量子の宇宙でからみあう心たち ― 超能力研究最前線

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量子の宇宙で
からみあう心たち

ENTANGLED MINDS — EXTRASENSORY EXPERIENCES IN A QUANTUM REALITY
『量子の宇宙でからみあう心たち ― 超能力研究最前線』
ディーン・ラディン 著/竹内薫 監修/石川幹人 訳

電話が鳴る前に、相手が分かる。まだ見ていない写真に、体が先に身構える。ベル研究所出身の技術者が、20年分・1019本の実験データを担いで問う——孤立した心など、最初から無かったのかもしれない。

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INTRO

アインシュタインは、それを「不気味」と呼んで嫌った。離れた二つの粒子が、距離を超えて瞬時に呼応する——量子のもつれ。だがそれは実証されてしまった。

粒子がそうなら、心は、どうなのか。本書は、その一線を踏み越える。神秘ではなく、データで。

01
The Engineer Who Started Measuring Ghosts
第1章

ベル研の技術者が、なぜ”心霊”を測り始めたのか

ヴァイオリンを弾く手だった。

ディーン・ラディンは、クラシックのヴァイオリニストとして5年、プロの舞台に立っていた。その手が、やがて電気工学の回路図を引き、人間の皮膚に電極を貼り、乱数発生器の出目を数えるようになる。超能力を、測るために。

ここで多くの人が身構える。超能力研究者——その言葉が連れてくるのは、暗い部屋、水晶玉、胡散臭い予言者のイメージだ。だがラディンの経歴を順に追うと、その像はことごとく裏切られる。

マサチューセッツ大学で電気工学を修めた。物理学で優等。イリノイ大学で制御工学とサイバネティクスの修士、そして1979年、心理学の博士号。就職先はAT&Tベル研究所。20世紀の通信技術を支えた、あの伝説の研究所だ。彼はそこで、アメリカと日本のネットワーク運用センターの人間用インターフェースを設計していた。パソコンが世に出る前に、複雑な人間-機械系の試作システムを組んだ技術者である。

神秘家ではない。エンジニアだ。

その彼が、ベル研で通信システムを設計しながら、こっそり別の実験を始めていた。超能力の実験を。論文を書き、超心理学会の年次大会で発表する。やがてプリンストン大学、エディンバラ大学、ネバダ大学に職を得る。シリコンバレーの民間シンクタンクを渡り歩く。そのうちの一つ、SRIインターナショナルでは——アメリカ政府のために超能力を研究する、機密プログラムの科学者を務めた。

国家が、超能力に予算をつけていた。そしてその現場に、ベル研出身の技術者がいた。

なぜエンジニアが、こんな場所へ来たのか。ラディン自身の答えは、拍子抜けするほど素朴だ。子供の頃から「心は、我々が知っているよりも、はるかに神秘的で強力なのではないか」という直感に取り憑かれていた、と彼は書く。神話を読み、東洋と西洋の心理学を読み、SFを読んだ。十代で、催眠と超能力の実験を自分で始めた。その少年が、回路の設計図を引けるようになっただけだ。動機は、最初から最後まで一本だった。

彼は超心理学会の会長を4度務めている(1988年、1993年、1998年、2005年)。現在はカリフォルニアのノエティックサイエンス研究所の主任研究員。この本『量子の宇宙でからみあう心たち』は、彼が20年以上かけて積み上げた実験データを、一般読者に向けて差し出した一冊だ。

そして、ここからが本題になる。ラディンは「超能力者がいる」と言いたいのではない。彼が武器にするのは、神秘ではない。物理学だ。アインシュタインが嫌い、しかし実証されてしまった、量子力学のある奇妙な事実——そこから、彼の論は動き出す。

CH.1
02
The Thing Einstein Called Spooky
第2章

アインシュタインが”不気味”と呼んだもの

アインシュタインは、それが嫌いだった。

二つの粒子が、いったん触れ合うと、どれだけ離れても繋がったままになる。一方をいじると、もう一方が——間に何の信号も飛んでいないのに——同時に応じる。何百キロ離れていても、瞬時に。アインシュタインはこれを「不気味な遠隔作用」と呼んで、最後まで認めたがらなかった。こんな気味の悪いことが、宇宙の根っこで起きているはずがない、と。

だが起きていた。量子のもつれは、いまや実験で何度も確かめられた、れっきとした物理現象だ。疑いようがない。アインシュタインが間違っていた。

ここで多くの人は、こう思うはずだ。粒子の話だろう、と。原子より小さな世界の、自分の暮らしには関係のない奇妙な法則。電子や光子が遠くで手を繋いでいようと、朝のコーヒーは冷める。

ラディンが差し込むのは、その「関係ない」の隙間だ。

彼は問う。粒子がそうなら、心は、どうなのか。離れた二つの粒子が距離を超えて相関するなら、離れた二つの心が相関しても、原理的におかしくないのではないか。電話が鳴る前に相手が分かる。遠くの肉親の異変を、理由もなく感じ取る。そうした「心のつながり」は、もしかすると、宇宙がもともと持っている”もつれ”の、人間サイズの現れなのではないか。

本書の原題は Entangled Minds。直訳すれば「もつれ合う心たち」。タイトルそのものが、この飛躍を宣言している。

正直に言う。この飛躍は、本書でいちばん脆い一点でもある。物理学者の多くは、ここで首を横に振る(その反論は第9章でまるごと扱う)。粒子のもつれと心のつながりのあいだには、橋がかかっていない、と。

だがラディンは、いきなり結論へ飛ぶわけではない。彼はまず、膨大な実験データを積み上げる。「心はつながっている」という派手な主張を信じてくれと言う前に、地味な数字を一つずつ並べていく。その最初の一歩が、誰もが一度は経験している、あのありふれた瞬間だ。

電話が、鳴る。手に取る前から、誰だか分かっている。

CH.2
03
You Know Who’s Calling Before the Phone Rings
第3章

電話が鳴る前に、誰からか分かる

誰にでも、覚えがあるはずだ。

電話が鳴った瞬間、相手の顔が浮かぶ。遠くに住む親のことが急に気にかかって、電話してみたら、ちょうど具合を悪くしていた。考えていた人から、その日にメールが来る。虫の知らせ。胸騒ぎ。

こういう話を、私たちはふつう、こう処理する。気のせいだ、と。当たったときだけ覚えていて、外れた無数の回数は忘れている。偶然を、後から意味づけしているだけ。——これは、まっとうな疑い方だ。実際、その通りのことも多い。

ラディンは、この「気のせい」を否定しない。むしろ、そこから始める。彼が問うのは、別のことだ。もし本当にただの偶然なら、なぜ世界中の、どの文化のどの時代の人間も、判で押したように同じ体験を報告するのか。

本書によれば、超心理的な体験は、人類のごく一部の特殊な才能ではない。世論調査では、大半の人が何らかの超能力的な体験を信じている、あるいは経験したと答える。これは少数の変わり者の妄想ではなく、人間という生き物に広く分布した、ありふれた現象だというのだ。

ありふれているからこそ、科学が相手にしてこなかった、とラディンは言う。曖昧で、再現しにくく、まじめに研究すると同僚から白い目で見られる。だから多くの科学者は手を出さない。世界中で超能力を本業として研究している科学者は、わずか50人ほどしかいない——本書はそう記す。

ここでラディンは、ひとつの賭けに出る。日常のなかでバラバラに語られてきた「気のせい」を、実験室に持ち込む。曖昧な体験談を、測れる数字に変えてしまえばいい。当たった回数と外れた回数を、厳密に数える。偶然なら出るはずのない偏りが、それでも出るのかどうかを見る。

体験談は、証拠にならない。ラディンもそれは認める。だから彼は、体験談を入口にしか使わない。本当の勝負は、管理された実験室のなかにある。そこで彼が見つけたものは、「気のせい」では片づかなかった。

人間の体は、まだ起きていない出来事に、先回りして反応していたのだ。

CH.3
04
The Body Braced for a Picture It Hadn’t Seen Yet
第4章

体が、まだ見ていない写真に身構えた

これが、本書の心臓部だ。

1993年、ラディンはひとつの実験を思いつく。仕掛けはこうだ。被験者をモニターの前に座らせ、指に電極を貼る。皮膚電気反応——人が驚いたり緊張したりすると、汗腺がわずかに反応して皮膚の電気の通りやすさが変わる、嘘発見器でも使うあの指標——を測る。心拍も測る。

そしてモニターに、写真を一枚ずつ見せる。コンピュータがランダムに選ぶ。穏やかな写真(風景、静かな自然)か、感情を強く揺さぶる写真(暴力的なもの、性的なもの)か。どちらが出るかは、その瞬間まで誰も知らない。被験者も知らない。実験者も知らない。二重盲検だ。

感情的な写真が出れば、人の体は反応する。皮膚電気が跳ね、心拍が乱れる。当たり前だ。問題は、いつ反応するか、である。

ふつうに考えれば、写真が現れた後に決まっている。見て、驚いて、体が応じる。順番はそうでなければならない。原因が先、結果が後。時間はそういうふうに流れている。

データは、順番を裏切った。

感情的な写真が出るときに限って、被験者の体は、写真が現れる数秒前から、先に反応し始めていた。これから不快なものが来ると、まだ何も見ていないのに、身構えていたのだ。穏やかな写真のときには、その先行反応は出なかった。体は、次に来るものの中身を、コンピュータが選ぶより前に、知っているかのようだった。

ラディンはこれを「プレゼンチメント(予感)」と名づけた。彼の言葉では、「何か穏やかでないことが、これから起きようとしている、という直感」。

一度きりの偶然ではない。彼は実験を重ねた。最初の実験は被験者24人で、先行反応が偶然で起きるオッズは500対1。二度目は50人で、予測した方向に出たが弱かった。三度目は機材もソフトも写真も変えて47人、強い予感効果が出て、オッズは2,500対1。四度目は、統計的に有意な差は出なかった。

ばらつきはある。ラディンはそれを隠さない。だが四つの実験をまとめて分析すると、全体として偶然で説明できるオッズは12.5万対1になった——本書はそう報告する。

そして、これは彼一人の思い込みではなかった。オランダのアムステルダム大学の心理学者ディック・ビーアマンが、同じ実験を追試し、効果を再現した。その後も多くの研究者が、皮膚電気だけでなく、心拍、瞳孔の開き具合といった別の生理指標でも、同じ現象を捉えたという。

ラディンの結論は、静かだが、重い。ふつうの人が、これから感情的な画像を見ようとするとき、その人はそれが現れる前に反応する——二重盲検の条件下で。

あなたの体は、あなたが気づくより少しだけ早く、未来に触れているのかもしれない。

/ 検証の目線この実験には強い批判がある。懐疑派は、画面の「跳ね」を超能力の証拠と決めてかかる前に、別の説明——前に見た写真の記憶や、無意識の予測のクセ——を潰しきれていない、と指摘する。グラフの軸の取り方で小さな差を大きく見せている、という批判もある。効果そのものが小さいことは、ラディン自身も認めている。第9章で改めて扱う。
CH.4
05
Hours Before 9/11, the World’s Dice Stopped Being Random
第5章

9.11の数時間前、世界中の乱数が狂い始めた

個人の体だけではない。ラディンは、もっと大きなものを測ろうとした。世界そのものを。

グローバル・コンシャスネス・プロジェクト(地球意識計画)という。1998年、プリンストン大学の異常研究の系譜から、ロジャー・ネルソンという研究者が始めた。世界中の数十か所——最大で世界65〜70か所——に、乱数発生器を置く。これは電子的なサイコロのような装置で、放っておけば0と1をでたらめに、半々で吐き出し続ける。偏る理由は、どこにもない。純粋な偶然の泉だ。アラスカからフィジーまで、ほぼ全ての時間帯に、その泉が点在している。

仮説は、こうだ。世界中の人間の心が、ある一点に集中する瞬間——大事件、大災害、世界中が同じニュースに釘付けになる時——その「集合した注意」が、もし物理世界にわずかでも影響するなら、でたらめなはずの乱数に、偏りが現れるのではないか。

サイコロが、世界の心を聞いて、偶然をやめる。

2001年9月11日。本書によれば、世界貿易センターに最初の飛行機が突っ込む数時間前から、乱数のデータにスパイクが現れ始め、その偏りは一週間以上にわたって続いた、という。ダイアナ妃の死、年越しの瞬間——世界中の注意が一点に集まる時に、データが動いた、と彼は報告する。

本書はこのデータについて、偶然ではまず起こりえない偏りだとする。ただしラディン自身、ここには「これは純粋に推測の域を出ない」と但し書きを添えることを忘れない。証拠だと言い張らない。奇妙なものを見た、とだけ言う。

正直に言う。この章は、本書のなかで最も激しく争われている場所だ。

/ 検証の目線独立した研究者がGCPの9.11データを再解析したところ、結論は真逆だった。問題の時間帯のデータは、統計的には「偶然の範囲」で説明できる、という。ラディンが選んだ「6時間の移動平均」という分析窓が、たまたま劇的に見える形を作っただけで、もし3時間にしていたらグラフはまるで違って見えた、と批判者は指摘する。さらに、似たような偏りは事件のない平凡な日にも現れている。「事件の前に偏った」のか「偏ったデータを後から事件に結びつけた」のか——ここが、この計画の最大の急所だ。同じデータを、両者は逆に読む。
CH.5
06
Rolling Dice With Your Mind
第6章

サイコロを、念じて転がす

心が、未来を先取りする。なら、心は物に触れられるのか。

念力(サイコキネシス)。スプーン曲げの安っぽいイメージがまとわりつく言葉だ。だがラディンが持ち出すのは、舞台の上の見世物ではない。実験室の、退屈な数字だ。

古典的なのは、サイコロを使った実験だった。被験者に、特定の目が出るように「念じて」もらう。何万回と転がして、念じた目が偶然より多く出るかを数える。地味だ。派手な超能力者は、ここには要らない。要るのは、わずかな偏りと、それを支える膨大な試行回数だけだ。

もっと洗練された舞台が、プリンストン大学にあった。PEAR研究所(プリンストン工学異常研究所)。大学の工学部のなかに、こうした研究所が存在した、という事実そのものが、まず人を驚かせる。ここでは被験者が、電子的な乱数発生器に向かって「もっと1を出せ」「もっと0を出せ」と念じる。装置の出目が、その意図のほうへ、ほんのわずかに傾くかを測る。

本書は、こうした心物連関の実験が、膨大な数積み上げられてきたと記す。一回の効果は、笑ってしまうほど小さい。だが回数を重ねると、その小さな偏りが偶然では消えない大きさで残る——というのが、ラディンの主張の組み立て方だ。

/ 検証の目線PEARのデータには、深刻な指摘がある。ある一人の被験者が全試行の15%に関わりながら、当たりの50%を叩き出していた、という分析がある。その一人を除くと、結果はほとんど消える。乱数発生器が真の乱数ではなく擬似乱数だった可能性、統計処理に異論があること——批判は尽きない。念力は、本書のなかでも特に足場の弱い領域だ。

ここまでは、いわば前哨戦だ。ラディンの本当の武器は、個々の派手な実験ではない。何百もの地味な実験を、一つの巨大な数字に束ねる——その手口にある。

CH.6
07
The Real Weapon: Stacking Small Effects Into a Mountain
第7章

35年で44例。なのに、ある追試では桁が違った

ラディンの主戦場は、メタ分析だ。

一つの実験の効果は小さい。小さすぎて、それだけ見れば「気のせいかもしれない」で済んでしまう。懐疑派はそこを突く。だがラディンは発想を変える。一本の矢は折れる。なら、何百本を束ねればいい。

たとえばガンツフェルト実験。被験者の視覚と聴覚を、穏やかに遮断する。半分に切ったピンポン玉を目に当て、ピンクのノイズを耳に流す。感覚の入力を絞った状態で、別室の「送り手」が見ている映像を、テレパシーで受け取れるかを試す。ラディンはこれを「誰もが知るかぎり、完璧に近い超能力実験」と評する。

一つのガンツフェルト実験の当たり率は、偶然の25%をわずかに上回る程度だ。地味そのもの。だが世界中の研究室で行われたガンツフェルト実験を、何十、何百と集めて統合すると——偶然では説明しにくい偏りが、全体として立ち上がってくる。これがメタ分析だ。ラディンらが1974年から2001年までの全研究をひとつに束ねたとき、約2,900セッションの当たり率は32%に落ち着いた。25%との差はたった7ポイント。だが、これだけのセッション数で7ポイントずれる確率は、偶然では天文学的に小さい。

そして本書の総決算が来る。ラディンは、夢のテレパシー、ガンツフェルト、凝視効果、遠隔の意図、サイコロ念力、乱数発生器念力——あらゆる種類の超能力実験、約1000本を、一つの巨大なメタ分析に束ねた。

その結果、全体が偶然で説明できるオッズは、10の104乗分の1

桁を、もう一度書く。1のあとに、ゼロが104個。宇宙にある原子の数より、桁違いに大きい。これだけのデータが偶然の産物である確率は、事実上ゼロだ——ラディンはそう突きつける。「何か興味深いことが起きているのは、ほとんど疑いようがない」と。

本書に寄せられたある評は、この数字を前にした人間に残された道は、たった三つしかないと言う。研究者全員がとてつもなく無能であるか。世界規模の組織的な不正が行われているか。あるいは、本当に何かが起きているか。この三択は、そのまま読者に突きつけられている。あなたは、どれを選ぶのか。

/ 検証の目線この「束ねる」手口こそ、ラディンの最強の武器であり、最大の的でもある。批判の核は二つ。一つは、統計的に意味をなさないほど小さな研究まで束に混ぜている、という指摘。もう一つは「ファイルドロワー問題」——うまくいかなかった実験は発表されず引き出しの中に眠るため、発表された成功例だけを集めれば、束は自動的に「効果あり」に傾く、という疑いだ。10の104乗という数字の大きさは、効果の確かさではなく、束ねた本数の多さを映しているにすぎない、と批判者は言う。
CH.7
08
The Unsettling Data: Believers Score Higher on Creativity
第8章

「信じる人ほど創造的」という不穏なデータ

ここで本書は、奇妙な角を曲がる。

超能力を信じる人間とは、どういう人間か。一般のイメージは決まっている。非科学的で、騙されやすく、教育が足りない人々——そう片づけたくなる。信じない自分のほうが、賢く、冷静だ、と。

本書の章タイトルは、それを正面から裏返す。「信じる人は創造性が高い」

ラディンが持ち出すデータによれば、超能力を信じるか信じないかは、知能や学歴の差ではない。信じる人が愚かで、信じない人が賢い、という単純な図式は成り立たない。むしろ、信じやすさは、ある種の認知のスタイルと結びついている、という。

鍵になるのが「潜在抑制」という概念だ。専門用語なので、すぐ日常語に言い換える。脳は、無関係だと一度学習した情報を、自動的に切り捨てて意識に上らせない仕組みを持っている。雑音を消して、必要なものだけに集中するためのフィルターだ。これが「潜在抑制」。

このフィルターが、人より緩い人がいる。ふつうなら捨てられる情報まで、意識に流れ込んでくる。それは情報の洪水に溺れる危うさでもあるが、同時に——他人が無関係として捨てる断片どうしを、思いがけず結びつける力にもなる。創造性の高い人、芸術家や発明家に、このフィルターの緩さが見られる、という研究がある。

そして、超能力を信じやすい人にも、同じ傾向が見られる、とラディンは言う。

つまり、こうだ。世界の隙間から、ふつうの人が拾わない信号を拾ってしまう。その同じ感受性が、ある人を創造的にし、ある人を「虫の知らせ」を感じる人にする。信じる人は、現実を見ていないのではない。本書の言い方を借りれば、「他の人より、世界の奥深くまで見ている」のかもしれない。

/ 検証の目線この「信じる人ほど創造的」という主張に、懐疑派は強く反発する。むしろ、無関係なものを結びつけてしまう傾向は、偶然を意味あるパターンと誤認する性質——超能力を「感じてしまう」誤りそのもの——の言い換えではないか、と。同じデータが、一方には感受性に見え、他方には認知の偏りに見える。
CH.8
09
Why Physicists Call This Book Pseudoscience
第9章

物理学者たちが、この本を”疑似科学”と呼ぶ理由

ここまで、ラディンの側に立って書いてきた。今度は、冷水を浴びせる番だ。

本書を持ち上げてきた読者ほど、この章で立ち止まってほしい。なぜなら、ラディンの中心的な主張——「量子のもつれが、心のつながりを説明する」——を、物理学者の多くは、はっきり退けているからだ。

橋が、かかっていない。これが批判の核心だ。

量子のもつれは実在する。だが、もつれた粒子を使って情報を瞬時に送ることは、できない。それは光の速さを超えないことが、理論的に保証されている。もつれは「不気味」だが、通信には使えない。一方、脳のなかの大量の粒子が、別の脳のなかの大量の粒子と、意味のある形でもつれる確率は——物理学者に言わせれば、ほぼゼロだ。ラディン自身、生体でもつれを示すには「実際上の困難がある」と認めている。つまり、本書の看板である「もつれ→心のもつれ」は、証明された物理ではなく、詩的なアナロジーにとどまる。

批判は、データの集め方にも及ぶ。

あるレビュアーは、ラディンが「成功した」「複数の研究室で再現された」と言うとき、その言葉は割り引いて聞くべきだと釘を刺す。例を挙げる。ラディン自身の研究室で行われた、凝視効果(誰かに見られていると感じる現象)の実験。シュリッツとワイズマンという二人の研究者が同じ実験をしたところ、何も出なかった。論文にはラディンの名も連なっている。だが本書は、自分の研究室で出た、この否定的な結果に触れていない、という。

念力のPEAR研究で、一人の被験者が成績の大半を稼いでいた件(第6章)。9.11のGCPデータが独立解析では偶然の範囲だった件(第5章)。プレゼンチメントの「跳ね」を超能力と決めてかかる前に、記憶や無意識の予測といった平凡な説明を潰しきっていない件(第4章)。——批判者の見立ては、一貫している。ラディンは、統計的な異常や画面の跳ねが出るたびに、それを超能力の証拠と「決めてかかっている」。本当に問うべきは、その跳ねが超能力と何か関係があるのか、という一点なのに、と。

付け加えておく。本書のあと、ラディンの研究はさらに踏み込んでいく。後年の研究では、量子力学で最も有名な二重スリット実験——観測すると粒子のように、観測しないと波のように振る舞う、あの現象——を、被験者の「意図」とともに走らせた。被験者に片方のスリットへ意識を集中させると、干渉の模様がわずかに変化した、と彼は報告する。しかも効果は、瞑想の経験者で強く出た、と。ただしこれは本書の射程の外であり、追試と検証はなお続いている。本書の主張の延長線上に何があるかを示す一例として、ここに置いておく。

物理学者ハインツ・パーゲルスは、かつて別の文脈で、現代物理学と神秘思想を結びつける語り口をこう切り捨てた。資格のある物理学者なら、知っていてそれをやれば詐欺だ、と。同じ刃が、本書にも向けられている。量子力学を、東洋神秘思想やスピリチュアルと並べて「ほら、符合する」と見せる手つきは、1970年代に一度否定されたものの焼き直しだ、と。

ラディンは、こうした批判者の評価を、本書のなかでほとんど取り上げない。批判は「時代遅れ」で「頑迷」だと退ける。だが批判者から見れば、それは反論という重い仕事から逃げる口実にすぎない。

公平に置いておく。ここが、本書のいちばん弱い場所だ。

CH.9
10
Admitting You Can’t Prove It Becomes the Strongest Proof
第10章

証明できない、と認めることが最大の説得力になる

ここまで読んで、奇妙なことに気づかなかっただろうか。

ラディンは、10の104乗対1という、宇宙の原子の数を超える数字を握っている。それだけの証拠を積み上げておきながら、彼は一度も「超能力は証明された、信じろ」とは書かない。彼が繰り返すのは、もっと控えめな言葉だ。「もつれは、psiの理解につながる”かもしれない”」。「これは純粋に推測の域を出ない」。「実際上の困難がある」。

断定しない。これが、本書のいちばん奇妙な力だ。

ふつう、説得とは言い切ることだと思われている。だがラディンは逆をいく。分からないことを分からないと認め、自分の弱点を自分で先に開示し、批判の余地を残したまま、データだけを静かに差し出す。その慎重さが、かえって彼を、水晶玉の予言者から遠ざける。彼を、フロンティアに立つ一人の科学者に見せる。彼自身、こう書いていた——「”正しい答え”を知らないという曖昧さに、心地よく耐えられる。それが、フロンティアでは絶え間ない道連れになる」

だが、断定しない誠実さは、本書を安全な場所には置いてくれない。むしろ最後に、刃はこちらを向く。

思い出してほしい。第4章で、まだ見ていない写真に先回りして身構えた、あの体のことを。

あれは、舞台の上の特別な超能力者の話ではなかった。実験室の椅子に座った、ごくふつうの被験者の体だ。あなたや私と、同じ作りの体。もしプレゼンチメントが本当なら、それは「選ばれた誰か」が持つ才能ではない。今この文章を読んでいる、あなたの皮膚と心臓に、もともと備わった働きだということになる。

私たちは、心を、頭蓋骨の内側に閉じ込められた孤独なものだと思っている。世界は外にあり、自分は内にいて、皮膚がその境界線だ、と。電話が鳴る前に相手が分かるのは気のせいで、遠くの誰かの異変を感じるのは偶然で、自分の意識は自分のなかだけで完結している——その前提の上に、私たちは「私」を立てている。

ラディンが20年の数字で揺さぶろうとしたのは、超能力の有無ではない。その前提のほうだ。心は、皮膚の内側で終わっていないかもしれない。あなたは、あなたが思うほど、世界から切り離されていないかもしれない。

これは、遠い研究室の、奇妙な実験の話だと思って読み始めたはずだ。

その体が、たった今、次の一行に身構えている。

CH.10

BOOK DATA

書名
量子の宇宙でからみあう心たち ― 超能力研究最前線
著者
ディーン・ラディン(Dean Radin)
監修
竹内薫
石川幹人
原題
Entangled Minds: Extrasensory Experiences in a Quantum Reality(2006)※抄訳
シリーズ
「超知」ライブラリー サイエンス 001
出版社
徳間書店
刊行年
2007年8月
判型
20cm
ページ数
393p
ISBN
978-4-19-862379-1

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