ケン・ウィルバー『無境界』

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VIBES TOURISM / BOOKS

あなたの悩みは、
一本の線でできている

NO BOUNDARY — WHERE DO YOU DRAW THE LINE?
『無境界 自己成長のセラピー論』
ケン・ウィルバー 著/吉福伸逸 訳(平河出版社)

「私は誰か」という問いの正体は、「私はどこに線を引くか」という問いだった——23歳の皿洗いが描いた、心理学と宗教の全地図。

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炎の色をした雲——燃えていたのは、外ではなかった
THE FLAME-COLORED CLOUD

ある夜、ひとりの男が、突然「炎の色をした雲」に包まれます。最初は街のどこかが大火事なのだと思った。次の瞬間、彼は理解します。燃えているのは外ではない、自分の内側だ——。19世紀の精神科医R・M・バックが残したこの体験報告から、本書は幕を開けます。

『無境界』というタイトルの意味を、先に30秒で言ってしまいます。あなたが「私」と呼んでいるものは、世界との間に引いた一本の線の内側のことです。そしてその線は、実は存在しない。線が消えたとき何が残るのか——それを、心理学と宗教の両方の道具を使って確かめていく本です。

01
THE MAP FROM THE DISH PIT
第1章

その地図は、皿洗い場で描かれた

心理学と宗教の全体を、一枚に収めた地図。フロイトもユングも、禅もヨーガも、ぜんぶ同じ紙の上に正確に配置した地図——そんなものを描いた人がいると聞いたら、ふつうは白髪の老教授か、大きな研究所を想像しますよね。

描いたのは、大学院を中退した23歳の青年でした。

ケン・ウィルバー。1949年、アメリカ・オクラホマシティ生まれ。1967年にデューク大学へ医者の卵として入学しますが、科学だけでは「人間とは何か」に答えが出ないことに早々に気づき、東洋思想に没頭しはじめます。ネブラスカ大学の大学院で生化学——生き物の体を化学の言葉で解き明かす学問です——に進んだものの、数年で中退。アカデミズムの線路から、自分で降りました。

そして23歳の冬、頭の中で一冊の本をまるごと完成させます。翌年の冬、それを3ヶ月かけて手書きで紙に起こしました。これが処女作『意識のスペクトル』です。スペクトルとは、太陽の光をプリズムに通したときに現れる、あの虹の帯のこと。人間の意識もあの虹と同じで、一色ではなく何層もの帯でできている。だから層ごとに、別の心理学と別の宗教がそれぞれ「正しい」のだ——という大胆な見取り図でした。

原稿は、20社以上の出版社に断られます

ようやく刊行されたのは4年後の1977年。本はやがて、トランスパーソナル心理学——「トランス=超えて」「パーソナル=個人」、つまり個人の枠を超えた意識までまじめに扱おうとする、当時生まれたばかりの心理学です——その土台を築いた一冊と呼ばれるようになりました。

ところで、この間ウィルバーが何をして食べていたのか。

皿洗いです。ネブラスカ州リンカーンのレストランで、家賃の半分を払うために。本人いわく、そこから「皿洗いとしての長いキャリア」が始まり、執筆と皿洗いの二重生活が続きます。文章は誰にも習っていません。敬愛するアラン・ワッツ——禅を英語圏に広めた名文家です——の本を、延々と手で書き写して独学しました。

本書『無境界』が書かれたのは、まさにこの皿洗い時代です。刊行は1979年。分厚く学術的だった『意識のスペクトル』を誰でも読める言葉で書き直し、各章に「自分で試せる実習」まで付けた一般向けの決定版で、ウィルバー自身が約30年後の新版序文で「いまも自分の本の中で最も人気のある一冊」と認めています。日本では1986年、吉福伸逸の訳で平河出版社から刊行されました。

権威の外側にいた男が、権威たちの地図を描いた。「境界」の本を書いた男は、まず自分自身が、学歴や職業という境界線の外に立っていた人でした。

では、その地図には何が描かれていたのか。本書の幕開けは、世界中の聖者たちが残してきた、ある奇妙な体験の報告から始まります。

深夜の厨房に貼られた、虹の地図
A MAP DRAWN IN THE DISH PIT
02
WHERE DO YOU DRAW THE LINE?
第2章

あなたは体を「持って」いますか、それとも体「です」か

「あなたは誰ですか」と聞かれたら、何と答えますか。名前、職業、性格、好きなもの。私たちはいろいろ並べますが、本書によれば、そのときあなたの頭の中で起きていることは、実はたったひとつです。

線を引いている。

経験の全体に一本の線を引き、内側を「私」、外側を「私ではないもの」と呼ぶ。「私は誰か」という問いの正体は、「私はどこに線を引くか」という問いなのだ——これが本書の出発点です。

そして面白いのは、人によって、線の場所がぜんぜん違うことです。

いちばん普通なのは、皮膚のところに引く線。皮膚の内側が「私」、外側が世界。ところが多くの人は、もう一本、体の内側にも線を引いています。試しに自分に聞いてみてください。「私は体を持っている」と感じますか、それとも「私は体である」と感じますか。たいていの人は「持っている」と答えます。車や家と同じ「所有物」です。つまり、体はすでに線の外側。あの聖フランチェスコでさえ、自分の体を「哀れなロバの弟」と呼びました。私たちはロバに乗るように、体に乗って暮らしています。

さらに線は心の中にも引かれます。自分の中の見たくない部分——怒り、ずるさ、欲——を「これは私じゃない」と線の外へ追い出すと、残った狭い自己像が「ペルソナ(仮面)」、追い出された部分が「影」と呼ばれます。逆に、線が皮膚の外へ広がっていく方向もある。そして線が完全に消えた状態が、冒頭のバックが体験した「宇宙と自分がひとつ」という意識——本書のいう統一意識です。

つまり意識は、線の引き方しだいで何層にもなる。仮面の層、自我の層、心と体がひとつの層、個人を超えた層、そして無境界の層。これがウィルバーの「意識のスペクトル」です。

ここから、本書でいちばん実用的な発見が出てきます。禅は「自我を手放せ」と言い、精神分析は「自我を強くしろ」と言う。正反対です。どちらかがインチキなのか。違う、と本書は言い切ります。両方正しい。効いている深さが違うだけ。精神分析は仮面と影をつなぎ直して健康な自我を作る薬で、禅はその自我と世界の境界を溶かす薬。虹の別の色に、別の薬が効くのです。

あなたがいまどの層で悩んでいるか。それが分かれば、どの薬を選べばいいかも分かる——本書はそういう、悩みの「住所録」として書かれています。

自分の周りに引いた、チョークの円
WHERE DO YOU DRAW THE LINE?
03
EVERY BOUNDARY IS A BATTLE LINE
第3章

快楽を追うほど、苦痛が怖くなる仕組み

考えてみると不思議なのですが、人間の価値あるものは、ぜんぶ「対」でできています。善と悪。成功と失敗。快楽と苦痛。生と死。

ところが自然界に、この対立はありません。「正しいカエル」と「間違ったカエル」は存在しないし、熊の世界に劣等感はない。年老いた猫は死を前に取り乱したりせず、静かに木の下で丸くなります。死に向かって怒り、抗う詩を書くのは人間だけです。

「自然は頭が悪いからだろう」と言いたくなりますが、本書はここに愉快な証言を置いています。ノーベル賞を受けた生化学者セント=ジェルジは、生命の謎のヒントを求めてプリンストン高等研究所に入りました。ところが「生き物の中には電子が三個以上ある」と打ち明けた途端、偉大な物理学者たちは口をきいてくれなくなった。彼らの計算機では、三個目の電子が何をするか予測できないからです。当の電子は、自分のすべきことを完璧に知っているのに。プリンストンの賢者全員が知らないことを、電子一個が知っている。自然は、私たちが考えるより賢いどころか——私たちに考えられる以上に、賢いのです。

なぜ人間だけが、対立の世界に住んでいるのか。

本書の答えはシンプルです。紙に丸をひとつ描いてみてください。その瞬間、「内側」と「外側」が同時に生まれます。線を引く前には、内も外もなかった。つまり——対立物を製造しているのは、境界線そのものなのです。決めるとは線を引くこと。望むとは線を引くこと。教育も、裁判も、戦争も、ぜんぶ線引きです。私たちの人生は、朝から晩まで線を引く作業でできています。

そして本書は、ここに恐ろしい一文を置きます。境界線は、必ず戦線になる。

線が固いほど、戦いは深くなる。快楽にしがみつくほど、苦痛が怖くなる。成功を追うほど、失敗に怯える。命に執着するほど、死が恐ろしくなる。何かを大切にすればするほど、それを失う恐怖が育つ。私たちの悩みのほとんどは、線と、線が生んだ対立物の問題なのです。

「なら、嫌な半分だけ消せばいい」と人類は考えました。痛みを消し、病気を消し、死を遠ざける。これが「進歩」です。ところが、と本書は突きます。買い手のいない売り手が存在しないように、対立物は片方だけでは存在できません。夜を消したら、「昼」という言葉も消えます。紙に凹の線を描くと、同じ一本の線が必ず凸を描いてしまう。だからマイナスだけを消す作戦は、原理的に勝てない。進歩とは、不満を制度にしたものだ——本書の中でも指折りの切れ味の一文です。

ではどうするか。ヒントは、線そのものにあります。海岸線を思い浮かべてください。あれは陸と海を「分ける」線でしょうか。よく見るとあの線は、陸と海が「触れ合っている」場所です。自然界の線は、分けると同時につないでいる。線(ライン)はいい。それを「分断するだけの壁」=境界(バウンダリー)だと思い込んだ瞬間に、戦争が始まる。

言葉の研究者コージブスキーの有名な言い回しを本書も使います。地図は土地ではない。「水」という言葉では、喉は潤わないのです。

海岸線——分ける線ではなく、触れ合う場所
THE SHORELINE JOINS AS MUCH AS IT DIVIDES
04
NO-BOUNDARY TERRITORY
第4章

物理学者が見つけた足跡は、自分のものだった

「境界は幻想だ」などと言うと、神秘主義のポエムに聞こえますよね。ところが本書がここで連れてくる証人は、僧侶ではなく物理学者です。

まず人類の線引きには、三段階ありました。ものを分類して名前をつける線(アダムは惑星に名前をつけた)。それを数える線(ピタゴラスは惑星を数えた)。さらに数同士の関係を式にする線(ニュートンは惑星の重さを計算した)。名づけ、数え、法則化する。この三段重ねの線引きで、古典物理学は宇宙を「境界のはっきりした物の集まり」として完全に説明した——はずでした。

1905年から1925年。たった20年で、その建物が崩れます。

科学者たちが原子の内側を覗いたとき、そこにいたのは「小さなビリヤード玉」ではありませんでした。電子は、位置を特定できない。輪郭がない。境界がない。手袋を脱いだら手のかわりにロブスターの爪が出てきた——本書はその衝撃をそう例えます。そして境界がないなら、測れない。測れないなら、一個の電子を支配する「法則」も書けない。物理学者ハイゼンベルクはこれを「固い枠組みの溶解」と呼びました。物質の最小部品は「独立した粒」ではなく、他のすべてへ伸びていく関係の網だったのです。

天文学者エディントンが残した寓話が見事です。科学は未知の岸辺で奇妙な足跡を見つけ、その主を突き止めるために理論に理論を重ねた。そしてついに足跡の主を再構成してみたら——それは自分自身の足跡だった。境界は世界の側にあるのではなく、世界を地図にする私たちの側にあった、ということです。

ここでウィルバーは、千年以上前の仏教にハンドルを切ります。華厳の教えに「事事無礙(じじむげ)」という言葉があります。「事」はものや出来事、「無礙」はさまたげが無いこと。あらゆる事物のあいだに境界はなく、すべてが互いに映り合い、浸透し合う——宇宙を、互いを映し合う無数の宝石の網にたとえる思想です。素粒子は他のすべての粒子でできている、という現代物理の言い回しと、薄気味悪いほど響き合います。

/ 検証の目線ただし、ここは立ち止まる価値があります。「量子力学は東洋思想を証明した」という1970年代に流行したこの語り方には、物理学の側から「比喩の飛び越えすぎだ」という批判が今も絶えません。物理の数式は悟りについて何も語っていない、という指摘はもっともです。本書の価値は「物理が悟りを証明した」ことではなく、西洋科学の最先端ですら「世界をくっきり分けられる」という前提を手放した、その一点の符合にあります。証明ではなく、符合。そこは混ぜないで読むのがフェアです。
未知の岸辺の足跡
THE FOOTPRINT ON THE SHORES OF THE UNKNOWN
05
YOU CANNOT HEAR THE HEARER
第5章

音を聞いている「あなた」を、聞いてみてください

人間が引く線の中で、いちばん最初に引かれ、いちばん最後まで手放されない線があります。「私」と「私以外」を分ける線。本書はこれを原初の境界と呼びます。他のすべての線は、この一本の上に積まれている。逆さまのピラミッドの、一番下の一個のブロックです。これが抜ければ、全部が崩れる。

では、その線を壊しましょう——とは、本書は言いません。ここが本書の一番不思議で、一番大事なところです。壊す必要はない。なぜなら、その線は存在しないから。幻は破壊できません。蜃気楼に向かって腕を振り回しても、汗をかくだけです。できるのは、幻を幻だと見抜くことだけ。だから本書がすすめるのは破壊ではなく、捜索です。「分離した私」を、実際に探しに行ってみる。

やってみましょう。目を閉じて、聞こえてくる音に注意を向けてください。車の音、誰かの声、エアコンのうなり。いろんな音が聞こえます。では、その音たちに混じって、たったひとつだけ絶対に聞こえないものがあります。

音を聞いている「聞き手」です。

どれだけ耳を澄ましても、「聞き手」の音はしません。聞こえるのは、いつも音だけ。本書によれば、それは聞き手がいないからです。あなたが「聞き手」と教わってきたものの正体は、聞こえるという経験そのもの。ある禅僧は悟りの瞬間をこう語りました——寺の鐘が鳴ったとき、鐘もなく、私もなく、ただ鳴っているだけだった

見ることも同じです。視界の中のどこを探しても、「見ている者」は見つからない。思考も同じ。「私は混乱している」という考えの背後に、それを考えている「考え手」を探すと、見つかるのは「考え手を探している」という次の考えだけです。アラン・ワッツの言い方を借りれば、経験があるだけで、経験を経験している誰かは、いない。

仏教はこれを二千年以上前から、ほとんど同じ言葉で要約してきました。苦しみはある、しかし苦しむ者はいない。行いはある、しかし行う者はいない。詩人ウェイ・ウー・ウェイは皮肉を込めて書きます——あなたが不幸なのは、考えることのほぼ全部が「自分のため」だからだ。そして、その自分は存在しないのだから、と。

探した瞬間、いなくなる。本書によれば、その「見つからなさ」こそが、統一意識の入り口です。壁だと思っていたものを探しに行ったら、最初から壁などなかった。だとしたら、あなたは今この瞬間も、すでに向こう側にいることになります。

鐘もなく、私もなく、ただ鳴っている
JUST THE RINGING
06
THE PAST NEVER HAPPENED
第6章

過去は、一度も存在したことがない

「永遠」と聞くと、ものすごく長い時間を想像しますよね。一億年の一億倍、ずっと続く時間。本書によれば、それは誤解です。永遠とは、長い時間のことではありません。時間が無いことです。

ピンと来ないですよね。実験しましょう。さっきと同じく、目を閉じて音を聞いてください。聞こえる音は、すべて「いまの音」です。過去の音は聞こえません。未来の音も聞こえません。視覚も味覚も同じ。あなたの直接の経験の中に、過去と未来は一度も登場したことがないのです。

「いや、私は過去を知っている。覚えているから」と思うはずです。ここが本書の急所です。記憶を思い出すとき、あなたは過去を見ているのではありません。記憶という、いま起きている経験を見ています。思い出の中の友人と握手はできないし、聞き忘れた質問に答えてももらえない。再生ボタンを押せるのは、いつも「いま」だけ。つまり過去とは、いま再生されている録音のことです。未来も同じで、期待や予想という「いまの経験」しかない。中世ドイツの神秘思想家マイスター・エックハルトは、これを一行で言い切っています——六千年前の日も、昨日と同じだけ「いま」に近い。すべての時間は、この瞬間の中に畳まれているからです。ウィトゲンシュタインの言い方なら、永遠の命は、現在に生きる者のもの。

そして、私たちの悩みを点検してみてください。後悔と罪悪感——ぜんぶ過去の話です。不安と心配——ぜんぶ未来の話です。厳密な「いま」の中には、実は悩みの置き場所がない。中世の神学者たちは、過去と未来に挟まれて薄切りになった一、二秒の現在を「流れる現在(ヌンク・フルエンス)」、挟むものが消えて開けた現在を「とどまる現在(ヌンク・スタンス)」と呼び分けました。私たちの現在がせわしなく「過ぎていく」のは、前後をパンに挟まれたサンドイッチだからです。しかも具がどんどん薄くなって、ほとんどパンの耳だけになっている。

記憶は過去ではなく現在の経験だ、と腑に落ちた瞬間、後ろのパンが消えます。期待は未来ではなく現在の経験だと見えた瞬間、前のパンが消えます。残るのは、始まりも終わりも見つからない、開きっぱなしの現在だけ。エマソンは書きました——窓の下のバラは、昔のバラを引き合いに出さない。いまあるだけで完全だ。人間だけが、過ぎたことを嘆き、爪先立ちで未来を覗こうとする、と。

永遠は、死んだ後に始まる長い時間ではありません。いまこの瞬間の、別名です。

写真の中だけが、いま光っている
MEMORY IS A PRESENT EXPERIENCE
07
THE GROWTH OF BOUNDARIES
第7章

死を拒んだ者が、時間を発明した

ではなぜ、私たちは無境界の世界を離れて、線だらけの世界に住むようになったのか。本書の第6章は、意識のスペクトルが生まれていく「創世記」です。

最初の事件は、原初の境界——「見る者」と「見られるもの」の分離です。これが引かれた瞬間、私は世界と一体であることをやめて、皮膚の内側に引っ越します。世界は「私の外」になり、私を消し去る力を持つ「敵地」になる。そしてこのとき、宇宙にまったく新しいものが出現します。

死の恐怖です。

ここからの連鎖が、本書の白眉です。死とは何か。未来が無い状態のことです。だから死を拒むことは、未来を要求することと同じになる。明日をくれ、その次の明日もくれ。こうして人間は、死から逃げるために時間を発明しました。前章で見たとおり時間は幻なのですが、逃げたい死もまた幻なのだから、勘定は合っています。本書はここで小咄をひとつ置きます。バスの中で、紙袋に餌をやり続ける老人がいた。「袋の中は何です?」「マングースだよ。アル中でね、幻覚の蛇が出るんだ。それを追い払うのさ」「でも、その蛇は想像上のものでしょう」「ああ。だからこっちのマングースも想像上のやつだ」——時間とは、幻の死を追い払う、幻のマングースなのです。

連鎖は続きます。死から逃げる人間が、次に持て余すのは自分の体です。体は腐る。病む。いつか必ず死ぬ。死の臭いがするものは全部見たくない。一方、「観念」は死にません。本物の木は枯れますが、「木」という言葉は枯れない。そこで人間は、生身の体から、死なない観念の家へ引っ越します。自分についての心的な絵——自己イメージ。これが自我(エゴ)の誕生です。心と体がひとつだった存在(次章で出てくるケンタウロス)は、ここで「乗り手」と「乗られるロバ」に分裂します。

最後の線はもっと細かい。自我の中にも、認めたくない欲や怒りがある。「私がそんなことを思うはずがない」。こうして都合のいい部分だけを残した仮面(ペルソナ)が作られ、追放された部分が影になる。

宇宙との一体から、体へ。体から、観念へ。観念から、仮面へ。線を引くたびに「私」は狭くなり、「敵」は増えていく。これが意識のスペクトルの成り立ちです。そして本書の後半は、この物語をまるごと逆再生していきます。

幻の蛇には、幻のマングースを
AN IMAGINARY MONGOOSE FOR IMAGINARY SNAKES
08
THE PERSONA AND THE SHADOW
第8章

妻に怒鳴った男は、誰と戦っていたのか

ここからが「セラピー編」です。最初の患者は、仮面をかぶった私たち自身。本書はジャックという男の、ごく平凡な土曜日から始めます。

ジャックは前から、散らかったガレージを片付けたいと思っていました。今日こそやるぞ、と作業着に着替えて向かいます。ところが現場のひどさを見て、腰が引けてくる。それでも立ち去りはせず、古雑誌をめくり、昔のグローブで遊び、だらだらと居座ります。やる気はまだある——無ければとっくに家に戻っています——のに、本人はそのやる気を見失いはじめている。やる気は消えていないので、頭の奥で「誰かが片付けを求めている」という感覚だけが残ります。誰だっけ、それは。苛立ちが募ったところへ、奥さんがひょいと顔を出して、無邪気に聞きます。「片付け終わった?」

ジャックは爆発します。「うるさい、せかすな!」

何が起きたのか。本書によれば、ジャックは自分のやる気を投影したのです。自分の中の衝動を「私のものではない」と線の外へ出すと、その衝動は消えずに、外から自分に向かってくるものとして感じられる。自分発のやる気が、妻発の「圧力」に化けた。ブーメランです。だから本書はこう言い切ります——プレッシャーとは、宛先を書き間違えた自分のやる気のことである。本当にやる気が無いなら、人は圧力を感じません。「今日はやめた」と平気で言えるだけです。

本書にはご丁寧に、症状を元の言葉に訳し直す「翻訳辞書」まで載っています。いくつか引くと——プレッシャーは「やる気」。不安は「興奮」。「みんなが私を見ている」は「私は人にすごく興味がある」。「誰も私を好きじゃない」は「私のほうこそ、人を切り捨てている」。「あなたのせいで罪悪感を覚える」は「あなたの要求が腹立たしい」。症状は敵ではなく、差出人の名前が消された自分からの手紙なのです。

この仕組みのいちばん醜い形が、魔女狩りです。自分の中の小さな黒い心を認められない人ほど、それを他人の上に見つけ出して焼こうとする。本書は突き放します——私たちが他人の中で憎むのは、自分の中で密かに憎んでいるもの、それだけだ。誰かの悪口が止まらないとき、その悪口は、語られている相手より語っている本人のことをよく説明しています。

処方箋はシンプルです。症状と戦わない。症状を翻訳する。「圧力を感じる」を「私は思ったよりやる気がある」と読み替えたとき、仮面と影は握手して、ひとまわり正直な自我に戻ります。仮面+影=自我。これが、スペクトルを降りる最初の一段です。

怒鳴った直後、自分の手のひらを見る
WHO WAS JACK FIGHTING?
09
THE CENTAUR
第9章

あなたは自分を、つねり続けている

次の一段は、心と体の間に引かれた線です。本書はこの線が消えた状態を、ケンタウロス——上半身が人、下半身が馬のあの伝説の生き物——と呼びます。大事なのは、ケンタウロスが「馬に乗った人」ではないことです。乗り手と馬が、最初からひとつ。心が体を操縦するのではなく、心身がひとつの生き物として動く状態です。

ところが私たちの日本語(英語でも同じです)は、正直に分裂を白状しています。「私は腕を動かす」とは言うのに、「私は心臓を打つ」とは言いません。「私はご飯を食べる」とは言うのに、「私はご飯を消化する」とは言わない。つまり私たちは、意志で操れる部分だけを「私」と呼び、勝手に動いている大部分——心拍、消化、成長——を「私ではない何か」扱いしている。自分の半分しか、自分だと思っていないのです。

そして体を線の外に出した代償は、はっきり体に現れます。本書によれば、体のあちこちにある慢性的なこわばり——肩、あご、目の奥、みぞおち——の正体は、感情を「外に出すまい」とする筋肉と「出そう」とする筋肉の綱引きです。アクセルとブレーキを同時に踏んでいる状態。怒鳴りたい衝動を抑えるには、あごと喉と肩の筋肉を固めるしかない。泣きたいのを止めるには、目の周りを固めるしかない。

ここで本書は、ぞっとする指摘をします。それらのこわばりは、すべて随意筋——自分の意志で動かせる筋肉——でできている。つまり、誰かにやられているのではない。自分で、締めている。自分で自分をつねりながら、つねっていることを忘れて、「痛い、痛い」と言っているのです。

だから処方箋は常識の逆を行きます。緩めようとしない。わざと、もっと強く締める。つねっている手の感覚を自分で再現したとき、人は初めて「これをやっていたのは私だ」と思い出し、手は自然にほどける——つねるのをやめるのに、方法は要らないのです。本書には、お腹を風船のようにふくらませる呼吸の実習も載っています。息を吸って、おへその下——東洋でいう丹田です——に活力を溜め、吐く息と一緒に手足の先まで、さらに体の外まで流していく。詰まって流れない場所が、あなたのブロックの地図です。

随意も不随意も、どちらも私。そう感じられたとき、奇妙な自由が来ます。あなたの意志が同時に処理できるのは、せいぜい二つか三つのこと。その間に体は、消化から血流まで文字どおり無数の仕事を、頼まれもせずに完璧にこなしています。コントロールを手放すことは、敗北ではありません。自分より賢い自分に、仕事を返すことです。

丹田の灯——ほどけていく体
THE LANTERN IN THE HARA
10
THE WITNESS
第10章

不安を見ている者は、不安ではない

ここから本は、ふつうの心理学が立ち入らない深さへ降ります。個人を超える層——トランスパーソナルの帯です。

案内役はユング。フロイトの一番弟子で、のちに決裂した人です。ユングが驚いたのは、古代神話など学んだこともないヨーロッパの現代人の夢に、世界中の神話と同じイメージ——大蛇、翼ある馬、太母——が正確に現れることでした。個人の人生で仕入れた覚えのない素材が、万人の心の底から湧いてくる。ユングはこの共有の地下水脈を集合的無意識と呼び、そこに眠る原型的なイメージを元型(アーキタイプ)と呼びました。心の一番深い階は、もう「あなた個人の部屋」ではないらしいのです。

その深い階へ降りる、驚くほど簡単な実習を本書は紹介します。静かに座って、心の中でこう唱えていく。

私には体がある。だが、私は体ではない。体は疲れたり元気だったりするが、それを眺めている内なる私には触れない。私には欲望がある。だが、私は欲望ではない。私には感情がある。だが、私は感情ではない。感情は私の中を通り過ぎていく。私には思考がある。だが、私は思考ではない——。

理屈は単純です。見られるものは、見ている者ではない。あなたが自分の不安を観察できるなら、あなたは不安そのものではありません。観察している側です。目が赤を見えるのは、目自体が赤く染まっていないから。同じように、恐怖を眺めているものは恐怖を持たず、緊張を眺めているものは緊張していない。ヨーガの教典をまとめた古代インドのパタンジャリは、「無知」の定義をたった一行で済ませています——見る者が、見る道具と自分を取り違えること。あなたは望遠鏡ではありません。望遠鏡を、覗いている側です。

本書はこの「眺めている側」を目撃者(witness)と呼びます。嵐の海でも、数メートル潜れば水は静かです。波と戦うのをやめて底に降り、寝転がって、頭上の大荒れを眺める——それが目撃者の位置です。

この層のセラピーの肝は、拍子抜けするほど何もしないことです。問題を解決しない。不安が来たら、眺める。不安を憎む気持ちが来たら、それも眺める。眺めることを頑張っている自分に気づいたら、それも眺める。手を出すたびに「私は不安と同じ高さにいる」という前提を強化してしまうからです。

ただし、と本書は釘を刺します。目撃者はゴールではありません。まだ「眺める私」と「眺められる世界」という、最後の一本の線が残っている。この線が溶ける場所が、終章です。

嵐の海も、底は静か
THE CALM BENEATH THE STORM
11
ALWAYS ALREADY
第11章

ゴールは、スタート地点より前にあった

ここまで読んだ方は、当然こう思っているはずです。「で、その統一意識とやらには、どうすれば到達できるのか」。

最終章で本書は、その問いを根元から折ります。到達はできません。理由は残酷なほど単純で、あなたは一度もそこを離れたことがないからです。いま、この行を読んでいるこの意識——音が聞こえ、文字が見え、考えが浮かんでいる、この当たり前の意識が、すでにそれです。聞き手が見つからなかったこと、過去が現在の記憶だったこと、思い出してください。境界は最初から無かった。無いものの「向こう側」へは、行きようがありません。

ここで最大の皮肉が立ち上がります。「悟りを探す」という行為は、「いまの自分は悟っていない」という前提を、一歩ごとに塗り直します。つまり探せば探すほど、目的地から遠ざかる。眼鏡をかけたまま眼鏡を探し回る人と同じです。本書が禅僧・鈴木俊隆の『禅マインド ビギナーズ・マインド』などから汲み取った答えはこうです——坐禅や祈りなどの修行は、悟りを製造する機械ではない。すでにある悟りが、姿を取って現れたもの。手段ではなく、表現。だから道元の系譜の禅者は「悟るために坐る」のではなく、「坐ること自体が悟りの表現だ」と言うのです。

/ 検証の目線公平のために書きます。本書の枠組みには、誰よりも手厳しい批判者がいます。ウィルバー本人です。彼は後年、「赤ん坊の未分化な意識」と「聖者の境界なき意識」を地続きに描いた若き日の自分を、「プレ(未満)」と「トランス(超越)」の取り違え——プレ・トランスの誤謬——だったと公然と認め、本書を書き終えた頃にはその問題が見えはじめていた、と振り返っています。学術心理学の側からも、資料の使い方が自説に都合よく選択的だ、という批判が続いてきました。本書は完成された聖典ではなく、一人の思想家が後に自分で乗り越えていく足場の一段目です。それでもこの足場が40年以上読み継がれてきたのは、「境界線は戦線になる」という中心の一撃が、理論の細部が古びても折れないからでしょう。

最後に、刃をこちらへ返しましょう。この記事を読み終えたあなたは、たぶん何かを「持ち帰ろう」としています。いい言葉をメモして、明日から役立てようとしている。その瞬間、また線が引かれます——「まだ足りない私」と「いつか満たされる私」の間に。本書が最後に指差すのは、メモの中ではありません。メモを取ろうとしている、その手元の明るさです。

ところで、この本を日本語にした男の話を、まだしていませんでした。

訳者・吉福伸逸(1943-2013)。1960年代半ばにジャズミュージシャンとしてアメリカへ渡り、ベトナム反戦運動のただ中で「意識の変容」のうねりに出会って帰国した人です。『ビー・ヒア・ナウ』『タオ自然学』、処女作『意識のスペクトル』、そして本書——のちに「精神世界」と呼ばれる本棚を、ほとんど独力の翻訳で日本に運び込みました。名前は今も一般にはほとんど知られていません。それでも70〜80年代の探求者たちにとって、彼は教師であり、カリスマでした。その男が1989年、突然すべてを畳みます。行き先はハワイ。理由は、頼られすぎることの重さと、ワークショップのような一時的な体験では人の傷は根本から癒えない、という静かな見切りでした。以後の人生の中心に置いたのは、家族と、サーフィン。波と砂浜の、あの触れ合う線の上です。

境界の地図を描いた男は、皿を洗い続けた。境界の本を訳した男は、波に乗りに行った。

境界のない世界というのは、たぶん、そういう場所にあります。

夜明けの皿洗い場——探し物が終わった後の水音
ALWAYS ALREADY

BOOK DATA / 書誌情報

書名
無境界 自己成長のセラピー論
原題
No Boundary: Eastern and Western Approaches to Personal Growth(1979)
著者
ケン・ウィルバー(Ken Wilber)
訳者
吉福伸逸
出版社
平河出版社
刊行
1986年6月
判型・頁数
単行本・302ページ
ISBN
4-89203-114-3

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