熊本 幣立神宮・五色人の地下回廊

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目次

プロローグ — 九州のへそ、隠れ宮への道

国道218号を、ただ走っているだけでは、たどり着けない。

熊本県の東部、山都町。阿蘇の外輪山を背に、宮崎との県境へ向かって伸びるこの道は、地元で「神話街道」とも呼ばれている。高千穂へ続く山あいの道だ。緑が深く、空が近い。けれど、その途中にひとつの宮が隠れていることに、多くの人は気づかないまま通り過ぎていく。

道がゆるくカーブを描くところ。そこに、小さな案内の柱が立っている。「幣立神宮」。注意して見ていなければ、まず見逃す。実際、この神社を訪れようとした人の多くが、一度はその前を素通りしてしまったと書き残している。観光バスが連なるわけでもなく、大きな看板が出ているわけでもない。ここは、いわゆる「隠れ宮」なのだ。

幣立神宮(へいたてじんぐう)は、日本の神社本庁にも属していない。全国の神社の多くが組織のもとに連なるなかで、この宮はそこから外れた場所に、ひっそりと在り続けている。知る人ぞ知る、という言葉がこれほど似合う神社も珍しい。そして、その「知る人」たちが口を揃えて言うのが——ここは、選ばれた者しかたどり着けない、という言い伝えだ。

迷信めいて聞こえるかもしれない。だが、実際に参拝した人々の記録を読んでいくと、奇妙な符合に何度も出会う。行こうとしても道に迷う。予定が流れる。ところが、ふとした縁が重なって、まるで招かれたように、すんなりと社の前に立っていた——そんな体験談が、いくつも残されている。

なぜ、こんな山の奥に、これほど深い物語を抱えた宮があるのか。

幣立神宮は、その由緒において「一万五千年の歴史を持つ」と語られる。神武天皇が即位するよりも前、天孫降臨よりもさらに昔、天地が分かれたばかりの神々の時代にまで、その起源はさかのぼるという。境内には、樹齢ではなく「命脈」一万五千年と伝えられる御神木がそびえる。そして本殿には、五年に一度しか開かれない秘宝——赤・白・黄・黒・青の五色に塗り分けられた、人類の祖神を象ったという面が納められている。

ここは、世界の人類が一つの場所から生まれ、五つの色に分かれて地上に散っていった——その「ふるさと」だと伝えられている地なのだ。

九州のほぼ中央、地図の上でちょうど「へそ」にあたる位置。地球の臍とでも呼ぶべきこの一点に立つとき、私たちは日本神話の最も古い層へと、静かに足を踏み入れることになる。そしてこの旅は、地上の社を巡るだけでは終わらない。本殿の裏手から森を下り、龍神の眠る池へ。さらにその奥、神話と伝承が地球の内部へとつながっていく場所へ——。

これは、神話の底へ降りていく旅の記録である。

まずは、その入口に立ってみよう。

第1章 幣を立てた者 — 健磐龍命と白鳥の伝説

どんなに古く、どんなに神秘的に語られる神社にも、「表向きの物語」がある。社伝、つまり神社自身が公式に伝える由緒だ。それは神社の入口に掲げられた看板のようなもので、訪れる者がまず最初に出会う、いちばん外側の顔である。多くの参拝者は、この表の物語に手を合わせ、満ち足りて帰っていく。それで何も問題はない。だが、ごくまれに、その看板の奥に何かもっと暗く深いものが続いている気配を感じ取ってしまう者がいる。幣立神宮は、そういう神社だ。そして、その表の物語は、一柱の神と、一羽の白い鳥から始まる。

時は神代から少し下る。神武天皇の孫にあたる健磐龍命(たけいわたつのみこと)という神がいた。初代天皇から「西の海を鎮めよ」との命を受け、九州の地——当時の「火の国」へと下っていった神である。

この健磐龍命という神を、少し説明しておきたい。九州、とりわけ阿蘇においては、知らぬ者のない偉大な神だ。伝承によれば、命はかつて一面の湖だった阿蘇のカルデラを前にして、外輪山の一角を蹴り破り、湛えられていた水をことごとく抜き去って、そこに広大な土地を生み出したという。このとき、外輪山を蹴破ったはずみで命は尻もちをついてしまい、「立てぬ」と叫んだ——その場所が、いまの「立野」と呼ばれるようになったと伝えられている。偉大な開拓神が、力業のあまり転んで立てなくなる。神話でありながら、どこか人間くさい、親しみのある逸話だ。ともあれ、水が引いたあとに現れた肥沃な平野は、人々が田を拓き、稲を実らせる大地となった。荒ぶる自然に人の手を入れ、住める国土へと変えていく——阿蘇を「開拓」した神とは、そういう意味である。そして命は、自らが拓いた土地の守り神として、いまも阿蘇神社の主祭神として祀られている。九州の人々にとって、健磐龍命は単なる神話の登場人物ではない。自分たちが田を作り、米を実らせ、暮らしを営むその大地そのものを生み出した、根源の神なのだ。

その偉大な神が、九州を巡る長い旅の途上で、この幣立の地を踏んだ。

その道のりを、幣立神宮の宮司はこう伝えている。命は日向国——いまの宮崎から、五ヶ瀬川に沿って三田井(高千穂)へ入り、馬見原を通って、草部の地へと進んでいった。地図を広げてみれば、これは九州の山深い背骨をなぞるような道のりだ。五ヶ瀬川は、九州山地の険しい谷を刻みながら流れる川である。その流れをさかのぼるということは、文明から遠ざかり、山の奥へ奥へと分け入っていくということだ。そして高千穂——天孫降臨の伝承で知られる、神話の里。天の神々が地上に初めて降り立ったとされるその聖地のすぐ近くを、命は歩いていた。山が幾重にも重なり、谷が深く刻まれ、霧が峰々を這う。神話の気配が今なお濃く立ちこめる、容易ならぬ行程である。

その途上のことだ。一羽の白鳥が現れ、命をこの幣立の地へと案内したという。

白い鳥が神を導く——この光景には、深い含みがある。古来、白い鳥は神の使い、あるいは神そのものの化身とされてきた。穢れのない白い羽、地に縛られず天と地を自在に行き来する姿。それは、人の世とは別の次元から訪れた使者の象徴だった。日本神話においても、白鳥は神聖な存在のしるしとしてたびたび現れる。倭建命(やまとたけるのみこと)が世を去ったのち、その魂が白鳥となって飛び立った、という有名な伝承を思い起こす人もいるだろう。死してなお天をかける魂の象徴——それが白鳥なのだ。その白鳥が、ほかでもないこの地へと命を導いた。これを単なる偶然と見るか、神の意志のあらわれと見るかで、この物語の色合いはまるで変わってくる。

導かれるまま足を止めた神は、眼前に広がる眺めの美しさに心を打たれた。九州のほぼ中央、見晴らしのよい高台。四方に山なみが連なり、空が大きく開けている。眼下には深い緑が波打ち、頭上には遮るもののない天が広がる。天と地が、この一点で出会っているかのようだ。ここはただの通り道ではない、と命は感じたのだろう。神はその場に幣帛(へいはく)を立て、天つ神・国つ神——天神地祇を祀った。

幣帛とは、神に捧げる供え物の総称であり、なかでも神聖な布や、紙を垂らした幣(ぬさ・御幣)を指す。神を迎え、神に祈るとき、その依り代として立てられる、神聖な祭具である。今日でも神社で、白い紙が稲妻のように折られて垂れ下がっている、あの幣を見たことがあるだろう。あれが幣だ。神と人とをつなぐ依り代であり、そこに神が降りてくるとされる、目に見えない神聖を目に見える形にしたものである。それを「立てた」場所だから、幣立。社の名は、この一柱の神の所作そのものから生まれた。名は体を表すというが、この神社の名前そのものが、神が幣を立てたというあの起源の瞬間を、千年を超えて今日まで封じ込めているのである。参拝者が「へいたて」と口にするたび、その人は知らず知らず、神が天神地祇を祀ったあの瞬間を、声に出してなぞっていることになる。

興味深いのは、この白鳥の伝承を語る宮司が、それを単なる偶然の道案内とは見ていないことだ。命はこの地が「高天原」「日の宮」であることを、はじめから知っていた——だからこそ阿蘇開拓に情熱を注いだのも、この神々の都を守り固めるためだった、と宮司は語る。つまり、白鳥に導かれてたまたまたどり着いた、のではない。命は最初から、ここが特別な場所であることを知っていて、その備えのために九州一帯の地を整えていた、というのである。順序が逆なのだ。聖地があったから神が来たのではなく、神が来るよりずっと前から、ここはすでに聖地だった。健磐龍命でさえ、その古い聖地に「あとから」幣を立てに来た一柱にすぎない——宮司の言葉は、そう受け取ることもできる。表の伝承の背後に、もっと深い歴史の真実が秘められている。ほかならぬ宮司自身が、そう語っているのだ。

これが、幣立神宮が自ら語る、いちばん表側の由緒である。

歴史の記録をたどれば、神社としての輪郭はもう少しはっきりしてくる。延喜年間(九〇一〜九二三年)、阿蘇の大宮司・友成が社殿を造営し、伊勢の内宮と外宮——天照大神と豊受大神を祀って「幣立社」と号した。伊勢といえば、日本の神社の頂点に立つ、皇室の祖神を祀る聖地である。その伊勢の最も尊い二柱の神々を、はるか遠いこの九州の山中にわざわざ勧請したという事実は、それ自体が重い。この地が、伊勢に並ぶべき神を迎えるにふさわしい場所と見なされていたことを物語るからだ。さらに天養元年(一一四四年)、大宮司・友孝が阿蘇十二神を合わせ祀り、この大野郷一帯の総鎮守とした。伊勢の神々に加えて、土地の守り神である阿蘇の神々をも祀り、地域の信仰の中心に据えたわけである。現在の社殿は、享保十四年(一七二九年)に肥後細川家——細川宣紀によって改修されたものである。熊本を治めた大名・細川家がわざわざ手を入れたという事実は、この神社が地域において確かな格式を保ち、為政者からも敬われていたことを示している。明治六年(一八七三年)には郷社に列している。

こうして並べてみると、幣立神宮は阿蘇開拓の神・健磐龍命にゆかりを持ち、伊勢の神々と阿蘇の神々を祀る、由緒正しい地域の鎮守として歩んできたことがわかる。国土を造り、農耕をもたらす神を祀る宮。一千年を超える記録に裏打ちされた、確かな歴史を持つ神社。それが、文献の上に残る幣立神宮の、誠実で堅実な姿である。

——だが、ここで一つ、立ち止まっておきたい。

いま語ったのは、あくまで「神社の表の物語」だ。健磐龍命が幣を立てた、という社伝。延喜年間に伊勢を祀った、という記録。これらは、いわば歴史の地表に出ている部分にすぎない。地表に出ているものは確かに見えやすく、語りやすい。年号があり、人物の名があり、出来事が整然と並んでいる。資料として引くこともできる。けれど、地表に露出した地層の下には、もっと厚く、もっと暗く、もっと古い地層が、幾重にも積み重なって広がっているものだ。私たちが普段目にしているのは、その最も上のひと皮にすぎない。

なぜなら、幣立神宮には、この健磐龍命よりもはるか昔——天孫降臨よりも、神武天皇よりも、さらに何千年もさかのぼる時代の物語が、別に伝えられているからだ。先ほどの宮司の言葉を、もう一度思い出してほしい。命が幣を立てたとき、この地はすでに「高天原・日の宮」だった、と。誰かが幣を立てる、ずっと前から、ここは聖地だったというのである。とすれば、健磐龍命の物語は、この聖地に積もった地層の「最も新しい層」の一つにすぎない、とさえ言えるかもしれない。一千年の歴史ですら、ここでは「新しい」のだ。

その「ずっと前」に、何があったのか。

幣立神宮を訪れる者の多くが、表の由緒だけでは説明のつかない何か——一万五千年という途方もない時間、五色に塗られた人類の祖神の面、ガイドブックにも載らない隠れ宮としての佇まい——に惹きつけられていく。理屈ではない。鳥居をくぐり、鬱蒼とした杉木立に包まれた参道に足を踏み入れた瞬間、多くの人が「空気が違う」と感じるという。うまく言葉にはできない。けれど確かに、ここには何かがある。表の物語の足元に、もう一つの、はるかに深い物語が眠っている。その気配を、人は理屈より先に、本能で感じ取るのかもしれない。

その入口は、境内にそびえる一本の御神木にある。次の章では、その木が刻んできた「命脈一万五千年」という、私たちの常識とはまったく異なる時間の数え方に分け入っていく。健磐龍命が幣を立てるよりも、はるか昔から、その木はそこに立っていたのだから——いや、正確には、その木の「いのち」は、そこにあり続けていたのだから。

第2章 一万五千年の御神木 — 命脈という時間概念

幣立神宮を語るとき、必ず持ち出される数字がある。一万五千年。

この途方もない数字に、たいていの人はまず戸惑う。一万五千年前といえば、日本ではまだ旧石器時代から縄文時代へと移ろうとする頃。氷河期がようやく終わりに近づいた、はるかな太古である。

だが、ここで視野を世界へ広げてみると、この数字は、にわかに不穏な意味を帯びてくる。世界各地には、人類の手によるとは思えない巨石建造物が点在している。エジプトのピラミッド、各地の巨石遺構——その多くが、定説よりはるかに古い超古代文明の所産ではないか、と語られてきた。そして、それらの偉大な遺産は、本当にそれぞれの土地で、ばらばらに、独立して生まれたのだろうか。世界各地にほぼ同じ時期、ほぼ同じ叡智の痕跡が遺されているのは、なぜなのか。

ここに、ひとつの大胆な見方がある。かつて地球には、いまの私たちの文明をしのぐ「母なる超古代文明」が存在し、そこからひとつの力が、世界各地に同じ叡智を、同じ文明を授けたのではないか——という考え方だ。アトランティス、ムー、レムリア。海に沈んだと伝えられる、それらの幻の大陸。その記憶は、世界中の神話や遺跡に、形を変えて刻まれている。もしそうだとすれば、ピラミッドを築かせた力と、この幣立の聖地に神を降ろした力は、別々のものではない。同じひとつの源から発した、同じ力だったことになる。

確たる証拠は、ない。だが、思い出してほしい。幣立神宮とは、そもそも「世界の人類が、ひとつの場所から生まれ、五つの色に分かれて世界へ散っていった」と語る神社である。源はひとつだった——それは、この神社が一万五千年ものあいだ、語り継いできたメッセージそのものではないか。世界の文明の源がひとつであったという見方は、五色人の伝説と、驚くほど深いところで響き合っているのだ。その響き合いの正体は、この物語を読み進めるうちに、次第に形を現してくる。いまはただ、この一本の御神木が刻む一万五千年が、世界の偉大な遺跡と、同じ太古の同じ光のなかにある——そう感じておけば十分だ。

だが、この数字の意味を、幣立神宮の宮司は、実にはっきりと語っている。一万五千年とは、神社の建物が一万五千年前に建てられた、という話ではない。御神木の「命脈」が、一万五千年だというのである。

命脈。聞き慣れない言葉かもしれない。命の脈、つまり、命のつながりのことだ。この一語が、この章の主題のすべてである。

幣立神宮の境内に、一本のヒノキがそびえている。「天神木(てんじんぼく)」と呼ばれる御神木だ。鬱蒼とした杜のなかで、ひときわ神々しい気配をまとって立っている。だが、この木が特別なのは、ただ大きく、ただ古いからではない。この木は、同じ株から、ヒノキが育っては朽ち、朽ちた根からまた新たなヒノキが芽吹く——その世代交代を、延々と繰り返してきた、というのである。

ここで、ヒノキという木そのものについて、少し触れておきたい。ヒノキは、日本人にとって特別な木だ。まっすぐに天を目指して伸び、その材は香り高く、朽ちにくく、千年を超えて建物を支える。法隆寺がいまも立っていられるのは、ヒノキという木の驚異的な耐久性ゆえだといわれる。神社や宮殿の用材として、古来もっとも尊ばれてきたのがヒノキである。その名は「火の木」に由来するとも言われ、こすり合わせれば火を生む、神聖な木とされてきた。神を祀る器として、これほどふさわしい木はない。神々が降り立つ依り代として一本のヒノキが選ばれたことには、それ自体に深い必然があるのだ。

少し、想像してみてほしい。

一本の木が、長い年月をかけて育ち、やがて寿命を迎えて枯れる。普通なら、そこで一本の木の物語は終わる。倒れ、朽ち、土に還って、それきりだ。ところが、その朽ちた株の根元から、また同じヒノキが芽を出す。新しい命が、古い命の亡骸を養分にして立ち上がる。それが何百年もかけて育ち、巨木となり、やがてまた朽ちる。すると、その根元から、さらに次のヒノキが——。木は、世代を交代させながら、同じ一点で、ひとつの命をつないできた。

いま境内に立っているヒノキは、その「十代目」にあたるという。推定樹齢は、およそ二千年。

ここで、ふと立ち止まって考えてみる。十代目で二千年。では、九代目、八代目……と、一代目までさかのぼっていけば、その命の連なりは、いったいどれほどの時間になるのか。神社はそれを、一万五千年と数える。これが「命脈一万五千年」の意味である。建物の築年数でもなければ、一本の木の樹齢でもない。同じ場所で、ヒノキという命が、世代を超えて受け継がれてきた、その総延長。それが一万五千年なのだ。

この瞬間、私たちが当たり前だと思っていた時間の感覚が、静かに揺さぶられはじめる。

私たちは普段、木の歳を「樹齢」で数える。一本の木が芽生えてから今日までの年数。それが当たり前の数え方だ。倒れた木の切り株を見れば、年輪が刻まれている。その輪をひとつずつ数えれば、その木が何年生きたかがわかる。一本の木に、一本ぶんの寿命。きわめて明快で、疑いようのない数え方である。

ところが、幣立神宮の御神木は、その明快な数え方を、静かに拒んでいる。ここで数えられているのは、一本の木が生きた年数ではない。世代から世代へ、株から株へと受け継がれてきた、「命そのものの連続」だ。一本の木が枯れることは、終わりではなく、次の世代への引き継ぎにすぎない。死は、連続を断ち切るものではなく、連続の一部なのである。この発想の転換が、どれほど大きいか。私たちは「ものの寿命」を、始まりと終わりのある一本の線として捉える。だが命脈の思想は、それを、終わりが次の始まりへと折り返していく、果てのない円環として捉えるのだ。

これは、私たちが「家系」を数えるときの感覚に、よく似ているかもしれない。

一人の人間の寿命は、せいぜい百年に満たない。だが、親から子へ、子から孫へと血がつながっていけば、その「家」の歴史は、何百年、何千年にもなる。あなたという一人の人間は、たかだか数十年しか生きない。けれど、あなたの「いのち」は、両親から、祖父母から、そのまた先祖から、途切れることなく受け継がれてきたものだ。何万年も前の、名も知れぬ誰かから、あなたまで、一度も切れることなくつながってきた一本の糸。もしその糸がどこか一点でも切れていたら、いまのあなたは存在しない。御神木の一万五千年とは、まさにこれと同じ発想なのだ。一本の木の樹齢ではなく、ヒノキという命が同じ場所で紡いできた、「家系」の長さ。木の、いのちの、血統の物語である。

神社側には、さらに踏み込んだ伝承が残されている。いまの十代目の木の根元には、過去の世代の木が遺した痕跡が、瘤のような形で見えるという。これを「鏡コブ」と呼ぶ。そして、その鏡コブのひとつは十代目が芽吹いた崇神天皇の時代のもの、もうひとつは九代目の時代——なんと天照大神の時代のものだと言い伝えられている。神話に登場する神々の名と、木の世代とが、ひとつの幹の上で、地続きに結びついているのだ。天照大神といえば、日本神話の最高神。その神がこの世にあった時代に、九代目の木が立っていた——そう神社は語る。神話と樹木が、ここでは別々のものではない。同じひとつの時間軸の上に、並んで存在している。木の幹に手を当てれば、そこに神話の時代が、年輪となって眠っている——そういう想像を、この伝承は許してくれる。

ここで思い起こしたいのは、一万五千年という時間が、ちょうど縄文時代の幕開けに重なるということだ。縄文人は、一万年以上にわたって、土器の文様や暮らしの形を、ゆるやかにしか変えなかった。彼らの時間は、私たちのように直線的に「進歩」していくものではなかった。季節がめぐり、世代がめぐり、同じ営みが繰り返される——円環する時間のなかを、彼らは生きていた。木が朽ちては甦り、また朽ちては甦る。その命脈の数え方は、まさに縄文的な、円環する時間の感覚そのものではないか。一年で結果を求め、四半期で成果を問われ、秒単位で時間に追われる現代の私たちが、この御神木の前で言葉を失うのは、ひょっとすると、忘れてしまった「もうひとつの時間」に、ふいに触れてしまうからなのかもしれない。

もちろん、これを文字通りの科学的事実として証明することはできない。一代目のヒノキが本当に一万五千年前に芽吹いたのか、世代交代が本当に十回あったのか、それを確かめる術は、いまのところない。年輪をいくら数えても、現在の木の二千年分しか出てこないだろう。だから、これを「荒唐無稽な作り話」と切り捨てるのは、たやすい。

だが、ここで大切なのは、事実かどうか、という問いだけではない。なぜこの神社は、わざわざ「樹齢」ではなく「命脈」という、聞き慣れない数え方を選んだのか——その感覚のほうに、目を向けてみたい。

一本の木の死で、終わらせない。朽ちてもなお、同じ場所で命をつなぐ。その連続性にこそ、神聖を見る。この感覚は、実は日本人にとって、決して特殊なものではない。たとえば伊勢神宮は、二十年に一度、社殿をそっくり建て替える。「式年遷宮」と呼ばれる、千三百年以上続けられてきた営みだ。古い社殿を解体し、隣の敷地にまったく新しい社殿を建てる。建物そのものは、二十年ごとに新品になる。だが、そこで受け継がれているのは、建物という「もの」ではない。社殿を建てる技術、祀りのかたち、そして神そのもの——形のない本質が、新しい器に移し替えられ、永遠に保たれていく。古いものは朽ちる。だが、朽ちることをあらかじめ織り込んだうえで、なお続いていく。

世界を見渡せば、巨樹を聖なるものとして崇める信仰は、決して珍しくない。北欧神話には、世界を貫いて立つ巨大なトネリコの木「ユグドラシル」があり、その枝葉が天を覆い、根が地下世界へと伸びていた。インドでは菩提樹の下で釈迦が悟りを開いた。世界各地で、人は大樹に神を見、宇宙の中心を見てきた。だが、それらの多くが「一本の不滅の木」を想像したのに対し、幣立神宮の御神木は、「朽ちては甦る木」である。不滅ではなく、再生。永遠に立ち続けるのではなく、死をくぐり抜けて何度も立ち上がる。ここに、日本的な発想の独自性がある。

幣立神宮の御神木は、まさにこの思想の上に立っている。ヒノキという一本の木は朽ちる。だが、命は朽ちない。次の世代へ、また次の世代へと移し替えられ、同じ場所で、永遠に保たれていく。形あるものの死をくぐり抜けて、なお続く命。日本人が古くから抱いてきた、独特の「永遠」の捉え方が、この一本のヒノキには、まるごと凝縮されているのである。西洋の永遠が、朽ちない石の神殿や、変わらぬ一神の姿に託されたとすれば、日本の永遠は、朽ちることを受け入れ、移ろいながら続いていくものに託された。御神木は、その思想の、生きた証人なのだ。

そして、忘れてはならないことがある。この御神木は、ただ古いだけの木ではない。神社の伝承によれば、この木の梢にこそ、神々が天から降り立ったとされているのだ。火の玉に乗った神々が、夜空を裂いて舞い降り、このヒノキの梢にとどまった——そう伝えられている。想像してみてほしい。文字も国家もない太古、闇に沈んだ山あいに、突如として天から火の球が降りてくる。漆黒の夜空を引き裂いて、まばゆい光の塊が、ゆっくりと、この山の上へと舞い降りてくる。それを見上げる、毛皮をまとった古代の人々。彼らは、ひれ伏したかもしれない。あるいは、声もなく、ただその光を見つめていたかもしれない。その火の球が、一本のヒノキの梢に静かにとどまり、やがてそこに神々が姿を現す。それを目撃した古代の人々の畏れと驚き、その記憶の最初のひとかけらが、一万五千年という途方もない数字の根に、いまも静かに息づいているのかもしれない。つまりこの木は、天と地とを結ぶ依り代であり、神々がこの地上に最初に触れた、その接点なのである。命脈一万五千年とは、ただ木が長く生きたという話ではない。神が降りた聖なる一点が、一万五千年ものあいだ、ただの一度も絶えることなく、守られ、保たれてきた——その奇跡そのものを指し示す言葉なのだ。

では、その「降臨した神々」とは、いったい誰なのか。火の玉に乗って、この九州のへそにそびえる一本のヒノキを選んで降りてきた神々とは——。

命脈一万五千年の木を見上げながら、私たちの問いは、いよいよこの神社の核心へと近づいていく。実際にこの木の前に立つと、多くの人が、ふしぎな感覚に包まれるという。見上げれば、梢ははるか頭上で天に溶け、幹に手を触れれば、ひんやりとした樹皮の奥から、なにか脈打つものが伝わってくるように感じる。それが一万五千年という時間の重みなのか、それとも、かつてここに降りたという神々の気配なのか——理屈ではわからない。ただ、この木の前では、誰もが自然と口数が少なくなり、足を止め、しばし見上げてしまうのだ。次の章では、本殿の奥深くに納められ、五年に一度だけ世に姿を現すという、五色の秘宝——「五色神面」の扉を、そっと開けてみることにしよう。その五つの色のなかにこそ、降臨した神々の正体と、この神社が人類全体に向けて発し続けている、壮大なメッセージが隠されている。

第3章 五色神面 — 五年に一度だけ開く秘宝

神社には、めったに人目に触れない宝がある。

御神体、社宝、秘仏——呼び方はさまざまだが、年に一度、あるいは数年に一度、ごく限られた日にしか開帳されないものたちだ。ふだんは、ひとの視線から遠く離れた本殿の奥深くに、固く納められている。なぜ、隠すのか。それは、隠されているからこそ、聖性が保たれるからだ。いつでも誰でも見られるものは、やがてありがたみを失う。だが、五年にたった一度しか姿を現さないとなれば、それは時を超えて神聖を保ち続ける。

日本の神道には、もともと「見てはならないもの」を尊ぶ感覚が、深く根づいている。神話のなかで、イザナギは黄泉の国で「見るな」と言われた妻イザナミの姿を見てしまい、取り返しのつかないことになった。豊玉姫は、出産の姿を「見るな」という約束を破られ、海へ去っていった。神聖なものは、覆い隠されることで、その力を保つ。むき出しにされ、白日のもとに晒されたとき、聖なるものは、しばしばその力を失う。秘めること、隠すこと、めったに見せないこと——それ自体が、信仰の一部なのだ。幣立神宮の奥に納められた秘宝も、まさにそういうものである。その名を、五色神面(ごしきしんめん)という。

赤、白、黄、黒、青。五つの色に塗り分けられた、人の顔をかたどった面。それが五色神面だ。この五つの面は、ただの祭具ではない。神社の伝承によれば、それぞれが、地球上に生きる人類の、五つの色の「祖神」——つまり、世界中のすべての人間の、おおもとの先祖を象ったものだとされている。

その面を前にしたとき、人は何を感じるのだろうか。一つひとつの面は、特定の誰かの顔ではない。それぞれが、ひとつの「色」を生きる、無数の人々の根源を、たった一つの顔に集約したものだ。だからこの面を見つめることは、鏡をのぞきこむことに似ているのかもしれない。世界のどこかに生きる、自分とは肌の色の違う誰かの、いちばん奥にある顔。そしてそれをたどっていけば、自分自身の顔とも、どこかでつながっている。五つの面は、人類という大きな家族の、五枚の肖像画なのだ。塗られた色は鮮やかでありながら、その表情はどこか静かで、見る者の心を、太古へとひきこんでいく。

考えてみれば、これは途方もない発想である。

世界には、無数の神社や寺院、教会やモスクがある。その多くは、特定の民族や、特定の地域の人々のために祈りを捧げる。日本の神社なら日本人のために、ある土地の社ならその土地の人々のために。それが、信仰というものの自然なかたちだろう。ところが幣立神宮は、その枠を、はるかに超えている。ここが祀っているのは、日本人だけではない。赤い肌の人も、白い肌の人も、黄色い肌の人も、黒い肌の人も、そして青い人も。地球上に生きる、すべての色の人類。その全員の祖先を、この九州の山中の小さな社が、ひとつ屋根の下に祀っているのである。

——だが、ここで、ひとつの奇妙な事実に、気づいた人がいるかもしれない。

白い肌の人、黒い肌の人、黄色い肌の人。これらは、いま現実に、世界のどこかで暮らしている人々だ。すぐに顔が思い浮かぶ。だが、残りの二つ——「赤い肌の人」と「青い肌の人」は、どうだろう。赤い肌の人類、青い肌の人類が、いま地上のどこかに暮らしているだろうか。ネイティブ・アメリカンを赤、と呼ぶ言い方はある。だが、文字通り赤い肌、青い肌をした人類の集団など、現実の地上には、見当たらない。

五つの祖神のうち、三つは現実の人類に重なる。だが、赤と青の二つだけが、どこにも見当たらないのだ。彼らは、いったいどこへ行ってしまったのか。最初からいなかったのか。それとも——かつては地上にいたのに、ある時、姿を消してしまったのか。

この問いは、見かけよりもずっと深い。そして、その答えを追っていくと、私たちはやがて、この地上を離れ、思いもよらない場所へと——足元の、はるか下へと、降りていくことになる。だが、それはまだ先の話だ。いまは、この「赤と青の不在」という小さな違和感を、胸の隅に留めておいてほしい。それは、この物語の最も深い場所で、もう一度、私たちを待っている。

これは、世界でも類を見ない。世界中の人類すべてを対象に祈りを捧げる聖地など、そうあるものではない。幣立神宮が、ただの地域の鎮守ではなく、人類全体に向けた壮大なメッセージを発し続ける場所だと言われるのは、この五色神面の存在ゆえなのだ。

世界の創世神話を見渡してみても、この発想の独自性は際立っている。多くの民族の神話は、「自分たちこそが最初の人間だ」と語る。神が自分たちの民族を特別に創った、自分たちこそが選ばれた民だ——そうした選民の思想は、世界中の神話に繰り返し現れる。だが幣立神宮の五色人の物語は、そうではない。日本人だけが特別なのではなく、世界のすべての民族が、ひとつの源から分かれ出た同胞なのだ、と語る。もちろん、後で見るように、五色人伝説のなかには「日本人=黄金人の末裔」という、日本を源とする思想も含まれている。だが、その根底に流れているのは、特定の民族の優越ではなく、人類全体の同根・和合という思想だ。「我らだけ」ではなく「我らすべて」を祀る。この一点において、幣立神宮の思想は、世界の数ある創世神話のなかでも、特異な輝きを放っている。

その五色神面が、世に姿を現す日がある。

五色神祭(ごしきしんさい)。毎年八月二十三日に執り行われる、この神社の最も重要な祭りだ。そして、五年に一度——その年だけは「大祭」となる。大祭の年にだけ、本殿の奥に納められた五色神面が開帳され、ふだんは決して見ることのできないその姿を、参拝者は目にすることができる。次の機会は、また五年後。一生のうちに、何度立ち会えるだろうか。そう考えると、この祭りに足を運ぶことの重みが、じわりと伝わってくる。

実は、この五色神祭は、一時期、途絶えていた時代があった。長い歴史のなかで、祭りの火が消えかけたのである。それが、ふたたび本格的に執り行われるようになったのは、一九九五年のことだった。戦後の高度成長を経て、人々が物質的な豊かさの先にある「心」や「つながり」を求めはじめた、ちょうどそんな時代に、この古い祭りは蘇った。世界がグローバル化し、しかし同時に、民族や宗教の対立がいよいよ深刻になっていく時代。そんな世界に向けて、「人類はもとひとつ、和合せよ」と祈るこの祭りが、まるで時代に呼ばれるように復活したのは、偶然ではないのかもしれない。以後、五年ごとの大祭には、その祈りに引き寄せられるように、国の内外から人々が集うようになった。古い神話が、現代という時代のただなかで、新しい意味を帯びて生き返ったのである。

この五色神祭は、太古の伝承に根ざしている。神社が語るところによれば——遠い遠い昔、この地に、地球上のすべての人類の祖神、すなわち赤・白・黄・黒・青の五色人の大祖先が一堂に集い、たがいの御霊の「和合」をはかるための儀式を執り行った。世界中の人類の先祖が、この九州のへそに集まって、ひとつになるための祈りを捧げた——それが、五色神祭の起源だというのである。いまも五年に一度、その太古の集いを再現するように、世界中から人々がこの地に集まってくる。

実際、大祭の年には、海外からも多くの参列者が訪れるという。肌の色も、言葉も、信じる宗教も異なる人々が、この小さな社の前に集い、ともに祈りを捧げる。その光景そのものが、五色人の伝説を、現代に蘇らせている。

想像してみてほしい。八月の、蝉の声が降りそそぐ山あいの境内。鬱蒼とした杉木立のあいだから、夏の光が幾筋も差し込んでいる。その下に、世界中から集まった人々が、静かに座している。様々な肌の色、様々な装い。やがて神事が始まり、祝詞の声が森に響きわたる。五年に一度だけ開かれる本殿の扉。その奥から、赤・白・黄・黒・青の五つの面が、姿を現す。一万五千年の時を超えて受け継がれてきたという、人類の祖神の顔。それを前にして、国籍も宗教も異なる人々が、ひとつの祈りに包まれていく。この瞬間、太古にこの地で行われたという五色人の和合の儀式が、神話のなかの出来事ではなく、いま目の前で起きている現実となる。時間が、ぐるりと一周してつながる。そういう不思議な感覚が、この祭りにはあるという。

ある大祭に参列した人は、神主の言葉をこう書き残している。五色神祭とは、世界人類の祖神である五色人を祀り、地球の全人類がたがいに認め合い、助け合う「和合の世界」を祈願する祭りなのだ、と。

この「和合」という一語に、幣立神宮の思想の核心がある。

ここで、「五」という数と、五つの色について、少し立ち止まってみたい。五色という色の組み合わせは、実は東洋の思想に深く根ざしている。古代中国に発した陰陽五行説では、世界は木・火・土・金・水の五つの要素から成り、それぞれに青(緑)・赤・黄・白・黒の色が当てられた。方角でいえば、東の青、南の赤、中央の黄、西の白、北の黒。この五色は、世界のすべてを表す「全体」の象徴だった。日本の神社で目にする五色の幕や、端午の節句の鯉のぼりに添えられる五色の吹き流しも、もとをたどればこの思想に行き着く。つまり五色とは、ばらばらの五つではなく、それでひとつの「世界のすべて」を表す、完結した色彩なのだ。幣立神宮が人類を五つの色で捉えたことは、この東洋的な宇宙観——五つでひとつ、多様でありながら全体としてひとつ、という感覚と、深いところで響き合っている。五色神面とは、いわば「人類という全体」を、五つの色に凝縮して可視化したものなのである。

五つの色。それは、世界の人類の多様性そのものだ。肌の色が違う。文化が違う。言葉が違う。信じるものが違う。人類は、その違いをめぐって、有史以来、争いを繰り返してきた。だが、五色神面は、その五つの色を、対立するものとしてではなく、もともとひとつだったものの「分かれた姿」として捉える。赤も、白も、黄も、黒も、青も、たどっていけば、同じひとつの源から生まれた兄弟なのだ——と。色が違うことは、敵であることを意味しない。むしろ、同じ親から生まれた、色とりどりの子どもたちなのだ。だから、争うのではなく、認め合い、助け合い、和合せよ。それが、この神社が五色の面を通して、一万五千年ものあいだ発し続けてきた、人類へのメッセージなのである。

現代の私たちの目から見ても、これは驚くほど普遍的で、そして切実なメッセージだ。世界では今なお、肌の色や民族や宗教の違いを理由に、争いが絶えない。そんな時代だからこそ、「もとはひとつだった」という五色人の思想は、古くさい神話どころか、むしろ未来に向けた祈りのように響く。ある神主は、祈りや祝詞とは「喜び」なのだと語ったという。世界で起きるさまざまなことを、できるだけ喜びの心で受けとめ、その視点で物事を見ながら生きていく。その姿勢こそが大切なのだ、と。和合とは、誰かを打ち負かすことではない。違いを抱えたまま、ともに在ることを喜ぶこと。五色神面は、その境地を、五つの色で静かに示している。

そして、この五色神面には、さらに踏み込んだ伝承がまとわりついている。

神社の社宝には、五色神面のほかに、「水王(すいおう)」「火王(かおう)」と呼ばれるものがあるという。水と火。この相反する二つの根源的な力もまた、この神社の奥に秘められている。さらに、一部に伝わる説では、五色神面のうち赤い面は「モーゼの面」であり、あの旧約聖書に登場する預言者モーゼと結びつけて語られることもある。境内には、ユダヤの秘宝とされる「水の玉」が運ばれてきたという伝承まである。

これらの話は、もはや日本神話の枠を、大きくはみ出している。世界中の人類の祖神を祀るこの神社が、なぜか旧約聖書のモーゼと、ユダヤの秘宝と結びついていく。荒唐無稽と切り捨てることは、もちろんできる。だが、世界の人類すべての源を語る神社であればこそ、世界中のあらゆる神話や聖典と、どこかでつながっていてもおかしくはない——そんなふうに考えはじめると、背筋がぞくりとする。この水の玉とモーゼをめぐる物語については、のちの章で、あらためてじっくりと分け入ることにしよう。

いまはまず、目の前の問いに戻りたい。

五色神面が象るという、五色人。赤・白・黄・黒・青の、人類の祖神たち。彼らは、いったい何者なのか。本当に、世界の人類は、ひとつの場所から生まれ、五つの色に分かれて世界へ散っていったのか。そして、その物語は、どこから来たのか。

幣立神宮の表の由緒——健磐龍命や、伊勢の神々を祀るという公式の歴史には、この五色人の話は、実は出てこない。五色人の物語が記されているのは、別の場所だ。記紀よりも古いとされる、ある古史古伝のなかである。次の章では、いよいよその五色人の正体——赤・青・黄・白・黒の祖神たちが、どのような神話のなかで語られてきたのかを、ひもといていく。そして、そこでもう一度、私たちは先ほどの問いに突き当たることになる。地上に見当たらない、赤と青。彼らはどこから来て、どこへ消えたのか。その答えの入口が、次の章にある。この国の常識を揺るがす、もうひとつの神話の扉を、いよいよ開けてみよう。

第4章 五色人とは誰か — 五色の祖神たち

五色人。赤・白・黄・黒・青の、五つの色を持つ人類。

この言葉を初めて聞いたとき、多くの人は、ふしぎな感覚にとらわれるのではないだろうか。人類を「五つの色」で捉える。肌の色の違いを、対立や優劣としてではなく、ひとつの根から分かれた五本の枝として捉える。この発想は、現代の私たちが知っている「人種」という考え方とも、どこか似ていて、どこか決定的に違う。人種という言葉が、しばしば差別や分断の道具として使われてきたのに対し、五色人という言葉の根には、「もとはひとつ」という和合の思想が、最初から流れているからだ。

前の章で、私たちはこの五色の祖神を祀る五色神面を見てきた。そして、ひとつの奇妙な事実に行き当たった。五つの色のうち、白・黄・黒の三つは、いま現実に世界のどこかで暮らしている人々に重なる。だが、赤と青の二つだけが、地上のどこにも見当たらない——という違和感である。

この章では、その違和感の正体に、もう一歩、踏み込んでいく。そもそも五色人とは、どこで語られている存在なのか。彼らは何者で、そして、赤と青はどこへ消えたのか。

まず、はっきりさせておかなければならないことがある。五色人の物語は、幣立神宮の「表の由緒」には出てこない。前の章までに見てきた、健磐龍命が幣を立てたという社伝。延喜年間に伊勢を祀ったという記録。そうした公式の歴史のなかに、五色人という言葉は、実は登場しないのだ。では、五色人はどこで語られているのか。それは、記紀——『古事記』や『日本書紀』——よりも古いとされる、ある古史古伝のなかである。その名を、『竹内文書(たけのうちもんじょ)』という。

この竹内文書については、次の章でじっくり扱う。ここでは、その中に記された五色人の姿だけを、先に見ておこう。竹内文書によれば、かつて世界には、赤人・青人・黄人・白人・黒人という、五つの根源的な人種がいた。彼らは、現在私たちが使う「黄色人種」「白人種」といった分類とは、必ずしも一致しない。おおまかには、こう語られている。赤人はユダヤ人やネイティブ・アメリカン、アラブ人など。青人は北欧人やスラブ人など。黄人は日本人・中国人・朝鮮人といったアジアのモンゴロイド系。白人はヨーロッパのコーカソイド。黒人はインド人、アフリカ人、メラネシアの人々など。

そして、もっとも重要な点。この五色人は、それぞれ別々に生まれたのではない。ひとつの源から分かれ出たのだ、と竹内文書は語る。大もとの人類がこの日本の地で生まれ、世界各地へと広がっていき、その土地の風土や気候の影響を受けて、赤や青、白や黒の人々へと枝分かれしていった——というのである。源はひとつ。これは、これまでの章でも繰り返し現れてきた、幣立神宮の核心の思想と、ぴたりと重なる。

ただし、五色人の各色が、具体的に世界のどの民族に当たるのかについては、語る人によって、ずいぶん違う。たとえば、ある神道の一派の伝えでは、赤人はアメリカ人、青人はオーストラリア人、黄人はアジア人、黒人はアフリカ人、白人はヨーロッパ人だとされる。また別の説では、青人をポリネシアやハワイなど太平洋の島々の人々に当てる。赤人をアラブやユダヤとする説もあれば、ネイティブ・アメリカンとする説もある。要するに、五色と現実の民族との対応は、最初から、どこかあいまいで、揺れているのだ。この「揺れ」こそが、実は重要な手がかりになる。きれいに対応が決まらないということは、五色人がそもそも、現実の人種分類とは別の原理で語られた存在だということを示しているのかもしれないからだ。

さて、ここで先ほどの違和感に戻ろう。

黄人=アジア系、白人=ヨーロッパ系、黒人=アフリカ系。この三つは、現実の人類に、なんとか対応づけられる。だが、赤人と青人は、どうだろう。確かに、ネイティブ・アメリカンを「赤」と呼ぶ言い方は、歴史的に存在した。北欧人を「青」と結びつける説もある。だが、それはあくまで比喩や連想であって、文字通り赤い肌、青い肌をした人類の集団が、現実の地上にいるわけではない。三つの色は実在の人類に重なるのに、赤と青の二つだけが、どうにも宙に浮いてしまう。

実は、この「赤人・青人だけが見つからない」という点は、五色人をめぐる議論のなかで、古くから指摘されてきた最大の謎なのだ。彼らは、最初からいなかったのか。それとも——かつては地上にいたのに、ある時、姿を消したのか。

ここに、ひとつの大胆な説がある。

赤人と青人は、人間の姿をしてはいるが、私たちとは少し違う存在だったのではないか。そして彼らは、いまも存在している。ただし、地上ではなく——地の底に。

荒唐無稽に聞こえるかもしれない。だが、この説を唱える人々が手がかりとして挙げるのが、ほかでもない、日本人になじみ深いある存在だ。

赤鬼と、青鬼である。

考えてみれば、不思議なことではないか。日本の昔話や伝承に登場する鬼は、なぜか決まって、赤と青なのだ。緑の鬼や、白い鬼は、あまり聞かない。赤鬼・青鬼。この二色の取り合わせは、五色人のうち地上から消えた二色と、見事に一致する。これは偶然なのだろうか。

鬼とは、もともと何者なのか。民俗学では、鬼は山奥に住む「異界の住人」とされる。人里離れた山に暮らし、ときおり里へ下りてくる、まつろわぬ者たち。一説には、彼らは古代に山に住んでいた先住の民、大和の支配に従わなかった人々の姿が、鬼として語り継がれたのだ、ともいわれる。そして、その「まつろわぬ鬼たち」こそ、地上から消えた赤人・青人だったのではないか——という見方があるのだ。

この「鬼=まつろわぬ民」という見方は、実は民俗学では古くから論じられてきた。大和朝廷が国土を統一していく過程で、その支配に従わず、山や辺境に追いやられていった人々がいた。土蜘蛛(つちぐも)、国栖(くず)、蝦夷(えみし)——正史の中で、まつろわぬ者、化外(けがい)の民として記された人々である。彼らは、しばしば人ならざる異形の者として描かれた。角の生えた、恐ろしい姿で。勝者が歴史を書くとき、敗れて山へ消えた者たちは、しばしば「鬼」となる。とすれば、赤鬼・青鬼の伝承の奥には、かつてこの列島に確かにいた、しかし歴史の表舞台から消されていった人々の、遠い記憶が畳み込まれているのかもしれない。その消えた人々を、五色人の赤と青に重ねる——この発想には、不思議な説得力がある。歴史から消された者と、五色人から消えた色。その二つが、鬼という一点で出会うのだ。

さらに踏み込めば、こうなる。鬼が住むという「異界」とは、どこなのか。山の奥、峠、洞窟。それらを境にして、現世とつながる別の世界。仏教では、鬼のいる場所は六道の最下層、地獄とされる。地獄は、地の底にある。つまり、鬼たちは、地底からやってくる——。

この見方を象徴的に体現しているのが、秋田県の男鹿半島に伝わる、あの「ナマハゲ」だ。大晦日の夜、鬼の面をかぶった異形の者が、家々を訪れる。「悪い子はいねがー」と叫びながら。このナマハゲは、まさに赤鬼と青鬼であり、伝承では、海の彼方、あるいは山の奥からやってくる、まれびと——来訪神とされる。そして、この鬼たちを、地底から上がってくる地底人の記憶ではないか、と読み解く説があるのだ。日本の山に住んでいた先住民、地の底とつながる異界の者。それが、赤と青の鬼として、私たちの民話のなかに、長く生き残ってきた。

もうひとつ、興味深い手がかりがある。蒙古斑(もうこはん)だ。

日本人をはじめとするモンゴロイドの赤ん坊には、生まれたとき、お尻のあたりに青いあざのような色素が現れる。やがて成長とともに消えていく、あの蒙古斑である。一部の説では、これこそ、かつて私たちのなかに流れていた「青人」の血の、最後の名残ではないか、という。生まれたばかりの、もっとも無垢なときにだけ、青い印が体に浮かび、やがて消えていく。それはまるで、私たちが青人の末裔であったことを、体が密かに記憶しているかのようだ——と。科学的には、蒙古斑は皮膚の深い層にメラニン色素が残ることで青く見える、ごくありふれた生理現象だ。だが、それを「青人の記憶」と読み替えたくなる気持ちも、五色人の物語の前では、わからなくはない。

それにしても、と思う。もし本当に、私たち日本人のなかに青人の血が流れているのだとしたら。地上から消えたとされる五色人の一色が、ほかならぬ私たちの体に、生まれた瞬間だけ青く浮かび上がるのだとしたら。それは、地底に消えた者たちと、地上に残った私たちとが、実は同じ根から分かれた、わかれた兄弟であることの、何よりの証ではないか。地の底の赤と青、地の上の黄。色が違い、住む世界が違っても、もとをたどればひとつ。五色人の物語は、結局のところ、どこまでも「私たちはみな、ひとつだった」という一点へ、収斂していくのである。

ここまで来ると、ひとつの壮大な見取り図が、おぼろげに浮かび上がってくる。

そして、地の底に消えた人々という発想は、実は日本だけのものではない。世界各地に、地下世界の住人をめぐる伝承は、驚くほど広く分布している。地の底に理想郷があるという「地球空洞説」。チベットやインドの伝承に語られる、地底の聖なる王国。北欧やケルトの神話に現れる、地下や塚に住む小人や妖精たち。洋の東西を問わず、人類は「足元の地の底に、もうひとつの世界がある」と、繰り返し想像してきた。なぜ、これほど多くの文化が、同じように地底の世界を語るのか。単なる空想の一致なのか。それとも、その背後に、何か共通の記憶があるのか。五色人の赤と青が地底に潜ったという物語は、こうした世界中の地底伝承と、どこかでつながっているのかもしれない。そう考えると、九州の山中の小さな神社の伝承が、にわかに地球規模の謎へとつながっていく。

太古、この地に五色人が生まれた。やがて彼らは世界へ散り、黄・白・黒は地上の各地に根を下ろした。だが、赤人と青人だけは、何らかの理由で地上から姿を消し、地の底へと潜っていった。そして彼らは、地底に独自の世界を築き、いまもそこに在り続けている。ときおり地上に現れる彼らの姿が、私たちの祖先には「鬼」と映り、赤鬼・青鬼の伝承となって残された——。

もちろん、ここで誠実に断っておかなければならない。これは、幣立神宮が公式に語る由緒ではない。五色人が竹内文書に記されているのは事実だが、その赤人・青人が地底人であり鬼であるという話は、竹内文書そのものというより、後世の研究者やオカルト探究者たちが、さまざまな伝承を結びつけて組み上げた「解釈」である。学術的に裏づけられた歴史ではない。ここははっきりと、線を引いておきたい。

だが——線を引いたうえで、なお、こうも思うのだ。

なぜ、日本の鬼は赤と青なのか。なぜ、五色人のうち地上に見当たらないのが、ちょうどその赤と青なのか。なぜ、私たちの体には、生まれた瞬間にだけ青い印が浮かぶのか。一つひとつは、ばらばらの言い伝えや現象にすぎない。だが、それらを「赤人・青人は地底にいる」という一本の線で結んだとき、不思議なほど、すべてが響き合いはじめる。エビデンスはない。けれど、この響き合いの心地よさは、いったい何なのだろう。

五色人の物語は、ここから、いよいよ地上を離れていく。地の底に消えたという赤と青の民。彼らが築いたとされる地下の世界。その扉については、この物語の最も深い場所——第十章で、満を持して開けることになる。それまで、どうか「赤と青は、地の底にいる」というこの感覚を、忘れずにいてほしい。

だがその前に、私たちはまず、五色人の物語そのものの出どころへ、立ち返らなければならない。すべての源である、あの古史古伝——『竹内文書』。記紀よりも古いとされ、この国の正史とはまったく異なる、もうひとつの壮大な神話。次の章では、その封印された書物の扉を、開けてみることにしよう。

第5章 竹内文書と黄金人 — もうひとつの神話と日本発祥説

ここまで、幣立神宮をめぐる物語のなかで、私たちは何度も、ひとつの書物の名を耳にしてきた。五色人の出どころ。記紀よりも古いとされる、もうひとつの神話。その源にあるのが、『竹内文書(たけうちもんじょ)』である。

この章では、いよいよその封印された書物の扉を開ける。だが、その前に、ひとつだけ約束しておきたいことがある。この章では、竹内文書が「語っている世界」を、まずはたっぷりと味わう。そのうえで、章の終わりに、それが学術的にどう扱われているかという「もうひとつの顔」にも、誠実に触れる。光の部分と、影の部分。その両方を見て初めて、この奇妙な書物の本当の姿が、立ち上がってくるからだ。

まず、竹内文書とは何か。

その来歴は、それ自体が物語のように込み入っている。茨城県磯原町(現・北茨城市)の竹内家に、代々伝わってきたとされる、古文書や石、鉄剣などの一群。それらを総称して、竹内文書と呼ぶ。これを世に公開したのが、竹内巨麿(たけうちきよまろ)という人物だ。彼は一九一一年に磯原町に皇祖皇太神宮を設立し、天津教(あまつきょう)という宗教を興した。そして一九二八年(昭和三年)、この文書群の存在を、世に明らかにしたのである。

竹内文書の主張する来歴は、さらに壮大だ。それによれば、原本は神代文字——漢字が伝わるよりはるか昔、太古の日本で使われていたという文字——で記されていた。それを、第二十五代・武烈天皇の勅命を受けて、武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫にあたる平群真鳥(へぐりのまとり)が、漢字とカタカナの交じった文章に翻訳した。竹内家は、この平群真鳥の系譜に連なる家柄だという。神代文字の原本があり、それを古代の朝廷が翻訳させ、特定の家がひそかに守り伝えてきた——という、いかにも秘伝めいた来歴である。

この「神代文字(じんだいもじ)」というのも、それ自体が大きな謎をはらんでいる。一般に、日本は漢字が伝わるまで固有の文字を持たなかった、というのが定説だ。だが、古史古伝の世界では、漢字以前の太古の日本に、独自の文字体系があったとされる。しかも竹内文書の信奉者は、この神代文字こそが、後の古代エジプト文字やヘブライ文字、ハングル、アルファベットなど、世界中の文字の「原点」だったとまで主張する。世界の文字が、すべて日本の神代文字から派生した——これもまた、「日本が世界文明の源」という、竹内文書を貫く一本の太い思想の表れである。文字さえも、日本から世界へ広がった、というわけだ。

では、その中身は何を語っているのか。

竹内文書が描き出すのは、私たちが学校で習った日本史とは、まるで別物の世界史だ。そこでは、途方もない太古から、日本に天皇がいた。それも、神武天皇よりはるか以前、何代も何代も続く超古代の天皇たちが、世界を治めていたという。さらに驚くべきことに、モーゼ、キリスト、釈迦、孔子といった、世界の宗教の祖たちが、こぞって日本を訪れ、天皇に教えを受け、仕えたとさえ記されている。つまり竹内文書の世界では、日本こそが世界文明の中心であり、人類の文明も宗教も、すべてこの日本から始まり、世界へと広がっていった——というのである。

途方もない。あまりに途方もなくて、笑ってしまうかもしれない。たとえば竹内文書をめぐっては、キリストは実はゴルゴタの丘で死なず、日本へ渡って青森の地で天寿をまっとうした、という驚くべき話まで派生している。実際に青森県のある村には「キリストの墓」とされる場所があり、竹内文書がその発見のきっかけになったと語られる。モーゼもまた日本に来て修行したという。荒唐無稽きわまりない。だが、ここで思い出してほしい。これまでの章で見てきた、幣立神宮の核心の思想を。源はひとつ。世界の人類は、ひとつの場所から生まれ、世界へ散った。竹内文書が語る「日本が世界文明の源だった」という主張は、この幣立神宮の世界観と、見事に響き合っているのだ。そして実際、幣立神宮に伝わる五色人の物語は、まさにこの竹内文書の世界観のなかに、しっかりと位置づけられている。

そして、見逃せないことがある。世界の宗教者が日本に来たというこの竹内文書の主張は、幣立神宮そのものにも、影を落としている。前の章で少しだけ触れた、五色神面のうちの「モーゼの面」、そして境内に伝わるという、ユダヤの秘宝「水の玉」。旧約聖書の預言者モーゼが、なぜ九州の山中の神社と結びつくのか。それは、竹内文書が描く「世界の聖人が日本を訪れた」という壮大な世界観の、ひとつの現れなのだ。この水の玉とモーゼをめぐる物語は、のちの章で、あらためてじっくりと追うことになる。竹内文書は、こうして幣立神宮の随所に、その壮大な影を落としているのである。

ここで、幣立神宮にまつわる、もうひとつの神話に分け入ろう。

私たちが知っている日本神話——『古事記』や『日本書紀』の物語は、こう始まる。イザナギとイザナミの二神が国を生み、やがて天照大神が生まれ、その孫ニニギが地上へ降りる天孫降臨があり、さらにその子孫が初代・神武天皇として即位する。これが、正史の語る、この国の始まりの物語だ。

ところが、幣立神宮には、これとは別の、もうひとつの高天原神話が伝えられている。それは、イザナギ・イザナミよりも、さらにはるか昔の物語だ。神漏岐命(かむろぎのみこと)、神漏美命(かむろみのみこと)と称する二柱の神々が、火の玉に乗って、この地に降臨したという。第二章で触れた、御神木の梢に降りた「火の玉に乗った神々」とは、まさにこの二神のことである。

そして、ここからが核心だ。この二神は、大もとの人類である「黄人(きびと)」——すなわち日本人を生み出した。そして、その黄人が世界各地へと広がっていき、それぞれの土地の風土や気候の影響を受けて、赤・青・白・黒の人々へと派生していった。つまり、人類はこの幣立の地で生まれ、ここから世界へ散っていった、というのである。ここが、人類発祥の地だ、と。

火の玉に乗って降臨する神々。この描写に、現代の私たちは、つい別のものを重ねたくなる。空を裂いて飛来し、地上に降り立つ、光を放つ乗り物。——宇宙船。竹内文書が語る「火の玉」を、太古に飛来した宇宙からの訪問者と読み解く向きがあるのも、無理はない。神々は天から「降りてきた」。その天とは、空のことか、それとも、宇宙の彼方のことか。神話の言葉は、いまも私たちの想像をかき立ててやまない。

さて、五色人の大本である黄人は、日本人だとされた。だが、竹内文書の世界には、さらにその上をいく存在が登場する。

黄金人(きんじん、あるいはこがねびと)である。

竹内文書によれば、日本人は単なる黄人ではない。五色人を超越する「黄金人」の末裔なのだという。五つの色の、さらに大本。すべての人類の源の、そのまた中心。それが黄金人であり、日本人はその直系の子孫だ、というのだ。一説には、日本の天皇家は、この黄金人の正統な血を引く存在だとも語られる。

ここまで来ると、この思想が持つ危うさにも、目を向けておかねばならない。「日本人こそが、世界の中心であり、最も尊い」という主張は、一歩間違えれば、危険な選民思想、自民族中心主義へと転びかねない。実際、竹内文書は、戦前のある時期、超国家主義の人々によって、日本の優越を裏づける「福音の書」として持ち上げられた歴史を持つ。世界の文明はすべて日本から始まった——その物語は、時代の空気のなかで、ある種のイデオロギーに利用されたのである。この点は、竹内文書の影の部分として、はっきり記憶しておくべきだろう。

ただ、ここで興味深いのは、幣立神宮の五色人思想が、その危うさを、絶妙なところで回避していることだ。たしかに「黄金人=日本人」という、日本を源とする主張は含まれている。だが、五色神面が祀るのは、日本人だけではない。赤・白・黄・黒・青の、すべての色の祖神を、対等に祀る。そして祈るのは、特定の民族の勝利ではなく、全人類の「和合」だ。源が日本にあるとしても、そこから分かれた五色の民は、みな対等な兄弟である——五色人の物語の重心は、優越ではなく、和合の側に置かれている。同じ竹内文書を源としながら、幣立神宮は、選民思想ではなく、人類同根の祈りの方へと、その思想を昇華させているのだ。

——さて。ここまで、竹内文書が「語る世界」を、たっぷりと見てきた。火の玉に乗った神々、黄人、黄金人、人類発祥の地としての日本。壮大で、ロマンに満ちた物語だ。

だが、約束した通り、最後に、もうひとつの顔に触れなければならない。

竹内文書は、学術的には「偽書」とされている。これは、はっきりと書いておかなければならない事実だ。研究者たちは、いくつもの理由から、これを近代——明治から昭和にかけて——に作られたものだと判断している。文章に使われている言葉や書き方が、古代のものとしては新しすぎること。来歴がはっきりしないこと。記されている内容が、確かな歴史や考古学の知見と、ことごとく矛盾すること。原本とされるものも、戦前の弾圧で当局に没収されたのち、東京大空襲で焼失したとされ、現存しない。検証しようにも、確かめるべき現物がないのである。

この「弾圧」についても、触れておこう。竹内文書が説く超古代の天皇の物語は、皇室の神聖を冒すものとして、戦前の国家から危険視された。一九三〇年代、竹内巨麿と皇祖皇太神宮は、不敬罪などに問われて当局の弾圧を受け、神宝を含む竹内文書およそ四千点が没収された。巨麿は裁判で最終的に無罪を勝ち取ったとされるが、没収された品々は返還されないまま、戦災で焼失したという。皮肉なことに、「日本こそ世界の中心」と日本を最大限に持ち上げたはずの書物が、その日本の国家自身によって弾圧された。この捻れた歴史もまた、竹内文書という存在の、ただならぬ来歴の一部である。世界的に権威ある事典でも、竹内文書は「古事記以前の歴史書という触れ込みで話題になったが、後に近代の偽書であることが立証された例」として、はっきり挙げられている。

つまり、竹内文書が語る「日本が世界文明の源だった」という壮大な物語は、歴史的事実としては、認められていない。これは、誠実に受けとめるべき結論だ。

では、竹内文書には、何の価値もないのか。そうではない、と私は思う。

たとえ歴史的事実でなくとも、竹内文書は、近代の日本人が紡ぎ出した、ひとつの壮大な「夢の書」である。なぜ、この時代の人々は、これほどの物語を必要としたのか。なぜ、世界中の人類がもとはひとつだったと、日本がその源だったと、語りたかったのか。そこには、近代という時代を生きた人々の、切実な願いや、不安や、誇りが、色濃く投影されている。偽書であることと、人の心を打つことは、矛盾しない。事実ではないからこそ、そこには、人間の「こうあってほしい」という願いが、いっそう純粋な形で結晶しているのかもしれない。

そして何より——幣立神宮という現実の聖地が、この竹内文書の世界観を背負って、いまも静かに山の中に在り続けている。五年に一度、五色神面が開かれ、世界中から人が集い、和合を祈る。その光景は、竹内文書が偽書であろうとなかろうと、確かに存在する現実だ。物語が事実かどうかと、その物語が人を動かす力を持つかどうかは、別の問いなのである。

竹内文書の扉を開け、私たちは黄金人にまで行き着いた。すべての源、すべての中心とされる存在。だが幣立神宮には、その黄金人の思想とも響き合う、もう一柱の、途方もない神が祀られている。万物の親神。宇宙そのものの創造に関わるとされる、その神の名を、次の章で見ていくことにしよう。

第6章 大宇宙大和神 — 唯一ここに祀られる万物の親神

神社に参拝するとき、私たちはたいてい、そこにどんな神が祀られているかを、あまり気にしない。手を合わせ、頭を垂れ、願いを込める。その相手が具体的にどの神なのかを、いちいち確かめる人は少ないだろう。

だが、幣立神宮に祀られている神々の名を、一柱ずつ確かめていくと、ある段階で、背筋がすっと伸びるような、奇妙な感覚に襲われる。なぜなら、ここに祀られているのは、ただの神々ではないからだ。それは、宇宙そのもの。万物の親。天地が生まれる、その根源にいる存在たちなのである。

幣立神宮の主祭神を、順に挙げてみよう。神漏岐命(かむろぎのみこと)、神漏美命(かむろみのみこと)、大宇宙大和神(おおとのちおおかみ)、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)。この五柱が、中心の神々である。さらに、阿蘇十二明神をはじめ、多くの神々が配祀されている。

この顔ぶれを見て、神道に詳しい人ほど、首をかしげるかもしれない。あまりに、規格外なのだ。

ふつう、神社が祀る神には、ある程度の「役割分担」がある。海の神、山の神、商売の神、学問の神。あるいは、特定の英雄や祖先を神として祀る。それが、神社というものの一般的な姿だ。ところが幣立神宮の祭神は、そうした個別の役割を、はるかに飛び越えている。天照大神という、日本神話の最高神。それすら、ここでは五柱のうちの一柱、いわば「末席」に近い位置にいる。そして、その天照大神よりも上位に、宇宙そのものの神が、どっしりと座しているのである。

その神の名を、大宇宙大和神という。

おおとのちおおかみ、と読む。聞き慣れない名だろう。それもそのはず、この神は、日本でただ一社、この幣立神宮にしか祀られていないとされる、きわめて特異な神格なのだ。

大宇宙大和神とは、何者か。神社の伝えるところによれば、それは「万物の親神」である。宇宙そのもの。そして、人間を含む、ありとあらゆる自然物との一体感を象徴する存在だという。海でもなく、山でもなく、特定の何かを司る神でもない。すべてを生み出し、すべてを包み込む、根源の中の根源。「大宇宙」「大和」という、その名を構成する言葉そのものが、すでにこの神の途方もないスケールを物語っている。大いなる宇宙の、大いなる和。それが、この神の本質なのだ。

この神名を、声に出して読んでみると、面白いことに気づく。「おおとのち」。漢字では「大宇宙大和」と書いて、こう読ませる。ふつうの読み方では、とても出てこない当て方だ。宇宙という途方もない概念と、「和」という、調和や和合を意味する、きわめて日本的な概念。その二つが、ひとつの神名のなかで結びついている。宇宙の本質は、対立や混沌ではなく、「和」である——この神名は、そう宣言しているかのようだ。これまでの章で繰り返し現れてきた、五色人の「和合」の思想。それが、宇宙のスケールにまで拡大されたとき、大宇宙大和神という名になる。人類の和合と、宇宙の和。そのふたつは、同じひとつの真理の、大きさを変えた現れなのである。

世界の宗教を見渡せば、こうした「万物の根源」を神とする発想は、決して珍しくない。ユダヤ・キリスト教の唯一神は、無から世界を創造した。インドの思想では、ブラフマンという宇宙の根本原理が、万物の根源とされる。中国の道教では、万物を生む「道(タオ)」が語られた。人類は、洋の東西を問わず、「すべてはどこから来たのか」という問いの果てに、ひとつの根源を見出してきた。大宇宙大和神もまた、その問いに対する、日本のひとつの答えなのだ。ただし、その答えには、「和」という、この国ならではの色が、深く差している。すべての根源は、戦う神でも、裁く神でもなく、和する神である——と。

考えてみてほしい。九州のへそ、山あいの小さな社。観光バスも来ない、ガイドブックにも載らない隠れ宮。その本殿に、宇宙そのものを体現する神が、日本でただひとつ、祀られている。このアンバランスさ、この不釣り合いの大きさにこそ、幣立神宮の底知れなさがある。小さな器に、宇宙が丸ごと収められている。そんな感覚だ。

なぜ、よりにもよって、この場所なのか。なぜ、伊勢でも、出雲でもなく、この九州の山中の社が、万物の親神を祀る唯一の地となったのか。その問いは、これまでの章で見てきたすべて——一万五千年の命脈、五色人の発祥、竹内文書の語る人類の源——と、深く響き合っている。ここが、すべての源だから。世界の人類が生まれ、世界へ散っていった、その始まりの地だから。だとすれば、その地に、宇宙そのものの神が祀られているのは、むしろ当然のことなのかもしれない。源の地には、源の神がいる。

大宇宙大和神に続いて、もう一柱、注目すべき神がいる。天御中主神である。

この神の名は、日本神話に親しんだ人なら、聞き覚えがあるだろう。『古事記』の冒頭、天地が初めて開けたとき、高天原に最初に姿を現した神。それが、天御中主神だ。宇宙の中心に位置し、調和と統合を司る神とされる。日本神話における、まさに最初の神、根源の神である。神道では、この天御中主神を含む最初の三柱の神を「造化三神(ぞうかさんしん)」と呼び、万物を生み出す力の源とみなしてきた。

この造化三神について、もう少し触れておきたい。『古事記』によれば、天地のはじめ、高天原に成った神は、天御中主神、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)の三柱。興味深いのは、この三神が、姿を現すとすぐに「身を隠した」と記されていることだ。つまり、神話の表舞台には出てこない。物語を動かすのは、もっと後に生まれるイザナギやイザナミ、天照大神たちである。造化三神は、いわば舞台の奥に控えた、目に見えない根源の力として描かれる。すべてを生み出しながら、自らは姿を見せない。この「隠れた根源」という性格こそ、天御中主神を、底知れない神たらしめている。そして、その隠れた根源の神が、幣立神宮では、はっきりと中心の祭神として祀られているのである。神話の奥に隠れていた神が、ここでは表に出ている。それだけでも、この神社の只ならぬ性格が伝わってくる。

その、日本神話の最も古い根源の神もまた、ここ幣立神宮に祀られている。大宇宙大和神という宇宙そのものの神と、天御中主神という宇宙の中心の神。この二柱が並んで祀られているという事実だけで、この神社が、いかに「根源」「中心」「始まり」というものに深く関わっているかが、伝わってくる。

そして、五柱の最初に挙げた、神漏岐命と神漏美命。この二神もまた、ただ者ではない。前の章で見た通り、竹内文書の世界では、この二神こそが、火の玉に乗って降臨し、大もとの人類・黄人を生み出した神々であった。興味深いことに、この神漏岐・神漏美という名は、『古事記』や『日本書紀』には、固有の神の名としては登場しない。一説には、これは特定の一柱を指すのではなく、天御中主神をはじめとする造化三神から、天照大神に至るまでの、皇祖神すべてを束ねて呼ぶ言葉だともいわれる。つまり、根源の神々の総称。ここでもまた、「すべての根源」というモチーフが、繰り返し立ち現れているのだ。

こうして幣立神宮の祭神を見渡すと、ひとつの壮大な構造が浮かび上がってくる。最も外側に、宇宙そのものである大宇宙大和神。その内に、宇宙の中心・天御中主神。さらに、根源の神々を束ねる神漏岐・神漏美。そして、日本神話の最高神・天照大神。まるで、宇宙の創成から、日本の始まりまでを、一つの神社が、入れ子状に、まるごと抱え込んでいるかのようだ。宇宙の中心から、太陽の神まで。マクロからミクロまで。この神社は、存在の全階層を、その本殿のなかに畳み込んでいる。

そして、この壮大な神々に加えて、幣立神宮には、阿蘇十二明神が配祀されている。健磐龍命をはじめとする、阿蘇の土地の神々だ。ここに、この神社のもうひとつの奥深さがある。宇宙そのものの神という、これ以上ないほど抽象的で巨大な神格と、阿蘇という具体的な土地に根ざした、生活に密着した神々。その両極が、ひとつの社のなかに、無理なく同居しているのだ。天の彼方の宇宙の神と、足元の大地の神。普遍と土着。この二つが手を結んでいるところに、日本の神道の、独特の懐の深さがある。どれほど壮大な宇宙論を語っても、その足は、阿蘇の大地に、しっかりと着いている。観念だけに飛び去らず、土地と結びついている。だからこそ、この神社の宇宙観は、空疎な絵空事にならず、訪れる人の心に、確かな手応えとして残るのかもしれない。

宇宙の神と、土地の神。根源の神と、生活の神。幣立神宮は、その両方を、分け隔てなく祀る。これは、八百万(やおよろず)の神を抱く、日本の神道ならではの、おおらかな重層性の、ひとつの極限のかたちと言えるだろう。一神教が、唯一絶対の神のもとにすべてを統べるのとは、対照的だ。ここでは、宇宙の神も、太陽の神も、土地の神も、それぞれの位置を保ちながら、ひとつの場所に共在している。それはまさに、五色人がそうであったように——異なるものが、対立せず、和して共にある、という思想の、神々のレベルでの実践なのである。

ここで、ひとつの大きな問いが浮かぶ。

なぜ、これほどの神々が、この一社に集められたのか。

ひとつの見方は、こうだ。幣立神宮が「日本最古」「人類発祥の地」「高天原」を称する以上、そこに祀られる神は、当然、宇宙や人類の根源にまでさかのぼる神でなければならない。壮大な由緒には、壮大な祭神がふさわしい。だから、宇宙そのものの神が祀られている——という見方である。

だが、もうひとつの見方もある。順序が逆だ、というものだ。つまり、後から壮大な由緒を付けたから宇宙の神を祀ったのではなく、もともとこの地が、宇宙の根源とつながる特別な場所だったからこそ、太古の人々はここに、宇宙そのものの神を見出し、祀ったのだ——という見方である。どちらが正しいのか、それを確かめる術はない。だが、実際にこの地に立った多くの人が、理屈を超えて「ここには何かがある」と感じるという事実は、後者の見方に、奇妙な現実味を与えている。

大宇宙大和神。万物の親神。宇宙そのもの。この神を前にすると、私たちは、ふだん忘れている、ある感覚を取り戻すのかもしれない。自分という小さな存在が、実は、宇宙という大きな全体の一部であるという感覚。海の一滴の水が、海そのものと、本質において同じであるように。私たち一人ひとりが、大宇宙大和神という大きな全体から分かれ出た、小さなかけらなのだ、と。

そして、この「大いなる全体から、すべてが分かれ出た」という感覚は、これまで繰り返し見てきた、五色人の思想と、根を同じくしている。人類は、もとひとつだった。五つの色は、ひとつの源から分かれた。——大宇宙大和神とは、その「ひとつの源」を、宇宙のスケールにまで押し広げた、究極の表現なのかもしれない。すべては、ひとつの大きな和から生まれ、いつかまた、その和へと還っていく。幣立神宮の祭神たちは、その壮大な円環を、静かに指し示している。

宇宙の神を祀る本殿に、しばし手を合わせたら、私たちはいよいよ、この聖地の、もうひとつの顔へと向かう。表の社を離れ、本殿の裏手から、森の中へと降りていくのだ。そこには、龍神の眠る、神秘の池がある。次の章では、東御手洗社と水玉の池——この神社のもっとも秘められた聖域へと、足を踏み入れていく。

第7章 東御手洗社と神水 — 龍神の眠る池と分水嶺の宮

ここまで、私たちは幣立神宮の「表」を見てきた。健磐龍命の社伝、一万五千年の御神木、五色神面、竹内文書、そして宇宙そのものの神。地上にそびえる本殿と、そこに込められた壮大な物語。だが、この神社の真の奥行きは、実は、地上の社だけでは終わらない。

本殿に手を合わせたあと、その西側へまわってみる。すると、一基の鳥居が、森の入口にひっそりと立っている。そこから先は、これまでの明るい境内とは、まるで空気が違う。鳥居の向こうには、鬱蒼とした杉木立の中へと、細い山道が、下へ下へと続いているのだ。

ここからが、幣立神宮の、もうひとつの顔である。

鳥居をくぐり、その山道を下りはじめる。道は細く、急で、雨のあとなどは泥でぬかるむ。ハイヒールではとても無理な、本格的な山の小径だ。両側から杉の巨木が迫り、頭上の空は枝葉に覆われて、光は乏しい。下りるにつれて、参拝者の数は減っていく。多くの人は、本殿に参っただけで帰ってしまう。この急な下り道の先に何があるかを知って、なお足を踏み入れる者だけが、この道を行く。一歩ごとに、世界が変わっていく。明るい「天」の社から、暗く湿った「地」の聖域へ。私たちは、文字通り、降りていく。

どこまで下ればいいのか、先は見えない。二百メートルほども下っただろうか。やがて、視界が、ふっと開ける。

そこに、池があった。

「水玉池(みずたまいけ)」、あるいは「水玉の池」と呼ばれる、静かな池である。山あいの底、木々に囲まれたその水面は、ひっそりと、しかし深く、何かを湛えている。そして、この池にこそ、龍がいる。

伝承によれば、この水玉池には、八大龍王(はちだいりゅうおう)が鎮まっているという。八大龍王とは、仏教の守護神であり、水や雨を司る、龍たちの王である。法華経にも登場する、八体の偉大な龍神たち。難陀(なんだ)、跋難陀(ばつなんだ)をはじめとする八つの龍王は、釈迦が法を説く場に列席し、仏法を守護する存在として知られる。その龍王が、この山あいの池の底に、とぐろを巻いて眠っている——そう言い伝えられているのだ。池のほとりに立つと、水面の静けさの底に、何か巨大なものの気配が、確かに横たわっているように感じられる。見える人には見え、感じる人には感じられる。たとえ何も見えなくとも、この場の張りつめた空気は、誰の肌にも伝わってくるだろう。

それにしても、なぜ龍なのか。世界中の文化のなかでも、龍ほど、水と深く結びついた霊獣はいない。とぐろを巻く姿は、渦巻く水流を思わせる。空を駆ければ、雨雲を呼び、稲妻を放つ。川の蛇行も、海の波も、龍の動きに重ねられてきた。東アジアにおいて、龍は水の循環そのものの化身であり、農耕民にとっては、雨をもたらす最も重要な神格だった。日照りには雨を乞い、長雨には鎮まりを願う。その祈りの相手が、龍だったのだ。幣立神宮の水玉池に龍が棲むという伝承は、この地が、水の力と深く結ばれた聖地であることを、何より雄弁に物語っている。

そして、この聖域には、ひとつの恐ろしい禁忌が伝えられている。

この池を、この聖域を侵すと、台風が起こる——というのである。

水を司る龍神の眠る池。それを侵せば、龍が怒り、嵐を呼ぶ。台風という、水と風の巨大な災厄を。これは、単なる脅しの言い伝えではない。水を治める龍への畏れ、自然の力への根源的な怖れが、この禁忌には込められている。古来、日本人は、龍を水の神として崇めてきた。雨を降らせ、川を流し、ときに洪水で人を呑む。水とは、恵みであると同時に、災いでもある。その両義的な力の化身が、龍なのだ。この池を侵してはならないという禁忌は、水という、人の手に負えない力への、太古からの敬意の表れである。むやみに荒らしてはならない。踏み込むなら、畏れをもって、静かに。

この東御手洗社には、八大龍王とともに、北辰妙見大神(ほくしんみょうけんおおかみ)も祀られている。北辰とは、北極星のこと。天の中心に動かず座し、すべての星がそのまわりを巡る、不動の星だ。地の底の龍神と、天の中心の星の神。ここでもまた、天と地が、ひとつの聖域で結ばれている。

そして、この聖域には、もうひとつの宝がある。水だ。

そもそも、この社の名にある「御手洗(みたらい)」という言葉に、すでに水の聖性が刻まれている。御手洗とは、神社で参拝の前に手や口をすすぎ、身を清める場所のことだ。神の前に出るには、まず穢れを洗い流さなければならない。水で身を清めるこの行為を、神道では「禊(みそぎ)」と呼ぶ。日本神話においても、黄泉の国から戻ったイザナギが、川で禊を行い、その際に天照大神をはじめとする神々が生まれた。水で清めることは、単に汚れを落とすのではなく、新しい命と神聖を生み出す、根源的な営みなのだ。東御手洗社とは、まさにその「清めの水」を司る聖域である。龍神の鎮まる池と、清めの水。水という主題が、この場所では、幾重にも折り重なっている。

東御手洗社のかたわら、水源から引かれた竹筒の先から、清らかな湧水が、こんこんと流れ出している。御神水である。参拝者は、ここでこの水をいただく。空のペットボトルを持参して、汲んで帰る人も多い。山の奥深く、龍神の鎮まる池のほとりから湧き出る水。これほどありがたい水も、そうはないだろう。ただし、この水を汲むときには、慎みが求められる。基本的に、一人ペットボトル一本程度に、というのが、この聖域の決まりである。龍神の恵みを、独り占めしてはならない。分かち合うものなのだ。

だが、この御神水には、ひとつ、不思議な言い伝えがある。

湧き口は、二か所ある。竹筒も、二本。そして——その左右の竹筒から出る水は、味が違うというのだ。

同じ山の、同じ聖域から湧き出る水。すぐ隣り合った二つの湧き口。それなのに、片方と、もう片方とで、味が異なる。実際に飲み比べた人々が、口を揃えてそう言う。にわかには信じがたい。だが、この左右で味の違う神水は、幣立神宮の七不思議のひとつとして、古くから語り継がれてきた。なぜ、味が違うのか。地下の水脈が異なるのか。あるいは、二つの水に、それぞれ別の意味が込められているのか。確かなことは、わからない。だが、訪れたなら、ぜひ両方を口に含み、その違いを、自分の舌で確かめてみてほしい。

この御神水には、さらに古い伝承がまとわりついている。

皇孫・饒速日命(にぎはやひのみこと)——あるいはニニギの尊とも伝えられる神が、この水玉池の神水を用いて、日本全国を清めて回ったというのだ。国土を浄化する、聖なる水。この地から湧き出た水が、日本中を清めた、という壮大な伝承である。九州のへそから湧く水が、国全体に行き渡り、穢れを祓う。ここでもまた、幣立神宮は、「この地がすべての源である」という、一貫した物語を、静かに語っている。

ところで、「東御手洗社」という名は、ひとつの問いを呼ぶ。東があるなら、西はないのか。——あるのだ。幣立神宮から少し離れた場所に、「西御手洗社(にしみたらいしゃ)」、別名・西水神宮が、ひっそりと鎮座している。東の御手洗が、龍神と参拝者でにぎわうのに対し、西の御手洗は、周囲の景色に溶け込むように、ほとんど人に知られず、静かに佇んでいる。東と西、二つの御手洗。この対になった配置は、偶然ではないのかもしれない。

ここで、この神社が「分水嶺(ぶんすいれい)」の上にあるという事実が、重みを帯びてくる。分水嶺とは、降った雨が、東と西、あるいは別々の方向へと分かれて流れていく、その境界の尾根のことだ。幣立神宮は、九州のほぼ中央、まさに水が東西に分かれていく、その分かれ目に立っている。ここに降った雨の一滴は、わずかな地形の差で、ある水は東の海へ、ある水は西の海へと、まったく別の旅路をたどることになる。同じ一点に発しながら、分かれて、異なる海へと至る——。

これは、いったい何かに似ていないだろうか。

そう、五色人だ。ひとつの源から生まれ、世界の各地へと分かれて散っていった、五つの色の民。この分水嶺の宮では、水さえもが、ひとつの空から降り、ひとつの地に落ち、そして分かれて、別々の海へと旅立っていく。幣立神宮という場所は、その立地そのものが、「源はひとつ、そこから分かれて世界へ」という、この神社の根本思想を、地形として体現しているのだ。東と西の御手洗、東西へ分かれる水。この地は、ただ水が豊かなだけの聖地ではない。「ひとつが分かれていく」という宇宙の理を、水の流れとして、目に見える形で示している聖地なのである。

さらに、この水にまつわる、見過ごせない話がある。

水玉池のほとりには、「悠紀田(ゆきでん)」と呼ばれる、神聖な田がある。この東御手洗の水を引いて稲を育てる、神田である。伝承によれば、もともと西御手洗にあった「主基田(すきでん)」を、この東御手洗の地に移した。そして、そのときに行われた田植えの祭りが、なんと、大嘗祭(だいじょうさい)の基になったというのである。大嘗祭といえば、天皇が即位の際に、ただ一度だけ行う、神道の最も重要で神聖な儀式のひとつだ。新たに収穫された米を神々に捧げ、天皇自らもそれを食す、国家の根幹に関わる祭祀。その大嘗祭の起源が、この九州の山中の、龍神の池のほとりにあるという。事実かどうかを超えて、この伝承が語ろうとしていることは明確だ。この地は、皇室の最も神聖な儀式の源でもある——と。すべての源。ここでもまた、その主題が、繰り返される。

天の社から、地の池へ。私たちは、明るい本殿を離れ、龍神の眠る暗い水辺まで、降りてきた。そして気づく。この神社は、地上の物語と、地下水脈のように流れる、もうひとつの物語とを、併せ持っているのだ、と。表があり、裏がある。天があり、地がある。光があり、闇がある。そして、その「降りていく」という動きこそ、この物語全体が、最終的に向かう方向を、すでに指し示している。

考えてみれば、私たちはこの神社で、ずっと「降りて」きた。天から火の玉に乗って降臨した神々。天の中心の星から、地上の社へ。そして本殿から、二百メートル下の龍神の池へ。降りる、降りる、また降りる。神聖なものは天から降りてくる、というのが、多くの神話の語り口だ。だが幣立神宮では、その「降りる」ベクトルが、地上で止まらない。社を越え、地表を越え、さらに下へと向かおうとする。龍神の池は、その途上にある、ひとつの踊り場のようなものだ。水がそこから、さらに低きへ、地の底へと染み込んでいくように、私たちの旅も、やがて地表のさらに下——地の底の世界へと、向かっていくことになる。

なぜなら、水は、低きへと流れるからだ。地の底へ、さらに底へ。そして、龍が棲むという地下の世界、水脈の通うその奥には——やがて私たちが向き合うことになる、もうひとつの巨大な謎が、口を開けて待っている。あの、第三章と第四章で胸に留めておいてほしいと告げた、赤と青の民。地上から消え、地の底へ潜ったとされる彼らの世界が、この水脈の、さらに奥にあるのだ。

だが、その前に。この龍神の池に湧く神水と、五色神面の「赤い面=モーゼの面」、そして境内に伝わるという、ユダヤの秘宝「水の玉」。水、また水。なぜ、この神社には、これほど水の伝承が満ちているのか。次の章では、その水の糸をたぐって、思いもよらない場所——遠い中東の、古代ユダヤの世界へと、つながっていく。九州の龍神の池と、モーゼの物語。その、にわかには信じがたい交差点へ、足を踏み入れてみよう。

第8章 地下帝国への扉 — アガルタ・シャンバラと五色人

ここまで、長い旅をしてきた。

一万五千年の御神木を見上げ、五色神面の前に立ち、竹内文書の壮大な世界をたどり、宇宙そのものの神に手を合わせ、そして龍神の眠る池まで、二百メートルを降りてきた。その道のりのあちこちに、私たちは、ひとつの問いを、小さな棘のように、胸に刺したまま歩いてきたはずだ。

赤と青は、どこへ消えたのか。

五色人のうち、白・黄・黒の三つは、いまも地上に生きている。だが、赤人と青人——その二色だけが、現実の地上のどこにも、見当たらない。第三章でこの違和感を提示し、第四章で、ひとつの大胆な答えに触れた。彼らは、地上から姿を消し、地の底へと潜っていったのではないか、と。赤鬼・青鬼、ナマハゲ、そして私たちの体に生まれたときだけ浮かぶ青い蒙古斑。それらはすべて、地底へ消えた赤と青の民の、かすかな記憶なのではないか、と。

この章で、私たちはついに、その「地の底」へと、扉を開ける。

ただし、ここで、はっきりと線を引いておかなければならない。これから語ることは、幣立神宮が公式に伝える由緒では、まったくない。神社の社伝にも、祭神の由来にも、ここから先の話は、一切出てこない。これから足を踏み入れるのは、超古代史、オカルト、都市伝説と呼ばれる領域だ。学術的な裏づけは、どこにもない。だが——これまで張りめぐらせてきた伏線が、この領域に踏み込んだ瞬間、不思議なほど一本の線に結ばれていく。その光景を、どうか見届けてほしい。これは「事実」の話ではない。「物語」の話だ。そして、すぐれた物語は、ときに事実よりも深く、人の心の真実を射抜くことがある。

では、扉を開けよう。地下帝国の名は——アガルタ、そしてシャンバラ。

世界には、古くからこんな伝承がある。私たちが立っているこの大地の、はるか下。地球の内部は、実はがらんどうの空洞になっていて、そこには、太陽のような光を放つ内部世界が広がり、高度な文明を築いた人々が、いまも暮らしている——と。これを「地球空洞説」という。荒唐無稽に聞こえるだろう。実際、近代以降の科学は、この説を完全に否定している。地球の内部は、内核・外核・マントル・地殻という層構造であって、空洞などない。それが、ゆるぎない科学の結論だ。この点は、誠実に、はっきりと記しておく。

だが、科学が否定してもなお、この地底世界の物語は、人類の想像力のなかで、決して消えなかった。むしろ、洋の東西を問わず、驚くほど広く、深く、語り継がれてきたのだ。

仏教やヒンドゥー教の伝承では、地下の理想郷は「アガルタ」と呼ばれ、チベットの山中に、秘密の入口があるとされる。中央アジアでは、同じ地底の楽園が「シャンバラ」の名で知られてきた。シャンバラとは、サンスクリット語で「静けさ」、チベット語で「幸福の源」を意味する。聞き慣れない名かもしれないが、その別名「シャングリラ」と言えば、理想郷の代名詞として、耳にしたことがあるだろう。地の底に隠された、永遠の楽園。選ばれた賢者たちが住み、地上が戦乱や災厄に見舞われても、そこだけは静かに繁栄を保ち続けている——それが、アガルタでありシャンバラなのだ。

この地底王国の伝承は、近代に入っても、多くの人々を捉えて離さなかった。一九二〇年、ポーランドの探検家オッセンドフスキーは、旅行記のなかで地下の理想郷アガルタを紹介した。フランスの神秘思想家ルネ・ゲノンは、著書『世界の王』のなかで、シャンバラから続く地底王国アガルタの伝説を論じた。さらにさかのぼれば、十九世紀末、サン=ティーヴ・ダルヴェドールが、その存在を世に伝えている。そして驚くべきことに、世界各地の神話には、このアガルタへの入口が、南アメリカから北極地方まで、地上のあちこちに点在しているという記述が、いくつも残されているのだ。

この伝説に取り憑かれたのは、神秘思想家や探検家だけではない。歴史を揺るがした権力者たちもまた、地底の楽園と、そこに眠るとされる超古代の叡智や力を、本気で求めたという。とりわけ有名なのが、ナチス・ドイツだ。アドルフ・ヒトラーと、その周辺のオカルトに傾倒した一派は、チベットへ探検隊を送り込み、シャンバラやアガルタの実在と、そこに眠るとされる秘められた力——「ブリル・パワー」などと呼ばれた——を、真剣に探し求めたと伝えられる。世界征服を企てた者たちが、地の底の王国に、その野望の鍵を見出そうとした。地下帝国の伝説が、単なる空想にとどまらず、現実の歴史をも動かしかけたという事実は、この物語が持つ、底知れない引力を物語っている。地の底には、世界を変えるほどの「何か」がある——多くの人間が、そう信じたのだ。

世界各地に、地底をめぐる伝承は満ちている。日本の足元にも、それはある。たとえば、古代アイヌの神話では、地底に巨大なアメマス(魚)が住んでいて、これが暴れると地震が起こるとされた。地の底に、巨大な何かが横たわっている。それが動くと、大地が揺れる。——これは、幣立神宮の水玉池の禁忌、「龍神の池を侵すと台風が起こる」という伝承と、深いところで響き合ってはいないだろうか。地の底の巨大な存在。それを怒らせると、災害が起こる。世界中の人々が、足元の地中に、おそるべき力を秘めた何かの気配を、感じ取ってきたのである。

世界の、あちこちに、入口がある。

——もし、そうだとしたら。その入口のひとつが、この日本に、この九州のへそに、あったとしたら、どうだろう。

ここで、私たちの胸に刺さっていた棘が、疼きはじめる。

地の底に、文明を築いて生き続けている人々がいる。地上が荒れても、彼らはそこで静かに暮らし続けている。——これは、第四章で見た、あの説と、そっくりではないか。地上から姿を消し、地の底へ潜ったとされる、赤人と青人。彼らが地底に独自の世界を築き、いまもそこに在り続けているという、あの物語と。

実際、超古代史を探究する人々のなかには、この二つを、はっきりと結びつける見方がある。かつて地上には、五色の人類すべてがいた。だが、ある時、大きな天変地異——たとえば、旧約聖書が語るノアの大洪水のような大破局——が地上を襲った。そのとき、赤人と青人は、濁流を逃れて地の底へと潜り、生き延びた。そして地底で、超古代の叡智を受け継いだ楽園を築き上げた。——それこそが、アガルタであり、シャンバラなのだ、と。地上に残った黄・白・黒の民は、やがて彼ら地底の同胞のことを忘れ、ただ「鬼」として、おそれの記憶のなかに語り継いだ。

この物語が組み上がったとき、これまで見てきたすべてが、一本の線につながる。五色人の謎。赤と青の不在。赤鬼・青鬼。ナマハゲ。蒙古斑。そして、地底王国アガルタ・シャンバラ。ばらばらだった点が、ひとつの星座を描きはじめる。地上の五色人の物語は、地の底の地下帝国の物語と、地続きだったのだ。

少しだけ、その地底の楽園を、想像してみよう。地上が氷河に閉ざされ、あるいは大洪水に呑まれていたあいだも、地の底では、内なる太陽が淡い光を投げかけ、温かな大気がたゆたっていた。赤い肌の民と、青い肌の民が、超古代から受け継いだ叡智を守りながら、争うことなく、静かに暮らしている。地上の同胞が、戦乱と災厄に明け暮れているあいだも、彼らはただ、和して在り続けた。——もしそんな世界が、本当に私たちの足元に広がっているのだとしたら。そして、地上に残った私たちが忘れてしまった「和合」を、彼らがいまも保ち続けているのだとしたら。地底の赤と青は、ひょっとすると、私たち地上の人類が見失った理想の姿を、地の底で静かに体現し続けている、もうひとりの私たち自身なのかもしれない。五色神面が祈る「和合」の世界は、すでに地の底に、実現しているのかもしれないのだ。

そして、ここで思い出してほしい。私たちがこの神社で、ずっと「降りて」きたことを。

火の玉に乗って天から降臨した神々。本殿から二百メートル下の、龍神の眠る池。水は、低きへ、地の底へと流れていく。幣立神宮という聖地は、その構造そのものが、地上から地下へと向かうベクトルを、最初から内包していた。表の社の下に、龍神の池がある。では、龍神の池の、さらに下には——? その問いの先に、地下帝国が口を開けている。龍が棲むという地底。水脈の通うその奥。そこにこそ、地上を追われた赤と青の民の世界が広がっている——そう考えたとき、この神社の「降りていく」構造は、地下帝国伝説への、壮大な入口の比喩として立ち上がってくるのだ。

さらに、もうひとつの糸がある。ムー大陸だ。

第二章で触れた、太平洋に沈んだとされる超古代の母なる文明・ムー。そのムーが大破局で海に沈んだとき、生き延びた人々はどこへ行ったのか。一説には、彼らもまた、地の底へ逃れ、アガルタの一部となったとも語られる。そして、ムー大陸は、日本と地理的にも文化的にも、深く結びつけて語られてきた。幣立神宮が語る「日本が人類の源」という思想と、ムー大陸、そして地底王国アガルタ。これらが、五色人という一本の糸で、ゆるやかに、しかし確かに、編み合わされていく。

繰り返すが、これらはすべて、検証された事実ではない。地球空洞説は、科学が明確に否定している。アガルタもシャンバラも、伝承であり、神話であり、想像力の産物だ。幣立神宮の宮司が、これを公式に語っているわけでも、決してない。ここははっきりさせておく。

だが——それでもなお、問いたくなるのだ。

なぜ、世界中の人々が、地の底に楽園を夢見たのか。なぜ、日本の鬼は、ちょうど五色人から消えた赤と青なのか。なぜ、この神社は、これほどまでに「降りていく」構造を持つのか。一つひとつは、無関係な偶然かもしれない。だが、それらを「地下帝国」という一点で結んだとき、世界はあまりにも美しく、あまりにも整然と、ひとつの物語に収まってしまう。その整いすぎた符合に、私たちは、ぞくりとせずにはいられない。

事実ではないかもしれない。だが、人間の想像力は、なぜか繰り返し、同じ夢を見る。地の底に、もうひとつの世界があるという夢を。失われた同胞が、そこで生き続けているという夢を。その夢の普遍性こそが、ひょっとすると、事実以上に、人間にとって深い「何か」を語っているのかもしれない。

そしてもうひとつ、見落としてはならないことがある。「地の底へ降りる」という行為が、古来、何を象徴してきたか、ということだ。神話のなかで、英雄はしばしば地下世界へと降りていく。死者の国を訪ね、試練をくぐり、何かを得て、再び地上へ帰ってくる。イザナギも黄泉へ降りた。ギリシアの英雄たちも冥界を訪れた。地の底へ降りるとは、外なる地理を旅することであると同時に、自らの心の最も深い場所へと潜っていくことの、象徴でもあった。表層の意識から、無意識の闇の底へ。そこで人は、忘れていた何か、封じ込めていた何かと出会う。アガルタやシャンバラが、現代もなお、多くの人々の心を惹きつけ、瞑想やスピリチュアルの世界で語り継がれているのは、それが単なる地理上の場所ではなく、私たち自身の内なる深みの、もうひとつの名だからなのかもしれない。地下帝国への扉は、ひょっとすると、私たちの心の奥にこそ、開いているのだ。

地下帝国の扉を、私たちは開けた。そして、その奥に、地上を追われた赤と青の民の楽園を、垣間見た。だが、幣立神宮をめぐる物語の糸は、地の底だけにとどまらない。次の章では、五色神面の「赤い面=モーゼの面」、そして境内に伝わるという、ユダヤの秘宝「水の玉」。九州の山中の神社が、なぜか遠い中東の、古代ユダヤの世界と交わっていく、その不思議な交差点へと、向かうことにしよう。源はひとつ、という物語は、地の底のさらに先、地球の裏側にまで、その糸を伸ばしていくのである。

第9章 モーゼとユダヤの影 — 日ユ同祖論の交差点

これまでの章で、私たちは何度か、奇妙な言葉を、伏線のように置いてきた。五色神面の赤い面は「モーゼの面」だという。境内には、ユダヤの秘宝「水の玉」が伝わるという。

九州の山中の、ガイドブックにも載らない隠れ宮。そこに、なぜ、旧約聖書のモーゼが現れるのか。なぜ、古代ユダヤの秘宝が、はるばる中東から、この地に運ばれてきたというのか。地の底へと降りていった前章から一転、この章では、私たちの旅は、地球の裏側——遠い中東の、古代イスラエルの世界へと、横に大きく飛ぶ。そして、その遠い世界と、この九州のへそとが、一本の細い糸で結ばれていく。

まず、断っておく。これから語る話も、前章と同じく、幣立神宮の公式の由緒ではない。学術的に認められた歴史でもない。これは、伝承であり、仮説であり、ロマンの領域の物語だ。その前提のうえで、しかし、不思議なほど人を惹きつけてやまない、その糸をたぐってみよう。

話は、五色神面に戻る。

第三章で見たように、五色神面は、赤・白・黄・黒・青の五つの色に塗り分けられた、人類の祖神の面だ。そして、その赤い面について、驚くべき伝承が語られている。この赤い面は、ほかでもない、モーゼの面である、というのだ。

モーゼ。旧約聖書「出エジプト記」に登場する、あの偉大な預言者である。神の命を受け、エジプトで奴隷とされていたユダヤの民を率いて脱出し、海を割って民を渡し、シナイ山で十戒を授かった、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教に共通する、聖書最大の英雄の一人。そのモーゼの顔が、なぜ、九州の神社の秘宝のなかにあるのか。

この伝承を、ただの思いつきと笑うことは、たやすい。だが、ここに、簡単には笑い飛ばせない、ひとつの逸話がある。

一九九八年、福岡のテレビ局が、「古代人は何を残したか」という特別番組を制作した。そのなかで、五色神面が取り上げられた。番組は、五色神面の写真を携えて、はるばるイスラエルへ飛ぶ。そして、ヘブライ大学の、あるユダヤ史の権威ある教授のもとを訪ねた。レポーターは、五枚の面の写真を見せ、こう尋ねた。「このなかに、モーゼの顔はありますか。どれがモーゼだと思いますか」と。

すると、その教授は、迷うことなく、一枚の面を指さした。

それは——赤い面だった。

幣立神宮で「モーゼの面」と伝えられてきた、まさにその赤い面を、ユダヤ史の専門家が、何の予備知識もなく、モーゼだと指し示したのである。偶然だろうか。五枚のうちの一枚を選ぶ確率は、五分の一。決して低くはない。だが、その教授がなぜ赤を選んだのか、その面に何を見たのかを思うと、簡単に「偶然」の一言で片づけてしまうのも、惜しい気がしてくる。しかも、この教授は、日本研究でも知られた、れっきとしたユダヤ史の碩学である。素人の当てずっぽうではない。長年ユダヤの歴史と顔貌を見つめてきた専門家の目が、五枚の面のなかから、迷わず赤を選んだ。その事実の持つ、ひんやりとした手応えは、無視しがたい。

もちろん、テレビ番組という演出の場での出来事である。どこまでが厳密な検証で、どこからが番組としての盛り上げなのか、その境界は、いまとなっては確かめようがない。だが、こうした逸話が語り継がれること自体が、五色神面という存在の、底知れない引力を物語っている。

そして、もうひとつの秘宝。「水の玉」である。

伝承によれば、この水の玉は、小さく、透明な石だという。そして、その由来をたどると、まっすぐに、モーゼと出エジプトの物語に行き着く。旧約聖書の出エジプト記には、こう記されている。ユダヤの民がエジプトを脱出するとき、夜は「火の柱」が、昼は「雲の柱」が現れて、民の行く道を照らし、導いた、と。この、民を導いた神秘の光——それと結びつけて、モーゼが手にしていたとされるのが、この「水の玉」だというのである。

では、その水の玉が、どうやって日本に来たのか。伝承は、こう語る。紀元前七二二年、古代イスラエル王国は、アッシリア帝国によって滅ぼされた。このとき、行方知れずとなったイスラエルの十の部族——いわゆる「失われた十支族」。その一部が、長い長い旅の果てに、はるばる東へと向かい、ついには日本の九州にまでたどり着いた。そして、彼らが携えてきた秘宝こそが、この水の玉だった——というのだ。

この「失われた十支族」というのは、歴史と伝説のあわいにある、世界史最大のロマンのひとつだ。古代イスラエルは、もともと十二の部族から成っていた。そのうち、北のイスラエル王国を構成していた十の部族が、アッシリアによる征服とともに、歴史の記録から忽然と姿を消す。彼らはどこへ行ったのか。世界各地に、「我こそは失われた十支族の末裔」と名乗る民族や、彼らの足跡を追う伝承が、点々と残されている。アフリカにも、インドにも、中央アジアにも。そして、その東の果ての終着点として、しばしば名指しされるのが——日本なのである。地の果て、日出ずる国。流浪の果てに彼らがたどり着いた約束の地が、この極東の島国だった、というわけだ。壮大であり、どこか切ない物語でもある。

ここで、いよいよ、ひとつの大きな思想が姿を現す。「日ユ同祖論(にちゆどうそろん)」である。

日ユ同祖論とは、日本人と、古代ユダヤ人——とりわけ、あの「失われた十支族」とが、もとをたどれば同じ祖先を持つ、あるいは深い関わりがあるとする説だ。この説は、決して新しいものではない。古くは十七世紀に、その萌芽が現れ、明治期には、来日したスコットランド人のニコラス・マクラウドが、日本と古代ユダヤの相似性を体系的にまとめ、世界で最初に日ユ同祖論を提唱したとされる。彼は、祇園祭の山車とユダヤの神輿の類似、日本の古い習俗とユダヤの儀礼の共通点など、いくつもの符合を挙げて、日本人の祖先はイスラエルから来たのだと主張した。

その後も、日ユ同祖論は、形を変えながら語り継がれてきた。日本語とヘブライ語に、発音と意味のよく似た言葉が数多くあること。神社の鳥居の形が、ユダヤの過越の習俗を思わせること。神輿が、ユダヤの「契約の箱(アーク)」に似ていること。伊勢神宮の灯籠に、ダビデの星に似た紋様が見られること。——挙げていけば、その符合は、驚くほど多い。

少し、具体的に見てみよう。たとえば、山伏が額につける小さな黒い箱「兜巾(ときん)」は、ユダヤ教徒が祈りのときに額に着ける小箱「テフィリン」によく似ている、と指摘される。神輿を担いで練り歩く祭りの姿は、ユダヤの民が契約の箱を担いで運んだ場面を思わせる、という。日本語の「ヤーレン、ソーラン」などの囃子言葉や、君が代の歌詞にさえ、ヘブライ語として意味が通る、と主張する人もいる。神社で手を清め、口をすすぐ作法。塩で清める習慣。これらが、ユダヤの清めの儀礼と通じる、とも言われる。一つひとつを取り上げれば、「なるほど」と唸らされるものも少なくない。これだけの符合が、すべて偶然なのか——そう問いたくなる気持ちは、よくわかる。だからこそ、この説は、百年以上にわたって、人々の心を捉え続けてきたのだ。

ただし、ここははっきりさせておかなければならない。日ユ同祖論は、現在の学術の世界では、俗説——いわゆる「トンデモ説」の一種として扱われている。提唱者マクラウド自身、なんでも失われた十支族と結びつける、いい加減な人物だったとも評される。言語学的にも、遺伝学的にも、日本人と古代ユダヤ人が同じ祖先だという主張を裏づける、確かな証拠は見つかっていない。数々の「符合」も、冷静に検証すれば、偶然の一致や、こじつけと見なせるものが多い。これは、誠実に記しておくべき結論だ。

だが——それでも、この説は、なぜか、人を惹きつけてやまない。

なぜだろう。ひとつには、この説が、これまで見てきた幣立神宮の根本思想と、あまりにもよく響き合うからだ。源はひとつ。世界の人類は、ひとつの場所から生まれ、世界へ散った。日ユ同祖論は、その壮大な物語の、いわば「実証編」のように見えてくる。日本とユダヤ。地球の東の果てと、中東。これほど遠く離れた二つの民が、もし本当にひとつの源から分かれたのだとしたら——五色人の物語は、ただの神話ではなく、現実の歴史だったことになる。モーゼの面と、水の玉は、その動かぬ証拠だ、というわけである。

そして、もうひとつ、見逃せない符合がある。思い出してほしい。第四章で見た、五色人の分類を。赤人とは、誰だったか。——ユダヤ人や、ネイティブ・アメリカン、アラブ人などと、語られていた。つまり、五色人の物語のなかで、赤人とは、もともとユダヤと結びつく色だったのだ。だからこそ、五色神面の「赤い面」が「モーゼの面」とされるのは、決して唐突ではない。赤=ユダヤ=モーゼ。この連なりは、五色人の体系のなかに、最初から組み込まれていたのである。さらに思い起こせば、その赤人は、地上から消え、地の底へ潜ったとされた色でもあった。地底のアガルタへ消えた赤人と、中東から日本へ流れ着いたユダヤ。同じ「赤」をめぐって、地の底への糸と、地球の裏側への糸が、ここで交差する。五色という小さな色の体系のなかに、地下帝国も、古代ユダヤも、すべてが畳み込まれている。その設計の見事さに、ただ唸るほかない。

そして、ここで、第五章の竹内文書を思い出してほしい。竹内文書は、モーゼやキリストといった世界の聖人が、こぞって日本を訪れ、天皇に仕えたと語っていた。モーゼが日本に来た、という幣立神宮の伝承は、まさにこの竹内文書の世界観の、ひとつの現れなのだ。世界の聖人が日本に集った。世界の民が日本を源とする。そのなかに、ユダヤのモーゼもいた——。竹内文書、五色人、日ユ同祖論、モーゼの面、水の玉。これらは、別々の伝承でありながら、「日本がすべての源」という一本の太い思想で、しっかりと束ねられているのである。

ここまで来て、私たちは、ひとつのことに気づく。

幣立神宮をめぐる物語は、決して、日本という枠のなかに閉じていない。それは、地の底(アガルタ)へと垂直に伸び、同時に、地球の裏側(ユダヤ)へと水平に伸びていく。上へ、下へ、横へ。あらゆる方向へ、糸を伸ばしていく。なぜなら、この神社が語っているのは、「日本の物語」ではなく、「人類全体の物語」だからだ。世界中の人類が、ここから生まれ、世界へ散った。だとすれば、世界のどんな民族の物語とも、どんな聖典の英雄とも、この地はつながっていて、当然なのだ。モーゼも、ユダヤも、その壮大な物語の、一本の糸にすぎない。

繰り返すが、これらは検証された事実ではない。日ユ同祖論は俗説とされ、モーゼの面も水の玉も、学術的に裏づけられた史実ではない。だが、九州の山中の小さな社で、赤い面が静かに「モーゼ」と呼ばれ、透明な石が「ユダヤの秘宝」として伝えられている——その事実そのものは、確かにそこにある。物語が事実かどうかと、その物語が千年を超えて語り継がれてきたという事実は、別のことなのだ。

地の底へ、地球の裏側へ。私たちの旅は、幣立神宮を中心に、世界中へと糸を伸ばしてきた。だが、ここまで来ると、誰の胸にも、ある問いが、はっきりと立ち上がってくるはずだ。——これは、本当なのか。それとも、壮大な作り話なのか。一万五千年、五色人、竹内文書、地下帝国、モーゼ。これらを、私たちは、どう受けとめればいいのか。次の章では、その問いと、正面から向き合う。怪しいのか、本物か。伝承と、学術と。その、ひりひりするような境界線の上に、あえて立ってみることにしよう。

第10章 ゼロ磁場と不思議体験 — 訪れた者たちの証言

ここまでの章で、私たちは、幣立神宮をめぐる、壮大な「物語」をたどってきた。一万五千年の命脈、五色人、竹内文書、地下帝国、モーゼ。それらは、文献や伝承のなかの話、いわば「頭で味わう」物語だった。

だが、この神社には、もうひとつの顔がある。理屈や文献を超えて、訪れた人が、その身体で、じかに「感じる」何か。この章では、その体感の領域に、足を踏み入れる。実際にこの地を訪れた人々が、口々に語る、不思議な証言の数々へ。

まず、語っておかなければならないのが、「ゼロ磁場」である。

幣立神宮は、日本列島を縦断する、巨大な断層の真上に立っている。中央構造線。九州から四国、紀伊半島を貫いて、関東へと延びる、日本最大級の断層帯だ。この中央構造線の上には、なぜか、古くからの聖地が、点々と並んでいる。伊勢神宮、諏訪大社、分杭峠——名だたるパワースポットが、この一本の線の上に、連なっているのだ。そして、幣立神宮もまた、その例外ではない。

このことを、少し考えてみたい。中央構造線は、一億年以上前から日本列島に刻まれてきた、巨大な地質の傷痕である。その線の上に、伊勢神宮という、日本の神社の頂点が立つ。諏訪大社という、古い古い信仰の社が立つ。長野の分杭峠は、近年「ゼロ磁場の聖地」として、多くの人が癒やしを求めて訪れる。和歌山の高野山、奈良の天河神社なども、この線の近くにあるとされる。これは、偶然なのだろうか。それとも、太古の人々が、この大地の裂け目に走る、何か特別な力を、身体で感じ取り、そこを聖地と定めていったのだろうか。地質学と、信仰と。一見、何の関係もなさそうな二つが、この一本の線の上で、奇妙に交差している。幣立神宮が「九州のへそ」であると同時に、この列島を貫く聖なる線の上の一点でもあるという事実は、この神社の特別さに、もうひとつの奥行きを与えている。

この中央構造線の周辺は、「ゼロ磁場」と呼ばれることがある。ゼロ磁場とは、何か。簡単に言えば、S極とN極、相反する二つの磁力が、ちょうど拮抗してぶつかり合い、打ち消し合うことで、磁力が存在しないか、あるいは極めて不安定になる、特殊な場所のことだ。そうした場所では、方位磁石の針が、北を指さずに、ふらふらと定まらず、震え続けるとも言われる。そして、こうした場所には、地球のエネルギーが集中するのだ、という見方がある。

ここで、誠実に記しておきたいことがある。「幣立神宮はゼロ磁場だ」という言い方は、広く流布しているが、これについて、当の宮司は、実に正直に語っている。「磁場が完全に〇%になる場所など、ない」と。つまり、文字通りの、磁力が完全にゼロの場所、というわけではない。だが、同時に、宮司も、この地の磁場が「特殊である」ことは認めている。完全なゼロではない。けれど、ふつうの場所とは、確かに何かが違う。——この、断定しすぎない、正直な語り口にこそ、かえって信頼が置けるのではないだろうか。誇張して「ここは奇跡のゼロ磁場だ」と言い立てるのではなく、「完全なゼロではないが、特殊ではある」と、ありのままを語る。その誠実さが、この神社の佇まいと、よく似合っている。

科学的に厳密なことは、ひとまず措こう。大切なのは、この地に立った多くの人が、理屈ではなく、何かを「感じて」しまう、という事実のほうだ。

東洋には、古くから「気」という考え方がある。目には見えないが、天地に満ち、人体にも流れている、生命のエネルギー。気功や、鍼灸や、風水も、この「気」の思想の上に成り立っている。ゼロ磁場やパワースポットという、比較的新しい言葉も、突き詰めれば、この「気」の感覚を、現代風に言い換えたものなのかもしれない。場所には、気の満ちる場所と、淀む場所がある。気の良い場所に立てば、心身が整う。——そういう感覚は、科学以前から、人類が共有してきた、古い知恵である。幣立神宮で人が感じる「何か」も、この「気」という、東洋の古い概念で捉えると、すっと腑に落ちる部分がある。とりわけ、本殿から二百メートル下った、東御手洗社のあたり。龍神の眠る水玉池のほとりは、境内のなかでも、ひときわ「気」が濃いと語る人が多い。水と、緑と、静寂と。そこに降り立つと、それまでとは比べものにならないほど、空気が深く、重く感じられる、という。実際にこの地を訪れるなら、本殿だけでなく、ぜひこの東御手洗社まで降りてみてほしい。表の社と、裏の聖域とでは、感じられるものが、まるで違うはずだ。

訪れた人々は、何を語っているのか。

最も多く聞かれるのが、「空気が変わる」という感覚だ。鳥居をくぐり、鬱蒼とした杉木立の参道に足を踏み入れた瞬間、それまでとは、明らかに空気の質が変わる、という。ひんやりと、それでいて、どこか温かい。張りつめているのに、心がほどけていく。うまく言葉にはできないが、「ここは違う」と、肌が、皮膚が、先に気づく。そういう証言が、驚くほど多い。

次に多いのが、「音」をめぐる体験だ。鳥の声が、風が木々を渡る音が、いつもとは違って、特別なもののように聞こえる。あるいは、不意に、あたりが、しんと静まりかえる。その静けさが、耳が痛くなるほど深い。森のざわめきのなかに、ふと、何か大きな沈黙が訪れる。そんな瞬間に立ち会った、という人がいる。

そして、「原点に戻る感覚」。これは、幣立神宮ならではの、印象的な証言だ。この地に立つと、なぜか、自分の「いちばん始まりの場所」に帰ってきたような、深い安堵に包まれる、という。理由はわからない。初めて訪れたはずなのに、ひどく懐かしい。まるで、ずっと昔に、自分はここにいたことがあるかのような——。人類発祥の地、すべての源、と語られるこの場所で、人が「原点に戻る感覚」を覚えるというのは、できすぎた符合のようでいて、しかし、実際にそう感じる人が、後を絶たないのである。

なかには、もっと劇的な体験を語る人もいる。身体が、ぶるっと震えた。涙が、理由もなく溢れてきた。手のひらが、じんじんと熱くなった。頭の芯が、すっと澄んだ。——こうした身体反応は、科学的に見れば、暗示や、期待や、環境の変化による、ごく自然な生理反応として説明できるかもしれない。深い森のなかの、静かで荘厳な空間。そこに「一万五千年の聖地」という物語が重なれば、人の心と身体が、何かを感じるように準備されるのは、無理もない。だが——たとえそうだとしても、その人が、その瞬間に感じた「何か」は、その人にとっては、まぎれもなく本物の体験なのだ。

「呼ばれた者しか、たどり着けない」。

プロローグでも触れた、この言い伝えもまた、体験談として、繰り返し語られる。行こうとしたのに、道に迷った。予定が、なぜか流れた。逆に、まったく予定していなかったのに、不思議な縁が重なって、気づけば社の前に立っていた。——こうした「縁」をめぐる証言は、考えてみれば、どんな場所にも起こりうる、偶然の積み重ねかもしれない。人は、印象深い場所については、その前後の出来事を、特別な物語として記憶しがちだ。それでも、これほど多くの人が、同じように「呼ばれた」「招かれた」と感じる場所は、そうあるものではない。

そして、この「呼ばれる」感覚は、日本人だけのものではないらしい。五年に一度の五色神祭には、海外からも、人々が集まってくる。なかには、ムガール帝国の末裔だという人物や、フランスの名門貴族の血を引く人など、世界の由緒ある家系の人々が、はるばる参列したこともあると伝えられる。肌の色も、言葉も、文化も、信じる宗教も異なる人々が、なぜか、この九州の山中の小さな社へと、引き寄せられるように集まってくる。地球の反対側に暮らす人々が、五色人の和合を祈るこの祭りに、自分の「原点」を感じて訪れる。——それは、まさに、この神社が語ってきた物語、「世界の人類はひとつの源から分かれた」という思想が、現実の光景として、目の前に立ち現れる瞬間なのかもしれない。五色神面の前に、文字通りの「五色の人々」が集う。物語が、現実を呼び寄せている。

これらの体験を、どう受けとめるか。それは、人それぞれだろう。

科学的に見れば、ゼロ磁場が人体に何らかの影響を及ぼすという、確かな証拠はない。体験談の多くは、暗示や、思い込みや、自然な生理反応で説明がつくかもしれない。それは、冷静な態度として、正しい。

だが、もうひとつの見方も、できる。人間の身体は、私たちが思っている以上に、敏感なセンサーなのかもしれない。理屈で説明できる前に、何かを感じ取ってしまう。論理的な思考が追いつく前に、皮膚が、肌が、細胞が、その場の「気配」を察知する。古代の人々は、いまの私たちよりも、ずっとこの感覚に敏感だったはずだ。彼らは、理屈ではなく、身体で「ここは特別な場所だ」と感じ取り、そこに社を建てた。中央構造線の上に聖地が並ぶのは、ひょっとすると、太古の人々の、その鋭敏な身体感覚の、結晶なのかもしれない。

幣立神宮を訪れる人が、何かを「感じて」しまうのは、暗示のせいだろうか。それとも、本当に、この地に「何か」があるのだろうか。

その問いに、白黒をつけることは、おそらくできない。そして、無理に白黒をつける必要も、ないのかもしれない。確かなのは、ここに立った多くの人が、それぞれの仕方で、何かに触れて帰っていく、ということだ。その「何か」が、地球のエネルギーなのか、太古の神々の気配なのか、あるいは、自分自身の心の奥にあったものなのか——それは、訪れた人だけが、知っている。

そして、ここには、現代を生きる私たちにとって、ひとつの大切な意味があるように思う。私たちは、ふだん、あまりにも多くの情報と、刺激と、忙しさのなかに生きている。スマートフォンの画面を一日中見つめ、数字に追われ、効率を求められる。そんな日々のなかで、私たちは、いつしか「感じる」力を、鈍らせてしまっているのかもしれない。空気の質の違いも、風の音も、静けさの深さも、感じ取れなくなっている。だからこそ、幣立神宮のような場所に身を置き、ただ立ち、ただ呼吸し、何かを「感じよう」とすること自体に、意味があるのではないか。それが科学的に証明できるかどうかは、この際、二の次だ。鈍った感覚を、もう一度ひらく。忘れていた、世界を感じ取る力を、取り戻す。その「ひらかれた」状態でこそ、人は、ふだん見えないものを見、聞こえない声を聞くのかもしれない。幣立神宮が「呼んでいる」のだとしたら、それは、私たちのなかの、眠っていた感覚を、呼び覚ましているのだ、とも言えるだろう。

さて。ここまで、私たちは、幣立神宮をめぐる壮大な物語と、訪れた人々の生々しい体験談を、たどってきた。一万五千年、五色人、地下帝国、モーゼ、そしてゼロ磁場。

だが、ここまで読み進めてきて、あなたの胸には、ずっと、ある問いが、くすぶり続けているのではないだろうか。

——これは、本当なのか。

次の章では、その問いから、もう目をそらさない。怪しいのか、本物か。伝承と、学術。信じることと、疑うこと。その、ひりひりとした境界線の上に、あえて立って、この神社という存在の、本当の意味を、見つめ直してみることにしよう。

第11章 怪しいのか、本物か — 伝承と学術のあいだで

さあ、いよいよ、この問いと向き合うときが来た。

ここまで、私たちは、幣立神宮をめぐる、めくるめく物語をたどってきた。一万五千年の命脈を持つ御神木。世界中の人類の祖神を祀る五色神面。記紀より古いとされる竹内文書。地上から消え、地の底へ潜ったという赤と青の民。アガルタ、シャンバラという地下帝国。九州の山中に伝わる、モーゼの面と、ユダヤの秘宝。そして、訪れた人々が語る、数々の不思議な体験。

壮大だ。あまりにも壮大で、めまいがするほどだ。そして、ここまで読み進めてきたあなたの胸には、ずっと、ひとつの問いが、消えずにくすぶっているはずだ。

——これは、本当なのか。それとも、壮大な作り話なのか。

この章では、その問いから、もう逃げない。怪しいのか、本物か。信じるべきか、疑うべきか。その、ひりひりとした境界線の上に、あえて立ってみる。

まず、誠実に、「学術の側」からの見解を、はっきりと確認しておこう。これまでの章でも、その都度、線を引いてきたが、ここで改めて、まとめておきたい。

竹内文書は、学術的には、近代に作られた「偽書」とされている。これは、ほぼ定説だ。一万五千年の歴史という由緒に、科学的・考古学的な裏づけは、ない。御神木の命脈一万五千年も、現在の木の年輪からは、二千年ぶんしか確かめられない。五色人の物語が、現実の人類の起源を語っているという証拠も、ない。地球空洞説は、近代科学が完全に否定している。アガルタもシャンバラも、伝承であり、神話である。日ユ同祖論は、言語学的にも遺伝学的にも裏づけを欠く、俗説とされている。ゼロ磁場が人体に与える特別な効果も、科学的には実証されていない。そして、宮司自身が「磁場が完全に〇%の場所はない」と認めている。

——ここまで並べると、ずいぶん、ぐうの音も出ないように見える。冷静な、科学的な目で見れば、幣立神宮をめぐる壮大な物語の、その「歴史的事実」としての部分は、ほとんどが、否定されるか、裏づけを欠いている。これは、目をそらしてはいけない、誠実な結論だ。

ただし、公平のために、こうも言っておきたい。学術がすべてを説明し尽くしたわけでも、ない。たとえば、なぜ日本の鬼は、五色人から消えた赤と青の二色なのか。なぜ中央構造線という地質の裂け目の上に、これほど多くの古い聖地が並ぶのか。なぜユダヤ史の専門家が、五色神面の赤を迷わずモーゼと指したのか。なぜ世界各地の人々が、地の底の楽園という、同じ夢を繰り返し見るのか。一つひとつは、偶然や、こじつけや、暗示で説明がつくのかもしれない。だが、それらが幾重にも重なり、ひとつの物語へと収斂していく、その様には、合理だけでは割り切れない「何か」が、確かに残る。科学は、多くを否定した。だが、「すべての謎を解き明かした」とまでは、言えない。否定されたのは「歴史的事実としての主張」であって、これらの符合が人の心に呼び起こす「畏れ」までは、科学は否定できないのだ。

では——これらはすべて、「ウソ」であり、「無意味」なのだろうか。

ここで、立ち止まって、考えてみたい。私は、そうは思わない。

なぜなら、「歴史的事実として正しいか」という問いと、「それに価値があるか、意味があるか」という問いは、まったく別の問いだからだ。この二つを、混同してはならない。

たとえば、世界中の神話を考えてみよう。日本神話の、イザナギとイザナミの国生み。ギリシア神話の、神々の物語。聖書の、天地創造。これらは、「歴史的事実」だろうか。違う。文字通りの事実として、神が島を生んだわけでも、七日間で世界が創られたわけでもない。だが、誰が、これらの神話を「ウソだから無意味だ」と切り捨てるだろう。神話は、事実ではない。だが、それは、人類が何千年もかけて紡いできた、世界の意味を、人の生き方を、宇宙との関わりを語る、かけがえのない「真実」の器なのだ。事実ではないが、真実である。——この、一見矛盾した言い方のなかにこそ、神話というものの本質がある。

二十世紀の神話学者たちは、こう考えた。神話とは、原始的な人々の、未熟な「間違った科学」ではない。それは、人間が、自らの存在の意味を、世界の成り立ちを、生と死の謎を、理解し、引き受けるための、もうひとつの言語なのだ、と。科学が「世界はどのように動いているか(how)」を問うのに対し、神話は「世界はなぜ在るのか、私たちはなぜ生きるのか(why)」を問う。この二つは、競い合うものではない。役割が、違うのだ。顕微鏡で星の美しさは測れず、望遠鏡で愛の深さは測れない。同じように、科学の物差しで、神話の真実を測ろうとすること自体が、そもそも、道具の使い方を間違えているのである。「竹内文書は科学的に偽書だ」という指摘は、正しい。だが、その正しさは、「この絵画は栄養にならない」と言うのと同じくらい、的外れな正しさでもあるのだ。絵画は、食べるためのものではない。神話もまた、科学的事実を提供するためのものではないのだから。

幣立神宮をめぐる物語も、まさに、これと同じ地平にある。

一万五千年。五色人。竹内文書。地下帝国。これらは、歴史的事実としては、立証されていない。だが、それらが語ろうとしている「真実」——世界の人類は、もとはひとつだった。だから、肌の色や民族の違いを超えて、互いに認め合い、和合せよ。——この、メッセージそのものは、どうだろう。これは、ウソだろうか。無意味だろうか。むしろ、争いの絶えない現代世界にこそ、切実に必要とされる、深い真実ではないだろうか。

ここに、ひとつの逆説がある。物語が「事実」でないからこそ、そこに込められた「祈り」が、純粋な形で立ち上がってくる、という逆説だ。もし、五色人が、検証可能な歴史的事実だったなら、それは単なる「過去の出来事」になってしまう。だが、それが神話であり、物語であるからこそ、それは時代を超えて、いまを生きる私たちへの「呼びかけ」であり続ける。事実は、過去に属する。だが、神話は、永遠の現在に属するのだ。

考えてみれば、人類の歴史は、こうした「事実ではない物語」が、現実を動かしてきた歴史でもある。人々は、神話を信じて、巨大な神殿を建てた。聖典の言葉を信じて、はるかな巡礼の旅に出た。建国の物語を信じて、国家への帰属意識を育てた。それらの物語が、文字通りの事実だったかどうかは、本質的な問題ではない。人々がそれを信じ、その物語に動かされ、現実の文化や社会を築き上げた——その事実こそが、重い。物語には、現実を作り変える力がある。たとえ、その物語が「作られたもの」であったとしても、いや、むしろ「作られたもの」であればこそ、そこには、それを作り、信じ、語り継いだ人々の、まぎれもない願いと情熱が、結晶しているのだ。竹内文書も、五色人も、その意味では、近代日本人の壮大な「夢」が結晶した、ひとつの文化遺産だと言える。夢を、ウソと呼ぶのは、たやすい。だが、その夢が、なぜ見られたのか、その夢が人々に何をもたらしたのかを問うとき、私たちは、事実の検証だけでは決して見えてこない、人間の真実に触れることになる。

そして、もうひとつ、考えておきたいことがある。「怪しい」とされるものの、その「怪しさ」の正体だ。

竹内文書が偽書だとされるのは、それが近代に作られたから、来歴が不確かだから、既存の歴史と矛盾するから、だった。だが、ここで興味深いのは、なぜ、近代の日本人が、これほどの物語を「作って」しまったのか、ということだ。なぜ、世界中の人類はひとつだったと、日本がその源だったと、語りたかったのか。そこには、近代という激動の時代を生きた人々の、切実な思いが、投影されている。世界に伍していこうとする誇り。西洋の文明に押し流されることへの不安。自分たちのルーツを、世界の中心に位置づけたいという願い。偽書は、ウソであると同時に、その時代の人々の心を映す、正直な鏡でもあるのだ。だから、「偽書だ」と切り捨てて終わりにするのは、もったいない。なぜそれが生まれたのか、人々が何を求めてそれを語り継いだのかを問うとき、偽書は、別の種類の「真実」を、私たちに語りはじめる。

それに、忘れてはならないことがある。学術が「事実ではない」と判定したとしても、幣立神宮という神社が、現実にそこに在り、五年に一度、五色神面が開かれ、世界中から人が集い、和合を祈っている——この光景は、まぎれもない「事実」なのだ。物語の真偽がどうであれ、その物語を信じ、その前で祈る人々の営みは、確かに存在する。そして、その祈りが、訪れた人の心を動かし、何かを感じさせ、生き方を変えることさえある。だとすれば、その物語は、その人にとって、どんな歴史的事実よりも、「本物」なのではないだろうか。

怪しいのか、本物か。——おそらく、この問いの立て方そのものが、間違っているのだ。

幣立神宮の物語は、「歴史の教科書に載るような事実」という意味では、本物ではない。だが、「人の心を動かし、世界の見方を変え、生きる意味を照らす神話」という意味では、まぎれもなく本物だ。問うべきは、「事実か、ウソか」ではない。「この物語は、私たちに何を語りかけているか」「それは、いまを生きる私たちにとって、どんな意味を持つか」——そちらのほうなのだ。

最後に、こう言ってもいいかもしれない。幣立神宮を訪れるとき、私たちは、二つの態度のどちらをも、取ることができる。ひとつは、すべてを真に受けて、一万五千年の神秘に、まるごと身を浸す態度。もうひとつは、冷静に距離を取り、これは興味深い文化現象だと、観察する態度。だが、いちばん豊かなのは、おそらく、その両方を、同時に持つことだ。これは事実ではないかもしれない、と知りながら、それでもなお、その物語の美しさに、心を震わせる。疑いながら、信じる。距離を取りながら、浸る。——その、宙づりの、ひりひりとした境界線の上にこそ、この神社の、本当の味わいがある。

この「疑いながら、信じる」という態度は、決して、いいかげんな、どっちつかずの態度ではない。むしろ、これは、成熟した、知的な態度だと思う。なんでもかんでも鵜呑みにするのは、危うい。だが、なんでもかんでも「非科学的だ」と切り捨てるのも、それはそれで、貧しい。世界には、科学で割り切れるものと、割り切れないものがある。割り切れないものを前にして、性急に答えを出さず、その「わからなさ」のなかに、しばし留まっていられること。神秘を、神秘のまま、味わえること。それは、現代の私たちが、つい忘れがちな、ひとつの豊かな能力なのではないだろうか。幣立神宮は、その能力を、私たちに思い出させてくれる。ここでは、知識をひけらかして「こんなのは作り話だ」と笑うことも、逆に、すべてを盲信して我を忘れることも、どちらも、似合わない。ただ、静かに、畏れをもって、その場に立つ。わからないものを、わからないまま、受けとめる。その謙虚さこそが、聖地という場所に、最もふさわしい態度なのかもしれない。

科学と、神話。事実と、真実。疑いと、信仰。幣立神宮は、その両方のあいだに立ち、私たちに、どちらか一方を選べとは言わない。ただ、静かに、問いかけてくるだけだ。あなたは、どう感じるか、と。

さあ、長い旅も、終わりに近づいてきた。壮大な物語をたどり、怪しさと本物のあいだを見つめてきた私たちに、残された問いは、もうひとつだけ。——では、実際に、この地を訪れるには、どうすればいいのか。次の章では、いよいよ現実に立ち返り、この九州のへそへの、たどり着き方と、巡り方を、案内することにしよう。

第12章 参拝ガイド — たどり着き方と巡り方

長い物語の旅を、ともにしてきた。一万五千年の御神木から、五色人、竹内文書、地下帝国、モーゼ、そして「怪しいのか本物か」という問いまで。頭のなかで、私たちは、ずいぶん遠くまで旅をした。

だが、どんなに壮大な物語も、最後は、現実の一歩から始まる。実際に、この九州のへそへ、自分の足で立ってみること。この最終章では、めくるめく物語から現実へと立ち返り、幣立神宮への、たどり着き方と、巡り方を、案内する。これは、頭の旅を、身体の旅へと変えるための、実践のための章である。

まず、場所から。

幣立神宮は、熊本県上益城郡山都町大野に鎮座する。阿蘇の外輪山の南、宮崎県との県境にほど近い、深い山あいだ。九州のほぼ中央、「九州のへそ」と呼ばれる位置である。

たどり着くには、車が、最も現実的だ。熊本市街からは、およそ百分。名勝・通潤橋からは約三十分、神話の里・高千穂峡からは約四十分という距離にある。基本は、国道二一八号線をたどればよい。この道は比較的走りやすいが、神社に近づくにつれて、山道のカーブが続くようになる。速度は控えめに。特に、初めて訪れるなら、明るい時間帯の運転を、強くおすすめする。冬季は、朝の冷え込みで路面が凍結することもあるため、スタッドレスタイヤやチェーンの備えがあると安心だ。そして、プロローグでも触れたように、この神社の入口は、注意していないと、見落とす。国道沿いに立つ、白木の大きな鳥居。それが目印だ。カーナビや地図アプリを頼りに、その鳥居を、見逃さないように。

主要な出発地からの、おおよその目安を、挙げておこう。空の玄関口・阿蘇くまもと空港からは、車でおよそ一時間半ほど。九州自動車道の御船インターチェンジからは、国道四四五号や二一八号を経て、やはり一時間以上は見ておきたい。福岡方面から高速で南下する場合も、熊本を経由して、山道に入る。いずれにせよ、共通して言えるのは、「最後の山道区間に、時間がかかる」ということだ。高速を降りてからが、長い。地図アプリの表示時間より、余裕を持って見積もるのが、賢明である。カーナビの目的地設定では、住所(熊本県上益城郡山都町大野)や電話番号で検索すると、確実だ。山中では、スマートフォンの電波が、不安定になることもある。事前に、ルートを確認しておくと、安心して走れるだろう。

公共交通機関で向かうことも、できないわけではない。だが、正直に言えば、かなりの覚悟が要る。熊本市街や阿蘇くまもと空港、高森方面から、特急バスが出ているが、その本数は、一日一往復ほど。「馬見原(まみはら)」で下車し、そこから徒歩で約四十分、という案内もある。あるいは、熊本のバスターミナルから「馬見原行き」のバスに乗り、「大野幣立宮前」のバス停で下車する。いずれにせよ、所要時間は二時間前後を見ておきたい。便数が少ないので、時刻表は、必ず事前に確認すること。乗り換えや徒歩を含む、余裕を持った計画が欠かせない。——だが、考えようによっては、この「たどり着きにくさ」こそが、幣立神宮らしさでもある。簡単には行けない。だからこそ、たどり着いたときの感慨も、ひとしおなのだ。「呼ばれた者しか行けない」という言い伝えを、自分の足で、確かめにいくのだと思えば、その長い道のりさえ、巡礼の一部になる。

駐車場は、無料で整備されている。国道二一八号線沿いの鳥居の近くに、入口がある。第一駐車場、第二駐車場があり、ふだんの日曜・祝日であれば、問題なく停められることが多い。ただし、注意すべき日がある。正月の三が日と、そして、五色神祭が行われる八月二十三日。この日は、早朝から満車になることが多い。混雑が予想される日は、早めの到着を心がけたい。山道での路上駐車は危険なので、絶対に避けること。

さて、いよいよ、参拝である。

国道沿いの白木の鳥居をくぐると、その奥に、長い石段の参道が続いている。この石段の参道こそ、幣立神宮の、最初の見どころだ。多くの参拝者が、社殿そのものよりも、この参道の雰囲気に、心を打たれると言う。両側には、苔をまとった狛犬が、静かに参拝者を見守っている。鬱蒼とした木立。石段に降り積もる、木漏れ日。一段、また一段と登るごとに、俗世から、聖域へと、分け入っていく感覚。ここは、急がずに、ゆっくりと登ってほしい。

石段を登りきると、本殿が現れる。社殿は、決して大きくはない。きらびやかでもない。むしろ、穏やかで、慎ましい意匠だ。だが、これまでの物語を知った目で見れば、この慎ましい社殿の奥に、宇宙そのものの神・大宇宙大和神が祀られ、五色神面が眠っていることを、思わずにはいられないだろう。小さな器に、宇宙が収まっている。その不釣り合いの大きさを、胸に抱きながら、静かに手を合わせたい。

参拝の所要時間は、本殿だけなら、三十分もあれば十分だ。だが、それでは、幣立神宮を半分しか味わったことにならない。東御手洗社まで、しっかり降りて、水玉池のほとりで時を過ごすなら、往復と滞在で、一時間から一時間半は、見ておきたい。さらに、御神水を汲み、御朱印をいただき、参道の雰囲気をゆっくり味わうなら、二時間ほど。せっかく、この「呼ばれた者しか行けない」聖地まで来たのだ。慌ただしく通り過ぎるのではなく、たっぷりと、時間を取ってほしい。この場所は、急いで「消費」するには、あまりに惜しい。

そして——ここで帰ってしまっては、もったいない。幣立神宮の真髄は、本殿の、その先にある。

本殿に向かって左手、西側へまわると、森の中へと下る、もう一つの鳥居がある。その先が、東御手洗社へと続く、下りの山道だ。第七章で詳しく触れた、龍神の眠る、水玉池の聖域である。約二百メートル、急で細い山道を下ることになる。道はぬかるみやすく、本格的な山道なので、足元の装備が、ものを言う。ヒールや、新品の革靴では、まず無理だ。

ここで、服装と持ち物について、触れておきたい。幣立神宮を本当に味わうなら、歩きやすい靴は、必須である。スニーカーや、トレッキングシューズが望ましい。雨の日や、その後は、特にぬかるむので、滑りにくい靴を。夏は、山あいなので、虫除けがあると快適だ。冬は、冷え込むので、手袋やネックウォーマーがあるとよい。薄手のレインウェアも、山の天気は変わりやすいので、一枚あると安心だ。そして、御神水をいただくなら、空のペットボトルを。ただし、第七章で触れたように、汲むのは、一人一本程度に。龍神の恵みは、独り占めしないのが、作法である。

東御手洗社まで降りたら、水玉池のほとりで、しばし、佇んでみてほしい。本殿のあたりとは、明らかに違う、深く、濃い空気を、感じられるはずだ。八大龍王の眠る池。左右で味の違う、二つの神水。ここまで降りてきた者だけが、幣立神宮の、もうひとつの顔に出会える。

参拝の記念には、御朱印がある。幣立神宮の御朱印は、この聖地を訪れた証として、心に残る一枚になるだろう。授与所で、いただくことができる。

ここで、参拝のマナーについて、少し触れておきたい。これまで見てきたように、幣立神宮は、ただの観光地ではない。一万五千年の命脈を伝え、世界中の人類の和合を祈る、特別な聖地である。だからこそ、訪れる際には、相応の敬意と、慎みを持ちたい。鳥居をくぐる前には、軽く一礼を。参道は、神様の通り道とされる中央(正中)を避け、端を歩くのが、古くからの作法だ。手水舎があれば、手と口を清めてから、社殿へ。そして、何より大切なのは、静けさを保つこと。大声で騒いだり、はしゃいだりするのは、この場所には、似合わない。東御手洗社の聖域は、特に神聖な場所だ。むやみに水辺を荒らしたり、ゴミを残したりすることは、絶対にあってはならない。龍神の眠る池を侵せば台風が起こる、という、あの禁忌を思い出してほしい。それは、自然への畏れを忘れるな、という、太古からの戒めなのだ。来たときよりも美しく。畏れと感謝を持って、静かに歩く。それが、この聖地への、最大の敬意である。

写真を撮るなら、いくつかの見どころがある。国道沿いの白木の大鳥居。長い石段の参道と、苔むした狛犬。木漏れ日の差す杉木立。そして、東御手洗社の、神秘的な水玉池。ただし、本殿の内部や、五色神面など、撮影が許されていない対象もある。撮影の可否は、現地の案内に従い、神聖な対象に、無遠慮にレンズを向けないこと。なお、参拝後に「不思議な光が写り込んだ」と語る人もいる。それを、レンズの乱反射と見るか、何かの気配と見るかは——あなた次第だ。

訪れる時季について。最も歩きやすく、美しいのは、新緑の五月から六月、そして、紅葉の十月から十一月だ。とりわけ、雨の日や、その直後は、苔や、杉の樹皮の色が、深く濃く出て、神秘的な雰囲気が、いっそう増す。晴れの日の清々しさも捨てがたいが、しっとりと濡れた幣立神宮も、また格別だ。そして、できれば、午前中の、早い時間に訪れたい。人が少なく、静寂のなかで、この聖地の「気」を、ゆっくりと味わうことができる。

五色神祭に、立ち会いたいなら。祭りは、毎年八月二十三日。そして、五年に一度が、大祭となる。五色神面が開帳され、世界中から人が集まる、あの大祭である。次の大祭がいつかは、訪れる前に、確認しておきたい。一生のうちに、何度立ち会えるかわからない、その日に居合わせられたなら、それは、忘れがたい体験になるだろう。

最後に、周辺のことも、少しだけ。幣立神宮は、神話街道とも呼ばれる、観光ルートの上にある。近くには、国宝にも指定された石造アーチ橋・通潤橋があり、その先には、神話の里・高千穂も控えている。幣立神宮を一日の中心に据えて、こうした周辺の名所と組み合わせれば、九州の山深い神話世界を、丸ごと味わう旅になるだろう。

少し、巡り方の案を、描いてみよう。たとえば、宮崎県側から入るなら、まず高千穂峡を訪ねたい。天孫降臨の神話の舞台であり、深い渓谷とエメラルド色の水が、神々しい。第一章で見た、健磐龍命が白鳥に導かれて通ったという、まさにあの道筋を、自分でたどることになる。高千穂から、五ヶ瀬川沿いに山を越えれば、約四十分で幣立神宮だ。神話の里から、人類発祥の地へ。神話を、地図の上で、つないでいく旅である。あるいは、熊本側から入るなら、まず通潤橋に立ち寄りたい。江戸時代に作られた、壮大な石造水路橋で、放水の様子は圧巻だ。水を渡すこの橋と、水玉池の神水。「水」という主題で、二つの名所が、ゆるやかにつながる。通潤橋から幣立神宮までは、約三十分である。

宿泊や食事については、山あいの土地ゆえ、選択肢は、決して多くはない。日帰りで巡る人も多いが、もし、この地の朝や夕暮れの静けさを味わいたいなら、阿蘇方面や、高千穂の宿に泊まり、早朝に幣立神宮を訪れる、というプランも、すばらしい。人のいない、朝の光のなかの幣立神宮は、格別だ。食事は、阿蘇の雄大な景色を望む道の駅や、地元の食材を生かした店が、点在している。参拝後に、土地の恵みを味わうのも、旅の楽しみのひとつだろう。山の幸、清らかな水で育った米。この土地の味そのものが、いわば、大地からの贈り物なのだから。

さあ、これで、準備は整った。たどり着き方も、巡り方も、わかった。あとは、あなたが、その白木の鳥居を、自分の足で、くぐるだけだ。

長い物語を、ここまで読み進めてくれた、あなたへ。最後に、この旅の終わりに、ひとつだけ、伝えておきたいことがある。次の、最後のページで、それを語って、この長い旅を、静かに閉じることにしよう。

エピローグ — 地球の臍に立って

長い旅だった。

国道二一八号のカーブに隠れた、小さな鳥居から、私たちの旅は始まった。あのとき、私たちは、ただの隠れ宮の前に立っているつもりだった。だが、その鳥居の奥に続いていたのは、想像をはるかに超える、深く、広い世界だった。

一万五千年の命脈を刻む御神木を見上げ、五年に一度だけ開く五色神面の前に立った。記紀より古いとされる竹内文書の扉を開け、宇宙そのものを体現する神に手を合わせた。本殿の裏手から、龍神の眠る池まで二百メートルを降り、その水脈の奥に、地上から消えた赤と青の民が築いたという、地下の帝国を垣間見た。九州の山中の社が、はるか中東の、モーゼとユダヤの物語に結ばれていることに、目を見張った。そして、訪れた人々の不思議な体験に耳を傾け、最後には、「これは本当なのか」という問いと、正面から向き合った。

上へ、下へ、横へ。私たちの旅は、この一点を中心に、あらゆる方向へと、糸を伸ばしていった。天の宇宙の神から、地の底の地下帝国まで。日本の神話から、地球の裏側のユダヤまで。これほど小さな一点が、これほど広い世界と、つながっていた。

なぜ、これほどの物語が、この一点に集まっているのか。

旅の終わりに、ようやく、その理由が見えてくる。それは、この地が、「すべての源」だと語られているからだ。世界の人類が、ひとつの場所から生まれ、五つの色に分かれて、世界へ散っていった。その始まりの一点。源であるならば、世界のあらゆる場所と、あらゆる物語と、つながっていて当然なのだ。源とは、すべてが、そこから流れ出す場所のことなのだから。

地球の臍。九州のへそ。地図の上で、ちょうど中央にあたる、この一点。

臍とは、考えてみれば、不思議な場所だ。それは、かつて私たちが、母とつながっていた、その痕跡である。生まれる前、私たちは、へその緒を通して、母の命と、ひとつにつながっていた。臍とは、「かつてひとつだった」ことの、消えない証なのだ。

幣立神宮が「地球の臍」と呼ばれるとき、そこには、深い意味が宿っている。世界の人類は、かつて、ひとつだった。肌の色も、言葉も、文化も違う、いまは遠く隔たった人々が、もとをたどれば、ひとつの源から生まれた、同じ命の、分かれた姿なのだ。地球の臍に立つとは、その「かつてひとつだった」という記憶に、触れることなのである。

五色人。赤、白、黄、黒、青。地上に散った者も、地の底に潜った者も、海を越えて遠い国に渡った者も。色が違い、住む場所が違っても、たどっていけば、みな、ひとつ。この物語が、一万五千年ものあいだ、語り継ごうとしてきたのは、結局、その一点だった。私たちは、ひとつだった。だから、争うな。認め合え。和合せよ。

それが、歴史的な事実かどうかは、もう、問わなくてもいい。第十一章で見たように、事実であるかどうかと、真実であるかどうかは、別のことだ。たとえ、一万五千年が、検証できなくとも。たとえ、五色人が、神話だとしても。「私たちは、もとひとつだった」という、その祈りの真実は、いまの世界にこそ、切実に必要とされている。肌の色をめぐって、民族をめぐって、信仰をめぐって、争いの絶えないこの時代に。

旅を終えて、もう一度、あの白木の鳥居を思い出す。

注意していなければ、見落としてしまう、小さな入口。だが、その奥には、宇宙が、地底が、世界の全歴史が、畳み込まれていた。小さな器に、すべてが収まっていた。それは、ひょっとすると、私たち一人ひとりに、似ているのかもしれない。小さな、ひとりの人間。だが、そのなかには、一万五千年の命脈が——いや、それよりはるかに長い、生命の歴史のすべてが、流れ込んでいる。あなたという一点もまた、すべての源と、つながっているのだ。

地球の臍に立つとき、私たちは、自分が、大きな全体の一部であることを、思い出す。ひとりではない。孤立した点ではない。私たちは、ひとつの大きな命の、分かれた姿なのだ。その感覚を、土産として持ち帰ることができたなら、この旅は、たしかな意味を持つだろう。

さあ、物語は、ここで閉じる。

だが、本当の旅は、ここから始まるのかもしれない。次は、あなたが、あの鳥居をくぐる番だ。九州のへそ、地球の臍。一万五千年の時が眠る、その一点に、自分の足で立ってみてほしい。そして、確かめてほしい。そこに、本当に「何か」があるのかどうかを。あるいは——その「何か」は、すでに、あなた自身のなかに、あったのかどうかを。

五色は、ひとつへ。

その祈りが、この静かな山の宮から、いまも、世界へと、流れ出している。

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