代々木八幡

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山手通りから見上げる代々木八幡宮の丘と石段
[ 残るものの聖地 / 縄文の丘 ]

失われたはずのものが、
なぜかこの丘に残っている

YOYOGI HACHIMANGU — NEON PILGRIMAGE

渋谷。山手通りの車の音を背に、急な石段をのぼる。標高三十二メートルの、こんもりとした緑の丘。

二度の炎をすり抜けた神輿。掃除の箒から出てきた四千五百年前の家。焼け出された神々が身を寄せ合う一角。

どれも、誰かが守ろうとして守ったものではない。それでも、この丘のものは、失われずに残ってしまう。

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01SIGNATURE MYSTERY

待ちきれなかった神輿が、震災の前の日に帰ってきた

代々木八幡宮の話を、一台の神輿から始めたい。

いまも境内の神輿庫に、一台の宮神輿が納められている。祭りのときに担がれる、ごく普通の神輿に見える。だが、この神輿には、ちょっと信じがたい「逃げ足」の記録がある。二十年あまりのあいだに、東京を焼き尽くした二つの大災害を、二度とも、すり抜けているのだ。

一度目は、大正の関東大震災。二度目は、昭和の東京大空襲。

どちらも、まともにぶつかっていれば、灰も残らなかったはずの災いである。それを二度とも、この神輿は、まるで前もって知っていたかのように、間一髪でかわしている。

しかも――かわした理由が、どちらも「たまたま」なのだ。誰かが神輿を守ろうとして、そうなったのではない。人間のちょっとした都合や、こらえ性のなさが、結果として、神輿を炎から遠ざけていた。

順を追って話そう。

まず、この神輿がどこから来たかである。

もともとこの神輿は、代々木八幡宮のものではなかった。甲州街道沿いにあった「代々木新町」という小さな町の、その町の神輿だった。氏子の町のひとつである。

大正十二年、この代々木新町が、自分たちの神輿を新しくこしらえることにした。注文した先は、千葉の行徳である。

この「行徳」という土地を、少し知っておいてほしい。ただの発注先ではないからだ。

行徳は、江戸のむかしから「神輿のまち」として名の通った土地だった。どれくらい名が通っていたかというと、明治から昭和にかけて、江戸じゅうで担がれた神輿――その数、およそ四千基とも言われる――の、なんと半分近くが、この行徳で作られたと伝えられている。江戸の祭りを、下から支えていた町である。腕のいい職人が何人もいて、町の神輿を新調するならまず行徳へ、というのは、当時のごく自然な感覚だった。

代々木新町が、自分たちの晴れの神輿を、その行徳に注文した。町にとっては、一世一代の買い物だったろう。

受け渡しの約束は、その年の秋祭り――九月二十三日に間に合わせることになっていた。祭りの当日、真新しい神輿を担いで町を練り歩く。町の人々は、それを楽しみに、夏を過ごしていた。

ところが、である。

八月の終わりに、行徳から報せが届いた。

「神輿が、もう出来上がった」。

予定より、ずいぶん早い。祭りの九月二十三日まで、まだ三週間以上ある。ふつうなら、約束の日まで工房に置いてもらって、当日に運んでもらえばいい。それが段取りというものだ。

だが、代々木新町の人々は、待てなかった。

自分たちの、真新しい神輿が、もう出来ているという。それが千葉の工房に、ぽつんと置かれている。そう思うと、じっとしていられなかった。

祭りまで待つ、という分別が、どこかへ飛んでしまった。

大の大人が、町の顔役たちが、居ても立ってもいられず、はるばる行徳まで押しかけた。そして、出来上がったばかりの神輿を、その場で担ぎ上げ、自分たちで代々木まで運んで帰ってきてしまったのである。

子どもが、約束の日まで待てずにおもちゃを取りに行ってしまう。あれと同じことを、いい歳をした町の男たちが、神輿を相手にやった。

いま思えば、この「こらえ性のなさ」が、町を救った。

神輿が、無事に代々木の丘へ帰り着いた。その翌日のことである。

九月一日。

相模湾を震源とする巨大な地震が、関東一円を襲った。関東大震災である。東京は火の海になり、十万人を超える人が命を落とした。町という町が、崩れ、燃えた。

そして――神輿を作った、あの行徳の神輿屋も、この地震で焼けた。工房は全焼したという。

もし、代々木新町の人々が、約束どおり九月二十三日の受け渡しを、おとなしく待っていたら。

神輿は、まだ行徳の工房にあった。

そして、燃えていた。

たった一日である。せっかちだったおかげで、たった一日の差で、真新しい神輿は炎から逃れ、代々木の丘の上にいた。もう一日、町の人々に分別があったなら、この神輿は、生まれた場所で焼けて消えていた。

生まれ落ちる場所と、焼け落ちる場所が、たった一日でひっくり返った。そういう神輿である。

大正十二年、行徳から担ぎ帰った新調の神輿

だが、この神輿の「逃げ足」は、これで終わらない。

それから二十二年が経った、昭和二十年。

今度は、戦争だった。

東京大空襲である。焼夷弾が、東京の下町を、山の手を、次々と火の海に変えていった。代々木新町も、例外ではなかった。あれほど賑わっていた甲州街道沿いの町並みが、一夜のうちに、焼け野原になった。

町は、燃えた。

だが、この神輿だけは、また、無事だった。

そのとき神輿は、代々木新町にはなかったのである。丘の上の、代々木八幡宮の境内に、預けられていた。木々に囲まれた、社の一角に。だから、町がまるごと焼けても、神輿には火が及ばなかった。

二度である。

大正の震災と、昭和の空襲。東京を二度、焼き尽くした災いを、この一台の神輿は、二度とも、すり抜けた。

一度目は、町の人々が待ちきれなかったおかげで。
二度目は、たまたま神社に預けてあったおかげで。

どちらも、「神輿を守ろう」と思ってやったことではない。ただの、こらえ性のなさと、ただの、置き場所の都合。それが二度とも、災いの一歩手前で、神輿を安全な場所へ動かしていた。

いまも代々木八幡宮は、この神輿を「二度の大きな災禍を除けた、強運のお神輿」として、大切に守り伝えている。

ここで、少し不思議なことに触れておきたい。

神輿を作った町・行徳と、神輿を迎えた丘・代々木。この二つは、いまの地図で見れば、東京湾をはさんで、ずいぶん離れている。片や千葉、片や渋谷。まるで縁のない土地に思える。

ところが、江戸のむかしの絵地図をひらくと、印象が変わる。

江戸の名所を絵入りで紹介した『江戸名所図会』という古い本がある。その巻之三には、代々木八幡宮と、神輿のまち・行徳が、同じ一冊のなかに、並んで載っている。江戸の人々の頭のなかでは、この二つの土地は、ひとつの絵地図のうちにおさまる、地続きの世界だったのだ。

つまり、代々木新町が海の向こうの行徳に神輿を注文したのは、決して突飛なことではなかった。江戸という一枚の絵地図のなかで、神輿のまちに神輿を頼む――ごく当たり前の、筋の通った選択だった。

そう考えると、この神輿は、生まれる前から、代々木の丘とゆるくつながっていたようにも思えてくる。江戸の絵地図のうえで地続きだった土地から、地続きの縁をたどって、丘の上へやってきた。そして、二度の炎を、すり抜けた。

では、なぜこの神輿は、最終的に「町のもの」から「神社のもの」になったのか。

その理由もまた、少し、切ない。

昭和三十九年、東京オリンピックである。

大会を前に、東京じゅうで道路が造り替えられた。甲州街道も拡張され、そのために首都高速道路の工事が入った。沿道の家々は立ち退きを迫られ、代々木新町の住民は、ひとり、またひとりと、町を離れていった。

町から人が減れば、神輿を担ぐ人も、いなくなる。

大の男が大勢いなければ、神輿は担げない。町が小さくなり、やがて担ぎ手が足りなくなって、この神輿は、町で担がれる場を失った。

行き場をなくした神輿は、丘の上の神社へ、納められた。

震災を逃れ、空襲を逃れ、そして最後には、生まれ育った町そのものが、道路の下に消えていった。それでも、神輿だけは、残った。

災いにも焼かれず、時代の流れにも消されず、丘の上に、いまも在る。

この神輿の話を、単なる「運のいい偶然」で片づけることも、できる。

たまたま早く出来上がって、たまたま待ちきれなくて、たまたま神社に預けてあった。偶然が三つ重なっただけだ、と。

だが、代々木八幡宮を歩いていると、この「偶然」が、一つではないことに気づく。

この丘には、なぜか、失われずに残ってしまうものが、いくつもある。焼けるはずだったのに焼けなかったもの。消えるはずだったのに消えなかったもの。忘れられるはずだったのに、忘れられなかったもの。神輿は、その最初の一つにすぎない。

丘の下には、もっと古い「残ったもの」が眠っている。神輿の話が、たかだか百年前のことだとすれば、その、はるか下――四千五百年前の「残ったもの」の話を、次にしたい。

(第1章 終わり)

02JOMON BENEATH THE SHRINE

掃除の箒から出てきた、四千五百年前の家

前の章では、二度の炎をすり抜けた神輿の話をした。たかだか百年前の話である。

この章では、その百年を、いっぺんに三十倍ほど飛び越える。

代々木八幡宮の丘の、地面の下には――四千五百年前の家が、埋まっている。

これは比喩ではない。文字どおり、縄文時代の家の跡が、この境内の地面から見つかっているのだ。渋谷区が指定した史跡で、名前を「代々木八幡遺跡」という。

そして、この四千五百年前の家が、どうやって世に出てきたか。その「出てきかた」が、また、神輿の話とそっくりなのである。誰も掘り出そうとしていなかった。ただ、向こうから、出てきた。

まず、丘そのものの話をしたい。

小田急線の代々木八幡駅を降りて、山手通りの車の流れを渡ると、こんもりとした緑の丘が目の前に現れる。標高、およそ三十二メートル。都心のビルにすれば、十階に届くかどうか、という高さだ。たいした山ではない。

だが、石段を上がっていくと、上がりきったあたりで、ふしぎと、山手通りの車の音が遠くなる。ほんの数十段のぼっただけなのに、下界の音が、すっと引く。

その、あなたの足の裏の下に、四千五百年前の誰かが踏み固めた床がある。

昭和二十五年の調査で、この丘から、竪穴住居の跡が見つかった。地面を掘り下げて造った、縄文時代の家である。柱を立てた穴の跡もあった。一緒に出てきた土器――加曾利E式と呼ばれる、関東の縄文中期を代表する型の土器――から、ここに人が住んでいたのは、およそ四千五百年前と推定されている。

いま、参道の脇には、その住居が復元されて建っている。柵の向こうに、藁葺きの、三角の屋根。四千五百年前、この丘の上で、誰かがその中で火を焚き、煮炊きをし、眠っていた。

神社が建つのは、ずっとあとの話だ。この丘に祠が建てられたのは、鎌倉時代のこと。それでも神輿の百年よりはるかに古い。だが、四千五百年前から見れば、鎌倉の創建すら、つい最近のことになる。「鎌倉時代からある古い神社」と聞いて、じゅうぶん古いと思ったなら、この丘に関しては、桁がひとつ、足りない。

昭和二十五年、掃除の箒が触れた縄文土器のかけら

さて、ここで、渋谷区が公表している数字を紹介したい。少し驚く数字である。

渋谷区では、先史時代の遺跡が、これまでに三十数カ所も見つかっている。

意外に思われるかもしれない。あのスクランブル交差点の渋谷、ビルとアスファルトで埋め尽くされた渋谷の地面の下に、縄文や弥生の遺跡が、三十以上も眠っていた。川に削られてできた台地の、その高台のあちこちに、古代の人々は住んでいたのだ。

ところが、である。

その三十数カ所のうち、いま、姿をとどめているのは――わずか数カ所しかない。

大半は、消えた。地上から、跡形もなく。

では、消えていった遺跡たちは、どこへ行ったのか。何が起きて、消えたのか。

その答えは、意外な場所に、はっきりと残っている。渋谷区立図書館が公開している、区内の発掘調査報告書のリストである。恵比寿、千駄ヶ谷、初台、青山、富ヶ谷――区内で掘られた遺跡の報告書が、ずらりと並んでいる。

そのリストには、報告書を出した「出版者」を記す欄がある。そこを読んでいくと、渋谷の地面の下で何が起きたのかが、ひとつずつ、分かってくる。

千駄ヶ谷の遺跡。報告書を出したのは、JR東日本である。

初台の遺跡。掘ったのは、日本芸術文化振興会。その跡地に建ったのが、新国立劇場である。

羽沢の貝塚。報告書の出版者は、日本赤十字社医療センター。

恵比寿の遺跡は、かつてのサッポロビールの工場跡地から出た。いまそこに建っているのは、恵比寿ガーデンプレイスだ。

ほかにも、東急、住友、東京建物、NTT都市開発――渋谷の一等地を開発してきた、名だたる会社の名前が並んでいる。

つまり、こういうことだ。

渋谷の縄文遺跡を掘り起こしたのは、その上にビルを建てる会社だった。

念のために言っておくと、これは違法でも、不誠実でもない。文化財保護法が定めた「記録保存」という、正式な手続きである。開発によって遺跡が壊れると分かったとき、事業者は工事の前に発掘調査を行う。掘って、測って、写真を撮り、詳細な報告書にまとめる。そうして「記録」として遺跡を残してから、その上に、ビルや線路や劇場を建てる。手順を踏んだ、まっとうな開発だ。

だが、掘る動機は、いつも「壊すこと」とセットだった。

掘られた記録は、紙の上に残る。だが、四千五百年そこにあった地面そのものは、二度と戻らない。紙の上には残り、地面の上からは消える。これが、渋谷の遺跡の、ほとんどがたどった運命だった。

ここまで読んで、勘のいい方は、気づいたかもしれない。

その分厚い報告書のリストを、最後まで探しても――出てこない遺跡が、ひとつだけ、ある。

代々木八幡遺跡である。

渋谷でもっともよく知られた縄文遺跡でありながら、開発事業者による発掘報告書のリストに、その名前がない。JR東日本もいない。新国立劇場もいない。どの不動産会社の名も、この遺跡には結びついていない。

なぜか。

理由は、拍子抜けするほど単純だ。誰も、その上に、何かを建てようとしなかったから、である。

ほかの遺跡は、全部そうだった。掘るきっかけは「開発」で、掘ったのは「開発する会社」だった。だが代々木八幡遺跡だけ、掘られたきっかけが、まるで違う。

開発ではなかった。掃除である。

神社に伝わる話は、こうだ。

昔、当時の宮司が、境内の手入れをしていた。ある雨あがりのこと、雨で土が流れたあとの地面に、何か、植木鉢のかけらのようなものが顔を出しているのに気づいた。一度ではない。掃除をするたび、ちらほらと、同じようなかけらが出てくる。

不審に思った宮司は、近所の上原中学校の、社会科の先生に相談した。

先生は、それを見て言った。これは、縄文土器ではないか――。

そこから話が動いた。先生は、自分のクラスの中学生たちを引き連れて、境内の地面にシャベルを入れた。すると、出てくる。土器が、石器が、次々と。やがて本格的な調査へと発展し、丘の上から、四千五百年前の住居の跡が姿を現した。

ビルを建てるためではなかった。線路を通すためでもなかった。宮司が掃除をしていたら、地面のほうから、出てきた。

前の章の神輿を、思い出してほしい。町の人々は、神輿を守ろうとして守ったのではなかった。ただ待ちきれずに動いたら、結果として災いを避けていた。

この土器も、同じである。誰も、四千五百年前の家を掘り出そうとしていなかった。ただ、境内を掃いていたら、向こうから、出てきた。

そして、ここが、この遺跡の、ほかのどことも決定的に違うところなのだが――掘り起こしたあとも、その上には、いまも、何ひとつ建っていない。ビルも、線路も、劇場もない。四千五百年前の家の跡は、掘り出されたまま、丘の上に、そっと置かれている。

なぜ、ここだけ、建たなかったのか。

答えは、丘の上に、堂々と立っている。神社である。

四千五百年前の家の上に、八百年前から、社が乗っている。社が乗っていたから、誰もこの丘を更地にできなかった。誰も更地にできなかったから、その真下の家が、壊されずに残った。

渋谷じゅうの丘という丘から、縄文の痕跡が、開発の波にさらわれて消えていく。そのあいだずっと、この丘の縄文だけが、社という「重し」の下で、守られ続けていたのである。

しかも、その社は――自分が何を守っているのか、七百年ものあいだ、知らなかった。鎌倉時代に祠が建てられてから、昭和二十五年に掃除の箒が土器に触れるまで。実に七百年以上、神社は、自分の足元に四千五百年前の家が眠っていることを、まったく知らずにいた。ただそこに在り続けただけで、結果として、その下の宝を守っていた。守っているという自覚すら、なしに。

この丘は、守るつもりのないものを、守っていた。

神輿と、まったく同じ形である。この丘に来たものは、なぜか、失われない。守ろうとしなくても、残ってしまう。

その「残ってしまう」不思議は、まだ続く。次の章では、丘に「呼び戻された」人々の話をしたい。

(第2章 終わり)

03VISITORS’ RECORDS

霊感ゼロの人が、同じ鳥居で三度、鳥肌を立てた

前の章では、掃除の箒から出てきた四千五百年前の家の話をした。守ろうとしなくても、この丘のものは、残ってしまう。

ここまでは、神社が語り伝える話だった。禰宜さんの証言、渋谷区の記録、古い絵地図。いわば「表の記録」である。

この章では、少し毛色を変える。

この丘を訪れた、ごくふつうの人たちが――何を感じ、何を見たのか。参拝者たちが、自分の言葉で書き残した記録を、たどってみたい。

先に断っておくと、これから紹介する話に、怖いものは一つもない。悪いものも、祟りのようなものも、出てこない。ただ、読み終えたあと、この丘へ行ってみたくなる。そういう話ばかりを選んだ。

まず、一人の参拝者の記録から始めたい。

二〇二〇年の一月、参拝の記録を共有するサイトに、ある投稿があった。書いた本人は、自分のことを、こう名乗っている。

「霊感ゼロを売りにしている人間だ」と。

つまり、まったく感じないタチだ、という自己申告である。オカルトの気配とは無縁の、現実的な人物。その人が、代々木八幡宮を訪ねた経緯が、また面白い。

知人から、こう聞かされたのだという。「あの神社は、感じる人だと、具合が悪くなるほどらしいよ」。

自分は霊感ゼロだから、そんなものは関係ない。むしろ、確かめてやろう。そんな気持ちだったのかもしれない。その人は、風邪をひいて本調子でないまま、始発電車に乗り、朝の七時に、丘へ上がった。

参拝をすませ、境内の奥にある「出世稲荷」という一角へ、足を向けた。稲荷へ向かう参道には、鳥居がいくつか連なっている。その、最後の鳥居をくぐろうとした、そのときである。

全身に、ぶわっと、鳥肌が立った。

出世稲荷へ続く、最後の赤い鳥居

本人は、これを「気のせい」で片づけようとした。

なにしろ、風邪をひいている。朝の七時で、冷える。寒さで鳥肌が立っただけだろう――そう思って、いったん鳥居から離れ、もう一度、同じ鳥居をくぐってみた。

また、鳥肌が立った。同じ場所で。

まだ疑った。三度目を試した。

三度目も、まったく同じだった。同じ鳥居の、同じ位置で、同じように、全身の鳥肌。三回試して、三回とも。

寒さなら、場所は関係ないはずだ。だが、その現象は、境内のほかのどこでもなく、その最後の鳥居でだけ、起きた。

霊感ゼロを自認するその人は、これまでいろいろな神社を巡ってきたらしい。そのうえで、こう書いている。江の島の、あの龍宮――強いと評判の場所――よりも、ここのほうが、強かった、と。

話は、鳥肌だけでは終わらない。

その人が境内で撮った写真のうち、二枚が、まともに写らなかった。最初の鳥居のところで一枚、拝殿を撮ったところで一枚。二枚とも、画面がべったりと緑色に染まって、被写体が写っていなかった。

さらに、だ。手に持っていたスマートフォンが、誰も触っていないのに、勝手に「機内モード」に切り替わっていた。

風邪の身で始発に乗った、霊感ゼロの現実主義者。その人が、丘の上で、三度の鳥肌と、緑に染まった写真と、勝手に切り替わったスマホに出会って、帰っていった。

面白いのは、この投稿のコメント欄である。

見ず知らずの別の人が、こう書き込んでいる。あの出世稲荷は、たしかに「異質な感じ」がする、と。書いた本人だけの思い込みではなかった。ほかにも、あの一角に、同じような手ざわりを感じていた人がいたのだ。

そして、この「出世稲荷」という場所。前の章までを読んでくださった方なら、うっすら見当がつくかもしれない。ここは、この丘の「残ってしまう力」が、もっとも濃く集まっている一角なのだが――その話は、次の章に譲る。

もう一つ、参拝の記録から。

出世稲荷の御朱印を、いつも丁寧に記録している常連の参拝者がいる。その人の、淡々とした記録のなかに、こんな一文が、さらりと混じっていた。

いつものように出世稲荷を訪ねたら、その頭上で、烏が――。日によっては、危なくて、稲荷に近づけないほどだ、と。

注目したいのは、「いつものように」という書き出しである。たまたま一度、烏に驚いた、という話ではない。その人にとって、あの一角の上空に烏が群れているのは、めずらしくもない、日常の風景なのだ。淡々と書いているぶん、かえって、その常態ぶりが伝わってくる。

丘の、あの一角の上にだけ、烏がいる。理由は、わからない。

最後に、名の知れた人の話を一つ。

お笑い芸人の千原ジュニアさんが、テレビ番組で、こんな体験を語っている。二〇二四年の春に放送された回だ。

ジュニアさんは、かつて代々木八幡のあたりに住んでいた。ある日、代々木上原で朝の四時まで飲み、その帰り道に、ふらりと代々木八幡宮へ立ち寄って、参拝したのだという。そして、その日の夕方――スピリチュアルで知られる、ある番組の収録があった。美輪明宏さんが出演する、あの番組である。

収録の場で、美輪さんが、ジュニアさんに向かって、こう言った。

見えている、この階段があって、森があって、社がある。これは、なに――と。さらに、大きな道路が見える。これは何なのか、と。

ジュニアさんは、はっとした。今朝、代々木八幡にお参りに行きました、と答えた。

すると美輪さんは、ああ、だからね、と。

ここで、よく味わってほしい。美輪さんが言い当てたのは、「代々木八幡宮」という名前ではない。石段があり、森があり、その奥に社がある。そして、そばに大きな道路が走っている――その、丘の「かたち」そのものである。

代々木八幡宮を知っている人なら、すぐわかる。急な石段。上を覆う森。奥にひっそりある社。そして、丘のふもとを走る、山手通り。まさに、あの丘の見取り図が、そのまま言葉になっていた。

美輪さんは、その場所を見たわけではない。ジュニアさんが朝にそこへ行った、という「気配」だけを頼りに、丘の地形を、なぞってみせた。

霊感ゼロの人が、同じ鳥居で三度、鳥肌を立てた。写真が緑に染まり、スマホが勝手に切り替わった。上空には、いつも烏がいる。そして、その丘の地形を、行ってもいない人が言い当てた。

どれも、恐ろしい話ではない。呪いでも、祟りでもない。ただ、この丘には、感じる人には感じられる「何か」の密度が、たしかにあるらしい――という、それだけの話である。

そして、その「何か」の密度が、丘のなかでもとりわけ濃いのが、さきほどから名前の出ている、あの一角。焼けた稲荷たちが、誰の指図でもなく、自然に集まってきたという場所である。

次の章では、その「出世稲荷」の話をしたい。

(第3章 終わり)

04SHUSSE INARI

焼け出された神々が身を寄せ合う一角が、なぜか人を出世させる

長い旅も、この章で終わりになる。

前の三つの章で、この丘の「残ってしまう」話を、いくつも見てきた。二度の炎をすり抜けた神輿。掃除の箒から出てきた四千五百年前の家。そして、感じる人には感じられるという、丘の「密度」。

その密度が、丘のなかでもいちばん濃い一角。前の章から名前だけ出しつづけてきた、あの場所へ、いよいよ入りたい。

「出世稲荷」である。

いまや、この一角は、東京でも指折りのパワースポットとして知られている。テレビでも何度も紹介され、名の知れた人々が、お忍びで手を合わせに来るという。「出世する」「仕事が増える」――そういう評判が、長く語り継がれてきた場所だ。

だが、その評判の下に、どんな来歴が眠っているか。それを知ると、手を合わせる気持ちが、少し変わる。

ここは――焼け出された神々が、身を寄せ合っている場所なのだ。

顔立ちの違う狐たちと、名もなき手の赤い前掛け

話は、また、東京大空襲にさかのぼる。

第1章で、この空襲が代々木新町を焼き、神輿だけが丘に預けられて助かった、という話をした。その同じ夜、丘のふもとの町では、家々だけでなく、町のあちこちに祀られていた小さなお稲荷さんたちも、炎に呑まれていた。

日本の町には、むかしから、小さな稲荷が数えきれないほどあった。商家の裏庭に、路地の角に、屋敷の一隅に。それぞれの家や店が、それぞれに祀ってきた、暮らしのなかの神様である。

空襲は、それらを、まとめて焼いた。

家が焼ける。店が焼ける。そこに祀られていた小さな稲荷も、社ごと焼け落ちる。祀っていた人が亡くなったり、町を離れたりすれば、焼け残った狐の像は、行き場をなくす。誰も世話をする者のいない、焼けただれた石の狐が、焼け跡のあちこちに、取り残された。

そのとき、代々木八幡宮の氏子たちが、動いた。

焼け跡に残された、行き場のない稲荷たち。それを見かねた人々が、一体、また一体と、丘の上の神社へ、運び上げてきたのである。

「うちのお稲荷さんが焼けてしまった。せめて、神社に置いてもらえないか」。

そうやって持ち寄られた、あちこちの稲荷が、丘の一角に、少しずつ、集まっていった。それが、いまの出世稲荷の始まりだと、神社は伝えている。

この「集まりかた」に、証拠が残っている。

出世稲荷の狐たちを、よく見てほしい。

一体、一体、顔つきが、違うのだ。

ふつう、一つの神社が、自分のところの稲荷を整えるなら、同じ職人に、同じ意匠で、そろえて作らせる。狐の顔も、大きさも、そろう。それが自然だ。

だが、出世稲荷の狐は、そろっていない。目つきの鋭いのがいれば、丸っこいのがいる。細面もいれば、丸顔もいる。古いのがいれば、新しいのがいる。作った職人も、作られた時代も、もとの町も、みんなばらばら。だから、顔が、一体ずつ違う。

これは、寄せ集めであることの、動かぬ証拠である。あちこちの町から、焼け残った狐が、めいめいの顔のまま運ばれてきて、そのまま、肩を寄せ合っている。顔が違うということは、それぞれに、もとの家があり、もとの町があり、もとの主がいた、ということだ。

焼け出された神々の、避難所。そう呼びたくなる一角である。

そして、この場所には、もっと不思議な「習慣」がある。

狐たちは、赤い前掛けをしている。稲荷の狐に赤い布を掛けるのは、よくある光景だ。だが、この出世稲荷の前掛けについて、神社は、はっきりと、こう言っている。

「あの前掛けは、神社が用意したものではありません」。

では、誰が。

わからないのだ。

神社が掛けたのではない。なのに、狐たちには、いつも赤い前掛けがある。そして――その前掛けが、古びて汚れてくると、いつのまにか、新しいものに替わっている。誰かが、そっと取り替えているのだ。

その「誰か」を、神社は、把握していない。

いつ、誰が来て、汚れた前掛けを外し、新しいものを結んでいくのか。名乗り出る者もいない。ただ、汚れれば、また新しくなっている。それが、ずっと続いている。冬になれば、前掛けだけでなく、小さなマフラーを巻かれている狐もいるという。

寒かろう、と。誰かが、焼け出された神々に、マフラーを巻いていく。名も告げずに。

この神社を取材した、ある神職は、その様子を、こんな言葉で語っている。誰かが始めたわけでもなく、心ある人たちの手で、ごく自然に、この地に集められてきたのです――と。

「誰かが始めたわけでもなく」。「ごく自然に」。

これこそ、この丘で起きていることの、すべてを言い当てた言葉ではないか。命じる者はいない。始めた者もいない。だが、この丘には、失われそうなもの、行き場をなくしたものが、名もなき手に導かれて、自然に集まり、そして、失われずに残っていく。

さて。ここで、冒頭の「評判」の話に、戻りたい。

焼け出された神々が身を寄せ合う、この一角。なぜか、ここは「出世する」場所として、名を馳せてきた。

火をつけたのは、手相占いで知られる島田秀平さんだったと言われる。彼は、自身のパワースポットの本やテレビ番組で、この一角をたびたび紹介してきた。二〇一三年には、朝の情報番組の「最強パワースポットめぐり」でも取り上げられている。島田さんは、この稲荷こそ、出世運をぐんぐん上げてくれる場所だ、と語ったと伝わる。

歌手の和田アキ子さんも、この一角を訪れ、「ここは一番いい気が充満しとる」と評した、と紹介されている。お笑い芸人の千原ジュニアさんも、この丘に住み、お忍びで参拝していたことを、自ら語っている。第3章で紹介した、美輪明宏さんが丘の地形を言い当てた、あの一件の主でもある。

そして、芸能界には、こんな噂が、まことしやかに流れているという。

「代々木八幡宮の近くに引っ越すと、大ブレイクする」。

もちろん、これは噂である。証明できるものではない。近くに越したから売れたのか、売れる人がたまたま越したのか、確かめようはない。この記事も、それを事実だとは言わない。

ただ――ここまで、この丘の話をたどってきた身には、この噂も、まるきりの偶然とは思えなくなってくる。

考えてみてほしい。この一角は、行き場をなくしたものが、名もなき手に導かれて集まり、そして、失われずに残っていく場所だった。神輿がそうだった。土器がそうだった。石に刻まれた名前が、消えるはずが消えずに、百年後に子孫を呼び戻した。

「消えそうなものが、消えずに残る」。「行き場をなくしたものが、引き寄せられ、留まる」。

それが、この丘の力だとするなら――まだ世に出ていない人、これから花開こうとしている人が、この丘のふもとに引き寄せられ、そして「消えずに残る」というのも、同じ一つの現象の、別の顔なのかもしれない。

丘は、失われそうなものを、引き寄せて、留めておく。焼け残った狐も。消えた町の名も。そして、これから世に出ようとする人の運も。

神輿から始めた、この丘の話も、これで終わりである。

炎をすり抜けた神輿。掃除から出た縄文の家。子孫を呼び戻した石。感じる人を立ちすくませる密度。そして、焼け出された神々が身を寄せ合い、なぜか人を出世させる、この一角。

どれも、「守ろうとして守った」話ではなかった。誰も命じず、誰も始めず、それでも、この丘のものは、失われずに残り、集まってきた。名もなき手が、焼けた狐に前掛けを掛けるように。

もし、あなたが、代々木八幡宮の石段をのぼることがあったら。

急な階段を上がりきって、山手通りの車の音が、すっと遠のくのを感じたら。本殿に手を合わせたあと、その脇の、赤い鳥居の奥へ、足を向けてみてほしい。

顔だちの違う狐たちが、名もなき誰かの掛けた前掛けをして、肩を寄せ合っている。焼け出され、行き場をなくし、それでもこの丘に集められて、失われずに残った、小さな神々である。

その前で、手を合わせるとき。あなたも、この丘に「引き寄せられ、留められた」一人なのかもしれない。

失われたはずのものたちが、みな、この丘に、残っている。

そういう場所に、あなたは、立っている。

(第4章 終わり / 全編 了)

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※本文中の「二度の災禍を除けた強運の神輿」「出世稲荷の由来(焼け出された稲荷が氏子の手で集められた)」「赤い前掛けを誰かが取り替えている」等は、神社に伝わる伝承・社伝に基づくもので、学術的に確定した事実ではありません。参拝者の体験談は各投稿者の個人的な感想であり、効果・現象を保証するものではありません。
▽ ここからは実用ガイド ▽

SECTION 01参拝の基本データ

所在地東京都渋谷区代々木5-1-1
参拝時間時間による閉門なし(境内へは終日入れる)
社務所受付9:00〜17:00(御朱印・お守り・お札)
ご祈祷9:00〜16:30/事前予約制。毎月23日は神事のため13:30〜15:00は受付なし
参拝料なし
所要時間30分〜1時間(出世稲荷・竪穴住居まで含めて)
境内の見どころ本殿/出世稲荷社/復元竪穴住居(柵の外から見学)/出土品の展示館
主な祭事例大祭 9月22日・23日(露店100以上、神輿の宮入)/金魚まつり 5月第4日曜
※ご祈祷を伴わない、撮影のみを目的とした境内の利用(七五三・成人式・結婚式など)は許可されていません。前撮り目的の来訪は避けてください。

SECTION 02アクセスと、階段を避ける道

電車小田急線 代々木八幡駅から徒歩約5分/東京メトロ千代田線 代々木公園駅から徒歩約5分
表参道山手通り沿い。急な石段のあと、さらに緩い登り坂。ヒール・スーツケース・ベビーカーは要注意
階段なしの道初台側に車が入る通路があり、こちらは階段がない。ベビーカー・車椅子・足腰に不安がある場合はこちらから
駐車場参拝者用に約10台。入口が分かりにくい(山手通りの「代々木八幡前」信号手前から斜めに入る細道 → 最初の角を右)。土日・初詣・例大祭は満車前提
周辺駐車場コインパーキングが点在

段差で引き返すより、遠回りのほうが早い。子連れ・三世代なら、最初から初台側に回るのが正解です。

※原付・自転車の駐輪可否は公式情報で確認が取れていません。バイクで向かう場合は事前に神社へお問い合わせください。

SECTION 03参拝の前後に寄る店

代々木八幡・富ヶ谷・代々木上原は、東京でも指折りの飲食激戦区。人気店は並ぶ前提で、時間をずらすか、テイクアウトして代々木公園に逃がすのが確実です。

店名特徴営業支払い
PATH
(ビストロ・カフェ)
富ヶ谷の名店。朝から開いており、ダッチパンケーキが名物。混雑時は整理券制。駐車場なし 8:00〜15:00
月・火 定休
カード可
交通系IC可
QR不可
食べログ▶
ルヴァン 富ヶ谷店
(パン)
1982年創業、自家製酵母パンの草分け。パンTOKYO百名店。グラム単位で買えるのでテイクアウト向き 9:00〜19:00
日祝 〜18:00
月 定休(火も不定休)
現金のみ
カード・電子マネー不可
食べログ▶
※このエリアは現金のみの個人店が混じります。少額の現金を持っておくと安心です。営業時間・定休日は変更されることがあるため、訪問前に各店の最新情報をご確認ください。

SECTION 04半日で繋がる、周辺の名所

代々木公園徒歩圏。広い芝生があり、テイクアウトを広げるのに向く。子連れの逃げ場として優秀
明治神宮代々木公園を抜けて徒歩圏。人出の多い明治神宮のあとに、静かな代々木八幡宮へ寄る順路も組める
東京ジャーミイ代々木上原駅近くの日本最大級のモスク。見学可(時間・作法は公式で要確認)
奥渋谷(富ヶ谷〜神山町)個人店・カフェ・書店が並ぶエリア。参拝後の散策に

境内の滞在は1時間かからないため、半日を空けたなら周辺と組む前提で予定を立てるのがおすすめです。

SECTION 05泊まって、朝いちで参拝する

例大祭や初詣を狙うなら、前泊が効きます。代々木公園の目の前から渋谷・新宿まで、選択肢は広いエリアです。

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代々木公園の目の前に立つデザインホテルをはじめ、渋谷・原宿エリアの上質な宿から選ぶ。朝いちの参拝に、そのまま歩いて向かえます。

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手頃に、ふらりと一泊

渋谷・新宿まで足を伸ばせば、価格帯の選択肢は一気に広がる。祭りの日だけ泊まって、翌朝の静かな境内を歩く使い方に。

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※原付・自転車の駐輪可否は未確認です。神社へ直接ご確認ください。
▽ ここからは参拝ペインガイド(ナビ:ヴィヴ) ▽
石段の下から見上げる代々木八幡宮の丘
[ 代々木八幡宮 / 参拝ペインガイド ]

行ってから気づくとよ、
代々木八幡のあの階段と、
17時の壁

都心のど真ん中。駅から5分。なのに、知らんで行くと地味に削られるポイントが、いくつかあるとよ。

階段。駐車場。閉まる時間。先に知っとけば、全部かわせるけん。

案内ナビ / ヴィヴ
うちはヴィヴ。
VIBES TOURISMの案内ナビばしよっとよ。
今日は代々木八幡宮ば、いっちょ先回りして案内するけんね。
ここに書くとは道しるべ。出発前に、必ず公式で答え合わせしてね。

PHASE 01行く前に、決めとくこと

お参りは24時間。ばってん、授かりものは17時まで

代々木八幡宮は時間による閉門をしていない。だから、お参りそのものは早朝でも夜でもできる。ところが、社務所の受付は9時から17時まで。御朱印・お守り・お札は、この時間の中でしか受けられない。

「24時間参拝できる」と「一日中なんでもできる」は、別の話。御朱印が目当てなら、夕方前に着く前提で組んだほうがいい。

仕事帰りにふらっと寄るとも、よかとよ。
ただ、御朱印帳ば持って行くなら、
16時台には着いとってね。

ご祈祷は予約制。毎月23日は昼の受付が止まる

ご祈祷の受付は9時から16時30分で、事前予約制。さらに毎月23日は神事があるため、13時30分から15時までは受付ができないと案内されている。安産祈願やお宮参りの日取りを23日に置いていると、ここで時間が詰まる。

23日にどうしても行きたかときは、
午前中に予約ば入れとくと安心ばい。
電話で日時ば決めてから動くとがいっちゃん早か。

カップルの前撮り目当ては、空振る

ご祈祷を受けない、撮影だけを目的とした境内の利用(七五三・成人式・結婚式など)は許可されていない、と神社が明示している。境内が絵になるからと、私服の前撮りだけを目当てに行くと、思っていた行動はできない。

参拝しながらのスナップと、
撮影目的で場所ば使うとは、
別ものとして考えとってね。
カップルさんはここ、いっちゃん引っかかりやすかとよ。
夕方の授与所へ向かう参拝者

PHASE 02たどり着くまでが、いちばんの山

表参道は、急な石段のあとに登り坂が待っとる

代々木八幡駅から山手通りを歩くと、通り沿いに参道の入口がある。ここからが本番で、まず急な石段。上りきったあとも、参道はさらに緩い登り坂になっている。ヒール、スーツケース、そしてベビーカー。この三つは、ここで確実に足を止められる。

階段を通らない道が、ちゃんとある

初台側に、車が入る通路がある。こちらは階段がない。ベビーカー、車椅子、足腰の弱い家族と一緒なら、表参道ではなくこちらから回ったほうがいい。

段差で引き返すより、遠回りのほうが早い。

子連れさんと、おじいちゃんおばあちゃん連れさんは、
最初っから初台側に回るとが正解ばい。
表参道の階段は、帰りに上から眺めるだけでよか。

駐車場は約10台。入口が、とにかく分かりにくい

参拝者用の駐車場はあるが、台数はおよそ10台。しかも入口が見つけにくい。山手通り沿いの鳥居の前の歩道を進むと「代々木八幡前」の信号があり、その手前から斜めに入っていく細い道がある。そこを進んで最初の角を右に曲がると、駐車場の案内が出てくる。

土日、初詣、例大祭は満車前提で考えたほうがいい。周辺にはコインパーキングが点在している。

※原付・自転車の駐輪可否は、公式情報で確認が取れませんでした。バイクで行く場合は、事前に神社へ直接お問い合わせください。
正直、電車がいっちゃん楽とよ。
代々木八幡駅からも代々木公園駅からも、
歩いて5分ばい。
石段の下で立ち止まる家族と、右手に続く坂道

PHASE 03境内での、時間の使い方

境内はそう広くない。30分から1時間で回れる

鳥居から拝殿までの参道は石畳で整備されている。ぐるりと見て回るだけなら、1時間もかからない。半日を空けてきた場合、境内だけでは時間が余る。前後の予定と組み合わせる前提で考えたほうがいい。

なお、参道以外の道はすべてが整備されているわけではなく、雨の日はぬかるんで滑りやすい。

縄文の竪穴住居は、柵の外から見るもの

境内には約4500年前の住居跡が復元されている。ただし、まわりは柵で囲まれていて、中に入ることはできない。子どもが「入れる」と思って来ると、そこでがっかりが発生する。先に「外から見る展示だよ」と言っておくだけで、印象がまるごと変わる。

出土した土器や石器は、神楽殿の脇の小さな展示館で見られる。

子どもさんには先に言うとってね。
「4500年前のおうちば、外から見に行くと」って。
そう言うと、目の色が変わるけん。

出世稲荷は、社殿の右手から、さらに奥

いちばん有名な出世稲荷社は、拝殿の正面ではない。社殿に向かって右手の鳥居をくぐり、稲荷社・天神社・榛名社の合同社を過ぎて、奥の石段を上がった先にある。白と赤ののぼりが立ち並んでいるのが目印。拝殿だけ拝んで帰ると、まるごと見逃す。

日が落ちると、暗い

境内は木々に囲まれているため、祭事のライトアップがない時期の日没後は足元が見えにくい。夕方までに参拝を終える組み方を勧めたい。

柵越しに復元竪穴住居をのぞく親子

PHASE 04前後の時間を、どう埋めるか

この街の人気店は、並ぶ前提

代々木八幡・富ヶ谷・代々木上原は、東京でも指折りの飲食激戦区。朝から行列ができる店も珍しくない。開店前に並ぶ、整理券を取る、時間をずらす。このどれかを最初から織り込んでおくと、一日が崩れない。

小さな個人店が多いエリアなので、現金のみの店も混じっている。少し現金を持っておくと安心。

一人旅さんは、カウンターのある店ば狙うと入りやすかとよ。
混む時間ば1時間ずらすだけで、
待ち時間がまるごと消えることもあるけん。

子連れなら、代々木公園に逃がす

この街の店は小箱が多く、ベビーカーごと入れる店は限られる。そういうときは、テイクアウトして代々木公園へ。歩いてすぐの距離に広い芝生があるのは、この立地の大きな利点になる。

パンば買うて、公園で食べる。
これが子連れさんには、いっちゃん平和なコースばい。
子どもも走れて、大人もゆっくりできるけんね。

明治神宮・代々木公園と、半日で繋がる

代々木公園と明治神宮は、いずれも徒歩圏。代々木八幡宮の参拝を朝に置き、そのまま公園を抜けて明治神宮へ、という順路が組める。逆に、明治神宮の人出に疲れたあとで、静かな代々木八幡宮に寄るという順番も悪くない。

代々木公園の芝生で過ごす家族

PHASE 05混む日と、当たる日

例大祭は9月22日・23日。曜日に関係なく固定

両日とも境内に100以上の露店が並び、23日には氏子町会の神輿が次々と宮入する。祭りを見に行くなら最高の日で、静かに参拝したいなら最悪の日。同じ日が、目的によって当たりにも外れにもなる。

静かにお参りしたか人は、9月22日と23日だけは外してね。
逆に、祭りば見たか人は、この2日しかなかとよ。

5月第4日曜の金魚まつりは、子連れの当たり日

金魚すくいや輪投げの店が並び、境内が子どもでいっぱいになる日。この時期には金魚をかたどった限定の授与品も登場する。小さい子を連れて行くなら、狙う価値がある。

初詣は、時間をずらす

正月は行列ができる。どうしても三が日に行きたいなら、早朝か、夕方以降に振ったほうがいい。四日以降まで待てるなら、そのほうが落ち着いて参拝できる。

IMAGE PENDING / PAIN 05
ここまで読んでくれて、ありがとうね。
階段と、17時と、9月の2日間。
この3つば覚えとくだけで、代々木八幡はぐっと歩きやすうなるけん。
気をつけて、いってらっしゃい。

※この記事について

掲載した時間・料金・受付の可否などは、執筆時点で各公式情報をもとに確認したものばい。ばってん、こういう情報は工事・天候・行事・季節でしれっと変わってしまうけん、ここに書いとることはあくまで”道しるべ”として読んでね。実際に動く前に、必ず自分で公式(公式サイト・電話)で最新を確かめてから出発するとよ。 うちの案内はそのための下調べ、最後の答え合わせはあなたの手でね。

〔確認先〕

  • 代々木八幡宮 公式サイト(受付時間・ご祈祷・年中行事・境内図)
  • 渋谷区 文化財・名所ページ(代々木八幡遺跡)

※原付・自転車の駐輪可否は未確認です。神社へ直接ご確認ください。

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