薄い場所だ。だから、ここでは、神と獣の区別も、薄い。生命と霊の区別も、薄い。過去と現在の区別さえ、薄い。千九百年前にヤマトタケルが見た霧と、今日あなたが見る霧は、同じ霧である。あの白い狼と、今もこの山域に現れる「犬のようなもの」は、同じ存在である。東京から特急で、二時間半。バスでダムを渡り、つづら折りの坂を登った先に、その山は、ある。霧が出やすい山だから、訪れた日に、いつも視界がはっきりしているとは、限らない。もし、あなたが三峯神社を訪れた日に、霧が出たなら ── がっかりする必要は、ない。それは、すでに、何かが、来ているということだ。そして、その何かは、おそらく、犬のような顔を、しているのかもしれない。

※当サイトはアフィリエイトプログラム(バリューコマース)を利用し、商品・サービスを紹介しています。掲載の料金・営業時間・定休日・アクセスは変動の可能性があるため、予約・訪問前に各公式サイトでご確認ください。記事中の画像はイメージです。

※本記事に記した三峯神社の由緒・伝承(ヤマトタケルの白狼伝説、御眷属拝借、霧=お犬様の姿、敷石の龍、御仮屋の赤飯、毛呂山事件のアブダクション証言など)は、神社に伝わる伝承・社伝、および新聞報道・関係者の証言に基づくものであり、学術的に確定した事実ではありません。ニホンオオカミの生存(秩父野犬・1996年の写真)についても、学術的に認められたものではなく「可能性がある」とする所見にとどまります。

LANGUAGE:JPEN
三峯神社の三ツ鳥居とお犬様
[ 三峯神社 実践ガイド ]

三峯神社を、味わい尽くす

MITSUMINE — EAT, SOAK, EXPERIENCE, STAY

標高千百メートルの神域へは、日帰りでも行ける。だが三峯の本当の姿は、しいたけ丼を頬張り、神の湯に浸かり、霧の朝に奥宮へ登り、誰もいない夜の境内を歩く ── その「全部」を味わったときに、初めて現れる。食べて、浸かって、体験して、泊まる。三峯神社を骨の髄まで味わうための実践ガイド。

SCROLL ▽

00Why You Should Stay

序章 — 三峯は「日帰り」では半分しか味わえない

三峯神社は、東京の池袋から特急とバスで二時間半。アクセスだけ見れば日帰り圏内だ。実際、多くの参拝者が日帰りで往復している。しかし、それはこの山の半分しか味わっていない。最終バスは夕方に去り、その後の境内は、宿泊者だけのものになる。霧が流れ込む夜、月に照らされた拝殿、誰もいない参道。そして翌朝一番の御祈祷と、運がよければ眼下に広がる雲海。これらはすべて、山に一泊した者だけが受け取れる景色である。

江戸時代の参拝者は、麓から二時間以上かけて表参道を登り、滝で禊をし、宿坊に何日も泊まった。山に登り、山に泊まり、山の空気の中で過ごすこと自体が、参拝の本体だった。現代の私たちも、その作法を少しだけ真似ることができる。この記事では、三峯神社を「食べて・浸かって・体験して・泊まる」ための具体的な段取りを、順に並べていく。料金・営業時間・運行は変動するため、予約・訪問前に各公式サイトで最新情報を必ず確認してほしい。

01Eat — Chichibu Soul Food

第一章 — 食べる — 秩父五大名物と、境内のしいたけ丼

秩父五大名物と境内のしいたけ丼

秩父五大名物と境内のしいたけ丼 / Chichibu specialties

まず、腹ごしらえの話から始めたい。三峯神社の参拝は、坂道を登り、奥宮を目指せば片道一時間の登山になる。エネルギーが要る。そして秩父は、力の出る郷土食の宝庫である。地元で「秩父五大名物」と呼ばれるのが、そば・豚みそ丼・わらじかつ丼・ホルモン焼き・みそポテト。いずれも、山仕事と祭りの土地で育った、こってりと力の出る味だ。ここに、三峯神社ならではの一杯と、夏の名物を加えて紹介する。

まず、境内で食べるなら、宿坊「興雲閣」のレトロな大食堂が外せない。ここの人気No.1はしいたけ丼だ。秩父の山中で霊氣を吸って育った肉厚の干し椎茸を、甘めのタレに漬け込んでから揚げ、キャベツを敷いたご飯の上に三枚どんと乗せる。カツ丼に見立てた、いわば「パワーフード」。柔らかくジューシーな椎茸の旨みは、肉とはまた違うコクで、登拝後の体に染みる。No.2のごぼう天うどんも参拝者に人気だ。

食べログ三峯神社 興雲閣 食堂
食堂・名物しいたけ丼
住所
埼玉県秩父市三峰298-1(三峯神社境内)
電話
0494-55-0241
アクセス
三峯神社バス停から徒歩約10分
営業/料金
店舗・季節により変動(参拝時間内)
食べログで見る ▶

麓に下りたら、秩父のソウルフードわらじカツ丼を本場で。発祥と名高い「安田屋」の日野田店は、西武秩父駅から徒歩約十五分。ロース肉をラードで揚げた薄づくりのカツに、醤油ベースの甘辛いタレがよく染みる。丼からはみ出す二枚のカツは食感がそれぞれ違い、飽きさせない。席数が少なく行列必至なので、時間に余裕を持って訪れたい。

食べログ安田屋 日野田店
わらじカツ丼
住所
埼玉県秩父市日野田町1-6-9
電話
0494-24-3188
アクセス
西武秩父駅から徒歩約15分
営業/料金
11:30〜17:00頃(売切れ次第終了)/月曜定休
食べログで見る ▶

もう一つの双璧が豚みそ丼だ。秩父名物の豚肉の味噌漬けを香ばしく炭火で焼き、丼に豪快に乗せた一杯。西武秩父駅近くの「豚みそ丼本舗 野さか」は、その代表格として全国に知られる。秘伝の味噌ダレが染みた豚肉は、ご飯が止まらなくなる旨さだ。

食べログ豚みそ丼本舗 野さか
豚みそ丼(元祖)
住所
埼玉県秩父市野坂町1-13-11
電話
0494-22-0322
アクセス
西武秩父駅から徒歩約3分
営業/料金
平日11:00〜15:00/土日祝11:30〜15:30(売切れ次第終了)
食べログで見る ▶

「行列に並ぶ時間はない」「電車の時間が気になる」という人には、西武秩父駅直結の「祭の湯」フードコート内、秩父わらじかつ亭が便利だ。駅から徒歩一分、埼玉のブランド豚「姫豚」を使った姫豚わらじかつ丼や、祭の湯オリジナルの味噌わらじかつ丼が味わえる。後述する駅前温泉とセットで、行き帰りにさっと寄れるのが強みである。

食べログ秩父わらじかつ亭(祭の湯フードコート内)
わらじカツ丼・姫豚
住所
埼玉県秩父市野坂町1-16-15(西武秩父駅前温泉 祭の湯)
電話
0494-22-7111
アクセス
西武秩父駅直結・徒歩約1分
営業/料金
平日11:00〜18:30/土休日11:00〜19:30(フードコート)
食べログで見る ▶

食べ歩きなら、B級グルメの王者みそポテトを。ホクホクに蒸したジャガイモを天ぷらにし、甘めの味噌ダレをかけた、おやつにも酒の肴にもなる一品だ。屋台や食堂、道の駅で手軽に味わえる。さらに秩父はホルモン焼きの街でもあり、新鮮なモツを炭火で焼かせる名店が市内に点在する。豚肉文化の土地ならではの楽しみだ。

そして、夏に秩父を訪れるなら、天然氷のかき氷を外す手はない。長瀞の「阿左美冷蔵 金崎本店」は、今や希少となった天然氷を自ら製氷する明治創業の老舗。ミネラルを含んだ氷はふわりと溶け、いくら食べても頭がキーンとならない。連日数時間待ちの行列ができる、秩父を代表する一軒である。

食べログ阿左美冷蔵 金崎本店
天然氷かき氷(明治23年創業)
住所
埼玉県秩父郡皆野町金崎27-1
電話
0494-62-1119
アクセス
秩父鉄道 上長瀞駅から徒歩約3分
営業/料金
10:00〜16:30(L.O.)/木曜定休(7・8月は無休)
食べログで見る ▶
02Soak — The Hot Springs

第二章 — 浸かる — 神の湯と、駅前の祭の湯

山の露天風呂で旅の疲れをほどく

山の露天風呂で旅の疲れをほどく / Open-air hot spring

登拝で汗を流したら、温泉で身体をほどきたい。三峯エリアの湯には、知っておくべき事情がいくつかある。

まず、境内の宿坊「興雲閣」が引く三峯 神の湯。麓の秩父市大滝地域で湧く源泉を引いた、pH8.4前後の弱アルカリ性。五分浸かるだけで肌がすべすべになり、体がいつまでもぽかぽかと温もる、と評判の湯だ。ナトリウム-塩化物泉で、保温力に優れる。ただし、ここで一つ大事な注意がある。興雲閣の日帰り入浴は、2022年4月1日以降、休止されている。つまり、神の湯に入るには、興雲閣に宿泊するのが現在の唯一の方法だ。泊まれば入れる ── これが神の湯の今のかたちである。

ポイント:神の湯(興雲閣)に入りたいなら「宿泊」一択。日帰り入浴は現在行っていません。宿泊の手配は第四章へ。

「今日はさっと汗だけ流したい」「日帰りで温泉も楽しみたい」という人には、西武秩父駅前温泉「祭の湯」が最適解だ。西武秩父駅に直結し、岩風呂・花見湯・寝ころび湯・つぼ湯の露天と、高濃度人工炭酸泉・シルク湯・サウナ・岩盤浴まで揃う複合温泉施設。三峯神社からバスで麓に戻り、電車に乗る前の最後のひと風呂にちょうどいい。前売りの入館チケットをアソビューで事前購入しておけば、当日の支払いの手間もなく、スマホ画面を見せるだけで入れる。芝桜や登拝で汗だくになった後、さっぱり流して帰れるのは大きい。

アソビュー西武秩父駅前温泉 祭の湯
日帰り温泉(駅直結)
住所
埼玉県秩父市野坂町1-16-15
電話
0494-22-7111
アクセス
西武秩父駅直結
営業/料金
温泉10:00〜22:00(最終受付21:30)/入館料 大人1,100円〜
アソビューで前売券を買う ▶
03Experience — Climb, Pray, Play

第三章 — 体験する — 奥宮登拝、朝の御祈祷、渓谷で遊ぶ

妙法ヶ岳・奥宮への登拝と雲海

妙法ヶ岳・奥宮への登拝と雲海 / Climb to the okumiya

三峯神社の「体験」は、二つの方向に分かれる。一つは山の上、神域での精神的な体験。もう一つは、麓の渓谷でのアクティブな体験だ。

神域での体験の筆頭は、奥宮登拝である。妙法ヶ岳の山頂、標高千三百二十九メートルに祀られた奥宮までは、登山道を片道約一時間。千年の森と呼ばれる原生林を抜け、最後の鎖場を登り切ったところに祠が立つ。三峯神社の中で最も「境界が薄い」とされる場所で、登り切った者の多くが「何かを感じる」と語る。歩きやすい靴と装備で臨みたい。

次に、朝一番の御祈祷。これは興雲閣に宿泊した者の特権だ。早朝、参拝客のいない静まり返った拝殿で受ける御祈祷は、日中とはまったく密度が違う。そして三峯神社独自の御眷属拝借 ── お犬様(御眷属様)の神札を一年間お借りし、家を守っていただく ── も、ぜひ社務所で申し込みたい。神札を収める箱には、生きた御眷属様が呼吸できるよう、小さな穴が開けられている。

一方、麓に目を向ければ、三峯神社のある奥秩父は荒川の上流であり、渓谷アクティビティのフィールドでもある。秩父・長瀞のラフティングやキャニオニングは、参拝とはまったく違う角度から「お犬様の山域」を体感させてくれる。家族連れや、アクティブに一日を組みたい人は、参拝とセットで予定に入れる価値がある。

じゃらん 遊び・体験秩父・長瀞 ラフティング/川遊び
アウトドア体験予約
住所
埼玉県秩父郡長瀞町ほか(荒川上流域)
電話
—(各ツアー会社による)
アクセス
長瀞駅周辺ほか
営業/料金
シーズン・天候により催行(要予約)
じゃらんで体験を探す ▶
04Stay — Where to Sleep

第四章 — 泊まる — 境内の宿坊か、麓の温泉宿か

深い森に灯る、夜の境内宿坊

深い森に灯る、夜の境内宿坊 / Shrine lodging at night

三峯神社の宿泊は、大きく二択になる。神域の中で一夜を過ごす「境内泊」か、麓の秩父でゆったり休む「温泉宿泊」か。どちらを選ぶかで、旅の質が変わる。

神域の体験を最優先するなら、迷わず境内の宿坊「興雲閣」だ。最終バスが去った後の静寂、夜の境内、神の湯、そして朝一番の御祈祷 ── これらはすべて、ここに泊まった者だけのものだ。深山の聖地で過ごす一夜そのものが、参拝の核心になる。三峯のような奥深い聖地は、JTBの宿泊プランが手配の確実な入口になる。

JTB三峯神社 興雲閣(境内宿坊)
宿坊・宿泊
住所
埼玉県秩父市三峰298-1(三峯神社境内)
電話
0494-55-0241
アクセス
三峯神社バス停から徒歩約10分
営業/料金
チェックイン14:30/チェックアウト10:00(神の湯/日帰り入浴は休止中)
JTBで宿泊プランを見る ▶

境内泊にこだわらず、麓でゆっくり休みたいなら、秩父市街の温泉宿が選択肢になる。秩父七湯をはじめ、奥秩父には歴史ある名湯が点在している。旅のスタイルに合わせて、二つの入口を用意した。

記念日やご褒美の旅には、一休の厳選宿。露天風呂付き客室や上質な料理を備えた宿を、ワンランク上の滞在として選べる。

一休.com秩父の上質な温泉宿(リッチ)
宿泊予約(上質)
住所
埼玉県秩父市・秩父郡エリア
電話
—(各宿による)
アクセス
西武秩父駅・秩父駅周辺ほか
営業/料金
記念日・ご褒美の旅に。露天風呂付客室など
一休で上質な宿を探す ▶

コスパ重視なら、じゃらんの幅広い宿。三峯神社周辺から秩父市街まで、予算と日程に合わせて選びやすい。クチコミ評点も参考になる。

じゃらん三峯神社周辺の宿(スタンダード)
宿泊予約(コスパ)
住所
埼玉県秩父市・秩父郡エリア
電話
—(各宿による)
アクセス
三峯神社・秩父市街エリア
営業/料金
予算・日程に合わせて幅広く選べる
じゃらんで宿を探す ▶
05The Perfect Itinerary

第五章 — 段取り — 一泊二日のモデルコース

奥秩父の渓谷を見渡す

奥秩父の渓谷を見渡す / Oku-Chichibu valley

最後に、ここまでの要素を一本につないだ、一泊二日のモデルコースを示しておく。

一日目。池袋から特急で西武秩父駅へ。まず駅周辺で腹ごしらえ ── 安田屋でわらじカツ丼か、駅直結の祭の湯フードコートで手早く済ませる。バスに乗り換えて三峯神社へ。午後はゆっくり境内を巡る。三ツ鳥居、随身門の龍、敷石の龍、御仮屋。社務所で御眷属拝借を申し込む。夕方、最終バスが去り、境内が宿泊者だけの世界になる。興雲閣にチェックインし、神の湯で登拝の疲れをほどき、静かな山の夜を過ごす。

二日目。早朝、誰もいない拝殿で朝一番の御祈祷を受ける。天気がよければ奥宮遥拝殿から雲海を望む。体力と時間があれば、妙法ヶ岳の奥宮へ片道一時間の登拝に挑む。下山後、麓に戻り、余力があれば長瀞でラフティング。帰路、西武秩父駅前の祭の湯でもうひと風呂浴びて、汗を流してから特急で帰る。

食べて、浸かって、登って、泊まって、また浸かる。この二日間を通すと、日帰りでは決して見えなかった三峯神社の奥行きが、身体の感覚として残る。霧の出た朝に当たれば、なお良い。それは、何かが、すでに来ているということだから。

※当サイトはアフィリエイトプログラム(バリューコマース)を利用し、商品・サービスを紹介しています。掲載の料金・営業時間・定休日・運行・アクセスは変動の可能性があるため、予約・訪問前に各公式サイトでご確認ください。記事中の画像はイメージです。

※興雲閣の日帰り入浴は2022年4月1日以降休止されています(神の湯の利用は宿泊者のみ)。御眷属拝借・御祈祷の受付時間、奥宮登拝の可否(天候・季節により入山が制限される場合あり)は、三峯神社の公式情報をご確認ください。毎月1日は白い氣守の頒布により周辺道路が激しく渋滞するため、当日の参拝はバスより自家用車が推奨されています。

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次